From:事実は小説よりも奇なり、百崎重夫は誰も成し得なかった最大の功労者
日本が有史以来敗戦と言う屈辱を味わい、マッカーサーが元帥が我が国を統治し戦後復興が覚束なかった昭和21年にソ連によって満州からシベリアへ抑留生活を送り、1年の抑留生活を余儀なくされたが、軍人でなかった為、ソ連は新疆で開放された。何処から聞きつけたか蒋介石が貨物列車であったが寝台を設え国民党軍兵士を護衛に6名付けてくれ、無事に瀋陽まで三日三晩掛かって送り届けてくれた。瀋陽から大連まで、列車を乗り継いで港の見える街に辿り着いた。漸く祖国日本へ帰れる日が来たと、感涙に浸る思いだった。13歳で満州へ留学し、龍清中学校、旅順工科大学を経て蒋介石の軍事顧問馬賊の頭領馬占山と偶然遭遇した事で、百崎重夫の人生は波乱万丈の生涯を送る羽目になった。馬占山と出会わなければ、普通の人生が開かれていたかも知れなかった。旅順工科大学の4年生だった。鉱脈探しで支那の各地を探索していると、突然馬賊の一団に包囲されてしまっていた。馬賊の一人が百崎重夫に訝って此処で何をしているのかと威圧的に訊ねて来た。百崎は悪びれたり臆する事も無く、堂々と鉱脈を探していると、冷静に応えた。すると彼は、お前は学生か?と聞き返して来た。そうだ、学生に間違いないと返答する。何処の学生だ、執拗に問い返して来た。旅順工科大学だ。あの大学か?あそこは諜報員養成学校ではないか、其処で諜報教育を受けているのか?いや、鉱山学を専攻している。さし当たってこの辺りに鉱脈があるか否か探索しているところだ。どうもお前の言う事は信用出来ない、今将軍を呼ぶから詳しく説明しろ。後方に控えていた人徳の厚そうな人物が、百崎重夫の前に現れ、この辺りに鉱脈が見つかりそうか?穏やかな口調で訊ねて来た。今のところ何とも言えないが、本格的に地質を分析して見ないと正確な返事は出来ない。そうか、君は非常に勇気があり対応の仕方も非常に素早い。私はお前を気に入った。関東軍へ帰ったら、岡田参謀に私と会ったと伝えなさい。私の名前は、馬占山だ。そう言えば、皆知っている筈だ。百崎重夫も馬占山の名前は知っていた。神出鬼没で風の如く現れ、霧の如く立ち去り、ゲリラ作戦に長けていて世界最強の陸軍と名を馳せた関東軍も悉く、馬占山の一団には手を焼き幾度も煮え湯を飲まされた厄介な集団だった。百崎重夫は、早速関東軍の参謀室を訊ね、岡田参謀に事の経緯を説明した。岡田参謀は、驚愕の面持ちで百崎の話を真剣に聴取した。その頃、関東軍で大将級の幹部が馬占山と面談に成功し休戦協定が実現する見通しだと流言飛語が飛び交い、それが虚偽だと判明しその将軍は自決をさせられた過程があった。岡田参謀は、百崎重夫の話が真実だと確信を持つと、直ちに内地の陸軍本部へ電報を打電した。民間人の百崎重夫が馬占山と面談に成功。すると陸軍本部から、百崎重夫は直ちに帰国し陛下に直ちに拝謁を賜れ。此れが百崎重夫の将来を大きく狂わせてしまった。長春の陸軍航空基地から、鳥取の米子空港まで送って貰い、米子から山陰本線を京都経由で東海道本線で東京駅へ着いた。実に5日が掛かった。東京駅へ着くと宮内省の侍従が待機していてくれた。
2008年04月25日 (金) 18時10分
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