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行幸 (1706)
日時:2012年09月22日 (土) 04時23分
名前:伝統

歴代の天皇陛下は、行幸により、民の実情を把握し、
それを政(まつりごと)に反映しておりました。

明治以降の各天皇陛下においては、特に「行幸」を大切にされております。


一昨年の「東日本大震災」被災に際しても、今上陛下は歴代の天皇陛下と同様に
避難所・被災地を訪問まれ、祈りを捧げております。

このことに関しては、「生長の家“本流宣言”掲示板」内の
スレッド「天皇・皇后両陛下の避難所・被災地訪問(行幸) (485)」において
紹介をして参りました。

 → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=127


この掲示板においても、(歴代の天皇陛下の行幸を含めて)引き続き紹介をして参ります。

・・・・・

両陛下、福島の除染作業を初めて視察へ

   *JNN9月20日(木)配信と毎日新聞 9月20日(木)配信記事の要点を紹介いたします。

天皇・皇后両陛下が来月、福島県を訪れ、
原発事故による放射性物質の除染作業などを初めて視察される予定であること
がわかりました。

訪問先は今年1月に「帰村宣言」をした川内村となる方向で最終調整しています。

両陛下は震災直後の去年5月、福島県を訪れ、相馬市の避難所などを見舞われました。

宮内庁関係者によりますと、
両陛下は来月13日、福島県の原発事故による被害を受けた地域を訪れ、
仮設住宅で暮らす住民を見舞うほか、放射性物質の除染作業を初めて視察される予定です。

訪問先は、緊急時避難準備区域が解除され今年1月に「帰村宣言」をした
川内村となる方向で最終調整しています。

「(原発事故により)危険な区域に住む人々は、住み慣れた、そして生活の場としていた地域から
離れざるを得なくなりました。再び、そこに安全に住むためには、放射能の問題を克服しなければ
ならないという困難な問題が起こっています」

今年3月の1周年追悼慰霊式で、こう述べられた天皇陛下。

関係者によりますと、原発事故の発生以来、放射能汚染による被害について絶えず心配し、
専門家を御所に招いて説明を聞くなど、被災地に心を寄せられているということです。

両陛下の訪問は日帰りになる見通し。

           <感謝合掌 平成24年9月22日 頓首再拝>

天皇・皇后両陛下、川内村をお見舞い・励まし (2495)
日時:2012年10月15日 (月) 07時37分
名前:伝統

   *毎日新聞(10月14日)より

除染現場などの視察のため、13日に川内村を訪問した天皇、皇后両陛下。
大勢の歓迎を受け、仮設住宅で暮らす避難者に直接励ましの声をかけた。
避難者のなかには感極まって泣き出す姿もあった。

村は昨年9月末に緊急時避難準備区域を解除、今年1月「帰村宣言」し、
今年4月、警戒区域が再編された。

両陛下は川内小学校に立ち寄り、村の代表者らから村内の除染状況などの説明を受け、
実際の作業現場に出向いた。

渡部吉子さん(72)宅の除染作業を視察した両陛下は、
村に戻った時期や健康への影響を尋ねたという。渡部さんは「優しい言葉をかけてもらい
『ここで暮らしていこう』との思いを強くしました」と感激した様子。

遠藤雄幸村長によると、両陛下は除染の効果や廃棄物の処理方法について詳しく質問。

仮設住宅で避難者と言葉を交わしたことに、遠藤村長は
「気さくで親身に心配していただいたのが印象的だった。
一日も早い復興に向けてまい進する励みになった」と話した。

その後、6月に完成し、「半帰村」を果たした49世帯90人が暮らす下川内仮設住宅を訪問。
玄関口に出てきた避難者に「お体は大丈夫ですか」「家には帰っているのですか」と丁寧に声をかけた。

陛下の「頑張っていますか」の言葉に思わず涙があふれたという福田喜夫さん(65)は
「感動して頭の中が真っ白になった。川内村にまで来てくださってありがたい」。

9カ所目の避難場所として仮設住宅に入居したという松崎栄子さん(74)は
「皇后さまは『それはいろいろなことがあって体がお疲れでしょう』とねぎらってくださった。
まだ行ったり来たりの生活だけど、家に帰れるまで一生懸命頑張らなくっちゃ」と話した。

<Web:両陛下 福島・川内村お見舞い(産経新聞10月14日)
  → http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121014-00000019-san-l07 >

           <感謝合掌 平成24年10月15日 頓首再拝>

(平成16年)中越地震、山古志村への行幸 (7340)
日時:2013年03月28日 (木) 07時17分
名前:伝統


    *Web「痛みの拠り所(2011年09月01日)」からの紹介です。

長島忠美議員は、元、新潟県山古志村の村長さんを勤められた方です。
村長だった当時、新潟で、あの中越地震が起こりました。

そのときのことが、
「天皇陛下が我が町に」(明成社)という本に書かれています。

トップとは如何にあるべきか・・・、困難に直面したときにこそ、
その人間性が現れると言うことがよくわかる、良いお話です。


以下にご紹介するお話は、被災地の山古志村を、ご視察される天皇皇后両陛下のお話も含め、
この日本という国柄を再認識できるお話です。

天皇陛下が居られる日本の国民でよかったと、
両陛下というかけがえのない存在がいてくださる幸せを感じます。



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「へりで救出された千2百頭の牛」
   新潟県・山古志村
 
平成16(2004)年10月13日、新潟県で中越地震が発生した。
この地震で壊滅的な被害を受けた新潟県の中間に位置する山古志村は
「日本の原風景が残る村」としてPRされていたが、その一方で、
急速な過疎化と高齢化は深刻な問題だった。

(中略)

実際、地滑りによって東京ドームの63個分の斜面が崩れ、国道と県道合わせて
百カ所近くの土砂が崩れ、上水道は全壊し、194箇所の棚池、460箇所の水路、
1029箇所の農業道路が被害を受け、住宅の40%が全壊していた。

このような絶望的状況の中、当時の村長であった長島忠美さんは、
日本初となる全村避難勧告を決断する。

村民二千二百名余りの避難を見届け、最後に長島さんは村を離れた。

当時の長島さんの姿はテレビでも良く放送されていたため、
長島さんの名は一躍世に知られるようにもなった。

私たちは、現在は衆議院議員となった長島さんのご厚意により、
お忙しい時間をいただいて、お話を伺うことが出来た。
全村避難の決意をした時のことを、次のように話された。


「あの時は、自分が情けないのと、何をしたらいいのかわからない絶望感で一杯で、
涙が止まりませんでした。

村民を避難させた後、自衛隊の方と村の中を最終点検をすることになりました。

その時、口が裂けても村民には言わないでおこうと思ったことがありました。

二度とこの場所には住むわけにはいかないかもわからない、
実はそんな気持ちを抱いてしまったんです。

絶望という言葉は知っていましたが、なにをしたらいいかわからない、何ができるかわからない、
というそれが絶望だと思いました。」


その後、避難所に到着した長島さんを待っていたのは、山古志村の村民だった。
長島さんを頼る声や、感謝の声と、被災後の対応への怒りの声など様々あったが、
村民と再会した時、長島さんは一つの決意をしたという。


「国破れて山河ありというけれど、その山河がなくなった。
けれど山古志はどこに消えたわけでもない。
今みんながいるここが山古志村だと思いました。

この人たちのためにやらなきゃならないことは何でもやる、できないこともやる、
それが山古志を再生する唯一の道だと思いました。」


山古志村へ必ず戻る、長島さんのその決意が前代未聞の牛の避難という決意も生んだのだ。
そのときのことを次のように振りかえられた。

「私たちの戦いは、復旧と同時に中山間地域の過疎との戦いでもあります。
もちろん生活を取り戻さないことには、何にもできませんからそれを最優先で行い、
文化的なものは後でいいという議論もありました。

しかし、最終的に私たちは1200頭の牛をヘリに乗せて救出すると言う決断をしました。
これは、お金のことだけを考えてはとてもできることではありませんでしたよ。
ですから、それぞれにとっても大変な決断だったと思います。

でも、牛の命を救うことと文化を守ることは私たちにとっては一つでした。
仮設の闘牛場でもいいから闘牛という文化を再生しようと考えていました。
牛が元気になれば私たちも元気を出せるという思いがそこにあったからです。」


こうして村を取り戻そうとする長島さんに大きな勇気を与えたのが天皇陛下だった。

天皇陛下は皇后陛下と共に、震災より僅か2週間後の平成16年11月6日に
山古志の被災状況をヘリでご視察になり、長岡市、小千谷市、川口町の各避難所をお見舞いになった。

長島さんは、陛下が視察に来られた時の感動を次のように述べている。

「両陛下がお越しになることは、その2日前に聞きました。
お会いできると思っていませんでしたから、どうしていいかわかりませんでしたよ。

飛行機にお迎えにあがりましたが、頭を下げるだけで何を申し上げていいかわかりませんでした。
新潟空港からすぐヘリに乗って山古志に向かうことになりました。

そして山古志に入り、私が説明する番になりました。

ヘリって騒音が大きくて、通路を挟んでお話ししたらあまりきこえないんですよね。
すると隣に座るように言われまして、陛下のお耳元でご説明することになったんです。

そのとき私は、両陛下のいらっしゃる日本国民でよかったと思いました。
陛下は
『牛はどうしていますか』
『錦鯉はどうしたんですか』ってご質問になるんです。

もちろん我々の事も心配してくれました。


そのあとで言われた

『きれいな村だったんでしょうね』

というお言葉がずしんと胸に刺さりました。

両陛下がきれいな村だったと言ってくださっている村を取り戻さないわけにはいかないと思って、
私の勇気を奮い起こしてくれました。」


また避難所のお見舞いでご案内をした山古志村議会元副議長の青木幸七さんは、
大事そうに箱にしまわれていた長靴を恭しく見せながらこう話された。

「本当に信じられない光景でした。
いろんな人がお見舞いにこられましたが、陛下の時は、全く雰囲気が違いました。

ホコリまみれの避難所ですが、陛下が入られる瞬間は本当に清らかな雰囲気になりました。

本当に皆感動していました。

両陛下が膝を曲げ、目線を下げて一人一人に話しかけられる姿ははっきりと覚えています。
特に皇后陛下、私たちが用意していた順路を殆ど気にせずに、
どんどん中に分け入っていかれる姿が印象的でした。

避難所を出たとき、皇后陛下の膝が汚れておられたので、私が

『皇后陛下失礼します』といって土を払ったんです。

光栄でしたよ。これが、私が陛下を案内した時にはいていた長靴です。
陛下を案内する為に買って、そのときだけしかはいていません。
一生の宝です。」


その姿は実にうれしそうだった。

また、避難所で皇后陛下にお声をかけられた坂牧さんご夫婦にお会いした。

坂牧さんご夫婦は、農作業中だったが、私たちの為に手を休め、話しをしてくださった。

「避難所に来ていただいたことは本当に有り難たかったです。
涙が止まりませんでした。

皇后陛下のお顔が本当に穏やかで、私はそれ以来、両陛下のお写真を家に飾り毎朝両陛下に
『今日も穏やかであられますように、私も穏やかな一日をすごせるように努めます』
と手を合わせているのです。」

と当時を思い出し、目に涙を浮かべながら話しをしてくださった。

それから、4年後の、平成20年9月8日、再び両陛下は、山古志をご覧になった。

今度はヘリコプターではなく、直接お歩きいただくことができた。
両陛下は、特産の錦鯉の生産業者や牛の角突きをご視察になられた。

長島さんの話によれば、皇族が山古志にお越しになるのは、有史以来のことだったという。
それだけに、村民の気持ちも高まり、誰が言ったわけでもないのに、
全ての家に国旗が掲揚されていた。

このことを長島さんはとても誇らしく話された。

両陛下は山古志でのご感慨を、次のようにお詠みになられた。


天皇陛下 中越地震被災地を訪れて (平成二十年)

 なゐにより
 避難せし牛 もどり来て
 角突きの技 見るはうれしき 
  (なゐ=地震のこと)

皇后陛下 旧山古志村を訪ねて (平成二十年)

 かの禍ゆ
 四年を経たる山古志に
 牛らは直く角合はせる

(かのまがゆ 
 よもせをへたる やまこしに
 うしらはなおく つのあはせる)

(中略)

現在、我が国の中山間地は日本の約7割を占める。
それらの地域では、過疎化や高齢化の問題を抱えつつ、村の維持に苦労を強いられている。

その代表とも言える山古志村では、過疎化や高齢化の問題の上に、
大震災、全村避難という苦難を強いられた。

しかし、山古志は僅か4年で見事に復興を果たした。

平成二十年の両陛下のお歌は、その復興の中核を担ったのが牛の角突きであることを
鮮やかに謳いあげられたものであると感じる。

復旧作業の苦難の中で、牛の角突きを復活させようと考えた村民の決断を、
お歌をお詠みになることで、ご評価なさったように思うのである。

中越地震から5年を経た平成21年10月11日、闘牛場が改修され、
その場内に両陛下のお歌を刻んだ御製・御歌碑が建立された。

両陛下に見守っていただいたことへの、村民の感謝の思いがこもっている。
(平成20年5月27日、28日取材/竹下博喜)

 〜引用終わり〜
  
◆私がこの本を読んで、感動したもう一つのこと・・。
この本を作った全日本学生文化会議の学生さん達について。

自己の生まれた国とその文化への関心に目覚めた学生達が、
日本全国につながりを築きできた「全日本学生文化会議」というグループがあるそうです。

その参加者達は、天皇が我が国至尊の御存在であると覚知し、その所以を知ることが、
日本とその文化の根源を知ることだと感じ、その思いにより探求を始めました。

学生達の覚知は、全国をくまなく御巡幸されている両陛下のお姿を実際に拝したことが
きっかけとなり起こったそうです。

そういう体験を持った学生達は、尊貴なるものを仰ぐ心が自己の内面に有ることを知ります。

この本は、そうした学生達が、自ら日本全国に足を運こび、
全国を御巡幸、被災地をお見舞いされる両陛下のお姿と、陛下をお迎えした人々の反応を取材し、
そのままに記述したものだそうです。

国内の御巡幸を通して、両陛下の暖かい眼差しと励ましによって、
困難を克服しつつある人々を描き出しています。

また、この本は、その学生達が、即位二十周年という佳節を言祝ぐ志からできたもので、
平成20年3月に調査を開始し、平成21年12月23日、天皇誕生日が初版第一刷となっています。

その学生が書いた、あとがきの一節をご紹介します。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

日本という国は、天皇陛下の国民に対する深い御心と、それに感謝しお応えようとする
国民のまごころによって発展している国ではないかということに気がつきました。

自虐的史観に基づく謝罪外交、自然災害、社会全般を揺るがす様々な事件に直面する度に、
それらを乗り越え、日本を支える原動力となっているのが、皇室と国民の心の交流だったのです。

そのことを一人でも多くのかたに知っていただきたく、
ここに取材の成果を一冊の本にまとめさせていただきました。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

私は、両陛下の御巡幸に触れた学生さんの素直な感想に、この国のあるべき姿が見事に
書かれてあるのに驚くと共に、この国をいつまでもこの様な国柄のまま守るためにも、
両陛下の御心に添う人間でありつづけたいと思いました。

この学生さんが言うように、自虐史観が蔓延する戦後の日本に住む我々が、
正しい日本人の誇りを取り戻すためにも、両陛下の御心に触れるように
「勅語」の復活が望まれます。

私には陛下の御心に触れ勇気を貰った長島さんの活躍と、
今は宮崎の東国原知事の奮闘振りがダブって見えます。

ヘリで大切な牛を運び守った長島さんのように、知事が宮崎の宝の種雄牛を守れますように、
宮崎の口蹄疫被害が一日も早く治まりますようにと祈ります。




以上です。如何でしたか。
私は思います。もし日本に天皇陛下がおられなかったら。

皆様ご存知の様に、戦後の政治はもはや三流で、他国の笑いものですが、
それでも世界が日本を認めるのは天皇陛下のお陰ですね。

日本の国体は天皇と共にあり、皇紀2671年と言うの長い歴史は、
日本をして世界の第一等国たらしめる所以です。こんな国は世界中どこを探してもありません。

また日本皇室の尊さは、ここでも日本学生文化会議の学生さんが言われていますが
「日本という国は、天皇陛下の国民に対する深い御心と、それに感謝しお応えようとする
国民のまごころによって発展している国」と言う事で、
この理念は実に日本建国から現在まで続いています。

天皇にとって私達国民は「大御宝」として、教え育まれる「天子」で、
ちょうど親子の関係にあります。

何時いかなる時にも私達に寄り添い、励ましと勇気、
そして今回の様に生きる希望を与えて戴いております。

何より素晴らしい事は「公人」としての生き方で、人に差別無く、
無私の心で神の道を生きる姿を私達に身を持ってお示し頂いている事です。
天皇陛下は人としての最高の存在です。

その事に気付き、天皇を中心とした日本精神を発信されている「日本学生文化会議」は、
頼もしくもあり、日本人の面目躍如ですね。嬉しいです。

日本は歴史的にも文化的も世界の第一等国ですが、これは私達のご先祖様が心血を
注ぎ受け継がれてもので、私達にも子孫に受け渡す責任があります。

またまたここでも「取り戻そう、日本の心」ですね。

http://blog.livedoor.jp/seitai227/archives/cat_50022482.html?p=25

           <感謝合掌 平成25年3月28日 頓首再拝>

記録DVD (7360)
日時:2013年03月29日 (金) 19時15分
名前:童子


 宮内庁は、両陛下が被災地お見舞いされた記録DVDを制作

 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130329-00000571-san-soci

両陛下、2日間(7月5日〜6日)岩手ご訪問 被災者に寄り添い続け (9677)
日時:2013年07月06日 (土) 09時07分
名前:伝統


       *産経新聞 7月6日(土)より


◆雨も気にされず

 5日午後。陸前高田市立第一中学校のグラウンドに建てられた仮設住宅では、
 両陛下は降り出した雨にぬれるのも気にせず、一人一人に「津波のときはどうでしたか」
 「ご家族は無事でしたか」と、丁寧に声をおかけになった。

 長女や親を失ったという同市の高橋光彦さん(51)、枝美子さん(56)夫妻に、
 陛下は「さびしいですね。大丈夫ですか。大変でしたね。がんばってください」
 と語りかけられた。

 光彦さんは「涙が出てきた」と感慨深そうに話した。

 皇后さまも、子供たちの手を握って優しく語りかけられた。
 市内で被災した小野寺宏美さん(37)の娘、紀乃(きの)ちゃん(2)が背負うリュックの
 ウサギの絵を見て「ウサギちゃん、いつもお背中にいるのね。元気で大きくなられるようにね」
 と励まされた。



 ◆「お言葉を励みに」

 「被災地復興に強くご関心を寄せていらっしゃると感じ、とてもうれしかった」。
 両陛下が5日に視察された太平洋セメント大船渡工場(大船渡市)の工場長、
 小池敦裕さん(53)はこう話した。

 震災で生じたがれきの木くずを燃料に、土砂をセメントの原料にするというリサイクルを
 行っている同工場。震災では、敷地の7割が津波で水没し、生産不能となったが、
 小池さんや従業員らの努力でその年の11月には、がれきのリサイクルを始めた。

 今年3月末までに34万トンを処理し、復興に貢献している。

 両陛下は、そんな小池さんや工場関係者らに「これからも、頑張ってください」と声をかけ、
 励まされた。「お言葉を励みに、さらに復興を加速させたい」。小池さんは話した。


◆苦しみ分かち合い

 震災直後の4〜5月だけにとどまらず、昨年も今年も、被災地訪問を続けられた両陛下。
 「普段でも、被災者のことを考えていらっしゃる。今回のご訪問も強いお気持ちの表れだと思う」。
 宮内庁幹部は話す。

 被災地だけではない。
 東京都や埼玉県の避難所を訪れ、栃木県や静岡県の静養先でも被災者と会うなど、
 故郷を離れることを余儀なくされた人々にもお心を配られてきた。

 「気丈に困難に耐え、日々生活している被災者の姿には、常に深く心を打たれ、
 この人々のことを、私どもはこれからも常に見守り、この苦しみを、少しでも分かち合って
 いくことが大切だとの思いを新たにしています」。

 陛下は、今年3月11日の東日本大震災二周年追悼式で、こう述べられた。
 今回のご訪問でも、そんなお気持ちを改めて示されたといえる。

   (http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130706-00000111-san-soci

<参考Web:両陛下 東日本大震災被災地の主なご訪問先
      → http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130706-00000111-san-soci.view-000 >

           <感謝合掌 平成25年7月6日 頓首再拝>

天皇、皇后両陛下、全村が避難指示区域の飯舘村を初訪問 (10103)
日時:2013年07月24日 (水) 07時42分
名前:伝統


       *福島民報・読売新聞(7月23日(火))より

天皇、皇后両陛下は22日、
東京電力福島第一原発事故で全村避難した福島県飯舘村の居住制限区域や
風評被害に苦しむ果樹農家を視察するため、2日間の日程で来県された。

初日は同村の居住制限区域で操業を続けている精密部品工場と
飯舘村が川俣町に設けた村合同仮設小を訪問した。

従業員や学校関係者を激励し、被災地の産業復興と教育環境の充実を願った。
両陛下の来県は東日本大震災が発生した平成23年から3年連続で、
避難区域内に入ったのは初めて。

両陛下は居住制限区域内にある菊池製作所福島工場で、
放射線量の強さを映像化するガンマカメラや、
上空からの放射線量測定のため開発中のヘリコプターを視察された。
予定時間がオーバーするまで次々に質問していた。

菊池功社長(70)によると、両陛下は除染に強い関心を示された。
「村が早く元の姿に戻るように祈っています」と励ましたという。

両陛下は飯舘村の草野、飯樋、臼石3校の合同小で菅野典雄村長と八巻義徳村教育長らから、
児童206人の通学状況などについて説明を受けられた。

福島市など遠方から通う子どもが多いことを知った両陛下は「一人一人に寄り添ってください」と、
お言葉を掛けられた。

両陛下は平成23年5月に福島、相馬両市の避難所を慰問。
24年10月には川内村を訪れ、除染作業を視察された。

   (福島民報 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130723-00000001-fminpo-l07


東日本大震災後の福島県訪問は3回目で、全村が避難指示区域の飯舘村に入られるのは初めて。

工場は、避難指示区域の中で年間被曝線量が20ミリ・シーベルト超〜50ミリ・シーベルト以下の
居住制限区域にある。

一部事業所の操業は認められており、同工場の従業員の多くも福島市などの避難先から通勤している。

(読売新聞 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130722-00001402-yom-soci

           <感謝合掌 平成25年7月24日 頓首再拝>



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