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無財の七施 (356)
日時:2012年08月12日 (日) 06時51分
名前:伝統

   *北尾巳代次・著「幸せは今ここに」(P148)より

『般若心経』の中に、彼岸(極楽浄土)に至る六つの尊い行が説かれています。

この六波羅蜜については、尊師谷口(雅春)先生が『あなたは自分で治せる』という
御著書の中でくわしく御説明下さっていますから、ぜひ御熟読いただきたいと思いますが、
その六波羅蜜の最初の関門が布施行なのであります。

維摩詰も”布施はこれ菩薩の浄土なり”と光厳童子に向って、その尊さを説いていられます
通り、布施は人間を肉体の繋縛(けいばく)から解き放つ一番大切な愛行なのであります。

皆様が聖使命会費を納めるとか、道場などへの献資、あるいは百部一括の愛行などに日常
御精進下さっている功徳は、最上最尊と『聖使命菩薩讃偈』に讃嘆されているのであります。

だいたい、人間の不幸は肉体本能に付随する欲望の追及から生じるのであります。

この欲望に打ち克つためには、この布施波羅蜜が最も肝要なのであります。

       <感謝合掌 平成24年8月12日 頓首再拝>

財はなくとも (389)
日時:2012年08月14日 (火) 04時00分
名前:伝統

(最終的な復旧前ですが、昨日投稿し、現時点で未復旧の分の再投稿です・・・
日時:2012年08月12日 (日) 06時51分 )


   *北尾巳代次・著「幸せは今ここに」(P149)より

ところで、布施というと私達は物や金のことばかり考えたがるのでありますが、物施の外に
法施という真理を布施する愛行や、無畏施というて、恐怖心を除いてやる愛行もあるので
ありまして、法施や無畏施の価値は物施よりも数段優るものであると、釈尊は教えて下さって
いるのであります。

従って、皆様が生長の家の真理を伝える愛行は、最も素晴らしい法施であり、
無畏施なのですから、その功徳もまた一段と素晴らしいのであります。

”自分が悟らんのに、とても他人にお薦めは出来ません”とおっしゃる方が時々ありますが、
こんな人は布施の功徳をみずから拒絶している人でありまして、まことにお気の毒な人と
言わざるを得ません。


「無財の七施」という言葉があります。
これは、法施や無畏施と同じことで、人間無一物であろうと、今すぐにどこででもできる
七つの尊い愛行なのであります。

それは、次の七つであります。

  @和顔施(わげんせ)
  A愛語施(あいごせ)
  B慈眼施(じがんせ)
  C身 施(しんせ)
  D心 施(しんせ)
  E房舎施(ぼうしゃせ)
  F床座施(しょうざせ)

       <感謝合掌 平成24年8月13日 頓首再拝>

和顔施 (425)
日時:2012年08月15日 (水) 04時24分
名前:伝統

      
   *北尾巳代次・著「幸せは今ここに」(P150)より

まず、和顔施は表情です。
どんな顔を毎日していらっしゃるかということです。

世間には随分むっつりした表情の人があります。
そんな人は”俺の顔を俺がどんなにしようと放っておけ”と考えていらっしゃる
ようですけれど、果たして自分だけの顔でしょうか。

女の方ですと、起床するとすぐ鏡の前でお化粧をせられる。
随分長い時間かけてなさいますね。
あれは皆他人に見てもらうための化粧だと思うのです。

考えてみると、御主人の顔は奥様や子供さんが見て暮らしていらっしゃる。
奥様の顔は、やはり御主人や子供さんが見て楽しんでいらっしゃる。
御自分の顔であって、決して御自分の顔でない。

ちょっと顔を顰(しか)めてごらんなさい。
周囲が随分迷惑をせられるでしょう。
そこでできるだけニコニコして、御家族の皆様にも職場の皆様にも良い印象を与える。

これは素晴らしい布施行なのです。
私もこの和願施を実施することによって、病気が癒されたのです。

運命の暗い人や病気の人は特に、この和願施を実行すると良いですね。

       <感謝合掌 平成24年8月15日 頓首再拝>

愛語施 (528)
日時:2012年08月18日 (土) 05時01分
名前:伝統

      
   *北尾巳代次・著「幸せは今ここに」(P151)より

愛語施とは言葉の布施です。
優しい愛の言葉をかけてあげる。励ましてあげる。
感謝の言葉を出す。素晴らしいですよ。

生長の家では”言葉は神なり、言葉によって、一切が創造される”
と教えてもらっても実行しなければ駄目です。
愚痴や小言ばかり言っていると、人間の運命は一度に狂ってしまいます。

運命という字は、命を運ぶと書きます。
命は命令の命ですから、あなたが毎日どんな命令をかけているかですね。

嬉しいこと来たる、素晴らしいこと来たる、と自己を祝福する言葉を
かけている人は、必ず素晴らしい運命が運ばれて来るのです。

しかし、小言ばかり言ってごらんなさい。
ご主人(または奥様)や子供さんまで敵になってしまいます。

       <感謝合掌 平成24年8月18日 頓首再拝>

慈眼施 (723)
日時:2012年08月24日 (金) 07時08分
名前:伝統


   *北尾巳代次・著「幸せは今ここに」(P151)より

慈眼施は、優しい柔和な眼です。
目も言葉を出しているのです。

よく”私は夫に何にも口答えしませんが、主人は私をひどい目にあわせるのです”
と訴える奥様があります。
たとえ言葉の上でなんにもおっしゃらなくても、目が咎めているのです。

目は女(め)です。顔の中で、一番美しく優しい女性的な使命を持っているのが目です。
ですから、眼だけは瞼が上から降りてきて、眼を保護するようになっているでしょう。

たとえば口などは下顎が上顎に合わせに行きます。
上顎は夫であり、下顎は妻です。男性が天であり、女性は地です。
夫である上顎から妻である下顎には絶対に合わせに来ないでしょう。

これが天地自然の法則なのです。

それが目だけは上瞼が降りてくるのです。不思議ですね。ここに神意があるのです。
あなたが幸福になるためには、常に優しい目をすることです。
それがこの上もない布施行なのです。

かつて徳久克己先生から伺った話ですが、スター・デーリが日本に来た時に、

「あなたは、前科十何犯の囚人だった頃に牢獄の中でキリストの幻を観、
そのキリストの愛の目差しに触れて転向した、とお書きになっていられますが、
キリストの目とはどんな目でしたか」

と尋ねると、デーリーは

「それは、何にも咎めない目である」

と答えられたと聞かせていただきました。

私たちも常に、キリストの如き愛の眼を周囲に向けようではありませんか。

       <感謝合掌 平成24年8月24日 頓首再拝>

身施 (797)
日時:2012年08月28日 (火) 04時30分
名前:伝統

   *北尾巳代次・著「幸せは今ここに」(P153)より

身施とは深切行です。

天理教でいう「日の寄進」ですね。
天理教の御本部に参拝しますと、玄関に脱ぎ捨てた靴が、
いつの間にか磨かれてあっと驚くことがありますが、

とにかく、”神様のため、他人(ひと)様のためにこの身を寄進させていただく”
という信仰には頭が下がります。

皆様が誌友会のポスターを貼ることなどは、最も尊い身施です。
もっと徹底して愛行させていただきましょう。


・・・以下は、『生命の實相』生活篇〜深切の生活を生きよ、からの箴言。

「毎日一度は誰かに深切にせよ」〜これこそ幸福生活の秘訣である。

「他(ひと)のために尽すことは、結局自分のために尽すことにほかならないのだ」

「深切にすればするほど高まるのは自分のたましいだ」

「まだまだ多くの深切を人に与えよ」

「諸君よ、見えざる深切をすることを惜しいと思うな。それは天に宝を積むことだ」

「常に心がけて、接する人々を少しでも喜ばすような行為をなせよ」

       <感謝合掌 平成24年8月28日 頓首再拝>

心施 (889)
日時:2012年08月31日 (金) 07時13分
名前:伝統


   *北尾巳代次・著「幸せは今ここに」(P153)より

心施とは心の布施です。愛念です。仏教的に言えば、大慈大悲の心です。
不幸な人をみたら、慰め励ましてあげる心です。
教化部に於ける集団祈願などは最も大きな心施であります。

世の中には薄情な人が多いようですが、本当は皆神の子なんですから、
大悲の心が宿っているのです。
ただ自他一体の自覚が欠けているために、つい薄情になってしまうのです。

この大悲の心を汲み出すのが、信仰だと思います。

かなり前に大阪の講師会長をしておられた稲岡福蔵講師から、伺ったのですが、
稲岡講師はきつい継母(おかあ)さんに育てられたそうです。

そして、義理の妹さんが二人いらっしゃって、お母さんがおやつを下さるのですが、
義妹(いもうと)さん達には甘いお菓子が一杯はいっているのに、
稲岡講師にはいつもそら豆が十粒ほど入っていたそうです。

とにかく一事が万事で、とうとう15歳の時に家を飛び出して、鉄工所の徒弟に
住み込んで、苦しい修業をされました。
そして20年後に親方から認められて独立させてもらったのです。

さて一人前の工場主になると、忘れられないのがあのきつい継母の姿でした。
今こそ恨みの言葉を返してやらねばならぬと、当時は贅沢だった人力車に乗って、
継母の家を訪れたそうです。

行ってみると、継母は病床にあって、昔のこわい俤(おもかげ)はどこにもなく、
福蔵さんの姿を見ると、涙を浮かべて謝罪(あやま)られたそうです。

「立派になって下さったな、あんたはわしを恨んどるやろうな、
きついことばかりして、堪忍ですえ」

継母に会ったら、ああも言ってやろう、こうも言ってやろう、
と思っていた恩讐の憶(おも)いが、その継母の痩せさらぼうた姿を見た瞬間、
消えてしもうたそうです。

そして反対に”この継母(はは)あればこそ、20年間のつらい徒弟生活を頑張り抜くことが
できたのである”と思えて、反対に深い感動を覚えた、と話していられます。
福岡講師は、その場で継母(おかあ)さんを引取って、親孝行をせられたのです。

「70歳まで1本の虫歯も無く、自分の歯で食物を食べることができるのは、
やはり小さな時に甘い物を食べさせてもらえなかったおかげです。恨むなんて勿体ないことです」

とおっしゃいますが、考えてみると悪いものは一つも無いのですね。

この福岡講師の心が、大悲の心です。

ちょっと気に入らぬことを言われると、すぐ感謝を忘れるようでは大悲の心とは申せません。

       <感謝合掌 平成24年8月31日 頓首再拝>

房舎施 (1132)
日時:2012年09月06日 (木) 04時50分
名前:伝統


   *北尾巳代次・著「幸せは今ここに」(P155)より

房舎施とは、家や部屋の布施です。

隣組の常会などがあると、進んで家を開放する。
生長の家の誌友会などは最も大きな房舎施です。

畳がいたむとか、わずらわしいとか、とにかく神の子を排斥するようではその家は栄えません。

御自分の土地や家を道場や公園に提供するなどもまた大きな房舎施と言えるでしょう。

一人でも多くの人に、悦んでお家に来ていただくようにしましょうね。

       <感謝合掌 平成24年9月6日 頓首再拝>

床座施 (1397)
日時:2012年09月13日 (木) 04時38分
名前:伝統


   *北尾巳代次・著「幸せは今ここに」(P155)より

床座施とは、座席の布施です。
列車で老人や病人に席を譲ることです。

昔は進んでこうした愛行を実行したものですが、近頃は学生でも知らん顔をしている。
これではいけません。

この布施は、やさしそうにみえて、一番むずかしい愛行なのです。

僅かな距離ならいいが、東京、大阪ともなるといくら
「己れ未だ渡らざるに他人を渡さんと発願修行するもの、誠に菩薩の位に進む者」
と『聖使命菩薩讃偈』に教えられていても、他人未だ坐らざるうちに、まず自己を坐らざらんと
発願し、押しのけ、はねのけ、突進するのが人間の煩悩でございます。

この煩悩を滅尽するのが、波羅蜜の尊さです。

また床座施には、施しを受ける人の受け方も大切です。
せっかくの愛念に礼一つ言わぬ人をみると、青年の善意も失われてゆく結果になります。


以上七つを「無財の七施」と言います。
一文の財もなくとも、その仏の心を行ずることができる愛行なのですから、
喜んで、精進させていただきましょう。
                            (四六・十二)

・・・

関連Webとして、
「生長の家“本流宣言”掲示板」内スレッド「「喜びの種をまく (4304) 」があります。
 → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=880     

       <感謝合掌 平成24年9月13日 頓首再拝>

無財の七施〜まとめ (1531)
日時:2012年09月18日 (火) 07時50分
名前:伝統


(1)和顔施 わげんせ     

   和顔悦色施ともいいます。和顔施は表情です。
   いつもなごやかで穏やかな顔つきで人や物に接する行為です。
   喜びを素直に顔の表情にあらわしましょう。


(2)愛語施 あいごせ     

   言辞施(ごんじせ)の別称もあります。
   文字通り優しい愛の言葉、思いやりのある態度で言葉を交わす行ないをいいます。
   励ましてあげる。感謝の言葉を出す。


(3)慈眼施 じがんせ      

   眼施ともいい、慈しみに満ちた優しいまなざしで、すべてに接することをいいます。
   温かい心は、自らの目を通して相手に伝わるのです。


(4)身 施 しんせ      

   捨身施ともいいます。自分の身体で奉仕をすること。
   身体で示すことをさし、自ら進んで他のために尽くす気持ちが大切です。


(5)心 施 しんせ      

   心慮施ともいいます。
   他のために心をくばり、心底から共に喜び共に悲しむことができ,
   他の痛みや苦しみを自らのものとして感じ取れる心持ち。


(6)房舎施 ぼうしゃせ    

   風や雨露をしのぐ所を与えること。
   自分が半身濡れながらも、相手に雨がかからないように傘を差し掛ける
   思いやりの行為など。


(7)床座施 しょうざせ    

   牀座施ともいいます。
   たとえば自分が疲れていても電車の中で喜んで席を譲る行為。
   また競争相手にさえも自分の地位を譲って悔いなく過ごせることをいいます。

       <感謝合掌 平成24年9月18日 頓首再拝>

無財の七施〜和顔施(わげんせ) (4693)
日時:2012年12月16日 (日) 06時16分
名前:伝統


”明るい表情”を与えている者は幸福の種を播いているのである

      *『女は愛の太陽だ』(P106)より

「与えよ、さらば与えられん」といっても、
自分は何ひとつ、人に与えるような物をもっていません。

私は貧しいのですからという人があるかもしれない。
しかし誰にでも人に与え得る何かを持っているのである。

あなたは顔を持っているに違いない。

その顔に”明るい微笑”を浮かべて人々に好感を与えることは、
無一文でもできるのである。

(中略)

「与えたものを、与え返される」という法則によるならば、
人々に”明るい微笑”を与えて人々に「幸福感」を与えている者には、
自分に「幸福」が与え返されて来る。(略)

       <感謝合掌 平成24年12月16日 頓首再拝>

無財の七施〜愛語施(あいごせ) (6172)
日時:2013年02月02日 (土) 04時48分
名前:伝統

【優しい言葉をかけてほしい】

      *メルマガ「人の心に灯をともす(2012年12月07日)」より

   高野登氏の心に響く言葉より…

   マザー・テレサの、この言葉はご存知ですね。
   「愛の反対は憎しみではない。それは無関心である」

   誰だって自分の存在を無視されるのは辛いもの。
   嫌われても憎まれても、自分の存在が認められている分、まだましなのです。

   では、相手に「私はあなたに関心を持っていますよ」ということを伝えるには
   どうしたらいいのでしょう。

   答えは簡単です。

   相手に言葉で伝えること。
   優しい言葉で伝えてあげることです。

   ある100歳のおばあちゃんの言葉です。

   「お金もいらない。
   着物もいらない。
   命だってもういらない。

   でもお願い。
   優しい言葉をかけてほしい」

   100年生きてきて、最後に彼女が欲しかったものは優しい言葉だったのです。

   それなら100年も待たないで、今日から周りの人に優しい言葉をかけてみませんか。

   「あなたに会いたくて来たよ」
   「あなたと過ごせて、とても嬉しい」
   「あなたといると、とても楽しい」

   「あなたで、本当によかった」
   「すべてあなたのおかげです」
   「本当にいいお仕事、していますね」

   「うわあ、すごい、よくできたね」
   「どうすれば、あなたのようになれるかな」

   「嬉しい。でも頑張りすぎないでよね」
   「すごく美味しい。おかわり!」

   どれも何気ない一言ばかりです。
   それで相手の気持が癒されるのなら、どんどん口にしたいですね。

   そしてもっといいことに、それを言っている自分自身が、実はどんどん輝いてくるのです。
   優しさという心の筋肉が、強く大きくなっていくからなのでしょうか。

    <『「また、あなたと仕事したい!」と言われる人の習慣』
                   (高野登・志賀内康弘)青春出版社>

       ・・・・・・

道元禅師は

「面(むか)いて愛語を聞くは面(おもて)を喜ばしめ、心を楽しくする。
面わずして愛語を聞くは、肝に銘じ魂に銘ず」

と言いましたが、思いやりのこもった暖かい心をかけること。

さらに、

「愛語よく回天の力あり」

優しい言葉は世界をも変える力を持っている、と語っている。


愛語とは、一人一人を大切に思い、優しい言葉、思いやりのある言葉をかけること。

人が死んでもずっと残るもの・・・
それが、その人が、人々に与えた喜びや悲しみ。

だからこそ・・・
どんな人にも、やさしい言葉をかける人でありたい。

       <感謝合掌 平成25年2月2日 頓首再拝>

無財の七施〜慈眼施(じがんせ) (6285)
日時:2013年02月06日 (水) 04時49分
名前:伝統

   *子記事(723)と同じく、スター・デーリーとキリストのお話です。

土牢で何日も何日もつるされて、私はとうとう気を失ってしまった。
手をつるされた綱がほどかれて、殻の袋が下へ落ちると同じように、下へ落とされた。
骨のなくなった肉の塊のようにコンクリートの上に落とされて、私はほとんど死んでいた。
魂も、心も、良心も死んでいた。まるで死骸のように投げ出された。

そのようにして死骸のように投げ出されていた時、私の頭部が自然に部屋の扉の方へ向いた。
しかし、私は立ち上がれなかった。土牢の扉が開いて、一人誰かが入ってきた。
それがだんだん明るく見えだした。そして近づいてきて、私を見おろしている。

私の視線が上を向いて、彼の視線とあった。
そこにキリストが立っていた。キリストをとおして神が現れたのだ。
神の愛が、現れたのだ。神の愛が、キリストの目を通して、現れたのだ。

キリストは、“愛のまなざし”で、私を見つめていた。
罪人である私に、過去の多くの、数知れない罪を犯していることに一言も触れず、
また、その罪を認めず、限りない愛を持って、私を、じっと愛深く見つめた。

ただ、それだけのことであるが、その一瞬が私をすっかり変えてしまったのだ。
今まで、私の心の中に巣食っていた、犯罪への欲望を、瞬間的に、すっかり取り去ってしまった。
それ以来、私は罪を犯していないし、また、罪を犯したいという心が起こらなくなってしまった。
小さい瓶一つでも他人のものを盗もうとは思わなくなってしまった。

それは神が、私の外も、内も、一瞬にして変えてくださったのだ。
時計が、三つか四つ響く間に、今まで誰もなしえなかった、私を変えることが成就したのだ。
それは1926年11月26日であり、結婚した妻の誕生日でもあった。

それから、1930年3月30日、刑務所を出た。
それ以来、私は刑務所へ入ったことは一度もない。

           <感謝合掌 平成25年2月6日 頓首再拝>

無財の七施〜身 施(しんせ) (6334)
日時:2013年02月08日 (金) 04時24分
名前:伝統

        *「珠玉篇・心にしみる話」(P45〜47)より

《雪の日の少年》〜新潟県の男性教員(60歳)のお話

粉雪がほぼ容赦なくたたく中、私はバス亭に急いだ。
バス亭には、頭から雪をかぶった小学校高学年くらいの女の子、
体はがっしりしているが、中学生と思われる少年の2人が立っていた。

真っ赤になった少女の手には白い杖が握られ、右足には痛々しいギブスがはまっていた。
側に立つ少年は背に大きなザックが2個、多分、自分と少女のものだろう。
目が不自由で、しかも足にギブスの妹をかばうかのように路上に立つ少年の姿は、
妹思いの力強さを感じさせた。

「埠頭に付けば、お母さんが迎えに来ているんだね」
「僕は、途中までしか行かない予定だったけど、心配だからお母さんに会うまで一緒に行くよ。
足は、足は痛まない? 」

私が妹思いの感心な兄と思ったのはどうやら間違いだということが、少年の言葉から分った。
「知り合いですか」
私の問いに、少年は「いいえ、今ここで会ったばかりです」と答える。

ともすれば、人の痛み、苦しみなど避けて通りたいのが今の世の常。
しかも今、いじめなど人を思いやる気持ちが薄れているといわれる中学生。
その同じ中学生が、見ず知らずの少女にこのような態度を取れるとは、
私は息を飲んでまじまじと少年の顔を見た。

どちらかと言えば、くずれた感じのする少年だったので、余計その行為が美しく見えた。

バスの乗車は段差が大きい。
後ろから抱きかかえるようにして、階段に注意するように声をかける少年。
満員のバスに席はなかった。

「すみません。席をゆずってください」
少年の真剣な声に、若い男性は立ち上がり、少年と一緒になって少女を座らせた。

私は心の中で、この少年の心優しさを思うと同時に、二重の障害を持つ少女を
一人で行動させる親は、どんな親なんだろうという気持ちがあったことは否めなかった。

実は、私も埠頭の手前で降りる予定だった。
しかし、この少年が、少女を母親に渡すまではついて行くと言った言葉が、
私を最後までついて行って見届けなければという気持ちにさせた。

バスの中の少年はじっと無言だったが、時折心配そうにのぞき込むようにした。
そのことが余計、私も埠頭まで行かなければならないという気持ちにさせた。

埠頭の階段は圧雪でツルツルになっていた。
少年は左手でザックのひもを握り、右手は少女の手をしっかり握っていた。
一段一段、少年の足は止まる。滑らせないようにという心遣いだった。

私は、何の手助けもできずにただおろおろとついて行くばかりだった。

待合室に入ると、母親らしい、いや、母親が走り寄ってきた。
少年の姿にすべてを飲み込んだのだろう。
さかんにお礼を言った。

少年の口からは、たった一言。
「あたりまえのことをしただけですから」

少女は、少年の手をしっかり握りしめて、しばらく離そうとはしなかった。
見えない目をじっと少年に向けた表情は、安堵感と感謝の念に満ち、涙が一筋ほほを伝わった。

やがて少年は、二人に軽く会釈をすると、いま上ってきた階段を大股で下りていった。
肩をゆすりながら、その後ろ姿には、あたりまえのことをしただけですとからと言った
温かさがにじみ出ていた。

           <感謝合掌 平成25年2月8日 頓首再拝>

無財の七施 〜 心 施(しんせ) (6520)
日時:2013年02月16日 (土) 04時12分
名前:伝統

《心を傾けて聞く》

     *「みんなで探したちょっといい話」(P115)より

京都の宇治市に、親しくしているタクシーの運転手さんがいます。
都タクシーの安宅祐喜さん、68歳です。


安宅さんは、4年ほど前に50歳くらいの一人の女性を乗せました。
無線で呼ばれて自宅まで迎えに行き、少し離れた病院までお連れしたそうです。
そのときの接遇が気に入っていただけたのでしょう。その後もずっと安宅さんを指名されました。

通院は月に一度だけでしたが、そのうち、近くのお寺などの行事にもお供するようになりました。
年に4、5回、安宅さんが花や紅葉の見所を調べておいて、
「ここはいかがですか」と提案します。

それも、ガイドブックにも載っていない穴場ばかりを。
張るには、宇治の城南荘、ここは住宅街のなかにある桜の隠れ名所です。

時には、食事も一緒します。
先日訪ねたのが「鮎宗(あいそう)」。
この店のおすすめの一品「うなぎの飯蒸(いいむし)」を一緒にいただいたそうです。

「何も特別なことは、していません」
安宅さんは、そう言ってさらに続けます。

「人は、人に話をするだけで大方の問題解決になると言いますよね。
じつは私の場合は、何かや悩みを聞くということすらしていません。

一緒に美しい景色を見て
『キレイですね』『本当にキレイですね』『おいしいですね』『はい』
―― ただそれだけなんです」


傾聴ボランティアという活動があります。
読んで字の如く、高齢者の話を聞いてあげるという、ただそれだけのことです。
しかし、簡単なようでいて難しいといいます。

話し相手や茶飲み友達になるというのではなく、本当に心を傾けて聞くことが必要なのです。
かといって、アドバイスをするのでもない。
相手の立場に立って聞くのにも、相当の訓練が必要になるそうです。

京都に行くと、安宅さんを指名してタクシーに乗ります。
非番の日に訪ねて、一緒にお茶を飲むこともあります。

今思い返すと、悩み事があって疲れていたり、体調がすぐれなかったりしたときでも、
安宅さんと話をすると不思議に元気になったことに気づきます。
だからまた、安宅さんに会いたくなります。

安宅さんは、別にこの傾聴ボランティアを学んでいるわけではありませんが、
「話を聞く」ことに長けているのでしょう。

「聞く」ということに、こんなにもパワーがあるなんて知りませんでした。

           <感謝合掌 平成25年2月16日 頓首再拝>

無財の七施 〜 房舎施(ぼうしゃせ) (6615)
日時:2013年02月21日 (木) 04時34分
名前:伝統


     *「みんなで探したちょっといい話」(P32)より

Tさんは、大学生のとき、バイクで野営をしながら全国を旅しました。

仙台市に入ったときのこと。東北地方に台風が近づいていました。
風雨を避けるために、広瀬川に架かる橋の下にテントを張り、一夜を過ごすことにしました。
少しずつ雨脚が強くなってきました。

「こんな日は、早く寝てしまおう」と寝支度を始めました。
するとそこへ、通りすがりの人がやって来て声をかけられました。

「ここは危ないから、移動したほうがいいよ」
厚意は嬉しかったけれど、テントを張ったり畳んだりするのは大変な作業です。
「わかりました。ありがとうございます」とだけ答えて、眠ることにしました。

ところが、しばらくすると、また違う人が、
「移動したほうがいいよ」と声をかけてきました。
今度も気のない返事をして、テントのなかに入って寝袋にもぐりこみました。

やがてあたりが暗くなり、眠りにつきかけていたところへ、
懐中電灯を手にした人がやってきました。
テントの中まで入ってきて、またまた、「ここは危ないよ」と言われました。

放っておこうと思って、いい加減な返事をしたところ、
「移動するまで、ここを動かんぞ! 」
と少し怖そうな口調で言い、ずっとTさんの顔に懐中電灯を当てています。

眠い目をこすりながら、しぶしぶテントを畳むと、その男性の家まで連れて行かれました。
家に上がるなり、男性は急にやさしい顔つきになり、あたたかいお茶とお菓子をごちそうして
くれました。雨に濡れた衣服も乾かしてくれました。


男性いわく ―― 以前の大雨のときに、ちょうどテントを張っていたあたりの河川敷に
青空駐車していたクルマが、何台も流された。その状況をまさしく目の前で見ていた。
そのことが記憶に残っていた。

だから、その日も家の窓からTさんのテントが見えていたので、「危ないなぁ」と思っていたと。

           <感謝合掌 平成25年2月21日 頓首再拝>

無財の七施 〜 床座施(しょうざせ) (6717)
日時:2013年02月26日 (火) 04時53分
名前:伝統


《人の幸せを考える》

      *メルマガ「人の心に灯をともす(2013年01月29日)」より

   マーシー・シャイモフ氏の心に響く言葉より…


   「スカーレットの物語」

   私は皮膚の難病に12年間悩まされていました。
   身体は弱り、満足に歩けもせず、いつも家族に頼るばかりの日々で、
   人生には絶望していたと思います。

   そんなとき、たまたま地元に住む仏教僧と会う機会があったのです。
   彼に自分の悲惨な状況を話した私は、同情のまなざしと思いやりの言葉を期待したのですが、
   僧侶は穏やかにこう言っただけでした。

   「自分を憐れむのはおやめなさい。 人の幸せを考えるようにするのです」

   「無理です!  こんな状態なのですよ。 自分のことで精一杯です」

   私は「彼は何もわかっていない!」と、がっかりしました。

   こんなボロボロの身体で人の幸せを願うなんて無理だと思いましたが、
   なぜかその言葉が心に引っかかり、その日から少しずつ気をつけるようになりました。

   まずは家族や友人たちの幸せと健康を、さらに知らない人たちのために、車の中から
   道行く人たちの幸せを、ついでに自分の嫌いな人たちのことも思いやってみました。

   ある日、電動車椅子に乗ってスーパーのレジに並んでいると、
   明らかに虫の居所の悪そうな女性が私の後ろに並びました。

   急いでいるらしく、いら立った目を周囲に向けています。
   カートの中身はあふれんばかりで、少しでも早くレジを通り抜けたそうにしています。

   いつもなら、イヤな思いをしないように、こういう人とは
   できるだけ関わらないようにしていましたし、実際真っ先に頭に浮かんだのは、
   「何て品のない人からしら。目を合わせないようにしよう」という考えでした。

   しかし、そのとき例の僧の言葉…「人の幸せを考えるようにするのです」を
   思い出した私はこう思い直したのです。

   「そう、きっとこの人は今日とてもイヤなことがあったのよ。
   私だってそういう日もあるじゃない。
   この人を幸せにしてあげるにはどうすればいい?」

   私は振り向いて「お急ぎのようですね」と言いました。

   女性は驚いたような顔で、ぶっきらぼうに「ええ急いでいるんです。遅れそうだから」
   と答えました。

   「私の前へどうぞ」

   女性は私のかごの中身が少ないのを見て、サッと首を振りました。
   「いえ、大丈夫です」

   「どうぞ遠慮なさらないで。私は急いでいませんから。さあ、どうぞ」

   変化は劇的でした。

   イライラをまき散らし、レジ係をどなりつけそうな勢いだったその女性は、
   人に親切にされ、気を遣われて、別人のようになったのです。

   私の前へとカートを進めながら何度も「ありがとう」と言い、
   レジがすむと店員にも礼を言って、買った物を袋に詰め終わると、
   笑顔で店を出ていきました。

   私はすがすがしい気持になりました。
   周りを見ると、誰もが私に笑顔を向けて、言葉を交わし合っているのです
   …「素敵ね」「気持のいい場面だったわね」「今日もいい日になりそうね」。

   それからはもっと人を幸せにしたくて、できることはないかと探すようになりました。
   人のためになろうとすれば、機会はいたるところに転がっているものです。

   身体を使い、心を使い、お金を使って、まだまだ私は人のために何かをしてあげられる、
   それはこの上もなくうれしいことでした。

   自分のために「人が何をしてくれるか」ではなく、
   人の幸せのために「自分が何をしてあげられるか」を、いつも考えるようになりました。

   うれしいことに、それから1年もしないうちに、皮膚の調子がよくなり、
   生きるパワーもみなぎってきました。

   杖なしで歩けるようになり、ジムにも通い始めました。

   医者は、病気がひとりで快方に向ったようだと言って、信じられないようです。

   僧侶の教えのおかげで人生の坂を転がり落ちずにすんだ私は、
   愛情という永遠の力を手に入れることができました。

     <『脳にいいことだけをやりなさい!』茂木健一郎訳(三笠書房)>

   ・・・・・

人は、他人の幸せを考えたり、人を喜ばそうと考えているときは、
自分の病気のことや痛みをすっかり忘れている。

幸せも、喜びも、愛も、感謝も…
もらうことではなく、与えることが奇跡を産む。

なぜなら、人に発した言葉は、実は自分が一番よく聞いているからだ。
人を悲しませ傷つけるような言葉を発すれば、それが長い間にはボディブローのように
きいてきて、結局は自分も大きな傷を負うことになる。

どんな小さなことでもいいから、自分のできる範囲で、
「人の幸せを考える」ことができる人でありたい。

           <感謝合掌 平成25年2月26日 頓首再拝>

無財の七施 〜 和顔施・慈眼施  (7235)
日時:2013年03月21日 (木) 04時52分
名前:伝統

       *平岡初枝・著「こどもを見つめて」(P54)より

<じっと見つめてニッコリ笑う>

子供は愛されたいのです。信じられたいのです。
愛されているという自覚、信じられているという確信があったら、
絶対といっていいほど間違いを起こす心配はないのです。

子供が学校へ出て行くとき、帰ったとき、「行ってらっしゃい」「お帰り」という言葉と共に、
じっと見つめてニッコリと笑ってやってください。
これが、子供たちにとってどんなにうれしいことか。

母の愛情を満身に受けたような気になって、友だちとも仲よく、
先生のお話も熱心に聞ける落ち着いた気持になれるのです。

ただ、じっと見つめて、ニッコリするだけで良いのです。

愛情の表現というと、「小さい子供なら抱きしめてもやれるし、頬ずりもできますが、
大きい子供には、そうもできなじゃありませんか」と、おっしゃる方があります。
しかし、それは知恵の足りない話です。

目は口ほどにものをいうのです。
どんな大きい子供にでも、一日に一度や二度は、これをやってみてください。
御主人には、なおさらのことです。

           <感謝合掌 平成25年3月21日 頓首再拝>

無財の七施 〜 愛語施   (7546)
日時:2013年04月08日 (月) 05時00分
名前:伝統

【珠玉のような贈り物】

       *メルマガ「人の心に灯をともす(2013年03月19日)」

   小林正観さんの心に響く言葉より…


   お釈迦さまがまわりの弟子たちに、こんなふうに問いかけたことがあります。

   「人間の一生の長さは、どのくらいだと思うか」

   問われた弟子たちは口々に、30年とか、50年、70年、120年と答えましたが、
   お釈迦さまの答えは、次のようなものでした。


   「いや、どれも違う。
   人間の一生というのは、刹那(せつな)、刹那、この一刹那の長さだけだ」と。

   一刹那とは、拍手を1回した中に65刹那入っている、それぐらいの長さだそうです。

   その一刹那というのは、つまり一瞬ということですが、
   この一瞬、一瞬が人生の長さなのだそうです。

   私たちは今という時間を、未来をこうすればよいと思いながら生きていることがあります。

   でも実は、人を大事にするとか、物を大事にするとか、現象を大事にするというのは、
   今、目の前にあることを大事にすることにほかなりません。

   3日後に来る人を大事にしてあげようと思う人は、
   その人が目の前に来た時には、また3日後の人を大事にしてあげようと思います。

   3日後の人ではなく、今、目の前の人を大事にすること。
   ただひたすらその人を大事にしてあげること。
   その刹那、刹那に心をこめて生きていくということに尽きます。

   お釈迦さまの言われたこの刹那という言葉は、のちに「刹那主義」という言葉を生みました。
   
   辞典で「刹那主義」を調べると、「今がよければ、あとはどうなってもよいと思うこと」
   という意味で使われていますが、本当の「刹那主義」とは、お釈迦さまが最初に唱えた
   「刹那」を生きることです。

   それは、今この一瞬、一瞬を最大限大事にして生きることにほかなりません。

   今、この刹那を大事にしないで、いつ、どこで、誰を大事にするというのでしょう。

   考えて見れば、私たちは今、目の前にいる人、目の前にあること以外に、
   大事にすることはできません。

   昨日の人を抱きしめることは出来ないし、明日会う予定の人を、
   今、抱きしめることはできません。

   今、目の前の人を抱きしめること。

   その人に最大限、自分の笑顔を向けること。

   「私の」持っている言葉を贈り物としてあげることです。


   「私の口から出てくる言葉は、全て贈り物でありたい」と良寛和尚は考えていました。
   自分は貧しい僧侶であるから、人に贈り物をしてあげたいが、あげるものがない。
   だから、せめて言葉を贈り物としよう。

   そして、自分の口から出てくる言葉は常に温かいもの、人を優しい気持ちにさせるもの、
   思いやりに満ちたもの、人を励ますもの、勇気づけるもの、心を安らげるものでありたい。

   良寛和尚はそう思い、それを実践しました。
   どんなときでも、どんなひどいことをされても、
   良寛和尚の口から出てくる言葉は、そういう珠玉(しゅぎょく)のような贈り物でした。

        <『「き・く・あ」の実践』サンマーク文庫>

   ・・・・・

2001年、9月11日のアメリカの同時多発テロのあとに有名になった詩がある。

『最後だとわかっていたら』というものだ。


あなたがドアを出て行くのを見るのが
最後だとわかっていたら

わたしはあなたを抱きしめてキスをして
そしてまたもう一度呼び寄せて
抱きしめただろう

・・・・

我々は、この瞬間が最後だとわかっていたら、悔(く)やむことはたくさんある。

もっと優しい言葉をかけておけばよかった、もっと笑顔で接すればよかった、と。

明日もあると思うから、この瞬間を無駄に使ってしまう。

アメリカの9.11や、日本の3.11の震災を見るまでもなく、
この世の誰もが、数分後に生きている確かな保証などない。

だからこそ、人には笑顔で接し、言葉は人を喜ばすことに使いたい。

心のこもった優しい言葉、それを愛語という。

口から出てくる言葉すべてが、珠玉のような贈り物、「愛語」でありたい

           <感謝合掌 平成25年4月8日 頓首再拝>

無財の七施 〜 心 施(しんせ) (7832)
日時:2013年04月23日 (火) 06時15分
名前:伝統

【あなたの話を聞いていますよ】

         *メルマガ「人の心に灯をともす(2013年02月02日)」

   話し方研究所の福田健氏の心に響く言葉より…


   聞くのは黙ることではない。
   話すことである。

   ところが、いまだに〈黙って聞いていればよい〉と思っている人がいて、
   〈話すより聞くほうがラク〉と、心のどこかで呟(つぶや)いている。

   「黙って聞いているだけ」では、聞くうちに入らない。
   聞くのにも、話し手という相手が目前に存在しているのだ。
   聞き手に黙っていられると、話し手はどんな気持になるだろう。

   「そうそう、そういうことってあるんだよね」

   「あ、それ、私も見た! 近頃よくやってるCMでしょ」

   などと言葉を返してくれると、ホッとして、次が話しやすくなる。

   聞くとは返すことである。
   話し手としては、反応が返ってくるから手応えを感じ、次の言葉が浮かんでくるのである。
   聞き手の役割は、話し手が話しやすいように聞いて、話を促すことである。

   ある課長は、部下の話を聞くのに、目をつむり、腕を組んで聞く癖があった。
   「そのほうが、話に集中して聞けるものですからね」

   彼はこのように言うのだが、
   〈話しにくくて困る〉  というのが部下の本音である。

   何度か通って、やっと新規の契約がとれて、喜び勇んで報告に行くと、
   課長は相変わらず、腕組みをして目を閉じたまま…

   「ほめられるとばかり思っていたのに、張り合いをなくしますよね」

   上司も部下も、恋人同士も、聞き手になったら、
   「笑ったり」「頷いたり」「ちょっと楯突いたり」などして、話し手にかかわっていく。

   ある知人の娘さんから、会社説明会に参加するときの「話の聞き方」について
   教えてほしいと言われた。

   そこで、
   「難しいことなんか何もないよ。3つだけ実行すれば、それで充分」 と答えた。

   (1)明るい表情をつくること。

   (2)要所要所で頷くこと。

   (3)大切だと思った箇所はメモをとること。

   この3つ。

   1週間後、その彼女から電話をもらった。

   「説明会が終わって、帰りがけに説明をしてくれた人事課長に呼び止められ、
   『熱心に聞いてくれてありがとう。わが社の試験はぜひ受けて下さいね』と言われました。
   びっくりしました」

   いかにも嬉しそうな声だった。

   大勢の無表情の学生たちの中で、明るくにこやかな表情で頷きながら、
   時折メモをとって聞く彼女の姿が、人事課長の目にとまったのだ。

   聞くという行為は、「あなたの話を聞いていますよ」との発信なのだ。

       <『人生は「聞く力」で9割変わる』経済界新書>

   ・・・・・・

話やすい人と、話にくい人がいる。

話にくい人は、腕や足を組んだり、相槌や頷きがなく、無表情で反応がない人。

反対に、話をしている途中に、メモなど取ってくれたりしたら、
飛び上がりたくなるほどうれしい。

頷き、相槌、笑顔、驚きの表情…

あなたの話を聞いていますよ、というサインを出し続けたい。

           <感謝合掌 平成25年4月23日 頓首再拝>

無財の七施 〜房舎施(ぼうしゃせ) (8092)
日時:2013年05月02日 (木) 07時14分
名前:伝統

《大家さんの温情》

         *「心にしみるいい話」(P30)より

昭和37年12月の初旬、私は「失業」と「住所不定」という最悪の状態でT子という女性と
駆け落ちし、最終列車でとある国鉄の駅に降り立った。

その街は友人も知人もいない未知の地である。
私は27歳、T子が20歳のときである。

午後8時、街は深い霧に包まれ、夜景もけだるい風情だった。
私は駅裏に焦点を定め、安そうな宿をさがし歩いた。
正直なところ、空室を見つける心配より宿銭のほうが気がかりだった。

私は文無しで、T子の財布を当てこんでいたからだ。
私たちは相思相愛だったが、駆け落ちは計算の上ではなく、突然の出来事だった。
そんな状況下で、T子に向かって、『いくら持っている?』と、気軽に声をかける勇気もなかった。

私は翌朝、恥を忍んで文無しを白状した。
『私の財布も文無し同然よ。でも3泊ぐらいなら何とかなると思うわ』

翌朝、宿を早めに出て、私たちはアパ−ト探しに奔走した。
仕事より「住まい」が先決問題だった。
住所不定では雇用してくれる会社がないからだ。

わたしたちは寒風の中足を棒にしてアパートをさがし歩いたが、空振りだった。
二日めも無駄足だった。三日めの朝、『もう・・・おしまいだわ』とT子は財布を振りながら、
ため息まじりに言った。宿銭が切れてしまったのだ。

『犬も歩けば棒に当たるさ』
私は陽気に言ったが、心は不安でいっぱいだった。
たそがれが近づくと、その思いが一層募った。

空室のアパートは何件もあったが、無職ということで、首を縦に振ってくれる
お人よしの「大家さん」にめぐり合うことができなかった。
それもごく自然のことで、T子の父親が結婚に反対した理由と一緒だった。

しかし「渡る世間に鬼はない」である。
夜のとばりが下りはじめたとき、温情あふれる大家さんに遭遇できたのだ。
私は恥も外聞もなく、二人の関係をすべて白状した。

私の話を聞き終わった大家のオバさんは、目に涙をためながら、『家賃は後払いでいいよ。
とにかく早く仕事を見つけることだね。当座の生活にも困るだろうから、食べるものは向かいの
お店屋さんにオバさんが頼んであげるから、心配しないでいいよ。ヤケを起こさず、二人で力を
合わせて頑張るんだよ。困ったことがあったら、何でも相談してね・・・』と、

慈愛で満ちた目で私たちをねぎらってくれた。
T子はオバさんに抱きついて大声で泣きじゃくった。
私も心の中で感涙むせんだ。


T子と連れ添って32年になるが、あのときオバさんの温情に出会っていなかったら、
私たちは路頭に迷うどころか、路頭で凍死していたかもしれない。

32年過ぎた今でも、ありありとオバさんのやさしい顔が浮かんでくる。

           <感謝合掌 平成25年5月2日 頓首再拝>

無財の七施 〜 床座施(しょうざせ) (8180)
日時:2013年05月05日 (日) 06時29分
名前:伝統

《バスと赤ちゃん》

    *珠玉篇 心にしみるいい話(P22〜24)より 

東京にいた、今から16年ほど前の12月も半ば過ぎたころの話です
私は体調を壊し、週2回、中野坂上の病院に通院していました。

その日は今にも雪が降り出しそうな空で、とても寒い日でした。
昼近くになって、病院の診察を終え、バス停からいつものようにバスに乗りました。

バスは座る席はなく、私は前方の乗降口の反対側に立っていました。
車内は暖房がきいて、外の寒さを忘れるほどでした。

間もなくバスは東京医科大学前に着き、そこでは多分、病院からの帰りでしょう、
どっと多くの人が乗り、あっという間に満員になってしまいました。

立ち並ぶ人の熱気と暖房とで、先ほどの心地よさは一度になくなってしまいました。
バスが静かに走り出したとき、後方から赤ちゃんの、火のついたような泣き声が聞こえました。

私には、人で見えませんでしたが、ギュウギュウ詰めのバスと、人の熱気と暖房とで、
小さな赤ちゃんにとっては苦しく、泣く以外方法がなかったのだと、思えました。

泣き叫ぶ赤ちゃんを乗せて、バスは新宿に向い走っていました。
バスが次のバス停に着いた時、何人かが降り始めました。

最後の人が降りる時、後方から、「待ってください 降ります」
と、若い女の人の声が聞こえました。
その人は立っている人の間をかきわけるように前の方に進んで来ます。

その時、私は、子どもの泣き声がだんだん近付いて来ることで、
泣いた赤ちゃんを抱いているお母さんだな、とわかりました。

そのお母さんが、運転手さんの横まで行き、お金を払おうとしますと
運転手さんは「目的地はどこまでですか?」と聞いています。

その女性は気の毒そうに小さな声で、
「新宿駅まで行きたいのですが、子どもが泣くので、ここで降ります」
と答えました。

すると運転手さんは
「ここから新宿駅まで歩いてゆくのは大変です
目的地まで乗っていってください」と、その女性に話しました。


そして急にマイクのスイッチを入れたかと思うと、

「皆さん! この若いお母さんは新宿まで行くのですが、赤ちゃんが泣いて、
皆さんにご迷惑がかかるので、ここで降りるといっています。
子供は小さい時は泣きます。 赤ちゃんは泣くのが仕事です。
どうぞ皆さん、少しの時間、赤ちゃんとお母さんを一緒に乗せて行って下さい」

と、言いました。

私はどうしていいかわからず、多分皆もそうだったと思います。
ほんの何秒かが過ぎた時、一人の拍手につられて、バスの乗客全員の拍手が返事となったのです。
若いお母さんは何度も何度も頭を下げていました。

今でもこの光景を思い出しますと、目頭が熱くなり、ジーンときます。
私のとても大切な、心にしみる思い出です。

           <感謝合掌 平成25年5月5日 頓首再拝>

無財の七施 〜 和顔施 (8801)
日時:2013年05月30日 (木) 06時41分
名前:伝統


【元手がいらない、しかも利益は莫大】

    *メルマガ「人の心に灯をともす(2013年04月15日)」より

   (大島正裕氏の心に響く言葉より… )

   「元手がいらない、しかも利益は莫大。
   与えても減らず、与えられたものは豊かになる。
   一瞬見せれば、その記憶は永久に続くことがある。

   どんな大金持ちでもこれなしでは暮らせない。
   どんな貧乏人もこれによって豊かになる。
   家庭には幸福を、商売に善意をもたらす友情の合い言葉。
 
   疲れた者にとっては休養、失意の人にとっては光明、
   悲しむ者にとっては太陽、悩む者にとっては自然の解毒剤となる。
  
   買うことも、強要することも、盗むこともできない。
   無償で与えて初めて値打ちが出る」


   人間研究の先駆者・アメリカのD・カーネギーは、笑顔について、こう語っている。


   日本には、昔から、

   「愁眉筋(しゅうびきん・眉の間の筋肉)に縦じわを寄せる苦悶の表情は、
   心がいっそう暗くなり、なお悪い状態に陥ってしまう。
   苦は苦を呼び込む」

   とする信仰があった。

   逆に、愁眉筋の縦じわをなくすと、顔全体の表情が解放され、開かれて明るくなり、
   幸運に恵まれるとする思想も根強くあった。

   日本人は、潜在意識の中で、苦しい状態に追い込まれた時、笑いの表情をすると、
   苦しさは消失すると、今でも固く信じているのかもしれない。

      <『自分を奮い立たせる この名文句』三笠書房 >

 ・・・・・

中村天風師は笑顔についてこう語る。

「終始一貫、笑顔でとおすようにしてごらん。
不運な人、体の弱い人は、ひとしお、笑いに努力するんだ。
笑うにつれて、人生の幸福と幸運がどんどん開けてくるから」


笑顔でいれば、笑顔になるような状況がやってくる。
ぶすっとしていれば、ぶすっとするような状況がやってくる。

仏教には、「和顔施(わげんせ)」という言葉がある。

何も持っていなくとも、人にできる施しがある。

それがいつも「穏やかな顔でいる」、「にこやかな笑顔でいる」ということ。


自分のためにも、人のためにも、笑顔はとても大切だ。

           <感謝合掌 平成25年5月30日 頓首再拝>

無財の七施 〜愛語施(あいごせ) (9034)
日時:2013年06月05日 (水) 04時50分
名前:伝統

《うれしかった「お疲れさまでした」》

       *「喜びの種をまこう」東井義雄・著(P76〜77)より

癌手術で、生まれてはじめて入院している間のことでした。

毎日毎日、便所に行くのにも、押して行かなければならない、点滴棒と一緒の暮らしは、
やり切れないものでした。これが、生きているということなのかと、自問しながらの毎日でした。

そんなある晩、終った点滴を外しに来てくれたかわいい看護婦さんの、
「ご苦労さまでした。お疲れさまでした」
の、心のこもったことばは、今も忘れません。

薬局でもらうだけが薬だと思っていた私でしたが、
心身ともに甦る薬を、わたしは、そのかわいい看護婦さんから貰った思いがしました。

考えてみると、点滴が、私にとって、決して快適なものでないことが事実ではあっても、
それは、私が私のためにやってもらっているものです。私のほうから「ご厄介をおかけします」と、
お礼を言わなければならないはずのものです。

それを、若いかわいい看護婦さんが、心からねぎらってくれるのですから、全く感激しました。
心身を甦らせる高貴薬をもらった思いがします。

慣れっこになってしまっている家族の間でも、心して、「ありがとう」「すみません」
「ご苦労さま」「お疲れさま」を大切にしなければ・・・と。
その看護婦さんから教えられた気がします。

           <感謝合掌 平成25年6月5日 頓首再拝>

無財の七施 〜身施(しんせ)・心施(しんせ) (9469)
日時:2013年06月25日 (火) 07時41分
名前:伝統

「究極のスープ」

       *『致知』2012年6月号 より
        〜 鈴木紋子(湘南教育研修センター副理事長)


昭和50年頃、鎌倉の荒れた中学校へ赴任した時のことです。

皆からゴムまりをひどくぶつけられるなどのいじめに遭い、
しゅんとしている1年生の子がいました。

私は生徒指導担当として
「先生が付いてるから頑張りなさい」と励ましてきましたが、
3年生になるとあまり姿を見掛けなくなりました。

進路相談の行われた12月、
彼の母親が私の元へ来てこう言いました。


「うちの子は休みが多く、点数が悪いから
 どこの高校も受けられないと担任に言われました」


その子はとても育ちのいい子だったのですが、
ある日級友からお菓子を万引きしてこいと命じられました。

学校へ行くとまた何を言いつけられるか分からないから、
次第に足が遠のいてしまったというのです。

自責の念を覚えた私は、ある私立高校まで行って事情を話した上、


「受験までに必要な勉強の基礎を、
 全部私が責任を持って教えておきますから、
 受験させていただけませんか」


とお願いし、以来二人三脚で猛勉強の日々が始まりました。

周囲に気づかれないよう暗くなった夜7時頃に彼の家へ出掛け、
英国数の基礎からみっちり3時間教えては 10時半の最終バスで駅へと向かう。

電車を降りるとタクシーは1時間待ちの行列です。
仕方なく夜道を45分かけて歩き、 12時過ぎに帰宅する日々が続きました。

あんまりくたびれるのでバスの中でも眠り込み、
「お客さん、終点ですよ」の声で起こされるのが日課でした。

その甲斐あって彼は高校に無事合格し、
卒業後はイタリア料理店で働くようになりました。


その頃、我が家では主人が胃を全摘し、
肝臓がんも併発するなど、闘病生活で 体はひどく痩せ細っていました。

私は台所でいろいろなスープを作っては
主人に飲ませるなどしていましたが、
私自身も疲労からくるたびたびの目眩に悩まされていました。


前述の教え子が訪ねてきてくれたのは、
そんなある日のことです。


「ご主人様がご病気と聞いて
 チーフにスープの作り方を習って持ってきました。
 これ1袋で1食分の栄養がとれます」


と、一抱えもあるスープを手渡してくれたのです。

私は感激のあまりしばらく何も言葉が出ず、


「……これが本当の神様だわ」


と呟いて、わんわん声を出して泣いてしまいました。

すると、その子がまだ中1だった頃、


「皆にいじめられても頑張るのよ」


と私が肩を叩いて励ましたのと同じように、


「先生、泣かないでください」


と私の背中を叩いて慰めてくれたのです。

その後も彼はスープがなくなる頃になると家を訪ねてくれ、
おかげで余命3か月と言われた主人が、3年も生き長らえることができました。


私はこのスープを「究極のスープ」と呼んでいますが、

人間同士の世の中がそうしてお互いに
尽くし合ってやっていけたらどんなにかよいだろう、
と思ったことでした。
 
           <感謝合掌 平成25年6月25日 頓首再拝>

無財の七施 〜心施(しんせ) (9614)
日時:2013年07月03日 (水) 06時01分
名前:伝統

《一粒のぶどう》

          *Web:「いい話の広場」より

ある不治の病の女の子の話です。

1歳の時から入退院を繰り返して、5歳になりました。
様々な治療の甲斐もなく、ついにターミナルケアに入りました。
もはや施す術もなく、安らかに死を迎えさせる終末看護、 それがターミナルケアです。

冬になり、お医者さんがその子のお父さんに言いました。

「もう、なんでも好きなものを食べさせてやってください」

お父さんはその子に、何が食べたいか、ききました。

「お父さん、ぶどうが食べたいよ」と、

女の子が小さな声で言いました。

季節は冬、ぶどうはどこにも売っていません。

でも、この子の最後の小さな望みを叶えてやりたい。
死を目前に控えたささやかな望みを、 なんとか、なんとかして叶えてやりたい。

お父さんは東京中のお店を探しました。 思いつく限りのお店、あのお店も、このお店も、、、、、
足を棒にして、探し回りました。

でも、どこのフルーツ売場にも置いていません。  
最後に、あるデパートのフルーツ売場を訪ねました。

「あの…、ぶどうは置いていませんか?」

祈る気持ちで尋ねました。

「はい、ございます」

信じられない思いで、その人のあとについて行きました。

「こちらです」と案内されたその売場には、 きれいに箱詰めされた、立派な巨峰がありました。

しかし、お父さんは立ちすくんでしまいました。
なぜなら、その箱には3万円という値札が付いていたのです。

入退院の繰り返しで、そんなお金はもうありません。
悩みに悩んだ末、必死の思いでお父さんはその係の人に頼みました。

「1粒でもいい、2粒でもいい、 分けてもらうわけにはいきませんか?」

事情を聞いたその店員は、黙ってその巨峰を箱から取り出し、 数粒のぶどうをもぎ、
小さな箱に入れ、 きれいに包装して差し出しました。

「どうぞ、二千円でございます」

震える手でそのぶどうを受け取ったお父さんは、 病院へ飛んで帰りました。

「ほら、おまえの食べたかったぶどうだよ」

女の子は、痩せた手で一粒のぶどうを口に入れました。

「お父さん、おいしいねえ。ほんとにおいしいよ」

そして間もなく、静かに息を引き取りました。

*     *     *     *

聖路加病院に入院されていた患者さんと 高島屋の店員さんの実話であります。

           <感謝合掌 平成25年7月3日 頓首再拝>

無財の七施 〜房舎施(ぼうしゃせ) (9797)
日時:2013年07月13日 (土) 03時56分
名前:伝統

『まだ恩返しをしていません。。。』

        *Web:「いい話の広場」より

学生時代、私は自転車で旅行するのがとても好きでした。

大学2年生の夏。
地元岐阜を出発し、鹿児島の志布志へフェリーで渡り、
一日かけて、佐多岬まで自転車を走らせました。

そこから、私のちょっとした冒険がはじまりました。
目指すは、北海道宗谷岬!

7月の、まだ薄暗い朝、独り静かに、佐多岬をスタートしました。

まず九州を熊本経由で縦断し、下関に渡り、そのまま日本海側を北上。
新潟の糸魚川から内陸へ入り、長野へ。
長野では、志賀高原を半日かけて登り、 群馬側へ降り、仙台を目指します。

仙台に着くと、三陸海岸に沿ってさらに北上し、 遂に本州最北端の大間崎に到着。

この間、約3週間。
ほとんどが、橋の下や海岸での野宿だったので、TVも新聞も読んでいません。

「天候が怪しいな…」
と思いつつ、私はフェリーに乗り、函館を目指します。

まさか、台風が来ていることも知りませんでした。

時間はもう暗くなった夜でしたが、
北海道は、その時が初上陸だったので、とてもワクワクしていました。

しかし、到着した時、愕然とします。
外は暴風雨。。。

聞けば、台風が近づいているという。

「やばいな、宿(寝るスペース)を探すか…」

暴風雨の中、雨合羽を着て、自転車を走らせます。

風は思った以上に強く、なかなか前に進みません。

北海道のバス亭は小屋になっていると聞いていたので “寝心地のよさ”そうなバス亭を探しました。
しかし、夜間のため、なかなかみつけることができず、 2、3時間走り続けました。
そして、ようやく見つけたバス亭で、 一泊することにしました。

自転車をバス亭の中に入れ、 寝袋をサイドバックから取り出し、 ベンチに横になります。
外はスゴイ風と雨の音です。 なかなか寝付けません。

そんなとき、突然バス亭のドアが開きました!

「おい、にいちゃん!」

私は飛び起きました。

野宿生活が長いので、 今までにも、いろいろなことがありました。

寝ていた公園を追い出されたり、
子どもにロケット花火をテントに投げ込まれたり、
港では暴走族に絡まれそうになったり…。

私は、突然の声に、つい「すみません…」と 言いかけた瞬間、

「うちに来いや! きょうは台風が来ているから」

まったく見ず知らずのお兄ちゃんですが、
私は不思議になんのためらいもなく、
その場に自転車を置き、 身一つでお兄ちゃんの車に乗りました。

車の中で、 バス亭の中に自転車ごと入れていたのに、
どうしてわかったのか、聞いてみました。

「道路ですれ違ったのを見たのよ」

…。

ということは、Uターンして、 わざわざ探しに来てくれたということです。

しばらくして、部屋に着き、 久々のお風呂に入りました。

お兄ちゃんは独り暮らしのようです。

ご飯も腹いっぱい食べさせてくれました。

その晩は、すぐに寝たと思います。

翌朝、力がでるようにと、 ヒレカツを出してくれました。

そのとき、少しだけ会話をしたと思います。
お姉さんが当時、岐阜に住んでいるということだけ、 覚えています。

そして、

「早くバス亭に戻らないと、 自転車が心配やな」

と言って、私を再び車に乗せて、 昨晩“出会った”バス亭に行きました。

その途中、なんとお礼を言えばいいか、 ずっと考えておりました。

日本縦断をして、いろいろなことがありましたが、
さすがにここまでしてくれたのは、はじめてです。

到着する直前、 勇気を振り絞って、

「本当にありがとうございました。。。 ぜひお礼がしたいので、
お名前と住所を教えてもらえませんか…」

と言うと、お兄ちゃんはこう言いました。
この時の“約束”が私はまだ果たせないでいます。

「いいよ。 もし君が、同じようにがんばっている奴を見かけたら、同じことしてやりな」

そう言って、私を車から降ろし、 同じ道を引き返して行きました。

私はこの旅行で随分成長した、とオヤジが言います。
刺々しく、血の気の多い人間でしたが、 少しは人の親切が理解できる人間になったと。

十数年たった今も、 恩返しの輪が私で止まったままです。

           <感謝合掌 平成25年7月13日 頓首再拝>

無財の七施 〜床座施(しょうざせ) (10028)
日時:2013年07月22日 (月) 06時31分
名前:伝統

【やり過ぎる力】

      *メルマガ「人の心に灯をともす(2013年04月07日)」より

   (朝比奈一郎氏の心に響く言葉より… )

   輝いていた日本が失くしつつあるもの、日本がこれからますます輝く上で必要不可欠なもの、
   それは、真の民主主義や効率的な市場や立派な政府や英語のできる人材、といった
   即物的な制度や事物ではなく、

   むしろ、もっと奥底にあるもの、つまり、個々人の精神のあり方、
   より具体的には「チャレンジ精神」ではないだろうか。

   そして、さらに言えば、他者がやっていることを横目に見ながら、
   恐る恐る「チャレンジ」らしきことをするレベルではなく、
   これまでの常識を打ち破る形で何かを「やり過ぎる力」が必要なのではなかろうか。


   日本の多くの組織や個人を覆っている状況は、霞ヶ関や政治に代表される状況、
   すなわち閉塞感漂う泥沼状況でもがき苦しみ頑張ってはいるものの、
   前例や掟を乗り越える「やり過ぎ力」が発揮されずに、事態が改善しないという
   悪循環ではなかろうか。

   国や組織が亡ぶのは、人材がいないからではなく、
   機能しなくなった前例や掟を変えていくことができないからだ。

   スポーツや芸術の世界ではたくさんの「やり過ぎ」人材が世界で活躍している。

   しかし、一方、たとえば政治の世界を見てみると、
   個々人としては立派な政治家の方々が少なくないものの、
   しかし、マクロに見ると、見るに堪えない政争が延々と続き、
   社会は衰退の一途をたどってしまっている。


   わが国にとっての勝負期とも言える幕末。

   司馬遼太郎の「翔ぶが如く」(文春文庫)に、
   国や個人としての危機的状況を生き抜いた薩摩隼人たちに思いを馳せつつ、

   「泣こよっか、ひっ翔べ」

   とその心情を書いている。


   この国の歴史を作ってきたのは、幕末の薩摩隼人をはじめとする数々の先人たちの
   「ひっ翔ぶ」力、すなわち、「やり過ぎる力」ではなかろうか。

   当時、薩摩の「芋侍」たちよりも、幕臣たちのほうが、現代流に言えば、
   「偏差値」も高く、教養もあったことは間違いないと思われるが、
   おそらく「芋侍」たちによる明治維新がなければ、
   わが国の近代化はずっと遅れていたであろう。

   「やり過ぎる力」は、他者を統率する立場の人、いわゆる「エライ人」の専売特許ではない。


   素敵なバスの運転手の話がある。

   泣き叫ぶ赤ん坊を抱えた若い母親が、あるバス停で降りようとした時、バスの運転手が
   「ここが本来の目的地ですか?」
   と聞いた。


   通例であれば余計なお世話に近い「やり過ぎ」な行為であろう。

   若い母親は「本当は新宿駅まで乗りたいのですが、子供が泣き叫ぶもので」と答えた際に、
   運転手はおもむろに車内アナウンスを開始し、以下のように述べたそうだ。

   「皆さん、この若いお母さんは新宿まで行くそうなのですが、
   赤ちゃんが泣いて皆さんにご迷惑がかかるのでここで降りると言っています。

   子供は小さい時には泣きます。
   赤ちゃんは泣くのが仕事です。
   どうぞ皆さん、少しの間、赤ちゃんとお母さんを一緒に乗せて行ってください」


   車内から自然に湧き起こった拍手を忘れることができなかったとのことである。
   前例やマニュアル外の「やり過ぎ」が感動を呼ぶ好例である。

         <『やり過ぎる力』ディスカヴァー>

   ・・・・・

朝比奈氏は、

『龍馬もジョブスも「やり過ぎた」人々だった。

日本が再飛躍するカギは、「やり過ぎる力」にある』 という。

「やり過ぎる力」の反対は、「余計なことはしない」、「無関心」、「深入りしない」、
「目をそらす」といった冷たさだ。

やり過ぎる人は熱い。


閉塞感を打破し、壁をぶち破るには、理論や理屈ではない、
心を揺さぶられるような熱き想いと勇気が必要だ。

日常の場で、「やり過ぎる力」を発揮し、まず自分のまわりを輝かせたい。

           <感謝合掌 平成25年7月22日 頓首再拝>

無財の七施 〜 心施 (10562)
日時:2013年08月14日 (水) 03時58分
名前:伝統


        *メルマガ「人の心に灯をともす(2013年08月05日)」より

【子どもたちとの約束】

   (「JALのスタッフだけが知っている心温まるストーリー」の中から… )

   羽田発、沖縄行きの機内でポーンと軽快な音がして、
   シートベルト着用のサインが消えた。

   窓側に座った妻・友里は、待ちかねたようにバッグの中から写真を2枚、取り出した。

   光穂(みつほ)と真(しん)の写真だ。

   「光穂、真ちゃん。
   ほら、もう雲の上まで来たよ。

   飛行機に乗ってるんだよ。

   見える?」


   目に涙をいっぱいためた妻が、小さな声で2人に語りかける。

   妻はあの日以来、全く笑わなくなってしまった。


   1年前の3月11日。

   津波は、私と妻の大事なものばかり奪っていった。

   家はもちろん、しっかり者の母、穏やかな祖母、そして2人のかわいい子どもたち。

   私たち夫婦はあの日から抜け殻のようになってしまった。
   たくさんのものがぽっかり抜け落ちた状態に耐え切れず、
   「みんなのところに行こう」と言い出したのはどちらだったか、覚えていない。

   みんなのところへ行く前に、せめて子どもたちとの約束だけは果たそうと、
   私たちは沖縄行きを決めた…。

   私たちは、海沿いの町から車で30分ほど走った商店街の一角でパン屋をしていた。
   夫婦二人でもやっていけるほどの小さな店で、
   焼きたてのメロンパンと、妻が改良に改良を重ねたラスクが人気だった。

   私と妻は毎朝、光穂や真が寝ている間に家を出ていた。

   母と祖母がいるから、安心して子どもたちを任せられたのだ。

   それに、朝は早いけれど、仕込みさえ終われば遅くない時間に帰ることができるから、
   子どもたちと触れ合う時間もちゃん取ることができる。

   ある日、売れ残ったパンを手に玄関のドアを開けると、
   バタバタと子どもたちが走ってきた。

   5歳の娘と3歳の息子がいつものように、
   「パパ、ママ、あのね…」と口々に話し始める。

   私は光穂と一緒にリビングへ行った。

   「ね…、パパ。スカイタイムって知ってる?」

   「スカイタイム?」私は首を捻った。

   「タイムっていうとハーブかな?」

   「ちがーう」

   「ええ?  なんだろうースカイだから…空に関係してる?」

   「ちょっとせいかーい」

   「あのね、飲み物なんだよ。美味しいジュース!」

   「へえ、新しいジュースが出たのか。幼稚園で飲んだの?」

   ううん、と光穂は首を振った。

   「スーパーとかには売ってないの。飛行機に乗ったら飲めるんだって、リオちゃんが」

   リオちゃんというのは、光穂の一番仲のいい友だちだ。

   「へえ。じゃあ、リオちゃん、飛行機に乗ったんだ?」

   「うん、沖縄に行ったんだって。そのときに、飛行機の中で飲んだ
   スカイタイムっていうジュースが、とっても美味しかったって言ってた。
   ね、パパ。光穂も飲んでみたい。飛行機、乗ろうよ」

   「ジュースを飲むために飛行機ねぇ」

   私が苦笑したとき、妻が真を連れて戻って来た。

   「あら、何の話?」

   
   「よし、じゃあ、今年の夏休みは沖縄に行くか!」と大声で叫んだ。

   毎年、お盆には店を休んで家族で旅行をしている。

   「本当? やったぁ」と光穂が飛び上がって喜んだ。

   そして、キョトンとしている弟に、
   「真、飛行機乗れるんだよ!スカイタイム、飲めるよ!」と言ってぎゅっと抱きしめた。

   「え、飛行機? 乗れるの? やったぁ! ぼくはね、コーラ、コーラがいいの!」

   息子は特別な日にしか飲ませてもらえないコーラが大好きだ。



   「お客さま、お飲み物はいかがいたしましょうか」

   そっと声をかけられ、私は妻の頭ごしに見ていた雲海から機内へ目を戻した。

   窓に顔を貼り付けるようにしていた妻がポツリと「スカイタイム」と呟いた。

   「スカイタイムと…コーラを」きっと真ならそう頼んだだろうから。


   益田という名札をつけたCAさんが、
   妻のテーブルにスカイタイムを、私のテーブルにコーラの入った紙コップを置いた。

   そして、スカイタイムの入った紙コップを更に2つテーブルに置いた。

   不思議に思い、顔を上げると、彼女は

   「お子さまの分もと思いまして…よろしければ、どうぞ」と微笑んだ。

   妻が手にしている2枚の写真が見えていたらしい。

   初めて飲むスカイタイムは爽やかな、柑橘系の味だった。


   「スカイタイム、美味しかったです」

   「ありがとうございます」

   感じのいい笑顔に、私はつい、

   「娘が、幼稚園の友だちからスカイタイムというジュースがすごく美味しいって
   聞いてきましてね。飲みたがっていたものですから、じゃあ、夏休みに飲みに
   行こうねって約束してたんたんです」と言った。

   過去形で話している自分に気付いて、私は口をつぐんだ。

   そうだ、子どもたちの話はもう、過去形でしか話せないのだ。

   永遠に。


   「2人とも、去年の震災で」

   ぽつんと呟くと、「それはざそかし…」と彼女は言葉を飲み込んだ。

   そして、通路にそっとしゃがむと、私と視線を合わせた。

   「お子さんのお名前、なんとおっしゃるんですか?」

   「幼稚園っておっしゃっていましたけれど、光穂ちゃんが…?」

   「ええ、そうです、5歳の年中さんで」

   「じゃあ、真ちゃんは」

   「3歳でした」

   気がつけば、私は益田さんに子どもたちの話をたくさんしていた。

   思い出すと辛くて、眠れなくなるほど苦しくなる子どもたちのことを、
   こうして楽しそうに話す自分が不思議でたまらなかった。

   益田さんに釣られたわけではないけれど、
   現在形で子どもたちのことを話すと、まだ2人が生きているようにも思えてくる。

   そう言うと、益田さんは優しく微笑んだ。


   「だって、光穂ちゃんも真ちゃんも、お父さんとお母さんの中で生きておられるから」

   私はハッと彼女の顔を見つめた。

   いまのいままで、そんなふうに考えたことがなかった。

   そんなふうに考えられる余裕がなかった。


   益田さんは、手にしていた小さな紙袋を私に手渡した。

   「これ、光穂ちゃんと真ちゃんに。どうぞ」

   中を覗くと、クリアファイルやシールやボールペン、
   そして、かわいらしくラッピングされたキャンディの袋が2人分、入っていた。

   子供用のノベルティらしい。


   「光穂ちゃんと真ちゃんのご搭乗記念です」

   と益田さんが微笑む。


   「光穂。真。飛行機に乗れて、本当によかったね」

   妻は2人にそうささやくと、写真をそっと紙袋の中へ入れた。

   まるで光穂と真がグッズを嬉しそうに抱きしめているようだった。


   一番最後に飛行機を降りた私は、見送りをしてくれている益田さんに両手を差し出した。

   優しく握り返してくれた彼女に言う。

   「ありがとうございました。子どもたちとの約束を果たすことができました」

   「よかったですね」と頷いた益田さんは、労わるような目で私を見つめた。

   「次回のご搭乗をお待ちしております」


   この旅行が済んだら2人の下へ行こうとしていた私は一瞬、躊躇したけれど、
   「ええ、是非」と頷いた。

   この1年間、生きる気力を失い、自分の殻に閉じこもりがちだった妻が、
   涙をこぼしながら、それでも笑顔で益田さんとしっかり目を合わせていた。


   沖縄は快晴だった。

   ホテルにチェックインした私は、
   「これで光穂と真との約束、果たせたね」と妻に笑いかけた。

   「それで…どうする?」

   この旅行が終わったら、子どもたちとの約束を果たしたら、後を追うつもりだった。


   久しぶりの旅行で疲労の見える妻は、
   それでも家を発ったときよりもはるかに生気に満ちた顔で、首をゆっくり横に振った。

   「やめておきましょう。
   だって、私たちがいなくなったら、誰があの子たちの話をするの?」

   妻は自分の胸に手を当てた。

   「ここに生きているあの子たちを、消すわけにはいかないもの」


      <“スカイタイム”より抜粋引用
       『大空では毎日、奇蹟が起きている』オープンブックス >

   ・・・・・

2万人以上の死者と行方不明者を出した東北大震災…

いまだに、海岸沿いには大きな傷あとが残る。


言葉に出せぬほど、悲しいできごとが多くあった。

だが、それらを乗り越え、歯を食いしばって、凛として生きている人たちがいる。


思いやり、温かさ、そして、生きる勇気…

心に深く刻み付けたい。

           <感謝合掌 平成25年8月14日 頓首再拝>



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