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深切を与えよ (6310)
日時:2013年02月07日 (木) 04時20分
名前:伝統


    *「光明道中記」(P49<2月7日 深切を与える日>)


【常に他に与えたいと思っている者は他から愛され、常に他から与えられたいと
 思っているものは他から嫌われる。 (『生命の實相』第十一巻)】

「あの人から深切して欲しい」と思う心は兎(と)もすれば其の人を躓かせる。
深切が欲しければ自分が先ず深切を自分の生活から造り出すことである。

深切を他から求めるような人は屹度深切に飢えている人である。
深切に飢えている人は、自分自身が深切を身辺に造り出していない証拠である。

他が深切にしてくれないと思う人は、自分が他に深切をしているかどうかを省みるが好い。
蒔いた種は生えるし、蒔かぬ種は生えない。
自分が「深切」を製造する分量が少ないからとて、「深切」の少きを嘆いてはならない。

「深切」を沢山欲しい人は、自ら選んで自分の周囲にいる人々に深切を与えるが好い。
こちらが微笑すれば、周囲が微笑する。こちらが渋面すれば、周囲が渋面する。
こちらが相手を審判(さば)けば、周囲が自分を審判くであろう。


 吾が住む世界は吾が与えし通りの世界である。人は自分の心に従って地獄を造り極楽を作る。

 自分だけの幸福を護り育てていたい者には、その人の周囲から深切な人々が立去るだろう。

           <感謝合掌 平成25年2月7日 頓首再拝>

深切には、心を添えよ! (6360)
日時:2013年02月09日 (土) 05時01分
名前:伝統


    *『生命の實相』第37巻幸福篇上(P42<2月9日>)より

人間の深切にも物施と法施とがある。
物を与えることも時には必要であるが、あまり物のみを与えすぎるとかえって依頼心を起こさせ、
貰うことが権利のような感恩のない状態にまで相手の心を荒(すさ)ませることがある。

物を与えるならば、心もちを添えて贈らなければならぬ。
紙に包み、水引を掛けるのは心持を添える方法の一つである。
人間は心もちによって生かされているのである。

機械的な「与え」の前には感恩の心は起こるものではない。

与える側からいうならば、物を贈るのに相手に感恩の心をを起こさせようと
思ってするのは不純ではあるが、相手の心を依頼心に満ちたり、忘恩的な荒んだ心にまで
ならせないためには機械的な与え方をしてはならない。

勤務時間以上に働きをサービスする社員に、上役が感謝して夜食をおごったりしてくれる場合には、
いかにも上役の好意が身に沁(し)みて感謝されるが、規則によって夜勤手当というものを
定(さだ)めて、一定時間の夜勤をするする者には一定の夜勤料を支払うことに機械的に定(き)
めてしまうならば、もう誰も夜勤料をありがたく思わなくなるものである。

それどころか、時には夜勤料が少ないといって零(こぼ)すようにさえなりがちである。
与える悦びがなくなって、奪い足りないという不平に代わるのである。

生活に困っている失業者に仕事を紹介してやったら、その当座は生命(いのち)を救(たす)けて
もらったように感謝するが、毎月月給を貰うということが機械的に度重なってくるならば、
もうぼつぼつ月給の不足を零しがちである。

感恩の心は機械的になるとしだいに薄れてくるのである。
子供の愛情に養われる老人は幸福であるが、社会保障制度で養老院に養われる老人には
前者ほどの喜びはない。

われわれは毎日空気を吸っているが、機械的に空気を供給されているがゆえに
ありがた味を感じない。われわれは太陽がなくては生きられない人間でありながら、
太陽は機械的に毎朝地平線から顔を出すから太陽のありがた味をさごそ感じない。


しかし、これでよいだろうか。
目ざめて立て! 
わたしたちはあらゆる恩恵のうちに生きているのである。

ありがたさは物の分量にあるのではなく、心の《目ざめ》にある。
心の《目ざめ》ている人を悟っていると言う。

一かど悟っていると自負している人が常に不平を唱えているのは何を悟っているのか、
訊いてみたい。

           <感謝合掌 平成25年2月9日 頓首再拝>

一寸した不深切な行為でもするな! (6387)
日時:2013年02月10日 (日) 04時46分
名前:伝統


    *『光明法語』<2月10日>(P42)より

ベージル・キング氏はその著書のなかで、人の見ないところでも一寸でも不深切な行為をする
ことを全然やめた時に、自分の資産が著しく増加することになったと云う事を書いている。

これも「天地一切のものと和解した」ために神の愛の流れに入口をひらいた為であると言い得る。

キング氏は「神と自分との間にある通路は、實に何でもないとおろそかにする小事によって
塞がれてしまうことがある。一寸したズルい行為。一寸した不深切な嘲笑。一寸した世間話。
一寸した酷評。すべて一寸した愛にそむく行為によって」と言っている。

           <感謝合掌 平成25年2月10日 頓首再拝>

全事(まこと)の深切 (6479)
日時:2013年02月14日 (木) 04時50分
名前:伝統


    *「光明道中記」(P56<2月14日 報い求めぬ愛の日>)

【これだけで、もう自分は誠を尽くし切ったと思うな。誠は尽くることのなきものである。
 出せば出すほど無限に湧き出る。(『生命の實相』第十一巻)】


もうこれだけで誠を尽くしたと思い上がったとき、その人の誠は欠けたものとなる。

誠は出し切っても無限なるものであるから、それを「これだけ」と有限に打ち切るとき、
それは「誠」でなくなり、「誠」のかわりに「これだけ」が置き換えられ、
「無限」のかわりに「有限」が置き換えられる。

まこととは全事(まこと)である。

「有限(これだけ)」をもって「全事(まこと)」だと思うのは錯覚である。
「有限(これだけ)」を以て「全事(まこと)」だと錯覚するものは、
中途から「私はこれだけ誠を尽くしているのに認められない」と不足に変ってしまうものである。

それは本当は「全事(まこと)」を尽くしていないから不足の要素を内部に持っている。
本当に「全事(まこと)」を尽くすとは報い求めぬ愛である。

報い求めぬ愛のみが永遠に満足を与える愛であり、報い求める愛は途中で不平に変る愛である。
相手が感謝するだろうと思ってした行為は、相手が感謝しなかったとき憎しみに変り、怒りに変る。
そんなことなら他に愛を施(ほどこ)さない方が優(ま)しである。

           <感謝合掌 平成25年2月14日 頓首再拝>

人に与えることで真の人生を生きる (6540)
日時:2013年02月17日 (日) 04時33分
名前:伝統

     *メルマガ「癒しのことば(2013年02月07日)」より

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 「人は得ることで生活を営むことはできるが、
  人に与えることで真の人生を生きることができるのだ」

        -- ウィンストン・チャーチル(イギリスの政治家)--

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今日は、スーフィーの寓話をひとつ、私なりにアレンジしてご紹介させていただきます。

その昔、大いなる知識を得て、世界に貢献したいと望む男が、ある導師のもとを訪れました。
 
すると導師は、こんなことを言います。
「知識を授けるには、代わりに私が必要としているものを受け取る必要があります。
今、私は、偉大な仕事を進めている方に捧げるための、小さな絨毯がなくて困っているのです」

そこで男は、絨毯を買うために絨毯屋のところへ行って事情を説明します。

絨緞屋は、こう言いました。
「あんたが欲しがっている知識や、導師の仕事など私には関係ありませんね。
それより絨緞を織るのに必要な糸がないのです。
糸を持ってきてくれたら、絨緞をお作りしましょう」

男は、仕方なく、糸を紡いでる女のところへ行って訴えました。
「糸を売ってください。私は、その糸を絨緞屋へ持っていき、絨緞を作ってもらい、
導師のところへ持って行きます。導師は、その絨緞を偉大な仕事を進めている方に捧げること
ができるし、私は、知識を授けてもらえるのです」

女は答えます。
「あなたや絨毯屋さんや導師が必要としているもののことはわかります。
でも、私だって糸を紡ぐための、山羊の毛がなくて困っているのです」

男は、今度は、山羊の毛を売っている商人を探しますが、その人は山羊を連れて来いと言うし、
山羊飼いを訪ねると、山羊が逃げないための柵を作ってくれと頼まれます。

男は、さんざん探し回って、若くて腕のいい大工を見つけだします。

ところが大工は、ろくに話を聞きもしません。
「あんたが知識を欲しがっていることや、他の連中の必要としているものをいくら言われても、
オレには興味がないね。誰だって、それぞれ自分が必要としていることがあるのさ。

オレはずっと結婚したいと思っているが、なかなか相手がみつからなくて困っている。
結婚相手をみつけてくれれば、すぐにでも柵を作ってやろうじゃないか」

男は町中を歩き回ったあげく、ある中年の女性に出会います。
その女性は、あの大工と結婚することを、死ぬほど夢見ている娘を知っているというのです。

ところが、この中年女性が求めていたことは、「知識」だったのです。

男は、大工に娘を会わせれば柵を作ってもらえ、商人から山羊の毛を手に入れることができ、
糸を紡いでもらって絨緞を買うことができ、絨緞を導師に渡せば、その「知識」が手に入る
ことを、必死で訴えます。
 
しかし、女性はまったく信じてくれず、「知識」そのものを要求するばかりで、
とうとう男の願いを断ってしまったのです。

男は、自分のことだけしか考えない人間たちに失望を感じてしまいました。

せっかく、大いなる知識を得て、世界に貢献することを目指していたのに、
そんな値打ちもないのかも知れないという疑いさえ浮かんできます。


そのとき、男は気づきました。自分だって、結局は同じことをしていたのです。

自分が知識を得ることが最も意味があることだと思っていましたが、
よく考えてみれば先ほどの女性だって、真摯に知識を求めていたのでしょう。

大工も、羊飼いも、商人も、糸紡ぎの女も、絨緞屋も、導師も、
本当に求めていることがあるし、すべてのことに意味があるはずです。

そんなことを考えながら、ぼんやりと歩いていると、
困りきった表情でオロオロしている男性が目に入りました。

男は思わず走りよって、「どうしたのですか?」と尋ねると、
男性の娘が、ある大工に恋するあまり重病にかかって命の危機に陥っているというのです。

相手の大工を探し出そうにも、娘は意識も失っていて調べようもないと、
その人は弱り果てているのでした。

男は、すぐにあの大工のことだとわかり、急いで大工を娘に会わせるために走り出します。

おかげで、娘の命は助かり、大工は望んでいた理想の結婚相手を得ることになりました。

大工が柵を作ってくれたので山羊飼いは山羊をくれましたし、それで商人から山羊の毛を受け取り、
糸を紡いでもらうことができたし、糸を渡すと絨緞屋は、立派な絨緞を織ってくれたのです。

絨緞を導師のところへ持って行くと、導師は笑顔で男に伝えました。

「あなたは、すでに大いなる知識を得たようですね。
自分のためではなく、絨緞のために働いたから、絨緞を持ってくることができたのでしょう。
それは、本当にすばらしいことなのですよ」
 
 ……ずっと探し求めているもの。

それは、思っているよりも近くにあるし、
与えることで、はじめて手に入るものなのかも知れません。

           <感謝合掌 平成25年2月17日 頓首再拝>

自分に深切であること (6659)
日時:2013年02月23日 (土) 03時49分
名前:伝統


    *『生命の實相』第37巻幸福篇上(P18<1月18日>)より

毎日何事か《人のためになる》仕事をせよ。
その《ためになる》部分だけが自分の《生きた》生命(せいめい)である。

《ためにならない》部分の生活は死んだ生活である。自殺の生活である。
日々、自殺の生活を送らないように心がける者だけが大きく生長するのである。

何よりも自分に深切であることである。
そして自分に深切であるには、常に振り返ってみて、人のために何事をなしえたか ――
それによって自分の生命(いのち)がどれだけ生きたかを反省しなければならぬ。

           <感謝合掌 平成25年2月23日 頓首再拝>

毎日一度は誰かに深切にせよ (6858)
日時:2013年03月03日 (日) 05時00分
名前:伝統

          *『生命の實相』第七巻生活篇(P79〜81)より

諸君はこういうお伽話(とぎばなし)を聞いたことがあるであろう。
昔あるところに一つの大きな富んだ国があった。この国の王様に一人の賢い王子があった。
この王子の欲することにしてかなわないことは一つもなかった。

国中のいっさいの富をあげてこの王子の欲するままになった。
しかし王子は何が不足なのか幸福でなかった。
そしていつも王子の顔には浮かない不満足な色があらわれていた。

王様は何不足ないはずの愛する王子が、
どうしてこんなにいつも気むずかしい顔をしているのか解らなかった。

ある日、王様は王子を招んで「なんでもお前の欲しいものとて、
かなわないことは一つもないのに、お前はなぜそんなに幸福でないのだろうね。
何か心に秘密な悩みでもあるのかね」とやさしくたずねてみられるのであった。

王子は答えて「わたしにしようと思ってできないものはありませんから、
別に秘密な悩みはある道理がございません。
それだのにわたしは人生にどうも輝くような喜びが感じられないのです。
それはどういうわけでそうなのか自分にもわかりませぬ」と言うのであった。


王様は国中に布令を出して、王子を幸福にしたものは褒美の金は望みしだいだ、
と大懸賞付きで王子の幸福生活法を募集したのであった。

ある日一人の魔術師が王様のところへ来て、
「王子様を幸福にして差し上げることのできるものはわたしです」と申し上げた。

王様は、「もしお前が王子を幸福にすることができるなら、なんなりとお前の欲しいものは
とらせるぞ。だがその方必ず王子を幸福にできるであろうな」と仰せられた。

魔術師は王様のゆるしを得て王子を別室へともなって、白紙に白い絵の具で文字を書いた。

そして、「王子様、この紙を暗室へもって行って、ローソクの灯を紙の下へかざして、
文字をあぶり出してお読みになり、その書いてあるとおりになさいませ。
きっとあなたは今日からすぐ幸福になれます」と言うかと思うと魔術師は消えてしまった。

王子の手には明るいところでは読めないただの白紙が残っているだけであった。
王子はさっそく部屋をまっ暗にしめきつてローソクをともして、魔法使いに貰った白紙を
その灯(ひ)の上であぶりながらすかして見た。

白い絵の具で書かれた文字は青色にかわって、次のようにあらわれた。

「毎日一度は誰かに深切にせよ。」

ああこれだ! これこそ幸福の秘密であったのだ!
王子は魔法使いの教えにしたがって、その日からすぐ幸福になったのであった。

           <感謝合掌 平成25年3月3日 頓首再拝>

自他一体〜他(ひと)への深切は、自分への深切 (7012)
日時:2013年03月10日 (日) 04時52分
名前:伝統


          *『生命の實相』第七巻生活篇(P82〜85)より

自己と他(ひと)とは一体である。
それは一つの大生命から湧き出て来た生命の兄弟であるからだ。

他の為に尽くすことは、結局自分の為に尽くすことにほかならないのに、
人間が直接自分に利害関係がないように見えることに働くことを生命の浪費であるかのように
思い、他のために深切であることを自分の損であるように思っているのは、自他をへだて
ている肉体の殻(から)にとらわれているからだ。

卵の殻をわるように、自他を隔てている殻を破れ。
そこに最もわれわれのたましいにとって必要な養分が見いだされるのだ。

人間が人に深切でないのはまだよい。

なかにはひとに不深切なことをしたり、ひとの悪口を言ったり、
ひとが不幸になるのを喜んだり、ひとの魂の傷口にナイフを刺し込むような皮肉をあびせかけたり、
ひとの隠している暗黒面をあばいたり、私行の欠点をひやかして顔を(あか)赧めさすようなことを
したりすることによって、自分の喜びを得ようというような者があるのはどうしたことだ!

ひとを貶(おと)さなければ、人を悪く言わなければ自分が偉くないような気がするものは、
自分がいかに小さいかを晒(さら)しているものだ。

また弱小なるたましいの持主は、
自己の人生の競争者が名声を得たり賞められたりすることを苦痛に感ずるものだ。

朗らかな気持で、兄弟の成功を祝うような心持で、ひとの栄えをよろこびうるものは
その人のたましいが高い証拠だ。

人が成功した話を聞くとき、人の徳行の話をきくとき、
故意に疑いをさしはさむような言葉を言うな。
どこかに欠点はあるまいかと人の成功の裏にある暗黒を覗こうとするな。
人の徳行(とつこう)の裏にある動機の不純をさぐろうとするな。

光があるのに、光を見ないで、炎のなかにまだ燃えきらない煙があることをさぐろうとする者は
禍(わざわ)いだ。光を見るものは自分が明るくなり、闇(やみ)を見るものは自分が暗くなるのだ。

自分自身が明るくなりたい者は、ひとの行ないの明るいところばかりを見よ。
そしてそれを朗らかな気持で賞めよ。
自分自身を偉大にしたい者は、ひとの行ないのうちにある彼の偉大さをさぐれ。

人を抑えつけることは決して自分を偉大にする道ではないのだ。

人の悪をさがし出して喜ぶ者は、まだその人のたましいが大きくない証拠だ。
自他一体感が深まっていないしるしだ。
嫉妬や羨みはその人自身のたましいの低卑、たましいの弱小、たましいの未発達を語るものだ。

高きたましい、深きたましい、発達せる霊魂は、人を貶(おと)したり人を悪く言わなくとも、
安詳(あんじょう)として自己のたましいの偉大さが感じられるべきだ。

寛大な、深切な、他の喜びを喜ぶ歓喜は、その人のたましいの偉大さを物語るとともに、
ますますその人のたましいを偉大ならしめる。深切にすればするほど高まるのは自分のたましいだ。

他(ひと)の欠点を見なければ見ないほど、幸福になれるのは自分のたましいだ。
他(ひと)の美点を賞めるほど朗らかに澄んでくるのは自分のたましいだ。

愚かなる人々は他の悪口を言ったり、他の美徳にケチをつけたり、
他の欠点をあばき出したりすればするほど、相手の人が自分を偉いと思うだろうと
予想するものだが、それは、全然その反対だ。

相手の人は、その時は調子を合わせてくれているかもしれないが、
実際は他の悪口を言うような人の心情(こころ)の下劣さをすばやく見のがしはしないのだ。
他を貶すものは、自分もまたおとされるのだ。

           <感謝合掌 平成25年3月10日 頓首再拝>

愛と親切とは異なる (7110)
日時:2013年03月14日 (木) 04時49分
名前:伝統

     *「幸福を招く365章」(P209)より

愛を表現する言葉、表情、態度と云うものは相手を生かす力をもっているものである。
愛のこもった見舞いの言葉は病人を立たしめる。

しかし「あゝ重病でお気の毒ですね。随分衰弱なさいましたね」こう云う親切な言葉は、
現象に捉われて、相手の「健康なる生命」の実相を見ない言葉であるから、
却って相手を殺すのである。

「殺す」のは愛に背くのであるから、斯う云う所謂親切な言葉は、愛の言葉ではないのである。
「親切」と「愛」とは異なるのである。

親切が単に親しみだけでなく深切となり、深く切に、相手の実相を徹見し、
病気の現象の奥にある完全健康なる彼の実相を見て「汝は病気に非ず」と
直言し得るようになってこそそれは「愛」である。

           <感謝合掌 平成25年3月14日 頓首再拝>

まだまだ多くの深切を人に与えよ (7251)
日時:2013年03月22日 (金) 03時47分
名前:伝統


          *『生命の實相』第七巻生活篇(P85〜86)より

自分は、「生命の実相」の兄弟たちの間に、
「ひとの悪口を言わない連盟」を作りたい希望をもっている。

ひとというのは他人だけのことではない、自分自身もー自分の家族、父母、兄弟、姉妹、子供
すべてを含むのはむろんのことだ。

人間は神の子だという信念に立ち、言葉は創造者(つくりて)だという信仰を有する「生命の実相」
としてはこれは当然のことだ。この世の中から、何によらず悪の言葉を発するものがなくなって、
空から花びらが降るように讃歎の声ばかりが世の中に充ち満つるようになったら、
この世はこのままで極楽世界だ。

「生命の実相」の出現の目的はこれでほとんど完うしたと言ってよいくらいだ。

われわれはこの世の仕事の上からみても、
神の子にふさわしいほどの輝かしい成功を得るものが少ないというのは、
自分自身を有限だと考える者が多いからだ。

与えれば与えるほど無限に増加するところの自分の生命を自覚しないからだ。
われわれは広い心をもってまだまだ他に多くを与えうることを知らねばならぬ。

まだまだ多くの深切を人に与えよ。
まだまだ多くの賞讃を人に与えよ。
まだまだ多くの生命を人に与えよ。


与えること多き者は、刈りとること多き者だ。その刈り入れは天から来るのだ。
与えること多ければ天の与え給う賜(たまもの)の通路も大きいのだ。
困ったときに助け手のない者は、必ず平常に他を助けなかったものだ。

           <感謝合掌 平成25年3月22日 頓首再拝>

与える喜びは伝染する (7565)
日時:2013年04月09日 (火) 04時59分
名前:伝統


          *『生命の實相』第七巻生活篇(P86〜88)より

ある外国の本にこんな記事がのっている
 ―― ある日一人のみすぼらしい服装(なり)をした男が、ある良家の裏口へ来て、
はき物が破れて困っているのだから古靴でもあれば恵んでほしいと言って憐れみを乞うのであった。

で、主婦が出て見ると、寒い日に破れて半分も足の露出した靴をはいているのである。
主婦は靴箱をのぞいて見た。そして惜(お)し気もなく新しい靴を一足出して、

「これを差し上げましょう、穿(は)いておいでなさい」と言った。

「まあ。こんな新しい靴はもったいのうございます。もっとお古いのがありましたら、
どうぞそれをくださいませ」と無宿者らしい男は言うのだった。

「なアにようござんすよ。はいてお帰りなさいましよ。
お前さんがもし冷たいのが助かってありがたいとお思いだったら、
なにね、雪でもどっさり降った日に、もしここを通りかかりでもなさるようなことがあったら、
この横道を往来の人が通るのにお困りにならないように、雪を掻きのけておいてくださりゃ
それが一番のご恩返しですよ」と主婦は事もなげに答えたのだった。

男はしばらく合掌してやがて立ち去っていった。


それからしばらくたったのちの日のある朝、
主婦は、横道で雪を掻(か)くような物音がするので目をさました。
窓から見ると大変な雪の降りようである。

それにしてもこんなに朝早くから、誰が雪を掻いているのであろうかと思って覗いてみると、
先日靴を与えた男が、どこから拾って来たものか古いシャベルでせっせと雪を掻いているのであった。

とたんに、男は窓の方を振り向いて主婦と顔を見合わせた。
彼は先日の恵みを感謝するようすで、帽子をぬいでお辞儀をしたが、
またせっせと道の雪を掻きはじめた。

主婦はその男にお礼を言って、朝御飯でもたべてもらおうと思いながら
ちょっと身づくろいして外に出て見ると、もうその男はそこにいないで、
雪がスッカリ道の片側に積まれて、往来の真ン中はきれいに通れるようになっていた。

こんな同じようなでき事が、その年の大雪ごとに起こったとその本には書いてある。

どんな貧しい人でも、どんなみすぼらしい人でも、深切にしてあげればその人から
神性が発揮されるという「生長の家」の主張はウソではないのだ。

朝早く来て人知れず、雪を掻く男には神性が光っている。
その朝、誰よりも幸福になった人は、誰にも知られずに報恩のためにとて、
雪を掻いている男ではなかったろうか。

与える喜びは伝染する。与えられた人はまた与える喜びを知る人になるのだ。
こうしてしだいに与える喜びを伝染させて行くとき人生は血を見るような革命なしに、
このままで光明化するに違いないと「生長の家」は信ずるのだ。

われらの人間にやどる神性を信ずるのだ。われらは人間に宿る善良性を信ずるのだ。
しかし人間に宿る神性は強制によっては出て来ない。

人間を拝むこと、人間に深切をつくすこと、人間を貴(とうと)ぶこと、
人間を愛することによってのみ出て来るのだ。

愛は愛を招び出し、憎しみは僧しみを招び出す ―― これが心の法則だ。

           <感謝合掌 平成25年4月9日 頓首再拝>

一日少しでも人の為に尽せ (7711)
日時:2013年04月16日 (火) 03時53分
名前:伝統


    *「幸福を招く365章」(P194)

人間の成功の程度は、その人が如何ほどの自分の事業を築き上げたかによって
測られるものではないのである。

人間の成功の程度は、その人が如何ほど人々を幸福にし、
人々の魂を高め上げたかによってのみ量られるのである

自分の事業や成功と云うものは、如何にそれが輝かしく見えようとも、
それは第二義のものであり、多少とも自己満足的なものであり、
多少とも利己的なものである。

我々は如何に自分の仕事に忙しくとも、
自分の全時間を自己発展のためにのみ使ってはならないのである。

少しは余裕をのこして置いて、他の人のために幸福を考えてやるようにすべきである。
人に深切を尽す少しの時間を必ず保存せよ。

           <感謝合掌 平成25年4月16日 頓首再拝>

深切丁寧と云うこと (8072)
日時:2013年05月01日 (水) 04時04分
名前:伝統

*『光明道中記』(五月 聖泉(いずみ)湧き出ず<P138>)より

どんなに『生命の實相』を読んでも、法話を聴いても、
それが日常生活の茶飯事にすら顕れるようにならなければ駄目である。

聴いただけで生活に顕れて来ない真理は、
名前を聞いただけで食べない料理と同じ事である。
それでは吾等の生命は餓えて了うしか仕方がない。

「深切丁寧」と云うことが道を行ずる上に第一のものである。
「深切丁寧」とは、凡てのものを深く愛し、切に礼する心である。
一枚の紙も、一粒の米も、深く愛し、切に礼することによって生きてくるのである。

不健康とは、深く愛し、切に礼する心の欠乏である。

物質を不親切に、無造作に、抛げやりに扱うと云うことを、
物質に執われない美徳のように思っている人があるかも知れぬが、
実はそれこそ、一切のものを観るに「物質」として観ているのであるから、
却って其の人は唯物論者であり物質観に捉えられているのである。

すべての事物を見るに、一塵のうちにも仏の国土あり、如来説法したまうと見るとき、
日常生活の茶飯事にも深切丁寧が滲潤する。

この意味に於て「行」が大切である。

           <感謝合掌 平成25年5月1日 頓首再拝>

ただ与える喜びのために与えよ! (8211)
日時:2013年05月06日 (月) 06時09分
名前:伝統

          *『生命の實相』第七巻生活篇(P88〜90)より

次にのべるのも西洋の話だが、ある所に紳士があった。
彼はある日よごれたボロボロの着物をきた一人の乞食を往来で見つけて、
憐れに思って自宅へつれ帰った。

おいしい御馳走をし、サッパリした身なりに着かえさせてやり激励の言葉を与えて、

「人間は乞食よりも、もっと尊い仕事をするために造られているのだ。
見たところ、あなたは身体も健康だし、人相だって十分賢そうじゃないか。
自分を卑しめるな。自分をもっと高貴なものと思え。
あなたのような人が乞食をするのは実に惜しいことだ。
ここにこれだけあなたにあげる。これを資本に人間らしくなりたまえ」

と言って若干の金と、人間を貴ばす言葉と、相手を賞める言葉とを与えたのであった。


紳士は、しかしながら、そのまま自分のした施しのことをわすれていた。
そして数年たった。

ところが紳士の計画していた事業が失敗に帰して、彼は経済的に非常に窮迫することになった。
わずか五百ドルの金がなければ、どうにもその急場を乗り切れないのであった。
彼は知人を訪問して、どうかしてこれだけの金を工面しようと思ったけれども、
もう店の信用が落ちたのか、それすらできなかった。


すると翌日、一人の見知らぬ男が紳士の事務所をたずねて来た。
そして、あなたに入用の金をいくらでもお貸ししたいと言うのであった。
紳士は驚いた。親友だと思っていた知人までも、わずか五百ドルの金を貸すのを
躊躇している際にこの見知らぬ男が、いくらでも入用の金を貸そうというのは
どうしたわけだろうと不思議に思って訊(き)いた。

相手はしげしげと紳士を見つめながら、

「わたしは数年前乞食をしていたものです。それをある晩あなたは救ってくださった。
あなたはわたしを兄弟のように歓待してくださった。

あなたはわたしに人間であるわたし自身を尊ぶべきことを教えてくださった。
わたしはそれまでは、自分自身を乞食する価しかないものだと卑しめていました。
あなたの深切とあなたのお言葉が、わたしの信念に一転化を与えました。

わたしには自信ができて来ました。それからはトントン拍子に仕事に成功しました。
わたしが今の成功を得ましたのも実はあなたのおかげであります。
わたしの店の財産は全部あなたのものも同然ですから、どうぞ要るだけお使いください」

と誠意を面にあらわして言うのであった。
こうして紳士はこの意外な救い手の出現により破産より救われたのであった。


諸君よ、見えざる深切をすることを惜しいと思うな。
それは天に宝を積むことだ。
天に宝を積んである人は、自身がもし困るようなことがあれば必ず誰かが助けに来るものだ。


しかし自分の困るときに助けてもらいたいと思って他に深切をするな。
それは消極的な考え方だ。

困るときが来るかもしれぬと予想することは「困る時」を招(よ)ぶことなるのだ。
与えるときは、ただ与える喜びのために与えよ。
与えるほど自分は生長するところの「生命」だという自覚をもちながら与えよ。

与えることによって何物も減るものでないという信念によって与えよ。
これがその人の生長の秘訣だ。

           <感謝合掌 平成25年5月6日 頓首再拝>

「生長の家」の深切生活 〜 魂の深切を奉げる (8556)
日時:2013年05月20日 (月) 06時31分
名前:伝統


          *『生命の實相』第七巻生活篇(P90〜92)より

金の余裕のある人は金を与えるのもよいが、
与えるということは必ずしも金や財産を与えることぱかりではない。

「生長の家」の生き方は万人のできる生き方であるのだ。
家を棄(す)てなければできないとか、いっさいの財産を棄てなければできないとか、
制度を改革しなければできないとか、金持でなければできないとか、
無一物にならなければできないとか、何宗にならなければできないとか
いうような狭い片寄った生き方ではなく、

人間として地上に生命を受けた人なら誰でも、金持でも貧乏でも、どんな境遇にあっても、
それを実行しえて人間に喜びを増進しうる生活であるのだ。


常に心がけて、接する人々を少しでも喜ばすような行為をなせよ。
一足の下駄をそろえるのも喜びであれば、揃えられる深切を受けるのも喜びである。

一枚のチリ紙がなくて困っている人間を見いだしたら一枚のチリ紙を与えよ。
下駄の鼻緒が切れて困っている人を見いだしたら、一すじの紐を与えよ。
にわか雨に困っている人には自分の傘の半分をその人に譲れ。

苦しんでいる人には深切な言葉をかけて力を与えよ。
少しでも接する人々の心を光明で輝くように導け。
失望している人には希望の言葉を投げかけよ。

会う人ごとに好意と深切とを撤いて歩け。
常に好意の微笑、深切の表情を撤いて歩け。
朗らかに相手の長所をほめよ。

これらは相手を幸福にするだけではなく、自分自身を幸福にする道であるのだ。

反対に、人の弱点をとらえるな。欠点を見つけるな。隠そうとしている秘密を露(あば)くな。
イヤ味や皮肉を言うな。あまりに犀利(さいり)な批評をあびせかけるな。
病人に失望するような言葉を語るな。

苦しんでいる人を失意せしめるようなことを言うな。
暗い表情をするな。猜疑の眼をもって人を見るな。
人を排斥するな。軽蔑するな。

これらはみんな誰にでもできる「生長の家」の深切生活であるのだ。

多くの人間はパンにも飢えてはいるだろうが、「たましいの深切」にはいっそう飢えているのだ。
われらは刑務所へ行けばパンに飢えることはないとは知りながらも、
刑務所へ人が行きたがらないのは、刑務所には「たましいの深切」がないからだ。

富豪の家庭などで少しもパンに飢えることがないにもかかわらず、
夫人や息子が自殺したりすることがあるのも「たましいの深切」に飢えるからだ。

魂が深切に飢えるとき、人間はこの世に生きていられなくなるほどに淋しくなるのだ。
かかる人間にとっては金や寿命などは魂の深切さにくらべると破れた瓦にひとしいのだ。

心が捧(ささ)げる深切によってたましいの淋しさを全滅さし、
この世ながらに光明界を現出しようというのが「生長の家」の主張だ。

この主張に共鳴するものは、
みんな「生長の家」の精神運動の下にあつまってくださることを望む。

集団はカだ。一人が十人の共鳴者をつくり出す。
一人の深切生活の宣伝が十人を深切生活にみちびく。
その十人の深切生活がまたその十倍の人間を深切生活にみちびく。

こうして世界に十人百人千人としだいしだいに深切生活者がふえて来、
人のかげで悪口をいったり、にがい顔をして人を見たり、いじ悪を言ったり行なったり、
当てこすりをしてみるような人が、しだいしだいにこの世から影を消すときが来るのを
期待するのは、どんなにかわれらにとって喜びであろう。

           <感謝合掌 平成25年5月20日 頓首再拝>

夫婦喧嘩〜親切な運転手さん (9751)
日時:2013年07月10日 (水) 07時58分
名前:伝統

        *「珠玉篇 心にしみるいい話」(P110)より

時計は夜中の十二時を指そうとしていた。
私は1歳余の長女を背中に、家をとび出す。

「もう、あんな主人と別れてやる! 」

心の中で叫びながら、凍(い)てた道を走った。

道路脇でタクシーを待つ。
大きな貨物車がものすごいスピードで走り去る。
その音が、ますます私の怒り猛った心を煽る。

その頃の徳島県藍住町は、まだ商店も民家も少なく、真っ暗な向こうに田畑が広がっていた。
今にも雪に変りそうな小雨を、外灯が侘しく照らし出している。

やっと来たタクシーに、「中昭和までやって下さい」と、ぶっきらぼうに言いながら乗る私に、
「お元気だったで? どしたん、こんな遅うに・・・」
いきなりそう言われて驚く。

濃い眉、涼しい目元、温和な笑顔に見覚えがあった。
私が娘の頃、勤務先でよく利用したたタクシーの人なのだ。

状況から話さないわけにもいかず、夫婦ゲンカをして、那賀奥の実家には遠いので、
とりあえず今夜は叔母の家に行く所だと話してしまう。

「今から行く家は、お宅の身内? それともご主人の? 」と尋ねる。

「私の父の妹に当たるんです」

「そんなら、行かれん! ご主人の身内に行きよ。そうせんと話がこじれてしまうからな」
「今からでも機嫌なおして帰れんで? ご主人さん心配しよるでよ」

しみじみとした人情の溢れる言葉に、はりつめていた心が緩み、ドッと涙が流れてきた。
背の長女は、スヤスヤと眠っている。

どうやら、亡き父に代わり、私を大変、慈しみ大切にしてくれた兄や母の顔が胸を去来する内に、
運転手さんの言う儘に、住吉町の主人の妹宅へと向かう。
深夜の客を、いやな顔もしないで迎えてくれた妹夫婦。

私が玄関に入るのを見届けると、タクシーは去った。

1時間もしない内に、主人が車を飛ばしてくる。
なんの事はない。これで夫婦ゲンカは幕を閉じる。

翌日、主人の妹からの電話があった。
タクシーの運転手さんが、車内に忘れた、カサと娘のブーツを届けてくれたというのだ。
そして、私に”よろしく”との伝言まであった。

何という親切な方なのだろう。
さっそく勤務先へ電話を入れて、深くお礼を述べる。

年を経てなおも、あの運転手さんへの感謝の気持ちがふくらむ。
心の中に宝物として輝いている。

ととえ一時(いっとき)にしろ、
兄や母を悲しませる事もなく主人に肩身の狭い思いもさせなかった。

迷走していた夫婦ゲンカは、運転手さんのお陰で、あんぜんな場所へ漂着できたのである。

あの時、背中で眠りこけていた娘は、今年成人を迎え、次女は高校3年生になる。

あれだけの劇を演じた、あの時の夫婦ゲンカは、一体何が原因だったのか、
まったく思い出せないのが、また、おもしろいのである。

           <感謝合掌 平成25年7月10日 頓首再拝>

「深切」は言葉でできる (10134)
日時:2013年07月26日 (金) 04時13分
名前:伝統


          *『人生読本』(P157〜161)より

善き言葉は人生の宝であります。
何がなくとも「深切」は言葉でできるのです。

貧乏では深切ができない、金がなければ深切ができないというようなものではないのであって、
私達は深切の第一歩を言葉によって実行する事ができるのであります。

人に深切な言葉をかけてあげる、人が意気消沈している時にそれを鼓舞(こぶ)して
高め上げるような言葉を出す、これが深切であります。

人が誰も同情してくれない、淋しくなって人生を呪うような心の起った時に、
本当に深切な表情をして、深切な微笑を投げかける、これが深切の実行であります。

誰だって微笑(びしょう)はできるのでありまして、
その深切な微笑がどれだけ相手を生かすことになるか分からないのであります。

私達は、なんにも持っていないから深切ができない
と言うのはあまり物質的な考えに執(とら)われているのであります。

本当に深切にしようと思えば、どんな場合でもできないという事はないのであります。
常に優しい心持をもち、愛に満ちた霑(うるお)いのある心を持ち、
人に接する時、拝み合い感謝し合い、相手を尊敬して、その自信を失わしめない。

これが深切の中の一番深切になるのであります。

どんなに金をやっても或いは物をやっても、本当にその人を尊ばなければ
深切にはならないという事になります。

「貴様みたいな仕方のない奴はこいつやるから持って帰れ」と乱暴な言葉を出して
千円札を放り出したところが、それは深切にはならないで却って恨まれるかも知れません。

物を与えても相手を怒らせるのは、それは深切にならないのです。
物をやらなくとも相手を生かして喜ばすようにすれば、
それが本当に深切をした事になるのであります。

人というものは、物を貰う癖がつきますと、相手に依頼心(たよりごころ)が生じて来、
却ってその人が堕落することもあります。
すなわち深切が却って仇を成すとはこの事であります。

あの勤勉家の蜜蜂も、インドの持ってゆけば、そこは花が常に咲いているから
よく蜜が取れるだろうと思って蜜蜂を連れていったら、蜜蜂はインドはいつも花があるから
蜜を貯えて置く必要はないと思って働かなくなり、いっこう蜜がとれなくなった
という事を本で読んだ事があります。

ですからあまり物があり過ぎると、人は働かなくなり、立身出世する必要もなくなって
依頼心(いらいしん)ばかり増長する恐れがあります。
だから物を与える事は賢い智慧をもって適当な与え方をしなければならないのであります。

生長の家では「出せば出すほど殖える」という諺がありますが、
それでも所わきまえず相手わきまえず、金を無暗に出すようなことではいけません。

出すという事は、物を出しただけではいけないのです。
もっと智慧を出さなければならないのです。生命(せいめい)を出さなければならないのです。

物ばかり出すのが殖えるのであれば、家の財産を全部浪費して懶(なま)けていれば
財産は殖えるということになるはずですが、決して殖えないのであります。
物ばかり出すのが、「出せば出すほど殖える」というのではありません。

本当に出して殖えるのは自分の中にあるところの智慧を出し、愛の力も出し、
生命(せいめい)の働く力を出して、みんなを生かす事にして出せば、出すほど殖える。

ところが智慧を出し惜しみして、生命(いのち)を出し惜しみしていながら、
「私は物を出したが殖えない」と言って小言を言ってもそれは殖えないはずであります。

「物質」は本来ないものです。「無いもの」を出しても殖えないのが当たり前です。
有るものを出したら殖えるのです。

では、「本当にあるもの」とは何であるか、それは物質ではない。
私達の「生命(いのち)」「智慧」「愛」「誠」……これが《本当にある》ものです。

その本当にあるところの「生命」「智慧」「愛」「誠」……を出したとき
「出せば出すほど殖える」事になります。

金を出すにしても、物を出すにしても、それに「生命(いのち)」をつけて出し、
「智慧」をつけて出すところに、初めてそれがぐんぐん殖えてくるのです。

日本を再建するには力の出し方、物の出し方、節約の仕方には是非とも智慧も出し、
愛も出し、生命(いのち)も出し、力も出す、そうすれば出せば出すほど無限に物が殖えて来る、
せまい日本でも、資源(もの)が足りないなどの心配はないのであります。

今自分の手許に合っても要らぬものを蔵(しま)って置くのは、
その物の生命を生かさない事になりますから、そういう品物は、
紙屑でも何でも出して循環させる……そうすると出せば出すほど殖えます。

紙屑でも糸屑でも布切れでも何一つ捨てないで、それを有用の方面に出す―――
こういうふうに、智慧と愛と生命(いのち)とを出すようにすれば、到る処に宝が満ちている。
この世界は無限供給の世界であります。

           <感謝合掌 平成25年7月26日 頓首再拝>

弱きを助け、強きにも深切 (10235)
日時:2013年07月30日 (火) 04時28分
名前:伝統

        *『人生読本』(P147〜149)より

私達は弱きをも助けるが、強きをも挫(くじ)く事は要らないのであります。
弱きにも深切にし強きにも深切にし、どちらも褒めてみんなを生かし、みんなを味方にしてゆく
という事によってのみ私達は本当に生長することができるのであります。

人間をよく見ていますと判ります。
たいてい発達しない人、立身出世しない人は、よほど頭も鋭い人で、
こんな人がどうして出世しないのだろうと思ってよく見ると、
強きを挫くという性質があるのであります。

これが私達の成功を妨げる事が非常に多いのであります。
自分より上役に丁寧にすることをお追従(ついしょう)をするように思い、
自分より偉い人に深切にする事をおべっかを使う事だというように、
自分考えで誤解している人が出世しない人に多いのであります。

純な気持で、偉い人を偉い人として尊敬する事は、素直な動機であっって、
それは尊敬すべき美点であります。

それなのに、それを何かおべっかを使う事だと考えて、
そうしてその素直な人の悪口(わるぐち)を言ってみたり、邪魔をしてみたりしておりますと、
その人はどうしても自分自身の運命を自分の言葉で阻まれて発達しない、
幸福に見舞われないという事になります。

なぜかと言うと、それはやはり「類は類を招(よ)ぶ」という心の法則によるのであります。
そういう人は弱き人ばかりに深切にしているから弱い者ばかりが自分の味方である。

本当に自分の助けになるような強い人は自分の味方になってくれない
という事になるのであります。それでは出世のしようがありません。

本当に自分が発達しようと思うには弱い人に深切にすると同時に
強い人にも深切にしなければならないのです。

私達は上役にも、点数の多い人にも、月給の多い人にも、
どんな強い人にも深切丁寧にしなければなりません。

むろん卑劣な根性で、阿諛追従(おべっかついしょう)をするのではありません。
けれども他(ひと)の偉いところを正直に認める事ができるのは、
それだけでも非常に偉大な心なのです。

むろん大きな光の中にも或いは陰(かげ)があるかもしれません。
太陽にだって黒点があるのですが、太陽の黒点ばかりを睨んでおって、
太陽だって黒いじゃないかと悪口(あっこう)を言っておってもしかたがないのです。

光明思想というのはその太陽の明るい方ばかりを見て、
「太陽は明るい、ありがとうございます」とお礼を言い、感謝する心であります。

こういう心の人はきっと成功いたします。
如何にその人に黒点があっても、大きな光は大きな光として尊敬する、
それが自分自身を大きくするゆえんであります。

級長や、金持ちや、目上の者や、ともかく自分より多きなるものの悪口を言う心の中にはきっと、
嫉妬(ねたみ)羨望(うらやみ)などという悪い心持、不徳な気持ちが隠れているのでありまして、
それは卑怯なやり方であります。

偉いものを偉い者として朗らかに褒め得る、それはまた非常に偉大な人間でなければできない。
それができれば、それだけでも偉いのであります。
なんでも素直に白い者は白いと言い得るように、偉い者は偉いと誉め得る者でないと出世しません。

           <感謝合掌 平成25年7月30日 頓首再拝>



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