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母の日〜「心に響く”いい話”」 (8233)
日時:2013年05月07日 (火) 06時52分
名前:伝統

次の日曜日(5月12日)は、母の日です。

母の日までの間、母に関する話材をWeb等から集めて紹介して参ります。


関連Web:「生長の家“本流宣言”掲示板」の方も、この機会に再度味わってください。

   *”母の日”関連スレッド@「母の大恩 (964)」
    →  http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=224

    ”母の日”関連スレッドA「お母さんの偉大な力 (4535)」
    →  http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=943

    ”母の日”関連スレッドB「いのちが響き合う (8809)」
    →  http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=2067


《残っていた留守番メッセージ》

       *Web:風土計画 ちょっといい話

私が結婚を母に報告した時、ありったけの祝福の言葉を言い終わった母は、
私の手を握りまっすぐ目をみつめてこう言った。

「私にとって、澪(みお)は本当の娘だからね」

ドキリとした。

母と私の血がつながっていないことは、父が再婚してからの18年間、互いに触れていなかった。再婚当時幼かった私にとって「母」の記憶は「今の母」だけで、『義理』という意識は私にはなかった。けれど、やはり戸籍上私は「養子」で、母にとって私は父と前妻の子なので、母が私のことをどう考えているのか、わからなかった。
気になってはいてもそのことを口に出した途端、
互いがそれを意識してちぐはぐな関係になってしまいそうで、聞き出す勇気は私にはなかった。

だから、母の突然でまっすぐな言葉に私は驚き、すぐに何かをいう事ができなかったのだ。

母は私の返事を待たずに「今日の晩御飯、張り切らなくちゃだめね」と言い台所に向かった。
私はその後姿を見て、自分がタイミングを逃したことに気がついた。
そして、

「私もだよ、お母さん」

すぐそう言えば良かったと後悔した。

結婚式当日、母はいつも通りの母だった。
対する私は、言いそびれた言葉をいつ言うべきかを考えていて、少しよそよそしかった。
式は順調に進み、ボロボロ泣いている父の横にいる、母のスピーチとなった。

母は何かを準備していたらしく、司会者の人にマイクを通さず何かを喋り、
マイクを通して「お願いします」と言った。

すると母は喋っていないのに、会場のスピーカーから誰かの声が聞こえた。

「もしもし、お母さん。看護婦さんがテレホンカードでしてくれたの。
お母さんに会いたい。お母さんどこ? 澪を迎えに来て。
澪ね、今日お母さんが来ると思って折り紙をね・・・」

そこで声はピーっという音に遮られた。

「以上の録音を消去する場合は9を・・・」

と式場に響く中、私の頭の中に昔の記憶が流水のごとくなだれ込んできた。

車にはねられ、軽く頭を縫った小学校2年生の私。

病院に数週間入院することになり、母に会えなくて、夜も怖くて泣いていた私。
看護婦さんに駄々をこねて、病院内の公衆電話から自宅に電話してもらった私。
この電話の後、面会時間ギリギリ頃に母が息を切らして会いに来てくれた。

シーンと静まりかえる式場で、母は私が結婚報告したのを聞いた時と同じ表情で、
まっすぐ前を見つめながら話し始めた。

「私が夫と結婚を決めたとき、互いの両親から大反対されました。
すでに夫には2歳の娘がいたからです」

「それでも私たちは結婚をしました」

「娘が7歳になり、私はこのままこの子の母としてやっていける、
そう確信し自信をつけた時、油断が生まれてしまいました。
私の不注意で娘は事故にあい、入院することになってしまったのです」

あの事故は、母と一緒にいるときに私が勝手に道路に飛び出しただけで、
決して母のせいではなかった。

「私は自分を責めました」

「そしてこんな母親失格の私が、娘のそばにいてはいけないと思うようになり、
娘の病院に段々足を運ばなくなっていったのです。
今思えば、逆の行動をとるべきですよね」

そこで母は少し笑い、目を下におとして続けた。

「そんなとき、パートから帰った私を待っていたのは、
娘からのこの留守番電話のメッセージでした」

「私は『もしもし、お母さん』。このフレーズを何度もリピートして聞きました。
その言葉は、母親として側にいても良い、娘がそう言ってくれているような気がしたのです」

初めて見る母の泣き顔は、ぼやけてはっきりと見えなかった。

「ありがとう、澪」

隣にいる父は、少しぽかんとしながらも、泣きながら母を見ていた。
きっと、母がそんなことを考えているなんて知らなかったのだろう。
私も知らなかった。


司会者が私にマイクを回した。
事故は母が悪いわけじゃないことなど、言いたいことはたくさんあったけれど、
泣き声で苦しい私は、言いそびれた一番大事な言葉だけを伝えた。

「私もだよ、お母さん。ありがとう」

      ( http://www.fuudo.com/etc/iihanasi/iihanasi17.html )

            <感謝合掌 平成25年5月7日 頓首再拝>

おかあさんのたからもの (8240)
日時:2013年05月07日 (火) 10時43分
名前:童子


 22年モラロジー研の『家族のきずな』エッセイ 文部科学大臣賞作品


  おかあさんのたからもの
            高崎 利基 (茨城県 小学校2年)


 『おかあさん。なにがほしい』
 『なんにも、ほしいものはない』
 
 『それじゃあ、今までにもらったもので、一ばんうれしかったものはなあに』
 『としくん』
 『えっ』

 おかあさんのたん生日に聞いてみたら、おかあさんが、そう言ったので、ぼくは、びっくりしました。 そして、おかあさんは

 『としくんは、かみさまからもらった、だいじな、だいじなたからものなんだよ』 と言って、ぼくの顔を、じっと見ました。

 ぼくは、いろいろ考えて、『ありがとうの手紙』をプレゼントしました。 おかあさんは、その手紙を読んで、ちょっとなきそうな顔になりました。 それからにっこりわらって、

 『としくん、大すき』

 と言って、ぼくを、ぎゅーっとだきました。 ぼくは、おかあさんのだっこが大すきです。 とてもいい気もちで、元気や勇気が出ます。

 『ぼくは、おかあさんのたからものなんだよね。たからものは、キラキラしているでしょ。だから、ぼくも、にこにこしているね。 それから、いろんなことを、いっしょうけんめいがんばるからね』


               『ニューモラル』誌 No.497




 かつての神誌 『光の泉』や『ジュニア版』には、このような話がゴロゴロとありましたのにね。

「母の日」に”お墓掃除” (8276)
日時:2013年05月09日 (木) 04時50分
名前:伝統

《「母の日」に”お墓掃除”》

   *中山靖雄・著」「すべては今のためにあったこと」(P42〜45)より

子どもを持つお母さん向けの母の日の記念講演が終ったあと、
ある方から、電話がかかってきました。

「今回の講演を聞いて、今年の母の日は何かしようと思ったんです。
『やり直しはできないけれど、出直しはできる』というお話を先生からお聞きできたので・・・」
と言ってくださいました。

この講演会で私は、
「母の日は自分が大事にされる日ではありませんよ、自分のお姑さんやお母さんを大事にする
のが母の日なんですよ」 というお話をしていたのです。

「たいした話じゃなくてごめんなさない」と伝えると、
「私にとっては最高でした」とおっしゃいます。

そこで「何かありましたか? 」とお聞きしてみたら、
「親孝行したい時には親はなしですね、お姑さんも亡くなり、実の母親も亡くなっていない。
それでふっと、『そうだ、お墓掃除に行こう』って思いました」とおっしゃって、
こんな話をしてくださいました。

母の日の当日、母親が生きていたら、親孝行できたけれども、もう亡くなって何もできないし、
せめてお墓掃除でも行こうと思って用意をしていたら、高校生のお嬢さんが私もついて行くわ、
と一緒について来てくれたそうです。

一緒にお墓に行き、綺麗にお掃除をして、帰ってきて、ご飯食べて何気なくテレビを見ていたら、
娘さんが、「お母さん、お風呂沸かしたから先にお風呂に入りなさいね」と言う。

「今日はお父さんもいるから、お父さんに先に入ってもらってよ」と言うと、
「私、今日は母の日のプレゼントもあげてないんだもん、お風呂くらい一緒に入ったら
いいじゃない」と言ってくれるので、背中を押されるようにしてお風呂に入ったといいます。

すると、娘さんがあとから入ってきて、「お母さん、タオルとシャボンを貸して」と言って
背中を流し始めた。

「何あなた、あまり変わったことしないでよ」と言うと、娘さんが、
「生き仏の墓掃除よ、死んでからは、こんな温かい墓石、流せないもんね」
と言いながら背中を流してくれたのだそうです。

「こみ上げてくるものを止められなくて、顔を洗いながら、涙を隠すのが精一杯でした。
こんな嬉しい母の日はありませんでした」と電話をくれたのです。

どなたに言っても、娘自慢になってしまうし、先生なら喜んでいただけるかと思って、
と言ったあと、電話の向こうで、わ〜っと泣いておられました。

どなたにも母の日があります。
こうして思いを切り替えたその時、出直しができるのですね。

「やり直しはできないけれど、出直しはできる」。
お母さんを大事にしたら、娘さんが自分を大事にしてくれた、
このようにこの世はめぐりめぐる世界なのです。

親子は因縁の連鎖です。お姑さんも死んだし、実の母も死んだ。
それが見える世界ですが、見えない世界まで大きくひっくるめて広い心で親を大事にすると、
自分の子どもまでもが変わっていくことがあるのです。

それから十数年後の母の日、私は同じ会場でこの話をする機会がありました。
すると、たまたまその電話をくださった方が講演会に来ていて、
控え室に小さいお孫さんを連れて訪ねてきてくださいました。

「先生、十数年も前になるのに、覚えてくださっていてありがとうございます。
今年はここにいる三歳の孫が、娘と一緒に里帰りしていて、一緒に背中を流しながら、
小さいもみじの手で、『生き仏ちゃま、生き仏ちゃま』と、ぺチャぺチャたたくのです。
これがまた嬉しくて、またそこでひと泣きだったのですよ」

とお話してくれました。


お墓の掃除をすれば家庭がうまくいくなんて、そんなに簡単にはいかないと思う方が
いらっしゃるかもしれません。けれども、その通りにはいかなくても、何もやらなければ
花は咲きません。

めぐりめぐる世界の中で、やり直しはできないけれど、出直しはできるのです。
今を生きる自分の思いは、過去にも未来にも必ず伝わっていきます。

・・・・・

この記事(「母の日」に”お墓掃除”NEW (8276))は、後日、
スレッド「親への感謝、親孝行 (176)」にも掲載させていただきます。

            <感謝合掌 平成25年5月9日 頓首再拝>

母  の  力 (8288)
日時:2013年05月10日 (金) 04時50分
名前:伝統


      Web:感動エッセイ(心に残るいい話)より

大正から昭和にかけ、熱烈な説教講演で多くの信奉者を集めた
真宗大谷派の僧・暁(あけ)烏(がらす)敏(はや)の短歌がある。

十億の人に十億の母あらむも
わが母にまさる母ありなむや
 

十億の人に十億の母がいる。
中には立派な母、優れた母もたくさんいるだろう。
だが、自分にとっては自分の母こそが最高の母だ、というのである。
この素朴な母への賛美には、共感を覚える人が多いに違いない。

    ○     ○     ○ 

生後小児麻痺を患い、不自由な身体になった詩画家のはらみちをさんは、
母に背負われて小学校を卒業した。
そのはらさんの作品の一つに、「どしゃぶりの中を」と題する詩がある。


どしゃぶりの中を
母は僕を背負って走った
母の乳房がゆれ
僕は背中でバウンドした どしゃぶりの中を
母は僕を背負って走った
母の白いうなじに雨と
僕の泪が流れた どしゃぶりの中を
母は僕を背負って走った
いくら走っても遠いのに
僕はぬれたって平気なのに どしゃぶりの中を
母は僕を背負って走った
火を吐く山の機関車のように
母の力がばくはつした

    ○     ○     ○ 

もう一つ、詩を掲げる。
サトウハチローの「母の日記をよみました」である。


母の日記をよみました。

悲しきことのみ多かりき
されど よろこびの日もありき

そのよろこびの日もありきという文字が
太く強くしるされているのが
かえってボクにはかなしくて かなしくて・・・・・・


多言は要すまい。
子を思う母の力強い愛。
その愛を感じ母の喜怒哀楽に触れて人は人生を確立していく。

母に愛された記憶こそ一人ひとりの生きる力の根源である。
その母の力こそ、ひいては日本という国を支えた根本である。
そう思わないわけにはいかない。

      (「致知」特集より)

            <感謝合掌 平成25年5月10日 頓首再拝>

感動の詩「お母さん」 (8311)
日時:2013年05月11日 (土) 06時28分
名前:伝統


     *『致知』2013年4月号<「お母さん」藤本猛夫(作家、詩人)>より

全身の筋力が徐々に失われていく難病・筋ジストロフィー。
2歳でその診断を受け、40年近くもの闘病生活の中で、
生きる意味を問い続けてこられた藤本猛夫氏の記事がいま大きな反響を呼んでいます。


……………………………………………………………………………………
  藤本さんの実家は藺草(いぐさ)の専業農家。

  日中は畑仕事にかかり切りになるご両親は、
  ベッドから一人で起き上がることも、
  車椅子に乗ることもできない
  藤本さんの面倒を見ることができず、
  7歳の時、断腸の思いで病院に預ける決断をした。
……………………………………………………………………………………


入院した日のことはいまでも忘れられません。
「帰りたい」って泣き叫ぶ私を残して、
父と母は看護師さんに促されて病室から去っていきました。

私は保育士さんに抱きかかえられて、
二人の寂しそうな後ろ姿を、窓からじっと見つめていました。

毎晩消灯を迎えると、両親のことが恋しくなるから、「家に帰る」って泣き叫びましたね。
でもありがたいことに、病院のスタッフの方々が私のことをとても温かく迎えてくれました。

他の患者仲間たちともたくさん遊んだり、
喧嘩をしたりしながら、深い関わりを持って生活することができました。

だからこの病棟は私の家で、
一緒に暮らしている人たちは家族のように思っているんです。

周囲の支えのおかげで、特に病気を意識することもなかったんですが、
養護学校の小学部を卒業する少し前に、呼吸する筋力が衰えて人工呼吸器を離せなくなり、
それまで休んだことのなかった学校を2週間以上も休みました。

その時に、自分の人生は長くないんじゃないかなとか思ったりして、
初めて死というものを見つめるようになったんですね。

毎週末には両親が自宅から車で1時間半もかけて見舞いに来てくれていました。

体調がなかなか回復しなくて、いらだちを募らせていた私は、
母がつくってきてくれたお弁当を
「食べたくない!」って、ベッドのテーブルから払いのけてしまいました。

母は「元気そうでよか」と言いながら、
床に散らばった好物のハンバーグとか唐揚げを片づけてくれ、帰って行きました。

病室を出ていく母の背中を、
私はやりきれない思いで見送りました。


……………………………………………………………………………………
  そんな藤本さんの心を癒やしてくれたのが詩歌だった。
  藤本さんの通った病院に隣接する養護学校には、
  詩歌を専門とする教師が在籍していた。

  中学部の1年の時、「母」をテーマに詩を書くことになりました。

  私は、週末になる度に手づくりのお弁当を持って
  見舞いに来てくれる母の優しい笑顔を思い浮かべながら、
  こんな詩を綴りました。
……………………………………………………………………………………


【お母さん】


 母さんは
 にこにこして病棟にくる
 やさしさが顔にあふれていて

 ぼくは美しいと思う

 ぼくの心はシャボン玉のようにはねてくる

 母さんがいぐさの話をするとき
 母さんのひとみは光っている

 仕事にほこりをもっているんだろう

 ぼくたちは散歩に行く
 母さんはすいすいと車いすをおしてくれる

 みなれた風景だけど
 母さんがいると変わってしまう

 時間がとぶように流れる

 「じゃ またくっけんね」

 ふりかえり ふりかえり
 母さんはかえった

 ぼくは小さい声で

 「母さんのカツカレーはうまかったよ」

 と、言ってみた

   ・・・

これは病気の私をここまで育ててくれた
母に対する感謝の気持ちであり、母だけでなく父も含めた家族への思いです。

    ( http://www.mahoroba-jp.net/newblog/?p=7216 )

            <感謝合掌 平成25年5月11日 頓首再拝>

【母の日】〜母への感謝 (8333)
日時:2013年05月12日 (日) 05時01分
名前:伝統


今日、5月12日(日曜日)は、【母の日】。

お母さんに、カーネーションとともに、感謝の言葉を伝えましょう!

霊界のお母さんには、感謝の想いを送りましょう!

お墓掃除もお勧めですね!


<Web:Mother's Song 母の日 歌 >
  → http://www.youtube.com/watch?v=d9Kd5aUWlug


<Web:〜いつもいつもありがとう〜  >
  → http://www.youtube.com/watch?v=3232VT0EbDc

            <感謝合掌 平成25年5月12日 頓首再拝>

二人の母 (8336)
日時:2013年05月12日 (日) 08時39分
名前:童子

     二人の母
            安藤 治子 (東大阪市)
                    『光の泉』誌 63年5月号 所載 


  私には二人の母がありました。
  一人は私を産んで下さった人、
  一人は私を育てて下さった人。

  私は育ての母を不足に思い
  何をされても感謝が起らず
  心は暗くつらかった。

  近頃、『白鳩』誌で、
  こんな言葉を読みました

  最初の母は、去年の水仙
  育ての母は、今年の水仙
  同じ球根から生まれたものです
  去年の水仙が美しくて
  今年の水仙は美しくない筈がない

  育てて下さった方がなくて
  どうして私はここまで大きくなる事が出来たであろう

  冷たく見えた態度も
  口やかましく叱られた事も
  皆、私の魂を向上させる為に 
  現れた観世音菩薩様、

  苦しみをのりこえた時
  悲しみをふりかえった時
  人への思いやりがうまれ
  現在の幸福をより強く感じる

  お母様
  ありがとうございました

  お母様
  ほんとにありがとうございました

母の愛に気づく (10438)
日時:2013年08月08日 (木) 04時14分
名前:伝統


「母との葛藤」

     *『致知』2007年2月号
       〜 藤原咲子(高校教師・エッセイスト) 致知随想より    
               

私は昭和20年、終戦の1か月前に 満州国新京市(現在の中国長春市)で生まれました。

終戦後、父が捕虜収容所に送られたため、
母は数多くの死体が横たわる中、一人で幼い二人の兄の手を引き、
生まれたばかりの私をリュックの中に隠して、命からがら引き揚げ船に乗り込んだといいます。

当然私にその時の記憶があるわけではありませんが、
ほどけかけたリュックの隙間から見えた北極星と、
引き揚げの異様な空気はなぜか鮮明に覚えています。

壮絶な引き揚げで衰弱した母は、帰国後病の床に臥しました。
死病と恐れられた肺結核でしたから、 子どもたちは近寄ることを許されません。

事情のわからない私は、
ただただ母の温かい愛情が欲しくて、窓越しに母の様子を見ていました。

幼稚園から帰った私に「咲子、おいで」と言って、
木綿の布団をそっと開けてくれる母の姿を
どれだけ夢見たでしょうか。


病との闘いに奇跡的に打ち勝った母は、
やがてその壮絶な引き揚げ体験記『流れる星は生きている』を書き上げ、
作家藤原ていとして一歩を踏み出しました。

だがそこにいたのは私がずっと待ち続けてきた
温かくて優しい母ではありませんでした。

幼子3人の命を失うことなく
引き揚げという苦境を乗り越え、
成功者として社会から讃えられる母だったのです。


私は兄たちよりずっと厳しく育てられました。

少しでも甘えようものなら

「あんなに苦労して連れて帰ったのに、
いつまでもわがまま言うんじゃないの」

という言葉が返ってきました。


お母さん、どうしてそんなに怒るの、私が嫌いなの?

引き揚げ時の栄養失調で多少の言葉の遅れがあり、
友達とうまく話すこともできず、学力でも兄たちに追いつけない私は、
いつの間にかすべてに自信を失っていました。

と同時に、私が生まれたことが母には
不満だったのではないかと、
様々な憶測が頭の中をよぎるようになりました。


子どもの頃の私の楽しみは何よりも読書でした。

図書室や家庭の書棚にあるいろいろな本を引っ張り出しては、本の世界に浸りました。

しかし、母の『流れる星は生きている』だけは、どうしても手に取る勇気がありませんでした。
幼い頃、一体何があったのか。
その疑問が解かれるのが恐かったからです。


しかし、中学受験が間近に迫った12歳の頃、
そのストレスから逃げるように『流れる星は生きている』を読んでいる自分に気付きました。

そしてその本の中で私のことを描写している数行を発見したのです。

「咲子が生きていることが、必ずしも幸福とは限らない」

「咲子はまだ生きていた」


ああ、お母さんはやっぱり私を愛していなかった……。
ひとりの赤ん坊を犠牲にし、
2人の兄を生かそうとしていたのです。

これを読んだ時はしばらく声を失い、呻き声をあげていました。

たった数行が母の私への不信を生み出し、
それから50年もの間、母への反抗が続きました。

私は火がついたように母に食ってかかり、母を責めるようになりました。

母が涙を流し、

「あんたなんか連れてこなきゃよかった」

と言うまで諍いは終わりませんでした。


3年前の平成15年、私は整理をしていた書庫から
偶然にも『流れる……』の初版本を見つけました。

約50年ぶりに茶色の木皮の紋様のカバーを開くと、
そこには「咲子へ」という見慣れた母の字体がありました。


「お前はほんとうに赤ちゃんでした。
 早く大きくなってこの本を読んで頂戴、
 ほんとうによく大きくなってくれました。母」


現在と変わらぬ美しい字体で書かれたこの一行は、
強く閉ざした私の心をひと突きにし、
私の中の何かが崩れ落ちるのを感じました。


12歳の時に目に留まった「まだ咲子は生きていた」の一文は

母の落胆ではなく、劣悪な状況下で、健気に生きていた私への感動だったのだ

とこの時ようやく気付いたのです。


母に対する気持ちが和らぎ始めたのはそれからです。

そんな母もいま米寿を迎え、数年前から認知症に侵されています。
病状が進むにつれて母は穏やかになり、
反発していた私にも優しく接するようになりました。

病が進み始めた頃、伊豆の別荘に母と何度も行きました。
駿河湾と富士山が見渡せる場所に車を停め、
漁船の走る海を母と眺めました。


私は一歩後ろへ下がり、母の病状を観察するかのように


「ほら、イカ釣り漁船が行くねぇ」

と話しかけました。すると母は、


「バカだねぇ、お前は。あれは引き揚げ船だよ」

と力強い眼差しで海を見ているのです。

この時の母の横顔に思わず私は息をのみこんで、
涙を抑えることができませんでした。

たった一人で幼子3人と日本に引き揚げた時の母の孤独感、
人に言えない苦労が刻まれた横顔に強い寂寥感を感じたのです。

その寂寥感は私の中のそれと重なり合い、
気がつくと私は母をこの上なく
いとおしく思うようになっていました。


人が人を許し、人に優しくすることを知った時、
初めて人は心の静まりの中に真実が見えてくる――。


母はそれを身をもって私に伝えてくれた気がします。
認知症は私にじっくり母と向き合うきっかけを与えてくれました。


私を一人前にするために厳しく育ててくれた母に、
いま心から感謝しています。

            <感謝合掌 平成25年8月8日 頓首再拝>



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