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神はすべてのすべて (9754)
日時:2013年07月10日 (水) 08時18分
名前:伝統

実相を観ずる歌

(一)
   神はすべてのすべて、
   神は完(また)き生命(いのち)、
   神は完(また)き英知(みちえ)、
   神は完(また)き聖愛(みあい)。
 
   すべてのものの内に、
   神の生命は生くる、
   神の英知は生くる、
   神の聖愛は生くる。

   神はすべてにして、
   すべて一体(ひとつ)なれば、
   よろずもの皆(みな)共通(ひとつ)の
   ちから是を生かせり。

   天地(あめつち)の創造主(つくりぬし)は、
   唯一つの神にませば、
   天地はただ一つに、
   いと妙に調和満つる。

   吾れ座す妙々実相世界、
   吾身(わがみ)は金剛実相神の子、
   万ず円満大調和、
   光明遍照実相世界。


(二)
   神は生命にして、
   吾れは神の子なれば、
   吾れはすべてを生かし、
   すべては吾れを生かす。

   神は愛にして、
   吾れは神の子なれば、
   吾れはすべてを愛し、
   すべては吾れを愛す。

   神は知恵にして、
   吾れは神の子なれば、
   吾れはすべてを知り、
   全てのもの吾を知れり。

   神はすべてにして、
   吾れは神の子なれば、
   吾れ祈れば天地(てんち)応え、
   吾れ動けば宇宙動く。

   吾れ座す妙々実相世界、
   吾身(わがみ)は金剛実相神の子、
   万ず円満大調和、
   光明遍照実相世界。


・・・・・

神、われを導き給う

     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月10日>(P15)より

われを導くものは神である。(これは私自身だけのことを言っているのではない)
すべての人間は「われを導くものは神である」と自覚しなければならない。

神の国に到る「道」は、自分のうちにある。
われは「道」なり ―― とイエス・キリストは言っている。

「われは真理なり、道なり、生命(いのち)なり、われによらずして神の国に到りし者なし」
とは肉体イエスのことではない。
万人の”うち”に宿る真理なるキリスト(Chrisut Ideal)のことである。

静かに瞑目してわが内に無限の叡智が宿っていることを黙然せよ。
そこから、その日その日なすべき「道」が示される。
神は「智慧」であり、「道」であり、われらの内に宿ってい給うのである。

         <感謝合掌 平成25年7月10日 頓首再拝>

神を感ずるために (9772)
日時:2013年07月11日 (木) 04時21分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月11日>(P16〜17)より

まのあたり、今、ここに、この身のうちに、神の”いのち”宿りいますを感じ、
神の智慧宿りいますを感じ、神の愛に取り巻かれてあることを感ずる者は幸いである。

しかしそれを感じえない者はどうしたらよいか?

 ―― なぜ彼は感じないのであるか?
 ―― 彼自身が感じないからである。

 ―― どうしたら感じるようになるか?
 ―― 彼自身が感ずるようにすればよいのである。

 ―― 感ずるようにするにはどうしたらよいか?
 ―― 感ずるということは、一つの認識作用であるから、感ずる対象と同じ波を
    こちらが起さねばならぬ。神を感ずるには、神は愛あるから、
    愛の波を自分の内に動かさねばならぬ。


静かに眼を瞑って、

「われはすべてを愛し
すべてはわれを愛す」

と「実相を観ずる歌」の一節を繰り返し念ずるがよい
―― その心のリズムのうちにわれわれは神を感ずることができるのである。

また神は「生命(いのち)」である。
すべてを生かしているのは神の生命(せいめい)であるから、われらが神を自分のうちに感ずる
ためには、すべてを生かす心を起したときに、その心のリズムの中に、その心の波長の上に、
霊感的に感応するところの神を感ずることができるのである。

だから神を心に感じようと思うならば、時々、寸暇を利用して瞑目心を静め、
「実相を観ずる歌」の一節 ――  

  「神は生命(いのち)にして
   我は神の子なれば
   我はすべてを生かし、
   すべては我を生かす」

と心の中に繰り返し繰り返し念ずるならば、「個(ひとり)」と「全体」との
つながりの意識が蘇生(よみがえ)ってきて、神を更に感ずることができるのである。

         <感謝合掌 平成25年7月11日 頓首再拝>

すべての人に宿る「神」を拝む (9785)
日時:2013年07月12日 (金) 04時05分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月12日>(P17〜18)より

あの利益、この利益と求めている者にもお蔭はあることはあるが、割合にお蔭が少ないものである。
なぜなら現象に捉われて、生命それ自身の自由自在さを失ってしまいやすいからである。

あの利益、この利益と求めるものは近眼(ちかめ)である
 ―― 心の近眼(ちかめ)である。

孑孑(ぼうふら)を追い求めるよりも呑舟(どんしゅう)の大魚(たいぎょ)を求むるに
若(し)かずである。
《すべて》の利益が与えられているのに、あの利益、この利益と求むるには及ばないのである。

神は「すべてのすべて」であるから、神をわが内に見出せば、
「すべてのもの」はおのずから調(ととの)うのである。

何よりも、まず「神」である。

その「神」が自分の内部に宿っているのに、多くの人は未だ自分自身を拝んだことがなかった。
自分自身に感謝したことがなかった。
幸福な人が少なくて、不幸な人が多いのも、そうした理由から当然のことである。

見よ!  まず自分のうちに宿る神を!
われらはまず自分自身のうちの「神」を拝むことを教え、
自分自身のうちの「神」に感謝することを教える。

かくのごとくして、われらはしだいに進んで各人自身のうちに「神」を宿したまうた
本源の神を拝むことを知るのである。

          <感謝合掌 平成25年7月12日 頓首再拝>

法爾(ほうさながら)に動く (9802)
日時:2013年07月13日 (土) 04時24分
名前:伝統

     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月13日>(P19)より

神はすべてのすべてだとわかったら、罪を犯してまで何を求めることがあろう。
「罪」というほどでないにしても、「無理」なことをしてまで何を求める必要があろう。

すべての必需物(なくてならぬもの)は神すべてを与えていたまうのである。
ただそれを見出せばよいのである。

「ただ見出せばよい」といっても、手を拱(つか)ねてじっとしておれという意味ではない。
法爾(ほうに)として、法爾(ほうさながら)に自然(じねん)に動き出してくるごとく
素直に動けばよいのである。

「無理な動き」を厭(いと)うのであって、「法爾(ほうさながら)に動く」ことを尊ぶのである。
仏の掌中にあって、仏のみこころのままに動くのである。

・・・

     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月14日>(P19)より

何かが自分にとって欠乏しているならば、
その「何かが」自分の内に欠乏しているのである。

自分の見出し方が欠乏しているか、法爾(ほうさながら)の動きが欠乏しているかである。

「無限供給」は”今”ある ―― すでにある ―― ここにある。
法爾(ほうさながら)の動きは、それをただ開くのである。

          <感謝合掌 平成25年7月13日 頓首再拝>

神を心に満たせ!  (10030)
日時:2013年07月22日 (月) 06時39分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月22日>(P26)より

「神はすべてのすべて・・・」
眼を瞑ってかく念ぜよ。

繰り返し念じつつ自分の周囲に、そして宇宙いっぱいに、そして自分のうちに、
あらゆるいっさいのうちに、神満ちていますという思いをもって心を満たせよ。

ほかに何物をも思念のうちに求めるにはおよばない。

神はすべてであり、いっさいであるからである。

ます神を把握せよ。その人はいっさいを把握するであろう。

         <感謝合掌 平成25年7月22日 頓首再拝>

『全き神のいのち』に浸りきる  (10072)
日時:2013年07月23日 (火) 04時37分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月23日>(P26)より

「神はすべてのすべて・・・神は全(また)き生命(いのち)」と
瞑目して繰り返し繰り返し念ぜよ。

かく念じつつ、

神の生命(いのち)が、宇宙全体に、すべてのものの内に、いっさいのものの内に、そして
「自分の内にも充ち満ち、その『全き神のいのち』にすっかり包み込まれ、それに生かされている」

との深い実感のうちに、30分間を浸りきることは極めて尊き神想観である。

病ある者はすみやかに癒されるであろう。

観中、「病を癒す」などの念を起こす必要はない。
神の生命(いのち)の中に没入しているかぎりにおいて、そこには病は無いのであるから。

         <感謝合掌 平成25年7月23日 頓首再拝>

普遍意識に没入するとき、万事が都合よくゆく (10101)
日時:2013年07月24日 (水) 05時00分
名前:伝統


     *『生命の實相第三十八巻幸福篇下』<7月24日>(P27)より

瞑目精神を統一して、
「神はすべてのすべて・・・神は全(また)き叡智(みちえ)」と
繰り返し繰り返し念ぜよ。

そして宇宙全体に、すべてのもののうちに、さらに自分自身のうちにも、
神の智慧充満せりと観じ神の智慧の中に溶け込んでしまうのである。

神はすべてのすべて、全てに行きわたって存在する智慧であるならば、
その智慧の中に没入するとき、われらは知らないものは一つもないのである。

現在意識が何を知らなくともわれらは恐れることは要らないのである。
現在意識は「脳髄」という個別的反射鏡の上に投光された
普遍意識(すべてに満ちて行きわたる智慧)の一部が反射し出されたる反射光にすぎない。

反射光が何を知っていようとも、また、何を知らずにいようとも、自分のうちに宿り給う
普遍意識は”すべて”を知っているのであるから、われらはこの普遍意識の中に没入し、
普遍の智慧と一つになるとき、知らず知らず万事が都合よくゆくのである。

「何でも都合よくゆく」という人は
普遍の智慧を知らず知らず”わがもの”としている人である。

普遍意識は自分のうちにも宿ると同時に、他のうちにも宿るが故に、
自分自身にみならず、他をを知らず知らずに動かしつつ、
万事都合のよい配合にまでいっさいを動かしてゆくのである。

         <感謝合掌 平成25年7月24日 頓首再拝>

神の聖愛(みあい)を観ずる  (10127)
日時:2013年07月25日 (木) 07時01分
名前:伝統

     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月25日>(P28)より

今日はさらに、「神はすべてのすべて・・・神は完(また)き聖愛(みあい)・・・」と念じよう。
そしてすべてのものの内に、宇宙全体の神の聖愛(みあい)の充ち満ちていること、
そして自分のうちにも神の聖愛(みあい)が充ち満ちていることを深き精神統一のうちに念じよう。

そして「神の愛に護られ、生かされ、育てられている」ことを念じよう。

すべての不安と恐怖とは、この神の聖愛(みあい)を観ずる神想観によって
消滅してしまうのである。

すべての自己の不安、焦燥がこの神想観によって消滅したとき、その反映として
自分の家族の精神状態が非常に円満になるものである。

そしていっさいが神の聖愛(みあい)で包まれていることを心の底深く知るがゆえに、
感覚的な麻酔的陶酔の必要が消える。飲酒癖、喫煙癖などはかかる心境に達したとき、
本当に自然に、抑制する必要なく剥落する・・・。

         <感謝合掌 平成25年7月25日 頓首再拝>

あらゆるところに神を見出す (10136)
日時:2013年07月26日 (金) 04時19分
名前:伝統

    *『生命の實相』第38巻幸福篇(下)<7月26日>(P29〜30)より

神は光である。
わが室(へや)の窓の外に、
神の光は待っているのである。
倦(う)まず撓(たゆ)まず。


わたしはいつまで神がそこにいることに気がつかなかったろう。
神はわたしがその窓を開くのを待っているのだ。
神はいないのではない。
わたしが心も窓を開かなかったのだ。

―― 光はわたしの内にある
だれかが戸を叩いている。
神がわたしの家の門口(かどぐち)に来て戸を叩いているのだ。

わたしは神を求めなかったのに、
神はわたしを求めてい給うのだ。

わたしはなんという親不孝者だったのだろう。
わたしが神の膝に跳びつきさえすれば
すべてはすでに与えられているのだ。


神のないところに生命(せいめい)はない。
神のないところに美はない。
神のないところに智慧はない。
神のないところに愛はない。

生命(せいめい)があり、
美があり、
智慧があり、
愛があるということは、
そこに神が在(いま)すということだ。

すべてのものに、
自分の外(そと)に、
自分の内に。

かくてわたしはあらゆるところに神を見出すのだ。

         <感謝合掌 平成25年7月26日 頓首再拝>

唯、すべての渾てなる神を求めよ! (10237)
日時:2013年07月30日 (火) 04時40分
名前:伝統


        *「静思集」(P250)より

『神はすべての渾(すべ)て』であり、唯一の善は唯だ神のみでありますから、
いちいち「これを下さい、あれを下さい」と註文するには及ばないのです。

註文の多さによって、肯(き)かれようと思うのは間違いです。

『天の父は吾等になくてはならぬものを知り給う』とイエスは言っておられます。

「全ての渾(すべ)て」を、そして唯一の善をさえ把(つか)めば
全てが「今」そして「此処」にあるのですから今更何を求めましょう。

吾々は神を唯(ただ)愛すれば好いのです。
そこまで行けばその余のことは付加せられるのです。

先ず「神」を求めよ!
「神」を求めたならば、すべてが得られるということになるのであります。

         <感謝合掌 平成25年7月30日 頓首再拝>

心に神を持つことは「すべて」を持つことである (10315)
日時:2013年08月02日 (金) 04時26分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月2日>(P5)より

本当の平和はわか心が神に結ばれたときのみに得られるのである。

神さえあれば何も要らない。
心に神を持つことは「すべて」を持つことである。

神は「すべてのすべて」であるからである。

         <感謝合掌 平成25年8月2日 頓首再拝>

神がすべての日 (10384)
日時:2013年08月05日 (月) 04時39分
名前:伝統


         *「光明道中記」(八月五日)より

【神は汝の善き行ないの中にある。愛の中にある。善き生活の中にある。
                      (『生命の實相』第十一巻)】

神が遍在でましますこと、何処にでも在(い)ますこと、一切のところに、
一切の空間を貫いて、どんな密閉した部屋の中にでも、そんな固い鉱石の中にでも
神が充満したまうこと。

従って、自分の肉体の中にも、骨の中にも、髪の毛の中にも神が満ちて在ますこと、
自分の中に斯く満ちて在ます神と、宇宙の何処にでも満ちて在ます遍在の神とは、
唯ひとつの神にましますこと。

このことを今日の神想観のときには眼を瞑ると直(ただち)に繰返し念じて、
神のほかに何も無い、神のみが在(ましま)すのだと云う深い信念が湧き出るまで
念じつづけること。

このほかには私にとって念ずべき何物もないのである。
神は”すべて”である。先ずその”すべて”にましますところの神を
心の中に深く知ることは”すべて”を心の中に得ることである。

「心」の中に三千世界は蔵(ぞう)されているが故に、
「心」の中に”すべて”を把めば、全てのものはすでに吾がものである。

欲張っては可(い)けない。
欲張るのは、なお自分の中に”すべて”が存在することを悟らない近視眼者であるからである。

”すべて”が自分のものと云うのは全部が自分の肩にかかってくると云うことではない。

必要に応じて現われ、用足りて姿を消す極楽の境涯である。

           <感謝合掌 平成25年8月5日 頓首再拝>



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