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「今」を全力を出して戦いとれ (1325)
日時:2012年09月11日 (火) 08時44分
名前:伝統


『生命の實相』(第七巻<生活篇>)において、谷口雅春先生は、「生長の家の生き方」の
ひとつとして、”「今」を全力を出して戦いとれ”と説いておられます。

「生長の家“本流宣言”掲示板」では、
スレッド「人生の時間銀行 (6057)」で「今」に関した題材を紹介して参りました。
→ http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=1357 

この掲示板(「生長の家光明掲示板」)においても、継続して紹介して参ります。

・・・・・

これが最後だ、という気持で
 
     *メルマガ「人の心に灯をともす(2012年06月14日)」より

(今から11年前の今日、9月11日午前8時15分同時テロ発生))
2001年のアメリカの同時テロの時に、有名になった詩がある。


《「最後だとわかっていたなら」(ノーマ コーネット マレック)》

あなたがドアを出て行くのを見るのが最後だとわかっていたら
わたしは あなたを抱きしめて キスをして
そしてまたもう一度呼び寄せて 抱きしめただろう

あなたが喜びに満ちた声をあげるのを聞くのが最後だとわかっていたら
わたしは その一部始終をビデオにとって、毎日繰り返し見ただろう

あなたは言わなくても 分かってくれていたかもしれないけれど、最後だとわかっていたなら
一言だけでもいい・・・「あなたを愛してる」と わたしは 伝えただろう

今日は最後の日ではない、と誰もが信じている。
明日もあると思うから、「まあ、いいや」とか「今日は仕方ない」と手を抜いてしまう。

例えば、レストランにおいて、「これが最後の食事」というお客様が来たとしたらどうだろう。

人生最後の食事にこの店を選んでくれた、そんな方になら、きっと涙を浮かべて
必死にサービスするに違いない。

      
「一期一会」とは茶道の言葉。

あなたと出会っているこの時間は、二度とない、生涯に一度きりの機会、
だからこそ、茶会は、主客ともに誠意をつくす、という意味だ。

「これが最後だ、という気持で」
誰に対しても、一期一会で臨みたいものです。


・・・・・・『生命の實相』より

「今」を全力を出して戦いとれ

    *『生命の實相』生活篇(P56)より

「生長の家」の兄弟よ、今があなたの時なのだ。
今!  実に今だ!  今のほかに時はない!

兄弟よ、今あなたに与えられているすべてのことを段々乎として敢行せよ。
今あなたに可能であると見えることをなんのためらいもなしに今実行せよ。

これが「生長の家」の生き方だ。
そして生命の生長の法則にかなう道だ。

今できることは今できるのであって、ほかの時にできるかどうかはわからない。
今が懸命だ。

今の可能にぶっつかれ、「今」をあなたの思うままに占領せよ。
そこから未来の展望(ながめ)がひらけてくるのだ。

         <感謝合掌 平成24年9月11日 頓首再拝>

今即断行 (1719)
日時:2012年09月23日 (日) 04時05分
名前:伝統


「今できないことは、10年たってもできない。 思いついたことはすぐにやろう」

          -- 市川左團次(歌舞伎俳優)--

----------------------------------

「いまというときいまはなし、『ま』の字きたれば『い』の字すぎゆく」

という道歌があります。


「いま」の「ま」を言ったときには、もはや「い」の字は過ぎ去り、
もう二度とは帰ってこないということです。

         <感謝合掌 平成24年9月23日 頓首再拝>

「今」が魂の進歩にとって最良の機会である (2130)
日時:2012年10月03日 (水) 04時53分
名前:伝統

       *『生命の實相』第38巻<P13>より

今、われわれに課せられた状態がいかにあろうとも、
今が、そしてその状態が自己の魂の進歩にとり最善の時であり、最好の機会なのである。

われわれがわれわれ自身を見出すところの今の環境が、
その時と処(とこと)とにおいてわれわれにとって最もよいということである。

われわれの前に起こるところの義務は、そして手近にあるところのすべてのものは、
われわれを導く神の智慧が開かれつつあるところの道である。

家庭の茶飯事、その勤める店での呼鈴(よびりん)に応えること、事務所で働くこと、
病める隣人をまたは親類縁者を看護することなどは散文的な、あまり馨(かんば)しからぬ
ように見えるかもしれない。

それはそうかもしれないが、しかしわれわれの日常生活における義務を、神に対する義務の
ごとく、また、人生に捧げる捧げ物のごとく忠実に行なうことは、その人の魂に与えられた
日課を果たすということになるのである。

そしてその時その場における内部に宿る神の催しに従うこと、
すべての時において神の掟を守りて正しく生きること、また生活がわれらに齎(もたら)し
たるところのすべての位置において全力を尽して試みることは、
魂の向上の道に入るための日々の課業であるのである。

         <感謝合掌 平成24年10月3日 頓首再拝>

「久遠の今」 (2306)
日時:2012年10月08日 (月) 04時37分
名前:伝統



”生長の家「本流復活」について考える”において、
”復興G さま”は、谷口雅春先生のこのご講義について、
次のように紹介しております。(内容は要約しております)


:復興G:2012/08/13(月) 14:22:14

皆々さま。

ありがとうございます。

「久遠の今」のレコードは、2枚になっていて、
1枚目は、片面がご講義「久遠の今 1」、もう片面が基本的神想観。
2枚目はご講義「久遠の今 2」と如意宝珠観です。

私はこれを、溝がすり切れるほど聴きました。

これは、子孫に残すべき尊い価値あるご講義だと思います。


・・・・・

「久遠の今」(1)


「生長の家」の生き方、或ひは『生長の家』の哲學の中で、一番重大な問題になつてゐるのは、
この「今」と云ふことであります。この「今」と云ふことがわかつたら、
それが本當の「生長の家」の悟りであるわけです。

「今」と云ふのは、過去・現在・未来と時間が流れてゐるところの、
流れてゐる時間の一部分の現在と云ふところを「今」と云ふのではないのであります。

この「今」と云ふのは、もうひとつ詳しく云ふと、「久遠の今」と云ふことであります。
英語の Eternal Now と云ふ意味での「久遠の今」であります。

そして「今」の中にすべてが含まれてゐるところの「今」であります。


仮りに、縦の線を書いてこれを時間であるとします。
そして横の線を書いてこれを空間であるとします。
そして縦の線と横の線とが交叉した處、此處が丁度「今」にあたるのであります。

未だ、時間も空間も現れてゐない、時間と空間が、そこから現れるところの
其の中心の無であります。

これは~道の言葉で云ふと常今(つねいま)と云ふ言葉がありますが、
禪宗などで云ふと、いはゆる無であります。

無と云ふと、何んにもないのを無と云ふと、そう云ふ風に考へる人がありますけれども、
全然無いんじやないのであります。

禪宗に無字透關と云ふ意味の言葉があります。
”無”の”字”の關門を透ると云ふ意味であります。

『無門關』と云ふ禪宗の書物もあります。
その無と云ふものの關門を本當に知つた時に、吾々は自由自在になれるのであります。

ところで、その無といふのは、時間・空間に現象界のものが現はれてをりますが、
その時間の中に、空間の中に、すべてのものが現象界に現れてをりますけれども、
併し、その時間・空間の其の元のところ、時間・空間が未だ現はれない、
其の常今のところ。そこは何んにも無いかと云ふと、何んにも無いんぢやない。

時間・空間がそこから現れて来たんだから、時間・空間がやつぱりアルと言はなければならない。
時間・空間が一點に卷きおさめられて、その一點も無い。
すべてのものが、 一點も無いその中に”そのまゝ”アルのであります。

これをもう一つ、別の言葉で云ひますと、絶對無と云ふことであります。
絶對無と云へば、多少この意味がわかる。有無相對の無ではないのであります。

有るに対しての何んにも無いと云ふ、其の相對の、有と無が相對してゐるところの、
有無相對の無じやないのであります。絶對の無である。對立がない。

有ると云ふことに對して、これは無いと云ふ、無いのではなくて絶對の無であつて、
其の絶對の無を突き貫いたところに、其處に實相があるのであります。


それで無と云ふのは、絶對などと云ふ文字をつけると解るけれども、
唯單に、無と云ふと吾々は概ね相對の無を考へます。

何んにもないと云ふ無の方を考へるものでありますから、
この無の字の代りに、空と云ふ字を持つて来て、佛教などではあらはしてゐる
のであります。

これにもうひとつ眞と云ふ字をつけて、眞空妙有と云ふやうな言葉があります。
眞空。本當の空である。カラッポの空じやないのであつて、其の中に一切のものが
含まれてをつて、そして、どこにも片寄らないのであります。

それは、もう一つ別の言葉で云ふと、支那の『中庸』と云ふ書物に書いてある、
「喜怒哀樂未だ發せざるを中と云ふ」と書いてある、その中であります。

天之御中主神の御中であります。
一切の時間と一切の空間とが未だ發せざるところの御中の中心であります。
これは未發の中と云はれてゐるところのものである。

「喜怒哀樂未だ發せざるを中と云ふ。
發して節に當る。これを和≠ニ云ふ」とありますが
その中から一切のものが現はれて、時と處と人とに應じてピタリッと急處に當つて有効に
すべてのものが、ピシリ、ピシリと出來て行くのが、

其れが”和”、即ち和解の”和”なんであります。

    ・・・・・

「久遠の今」(2)


『生長の家』の~想觀の時に、『われ今五感の世界を去つて實相の世界に入る』と云ふのが
ありますが、「吾れ今」と云ふ、その今がこの前申し上げましたところの常今(つねいま)
であります。Eternal Nowであります。「久遠の今」であります。

「吾れ、今」と云ふのは自分が今ここに「今」と「吾れ」と「此處」と云ふのが全く一つに
なるわけであります。「吾れ」、「今」が、「此處」が全く一つになつてしまつて、
「久遠の今」が、「永遠の今」が、「今・此處・吾れ」と一體になつてしまつて、
時間と空間とを絶したところの「實相の今」と云ふものが顯れて来るのであります。

其の「實相の今」の、そこに私達は生活するのです。

何月何日の何時何十何分、何處其處の空間において生活すると、そんなふうに生活する
のだつたら、吾々は色々な問題に引つ掛かることになります。

「いつ、誰があんなことをぬかしやがつた」と云ふので腹が立つて来たり、
クシャクシャしたりするんだ。

それで、そう云ふ腹が立つたリクシャクシャしたりする人は、此の本當の今と云ふところに
生活していないで、或る時間の流れに、どこかの空間的存在において「誰がどうした」とか
「未来はどうなるであらう」とか、さう云ふやうな現在と云ふ、ここで生活してしまつて
おつて、

この「久遠の今」、「實相の今」、發して節に當るところの急處急處にピシリと當るところの
今と云ふ處に生活してゐないから、それで色々と惱まなければならない事が起つて來るんです。

そして持越し苦労とか、疑心暗鬼なんて色々の心のモヤモヤが出て來てノイローゼになつてしまう。

それで、常に「吾れ・今・此處」と云ふその實相の中に、未發の中のなかに坐つて、
そして何んにもつかまないで、そして時と人と場處に應じてピシリ、ピシリと節に當る
と云ふことに致しますと、事々物々間違いなく適當な處置がとれると云ふことになるのであります。

それで、この『智慧の言葉』に「今の中には凡ゆるものが輝やいてゐる。今は常に新らしく
今は常に喜びに滿たされてゐる」と書かれてゐるのであつて、今・此處に、久遠のいのちが常に
今・此處にあれば、そしたらもう喜べるのが當り前なんであります。

此處には一切のものがあるのであります。眞空妙有である。
眞空の無の中に坐しながら凡ゆる妙なるものが、其處に存在するのであります。

眞空にして同時に妙有であつて、其處は澄き透つておつて無色透明である。
無色透明であるから何んにも無いのかと云ふとあらゆる色が備はつてゐるのであります。

無色透明の太陽光線みたいに、その太陽光線の中に一切の七色の光が、
しかもその七色の光が互いに對立しないで、渾然ひとつになつてゐると云ふやうに、
無色透明の生活、と云ふやうなことになれるわけでありまして、
それが『生長の家』の生き方であるのであります。

さう云ふ今のいのちの中に生きておつたならば、
いま、たとい肉體が病氣に現はれておつても、そんなことは、もう問題ではない。

いのちそのものは病氣でも何んでもない。
「今・此處」に「吾れ」はあるのである。

從つてまた、「今・此處」は眞空の中に妙有があつて妙有から渾々といのちが流れ注いで
來るから、もう寿命が來てゐるのは別だけれども、靈界へ轉住する時期が來てゐない限り
に於て渾々と生命が流れ入つて来て現象的にもすみやかに病氣が治つて來るのであります。

今と云ふものは過去、現在、そんな出鱈目な時間の流れでフラフラするやうな、
そんな生活ではないのであります。       

・・・

以下の動画を併せて活用すると、さらに、谷口雅春先生の説かれる真理が、
魂の底に刻まれていくことでしょう。

(1)「久遠の今」前編 谷口雅春先生御講話
   → http://www.youtube.com/watch?v=e2ol5ztA3z8&feature=relmfu

(2)「久遠の今」後編 谷口雅春先生御講話
   → http://www.youtube.com/watch?v=lDSwsxbLfes&feature=relmfu

         <感謝合掌 平成24年10月8日 頓首再拝>

「いま」「ここ」 (3463)
日時:2012年11月11日 (日) 04時40分
名前:伝統


       *阿部敏郎・著「さとりの授業」より 

まず理解すべきことは、『いま』とは時間の一部ではないということです。

『いま』とはなんでしょうか。
それは、この世に時間など存在しないことを見抜いたときに訪れる、『永遠』のことです。

いままでも、そしてこれからも『いま』があるだけで、
時間は流れていませんし、そもそも時間など存在していません。

『ここ』とは、すべてがひとつであることを体感したときに広がる、
本当の自分の唯一のありさまです。

したがって『いまここ』とは、永遠なるもの、ひとつなるもの、
宇宙、神、全体、真我(本当の自分)・・・それらを総称した真理そのもののことです。

         <感謝合掌 平成24年11月11日 頓首再拝>

神の愛を「今」を完全に生きよ (3825)
日時:2012年11月21日 (水) 04時51分
名前:伝統


      *「幸福を招く365章」(P218)より。 

あなたの生命(いのち)の内に神の愛が宿っているのである。
神の愛は唯勝利するほかないのである。

過去に何があろうとも、それは今日の魂の前進の準備となったのである。
過去の失敗に捉われるな。

形の一進一退のうちに魂は必ず前進して行くのである。

今生かせ。
神を信じ、神に祈りつつ今を全力を出して生きるのである。

「今」は實相世界に既にあるところの勝利が
現実世界にあらわれて来るところの門であるのである。

「今」を支配するものは過去の失敗を勝利にかえ、魂の進歩にかえ、
未来永劫にただ悦びの生活を送ることが出来るのである。

次の如く念ぜよ。

「われは今日、善と愛と深切の言葉のみを語るのである。
われはそれ故に愛と深切のみを刈り取るのである。

われは如何なる悪しき言葉も今より後に口にしないのである。

自分は人の行いと其の動機とをさばかない。
自分はあらゆる人々の行いに其の善意をみるのである。

自分は人を軽蔑するような言葉を決して語らない。
自分はすべての人々の美点のみを見、美点のみを語るのである。

自分は言語が神であり、創造者であることを知ったのである。
だから、今後自分は善き事のみ語り、善き事のみが実現するのである。」


繁昌は一日にして来らず、それが単なる偶然の好意であるかに見えても、
必ず過去に蓄積されている善き想念、善き言葉、善き行為、善き感情が
現実化して生ずるのである。

すべての想念、感情、言葉、行為の結果は実現しないではいないのである。

それは原因結果の法則である。
原因結果の法則には、物理化学的な法則と、心の法則とがあるのである。
大抵の人は物理化学的法則のみを知っていて、心の法則を知らないのである。

繁栄せんと欲する者は顧客に対してよき想念、善き感情、深切な注意、
行き届いたサービスの精神を揮い起さなければならないのである。
     
         <感謝合掌 平成24年11月21日 頓首再拝>

時間を空費するなかれ! 「無き時間」を活かせ! (4088)
日時:2012年11月29日 (木) 07時26分
名前:伝統

   *『生命の實相』第三十八巻幸福篇下(11月29日<P151〜153>)より

人間の一生涯の時間を平均35万時間だと計算した人がある。

フランクリンは

「君は自己の生命(せいめい)を愛するか。
然らば、けっして時間を浪費してはならない。
なぜなら時間こそ君の生命(せいめい)が造られている実質であるから」

と言ったということである。

時間の貴重さは、『生命の實相』の生活篇の第一章にも書かれていることであって、
空費されたる時間は再び取り返すことができないのである。

時間を空費する者は時間を殺しつつあるのであり、
時間を殺しつつある者は自分の生命を殺しつつあるのである。

無駄に過ごされる時間に、何が行なわれつつあるかといえば、その間(かん)に
人は健康を失いつつあり、若さを失いつつあり、人格がもっと輝き出るはずのものが
失われつつあり、学識経験からもっと広くなるはずのものが失われつつあり、
摑(つか)めばすばらしい幸運がひらけてくる機会を放棄しつつあるのである。

機会なしと言うことなかれ、心さとき人々にとっては時々刻々が機会であり、
時々刻々の機会に心の練(ね)れていないものは、画期的な大機会が来たときに、
それを迅速に摑むことができないで、あたら、見逃してしまうのである。

これを大音楽家ハイドンの例に見よ、彼は貧しき馭者(ぎょしゃ)の家に生まれ、
ある音楽教師の下(もと)に走り使いをする小僧として雇われたのである。
しかし彼はその間(あいだ)にも時間を無駄にしないで音楽の知識を吸収するにつとめたのである。

彼の外見的な不幸はなおつづいた。彼はウィンナ(=ウィーン)で理髪小僧になったのであるが、
その間(あいだ)にも彼は音楽の勉強と、自己改造と機会を捉えることに時間を空費することは
なかった。

彼はある日店に来た市の有力者の靴が埃によごれているのを見てその靴をただ深切の気持ちで
磨いてあげたのが機会となって、その人と知合いになり、そこに機会が摑まれたのである。

1798年この憐れなる少年の作曲「天地創造」が楽壇に紹介されるや、
永遠に沈まない太陽の光のような華やかな讃嘆の声にとりまかれたのである。

彼はかくて世界的音楽家となり、皇帝、皇后と食事をともにし、王子たちに取り巻かれる貴族の
ごとき生活を送るにいたったのであるが、この貧苦と貧乏のうちで時間を空費することなく作曲
された「天地創造」こそは彼の全生涯八百有余の作曲のうち最も大なるものだと言われているのは
何を語るであろうか。

皇帝と食事をともにする栄誉も世界的大作曲家としての栄誉も
貧しき「無(な)き時間」のうちに自己訓練して得た成果であるということである。

ローマは一日にして成らず、
最大の栄誉は「無(な)き時間」を活かして自己訓練するところから得られるのである。

         <感謝合掌 平成24年11月29日 頓首再拝>

死を意識した「今を生きる」名言の数々 (5017)
日時:2012年12月25日 (火) 04時56分
名前:伝統

    *メルマガ「名言セラピー(2012年12月24日)」より

(1)「人間の寿命というのはね、あなたが使える時間のことなの」 〜 日野原重明(医師)

(2)「誰でもみんな、本当にこの生を楽しまないのは、死を恐れないからだ。
   いや、死を恐れないのではなくて、死の近いことを忘れているのだ」 〜 吉田兼好

(3)「このところずっと、私は生き方を学んでいるつもりだったが、
   最初からずっと、死に方を学んでいたのだ」  〜 レオナルド・ダ・ビンチ

(4)「やれる可能性があるやつが努力しないのを見ると
   胸倉つかんで『俺と変われ』と言いたくなる」
       〜 23歳で白血病で亡くなった悠季くんが生前に残した言葉。

(5)「自分にとって、ほんとうに大事なことってなんだろう。
   自分にとって、ほんとうに大切な人って誰だろう。
   このふたつを、本気で思っているだけで、いい人生が送れるような気がする」
     〜 糸井重里 

(6)「僕が死に方を考えるのは、死ぬためじゃない、生きるためなのだ」
     〜 アンドレ・マルロー(フランスの作家)

(7)「これをやったら次回でられなくなるんじゃないかなんて考えないようにしている。
   人間いつ死ぬかわからないから、その時のすべてを出しきりたいんだ。
   おれはいつ死ぬかわからないし、見ている人もいつ死ぬかわからない、
   視聴者が最後に見た江頭が、手抜きの江頭だったら申し訳ないだろ?」 〜 江頭2:50

(8)「Man lives freely only by his readiness  to die.」
    〜 (英語のことわざ)死ぬ覚悟ができて初めて人は自由になる。                

(9)「自分はやがて死ぬ。
   そのことを知っておくことは、重大な決断を下すときに一番役に立つ。
   なぜならほとんどすべてのこと、他人からの期待や、プライド、恥や失敗に対する不安、
   恐れは死を前にしてはすべて消えうせて、ほんとうに重要なことだけが残るからだ」
    〜 スティーブ・ジョブズ。

(10)「あなたの今の生き方は、どれくらい生きるつもりの生き方なんですか?」
    〜 伊坂幸太郎

(11)「たった一人しかない自分を
   たった一度しかない一生を
   ほんとうに生かさなかったら
   人間 生まれてきたかいがないじゃないか」 〜 山本有三

(12)「人生とは今日1日のことである」 〜 デールカーネギー

(13)「死ぬ気でやれよ、死なないから」 〜 杉村太郎

(14)「今日は私の一生で、地球の歴史の中で
   一日しかない日だからニコニコしていよう」 〜 淀川長治



 死はあなたに突きつけます。
「このまま死んだように生きていていいのか?」と。

 死はあなたに突きつけます。
「おまえの一番大切にしたいことは何か?  なぜそれをやらない?」と。

 死はあなたに突きつけます。
「自分だけがよければいいのか?」と。

死はあなたに生きる「決意」を迫ります。


古い自分を脱ぎ捨てて
新しい自分へ生まれ変わると決意をしたあなたに贈る
クリスマス・プレゼント。

         <感謝合掌 平成24年12月25日 頓首再拝>

「時は生命なり」 (5074)
日時:2012年12月27日 (木) 04時19分
名前:伝統


      *箱田忠昭・著「時間管理術」より

よく「Time is Money」と言うけど、あれは嘘なんです。

失った金はまた稼げばいくらでも戻ってくるけれど、

失った時間は戻ってこないんです。

時間は命なんです。

だから、欧米では「Time is Life」と言うんです。

人生は生まれてから死ぬまでの間という意味だと思うでしょ。

でも、よくよく考えると、
これを読んでるあなたが23歳なら、今までの23年間の人生はもう無いんです。
終わったんです。

消えたんです。
完全に死んだんです。
どんなに嘆いても悲しんでも過去は戻らないんです。

だから、人生は今日から死ぬまでの間なんです。
今日から死ぬまでの60年間、それを人生と言います。

だから、
人生を最高に生きようと思ったら、これから頑張ったらいいんです。

昨日はもう頑張れないから。
「昨日頑張れ!」これはありえないですよね。

「明日頑張れ!」考えられますか?
よくよく考えると人生には明日も無いんですよね。
明日は明日になると今日になっちゃうから。

永遠に無い。

ということは、あなたの人生は今日しかないんですよ。

今日の集まりが人生なんですよ。

人生を最高に生きようと思ったら今日を最高に生きるほかないんです。

今日って何でしょう?

この瞬間の集まりが今日なんです。

私は時間管理の本も書いてますけど、
あれで結局言いたいのは、この瞬間頑張れってことなんです。

時間管理はこの瞬間どう生きるかなんですよ。

どこにも「そのうち」はないんです。
「頑張ります」は無くて、「今頑張ってます」しかないんです。

営業マンだったら目の前のお客様を世界一大事に扱って、誠心誠意、接してあげる。

デートしてるんだったら、
目の前の人を世界一大事にしてるんだったら、そりゃモテますよ。

ところが、ほとんどの人は
「今はだめだからそのうち頑張ります」と言って今頑張らないんだ。

みんな人生を無駄にしてるんです。

今やってること、今会ってる人を人生で1番大事にして全力でやればうまくいきます。

今やらなくて、いつやりますか?

ここでやらなくて、どこでやりますか?

あなたがやらなくて、だれがやりますか?

今、この瞬間を大事にしてください


・・・・・・・

      *『生命の實相第七巻』(生活篇)<P13〜P15から抜粋>

凡そ時間を巧みに生かす者は自己の生命を生かすものである。

何故なら吾々の生命は時間的継続そのものであるからである。

(中略)

米国の豪商ジェ・ピー・モルガン氏は嘗て友人に語って
「自分は自分の生活の一刻を数千万ドルの価値あるものだと思っている」と言ったそうである。
此れを知る彼にして始めて世界一の富豪と成り得たのである。

諸君はこの貴き刻々を無駄に浪費しつ々いないであろうか。

時間の浪費だと言えば、自身に何らかかわりのない「時間」と云うものが勝手に流れている
ように感じる人があるかもしれぬが、浪費した時間は自分の貴重な「生命」を
無駄に切って棄てた血みどろな死骸なのである。

諸君よ、死にたくない者は時間を巧みに生かさなければならぬ。

(中略)

モルガン氏は自分の「時間」の刻々をば数千万ドルの高価に見積もったが、
眞の「時間」の価値は数千万ドルと云うような安価なものでないのである。

「時は金なり」と云う諺があるけれども、時は決して金でないのである。
時は決して金銭のような安っぽいものとは段ちがいで全然比較にならないのである。

(中略)

諸君が仮りに往来を歩いているとき、
手に一杯の金銭を握って、その金貨だけの値いのあるものを何一つ得ないでいながら、
その金銭を溝の中へ矢鱈(やたら)に捨てて歩いている人を見るならば、
諸君はその人を屹度気が狂っているに相違ないと思うであろう。

しかし、大抵の人は金銭以上に貴き価値ある時間を
両手に一杯もって捨てて歩いている人々を見ても気狂いとも思わないのだ。

そして自分自身も、その大気狂いの仲間入りして何とも思わず
この金貨よりも何十倍貴き寳を刻々瞬々捨ててあるいているのである。

彼等の生活が「生長の家」の生活を遠ざかること甚だ遠く
彼等自身が間断なく生長し得る人とならず、能力が中途で止まって了い、
いつまでも碌碌として常人の水準以上にのぼることが出来ないのは当然のことわりなのである。

         <感謝合掌 平成24年12月27日 頓首再拝>

当たり前のことを素晴しくやると道が開ける  (5140)
日時:2012年12月30日 (日) 06時28分
名前:伝統

    *メルマガ「成功への道しるべ (2012年12月26日)」
 
◆12月より企業の求人活動がOKとなり就職活動真っ只中というところです。
 ところが、せっかく苦労して就職したのに、入社して数か月で、
 この仕事は自分には合わないと辞めてしまう人が多く大変問題になっています。

 しかし最初から、自分の都合に合ったような仕事が与えられることはまずありません。
 そんな時参考にしたいのが、○○○にも出てくる、2つの成功の原理原則です。

(1)変えるべきは環境ではなく心構えです。

(2)成功は当たり前のことを素晴しくやることによって達成される。


◆クロフネカンパニーの中村文昭氏が講演で、バーという言葉も知らないのに、
 そのバーを六本木に4ヶ月でオープンさせるよう師匠から厳命された時の体験を
 話されていました。

 バーのことを、イロハから学ぶために、ホテルオークラの料理場でアルバイトを
 始めることになります。


◆行ってみると、なんと一日中洗い場での仕事で、料理場の人と話を交わすことも
 ありません。こんなことをやっていたら、お酒や料理の作り方、接客のことなどを
 学べるのは、いつになるか分かりません。

 しばらくして段取りをつけてくれた師匠に、ホテルを抜け出し、他所に移りたいと
 相談に行くのです。


◆師匠は、“何処へ行ったって同じだ。目の前の与えられた仕事を、全力でやっているのか!”と
 言われ、目覚まし時計を与えられます。

 明日から、その秒針と競争しながら、稲妻のようになって今の仕事をやれと言われます。

 変える必要があるのは環境ではなく、お前の心構えだということです。


◆中村氏は翌日から、云われた通り、時計の秒針を見ながら、稲妻のような勢いで、
 洗い場の仕事を始めます。

 すると、それまでアルバイト等全く無視でしたが、1日目に料理場の人間が、
 初めて声をかけてくれました。

 1週間も続けていたら、ある上司は部下に向かって“あの中村を見ろ!
 アルバイトでも、あそこまで一生懸命にやっているのに、お前はなんだ!”
 と説教のネタに使われているのです。


◆そんな時、ある食材がないことが分かり、
 総料理長が“誰でもいいから買ってこい!”と叫んだのです。

 よし! 自分がと、中村氏は全力疾走で買いに行き、息をゼイゼイ云わせながら
 渡したのです。あまりの速さに、みな驚かされます。

 一段落した時、総料理長から “お前は何故、そんなに熱心にやるんだ”と尋ねられ、
 “かくかく云々、あと3ヶ月で、何としてでも道を切り開けないといけないので、
 必死なのです。”と答えました。


◆翌朝、雲の上のような存在の総料理長が、料理場の人間を集めて、
 部下に頭を下げて頼んでいるのです。

 “俺は、この中村の話を聞いて感動し、なんとか男にしてやりたいと思ったんだ。
 みんな協力してやってくれないか”と

 彼の仕事ぶりを知っている料理場の人達は、総力挙げて協力することになりました。
 その結果、バーのことを何も知らない19歳の中村氏が、厳命された、たった4か月で、
 花の六本木にバーをオープンさせたのです。


◆きっかけは、洗い場での仕事です。ほとんどの人は、こんな仕事と適当にやりますが、
 そんな仕事こそ全力で、稲妻のようにやれば、総料理長の魂も動かしたように、
 周りの人にインパクトを与えることが出来ます。

 そう考えると、当たり前の仕事、最低と思われているような仕事にこそ、
 成功へのチャンスが、あるとも言えるのです。

         <感謝合掌 平成24年12月30日 頓首再拝>

「今」は常に新しく、「今」は常に喜びに満ちている。 (5201)
日時:2013年01月02日 (水) 06時32分
名前:伝統


   *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月2日<P5>)より

すんだことの中に生活せず、「今」のなかに生活せよ。
「今」は常に生きている。「今」の中にはあらゆるものが輝いている。
「今」は常に新しく、「今」は常に喜びに満ちている。

過去にどんな悲しいことがあったにしても、それについては思い煩うな。
「今」天地一新したのである。
もう別の天地に生きているのである。

過去に寒風に吹き暴(さら)されたことを嘆かないで、
「今」梅の花は喜びに満たされて咲いている。
梅の花よりも尊く強く逞しきが人間である。

喜ぶべきことしかないのが人生である。

         <感謝合掌 平成25年1月2日 頓首再拝>

【人生は今日が始まりの気持で】 (5372)
日時:2013年01月08日 (火) 07時12分
名前:伝統


     *メルマガ「人の心に灯をともす(2012年11月14日)」より

   S・スマイルズの心に響く言葉より…


   「学問をはじめるのに遅すぎることはない」ということわざがあるが、
   これを裏づけるのにふさわしい人物の名前は、たくさんあげることができる。

   ヘンリー・スペルマン卿は博学な学者であったが、
   科学を学びはじめたのは50歳代のことであった。

   フランクリンが物理の研究に専念しはじめたのも50歳を過ぎてからであった。

   ドライデンとスコットが詩人として認められるようになったのは40歳代で、
   イタリアの文学者ボッカチオが、文学者として出発したのは35歳だった。


   このように、世間でいう“人生の盛り”を越えた年齢になってから未踏の分野に
   敢然と踏み出し、その道で大成した人々の例は枚挙にいとまがない。

   「私はもう歳だから、学ぶなんてとてもとても…」などというのは、
   意思の弱い怠け者の、哀れな繰り言でしかない。


   長い人生は、先を争ってカッコよく駆け抜ける必要はない。
   急ぐ必要はない。

   日々こつこつと、天から与えられた仕事に励み、自己修養を限りなく積みつつ、
   降りかかる困難を克服して前進する強い意志をもち続けていれば、
   自分が打ちたてた目標に必ず到達する。

   しかも、世の中のために役立ったという充実感を、心ゆくまで味わうことができるのである。

          <【スマイルズの信念が自分をつくる】三笠書房>

    ・・・・・

「人生は今日が始まり 昨日まではリハーサル 今日から本番」(田中真澄)

学問も、仕事も、はじめるのに遅すぎることはない。
なぜなら、気づいたときが、スタートのときだから。

そして、常に、人生は、「今とここ」だけだ。

ほんとうは、昨日もなければ、明日もない。

人生は今日が始まり、の気持で毎日を過ごしたい。



・・・・以下は、仕事をする際、「今を生かす」に関連し、
    「生命の實相」第37巻幸福篇上(P7〜11)からの抜粋です。

(1)1月5日の言葉

  @一日だけで、やりかけた善事を止めてしまうような者は、何事も成功から墜落する。
   小さな善事を継続することによって、その人の魂は進歩し、環境は天国化するのである。

  A時間がないという者は、時間を造らない人のことである。
   時間は、他の多くの道具などと同じく、人間によって製造せられるものである。

(2)1月6日の言葉

  @たえず活(はたら)いているということが喜びの源泉である。

   常に人のためになる仕事、常に世のためになる仕事、たゆみなくかかる仕事に従事して
   いる人には魂の喜びが伴う。

  A急がず、たゆまずに進むのが仕事の秘訣である。

(3)1月7日の言葉

  @常に仕事をすると言っても、緩急がなければならぬ。
   しかし、懶(なま)けよと言うのではない。
   弓を射るときと同じに、仕事をするときにも一心でなければならぬ。

  A定められた休息の時間が来るか、家に帰って家族とうち寛ぐ時には本当に
   打ち寛がねばならぬ。

(4)1月8日の言葉

   団欒と仕事との調和を考えること、あたかも美術家が曲線と直線との調和を
   考えるがごとくでなければならぬ。

         <感謝合掌 平成25年1月8日 頓首再拝>

過去なし、今立ち上がれ! (6429)
日時:2013年02月12日 (火) 04時50分
名前:伝統

【人生は何度でも勝負できる!】

      *メルマガ「人の心に灯をともす(2013年01月08日)」

中野明氏の心に響く言葉より…


農場の手伝いからペンキ塗り。

ペンキ塗りから再び農場の手伝い、さらに路面電車の車掌。

路面電車の車掌から軍隊入隊、除隊後に鍛冶屋見習いに。

鍛冶屋見習いから機関車の灰さらい、さらには機関士へ。

機関士からなぜか弁護士実習生に転身。

弁護士実習生から保線作業員、さらにプレデンシャル保険のセールスマン。

保険セールスマンからフェリー運行会社を設立。さらに商工会議所の秘書。

秘書を辞め、フェリー会社からも手を引きアセチレン・ライト製造販売会社を設立。

アセチレン・ライト製造販売会社が倒産し破産。

ミシュラン・タイヤのセールスマンに。

大けがのあとスタンダード石油のサービス・ステーション(ガソリンスタンド)を経営。

世界恐慌の影響でサービス・ステーションが破綻。

シェル石油のサービスステーションを経営。

サービス・ステーションにレストランを設置。この頃助産士の仕事もする。

サービス・ステーションにモーテルを併設し事業は大成功。

と思いきや、レストランとモーテルが全焼。それでも必死の覚悟で再建する。

第二次世界戦中はテネシー州にある軍のカフェテリアで運営責任者に。

巨額な税金の支払いで実質破産する。

モーテル事業が再び軌道に乗ると州議会議員に出馬。しかし落選。

事業不振でレストランとモーテルを売却。65歳で無一文になる。



ご覧のようにこの人物は目まぐるしく職業を変えている。

しかも浮き沈みが激しく、成功したと思ったら失敗し、再びそこから立ち上がる。

これを繰り返すという人生だった。

ではこの人物とは誰のことか。

実はこの経歴の持ち主こそがカーネル・サンダースにほかならない。


白髪に白い口ヒゲとやぎヒゲ、白いスーツに蝶ネクタイでステッキを片手に
にこやかに両手を広げる…。

とはいえ、この経歴にはケンタッキー・フライドチキンのフランチャイズ・ビジネスが
どこにも書かれていない。

なるほど。それもそのはずだ。


カーネルがフライドチキン・ビジネスへと本格的に邁進するのは、
65歳で無一文になってからのことだからだ。

それから90歳でこの世を去るまで、
カーネルはケンタッキー・フライドチキンの顔として活躍する。


この90年の人生の中でカーネルには死に至るかもしれない危機が少なくとも4度あった。

銃の撃ち合いや、車の事故だ。

これらに加えて度重なる破産である。

やがてカーネルは、これらの人生の危機をくぐり抜けて生きてこられた理由を
次のように考えるようになる。

「神様は何か特別なことをワシにさせるために命を救ったのではないか」というように。

『カーネル・サンダースの教え 人生は何度でも勝負できる!』朝日新聞出版

   ・・・・・・

カーネル・サンダースは世界で初めてフランチャイズ・ビジネスを生み出した人。

いつも、にこやかで温厚なイメージのサンダースおじさん。

しかし、若い頃はすぐに頭に血が上り、ケンカっ早くて、下品な言葉を人に浴びせていたという。


「できることはすべてやれ。やるなら最善を尽くせ」が、カーネルのモットーだった。

モーテル(郊外のホテル)を始めたときも、相場より高い室料だったが、
徹底したサービスを提供したという。

客室には防音壁を用い、全室をエアコン装備。

ベッドは上質のマットレスで、寝心地は極上。

お客がチェックインして部屋に入ると、
5〜10分後にウエイトレスが現れてコーヒーを届けてくれる。

ウエルカム・サービスだ。

さらにウエルカム・フルーツも全てのお客に提供された。

雨が降っていたら駐車場まで従業員が出迎えてお客に傘を差し出す。

それでいてチップは一切受け取らない。


これらの厚いおもてないしに加えて自慢の料理の提供だ。

焼き置きではない、熱々の焼きたてのビスケットが自慢だった。

何と4年半も一切空き室が出ない状況が続いたという。

(以上、同書より)


カーネルがモーテルを作ったのは1937年、今から80年近く前のこと。

その当時に、この徹底したサービスは奇跡のようなことだった。


昔も今も、人と違ったアイデアがあれば商売は繁盛する。

そして、アイデアがある人は、何の商売でも成功する。


できることを、ベストを尽くしてすべてやれば、「人生は何度でも勝負できる」

何度倒れても、立ち上がる不屈の人でありたい。

         <感謝合掌 平成25年2月12日 頓首再拝>

”ぐずぐず”するな、今、行動せよ! (6574)
日時:2013年02月19日 (火) 04時53分
名前:伝統


  *「生命の實相」第37巻幸福篇上(P56〜P57)<2月19日>より

時間を大切にするということは、《いのち》を大切にするということである。

現象界の《いのち》は時間の流れに展開する。
時間の流れにしたがって《いのち》も過ぎ行く。
時間を大切にしないものは酔生夢死する。

しかしわたしたちは時間を本当に大切にしているだろうか。

時間は眼に見えないものであるから、
そして使わずに置いても消えてゆくものであるから、
ともすれば浪費しがちである。

「使わないことが浪費であって、使えば使うほど増える」という
生長の家の経済学は時間に関してはいっそう真実である。

時間は箱詰にしておいても、瓶詰にしておいても、それは蒸発して消えてしまう。
時間を大切にしようと思って時間時間と考えてもイライラして心が忙しいだけである。

時間を大切にする最も有効なる秘訣は何事もすぐ実行に取りかかるということである。
《せねばならぬ》ことを次に延ばさぬことである。

《せねばならぬ》ことを次へ延ばすことは、行ないの負担を避けるために、
その避けている間中、それは心の負担となっている。
行ないは苦しみでなく、心の負担は苦しみである。

ぐずぐずの習慣ほど愚かしきものはない。

今を行かす生活、その時その場をすぐ生かす生活、具象的今を生かすことが
超時の生命(せいめい)を今生きることになるのである。

「超時の今」を生きる者は常に生きるものである。
ぐずぐずの生活を生きる者は常に死につつあるものである。

         <感謝合掌 平成25年2月19日 頓首再拝>

今のほかに時はない! (6838)
日時:2013年03月02日 (土) 03時48分
名前:伝統


    *『生命の實相』第七巻・生活篇(P56)より

「生長の家」の兄弟よ。今があなたの時なのだ。
今! 実に今だ! 今のほかに時はない! 兄弟よ。

今あなたに与えられているすべてのことを今断々乎として敢行(かんこう)せよ。
今あなたに可能であると見えることをなんのためらいもなしに今実行せよ。
これが「生長の家」の生き方だ。そして生命の生長の法則にかなう道だ。


今できることは今できるのであって、ほかの時にできるかどうかはわからない。
今が懸命だ。

今の可能にぶっつかれ、「今」をあなたの思うままに占領せよ。
そこから未来の展望(ながめ)がひらけてくるのだ。

躊躇(ちゅうちょ)したり、グズグズしていてなんになろう。
躊躇逡巡(ちゅうちょしゅんじゅん)は時間を失うばかりだ。
時間を失うことは生命を失うことだ。

今よりもいっそう便宜(べんぎ)なときが来るかもしれぬと思うな。
今が、今与えられている可能に対しては一等便宜な時なのだ。

「機会」という神様は前額(ぜんがく)にだけ髪の毛があって、
後頭部には髪の毛がないと言われている。
「機会」の神様と正面衝突して、その神様の前額の髪をひっつかめ。
これが生長の秘訣であるのだ。

         <感謝合掌 平成25年3月2日 頓首再拝>

今が最善の機会 (6909)
日時:2013年03月05日 (火) 04時55分
名前:伝統


    *『生命の實相』第七巻・生活篇(P57)より

もっと便宜な機会が来るかもしれぬから、その時にしようなどと思うな。
実際またいっそう便宜な機会が来るかもしれぬ。

しかしいっそう便宜な機会ばかりを待ちのぞんでいる者は、
最善の機会をさえもっと待っていたら最々善の機会が来るだろうと思って、のがしてしまう。
そんな人には永久に最善の機会は来ないのだ。

だから「今」を全力を出して戦いとれ。「今」を十分自分のものとせよ。

われらが今できる仕事に全力をあげてぶっつかって進む時、恐れることはない。
目先にかえって失敗があらわれてこようとも、それがなんだ。

失敗だと言うことを止めよ。失敗とはなんぞや?
われらの望むところは、われらに宿っている「生命の生長」することではないか。
「生命」ができるだけ豊富な経験を積んで生長することが本当の成功である。

境遇が便利で安穏でノラクラ居眠りできるような状態になることは、
われらの欲するところではないのだ。

「生命」であるところのわれらにとっては創造が悦びだ。
生長が喜びだ。
固い運命の岩石に「自己」を彫刻して行くことが喜びだ。

これが「生長の家」で言う本当の生長だ。

         <感謝合掌 平成25年3月5日 頓首再拝>

全生命を今に集中せよ! (7111)
日時:2013年03月14日 (木) 04時52分
名前:伝統

       *『生命の實相』第七巻・生活篇(P57〜58)より

この生長主義をあてはめて考えるとき、われらにとっては成功は
もはや未来に遠く約束されている希望ではないのである。
境遇のいかんにかかわらず、環境のいかんにかかわらず、刻々瞬々が生長であり、成功である。

今、何人も生長しうるように決定されているのである。
今、何人も成功しうるように決定されているのである。
なんたる幸福ぞ!

されば「生長の家」では諸君の今もてる全生命を躊躇なく、
「今」に集中して活動せよと宣言するのである。

わたしはいま「全生命を今に集中せよ」と言った。これがまた重要なことである。
キリストは「明日のことを思いわずらうなかれ」と言ったし、
そのほかの多くの宗教の教祖たちも、取り越し苦労をいましめている。

そして近代の心理学は、ついにこの宗教の教祖たちの教えが実に真理にふれていることを
裏書きしたのである。

精神を一事物に集中すればするほど、その事物に対する判断は明らかになる
―― これは心理学の発見した法則である。
だから、精神が未来の不安定の憂慮(ゆうりょ)や恐怖から離れて、
今に集中したとき驚くべき精神力が発揮される。

かくのごとく集中せる精神は、レンズを通じて焦点に集中した光のごとく輝きわたる。
こうして今の瞬間に集中した心の判断は、決して当面の事物を善き方向に押し進めずには
いないであろう。

これを別の立場よりみるとき、
われわれにとって「生きる」とは「今」よりほかに別の時がないということである。

         <感謝合掌 平成25年3月14日 頓首再拝>

「今」ある「チャンス」をつかめ! (7189)
日時:2013年03月19日 (火) 03時35分
名前:伝統

         *メルマガ「癒しのことば(2013年03月14日)」より

   ---------------------------------------------------

  「『いつお前は夢を実現させるつもりか』 と師が訪ねたところ、
   弟子は 『機会があればいつでも』 と答えた。

   師はそれを制していわく、『機会とは、常にそこにあるものだ』 」

          -- アントニー・デ・メロ(アメリカの牧師)--

   -----------------------------------------------------

その人の口ぐせは、「チャンスが来たら」でした。

彼は、今の仕事が嫌いだったし、住んでいる家も気に入りませんでした。
本当にやりたい仕事は他にありました。

いつも今の仕事を辞め、やりたいことをはじめたいと考えていたのです。

彼はまた、住みたい土地や家のことは、毎日、頭のなかに思い浮かべて楽しんでいました。

チャンスがあったら、今、すぐにでも仕事を辞めよう。
チャンスが来たら、新しい家を手に入れて、心地よく暮らそう。

「チャンスが来たら……」

彼は、気に入らない家に住み、嫌な仕事をしながら、毎日、そう言い続けていました。
そして、何十年もの月日が流れていきました。

結局、彼は、定年になるまで同じ仕事を続けました。
もちろん、同じ家に住んだままです。

その後も彼は、「チャンスが来たら」と言い続けていました。
まだ、いつかは自分にも人生を変えるようなチャンスが訪れると信じていたのです。

けれども、結局、70歳で亡くなるまで、
彼のところにチャンスがやって来ることはありませんでした。

……天国にたどり着くと、彼は、あちこち探し回って、『チャンスの神様』をみつけだしました。

彼は、神様に尋ねます。
「ずっとずっと待っていたのに、どうして私のところには、
チャンスを持ってきてくれなかったんです。
他の人のところには、何回も何十回もチャンスを与えているのに」

チャンスの神様は、こう答えました。
「そんなはずはない。私は、誰にでも平等にチャンスを与えている」

彼は、顔を真っ赤にして神様に食ってかかりました。
「バカな! 私は、ただの一度もチャンスに出会ったことはないぞ!」

神様は、困ったような顔をして答えます。
「それはお前が、ちゃんとチャンスに気づこうとしなかったからだ。
私はお前に、3600万回以上、つまり、他の人と同じように、生きている時間の1秒に1回、
チャンスを与えたのだ」

そうです。

彼は、「チャンスが来たら、チャンスが来たら」と考えることに忙しくて、
結局、目の前にあるチャンスに気づかなかったのでした。

「明日」という日は、永遠にやって来くることはありません。

「今日の夜に寝て、目が覚めたら明日じゃないか!」
と思われるかも知れませんが、目が覚めると、もうその日は「今日」になっているのです。

「明日」は、またしても、もっと先に逃げていってしまっています。
「明日」は、いつまで待っていてもやって来ません。

私たちが生きることができるのは、いつでも「今日」だけなのです。

だから、「いつかチャンスが来たら」と思っていても、永遠にチャンスが来ることはありません。

チャンスがあるのは、いつも「今」なのです。
人生に変化を起こし、前に進んでいくことができるのは、今、この瞬間しかありません。

夢を叶えるために
望むものを手に入れるために

今やらないとしたら、いったいいつやるのですか。
ほら、あなたの前には、たくさんのチャンスが出番を待っているですよ。

         <感謝合掌 平成25年3月19日 頓首再拝>

「今」のカの偉大なることよ! (7301)
日時:2013年03月25日 (月) 03時44分
名前:伝統

       *『生命の實相』第七巻・生活篇(P58〜60)より

われわれは過去を動かすことはできない。
われわれは「今」という媒介(なかだち)を通さずには未来を動かすことはできない。

だから、われわれがもし過去のことを歎(なげ)いたり、
未来のことを思いわずらったりするならば、それだけ自分の「今」に集中すべき生命が
浪費されるほかに効能はない。

「今」が浪費されるとき、われわれの「生命」の生長はそれだけ遅れる。
それは「生命の実相」の生長主義にかなわない。

われわれが「今」を十分に生き、完全に生きえたという自覚ほど
自己にとって喜ばしい感じはほかにはないであろう。
それは「生長の歓喜」であり、「生命の讃歌」である。

かかる歓びのうちにこそ「生命」は生長しゆく。
しかしかくのごとき歓びは、今与えられている生命を、能力を、今の瞬間に集中して
利用した者のみの味わいうる歓びであって、今をナマケている者の到底味わいえない歓び
であるのだ。

未来の計画をたてることは、現在せねばならぬ努力の方向を決定するためにのみ必要であって、
それ以外にはなんの要(よう)もない。どの方向に努カしようと決定した以上は、
取り越し苦労は不要である。

一心不乱、自分の生命をその仕事に与えきる。
完全に自分の生命を与えきったとき自分の生命はその仕事と一つになる。

鞍上(あんじょう)人なく鞍下(あんか)馬なしとはかくのごとき境地を言うのであって、
この境地に達したとき仕事も至微至妙(しみしみょう)の域に達するし、
みずから自身の生命も最も長足(ちょうそく)に生長をとげうるのだ。

この鞍上人なく鞍下馬なしの妙境に達する事は精神を完全に「今」の瞬間に集中する人にして、
初めて可能なのである。「今」のカの偉大なることよ!

         <感謝合掌 平成25年3月25日 頓首再拝>

最後の瞬間までベストを尽くす (7591)
日時:2013年04月11日 (木) 04時40分
名前:伝統


     *メルマガ「人の心に灯をともす(2013年03月17日)」より

   リチャード・カールソン氏の心に響く言葉より…


   引退しようとしているある高齢の大工の話を紹介しよう。
   この話が私は好きだ。
   とても大切なことを語っているからだ。

   その大工は、もうそろそろ家を建てる仕事をやめて、妻と一緒にのんびり暮らそうと思った。

   雇い主は、個人的な願いとして「もう一軒だけ建ててくれないか」と頼んだ。

   大工は承知したが、真剣に仕事をする気はなかった。
   粗悪な材料を使い、手を抜いた。
   キャリアを積んだ優秀な職人の幕引きにしては、残念な仕事だった。

   家は完成した。

   点検にやって来た雇い主は、玄関のカギを大工に渡していった。
   
   「この家はあなたの家です。 私からのプレゼントです」

   大工は、大ショックを受けた。
   ひどく恥ずかしかった。

   自分の家を建てているとわかっていたら…たぶんもっと頑張っただろう。

   私たちもこの大工と同じだ。

   毎日毎日、人生という家を建てている。
   だが、建てていることに全力を尽くしていないことが多い。

   そしてずっと後になって、自分がつくりあげた人生(建てた家)に
   一生住みつづけなくてはならないことを知ってショックを受ける。

   もう一度、やり直すことができたら、まったくちがうことをするだろう。
   だが、その時はもう、後戻りはできないのだ。

   あなたに後悔してほしくない。

   あなたも私も、大工のことを笑えない。

   私たちは人生という一生住みつづける家をつくっているが、
   果たして最善を尽くしているか…

   「ベストを尽くせ」という言葉は耳にタコができるほど聞かされた言葉かもしれない。
   それから「あと、ひと頑張りだ」という言葉も。

   でも、もう一度いおう。

   いま、取り組んでいることに全力を尽くすと、
   思いがけないところから幸運がもたらされることが多い。

   もうダメだとか、おしまいだとか思っても、もうひと頑張りすることが何より大切である。

   それをどうか忘れないでほしい。

   あと、ひと頑張りだ!
   もう一歩だ!

      <『読むだけで 運がよくなる77の方法』(浅見帆帆子訳)王様文庫 >

   ・・・・・

徒然草の中に、「高名(こうみょう)の木登り」という有名な話がある。

有名な木登りの名人が、配下の男を指図して木を切らせていたが、
高いところに登っているときは何も言わなかったが、
安全そうな高さにまで降りてきたときに、「用心して降りよ」と声を掛けたという。

人は誰も、高いところにいるうちは、自分でも危険を感じて用心するが、
飛び降りても大丈夫なような距離まで降りてくると、つい気を抜いてしまい、そこで怪我をする。

つめが甘い人間は、最後の最後に大失態をしやすい。
ふっと気が緩(ゆる)んでしまうからだ。

また、「天に唾(つば)する」という言葉があるが、
人に悪口雑言を浴びせれば、それはやがて自分に返ってくる。

人を罵(ののし)っているつもりが、実は自分を罵っている。

誰も見ていないからと、最後に手を抜く人は、天がそれを見ていることを知らない。

最後の瞬間までベストを尽くす人でありたい。

         <感謝合掌 平成25年4月11日 頓首再拝>

「今」にすべてがある (8600)
日時:2013年05月22日 (水) 04時46分
名前:伝統

   *中山靖雄・著「すべては今のためにあったこと」(P119〜122)より

誰しも自分の人生の意味について考えることがおありでしょう。
そして、自分の「使命」を生きたいけれど、自分の使命とはいったいなんだろうと、
頭で考えて探そうとします。

しかし、使命とは「わかるもの」ではなく、自然に「回ってくるもの」なのです。
あなたに与えられた使命は、そういう縁に自然と出会わせてもらってはじめてわかるものです。
しかし、そんな縁に会おうと思って出会えるわけではありません。

だからこそ、今、そのような「回ってくる」ご縁に出会うためには、
天から与えられている役割を喜んでさせてもらうことが大事なのです。
「ああ、嬉しいなぁ。嬉しい出会いだなぁ」と喜ぶことが自分の使命への活力になるのです。

そうしているうちに、出会った役割こそ使命だとわかり始めてきます。
そして、「ああ、そうか、ありがたいな」と思えてきます。
「ありがとう」が湧くたびに、それが使命を生きる力になっていきます。

そして、「こういう私を使ってくださって、ありがとうございます」という思いがさらに
湧き出てきます。その感謝がさらに役割の活力になっていきます。

「こういう場面を私に与えてくださってありがたいなぁ」
「こういう場面で私を活かしてくださってありがたいなぁ」
と思えば思うほど、自分の使命を「みたま」どおりに果たすことができるのです。

このように「使命」を知るためには、足元を見ることしかないんです。
足元とは、生きること、働くこと。

そしてやっぱり、「今」、「今」、「今」なのです。

足元に起こること、ふと思わされること、出会わされることを大切にし、
「これが縁なんだな」と、味わって消化していけば「使命」がやってきます。
だから今やっていることを一生懸命やっていれば、新しい「使命」に出会っていくのです。

「過去が咲いている今、未来の蕾で一杯な今」という河井寛次郎さんの歌があります。
「今」には、過去に起こったことのすべてがあります。
「今」に未来の可能性のすべてがあります。

         <感謝合掌 平成25年5月22日 頓首再拝>

日常にまことを尽くし、喜びながら生きる (10625)
日時:2013年08月16日 (金) 04時51分
名前:伝統

      *中山靖雄・著「すべては今のためにあったこと」(P198〜201)より

何が大事かというと、やはり日常のことがとても大事だと思うのです。
何か特別なことをやる時には、みな努力します。
しかし、普通の何でもない時に努力できることがもっと大切です。

それを伝えてくださっているのが伊勢の神宮だと思います。

伊勢では、神主さんが朝早く起きられて、山に登って水を汲み、そして木で火をおこします。
そして、その火でご飯を炊いて、朝夕、神々様に食べていただくためにお供えをしています。
これを、外宮ご鎮座千五百年、毎日やっておられるわけです。

昔と同じ方法で毎日神々様に、「まず最初にできたてのお食事を」と
今もやっておられるのがすごいことだと思うのです。

そういうふうにずっと続いた日常を大事にしながら、
喜びながら生きようとし続けていたのが日本です。

誰が見ていようがいまいが、天照大御神様はじめ神々様がそこにおわしますがごとく、
目に見えない世界を日常生活の中で大切にして生きてきたのです。

本当にそのように生きていると、昔から日本にあった「お天道様が見ている」とか、
「誰が知らなくても天が知っています」という人間の行動規範の大事な部分を、
天の世界が担ってくれているのだとわかてきます。

しかし、そのようなことを日常で感じることもなく、私たちは綺麗ごとを話してしまうものです。
しかし、天の世界は、たとえ綺麗ごとであっても話してから天の道を通るか、またはその道を
通ってから話すしかない気がするのです。

いろいろなことを体験した人は、体験したことを話すようになっているし、
綺麗ごとを言った人は、綺麗ごとを言ったにふさわしいところを通らされるのではないかなと、
そんなことを強く思います。

歌人西行は伊勢の神宮について、

「なにごとの おはしますかは知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」

と詠みました。

天照大御神様がおられる時と同じ日常を続けることで、
天照大御神様の思いが時代を超えて伝承されているのです。
ですから、参拝する人は言葉にできなくても感動したり懐かしがったりするのですね。

昔、お茶室でこのような歌を詠んだことがあります。

「神籬(ひもろぎ)を 立てて迎えし 神々と 癒やして和(や)わす 日本の道」

神籬とは榊(さかき)のことです。
私たち日常の中で、お茶花を飾り、ご先祖様や神々様を迎えて、お茶をたてる人とお客様とで
癒やされて和(や)む、そんな時間を大切にしていたのが日本の道ですよ、という思いで詠み
ました。

何気ない日常に天を感じ、まことを尽すところに感動があるのです。

         <感謝合掌 平成25年8月16日 頓首再拝>

「今」、与えきる (10714)
日時:2013年08月20日 (火) 04時52分
名前:伝統

       *『生命の實相』第七巻・生活篇(P60〜61)より

諸君よ、人間の創作したこの世のいっさいの高貴なるもの、価値あるもの、美しきものの
ほとんどすべては、この「今」の把握を中心にして生まれたのである。

「今」を完全に引っ把(つか)め。
「今」を完全に生ききれ。
「今」を完全に押し進めよ。
「今」という武器をもって大いなる未来を戦いとれ。

諸君が、「今」を十分に生ききろうとするには、目的に対して全生命を与えきらねばならぬ。
それは何に対しても同様である。

仕事をする時には仕事に全生命を与えきらねばならぬ。
愛するときには愛するものに全生命を与えきらねばならぬ。
それは一心不乱だ。右顧左眄(うこさべん)してはならぬ。

精神統一である。

あらゆる方向に小出しにされ、散漫(ちらばら)になっていた生命を
一ヵ所にあつめて相手のものと一つになってしまえ。

そのために諸君は、必要あらば「背水の陣」をもわれから進んで布くべきだ。


諸君が何をしようとするにも、自已の生命を相手に与え切るということはまったく必要だ。
よく生きようと思うものは全生命を与えきらねばならぬ。
よき仕事をしようと思うものは全生命を与えきらねばならぬ。

戦いに勝とうと思う者は全生命を与えきらねばならぬ。
愛しようと思うものは全生命を与えきらねばならぬ。
成功しようと思うものは全生命を与えきらねばならぬ。

生命を与えるときには、ケチケチと小出しにしようと思うな。
これ以上はたらいては明日はくたびれ過ぎて困るだろうなどと思うな。
生命は汲めば汲むほど滾々(こんこん)と清水のように湧いてくるものだ。

それは宇宙的な大生命に水脈が通っているのだ。
われわれの生命は、われわれの精力は、使うだけ減ってしまうような
固定した分量のものではない。

精カを使って精力が消耗するような結果が生ずるのは、
精力は費やせば費やすだけ減るものだという先入観念にとらわれている結果か、
全生命を与えきったような一心不乱の純粋統一状態になりきらない結果であるのだ。

純粋統一状態になって仕事をせよ。
そこから無限の力が湧いてくる。

しかし、この仕事をするときに精神を純粋統一状態におくには、
目的物にしいて一心不乱になるだけでは足りないのである。

あらゆる種類の心のアセリから自分の心を解きはなって、
自由に伸び伸びと「生命」を仕事の上に遊ばせなければならぬ。
それは実に仕事の三昧(まい)であり仕事の遊戯化である。

天人が雲の上を遊行(ゆぎょう)するように「生命」は仕事の上を遊行する
 ー ここにこそ「生命」の最も豊かな生長があるのである。

諸君がこのいっさいのアセリを絶した伸び伸びとした「生命」の遊行状態の境地に達するには、
自己と神との本当の関係を自覚し、至慈至愛(しじしあい)の大生命の摂理を
信頼しなければならぬ。

そこで諸君に神と人間との関係を自覚さすべく出現したのがこの「生長の家」である。

         <感謝合掌 平成25年8月20日 頓首再拝>



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