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『天皇信仰と日本國體』  第四章 日本の心と日本的思惟 (2200)
日時:2012年10月04日 (木) 23時04分
名前:童子

                 一. 生長の家と日本精神



 日本と云い、日本精神と云いますものは非常に広々とした意味を持っております。日本と云うものを狭く考える人は、日本というものを外国と対立させて、外国に対する日本というような狭い日本を考える人もありますけれども、日本精神というのはそういう狭いものではないのであります。



 総てのものを一つにまとめる精神、これが日本精神であります。総てのものを一つにまとめる ―― 詰り、大和国(やまとのくに)と自ら国の名前を号しているところのその日本の国なのであります。

 ヤマトは彌的(やまと)であって、所謂彌纏(いやまと)める国であります。
 
 『ヤ』は、八百万の『八』であります。『彌』であります。『彌々(いよいよ)』多しという字であります。

 『マト』は色々の解釈がありますが、弓射る『的(まと)』、弾丸を射る『的』、どちらも中心に一つにまとまる意味であります。中心を貫くものが『的』であります。

 『中心を貫く』ことから纏めるのマトという字は来ているのでありますが『マト』というのは弓射る『的』も円いのでありますが、マトの『マ』の字はまん円いの『マ』であって、円満完全なすべてを一つに円く包んでいることで『マコト』『マゴコロ』等の『マ』であります。

 『ト』というのは、止まる意味であります。中心に止まっている。雨が『しとしと』と降るという『と』も雨が物に当ってトドマル響きであります。

 『しとしと』の『し』というのは、赤ん坊に小便をさせる時『シー』というと『お‘しっ’こ』が出る ―― あの『お‘しっ’こ』の『し』であります。『シー』と云うのは水の出るヒビキであります。ですから、『しとしと』という語は水が落ちてきて、とと衝き当った時のことを形容して、『しとしと』雨が降るというように云うのであります。そういう風に‘と’というのは止まる意味であります。

 大和(やまと)というのは、『弥々(いよいよ)多くのものを円くまとめて一つに止める』という意味であります。

 そういう説明を申さなくとも、あの日章旗を見ていらっしゃいますと、あのまん円く角立たず、すべてのものを包んでいる日章旗の精神というものが日本精神であります。



 ところがこの、日章旗の円は『零(ゼロ)』であります。円満完全で同時に零なのであります。

 『零』というものは実に素晴らしいものであります。数で云うと、数を超えた数が零であります。あっても無いようで、しかも素晴らしい働をする。

 一の下に○を三つ附けると一遍に『千』になり、四つ附けると『万』になったり致します。零は何もなくして無限を内に有っている。零と云うものは『有る』と『無い』とを超えた不思議な数であります。

                        〜 つづく

『天皇信仰と日本國體』  第四章 日本の心と日本的思惟 (2) (2263)
日時:2012年10月06日 (土) 16時28分
名前:童子

           二. 生長の家と日本精神 〈つづき〉




 『零』は何もないのですけれども、何もないのであって、何でもあるところの総てがある零なのです。一を零のつけ方で千万にでも一億にでも出来るのです。一切数を自分のうちに包んでいるのが零であります。

 胸が広々として、わだかまりがない時に『私の胸はカラッポ』だと云いますが、そういう胸のカラッポは、どんなことが起ってきてもみんな自分の内に容れてあげてイライラしたりブツブツ云ったりしないことがカラッポの心『零』の心であります。

 ですから『零』ぐらい大きいものはない、何もないかと思うと、何でも容れることが出来るのであります。日本人の『カラッポの心』と云うのは、一切のものを入れて、とどこおりがないという『引っかからない』のが零であります。中々難しいようですけれども、それが日本精神であります。



 西洋精神は枝葉の精神で、細かくいくらにも分科してわかれて行く、外見が賑やかであるのが西洋の栄え方でありますが、日本の栄え方は『からっぽ』の中へ中へと還元して行くのであります。

 復古の精神というのが、近頃叫ばれておりますが、古に復り、元に還るところの精神であります。日本精神は本を重んじ、本を大切にする。『忠』も『孝』もここから出てくるのでありまして、日本精神は忠孝一本の精神であります。君に忠を尽すことが、親に孝を尽すことになるのであります。

 大君は、吾々の親の親の本元の一番本の親様即ち大宗家であられます。だから君に忠をつくすことが親に孝を尽すことになるのであります。ここが日本國體の尊いところで、忠と孝とが一本〈ひとつ〉なのであります。

 本源の世界へ還って行き、源の世界即ち吾々の生命を発したところのその中心の世界を尊んで、そこに感謝し、そこへ誠心を尽して行くのが日本精神であります。

                〜 つづく

『天皇信仰と日本國體』  第四章 日本の心と日本的思惟 (3) (2279)
日時:2012年10月07日 (日) 00時39分
名前:童子

             一. 生長の家と日本精神 〈つづき〉



 この間或る方から新年の飾りにする盆栽をいただいたのですが、岩の根元に木瓜(ぼけ)の木が這う様にわだかまってその根元に歯朶が生え、木瓜の枝から美しい花が沢山ついているのであります。

 それを縁側へおいて置きましたら、私の父が神戸から来まして、そうして『ああこれは惜しいことだな。』と云いますから、何が惜しいのかと思って、『どうしたのです』と訊きますと、『この枝一本切ればいいのにな、この枝を残してあるから惜しいことだ』と、こう云われるのですね。

 『何故ですか、この枝が一番沢山花をつけて美しいではありませんか』と云うと、父は『この枝は余り上へ向いていて、余り賑やかすぎる、惜しいことだな、ここを切れば好いのに。』というように云われたのでありますが、その、賑やかでも不要のものを全部切りとって了うのが日本精神であります。


 西洋の精神だったら、いくらでも枝が沢山あって、出来るだけ沢山花がゴチャゴチャと着いておったら、『ああこれは美しい』と考えるのであります。けれども、外が絢爛で数多く余計なものをゴチャゴチャさせて美しいと見るのは外国精神であって、日本精神ではない、日本精神は一に還元して行くのであります。

 更に進んでは『○〈ゼロ〉』に還元して行く。何もなくして行って、而もそのカラッポの中にすべてのものがそこにあるということを見出す、これが日本精神なのであります。

『天皇信仰と日本國體』  第四章 日本の心と日本的思惟  (4) (2294)
日時:2012年10月07日 (日) 13時21分
名前:童子

              二. 上御一人様こそ本当の神



 大抵の人は神様は姿がないと云う空観に捉われます。『神は形がない』と云うことは一面に於て真理なのでありますけれども、それだけに捉われると、これも亦一面観に陥るのであります。


 宇宙大生命なる神様は相(すがた)なくしてすべての相を有っていらっしゃり、又『一』なる方に現れていらせられるのであります。之を無相にして無限の相と申します。有無相対を現し給いながら有無相対をそのまま絶して其の侭『空』にして『無現』にして『一』なる方が神様であられます。


 上御一人様は唯一の中心主宰者でいらせられると同時に宇宙大生命として一切のものに満ちていられるのであります。〈一と普遍と、無相と無限相との一致〉併してその御徳が森羅万象にあらわれ、無限の相を現していらっしゃるのであります。


 凡そ此の世の中にある相にして、上御一人の御徳のあらわれざるものはない、すべての相に其の御徳が現れていらっしゃるのであります。此の『一にして同時に普遍、普遍にして同時に中心者、無相にして同時に無限相、森羅万象唯一つに帰す』るところの八絋一宇の日本哲学を理解するには、形を見ながら形を見ないところの物質本来無・肉体本来無の哲学的自覚を要するのであります。


 もし形ばかりを観て『物質あり』と観ていましたら、『八つ』の形は『八つ』であるほかはありませんから、八紘が同時に一宇であると云う 神武天皇以来の日本的理念が理解出来ないのであります。


『天皇信仰と日本國體』  第四章 日本の心と日本的思惟  (5) (2301)
日時:2012年10月08日 (月) 02時01分
名前:童子

               三. 八絋一宇の哲学



 八絋一宇 ―― 『八』でありながら『一』である。これを知るを、全機を知ると申します。『無限』でありながら『無相』である ―― ○(ゼロ)でありながら中に一切の生命の象徴である日光を含んでいる日章旗 ―― これは言葉では何とも言えぬ説明がつかぬものですから、禅宗などでは不立文字、言詮不及などと申し、文字を立てることも出来ず、言葉で詮議することも出来ないというのであります。


 しかし説明するには何とか言わなくてはならないのですから、やはり文字を立て言葉で説明致します。或る人は言葉で説明出来ないのは本当に解っていないからだと云う人もあります。そこで私は『生命の實相』の中の到るところにこの言詮不及の問題を言葉で説明しようと試みたのであります。



 そこで此の中心の『一』にましまして同時に一切のところにその御徳が無限の相をしてあらわれてまします方が  上御一人様であらせられるのであります。


 皆さんが今、外の青葉の緑を見ていられると致しますると、あの青葉の緑、あれも神様の‘いのち’が現れているのであります。もっとハッキリ申しますと、上御一人様の‘めぐみ’が現れているのであります。皆さんが空気を吸っていらっしゃるその空気も  上御一人様の大御‘いのち’が現れているのであります。


 太陽が輝いている ―― 昔から太陽は日之大神だと信ぜられておりますが、寔にも  上御一人様の御徳が輝いているのであります。併し青葉の緑が神様の‘いのち’の現れだと申しましても、神とは樹の葉だと云ったら、象というものは風呂敷見たいだよと云った程度に間違ってしまうのであります。樹の葉を見て樹の葉は神の‘いのち’があらわれているのであると云うことに間違いはありませんが、それなら神様とは緑色かといったら大変な間違いに陥るのであります。


 神様は相なくして無限の相を‘かたち’にしていらっしゃるのでありますから、この形、この色が神様だと観た時には、もう神様の全相は吾々の認識から逃げてしまいます。そしてただ固定概念で神の把むということになるのであります。固定概念で神をつかむし、生々とした神様のそのままが判らなくなるのであります。


 固定概念の固手と謂う意味は『神は斯ういうものだ。神は緑色だ』というように一定に固まって観る考え方であります。『概念』という言葉は普通使う言葉でありまして、学術雑誌なら説明の必要はありませんが、本書のような一般大衆を目的とする読者層の中には知らぬ人もあるかも知れないし、或は判っていながら、説明の出来ぬ人もあるかも知れないので申しますが、『概』というのは、概そとか概ねとかいう字で、コンモン〈共通〉という意味であります。『共通』というのはすべてのものに共通に通用するというような意味であります。『すべてのものに共通する考え』が概念であります。

                〜 つづく

『天皇信仰と日本國體』  第四章 日本の心と日本的思惟 (6) (2351)
日時:2012年10月09日 (火) 12時54分
名前:童子

            三. 八絋一宇の哲学 (つづき)


 科学は具体的な一物を研究して、共通的な概念の世界へ入って行きます。だから共通的に便利で応用がききますが、具体的に生生とした、生ける生命の全相を把む事は出来ませぬ。


 科学では、上御一人様の尊厳は判りませぬ。科学は概念を取扱うから人間と云うものを共通的に同じ成分とか同じ要素とかに観てしまいます。そこに便利であるが、ものそのものの生きた具体を捉えることが出来ないと云う科学の限界を知らねばなりませぬ。


 例えば今緑色の話をしましたが、緑でも具体的の緑は、ここにも絨毯の緑があるし、あそこにも樹の葉の緑もあれば、或は皆さんの着物の模様中にも緑がありますけれども、その緑は悉く『緑』には違いないが一つ一つに皆異うのであります。


 百種類の緑を列べましたら百種類緑が異うのです。百種の樹があって、皆緑の葉をしていましても、その緑は一々具体的に言うと全部異うのであります。併しながら吾々が、その緑を異うと考えないで、あれもこれも緑だと、斯う云いますのは、概念でものを概算的に観るからであります。


 百種類の緑なら百種類、五百種類の緑なら五百種類の緑があるけれども、それの共通点 ―― 平均点数というようなものを考えて、心の中で『緑』と云うようなものを思い浮べるのであります。これが『緑』の概念です。


 このように『概念』と云うものは共通したものを心の中で思い浮べたもので具体性がない。或は円、‘まる’ですね、○(まる)には直径一分位の大きさのものもあれば、太陽のような大きさのものもある。或は日の丸の旗の円も○でありますけれども、晴天白日旗にも○がある。

 ですから具体的に云うと○は何百種類でも何億種類でもあるのですけれども、併し○を考えると、それは共通した一般にコンモンになっているところの○の考えが心に浮ぶ、それが固定概念です。

               つづく



 〜〜〜・・〜〜

 原典は谷口雅春先生著の『新日本の心』(昭和17年)ですが
 タイプミスが数箇所あるように思われます。が原典がありませんので
 『天皇信仰と日本國體』から現代略漢字現代かなに変換して転載します。

『天皇信仰と日本國體』  第四章 日本の心と日本的思惟 (7) (2420)
日時:2012年10月11日 (木) 13時23分
名前:童子

          三.八絋一宇の哲学 (つづき)




 併し、一々の○は悉く大きさも色も異うのであります。吾々は概念でものを考えると間違うのであります。例えばあの樹は緑の葉をしていると批評する。そうすると概念でその樹を批評していることになるのであります。

 あの樹が緑だといっても、いろんな種類の緑があるのに『あの樹の葉は緑だよ』と一般的に云って判っていると思っているのは単なる概念上の錯覚に過ぎないのであります。生きた緑というものは、それは共通概念のそういう緑とは異うものです。

 それと同じく、宗教は学校教育に用いられないと云うのも『宗教』と云うものを既成概念で考えているのであって頭の古いことを示している。そう云う人の頭は要するに旧体制の頭なのであります。

 宗教にも、印度宗教もあれば、ユダヤ教もあれば、日本宗教もある、或る種の宗教が学校に採用出来ないからとて一切の宗教的信念を学校で養成するのは可かぬと云うのは間違いであります。

 現に生長の家の天皇信仰・人間は神の赤子と云うような信念などは日本の国体にも適しているし、今まで凡ゆる宗派の宗教にも衝突しないし、劣等児、虚弱児などを優良児に変化せしめています。これは私の『優良児を作る』などの本の中に無数に実例が出ているのです。実例の蒐集が科学ならば、これは立派な精神科学であります。

『天皇信仰と日本國體』  第四章 日本の心と日本的思惟 (8) (2457)
日時:2012年10月12日 (金) 20時26分
名前:童子

             四.具体にして普遍なるもの



 人間の中で何民族にも属せぬと云うような人間は此の世に無いのであります。爰に抽象と言う言葉が出て来ましたが、抽象の『抽』という字は『‘ぬく’』と云う字であります。『象』は‘かたち’であります。抽象とは具体的な形をぬく意味であります。

 即ち先刻言いましたような目の細いとか目がパッチリしているとか、顔が赤いとか円顔であるとか、髪の毛が黒いとか、カールしているとか、一人一人の人間は具体的に象があるのに、その特色的形を描いたところの共通的な人類と云うようなものを思い浮べる。それが抽象概念であります。


 そういう抽象概念の人間というものは、どこにもいはしない、吾々は便宜上、抽象概念でものを取扱うと、一々のものに対して別々の取扱いをしないでも大体同じ結果を得る。そこで吾々は抽象概念で物を考えたがるのでありまして、医学などでも人間を同一成分の物質として概念的に取扱うから、何病にはこの薬と云うように便利ではありますが、人間は決して一様ではありませんから、特異体質の人間が出て来たりすると何等害のない筈の普通薬でも、人を殺すことになったり致します。これが抽象概念で物を扱う弊害であります。


 そこで本当に具体的な生き生きしたものを把まなければ‘本物’を把んだということにはならないのであります。神様は把むといいまhしても、神様は『愛』である、『智慧』である、『生命』であると考える ―― 是も抽象概念になってしまいます。そこで吾々は神様をもっとはっきりと、抽象ではなく、抽象の反対の具体的に体を具えたところの具体的の神様を知らなかったならば、本当に神を知ったと云うことにはならない。


 信仰も、もっと具体的な信仰にならなければならない。生命‘そのもの’が‘生きた’具体的な神様を把むのが本当の信仰であります。


 ですから、今までの宗教でも大抵皆具体的な神様を現しておるのであります。阿弥陀様なら阿弥陀さま、又観音さまなら観音さまというところの具体的な形で把握する。


 本当の信仰は抽象じゃない。普遍にして具体、具体にして普遍、実際に斯う云う御利益を現したというように、その進行が抽象概念でなくなってしまって、具体的なものになっている。生きた信仰は本当に生活に生きて具体的なものになって来るのであります。

 具体であって同時に普遍なるものに対する信仰が正しい信仰であります。

                〜 つづく


 

『天皇信仰と日本國體』  第四章 日本の心と日本的思惟 (9) (2502)
日時:2012年10月15日 (月) 12時46分
名前:童子

           四.具体にして普遍なるもの (つづき)



 日本人は  天皇陛下を  天照大御神様が‘ここ’にありありと現れて現人神として座ますと認め奉って二千六百有余年間民族信仰として把握して来たのであります。


 概念で把むと本当の神はわからぬ。緑の木の葉すら概念では判らぬ。木の葉は緑色だと一般概念を当て嵌めても、それは抽象であって具体的な緑なんてうものはどこにもない。目を瞑って考えて『緑の木の葉』と共通的な緑なんていうものを想像してもそれは概念であって‘にせ’物であります。無いものを‘あり’と概念で想像しているに過ぎませぬ。


 そこで具体と抽象とを一つに同時に把まなければならないのであります。法華経にある『諸法実相』と云うのがそれであります。諸法即ち具体でありますが、具体にして普遍なるもの、具体にして抽象なるものを把握するのが諸法実相を究尽することになるのであります。


 諸法だけを把んでいると迷いの現れである現象に惑わされることがあります。実相だけを把もうとすると抽象に堕して了うことがあります。人間は神の子であるというのも、是は一番具体的な事実であります。同時に普遍につながる問題であります。これは吾々自身を、生命そのもので体験したとき克く判ります。


 私達位具体的なものはないし、同時に私達位神秘な不思議なものはないのであります。それは具体に把まれたるところの宇宙のいのちがここに生きているからであります。吾々は斯く具体的に同時に実相的に、自分の生命を把握して人間は『神の子』だとわかる。


 この生命の直接体験によりまして、具体的にして同時に実相的  天皇陛下を拝しまして、宇宙大生命、宇宙の大祖神の具体的御顕現だと云うことが絶対認識的に把握されて来るのであります。



 理論だけでは駄目であります。ここに自分の‘いのち’が生きているということ、そのことが具体的に神を体験しているということに眼覚めまして、その直接体験を本として、  天皇陛下が宇宙の大神であらせられることが判るのであります。

                〜 つづく

『天皇信仰と日本國體』  第四章 日本の心と日本的思惟 (10) (2524)
日時:2012年10月16日 (火) 13時06分
名前:童子

           四.具体にして普遍なるもの (つづき)



 斯くの如くして、吾々の心の眼がひらけてまいりますと、天地山河草木一切のありとあらゆるもの、生きとし生けるものが  天皇陛下の御徳のあらわれだと云うことが判るのです。世界の全人類が悉くその事実が判ったら、万国が日本  天皇陛下に帰一して万邦争うものなく地上に天国が成就するのであります。その目的のために出現したのが生長の家であります。



 『碧厳録』の第七則のところに慧超という坊さんが法眼という和尚さんに、『如何なるか是れ仏』 ―― 何が仏であるか、どんなものが仏であるか、と云って問うている。そうすると法眼和尚が答えて、『汝は是れ慧超』と云っている。『如何なるか是れ仏』『汝はそら慧超 ―― 慧超という坊主だ』と斯う答えた。これが禅の所謂直指であり、単伝である。

 慧超が慧超であること、谷口が谷口であることは説明を要さない。それと同じく仏が仏であること、神の子であることは説明を要さない。自分が自分であり慧超が慧超である。この絶対認識は抽象概念でものを想像して把握するものではない。

 『如何なるか是仏』と云われて抽象概念で答えたら、それは生きておる仏でなくなってしまう。抽象概念でなしに生きておる仏を把握するのは、概念でなく、分析でなく、全機を把握しなければならぬ。

 『何が仏であるか』『汝は是れ慧超だ』『お前は谷口雅春だ』谷口雅春が谷口雅春であり、仏が仏であり、神が神である。是位具体的なそして間違のないことはない。


 一々、科学的分析をしたり、顕微鏡で覗いて見たりして判るのではない。そのまま生きている生命の全体を把握しなければならぬ。これが即ち橋田文相の『全機』の把握と云うことでございましょう。この生命の全機を把握致しましたときに、『如何なるかこれ宇宙の大神』と問われれば、即座に『宇宙の大神は是れ  天皇陛下』とお答え出来るのでございます。

                〜 つづく

『天皇信仰と日本國體』  第四章 日本の心と日本的思惟 (11) (2543)
日時:2012年10月17日 (水) 12時53分
名前:童子

            四.具体にして普遍なるもの (つづき)



 さて皆さんはいずれも  陛下の赤子であります。従って一人々々は皆宇宙の親神様の子であります。皆さんは、女の人であったら何々姫之命であり、男の方であったら何々彦之命であります。


 個々の生命はいづれも具体的にして而も普遍なるところの‘いのち’がそこに現れているのです。具体とは位置と差別とがあることでありまして、普遍というものはすべてのものに行きわたって一体であるという意味です ―― 即ち宇宙に充ちて一体であるというような意味であります。


 宇宙に充ちて一体であるところのいのちが、ここに具体的に現れ、位置に従い差別があって、一体でありながら一本の樹の幹と枝のように中心と枝との区別がハッキリしているのであります。これが具体と普遍とが一つになっているということであります。


 皆さんの‘いのち’は唯生理作用の、物質の化学作用で出来ているのであったら普遍性がない。個々は全然別々で一緒に生活しているのは偶然の結果だと云う事になります。ところが人間は偶然性のものではない。『個』は普遍によって結ばれている。宇宙に充ちている普遍のいのちが具体的にここにあるのであります。具体にして同時に普遍である。差別にして同時に平等であり、平等にして儼然たる差別がある。




 お互いにそういう‘いのち’でありますから、皆さんは何々彦之命であり何々姫之命であるのであります。尤もそんな『理窟』は日本では古代から言わなかった。理窟も何も言わないで唯人間を直視して『彦命』又は『姫命』と称して、その直視したところの人間の実相を表現していたのであります。


 それが『如何なるかこれ仏』答えて曰く『汝は是慧超だ』『汝は何々の命だ』と簡単明瞭にその具体にして普遍なるもの ―― 普遍にして具体なるもの ―― をちゃんとはっきり指し示していることに注目しなければならないのであります。具体にして普遍、普遍にして具体 ―― この複雑なる哲学的問題を日本人は端的に捉えて端的に表現したのです。


 哲学見たいな理窟は言わないけれども、ヒトと云いミコトと云うその語の中に人間の具体にして同時に普遍なるものをちゃんと表現している。この端的なものの本質の把握と、表現とは、神々の御本質を実現する場合にも異常な天才を示したのであります。

 天之御中主神様と申上げる場合には、宇宙の御中〈内奥の実相〉の主なる神と云う意味が直視されているのであります。

 天照大神様は天照大神様と申上げるその事の中に宇宙を無限の御徳で遍照し給う宇宙的大神であるという事が直指されているのでありまして議論を要しないのであります。

 こう申しますと、天照大御神は宇宙の大神のような方ではない、具体的な歴史的な神様であると反対論をお唱えになる方がありかも知れませんが、そう云う方は具体にして普遍なるところの神のあり方、生命のあり方をお知りになられないのであります。

 具体的にして歴史的の御存在であらせれると云う事は同時に宇宙を無限にその御徳で遍満、遍照せられると云う事と矛盾する事ではないのであります。これは普遍にして具体なるところの生命のあり方を直視したとき把握出来るのであります。


  天照大神様は宇宙の大神であらせられると同時に、皇祖神であらせられると云うことは、斯う云う『具体即普遍』の直観哲学によってよく分るのであります。それを色々と理窟をつけなければ分らないようになったのは、人間が智慧の木の実を食べてエデンの楽園を遂い出されて頭脳智の世界をさまよい歩いたからであります。

 何でも具体的なものが物質の塊だと思って、唯物的な屁理窟を並べ立てなかったら満足が出来ないのは人間の霊知性が濁って来たからであります。

 心の眼を開いて見よ、何処にも『物質』は無い。みんな 上御一人様の御徳の顕現であります。これは『物質』の否定ではない、『物質』の揚棄であります。

 『物質、物質に非ず、大神の生命の顕現なり、これを物質と云う』物質が大神の御徳の顕現であることがわかりますと、物質科学は大神の法則を研究し、それに随順する術を教え学ぶのであります。


 今日云われて居ります『科学する心』と申しますのも、つまり此の世界を『神の国』『大神の御徳の顕現』と観、此の自己を物質身として観ず、慧身即ち『慧智身』と見る事によって正しき出発を得るのであります。

 物質科学も、精神科学も、宗教も、哲学も、すべて或る立場から神の法則を研究するのでありまして、互に排擠すべきものではないのであります。

                 〜 つづく


 

『天皇信仰と日本國體』  第四章 日本の心と日本的思惟 (12) (2572)
日時:2012年10月18日 (木) 12時18分
名前:童子

              五.教の本源は『御中』に在り



 一切の教は 天之御中主神の『御中』より流れ出づるのであります。人間はただそれを伝えさせて頂くのみでありまして、『教祖』などと云う語は民間諸宗の開山に用いられておりますが、顧みればまことに畏いことでございます。神と雖も国津神〈臣系の神〉に於ては、教祖に非ずして、ただ『道伝へ』であるべきであります。

 されば生長の家の神を招神申上げる歌にも、

  天地のみおやの道を伝へんと顕れましし生長の家の大神護りませ

とありまして、どこまでも国津神〈臣系の神〉の分をハッキリせしめてあるのでございます。


 一切の教 天之御中主大神の『御中』より流れ出づるが故に、教の『御中』に‘みおや’の神のみましまして他の神は‘ない’のであります。他の神は『教祖神』に非ずして『道伝へ』であります。

 この一大事因縁が判然しない故に、諸宗分立し、教派を樹て、宗派を樹て、執着を突っぱらして、全仏教は合同出来ないなどと云うのであります。また、天之御中主神以外に教の木源ありとか、救いの木源ありとか考えるが故に、教を説く宗教であり乍ら、神仏別異の説を樹て、神は人間が生きている間の守護、仏は死んでから日本以外の十万億土の彼方に於て救うなどと宇宙遍満の 天之御中主大神を東洋の日本列島に押し込める不敬を致すのであります。



 明治天皇が、教育勅語に於て『朕惟フニ』と勅(みことの)らせたもうたのは、まことに 天之御中主大神と一心同体と御立場に於いて、天之御中主神の『御中』の世界より御発言遊ばれたのであります。『朕惟フニ』の語の重きこと大宇宙と同一の重さであります。更にハッキリと其の聖徳を御顕現あそばされたのであります。


 天之御中主神のミコトバは宇宙に満ち、天地の森羅万象ひとつとして 天之御中主大神のミコトバの顕現ならざるはなけれども、心の耳開けざる者には聴けども聞えねば、茲に『いたくさやぎてありけり』と現象界の有様をみそなわせ給いて、超空間の実在界より出で立たし給いたるが、天孫降臨の御聖業であります。

 華厳経に『一切所〈超時空の意〉の光明遍照者は取なく起なく生なく滅なくそのまま清浄なるも、一切衆生の帰依するところとならんがために世に出で給へり』とあるのに相応するのであります。

 天孫の降臨は本地を超時超空の高天原世界に打ち立たせられて、現象界を救わんがために『太(いた)く騒ぎてありけり』と御軫念の極みに於て御降臨遊ばれたのであります。

 されば、天孫降臨は実相、現象を打ち貫いて、実相の光の柱がその光華明彩(ひかりうるわしく)の相に於て六合に照徹したのでございます。かく天孫降臨の意義を昭々として感得し奉る時歴代の天皇の大神勅は絶対宣言として宇宙的重さを以て吾等に迫る思いが致すのでございます。

                 〜 つづく

『天皇信仰と日本國體』  第四章 日本の心と日本的思惟 (13) (2597)
日時:2012年10月19日 (金) 01時30分
名前:童子

           五.教の本源は「御中」に在り (つづき)



 
 歴代の 天皇は、その顕れのすがたに於ては、古事記に於ける木花咲耶姫命の条にある如く、時間的流れに於ては『不連続』のお相ではありまするが、それをひとたび『超時、超空間』の『御中』に連続して拝し奉るとき、歴代交代のその御相も、 久遠万世一系連続の真実相を拝し奉ることが出来るのでございまして、吾々は天皇に於て天照大御神を拝し奉り 天皇に於て 天之御中主大神を拝し奉るのでございます。

 爰に、相対にして絶対なる実在、有限にして久遠にまします実在、不連続にして無窮に連続せる実在を拝するのでございます。


 現象のみ視て、絶対を観る能わざる者には天孫降臨の意義など相分るものではございませぬ。天孫降臨を解釈して南洋よりの漂着とか、中央亜細亜よりの移住とか浅き意義に考うるが如きは、まことに國體の尊厳を弁えざる徒でございます。


 されば 明治天皇が『朕惟フニ』と仰せ給いしは、大宇宙の御教えが、超時間超空間の実在世界より、その『御中』の一点より、迸り出でたる一大宣言なのでございます。

 一切の教は 天皇より発し 天皇にて終る。吾々の受くべき教は歴代の詔勅及び勅語よりほかにはなく、諸々の宗教の教は太陰が太陽の光を受けて輝く、『御中』の本源より発したる反映であり、垂述に過ぎませぬ。



 『朕惟フニ我ガ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ』と勅らせ給いしとき 朕なる『今上』と、皇祖皇宗なる歴代の聖天皇と、一貫して一つなる 陛下の、超時超空間の世界に立たせ給いて、同時に時間空間の世界に降臨ましませる其の荘厳なる御稜威(みいず)を私は感得させて頂くのであります。

 今上とは、久遠超時空の『今』が時間の表面に上り出で給いしイヅの御はたらきを表現せられたるものと拝察されるのでございます。『朕』なる『永遠の今』が『我ガ』と勅り給いて、『皇祖皇宗』と言葉を続け給いて、『永遠の今』〈今上〉と歴聖との一体相続を言い表わし給いしその神勅(みことのり)の深義を拝察し奉るとき、歴代の皇祖皇宗が常に『今上天皇』と顕現し遊ばれて、『超時間の久遠の「今」との相関一体に於て国を肇め給うと云う実に深遠きわまり無き真理を感得することが出来るのであります。

 『今天地の開くる音に眼を覚ませ』と金光教祖は云われました、『活物(いきもの)をつかめ』と黒住教祖は云われました。『黙示録』には『我また新しき天と新しき地とを見たり』とあります。北畠親房は『天地の初は今日を初とする理(ことわり)あり』と云われました。生長の家では『今即久遠』『久遠即今』と云う。

 いずれも、‘いのち立つ’立ち方が、久遠を貫いて、『今』に集中し、『今』を創造り今肇めつつある宏遠の肇国、久遠の創造が表現されているのでございます。

                〜 つづく

『天皇信仰と日本國體』  第四章 日本の心と日本的思惟 (14) (2615)
日時:2012年10月19日 (金) 22時19分
名前:童子

             六.民族と歴史的現実





 吾々が今現実に茲に、『今』の一点に立っている時、『自分』と云う現実は全然過去と切り離された存在のように見えているけれども、そうではない。此の一点に立ちながらすべての歴史が此の一点に全部あるわけだ。

 それは必ずしも私が生れてから経験したことだけじゃない。そのあらゆる経験したこと。又、親が経験したこと。又その親の親が経験したこと。又その親の親の親が経験したこと。更に遡って進んで行くならば、吾々日本民族は恐らく瓊々杵尊様の天孫降臨に扈従(こじゅう)して高天原から出現して来た当時の記憶までも、自分の生命の内部にある訳だ。

 それは単に記憶と云うよりももっと深いものだ。何と云って好いか。その、詰り、‘いのち’の印象だ。それが茲にあるのだ。諸君の内にあるのだ。自分の内にあるのだ。日本人全部の内にあるのだ。


 私の家の紋は下がり藤だが、ああ云う下がり藤上がり藤の紋をつけている人は沢山ある。それらは大抵藤原氏の血統を多少とも引いているのであって、藤原氏の系統は誰から来たかと云うと、その遠祖は天之児屋根命(あめのこやねのみこと)だと云うことだ。即ち天孫降臨に扈従した五伴緒命(いつとものをのみこと)の血統だ。

 そう云うと、何か私がえらい血統見たいに自負するようだけれども、私だけのことではない。君も天孫民族だから、兎にかく瓊々杵尊様と一緒に天降って来たところの五伴緒命とその一族の子孫である。

 天降りの時に天照大神様から御神勅を受けまいらせて『豊葦原の瑞穂の国は世々我が子孫の王(きみ)たるべき地(くに)なり。汝ゆきて治(しろ)しめせ。さなくませ宝祚(あまつひつぎ)の栄えまさむこと天壌と与に窮りなかるべし』と仰せられた一君万民宝祚(ほうそ)無窮の御神勅を吾々の祖先は一緒に聴いておったのだ。

 その神勅を聴いておった祖先の記憶と生命とが此の今の生命の中に一緒に生きておるのだ。何と素晴らしいことだ。その宝祚無窮の神勅を、この吾々の中にある生命(いのち)が、その天孫降臨時代に現に聴いておったのだ。その生命が今ここに現に生きている。 ―― それが否定すべからざる歴史的現実だ。




 何だ、君たちは、そんなことを記憶しておらぬと云うのか。知らぬと言ってもそうは云わさぬぞ。それは現在意識が知らぬだけであって、‘いのち’自身の意識は知っているのだ。だから吾々日本民族は『古事記』を読むと、 ―― それは荒唐無稽な神話に見えても、血が躍るのだ。

 科学は、人間が鳥のように空中から天降って来ることを否定しても、天孫降臨と云うことが本当にあったのだと云う否定すべからざる自覚があるのは、それは矢張り、吾々は過去に経験した事実の記憶が潜在意識の中にちゃんと叩き込まれているからこそなのだ。




 古事記には天鳥船だの、鳥盤樟船(とりいわくすぶね)などと云う航空機のことも書かれている。人間が天から降っても別に不思議はないことだ。だが僕は天孫降臨をもっと深遠幽玄なる意味に於て解するものであって、天降りとは、実在の至る所から、その至聖の存在が現実化して降臨遊ばれたと解するものだが、そう云う哲学的な意味の分らない者には鳥盤樟船に乗って飛び下れる者あり、と日本書紀に書かれている其の侭の記事を信じても好い。

 兎も角、私の『人を作る教育』の本の中にも、共産党の運動をしておったが、そう云う哲ような人でも、 天皇陛下の行幸をお迎えしていると、自然と土下座して涙が流れたと云う同様の体験談を二人も三人も述べている。

                 〜 つづく

『天皇信仰と日本國體』  第四章 日本の心と日本的思惟  (15) (2618)
日時:2012年10月19日 (金) 23時39分
名前:童子

            六.民族と歴史的現実 (つづき)



 理論や、現在意識ではそんな馬鹿なことはない、凡ての人類は悉く生物学的単位として平等だと云う。学校ではダーウインの進化論も教えられている。凡ての人間は猿から進化した一生物学的単位だと云うように教えられて、それに違いないと信じ切って、而も共産党の運動に携わって日本の国を覆えしてしおうとまで運動している人でも、眼の前に鹵簿(ろぼ)が、粛々と御通過あそばれるとき、自然とその威儀に打たれて、喜びが湧いて来て、土下座して涙が流れずにはいないと云うようになるのは、それは一体何故であるか。

 それは吾々の生命(いのち)の歴史的現実が、瓊々杵尊と一緒に天降って来た五伴緒命、又はその一族の‘いのち’であるからだ。吾々の生命が、あの天孫降臨の荘厳極まりなき瞬間に、宝祚無窮の神勅を聴いていたからなのだ。それは過去のことじゃない。過去と云うものは本当はないものなのだ。



 過去は『今』と考える限り、それは過去なのではないのであって、『今』あるのです。過去‘ある’と云うことは『今』それが‘いのち’の中にあるのであって、『過去』と『今』との一体が歴史的現実だ。

 過去という何か『容れ物』の別の所にその歴史的事実が置いてあるのでなくて、過去に‘ある’と云う‘いのち’は今此処に‘ある’のだ。その外に‘いのち’はありはしない。過去の‘いのち’と云うような瓶詰めの‘いのち’が別に保存してあると云うのではない。

 生長の家では『時間』を否定している。時間の否定の意味がわかれば過去と今とは同時にあることが判る筈だ。兎も角、過去の‘いのち’なるものが『今』此処に生きている。そう云う意味に於て、今現に、天孫降臨の荘厳なる瞬間に一緒に運命を倶にした‘いのち’が、今現に吾々日本民族に生きているのだ。だから吾々はそう云う天孫降臨の話を承り、天皇陛下の咫尺(しせき)に接すると、自然と感激の涙が湧き出るのだ。 

       〈中略〉 

 日本民族の歴史的現実から暫くはなれて、家庭の話に移るが、家庭の中に於て家庭が不調和であったり、夫や父の行いが乱れておったり、妻や母が夫や父に反抗しておったり、いろいろ面白くない雰囲気があったら、そう云う生命の雰囲気の中で子供が生長すると如何なる?

 その子供の歴史的現実は矢張り親の‘いのち’の歴史的波動そのものが、その子供の現実として『今』‘ある’と云うことになるのだ。決して親は親、子は子と云うように別々のものじゃない。民族は一体、家族は一体、子は親の鏡だ。すべての人間は、家庭全体の歴史を背負って今此処に立っているのだ。

 吾々は日本の歴史を背負い、そして細かく観察すれば、その生れた又は育った家庭全体の歴史を背負って、いのちが『今』の一点に立っている。だから、私自身のことを云えば、善くも悪しくも、自分自身は事実『谷口家‘なるもの’』なのだ。『谷口家』から切り離した一個の谷口雅春と云う個別的個人ではない。

 私が此処に生きているのは『谷口家‘なるもの’』が此処に生きているのだ。個人主義的『個・人』なるものは本来無い。個人主義的『個人』の自由を肯定するような英米自由主義や民主主義が間違っているのは、斯う云うような点からも判ることなのだ。

 『個人』が人間じゃない。個人として何の影響も受けずにポッカリと自分だけ生きていると云うような、そう云う人間はない。つまり私自身に就いて謂えば『谷口家』なる‘いのち’の彼が此の一点に今茲に生きているのだ。 ―― これが歴史的現実と謂うものだ。


 私が生長の家と云う精神運動を起して、日本国に一大精神波紋を描き、遠く北米、南米、蘭印の日本人にも大きな自覚を与えたと云う事実から、この『谷口』と云う一個の人間を偉いのだと思っている人もあるかも知れないけれども、此の一個の『谷口』が偉いのではない。凡そい偉大なる者は一個の生命の力で出来るものではない。

 私が生長の家を拵え、斯くの如く、それが日本を益し世界を救うことが出来るとするならばそれは私一個の功績ではない。それは谷口家の祖先がえらかったのだ。その祖先の‘いのち’の結晶が歴史的現実として‘ここ’にあるのだ。ココに祖先が生きている。『私』と云う此の一点に、一切の祖先の歴史、祖先の‘いのち’の印象、‘いのち’の経験、波動、否、‘いのち’そのものの全体がココに生きているのだ。


 ‘いのち’と云うものは必ず永続している。それは個人の魂が永続しているばかりでなく、『家』の血の流れとして、『家』の‘いのち’の波動として永続している。それが縁に触れて、或る時代には子孫に於て歴史的現実として現実化する。その現実化は今直ぐその次の時代に出て来る、か或はその次の時代に出て来るか、遠く距てて出て来るか、比較的近い時代に出てくるか、それは分らない。

 生理学的の遺伝であっても心理学的遺伝であっても親に似ないで、叔父さんに似ておったり、曽祖父さんに似ておったりすることがある。そう云う風に『家』に於ける歴史の‘いのち’の波と云うものも直ぐに接的に、次の子供に出て来るか、次の時代に出て来るかということは、それはハッキリ言う事は出来ない。

 けれども、過去は無い ―― と云うことは、過去は『今』の中にあると云うことだ ―― だから、それが消える事はないものであって、谷口家なら谷口家、家内は江守家と云うのだが ―― 江守家なら江守家と云うその『家』の血の流れの中に、一切過去が、今『歴史的現実』として必ず生きている。

 だから『今ある』状態は、バラバラに切り離されてあるかの如く見えながら、一切が『一つの‘いのち’』として連続している。 ―― これが生命の歴史的現実だ。吾等は祖先を尊ばねばならない。祖先あって『自分』がある。祖国が自分なのだ。祖国のために生命〈いのち〉を捨てることは、生命が死ぬのではない。生命が一層大きく生きることなのだ。

                〜 つづく

『天皇信仰と日本國體』  第四章 日本の心と日本的思惟 (16) (2646)
日時:2012年10月21日 (日) 13時41分
名前:童子

           七.政治の本質について




 元来政治というものは、「まつりごと」とよばれるものであって、日本の本来の「政治」というものは「まつりごと」であったのです。即ち神様を祭ることが政治だったのであります。


 〃まつる〃というのは何か宮をこしらえて、その中に祭壇をつくって其の前にお供えをして拝むのも祀りでありますが、これを顕斉というのであります。

 「斎」というのは〃いつきまつる〃という意味で、〃いつく〃というのは清めるということであります。 「顕」というのはハッキリ形にあらわすことであります。

 だから顕斎とはハッキリ形にあらわしてまつることであります。ハッキリ斯うして形にあらわして祀っておりますと、自然に心が神様の心と釣合って清まってくるのであります。

 「マツリ」の語源は「真釣り」でありまして、真に釣合うということであります。それはあたかも天秤の両端のように、こちらの天秤の皿に神様の御心を載せると、こちらの天秤の皿には人間の心を載せる ―― それがどちらも重い軽いなしに、過不及なしにぴたりと一つに釣合って神様の御心と、国を治める人間の心とが同じ御心になって釣合う ―― それが〃まつり〃〈真釣〉なのであります。


 だから吾々は毎日神想観をして、「神様の智慧が流れ入る、流れ入る、流れ入る・・・・」と念じまして、本当に神様の智慧そのものになった時に、まつりが成就したということになります。

 これは形にあらわして、祭壇に物を供えて祀るのではない、〃幽〃と〃幽〃とが相対するのでありますから、日本では古来、〃幽斎〃と言っているのであります。


 こうして神様の御心をうけて、天秤が真直になったように、神様の心と人との心とが、ぴたりと釣合った状態が〃まつり〃であり、神様の御心をうけて、地上に顕現するのが即ち〃まつりごと〃であります。

 即ちキリスト教でいうと、「御心の天になるが如く地にも成らせ給え」という「主の祈り」を実際に地上に実現するところの方法が本当の政治であるのであります。


 こうして政治家というものは実に重大なる使命をもっているのでありまして、単に権勢欲によって権力を得たいとか、地位を得たいとか、利権問題にたずさわって、財産慾を満足さしたいとか、そういう野心をもっている人が政治をやると、これは神様の心と‘まつり合わない’ものですから、決してよき政治は行われないのであります。

 だから、政治は神様の御心を受けた人が政治をやらなかったならば、それは本当の‘まつりごと’ではないから決して此の世の中はよくならない、また国民は幸福にならないのであります。

                〜 つづく

『天皇信仰と日本國體』  第四章 日本の心と日本的思惟  (17) (2677)
日時:2012年10月22日 (月) 13時33分
名前:童子

           八.民族の精神と日本的思惟について





 ◎〃日の丸〃は無我の象徴であり、〃あかき心〃の象徴である。

 日本人は無我を尊んだのである。葉隠精神の『武士道とは死ぬことと見つけたり』というのは、自我を死に切らすとき、本当の〃生〃が出て来ることを反語的に表現したものである。



 ◎〃日の丸〃は○(ゼロ)であり、無我であり、○(むが)の中に赤き心が蔵されているのである。

 白丸だけでは、否定に過ぎないが、〃日の丸〃によって無我の中にある赤心(まごころ)の肯定があるのである。真空妙有の象徴である。



 ◎無我を尊ぶ日本民族の精神は、その言語にもあらわれているのである。

 すなわち吾々は「‘私は’学校へ往ってまいります」といわないで、単に「学校へ往ってまいります」と言う。「私は」という主格式抜きに話す言葉が無数にあるのである。

 ところが英語などでは、必ず I am going to school という風に「必ず」といってよいほど I am (自我)をつけるのである。ここに日本的思惟と西洋的思惟との相異がみられるのである。



 ◎「武士は食わねど高楊枝」という日本の諺には、武士的精神は、食欲や物欲に支配されない、もっと高い次元の精神をもって生活しているのだということが表現されているのである。



 ◎徳川時代に士農工商という風に士(さむらい)を最も高き階級におき、商人を最も低き、階級のものだとしたのは、商人は、みずから造らず、他の人の造ったものを唯動かすのみによって利鞘を稼ぎ、物質的金銭的利益の追求に恋々としているから低い精神の持主だとみとめられていたのである。



 ◎武士は常に〃肉体の死〃に直面する精神をもつ、即ち〃物質否定〃〃肉体否定〃の理想の上に立って行動し、〃名〃を重んずるが故に尊敬されたのである。

 〃名〃とは〃世間の名声〃という意味だけではない。家門の名誉という意味もあるが、〃名〃とはコトバであり、実相であり、生命の本質である。基督教の祈りに「イエスの‘名に於いて’何々を成さしめ給え」とあるのと同様、〃名〃とは生命の実相又は本質を指すのである。

 武士は常に生命の本質を生きる理想のために生きることをモットーとしたからである。



 ◎〃士〃の次に〃農〃が尊敬されたのは、農は宇宙造化の生成化育の神業(みわざ)に参与する仕事だからである。



 ◎次に〃工〃が尊敬されたのは、直接に宇宙造化の生成化育には参与しないけれども造化の神秘が創造したものに〃工〃を加えて更にそこに個性的な表現を為すと共に人類の資生産業に貢献するからである。

 今は〃工〃は工業として利潤増加を目的として概ねつかわれている点に、時代の移り変わりが見られるのである。

                 〜 つづく

『天皇信仰と日本國體』  第四章 日本の心と日本的思惟  (18) (2700)
日時:2012年10月23日 (火) 02時17分
名前:童子

          八.民族の精神と日本的思惟について (つづき)




 ◎日本民族は血統を尊んだのである。血は〃霊(チ)〃の物質化であり、〃霊〃の表現である。血のつながりは霊統のつながりを示すのである。日本人は「神州清潔の民」と称された位で、血の純粋を尊敬したのである。血が汚れるということを非常に忌みおそれたのである。



 ◎日本民族の結婚は、家と家との結婚であった。この〃家〃というのは建物のことではないのである。血統及び霊統の連綿たるつながりを〃家〃というのである。〃家門の名誉〃を尊ぶというのも、その血の中に、霊統の中に汚れたるものがきいという車を誇りとするのである。



 ◎日本民族は常に○(えん)相を見て来たのである。それは日の丸精神であり、楕円形のように中心がたくさんあるのではないのである。正円には唯一つの中心があるのみである。唯一つの中心あるもののみが常住の安定を得るのである。

 日本国が内部事情や、国際事情により権力奪取の闘争や戦争が途中で幾変遷があったにせよ、二千六百三十一年間も皇統連綿として、この帝國が持続したのは、唯一つ〃中心生命〃を〃天皇〃に於いて見詰めて来たからであるのである。


 ◎古事記神話に、古代日本民族が最初に記述した中心は、天之御中主神である。すなわち宇宙に唯一つの中心生命あることを認めて、それを天之御中主神という神名で表現したのである。

 日本民族のエネルギーの源泉は天皇を現実の媒介として宇宙の中心生命をそこに見出し、宇宙の中心生命に回帰することにあったのである。



 ◎本当の武士道は〃神武不殺〃である。日本書紀の神武天皇の巻には、神日本盤余彦命(かむやまといわれひこのみこと)が、

 「日の神の威(いきおい)を背(そびら)に負いたてまつりて、み影のままに圧臨(おそいな)むにしかじ。かからば則ち嘗て刃(やいば)に血ぬらずして、虜(あだ)必ず自ら敗れなむ」

と仰せられて熊野路に兵を迂回せしめて進軍せしめ給うたことが記述されているが、この「刃に血ぬらずして、虜必ずみずから敗れなむ」の精神が、〃神武不殺〃の理想であるのである。
 
                             〜 つづく

『天皇信仰と日本國體』  第四章 日本の心と日本的思惟  (19) (2717)
日時:2012年10月23日 (火) 10時38分
名前:童子

           八.民族の精神と日本的思惟について (つづき)




 ◎神武天皇はその御即位の詔勅(みことのり)に、

 「苟も民に利(くぼさ)あらば、なんぞ聖(ひじり)の造(わざ)に妨(たが)わん。且、当に山林を披き払い、宮室(おおみや)に経営(おさめつく)りて、恭しみて宝位(たかみくら)に臨み、以て元元(おおみたから)〈大御宝〉を鎮むべし、上は則ち乾霊(あめのかみ)〈天津神〉の国を授けたまう徳(みうつくしび)に答え、下は則ち皇孫(すめみま)の正を養いたまう心を弘めん。然して後に、六合(くにのうち)を兼ねて以て都を開き、八紘(あめのした)を掩(おお)いて宇(いえ)とせんこと、亦可らずや」

と仰せられているのである。

 そこには決して侵略による建国の考えはないのであり、 天津神の国を授けたまう徳に答え と仰せられているのであって、国というものは天津神から授かったという自覚が、日本民族が国家に対する考え方であって、力づくで征服して国を造ったというような考えは微塵もないのである。

 「苟も民に利あらば、何ぞ聖の造に妨わん」という詔勅は民利と、天皇の国を治め給う聖業とは一致するのであって、決して相剋しないのが、日本の天皇政治であるという意味なのである。

 天皇を倒さなければ、民主主義政治は行われないと考えるのは、外国の国王対国民の関係を見る目をもって、日本の天皇制を観るからである。日本の天皇制は外国の王制とは異なるのであって、日本は「君民同治」の國體であって、民利と天皇の、聖治とは一致するのである。〈『秘められたる神示』参照〉




 ◎かくて神武天皇は国民を「元元」即ち国家の元の元をなす大御宝であると仰せられ、天津神より授かった御徳にこたえるような立派な国の治め方をして、皇孫瓊々杵尊が「正を養い、慶びを積み、暉(ひかり)を重ね」〈日本書紀〉て来られた、その正を養いたもう御心をひろめ、「然して後に六合を兼ねて都を開き、八紘を掩いて宇と為む」と仰せられているのである。

 武力によって征服して「六合兼都・八絋一宇」を成就するのだったら、それは侵略精神であるかも知れぬけれども、正を養い、慶びを積み、暉を重ね、民利を聖業とし、国を授け給うた天津神の御徳にこたえ、「‘然して後に’天地四方〈六合〉の国々にも都があるが、その上に民族の魂の紘〈冠のひも〉を顎の下に結び合わすごとく、結び合わして、世界を戦争なき一家族にする事は、また男子の本懐ではないか」と仰せられたのが、神武天皇建国の理想であったのである。


 既に二千六百有余年前に於いて、世界一家族〈世界連邦〉の理想を建国の理想として打ち出された神武大帝によって建てられたこの日本国に生まれた事を吾らは誇りに思うのである。

                〜 つづく

『天皇信仰と日本國體』  第四章 日本の心と日本的思惟  (20) (2719)
日時:2012年10月23日 (火) 11時13分
名前:童子

           八.民族の精神と日本的思惟について (つづき)




 ◎日本民族は時間空間を超えて〃今〃の一瞬そして〃今〃の一点に〃久遠の生命〃を生きることを知っていたのである。

 それは古事記神話に瓊々杵尊が天降られて、塩椎神の案内を受けて日向の笠沙御前に到りたもうた時に大山津見神の娘・木花之佐久夜毘女にお逢いになった。まことに美しい娘なので、瓊々杵尊は、「お前は私の妃にならないか」と仰せられた。その時、木花咲耶姫は「私一存では御返事申し上げかねまする。父の大山津見の神に申し込んで下さい」と御返事申し上げた。

 この風習は、現行の日本国憲法第二十四條の「婚姻は両性の合意のみに基いて成立し」とあるのとは甚だ異なるのであって、今此処に生きている「個」の‘いのち’は単に「個」だけの‘いのち’ではなくて、〃連綿として家系を貫いて連なる祖宗のいのち〃との一体であるとの自覚即ち「個即全」の自覚のあらわれであるのである。


 その時、姫の父の大山津見神は非常に喜んで姫の姉の石長比売も倶に貰って下さいといって種々の引出物と一緒に送って来られたのであった。ところが瓊々杵尊は石長姫の容貌が甚だ醜かったので、「姉妹ふたりは要らない。木花咲耶姫だけで結構です」といって木花咲耶姫のみを留めおいて、ただ一晩だけ同衾せられたのであった。

 その時大山津見神は次のようにいっているのである。

 「女二人並べて奉れるゆえは、石長姫はその名の如く岩のように頑丈な娘でありますから、これをお貰いになる天津神の御子のおん命は厳のように常堅不動(ときはかきは)にましませとお祈り申し上げていたのでありますのに、木花咲耶姫だけをお貰いになって石長姫をお返しになりましたから天神の御子の御いのちは、櫻花がパッと美しく咲いて散るように、久遠長久につづくことはなくなりました」




 ◎これは無論、象徴的神話であるが、〃美〃というのは実相生命の顕現である。その〃美〃を味うことが、ただの一夜であろうとも、それは久遠の実相につながるのであり、ここに〃今〃即〃久遠〃を生きる日本精神の表現があるのである。

 石長姫をお返しになったのは、いのち存えたいために醜い生活をして我慢しているような生活は日本的生き方でないことが示されている。

この神話で思い出されるのは

 「敷島の大和心を人問わば、朝日に匂う山桜花」

という古歌である。〃今〃即〃久遠〃なり。我らはこの日本的思惟によって〃今〃潔く生きんかな。

                 〜 つづく

『天皇信仰と日本國體』  第四章 日本の心と日本的思惟  (21) (2819)
日時:2012年10月25日 (木) 13時49分
名前:童子

           八.民族の精神と日本的思惟について (つづき)




 ◎さて一夜の同衾によって木花咲耶姫は妊娠せられた。その時のことを古事記は次の如く書いている。


 「木花之佐久夜毘女、参出て白したまわく、妾妊身(あれはらめ)るを、今産むべき時になりぬ。是の天津神の御子、私に産みまつるべきにあらず、故(かれ)、請(もう)すこと申したまいき。爾(かれ)、詔(の)りたまわく〃佐久耶毘売一宿(ひとよ)にや妊(はら)める、是(そ)は我が子に非じ、必ず国津神の子にこそあらめ〃と宣りたまえば、〃我が妊める子、もし国津神の子ならんには、産むこと幸からじ、もし天津神の御子にまさば幸(さき)からん〃と申して、戸無き八尋殿を作りて、その殿内に入りまして、土もて塗りふたぎて、産みます時にあたりて、その殿に火をつけてなも産ましける」


 このようにして燃える焔の中に於いてでも焼け滅びることなしに三人の王子、火照命(ほでり)、火須勢理命(ほすせり)、火遠理命(ほおり)がお生まれになったのである。


 日本民族は、生命の實相は不死であり、火にも焼けず、水にも濡れない霊的存在であるということを自覚していたのであり、古事記はそのことを象徴的に書いているのである。




 ◎更に、生命は水にも濡れずということは火遠理命〈彦火々出見命〉が龍宮〈海の底〉に案内せられ海神の娘豊玉姫と結婚せられた物語に表現されているのである。




 ◎古事記は、龍宮を単に〃海底〃という意味のほかに、時間空間いまだ発せざる〃未発の中〃の一点〈目旡勝間(めなしかつま)の小船〉に乗って到達するところの〃生命の本源世界〃として描いているのである。

 無時間・無空間の絶対無〈相対無ではない〉の奥に、七宝充満せる龍宮世界〈実相界〉があるのである。この日本的哲学は〃今〃即〃久遠〃の日本民族的生き方の本源をなすものである。大東亜戦争中の特攻隊の生き方も、淵源するところ、日本的思惟に基くものである。

                 〜 つづく

『天皇信仰と日本國體』  第四章 日本の心と日本的思惟  (22) (2820)
日時:2012年10月25日 (木) 14時14分
名前:童子

           八.民族の精神と日本的思惟について (つづき)



 ◎さて彦火々出見命が海神の娘・豊玉姫命と結婚せられた結果、豊玉姫命と結婚せられた結果、豊玉姫命は愈々出産のときが来たのである。豊玉姫命は、古事記の中で次のようにいっている。

  「天津の御子を海原に生みまつるべきにあらず」と。そして、渚に産屋をつくり鵜の羽をもって屋根を葺くことにしたのであるが、あまりの安産で鵜葺草を葺き終らないうちに御子がお生まれになったので、その御子を鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)と名づけ奉ったのであった。



 ◎豊玉姫命がお産をせられるときに、彦火々出見命はひそかに隙間よりお覗きあそばした。すると豊玉姫は、龍宮の龍神であるという実相をあらわして「八尋和爾(やひろわに)に化りて匍匐い委蛇(もこよ)いき」と古事記には記述されているのである。


 〃八尋〃というのは〃八〃は彌々多く〃であり無限であり、〃尋〃は広がりである。無限ひろがりの実相世界に円くトグロを巻いて八紘(やひろ)を和して家族にしていたというのである。〃爾〃は「近い」という意味の字であって八紘を和して近親者となす日本民族の使命が象徴的に表現されているのである。


 次に鵜葺草葺不合命が龍宮系の姫君・玉依姫を娶り給うて、産み給うた皇子のひとりが、のちに神武天皇とお成りあそばされる神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれひこ)であらせられるのである。



 ◎こうして日本民族は、天神の後 が天降りて、地神の大山津見神系を娶られ、ついで龍宮神の後 と結ばれ、更に地上に於いて出雲系の神と結ばれ、渾然一体なる大和の民族として渾成したという自覚をもつのである。

                        = この章終り =

出典 (2821)
日時:2012年10月25日 (木) 14時22分
名前:童子

 (一)生長の家と日本精神 
 (二)上御一人様こそ本当の神
 (三)八絋一宇の哲学
 (四)具体にして普遍なるもの
 (五)教えの本源は『御中』に在り
 (六)民族と歴史的現実 
         『新日本の心』(昭和17年発行)

 (七)政治の本質について
         『第二青年の書』(昭和34年発行)

 (八)民族の精神と日本的思惟について
         『理想世界』誌 昭和44年2月号

附: 『元々』という漢字を何故『おほみたから』と読むかの疑問 (2822)
日時:2012年10月25日 (木) 14時43分
名前:童子

 ・・・・・つつしみて、高御座(たかみくら)に坐してまず天皇みずから鎮魂して自己の心を整え、存在の本元たる実相を魂に鏤刻(るこく)して政治を執るという意味が次の神勅に示されているのである。


 「宮室(おおみや)を経営(おさめつく)りて、恭(つつし)みて宝位(たかみくらい)に臨み、以(もち)て元元(おおみたから)を鎮め、上(かみ)は即ち乾霊(あまつかみ)の国を授けたまひし徳(みうつくしび)に答へ、下(しも)は皇孫(すめみま)の正(ただしきみち)を養ひたまひし心(みこころ)を弘むべし・・・・・・」


 『元元』とあるのを、どの神勅の解説書を見ても、『おほみたから』と振仮名をつけられていて、元元とは国民のことであるという風に解説されているのである。

 わたしもズッと前からそのような解説書を数冊読んで、みんなそのようにフリガナしてあるからその通りに理解し、日本天皇は国家の本元は国民にあるので、国民のことを国の〃元の元〃という意味で『元元』に『おほみたから』と読むようになっていたのだと何の疑問もなく、今まで、そのように理解して来たのであったが、

 今度この建国開都の詔勅を読み直してみて、実に行きとどいて一分一厘の隙もなく、人時処の三相応、適人、適時、適処の法則にかなう御文章だと感銘深く拝読していると、『元元』というのを『おほみたから』と読んで『国民』と解することは適当でないことに気がついたのである。
                  〜 つづく

附: 『元々』という漢字を何故『おほみたから』と読むかの疑問 (つづき) (2968)
日時:2012年10月29日 (月) 13時13分
名前:童子

 その第一の理由は、既にこの詔勅(みことのり)の前半には「国民」のことを「民」という字を当てて何の敬称もつけずに書いてあることである。


 それなのに天皇が皇位に登りましました後に、先に「民」と無敬称で書いて来られた国民のことを「元元」と書いて、国家成立の〃元の元〃が国民であるから〃国の大御宝(おおみたから)〃であると大変な尊称をもって表現したのであるとするのは、

 民主主義の現代に迎合するためなら仕方がないことであるが、また、実際、国民が国家成立の元の元であって、国民が互に集って自己防衛や相互扶助のために国をつくったところの諸外国の国家ならば、国民は国家形成の〃元元〃であり「大御宝(おおみたから)」とフリガナしても適当であろうけれども、

 日本国家の〃天皇中心国家〃なる霊的原型は、皇祖天照大神の御発想になるのであり、そのアイディアが天孫瓊々杵尊の御降臨となり、更に日本列島に具体的国家として成立し、大和の橿原宮に神武天皇の御即位に見るに至ったのであるから、国民は国家成立の元々(はじめのはじめ)ではないのである。

 だから「元元」を国民だと解し、「おほみたから」とフリガナするのは何としても不合理なことだと私は気がついたのである。

                 〜 つづく

附: 『元々』という漢字を何故『おほみたから』と読むかの疑問 (つづき) (3052)
日時:2012年10月31日 (水) 18時32分
名前:童子

 文章の順序から言うならば、「元元」とは「国民」のことを意味するのであるならば、それは「天津神の国を授けたまいひし徳(みうつくしび)に答へ」とあるその後に、控え目に国民のことを書くべきであるのである。


 しかも宝位に登り給うとその直後に、何故「元元(おおみたから)を“鎮め”」と、あたかも皇位にのぼりて国民を“鎮定”した如き用語を用いたのであろうか。


 しかも、日本国は神授の国であるというので「上は即ち乾霊の国を授けたまひし徳に答へ」とある文章の直前に、「神授の国」ではなく、国の元(はじめ)の元(はじめ)は国民であるから国民は国の宝であるから〃元元〃と書いて〃おほみたから〃とフリガナして〃乾霊(あまつかみ)〃よりも順序を上座に置きたる如く見える行文は何としても不合理であるのである。

                 〜 つづく

附: 『元々』という漢字を何故『おほみたから』と読むかの疑問 (つづき) (3183)
日時:2012年11月03日 (土) 17時38分
名前:童子

 だから私は「元元(げんげん)」を一切の‘もと’’の‘もと’の元(はじめ) ―― ずなわち「実相」と解して、神武天皇さまは皇位にお登り遊ばすと、もって天津神を拝して鎮魂を修し給い、国及び皇位の実相たる「元元(はじめのはじめ)」を観じ給うて、この国は自力の武力で得たところの国ではないと悟り給うて

 「上は則ち乾霊(あまつかみ)の国を授け給うたもの」として天津神・皇祖天照大神の御徳に答え、その天津神の御徳を承けて歴代の皇孫(すめみま)が国民を愛し給うて正しき道に則(のっと)って国を治め給うたその愛の心、義の心を天下に弘める。

 この事こそ皇位にある者の使命であると、御即位に臨んでその大使命を天下に公宣したまうたのが、この「建都御即位の詔勅」であると解釈するのである。

           『聖なる理想・国家・国民』



 〜〜〜

 この項は、『天皇信仰と日本國體』には掲載されておりませんが、
 重要項目として、勝手ながら追加いたしました。



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