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雅宣総裁! 汝、未だ侵略戦争観を改めぬか? 「東條英機・宣誓供述書」を見よ!<全六回・完了> (2691)
日時:2012年10月22日 (月) 22時12分
名前:信徒連合

合掌、ありがとうございます。

当、光明掲示板に昨日10月21日に行なわれた、東京第二教区の講習会で、雅宣総裁が「共産中国の尖閣諸島奪取戦略の進行について、『奪うものは奪われる』の法則に当てはまると言った」と云う投稿がありました。

この発言内容の詳細は今のところ判りませんが、彼がもしこのような発言をしたとするならば、日本は大東亜戦争で中国を侵略したのだから、『奪うものは奪われる』の法則によって、共産中国が尖閣諸島奪取を進めてくるのは至極当然な事である、と云うのが雅宣総裁の考え方であるように解釈されるのであります。


二年前の10月、東京第二教区の講習会があり、平成22年10月11日付けの『小閑雑感』の文中で「・・・国の防衛力は現象的には必要であり、価値あるものである。その反面、警察力や軍隊組織は、使い方しだいでは“善”とは逆の方向に働くことがあることを十分心得ておかねばならない。戦前の日本社会の経験が、それを有力に教えてくれる。・・・」と云う雅宣総裁の考え方が記されていました。

ここでも彼は、戦前の日本は国家防衛のための軍隊の使い方を誤った。つまり、日本は侵略戦争を為した悪い国、侵略国家であったと断じているのであります。雅宣総裁は、それまでの欧米諸国の有色民族国家への植民地侵略の歴史や、日露戦争後の米国を中心とした日本への圧力の歴史を考慮の外において、<大東亜戦争=侵略戦争=日本は悪、連合国側は善>と云う戦後日教組自虐歴史観の立場に立って平成二年以来ズーッと侵略戦争観を主張し続けているのであります。

そしてこの個人的な侵略戦争観を、こともあろうに公の“地方講師試験”に出題し、大東亜戦争は侵略戦争であった、と回答を書いた者のみを講師として合格させているのであります。


今回の10月21の東京第二教区で、冒頭のような共産中国側に立ったような発言を為したとするならば、彼は依然として侵略戦争観を持ち続けているのであり、このことは、彼が個人的な思想を総裁という独裁的立場を利用して公の「生長の家」の考え方にすり替えている、最もタチの悪いズルイ振る舞いであります。

ハッキリと云えることは、雅宣総裁は今回の発言によって、正真正銘の“左翼主義者”である事が改めて浮き彫りになった事であります。それも所謂、“背広を着た左翼”であり其の中でも最もタチ(性質)の悪い“法衣を着た左翼”であります。ヤクザ以上のものであります。ヤクザといわれる人達は、まだ自分たちがしていることは悪いと認識しておりますが、

背広や法衣を着た左翼は自分たちの思想が日本破壊の思想であるとの認識がないのであります。だから、一番タチ(性質)が悪いのであります。雅宣総裁はまさに“反日的・日本人”であり、中道実相の愛国団体「生長の家」総裁としては相応しからぬ人物であります。反日的思想団体「雅宣教」として速やかに外部独立してもらわねばならぬのであります。



偶然の一致か、洵に不思議な事ですが、当、「信徒連合」の「生長の家・今昔物語」の次の掲載シリーズのパソコン打ち込み作業が本日完了したのであります。それは、東京裁判での「東條英機・宣誓供述書」であります。これは岩間書店発行の「大東亜解放戦争」下巻P.168〜245の部分であります。この内容について御存知の方は少ないと思われます。

そこで、雅宣総裁の侵略戦争観が如何に間違っているかを証明する第一級の資料でありますので、「生長の家・今昔物語」での掲載は来年になりますので、雅宣総裁の間違った尖閣問題発言を摧破せんがために本日より数回のシリーズとして投稿いたしたいと思います。

偶然と云うものはない訳でありますから、ちょうど符帳するように目に見えない世界では「東條英機・宣誓供述書」のパソコン打ち込み作業の完了日が決められていたとしか言いようがないと感じます。そこで、まず“導入”として、同書P.241〜245の「東條英機の慟哭」として書かれた著者・岩間弘氏の文章を最初にお読み頂きたいと存じます。



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東條英機の慟哭


今、東條英機の供述書を終って思うことは米軍の逮捕の使者が自宅に来た時、東條英機はピストル自殺を図ったが、どうしたことか手元が狂い自殺を為損ったのであった。首相で陸軍大臣という最高責任者だった者がと世間から冷笑を受けたが、あれは神様が日本の為に死なせない様に、手許を狂わせたものであったと私には思えてきた。

東條英機程の人が普通だったら手元が狂う筈はないからである。多くの人達はそんな馬鹿な、とお思いになるかも知れないが神様は全知全能であるから、神様なら不可能を可能にすることが出来ると思う。之は信じるか信じないかの問題だから、判ってくれる人は判ってくれると私は思う。


さて余談になったが神様は東條英機にこの供述書を書く意思と時間を与えて下さったのだと私は思う。大東亜戦争について述べるのに、どんな人が書こうがこの東條英機の供述書に勝るものはないと私は思った。“神様は日本を護って下さっている”これを読むとその感が深い。多くの人がこの供述書を読むことによって、日本が戦った大東亜戦争の実相を知ることが出来て、日本は侵略国ではなかったのだという事を正しく知ることが出来るのではないかと思うのであります。


その言葉に、行間に、天皇への忠誠と、憂国と愛国の裂帛(れっぱく)の気合が感じられる。そこには死を覚悟した、いや、生死を超越した勇者のことばがあるのみである。


さて、東條英機のお孫さんに岩浪由布子(いわなみゆうこ)さん(本名岩浪淑枝=英機の長男英隆氏の長女)が居られるが、その方が書かれた『祖父東條英機「一切語るなかれ」』があるが、その中に「祖父が巣鴨拘置所にあった時に三浦先生は東條の主任弁護人、清瀬一郎先生と弁護の仕方で激論を交わしたことがある。

清瀬さんは東條の罪を軽くすることに奔走されていた。しかし、三浦先生の考え方は違っていた。たとえ死刑になったとしても、法廷では東條は堂々と自分の考えを述べるべきだと。そうでなければ、何故戦争を始めたかの一番大切なところが曖昧になるという立場をとられた。祖父もまったく三浦先生と同じ考えだったからこそ、あれほど堂々と法廷で自論を述べることが出来たのであろう。」と書かれている。供述書の終りの摘要に堂々と述べている。再び述べると


「私は茲に重ねて申上げます。日本帝国の国策乃至は当年合法に其の地位に在った官吏の採った方針は、侵略でもなく、搾取でもありませんでした。

一歩は一歩より進み又、適法に選ばれた各内閣はそれぞれ相承けて、憲法及び法律に定められた手続きに従い之を処理して行きましたが、遂に我が国は彼の冷厳なる現実に逢着したのであります。

当年国家の運命を商量較計(注・左右する)するの責任を負荷した我々としては、国家自衛のために起ったという事が唯一つ残された途でありました。

我々は国家の運命を賭しました。而して敗れました。而して眼前に見るが如き事態を惹起したのであります。

戦争が国際法上より見て正しき戦争であったか否かの問題と、敗戦の責任如何との問題とは、明白に分別の出来る二つの異なった問題であります。

第一の問題は外国との問題であり、且つ法律的性質の問題であります。

私は最後まで此の戦争は自衛戦であり、現時承認せられたる国際法には違反せぬ戦争なりと主張します。

私は未だ嘗て我国が本戦争を為したことを以て、国際犯罪なりとして勝者より訴追せられ、又敗戦国の適法なる官吏たりし者が、個人的の国際法上の犯人なり、又条約の違反者なりとして糾弾せられるとは考えた事とてはありませぬ。

第二の問題、即ち敗戦の責任については当時の総理大臣たりし私の責任であります。この意味に於ける責任は、私は、之を受諾するのみならず真心より進んで之を負荷せんことを希望するものであります。」と結んでおります。


大東亜戦争は自衛戦であったというのは、その日本と戦った米国の連合国最高司令官マッカーサーは昭和二十五年五月二十五日、北朝鮮が突如三十八度戦を突破して韓国に攻め入った朝鮮戦争によって、共産主義国の脅威にはじめて目覚めて、朝鮮戦争に原爆を使うかどうかについて、トルーマン大統領と意見が合わず解任された後、アメリカ上院で証言し、「日本が太平洋戦争を戦ったのはSecurity(セキュリティー・防衛安全保障)の為即ち自衛の為だったと証言したのである。


日本とフィリッピンで死闘を戦った最高司令官が証言した意義は重大である。東京裁判を指揮して七名を絞首刑、残り十八名は全員有罪としたその人が、防衛・安全保障のためだった即ち侵略戦争ではなかったと証言したことは、東京裁判は間違っていたと証言した事と同じである。


これを念頭に置いて、再び岩浪由布子さんの書物から次の文を読むと東條英機の心情に心が打たれるのである。


即ち「・・・開戦を避けるために日夜必死に続けられていた日米交渉は遂に決裂し、昭和十六年十二月八日、日本は米・英に対して宣戦を布告した。十二月六日深夜から七日にかけて、祖母たちは祖父の寝室から忍び泣きの声が洩れてくるのに気がついた。その声は次第に慟哭(どうこく)に変わっていった。祖母がそっと寝室を覗くと、祖父は蒲団に正座して泣いていた。和平を希求される陛下の御心に心ならずも反する結果になり、宣戦布告をするに至った申しわけなさで身も心も、ちぎれる思いだったに違いない。慟哭の涙はとめどなく流れた。祖母は寒い廊下にしばし茫然と立ち尽くしていた。」とあります。


これを読むと、東條英機はこの戦争に、日本が勝利することは、きわめて難しいと覚悟をしていた様に思われる。それが判って居ても日本は戦わざるを得なかったのである。そして死中に活をもとめたのだろう。

日本は戦争はしたくはなかったのだ。しかし戦争をしないでハルノートを受諾したらどうだったか。

日本は一戦も交えずに敗けたと同じに、支那、満州、仏印から、陸、海、空軍及警察の撤退、満州政府の否認、汪兆銘政府の否認ということになれば日本の面子は丸つぶれとなり、日本国内に反対の声が湧き起こり、三国干渉で旅順、大連を返還した時と比べものにならない騒乱の発生が予想されるのである。

そうなれば戦はず敗戦国となり、収拾がつかなくなる恐れがあったのである。

インドのパール判事はハルノートについて次の様に語っている。「現在の歴史家でさえも、つぎのように考えることができる。すなわち、今次戦争についていえば、真珠湾攻撃の直前に、アメリカ政府が日本に送ったものと同じ通牒を受けとった場合、モナコ王国、ルクセンブルグ大公国のような国でさえも、アメリカにたいして武器をとって起ちあがったであろう」(田中正明「パール博士の日本無罪論」)と言っているのである。


再び云う。日本は自ら好き好んで戦ったのではなく、自存自衛の為の戦いで侵略戦争ではなかったのである。



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(参考)

「大東亜解放戦争」上下巻  岩間 弘 著

発行所

〒 981−1505
宮城県角田市角田字裏町156−31

TEL: 0224−62−1783
 
FAX: 0224−62−1778

郵便振替: 02240−9−46042

(尚、著者・岩間弘氏は誌友信徒の方でもあります。)




大東亜解放戦争 =真相は日本が勝ったのだ= 「東條英機・宣誓供述書」<第一回> (2710)
日時:2012年10月23日 (火) 07時58分
名前:信徒連合

大東亜解放戦争 

=真相は日本が勝ったのだ=

(上下二巻)岩間書店刊・岩間 弘著




二十、東条英機(P.168〜245)

時局が緊迫する中、米国の最後通牒ともいうべきハルノートを突き付けられ日本は、自存自衛のため決然起って戦う以外に道なしと昭和十六年十二月八日、ハワイ真珠湾攻撃を敢行、大東亜戦争へと突入したのであった。この間の事は当時の首相であった東條英機が、戦後東京裁判にかけられた時、その所信を堂々と述べた供述書が、高原大学滝沢宗太編著として出版された「正義を貫いた東条英機東京裁判供述書」に詳しく述べられている。これは首相として、また、陸軍大臣として日本の立場を一身を賭して供述したもので、非常に価値の高いものであると思われるので、私はこれを日本国と天皇陛下の名誉の為、及び東条英機元首相はじめ戦犯と言われ裁判にかけられた多くの人々の名誉の為、及び全日本国民の名誉のために、これを転載記述(要点のみ)して、これを読まれる諸賢に供したいと思うのであります。なお紙数の都合上、NO.55、より掲載させて頂きます。



<天皇に責任なし、敗戦の責・我にあり>


東条英機宣誓供述書(全文)(ここでは要点のみ)
昭和二十二年十二月二十六日提出

極東軍事裁判所
 亜米利加合衆国 其他
     対
 荒木貞夫 其他

宣誓供述書 
 供述者 東條英機

自分儀我国ニ行ハルル方式ニ従ヒ宣誓ヲ為シタル上次ノ如ク供述致シマス
右ハ当時立会人ノ面前ニテ宣誓シ且署名捺印シタルコトヲ証明シマス
同日 同所
 立会人  清瀬一郎


宣誓書

良心ニ従ヒ真実を述ベ何事ヲモ黙秘セズ又何事ヲモ附加セザルコトヲ誓
 署名捺印 東條英機

昭和二十二年(一九四七年)十二月十九日 於 東京 市ヶ谷 
 供述者東條英機



< 第三次近衛内閣に於ける日米交渉(其一、九月六日 御前会議前)>


五五、

第二次近衛内閣の日米交渉は停頓し遂に該内閣の倒壊となったのであります。・・・私の観察に依ればこの政変は、日米交渉を急速に且つ良好に解決するために松岡外相の退場を求めたということに在ります。同氏に辞表を迫るときは勢い混乱を生ずるが故に、総辞職という途を撰んだのであります。・・・この経過によっても、次に出来た第三次近衛内閣の性格と使命が明らかとなります。


五六、

然るに「アメリカ」側では南部仏印進駐を以て、日本の米英蘭を対象とする南進政策の第一歩であると誤解しました。之に依って太平洋の平和維持の基礎を見出すことを得ずといって日米交渉の打ち切りを口にし、又資産凍結を実行するに至りました。・・・日本は進出の限度及び撤兵時期も明示して居ります。此の場合出来得るだけの譲歩はしたのであります。然るに米国側は一歩もその主張を譲らぬ。日本の仏印進出の原因の除去については少しも触れて来ない。ここに更に日米交渉の難関に遭遇したのであります。


五七、

近衛首相は此の危機を打破するの途は唯一つ。此際日米の首脳者が直接会見し、互いに誠意を披露して、世界の情勢に関する広き政治的観点より国交の回復を図るの外はないと考えました。・・・米国は主旨に於いては依存はないけれども、主なる事項、殊に三国同盟条約上の義務の解釈並びにその履行の問題、日本軍の駐留問題、国際通商の無差別問題につき、先ず合意が成立することが第一であって、この同意が成立するにあらざれば、首脳会見に応ずることを得ずという態度でありました。そこで此の会談は更に暗礁に乗り上げたのであります。



< 九月六日の御前会議 >


五八、

米英蘭の一九四一年(昭和十六年)七月二十六日(この後は一九四一年等の西暦を省略して単に昭和十六年の如く昭和の年号で記することとします)の対日資産凍結を繞(めぐ)り日本は国防上死活の重大事態に当面しました。此の新情勢に鑑み我国の今後採るべき方途を定める必要に迫られました。ここに於て昭和十六年九月六日の御前会議に於て「帝国国策遂行要領」と題する方策(法定証第五八八号の中段)が決定されたのであります。・・・私は陸軍大臣として之に関与致しました。


五九、

その要旨は

一、 十月上旬頃迄を目指して日米交渉の最後の妥結に努める。之がため我国の最小限の要求事項並に我国の約諾し得る限度を定め極力外交に依ってその貫徹を図ること。

二、 他面十月下旬を目途として自存自衛を全ふするため対米英戦を辞せざる決意を以て戦争準備を完成する。

三、 外交交渉に依り予定期日に至るも、要求貫徹の目途なき場合は直ちに対米英蘭開戦を決意する。

四、 その他の施設は従前の決定に依る。
というのであります。


六○、

此の要領を決定するに当たって存在したりと認めた急迫せる情勢及之を必要とした事情は概ね次の七項目であります。(弁護側証第二九二三号)

a、 米英蘭の合従連衡に依る対日経済圧迫の実施――米英蘭政府は日本の仏印進駐に先立ち、緊密なる連携の下に各種の対日圧迫を加えて来ました。・・・
右の如く同じ日「アメリカ」「イギリス」「オランダ」が対日資産凍結を為した事実より見て、此等の政府の間に緊密なる連絡がとられて居ったことは明白なりと観察せられました。その結果は日本に対する全面的経済断交となり、爾来日本は満州、支那、仏印、泰(タイ)以外の地域との貿易は全く途絶し、日本の経済生活は破壊せられんとしたのであります。(中略)

b、 (中略)

c、 日本の国防上に与えられたる致命的打撃――米英蘭の資産凍結により日本の必要物資の入手難は極度に加わり日本の国力及び満州、支那、仏印、泰(タイ)に依存する物資による外なく、其の他は閉鎖せられ或種の特に重要な物資は貯蔵したものの、消耗によるの外はなく、殊に石油は総て貯蔵によらなければならぬ有様でありました。この現状で推移すれば、我国力の弾発性は日一日と弱化し、その結果日本の海軍は二年後にその機能を失ふ。液体燃料を基礎とする日本の重要産業は、極度の戦時規制を施すも一年を出でずして、麻痺状態となることが明らかにされました。ここに国防上の致命的打撃を受くるの状態となったのであります。
(中略)

g、 外交と戦略との関係――外交に依り局面が何しても打開出来ぬとなれば日本は武力を以て軍事的、経済的包囲陣を脱出して国家の生存を図らねばならないのであります。(中略)


六一、

万一太平洋戦争となる場合の見通しは、世界最大の米英相手の戦争であるから、容易に勝算の有り得ないことは当然でありました。そこで日本としては、太平洋及び印度洋の重要戦略拠点と、日本の生存に必要なる資源の存在する地域に進出して、敵の攻撃を破砕しつつ頑張り抜く以外に方法はないと考えたのであります。



< 第三次近衛内閣に於ける日米交渉(其二、九月六日の午前会議以後)>


六九、

九月六日の御前会議の決定以後の対米外交は専ら豊田外相の手に依りて行はれたのであります。・・・而して対米外交の経路は従前と異なり二つの筋によって行なはれました。その一つは豊田外相より米国駐日大使を通じて進行する方法でありました。此の交渉と近衛首脳者会談とは我方では、大きな期待をかけて居たのであります。之に対する回答は十月二日米国の「口上書」(証一二四五号G)として現われました。

之を野村大使に交付するときの「ハル」長官の言によれば、米国政府は予め了解が成立せざれば両首脳の直接会見は危険であるというのであります。(中略)要するに以上によって首脳者会談の成立せざることは明白となりました。・・・日本は生存上の急を要する問題を解決しようとするに対し、米国は当初より原則論を固執するのみであります。

当時の米国の考えは野村大使よりの十月三日の米国の一般状況具申の電報(註二九〇六号)に依り明らかであると認めました。之によれば米国はいよいよ大西洋戦に深入りすることになり、これがため対日態度に小康を保ちつつあるが、さりとて対日経済圧迫の手を緩めず、その既定の政策に向かって進みつつあることは、最も注意すべきことであるといって居ります。なお、此の電報には此のまゝ対日経済戦を行いつつ武力戦を差し控えるに於ては米国は戦はずして対日戦の目的を達するものであると云って居ります。


七三、

昭和十六年十月十二日、午後二時より首相の招致により荻外荘(近衛首相の荻窪の邸宅)にて、五相会議が行われました。出席者は近衛首相、及川海相、豊田外相、鈴木企画院総裁、及び陸相の私でありました。・・・この会合の目的は日米交渉の成否の見通し並に、和戦の決定についての懇談でありました。長時間に亘って議論されましたが、詳細は今記憶して居りませぬが、各自の主張の要点は次の如くでありました。

 近衛首相並に豊田外相の主張――日本の今日までの主張を一歩も譲らぬというのであったならば日米交渉成立の見込みはない。しかし交渉の難点は撤兵問題である。それであるから、撤兵問題に於て日本が譲歩するならば交渉の見込みはある。日本としては撤兵問題に際し、名を捨て実をとるということが出来る。即ち一応は「アメリカ」の要求に従って全面撤兵をすることにし、そして中国との交渉により新たなる問題として駐兵することも可能であるというのであります。之は実際に於ては明かに九月六日の御前会議の決定の変更でありますが、両大臣は特に決定変更とまでは言われなかったのでした。

 私の主張――今日までの日米交渉の経過より見て、殊に九月六日の御前会議の決定に基づく対米交渉に対し米国の十月二日の回答並びに、首脳会談の拒否の態度を見ても、日米交渉の成功の目途はないのではないか。これ以上の継続は徒に米側の遷延策に乗ぜられるのみである。・・・米国の狙いは・・・交渉の進むに従いその目的が無条件撤兵であるという事が明らかとなって来た。換言すれば名実共に即時且つ完全撤兵を要求してきて居るのである。

従って両大臣の言わるる如き名を捨てて実を採ると云う案によって、妥協が出来るとは考えられぬ。然らば仮に米国の要求を鵜呑みにし、駐兵を放棄し、完全撤兵すれば如何なることになるか。日本は四年有余に亘りて為したる支那事変を通しての努力と犠牲とは空となるのみならず、日本が米国の強圧に依り中国より無条件退却するとすれば、中国人の侮日思想は益々増長するであろう。共産党の徹底抗日と相待ちて、日華関係は益々悪化するであろう。その結果、第二、第三の支那事変を繰り返すや必至である。

日本の此の威信の失墜は、満州にも、朝鮮にも及ぼう。尚、日米交渉の難点は駐兵、撤兵に限らず、彼の米国四原則の承認、三国条約の解釈、通商無差別問題等幾多そこに難関がある。此等の点より言うも、日米妥協はもはや困難なりと思ふ。しかし、外相に於て成功の見込みありとの確信あらば更に一考しよう。又、和戦の決定は統帥に重大関係がある。従って総理だけの決定に一任する訳には行かぬ。(後略)


七五、

十月十四日は閣議の日であります。・・・午前十時閣議が開かれました。豊田外相は外交妥結の見込みについては、荻窪荘会談と同様の意見を述べました。此の閣議では近衛首相も、及川海相も他の全閣僚も何等発言しませんでした。ここに於て外相と陸相との衝突となり、之にて万事は休したのであります。




大東亜解放戦争 =真相は日本が勝ったのだ= 「東條英機・宣誓供述書」<第二回> (2767)
日時:2012年10月24日 (水) 09時21分
名前:信徒連合




< 東条内閣の組閣 >


七八、

昭和十六年十月十七日には前日来、辞職願を出したため此の日私は官邸にてその引払いの準備を致して居りました。午後三時三十分頃侍従長より、天皇陛下の思召に依り直ちに参内すべしとの通知を受けました。突然の御召のことではありますから、私は何か総辞職に関し、私の所信を質されるものであろうと直感し、奉答の準備のために書類を懐(ふところ)にして参内しました。


七九、

参内したのは午後四時過と思いますが、参内すると直ぐに拝謁を仰付かり組閣の大命を拝したのであります。その際賜はりました御言葉は、昭和十六年十月十七日の木戸日記にある通りであります。(法定証第一一五四号英文記録一〇二九一頁)・・・即ち「只今陛下より陸海軍協力云々の御言葉がありましたことと拝察しますが、なほ国策の大本を決定せらるゝについては、九月六日の御前会議決定に捉わるゝことなく、内外の情勢を更に深く検討して慎重なる考究を加ふるを要するとの思召であります。命(めい)に依り其の旨申し上げて置きます」というのであります。之が後にいう白紙還言の御諚であります。


八〇、

私としては組閣の大命を拝すると云う如きことは思いも及ばぬことでありました。(中略)私が皇族内閣を適当なりと考えたには次の理由に拠るのであります。・・・新内閣が前内閣の決定を覆えすことは出来ますが、御前会議は問題と異なり、内閣でなく政府と統帥部との協定を最高の形式に於て為したものであります。
従って統帥部が九月六日の御前会議決定の変更に同意しない場合には、非常に厄介な問題を惹起する惧れがあったのであります。皇族内閣ならば、皇族の特殊の御立場により斯る厄介な問題をも克服して円滑に九月六日の御前会議の決定を変更し得ると考えたからであります。

従って私自身私が後続内閣の総理大臣たるの大命を受けること乃至は、陸軍大臣として留任することは、不適当なりと考えたのであります。又、斯の如き事の起ろうとは無想もしませんでした。殊に私は近衛内閣総辞職の主唱者であるのみならず、九月六日の御前会議決定に参与したる責任の分担者であるからであります。特に九月六日の御前会議決定の変更のためには、私が総理大臣としては勿論陸軍大臣として留任することが却って、大いなる困難を伴ない易いのであります。以上は当時私および私を繞(めぐ)る陸軍内部の空気でありました。故に若し「白紙還元」の御諚を拝さなければ、私は組閣の大命を受け容れなかったかも知れないのであります。

此の「白紙還元」と云うことは、私もその必要ありと想って居たことであり、必ず左様せねばならぬと決心しました。なお此の際、和か戦か測られず、いづれにも応ぜられる内閣体制が必要であると考えました。之に依り私自身陸軍大臣と内務大臣と兼摂する必要ありと考へ、その旨を陛下に予め上奏することを内務大臣にお願いしました。当時の情勢では、もし和と決する場合には相当の国内的混乱を生ずるおそれがありますから、自ら内務大臣としての責任をとる必要があると思ったのであります。陸軍大臣兼摂には現役に列する必要があり、それで現役に列せられ陸軍大臣に任ぜられましたが、このことは、後日閑院宮殿下の御内奏に依ることであります。


八一、

組閣についてはなかなか考えが纏まりません。此の場合神慮に依るの他なしと考へ、先ず明治神宮に参拝し、次に東郷神社に賽(さい)し、靖国神社の神霊に謁しました。その間に自ら組閣の構想も浮びました。(後略)


八二、

(前略)十八日朝は靖国神社例祭で午前中は天皇陛下は御親拝あり自分も参列しました。午後一時閣員名簿を捧呈、四時親任式を終り、茲に東條内閣は成立致しました。



< 十一月五日の御前会議の前後 >


八三、

前に述べた通り私が組閣の大命を拝受したとき、天皇陛下より平和御愛好の大御心より前に申した通りの「白紙還元」の御諚を拝しました。依て組閣後、政府も大本営も協力して、直ちに白紙にて重要国策に対する検討に入りました。十月二十三日より十一月二日に亘り縷々連絡会議を開催し、内外の新情報に基き純粋に作戦に関する事項を除き、外交、国力及び軍事に亘り各般の方面より慎重審議を重ねました。その検討の結果米側の十二月二日の要求を参酌して、先ず対米交渉に関する要領案を決定したのであります。之は後に十一月五日の御前会議決定となったもので、その内容は法廷証第七七九号末段と略ぼ同様と記憶します。


八四、

次で此の対米交渉要領に依り、日本の今後に於ける国策を如何に指導するかに付、更に審議を尽し最後に三つの案に到達したのであります。

第一案は、新たに検討を加えて得たる対米交渉要領に基き、更に日米交渉を続行する。而して其の決裂に終りたる場合に於ても、政府は隠忍自重するというのであります。

第二案は、交渉をここで打ち切り、直ちに開戦を決しようというのであります。

第三案は、対米交渉要領に基きて交渉を続行す。他面交渉不成立の場合は戦争決意を為し、作戦の準備をなす。

そして外交による打開を十二月初頭に求めよう。交渉成立を見たるときは作戦準備を中止する。交渉が決裂したるときは直ちに開戦を決意す。開戦の決意は更めて之を決定するものであります。


八五、

(前略)然し、たとい決裂に陥りたる場合に於ても直ちに米英蘭と戦争状態に入ることは慎重なる考慮を要する。それは我国としては支那事変は既に開始以来四年有余となるが、而も未だ解決を見ぬ。支那事変を控えて対米英戦に入ることは、日本の国力より言うも、国民の払う犠牲より言うも、之を極力避けなければならぬ、今は国力の全部を支那事変の解決に向けて行きたい。故に日本は外交交渉の場合に於ても、直ぐに戦争に入らず、臥薪嘗胆再起を他日に期すべきである。

次の理由は、国民生活の上よりするも、亦支那事変遂行の途上にある今日、軍需生産維持の点よりいうも、今日は至大なる困難にある。而して最も重要なる問題は液体燃料の取得である。これさへ何とか片付けばどうにか耐えて行けるものではあるまいか。それ故、人造石油を取り上げ、必要の最小限の製造に努力しようではないかといふにあります。

この案に対する反対意見は、国家の生存に要する物質は、米英蘭の封鎖以来致命的打撃を受けて居る、殊に液体燃料に於て然りである。もし此のまま推移すれば、就中(なかんずく)、海軍と空軍は二年を出でずして活動は停止せられる。之は国防上重大なる危機である。支那事変の遂行もそのために挫折する。人造石油の問題をその設備の急速なる増設により解決し得るならば之は最も幸である。依て此の点に対し真剣なる研究を為したその結論は、日本はその1ヶ年の最小限の所要量を四百万屯とし、之を得るためには、陸海軍の軍需生産の重要なる部分を停止するも、四年乃至(ないし)七年の歳月を要するとの結論に到達した。

此の期間の間は貯蔵量を以て継がなければならぬのであるが、斯の如き長期の間、貯蔵量を以ってつないで行くことは出来ぬ。そうすれば国防上重大なる危険時期を生ずる。且つ軍需生産の重要部分の停止ということは、支那事変遂行中の陸海軍としては、之を忍ぶことは出来ぬ。故に此の際、隠忍自重、臥薪嘗胆するということは帝国の死滅を意味する。ここに坐して死滅を待つよりも死を決して包囲網を突破し、生きる道を発見する必要がある。支那事変四年有余、更に米英戦に入ることは、国民の負担の上に於ても、政府としては耐え難き苦悩である。然し悠久なるべき帝国の生命と権威のためには国民は之を甘受してくれるであろうというのでありました。


八七、

第三案、即ち交渉を継続し、他面交渉不成立の場合は戦争決意を為し作戦の準備を為すという案の理由は、前記第一号第二案を不可とする理由として記述したものと同一であります。


八九、

この案に付いては、更に連絡会議に於いては、第三案の主旨に基き、今後の国策遂行の要領を決意し必要なる手続きを経て後に、昭和十六年十一月五日の御前会議で更に之を決定しました。これには私は総理大臣及び陸軍大臣として関与したことは勿論であります。これが十一月五日の「帝国国策遂行要領」というのであります。此の本文は存在せず提出は不能でありますが、この要旨は私の記憶によれば次の通りであります。(弁護士側証二九四五号)

第一に、帝国は現下の危機を打開し、自存自衛を全うするための対米英戦を決意し、別紙要領甲乙両案に基き日米外交交渉により打開を図ると共にその不成立の場合の武力発動の時期を十二月初頭と定め、陸海軍は作戦準備を為す。――尤も開戦の決意は更にあらためてする。及ち十二月初頭に自動的に開戦となるわけではない。

第二、独、伊との提携強化を図り、且つ武力発動の直前に泰(タイ)との間に軍事的緊密関係を樹立する。

第三、対米交渉が十二月初頭迄に成功せば作戦準備を停止する。

というものであります。
右の中第一項に別紙として記載してあるものが前記証七七九号末段である甲案、乙案であります。之を要するに、我が国の自衛と権威とを確保する限度に於て甲乙の二つの案をつくり、之を以て日米交渉を進めようとしたのであります。

その中の甲案というのは九月二十五日の日本の提案を基礎とし、既往の交渉経過より判断したる米国側の希望を出来るだけ取入れたる最後的譲歩案であって慎重なる三点につき譲歩して居ります。その要旨は法廷証第二九二五条(記録二五九六六)にある通りであります。

乙案というのは、甲案が不成立の場合に於ては、従来の行きがかりから離れて、日本は南部仏印進駐以前の状態にかえり、米国も亦、凍結令の廃止その他、日本の生存上最も枢要とし、緊急を要する物資取得の最小限度の要求を認め、一応緊迫した日米関係を平静にして、更めて全般的日米交渉を続けんとするものであります。其の要旨は法廷証一二四五号にある通りであります。


九〇、

右の深刻なる結論を、昭和十六年十一月二日午後五時頃より参謀総長軍令部総長と共に、内奏しました。其の際天皇陛下には吾々の上奏を聞し召されて居られましたが、その間陛下の平和御愛好の御信念より来る御心痛が切々たるものある如く、其の御顔色の上に拝察しました。陛下は総てを聴き終られ、暫く沈痛な面持ちでお考えでありましたが、最後に陛下は「日米交渉に依る局面打開の途を極力盡(つく)すも而も達し得ずとなれば、日本は止むを得ず米英との開戦を決意しなければならぬのかね」と深き御憂慮の御言葉を漏らされまして、更に「事態謂(い)ふ如くであれば、作戦準備を更に進むるは止むを得なかろうが、何とか極力日米交渉の打開を計って貰いたい」との御言葉でありました。(我々は右の御言葉を拝し恐懼した事実を今日も鮮やかに記憶して居ります)。

斯して十一月五日の御前会議開催の上更に審議を盡すべき御許しを得たのでありましたが、私は陛下の御憂慮を拝し、更に熟考の結果、連絡会議、閣議、御前会議の審議の外に、更に審議検討に手落ちなからしめ、陛下の此の御深慮に答うる意味に於いて、十一月五日の御前会議に先立ち、更に陸海軍合同の軍事参議官会議の開催を決意し、急遽其の御許しを得て十一月四日に開催せらるる如く取り運んだのでありました。此の陸海軍合同の軍事参議官会議なるものは、明治三十六年軍事参議官制度の創設せられてより初めての事であります。



< 十一月五日の御前会議 >


九二、

以上は昭和十六年十一月五日の御前会議に至る迄の間に於て開かれた政府と統帥部との連絡会議及び軍事参議官会議で為された協議の経過並びに結果であります。十一月五日には右の案を議題として午前会議が開かれました。(後略)


九三、

元来此の種の御前会議は政府と統帥部との調整を図ることを目的として居るのであります。日本の制度に於ては、政府と統帥部は全然分立して居りますから、斯の如き調整方法が必要となって来るのであります。此の会議には予め議長というものもありません。その都度陛下の御許しを得て、首相が議事を主宰するのを例と致します。この会議で決定したことは、その国務に関する限りは更に之を閣議にかけて最後の決定をします。又統帥に関することは統帥部に持ち帰り、必要なる手続きをとるのであります。この如くして後、政府並びに統帥部は別々に天皇陛下の御允裁(ごいんさい)を乞うのであります。

従って憲法上の責任の所在は国務に関することは内閣、統帥に関することは統帥部が、各々別々に責任を負い其の実行に当るのであります。又幹事として局長なり書記官長が出席しますが、之は責任者ではありません。

御前会議、連絡会議の性質及び内容は右の如くでありまして政府及び統帥部の任務遂行上必要なる当然の会議であり検事側の観察しあるが如き共同謀議の機関と見るは誣言(ふげん)であります。






大東亜解放戦争 =真相は日本が勝ったのだ= 「東條英機・宣誓供述書」 <第三回> (2812)
日時:2012年10月25日 (木) 10時21分
名前:信徒連合



< 東條内閣に於ける日米交渉 >


九八、

政府は日米交渉が益々困難に陥らんことを予見し且つ、その解決の急を要する情勢にあるに鑑み、同年八月中の野村大使よりの要請に基き、各交渉援助のため来栖大使を派遣することに致したのであります。来栖氏は十一月五日東京を発ち、同月十五日に「ワシントン」に到着したのであります。之は真面目に日米交渉の妥結を企図したもので、日本の開戦意思の隠蔽手段では断じてありません。(後略)


一〇〇、

日米交渉は甲案より始められたものでありますが、同時に乙案をも在米大使に送付して居ります。交渉は意の如く進行せず、その難点は依然として三国同盟関係、国際通商無差別問題、支那駐兵、にあることも明らかとなり、政府としては両国の国交の破綻を回避するため、最善の努力を払うため従来の難点は暫く措き、重要且つ緊急なるもののみに限定して、交渉を進めるために予め送ってありました乙案によって、妥結を図らしめたのであります。(後略)


一〇一、

昭和十六年十一月十七日、私は総理大臣として当時開会の、第七十七議会に於て施政方針を説明する演説をいたしました。(弁護側証二二六号)之により日本政府としての日米交渉に対する態度を明らかにしたのであります。(中略)

(一)第三国が支那事変の遂行を妨害せざること。

(二)日本に対する軍事的、経済的妨害の除去及び平常関係に復帰

(三)欧州戦争の拡大とその東亜への波及の防止、とであります。

右に引き続き東郷外相は日米交渉に於ける我方の態度につき、二つのことを明らかにせられました。(法廷証第二七四三号)その一つは、今後の日米交渉に長時間を要する必要のなかるべきこと。その二つは、我方は交渉の成立を望むけれども、大国として権威を毀うことは之を排除するというのであります。首相及び外相の演説は即世界に放送せられ中外に明らかにせられました。(中略)
右政府の態度に対し十一月十八日貴衆両院は孰(いず)れも政府鞭撻の決議案を提出し満場一致之を可決したのであります。(弁護側証二○九、二七一二)


一○二、

前に述べました我国の最後案である乙案については、日米交渉に於いても、米国政府は依然として難色を示し、野村、来栖大使の努力に拘らず、米国政府は依然六月二十一日案を固執して居って、交渉の成立は至難でありました。他方十一月二十四日より二十六日に亘って、米国は英、蘭、支各国代表と蜜に連絡し各国政府間に緊密の連絡を遂げて居ることは当時の情報に依って判って来ております。


一○三、

これより先、米英濠蘭の政情及び軍備増強は益々緊張し又、首脳者の言動は著しく挑発的となって来ました。(弁護側証二九二三号) 之が我国朝野を刺激し、又前に述べた議会両院の決議にも影響を与えたものと認められます。例へば昭和十六年十一月十日には、「チャーチル」英首相は「ロンドン」市長就任午餐会に於て「アメリカ」が日本と開戦の暁には「イギリス」は一時間内に対日宣戦を布告するであろうと言明したと報ぜられました。(法廷証二九五六、英文記録二六一○五、証一一七三、英文記録一○三五二)・・・・「ルーズベルト」大統領はその前日である休戦記念日に於て、米国は自由維持のためには永久に戦はんと述べ・・・「ノックス」海軍長官の如きは、右休戦記念日の演説に対日決意の時到ると演説したのであります。(中略)なお、十一月二十四日には米国政府は蘭領「ギアナ」へ陸軍派兵に決した旨を発表しました。米軍の蘭領への進駐は日本として関心を持たずには居られませんでした。(後略)



< ハルノート >


一○四、

斯の緊張裏に米国政府は昭和十六年十一月二十六日に、駐米野村、来栖両大使に対し、十一月二十日の日本の提案に付ては、慎重に考究を加え関係国とも協議をしたが、之には同意し難しと申し来り、今後の交渉の基礎としての覚書を提出いたしました。之が彼の十一月二十六日の「ハルノート」であります。その内容は証第一二四五号1(英文記録一八一五)の通りであります。此の覚書は従来の米国側の主張を依然固持する許りではなく、更に之に付加する当時日本の到底受け入れることのなきことが明らかとなって居った次如きの難問を含めたものであります。即ち

(一) 日本陸海軍はいふに及ばず警察隊も支那全土(満州を含む)及び仏印より無条件に撤兵すること。

(ニ) 満州政府の否認

(三) 南京国民政府の否認

(四) 三国同盟条約の死文化

であります。


一○六、

十一月二十七日には午前十時より政府と統帥部は宮中に於て連絡会議を開催して居りました。・・・そのうちに「ワシントン」駐在の陸軍武官より米国案の骨子だけが報道されて来ました。之によれば前に概略言及したような苛酷なものでありました。同様な電報は海軍武官よりも言って来ました。同日即ち十一月二十七日午後二時より更に連絡会議を開き、各情報を持ち寄り審議に入ったのでありますが、一同は米国案の苛酷なる内容には唖然たるものがありました。その審議の結果到達したる結論の要旨は次の如くなりと記憶します。

(一) 十一月二十六日の米国の覚書は明らかに日本に対する最後通牒である。

(ニ) 此の覚書は我国としては受諾することは出来ない。且つ米国は右条項は日本の受諾し得ざることを知りて之を通知して来て居る。しかも、それは関係国と緊密なる了解の上に為されて居る。

(三) 以上のことより推断し、又最近の情勢、殊に日本に対する措置言動、並びに之により生ずる推論よりして、米国側に於ては既に、対日戦争の決意を為して居るものの如くである。それ故に何時米国よりの攻撃を受けるやも測られぬ。日本に於ては十分警戒心を要するとのこと。即ち此の連絡会議に於ては、もはや日米交渉の打開はその望みはない。従って十一月五日の御前会議の決定に基き行動するを要する。しかし、之に依る決定はこの連絡会議でしないで、更に御前会議の議を経て之を決定しよう。そしてその午前会議の日取は十二月一日と予定し、此の御前会議には政府からは、閣僚全部が出席しようということでありました。(後略)


一○九、

次の事柄は、私が戦後知り得たことがらであって、当時は之を知りませんでした。

(一) 米国政府は早く我国外交通信の暗号の解読に成功し、日本政府の意図は常に承知して居ったこと、

(二) 我国の昭和十六年十一月二十日の提案は日本としては最終提案なることを、米国国務長官では承知して居ったこと。

(三) 米国側では十一月二十六日の「ハルノート」に先立ち、なお交渉の余地ある仮取極(かりとりきめ)案を「ルーズヴェルト」大統領の考案に基きて作成し、之により対日外交を進めんと意図したことがある。この仮取極案も米国陸海軍の軍備充実のために余裕を得る目的であったが、孰(いず)れにするも仮取極は「イギリス」及び重慶政府の強き反対に会い、之を取りやめ遂に証第一二四五号(1)の通りのものとして提案したものであること、並びに日本が之を受諾せざるべきことを了知して居たる事。

(四) 十一月二十六日の「ハルノート」を日本政府は最後通牒と見て居ることが米国側にわかっていたこと。

(五) 米国は一九四一年(昭和十六年)十一月末、既に英国と共に対日戦争を決意して居った許りでなく、日本より先に一撃を発せしむることの術策が行われたることであります。十一月末のこの重大なる日数の間に於て、斯の如き事が存在して居ろうとは無想だも致して居りませんでした。



< 十二月一日 御前会議 >


一一五、

(前略)十一月二十六日に至り米国の最後通牒に接し、我国としては日米関係はもはや外交折衝によっては、打開の道なしと考へました。此のことは前にも述べた通りであります。以上の経過を辿ってここに開戦の決意を為すことを必要としたのであります。之がために開かれたのが十二月一日の御前会議であります。…….此の会議では従前の例に依り御許しを得て私が議事進行の責に当りました。当日の議題は「十一月五日決定の帝国国策遂行要領に基く対米交渉遂に成立するに至らず、帝国は米英国に対し開戦す」(法廷証第五八八号の末尾)というのでありました。(中略)最後に原枢密院議長より総括的に次の如き意見の開陳がありました。

(一) 米国の態度は帝国としては忍ぶべからざるものである。此上、手をつくすも無駄なるべし、従って開戦は致方なかるべし。

(二) 当初の勝利は疑いなしと思う。(後略)

(三) 戦争長期となれば、国の内部崩壊の危険なしとせず、政府としては十分に注意せられ度し。

之に対し私は次のように答えました。

(中略)皇国隆昌の関頭に立ち、我々の責任これより大なるはない。一度開戦御決意になる以上、今後一層奉公の誠を尽くし、政府統帥部一致し、施策を周密にし、挙国一体必勝の革新を持し、あくまでも全力を傾倒し、速やかに戦争目的を完遂し、以て聖慮に答え奉り度き決心であると。斯くしてこの提案は承認せられたのであります。此の会議に於て陛下は、何も御発言あらせられませんでした。


一一六、

此の会議に先立ち、内閣に於ては同日午前九時より臨時閣議を開き、事前に此の案を審議し、政府として本案に大体依存なしとして、御前会議に出席したのでありますから、此の会議をもって、閣議決定と観たのであります。統帥部に於ては各々その責任に於て更に必要な手続きを取ったのであります。


一一七、

以上の手続きに由り決定したる国策については、内閣及び統帥部の輔弼(ほひつ)及び輔翼(ほよく)の責任者に於て、其の全責任を負うべきものでありまして、天皇陛下の御立場に関しては、寸毫の誤解を生ずるの余地なからしむるため、ここに更に詳説いたします。これは私に取りて真に重要な事柄であります。

(一) 天皇が内閣の組織を命ぜらるるに当っては、必ず往時は元老の推挙により、後年殊に本訴訟に関係ある時期に於ては、重臣の推薦及び常時輔弼の責任者たる内大臣の進言に由られたのでありまして、天皇陛下が此等の者に推薦及び進言を却け、他の自己の欲せらるる者に組閣を命ぜられたというが如き前例は未だ嘗てありませぬ。又統帥部の輔翼者(複数)の任命に於ても、既に長期間の慣例となった方法に依拠せられたものであります。即ち例えば、陸軍に在りては三長官(即ち陸軍大臣、参謀総長、教育総監)の意見の合致に由り、陸軍大臣の輔弼の責任に於て御裁可を仰ぎ決定を見るのであります。海軍のそれに於ても同様であります。此の場合に於ても天皇陛下が右の手続きに由る上奏を排して他を任命せられた実例は記憶いたしませぬ。以上は明治、大正、昭和を通しての永い間に確立した慣行であります。

(二) 国政に関する事項は必ず右手続きで成立した内閣及び統帥部の輔弼輔翼に因って行なわれるのであります。此等の助言に由らずして陛下が独自の考えで国政又は統帥に関する行動を遊ばされる事はありませぬ。この点は旧憲法にもその明文があります。その上に更に慣行として、内閣及び統帥部の責任を以て為したる最後決定に対しては天皇陛下は拒否権は御行使遊ばされぬという事になって来ました。

(三) 時に天皇陛下が御希望又は御注意を表明せらるる事もありますが、而も此等御注意や御希望は総て、常時輔弼の責任者たる内大臣の進言に由って行なわれたことは、某被告の当法廷に於ける証言に因り立証せられた通りであります。而もその御希望や御注意等も、之を拝した政治上の輔弼者(複数)、統帥上の輔翼者(複数)が更に自己の責任に於て之を検討し、その当否を定め、再び進言するものでありまして、此の場合常に前申す通りの慣例により御裁可を得て定め、之を拒否せられた事例を御承知いたしませぬ。之を要するに天皇は自己の自由の意志を以て内閣及統帥部の組織を命じられませぬ。内閣及統帥部の進言は拒否せらるることはありませぬ。天皇陛下の御希望は、内大臣の助言に由ります。而も此の御希望が表明せられました時に於ても、之を内閣及び統帥部に於て其の責任に於て審議し上奏します。この上奏は拒否せらるることはありませぬ。これが戦争史上空前の重大危機に於ける天皇陛下の御立場であられたのであります。現実の慣行が以上の如くでありますから、政治的、外交的及軍事上の事項決定の責任は、全然内閣及統帥部に在るのであります。夫れ故に昭和十六年十二月一日開戦の決定の責任も亦内閣閣員及統帥部の者の責任でありまして、絶対的に陛下の御責任ではありません。



大東亜解放戦争 =真相は日本が勝ったのだ= 「東條英機・宣誓供述書」<第四回> (2859)
日時:2012年10月26日 (金) 09時31分
名前:信徒連合





< 十二月一日の御前会議終了より開戦に至る迄の重要事項 >



一一九、

十二月一日以後開戦までは屡々連絡会議を開きました。そして此間に作戦実施準備と国務につき重要なる関係を有する諸事項を決定しましたが、そのうち重なるものは次の通りであったと記憶します。これ等は本節冒頭に陳べました純統帥以外のことであり、国務と統帥との両者に関連を有する事柄であって、両者の間に協定を遂げたものであります。

(一) 対米通告とその米国への手交の時期の決定
(二) 今後の戦争指導の要領の決定
(三) 占領地行政実施要領の決定
(四) 戦争開始に伴なう対外措置の実行
(五) 宣戦詔勅の決定




< 対米通告と米国政府への手交時期の決定―― >



一二○、

日本政府は昭和十六年十二月八日(日本時間)米国に対し、駐米野村大使をして、帝国が外交交渉を断絶し、戦争を決意せる主旨の通告を交付せしめました。その文言は法廷証第一二四五号のKの通りであります。そうして此の通告に対する外交上の取扱は外務省の責任に於てせられたのであります。

これより先、昭和十六年十一月二十七日の連絡会議に於て同月二十六日のアメリカの最後通牒と認められる「ハルノート」に対する態度を定めたことは既に前に述べました。之に基き東郷外相より私の記憶に依れば、十二月四日の連絡会議に於て、我国より発すべき通告文の提示があったのであります。之に対し全員異議なく承認し、且つその取扱に付ては、概ね次のような合意に達したと記憶します。

A、右外交上の手続きは外務大臣に一任すること

B、右通告は国際法に依る戦争の通告として、その米国政府に手交後に於ては、日本は行動の自由をとり得ること

C、米国政府への手交は必ず攻撃実施前に為すべきこと、この手交は、野村大使より米国政府責任者へ手交すること、駐日米大使に対しては、攻撃実施後に於て之を通知する。通告の交付は攻撃の開始前に之をなすことは、予て天皇陛下より私及び両総長に屡々御指示があり、思召は之を連絡会議関係者に伝え連絡会議出席者は皆之を了承して居りました。

D、通告の米国政府に対する手交の時間は、外相と両総長との間に相談の上之を決定すること、蓋(けだ)し外交上、作戦上機微なる関係がありましたからであります。

 真珠湾其の他の攻撃作戦計画及び作戦行動わけても攻撃開始の時間は大本営に於ては極秘として一切之を開示しません。従って連絡会議出席者でも陸海軍大臣以外の閣僚等は全然之を知りません。私は陸軍大臣として参謀総長より極秘に之を知らされて居りましたが、他の閣僚は知らないのであります。私の検事に対する供述中法廷第一二○二号のAとして提出してある部分に、真珠湾攻撃の日時を東郷外務大臣及び鈴木企画院総裁が知って居たと述べているのは全く錯誤であります。之はここに訂正いたします。わたしの記憶によれば、昭和十六年十二月五日の閣議に於て対米最終的通告につき、東郷外務大臣よりその骨子の説明がありました。会員は之を了承しました。

日本政府に於ては十二月六日に野村大使に対し慎重廟議を尽くしたる結果、対米覚書を決定したこと、又此の覚書を米国に提示する時期は追て電報すべきこと、並びに覚書接到の上は何時にても、米国に交付し得るような文書整備其の他、予め万般の手配を了し置くよう外相より訓電せられて居ります。詳細は山本熊一氏の証言せる如くであります。(英文記録第一○九七頁参照)その上右覚書本文を打電したのであります。翌十二月七日にはその覚書は正確に「ワシントン」時間七日午後一時を期し米側に(加成(なるべく)、国務長官に)野村大使より直接に交付すべき旨訓電して居ります。

要するに、対米通告の交付については、日本政府に於ては真珠湾攻撃前に之をなす意思を有し、且つ此の意思に基き行動したのであります。而して私は当時其の交付は野村大使に依り外相の指示に基き指定の時間に正しく手交せられたものと確信して居りました。蓋し斯の如き極めて重大なる責任事項の実行については、出先の使臣は完全なる正確さをもって事に当るということは、何人も曾て之を疑わず、全然之に信頼して居るのは当然であります。然るに事実はその手交が遅延したることを後日に至り承知し、日本政府としては極めて之を遺憾に感じました。対米最終報告の内容取扱については、外務省当局に於て国際法、及び国際条約に照し慎重審議を尽して取扱ったものであって、連絡会議、閣議とも全く之に信頼して居りました。



< 宣戦の詔書 >



一二四、

宣戦詔書の決定と其の布告、帝国は昭和十六年十二月八日、開戦の第一日宣戦の詔書を発布しました。右詔書は法廷証第一二四○号がそれであります。而して此の詔書はその第一項に明示せらるる如く、専ら国内を対象として発布せられたものであって、国際法上の開戦の通告ではありません。


一二五、

之より囊(さき)、昭和十六年十一月二十六日米国の「ハルノート」なる最後通牒を受取り開戦はもはや避くべからざるものとなることを知るに及び、同年十一月二十九日頃の連絡会議に於て宣戦詔書の起草に着手すべきことを決定しましたと記憶します。十二月五日頃の閣議並びに十二月六日頃の連絡会議に於て詔書草案を最終的に確定し上奏したのであります。

尤も事の重大性に鑑み中間的に再三内奏いたしました。その際に右文案には二つの点につき、聖旨を体して内閣の責任に於て修正を致したことがあります。その一つは第三項に「今ヤ不幸ニシテ米英両国ト戦端ヲ開クニ至ル洵ニ己ムヲ得サルモノアリ豈朕か志ナラムヤ」との句がありますが、これは私が陛下の御希望に依り修正したものであります。その二は十二月一日、木戸内大臣を経て稲田書記官を通じ、詔書の末尾を修正致しました。それまでの原案末尾には、「皇道ノ大義ヲ中外ニ宣揚センコトヲ期ス」とありましたが、御希望に依り「帝国ノ光栄ヲ保全セムコトヲ期ス」と改めたのであります。右二点は孰れも陛下の深慮のあらせらるるところを察するに足るものであります。(法廷証三三四○号中二四○節、二四一節)(中略)…

而してその間と雖も米国の反省による外交打開に一縷の望みをかけて居った。その妥結を見たならば作戦中止を考えて居ったが遂に開戦になったこと、並に「オランダ」に対しては開戦の当初、その攻撃を予期して居らず従って日本より好んで宣戦する必要はない。それであるから「オランダ」のことは此の詔書より除外したと述べたのであります。



< 真珠湾攻撃の実施 >



一二六、

帝国は昭和十六年十二月一日より開戦準備に入り、大本営陸海軍統帥部の企画に基づき、敵の大包囲網を「ハワイ」、比島、香港、及び「マレー」の四ヶ所に於て突破するの作戦に移りました。十二月八日(日本時間)早暁其の攻撃を実施しました。而して此の攻撃は何れも軍事目標に指向せられたのであります。此の攻撃作戦は統帥部に於て極秘裡に進められたものであります。私と海軍大臣を除く他の閣僚は事前に之を承知して居りません。(中略)即ち敵の方より先制することがあり得ると思われましたからです。先ず日本をして一撃を加へしめるよう仕向けるというが如き戦争指導手段が「アメリカ」側に考えられて居ったということは、その当時は予期して居りませんでした。


一二七、

私が真珠湾攻撃の成功の報を受け取ったのは、昭和十六年十二月八日午前四時三十分頃(日本時間)海軍側から伝えられた報告に依ったものと記憶致します。而してその奇蹟的成功を欣び天に感謝しました。大本営陸海軍報道部は同日午前六時米英と戦争状態に入りたる旨を発表し、同日八時三十分臨時閣議を招集し、此の席上初めて陸海軍大臣より作戦の全貌を説明したのであります。此の間に「マレー」方面の作戦成功の状況についても報告を受けました。


一二八、

我国の最終的通告を米国へ交付遅延の事情は証人亀山の証言(英文記録二六一八六頁)及び結城の証言(英文記録二六○九頁)により明白となりました。日本は真珠湾攻撃のために右覚書交付の時間決定については此の交付を故意に遅らせたという如き姑息なる手段に出たものではないことは、前に述べた通りであります。なお此のことは、実際上よりいうも証拠の示す如く、米国は攻撃の前に之を予知し、之に対する措置を構じて居ったのでありますから、もし覚書交付遅延の如きことをするも、格別の効果はなかったのであります。



< 大東亜解放と東條内閣 >

日本の企画せる大東亜政策殊に之を継承して東條内閣に於てその実現を図りたる諸事情



一四一、

日本の企図して居りました大東亜政策というものはその時代に依って各種の名称を以て表現せられて居ります。即ち例えば「東亜新秩序」「大東亜の建設」又は「大東亜共栄圏の建設」等というのがその例であります。此の大東亜政策は、支那事変以来具体的には歴代内閣によりその実現を企図せられ来ったものであります。そしてその究極の目的は、東亜の安定の確立ということに帰するのであります。而して昭和十五年七月の第二次近衛内閣以後の各内閣に関する限り、私はこの政策に関係したものとして其の真の意義目的を証言する資格がある者であります。


一四二、

抑々日本の大東亜政策は、第一次世界大戦後世界経済の「ブロック」化に伴い近隣世界相互間の経済提携の必要から、此の政策が唱えられるに至ったのであります。其の後東亜の赤化と中国の排日政策とにより支那事変は勃発しました。そこで日本は防共と経済提携とに依て、日華の国交を調整し以て東亜の安定を回復せんと企図しました。日本は支那事変を解決することを以て東亜政策の骨子としたのであります。

然るに、日本の各般の努力にも拘らず、米、英、蘇の直接間接の援蒋行為に依り事態は益々悪化し、日華両国の関係のみに於て支那事変を解決することは不可能であって、之が為には広く国際改善に待たねばならぬようになって来ました。日本は之に努力しましたが、米、英は却て対日圧迫の挙に出たのであります。茲に於て日本は止むを得ず、一方仏印、泰、更に蘭印との友好的経済的提携に努むると共に、東亜の安定回復を策するの方法をとるに至りました。以上は元より平和的手段に拠るものであり、亦列国の理解と協力とに訴えたものであります。

然るに日本に対する米英蘭の圧迫は益々加重せられ、日米交渉に於て局面打開不可能となり、日本は己むを得ず自存自衛のため武力を以て包囲陣を脱出するに至りました。右武力行使の動機は申す迄もなく、日本の自存自衛にありました。一旦戦争が開始せられた以後に於ては、日本は従来採り来った大東亜政策の実現、即ち東亜に共栄の新秩序を建設することに努めました。大東亜政策の実現の方策としては、先ず東亜の解放であり次で、各自由且つ独立なる基礎の上に立つ一家としての大東亜の建設であります。


一四三、

大東亜政策の前提である「東亜解放」とは、東亜の植民地、乃至、半植民地の状態に在る各民族は他の民族国家と同様の世界に於て対等の自由を獲んとする永年に亘る熱烈なる希望を充足し、以て東亜の安定を阻害しつつある不自然の状態を除かんとするものであります。斯くして世界のこの部分に於ける不安は排除せられるのであります。恰も約一世紀前の昔「ラテンアメリカ」人が「ラテンアメリカ」解放のために戦ったのと同様であります。

当時、東亜民族が列強の植民地として又は半植民地として、他よりの不当なる圧迫の下に苦悩し、之よりの解放を如何に熱望して居たかはこの戦争中、昭和十八年十一月五日、六日、東京に開催せられたる「大東亜会議」に於る泰(タイ)国代表「ワンワイタヤーコン」殿下の演説に陳(の)べられた所により、之を表示することが出来ます。

曰く『特に一世紀前より英国と米国とは、大東亜地域に進出し来たり、或いは植民地として、或は原料獲得の独占的地域とし、或いは自己の製品の市場として、領土を獲得したのであります。従って大東亜民族は、或いは独立と主権とを失い、或は治外法権と不平等条約に依て、其の独立及び主権に種々の制限を受け、而も国際法上の互恵的取扱を得るところがなかったのであります。斯くして「アジア」は政治的に結合せる大陸としての性質を喪失して単なる地域的名称に堕したのであります。斯かる事情により生れたる苦悩は広く大東亜諸国民の感情と記憶とに永く留って居るのであります』と。(法廷証第二三五一)。

又同会議に於て南京政府を代表して汪兆銘(汪精衛)氏は其の演説中に於て為された演説を引用して居ります。之に依れば『日支両国は兄弟と同様であり日本は曾て不平等条約の束縛を受けるため発憤興起し、初めてその束縛を打破し、東方の先進国並に世界の強国となった。中国は現在同様に不平等条約廃棄を獲得せんとしつつあるものであり、日本の十分なる援助を切望するものである。中国の解放は即ち東亜の解放である』と述べております。(弁護側証第二七六○―B)

以上は単にその一端を述べたるに過ぎませぬ。之が東亜各地に鬱積せる不平不満であります。なお東條内閣が大東亜政策を以て開戦後、之を戦争目的となした理由につき簡単に説明いたします。従前の日本政府は、東亜に於けるこの動向に鑑み、又過去に於ける経験に照らして、早期に於て東亜に関係を有する列国の理解により之を調整するのでなければ、永久に東亜に禍根を為すものであることを憂慮致しました。

そこで大正八年(一九一九年)一月より開催せられた第一次世界大戦後の講和会議に於ては、我国より国際連盟規約中に人種平等主義を挿入することの提案を為したのであります。(弁護側証第二八八六号)、しかしこの提案は、あえなくも列強により葬り去られまして、その目的を達しませんでした。依って東亜民族は大いなる失望を感じました。大正十一年の「ワシントン」会議に於ては何等此の根本問題に触れることなく、寧ろ東亜の植民地状態、半植民地状態は九ヶ国条約により、再認識を与えられた結果となり東亜の解放を希う東亜民族の希望とは益々背馳するに至ったのであります。

次で大正十三年(一九二四年)五月米国に於て排日移民条項を含む法律案が両院を通過し、大統領の署名を得て同年七月一日から有効となりました。これより先、既に明治三十四年(一九○一年)には、豪州政府は黄色人種の移住禁止の政策をとったのであります。斯くの如く東亜民族の熱望には一顧も与えられずに、益々之と反対の世界政策が着々として実施せられました。そこで時代に覚醒しつつある東亜民族は、焦慮の気分をもって、その成行を憂慮いたしました。その立場上、東亜の安定に特に重大なる関係を有する日本政府としては、此の傾向を憂慮しました。歴代内閣が大東亜政策を提唱致しましたことは、此の憂慮より発したのであって、東條内閣はこれを承継して、戦争の発生と共に之を以て戦争目的の一つとしたのであります。




大東亜解放戦争 =真相は日本が勝ったのだ= 「東條英機・宣誓供述書」<第五回> (2890)
日時:2012年10月27日 (土) 10時46分
名前:信徒連合




一四四、

大東亜政策の眼目は大東亜の建設であります。大東亜建設に関しては当時日本政府は次のような根本的見解を持して居りました。

抑々世界の各国がその所を得、相寄り相扶けて万邦共栄の楽を偕(とも)にすることが世界の平和確立の根本要義である。而して特に関係深き諸国が互に相扶け各自の国礎を培ひ、共存共栄の紐帯を結成すると共に、他の地域の諸国家との間に「協和偕楽」の関係を設立することが世界平和の最も有効にして且つ実際的の方途である。是れが大東亜政策の根底をなす思想であります。

右は先に述べた昭和十八年十一月五日大東亜会議の劈頭(へきとう)に於て私の為した演説(法廷証一三四七号A)中にも之を述べて居るのであります。此の思想を根底として大東亜建設には次の様な五つの性格があります。

(一)は大東亜各国は共同して大東亜の安定を確保し、共存共栄の秩序を建設することであります。(後略)

(二)は大東亜各国は相互に自主独立を重んじ、大東亜の親和を確立することであります。(後略)

(三)は大東亜各国相互に其の伝統を尊重し、各民族の創造性に伸張し、大東亜の文化を昂揚することであります。

(四)は大東亜各国は互恵の下、緊密に連携し其の経済発展を図り、大東亜の繁栄を増進する事であります。(後略)

(五)は大東亜各国は万邦との交誼を厚くし、人種的差別を撤廃し、普く文化を興隆し、進んで資源を解放し、以て世界の進運に貢献することであります。(中略)口に自由平等を唱えつつ他国家、他民族に対し、抑圧と差別とをもって臨み、自ら膨大なる土地と資源とを壟断し、他の生存を脅威して顧みざる如き世界全般の進運を阻害する如き旧秩序であってはならぬと信じたのであります。以上は大東亜政策を樹立する当初より、政府は(複数)此の政策の基本的性格たるべしとの見解でありました。斯くの如き政策が世界制覇とか、他国への侵略を企図し、又は意味するものと解釈せらるゝということは夢だにもせざりし所であります。


一四五、

以上の大東亜建設の理念は、日本政府(複数)が従来より抱懐して居ったところでありまして、日本と満州国との国交の上に於ても、亦、日華基本条約乃至(ないし)は、日満華共同宣言の締結に於ても、日支事変解決の前提としても、なお又、仏印及び泰国との国交の展開の上に於ても、総ては平和的方法により、其の達成を期せんとして居ることは、前にも述べた通りであります。この主旨は昭和十八年(一九四三年)十一月五日開催の大東亜会議に参集しました各国の代表の賛同を得て、同月六日に大東亜宣言として世界に表示したのであります。(証第一三四六号英文記録第一二○九八頁)


一四九、

外に対する施策として実施しました事として昭和十七年(一九四二年)十二月二十一日対支新政策を立て大東亜政策の本旨に合する如く、日支間の不平等条約撤廃を目的として逐次左の如く施策を進め、昭和十八年十月三十日を以て之を完了しました。即ち

(一) 昭和十八年一月九日とりあえず、中国に於ける帝国の特殊権利として有したる一切の租界の還付及び治外法権の撤廃に関する日華協定を締結し、直ちに之を実行しました。(証第二六一○号)

(ニ) 昭和十八年二月八日、中国に於て帝国の有せる敵国財産を南京政府に移管しました。

(三) 次で昭和十八年十月三十日、日華同盟条約(法廷証第四六六号)を締結し、その第五条及び付属議定書により、之より蘘(さき)昭和十五年十一月三十日に締結した日華基本条約に定めてあった一切の駐兵権を放棄し、日支事変終了後日本軍隊の駐兵権を含め、全面撤兵を約束し、ここに日支間の平等条約の最後の残滓(ざんし)を一掃したのであります。

(四) 而して対等の関係に於て新たに、前述の同盟条約を締結し、相互に主権及び領土の尊重、大東亜建設及び東亜安定確保のための相互協力援助並びに両国の経済提携を約したのであります。

 右に関し昭和十八年十一月十五日の大東亜会議に於て、中国代表汪兆銘氏は次の如く述べて居ります。(弁護側証二七六○―B)『本年一月以来日本は、中国に対し早くも租界を還付し、治外法権を撤廃し、殊に最近に至り日華同盟条約をもって日華基本条約に代え、同時に各種付属文書を一切廃棄されたのであります。国父孫文先生が提唱せられました大東亜会議は、既に光明を発見したのであります。国父孫文先生が日本に対し切望しましたところの中国を扶け、不平等条約を廃棄するということも既に実現せられたのであります』と


一五○、

外に対する施策の其の二について一言しますれば、

(A)先ず「ビルマ」国の独立であります。昭和十八年八月一日、日本は「ビルマ」民族の永年の熱望に答え、その「ビルマ」国としての独立を認め且つ、同日之と対等の地位に於て日緬同盟条約(弁護側証第二七五七号)を締結しました。而してその第一条に於て其の独立を尊重すべきことを確約して居ります。

又、昭和十八年九月二十五日帝国政府は帝国の占領地域中「ビルマ」と民族的に深き関係を有する「マレー」地方の一部を「ビルマ」国に編入する日緬条約(弁護側証第二七五八号)を締結し之を実行しました。之によっても明瞭なる如く、日本政府は「ビルマ」に対し何等領土的野心なく唯、その民族の熱望に応え、大東亜政策の実現を望んだことが判るのであります。

元来「ビルマ」の独立に関しては日本政府は、太平洋戦争開始間もなく昭和十七年一月二十二日、第七十九議会に於て私の為した施政方針の演説中に於て、その意思を表明し(法廷証第一三三八号、英文記録一二○三四頁)又、昭和十八年一月二十二日第八十一議会に於て私の為した施策方針演説に於ても、「ビルマ」国の建国を認める旨を確約しました。(弁護側文書二七一一号)そして同年三月当時「ビルマ」行政府の長官「バー、モー」博士の来朝の際、之に我が政府の意思を伝え、爾後(じご)建国の準備に入り昭和十八年八月一日前述の如く独立を見たのであります。

「ビルマ」民族がその独立を如何に熱望して居たかは、同年十一月六日の大東亜会議に於ける「ビルマ」国代表「バー、モー」氏の演説中に明かにされて居ります。その中の簡単な一節を引用しますれば次の如く言って居ります。(法廷証第二三五三号)

『僅かに一千六百万の「ビルマ」人が独力で国家として生まれ出づるために戦争したときは常に失敗に終りました。何代にも亘って我々の愛国者は民衆を率い、打倒英国に邁進したのでありますが、我々が東亜の一部に過ぎないこと、一千六百万人の人間が、為し得ないことも十億の「アジア」人が団結するならば、容易に成就し得ること、此等の基礎的事実を認識するに至らなかったために、我々の敵に対するあらゆる反抗は、仮借することなく蹂躙(じゅうりん)されたのであります。斯くて今より二十年前に起った全国的反乱の際には「ビルマ」の村々は焼払われ、婦女子は虐殺され志士は投獄され、或は絞殺され、又は追放されたのであります。然し乍らこの反乱は失敗に終ったとは言え、この火焔(かえん)、アジアの火焔は「ビルマ」人全部の心中に燃えつづけたのでありまして、反英運動は次から次へと繰り返され、此のようにして闘争は続けられたのであります。而して今日漸くにして遂に我々の力は一千六百万人の「ビルマ」人の力のみではなく、十億の東亜人の力である日が到来したのであります。即ち東亜が強力である限り「ビルマ」は強力であり、不敗である日が到来したのであります』と。


(B)次は「フィリッピン」国の独立であります。昭和十八年十月十四日、日本は「フィリッピン」に対し全国民の総意によるその独立と憲法の制定とを認めました。(弁護側小証二八一○号)又同日これと対等の地位において同盟条約を締結しました。その第一条に於いて相互に主権及び領土の尊重を約しました。右の事実及び内容は弁護側証第二七五六号の通りであります。

元来「フィリッピン」の独立に関しては、太平洋戦争開始前、米国は比島人の元来の熱望に応へ一九四六年七月を期し、比島を独立せしむべき意思表示を行って居ります。我国は開戦間もなく一九四二年(昭和十七年)一月二十二日の第七十九議会に於て、比島国民の意思の存するところを察し、その独立を承認すべき意思表示をしました。(法廷証一三三八号)而して昭和十八年一月二十二日第八十一帝国議会に於てこれを再確認しました。(弁護側証第二七一一号)次で更に同年五月には、私は親しく比島に赴きその民意のある処を察し、その独立の促進を図り、同年六月比島人より成る独立準備会により、憲法の制定及び独立準備が進められました。かくして昭和十八年十月十四日比島共和国は独立国家としての誕生を見るに至ったのであります。而して比島民族の総意による憲法が制定せられ、その憲法の条草に基き「ラウレル」氏が大統領に就任したのであります。

又、日本政府は「ラウレル」氏の申出に基きその参戦せざること及び軍隊を常設せざることに同意しました。以上を以て明瞭なる如く日本は比島に対し何等領土的野心を有して居らなかったことが明らかとなるのであります。


(C)帝国と泰(タイ)国との関係に於ては、太平洋戦争が開始せらるる以前、大東亜政策の趣旨の下に平和的交渉が進められ、その結果

(1)昭和十五年六月十二日、日泰友好和親条約を締結し(法廷証五一三号)

(2)昭和十六年五月九日、保障及び政治的諒解に関する日泰間議定書を締結し(法廷証六三七号)相互に善隣友好関係、経済的緊密関係を約しました。

以上は太平洋戦争発生以前、日泰両国間は平和的友好裡に行はれたのであります。而して太平洋戦争後に於ては更に、

(3)昭和十六年十二月二十一日、日泰同盟条約を締結し(弁護側証第二九三二号)東亜新秩序建設の趣旨に合意し、相互に独立及び主権の尊重を確認し、且つ和平的軍事的相互援助を約しました。

(4)更に又、昭和十七年十月二十八日には日泰文化協会を締結して(弁護側証第二九三三号)両民族の精神的紐帯をも強化することを約しました。

(5)昭和十八年八月二十日、帝国は「マレー」に於ける日本の占領地中の旧泰国領土中、「マレー」四洲即ち「ベルリス」「ケダー」「ケランタン」及び「トレンガン」並びに「シャン」の二洲「ケントン」「モンパン」を泰国領土に編入する条約を締結したのであります。(弁護側証第二七五九号)

此の旧泰領土編入の件は、内閣総理大臣兼陸軍大臣たる私の発意によるものであります。(この決定の原本は今日入手不能、弁護側証二九二二号)同年七月五日私の南方視察の途、泰国の首都訪問に際し「ピプン」首相と会見し、日本側の意向を表明し、両国政府の名に於て之を声明したのであります。

元来泰国に譲渡するのに此の地を選びましたのは、泰国が英国により奪取せられた地域が最も新しい領土喪失の歴史を有する地域であるがためであって、其の他の地域の解決はこれを他日に譲ったのであります。本来この処置については当初は、統帥部に於て反対の意向がありましたが、私は大東亜政策の観点より之を強く主張し、遂に合意に達したのであります。帝国のこの好意に対し泰国朝野が年来の宿望を達し、その歓喜に満てる光景に接して私は深き印象を受けて帰国しました。帰国間もなく本問題の解決を促進することに致しました。

昭和十八年十一月六日の大東亜会議に於いて泰国代表「ワンワイ、タラヤコーン」殿下は之につき次の如く述べて居ります。(法廷証第二三五一号中)

『日本政府は宏量、克く泰国の失地回復と民力結集の国民的要望に同情されたのであります。斯くて日本政府は、「マライ」四洲及び「シャン」二洲の泰国領編入を承認する条約を締結されたのであります。これ実に日本国は、泰国の独立及び主権を尊重するのみならず、泰国の一致団結と国力の増進を図られたことを証明するものでありまして、泰国官民は日本国民に対して深甚なる感謝の意を表する次第であります。』と。

もっとも泰国民のこれに対する熱意を知るとともに、帝国に於ては、占領地域に対し領土的野心なきことの明白な証拠であります。(中略)而も本措置は此の占領地を自国の領土に編入するものではなく、泰国の福祉のためその曾て英国に依り奪取されたる旧領土を泰国に回復せんとする全く善意的のものであり、且つ之が東亜の平和に資するものであります。

当時この措置を為すに当り、持って居った私の信念を率直に申せば、一九四○年(昭和十五年)十二月独「ソ」間に「ポーランド」領を分割し国境の確定を為せる取り決めが行われたること、又、昭和十五年六月「ソ」連が「ルーマニア」領土の一部を併合したことを承知して居りました。此等の約定が秘密であると、公表されたるものであるとに拘らず、条約は即ち条約であり、共に国際法の制約の下に二大国家間に行なはれたる措置なりと承知しておりました。

尚、本、日泰条約は戦争中のものであります。而して日本としては、戦争の政治的目的の一つは東亜の解放でありました。故に私は、この目的達成に忠ならんと欲し何等躊躇(ちゅうちょ)するところなく、東亜の解放をドシドシ実行すべきであると考えたのであります。

即ち独立を許すべきものには独立を許し、自治を与うべきものには自治を与え、失地を回復すべき者には失地を回復せしむべきであるとの信念でありました。此等のことは戦後を待つ必要もなく、又之を待つを欲しなかったのであります。尚、終戦後左記の事実を知って、此の間の措置が国際法に豪末も抵触せざることを私は更に確信を得ました。即ち

(1)昭和十八年(一九四三年)十一月米、英、及び重慶政府間の「カイロ」会議に於て、未だその占領下にもあらざる日本の明瞭なる領土中、台湾、澎湖島を重慶政府に割譲するの約束が為されました。

(2)昭和二十年(一九四五年)二月ヤルタ協定に於て、これ亦未だ占領しあらざる日本領土である千島列島、樺太南部を「ソ」連に割譲することを、米、英、「ソ」間に約定せられ、而も他の条件と共に、之をもってソ連を太平洋戦争に参加を誘う道具となしたのであります。斯の如き措置は国際法の下に、大国の間に行なはれたのであります。私は此等により日本の先に為した措置が違法にあらざる旨を確信を得て居ります。


(D)蘭領印度に対しては、現地情勢は尚、その独立を許さざるものがありましたので、とりあえず、私は前記昭和十八年五月三十日の決定「大東亜政策指導要領」に基き内閣総理大臣として昭和十八年六月十六日、第八十二回帝国議会に於て、その施政演説中に於て(弁護側証第二七九二号)「インドネシア」人の政治参与の措置を採る方針を明らかにし、これに基き、現地当局は、これに応ずる処置をなし、政治参与機会を与えました。而して東條内閣総辞職後、日本は蘭印の独立を認める方針を決定したと聞いて居ります。

去る昭和二十二年(一九四七年)三月七日山本熊一氏に対する「コミンス、カー」検事の反対尋問中に証拠として提示せられたる日本外務省文書課作製と称せらるる『第二次大戦中ニ於ケル東印度ノ統治及ビ帰属決定ニ関スル経緯』(法廷証第一三四四号検察番号第二九五四号)に昭和十八年五月三十日御前会議に於て、東印度は帝国領土へ編入すべきことを決定したと述べて居ります。昭和十八年五月三十日の御前会議に於て蘭領東印度は一応帝国領土とする決定が為されたことは事実であります。此等地方の地位に関しては、私を含む政府は大東亜政策の観点より、速かに独立せしむべき意見でありましたが、統帥部及び現地総軍司令部並びに出先海軍方面に於て、戦争完遂の必要より過早に独立を許容するは適当ならずとの強き反対があり、議が進行せず、他面「ビルマ」「フィリッピン」の独立の促進及び泰国に対する占領地域の一部割譲問題など、政治的の急速処置を必要とするものあり、止むを得ず、一応帝国領土として、占領地行政を継続し置き、更に十分考慮を加え、且つ爾後の情勢を見て変更する考えでありました。

これで本件は特に厳秘に附し、現地の軍司令官、軍政官等にも全く知らしめず、先ず行政参与を許し其の成行を注視すると共に本件御前会議決定変更の機を覗って居たのであります。即ち、昭和十八年五月三十日御前会議決定当時に於ても此等の土地を永遠に帝国領土とする考えはありませんせした。この独立のための変更方を採用する前に、私どもの内閣は総辞職を為したのでありました。小磯内閣に於て「インドネシア」の独立を声明しましたが、私も此の事には全然賛成であります。(注・文中に「戦争完遂の必要より過早に独立を許容するは適当ならず」とあるのは蘭印の石油資源を日本の国有にして作戦に支障なく使う必要があった為と思はれます)


(E)帝国政府は昭和十八年十月二十日、自由印度仮政府の誕生を見るに及び十月二十三日にこれを承認しました。右仮政府は大東亜の地域内に在住せる印度の人民を中心として「シニバス、チャンドラボース」氏の統率の下に、印度の自由独立及び繁栄を目的として、之を推進する運動より生れたのであります。帝国は此の運動に対しては大東亜政策の趣旨よりして、印度民族の年来の宿望に同情し全幅の支援を与えました。なお、昭和十八年十一月六日の大東亜会議の機会に於て、我国の当時の占領地域中唯一の印度領たる「アンダマン、ニコバル」両諸島を自由印度仮政府の統治下に置く用意ある旨を声明しました。(弁護側文書第二七六○号−E)これ亦我が大東亜政策の趣旨に基き之を実行したのであります。




大東亜解放戦争 =真相は日本が勝ったのだ= 「東條英機・宣誓供述書」<第六回・最終回> (2936)
日時:2012年10月28日 (日) 17時02分
名前:信徒連合



一五一、

大東亜政策として外に対する施策の第三である大東亜会議は、日本政府の提唱に依り、昭和十八年十一月五、六日の両日東京に於て開催せられました。参会した者は中華民国代表、同国民政府行政院長汪兆銘氏、「フィリッピン」代表同国大統領「ラウレル」氏、泰国代表、同国内閣総理大臣「ピプン」氏の代理「ワンワイタラヤコーン」殿下、同国務総理張景恵氏、「ビルマ」代表、同国首相「バーモー」氏及び日本国の代表、内閣総理大臣である私でありました。この外自由印度仮政府首班「ボース」氏が陪席しました。

而して本会議の目的は、大東亜秩序の建設の方針及び大東亜戦争完遂に関し、各国間の意見を交換し、隔意なき協議を遂ぐるにありました。この会議の性質及び目的に関しては、予め各国に通報し、その検討を経(へ)、且つ其の十分なる承諾の下に行なはれたものであります。私は各国代表の推薦により議長として議事進行の衝に当りました。

会議の第一日即ち十一月五日には、各国代表がその国の抱懐する方策及び所信を披歴しました。第二日即ち十一月六日には、大東亜共同宣言を議題として審議し、その結果満場一致を以て之を採択しました。之は証第一三四六号の通りであります。ここに関係各国は大東亜戦争完遂の決意、並びに大東亜の建設に関しては、その理想と熱意につきその根本に於て意見の一致を見、大東亜各国の戦争の完遂、及び大東亜建設の理念を明らかにしたのであります。

次に満州国代表張景恵氏より此の種の会合を将来に於ても、随時開催すべき旨提議がありました。「ビルマ」代表「バーモー」氏より自由印度仮政府支持に関する発言があり、之に引続きて自由印度仮政府首班「ボース」氏の印度独立運動に関する発言がありました。私は「アンダマン、ニコバル」両諸島の帰属に関する日本政府の意向を表明しました。(弁護側証二七六○−E号)斯くして本会議は終了しました。本会議は強制的のものでなかったことは、その参加者は次のような所感を懐いて居ることより証明できます。「フィリッピン」代表の「ラウレル」氏はその演説の中に於て次の如く述べて居ります。

曰く『私の第一の語は先ず本会合を発起せられた大日本帝国に対する深甚なる感謝の辞であります。即ち、此の会合に於て大東亜諸民族共同の安寧と福祉との諸問題が討議せられ、又大東亜諸国家の指導者閣下に於かれましては親しく相交ることに依りて、互に相知り依て以て亜細亜(アジア)民族のみならず、全人類の栄光のために大東亜共栄圏の建設及びこれが恒久化に拍車をかけられる次第であります。(法廷証二三五二号)と申して居ります。

又陪席せる自由印度仮政府代表「ボース」首班の発言の中には『本会議は戦勝者間の戦利品』分割の会議ではありません。それは弱、小国家を犠牲に供せんとする陰謀謀略の会議でもなく、又弱小なる隣国を瞞着せんとする会議でもないのでありまして、此の会議こそは解放せられたる諸国民の会議であり、且つ正義、主権、国際関係に於ける互恵主義及び相互援助等の尊厳なる原則に基づいて、世界の此の地域に新秩序を創建せんとする会議なのであります。』(法廷証二七六○号−D号)と言って居ります。更に「ビルマ」代表バーモー氏は本会議を従来の国際会議と比較し次の如く述べて居ります。曰く『今日此の会議に於ける空気は全く別個のものであります。此の会議から生まれ出る感情は、如何様に言い表はしても誇張し過ぎる事はないのであります。多年「ビルマ」において私は亜細亜の夢を夢に見つづけて参りました。私の「アジア」人としての血は常に他の「アジア」人に呼びかけて来たのであります。昼となく夜となく私は自分の夢の中で「アジア」はその子供に呼びかける声を聞くのを常としましたが、今日此の席に於て私は初めて夢であらざる「アジア」の呼声を聞いた次第であります。我々「アジア」人はこの呼声、我々の母の声に答えてここに相集うて来たのであります』(法廷証二三五三号)



< ソ連竝にコミンターンとの関係 >



一五五、

日本は未だ嘗て検察側の主張するが如き蘇(ソ)連邦に対し、侵略を為せることは勿論、これを意図したこともありません。我国は寧(むし)ろ蘇連邦の東亜侵略に対し、戦々恐々其の防衛に腐心し続けて来たのでありました。

殊に昭和七年(一九三二年)満州国の成立後に於ては、日本はその防衛の必要と、日満共同防衛の盟約とに基き同国と協力し、隣邦蘇連に対し、満州国の治安確保と其の防衛に専念し来たのであります。而して日本陸軍としては、此の目的を達するための軍事整備の目標を、主として蘇連極東軍に置いて居たのであります。

従って、日本陸軍の対「ソ」作戦計画の本質は対「ソ」防衛であります。その計画の内容に攻撃の手段を含んで居りますが、之は国家が万一開戦を強いられた場合において採るべき戦闘手段を準備計画せるものであり、我方より進んで戦争することを意味するものではありません。又、決して侵略を目的としたものではないことは勿論であります。尚、大東亜共栄圏に西比利亜(シベリア)地域を国家の意思として考えたこともありません。本法廷に於て検察側よりいわゆる『関特演』計画に関することが証拠として提示せられて居りますが、これとても此の範囲を出づるものでなく、且つこれは一に資材、人員の補充を計ったものであります。

他面日本の対蘇外交は常に蘇連邦との間に「静謐保持」を以て一貫した政策として居ったのであります。支那事変、次で太平洋戦争発生後に於ては、日本は北辺に事無からんことを常に最新の注意を払い、殊に昭和十五年(一九四○年)四月、蘇連邦との間に日蘇中立条約の締結を見たる以後に於ては、これが堅持を基本として対「ソ」平和政策を律してきたのでありまして、昭和二十年(一九四五年)八月同条約の有効期限に之を破って侵略を行ったのは日本ではありませんでした。

他面帝国は第三「インターナショナル」の勢力が東亜に進出し来ることに関しては、深き関心を払って来ました。蓋し、共産主義政策の東亜への浸透を防衛するにあらざれば、国内の治安は破壊せられ、東亜の安定を攪乱し、延いて世界平和を脅威するに至るべきことをつとに恐れたからであります。之がため、国内政策としては、大正十四年(一九二五年)治安維持法を制定し(若槻内閣時代)昭和十六年更に之を改訂し、以て國體変革を戒め、私有財産の保護を目的として共産主義による破壊に備え、又、対外政策としては、支那事変に於て、中国共産党の活動が、日支和平の成立を阻害する重要なる原因の一たるに鑑み、共同防共を事変解決の一条件とせることも、又東亜各独立国家間に於て「防共」を以て共通の重要政策の一としたることも、之はいづれも各国協同して東亜を赤化の危険より救い、且つ、自ら世界赤化の障壁たらんとしたのであります。

これら障壁が世界平和のため如何に重要であったかは、第二次世界大戦終了後、此の障壁が崩壊せし二年後の今日の現状が雄弁に之を物語って居ります。




< 摘 要 >



一五六、


本供述書は、事柄の性質が複雑且つ重大なるよりして期せずして相当長文となりました。ただ私は世界史上も最も重大なる時期に於て、日本国家が如何なる立場に在ったか、又同国の行政司掌の地位に選ばれた者等が、国家の栄誉を保持せんがため真摯に、其の権限内に於て、如何なる政策を樹て、且つ之を実施するに努めたかを、此の国際的規律に於ける大法廷の判官各位に御諒解を請はんがため、各種の困難を克服しつゝ之を述べたのであります。

斯の如くすることに因り、私は太平洋戦争勃発に至るの理由及び原因を描写せんとしました。私は右等の事実を徹底的に了知する一人として、我国に取りましては無効且つ惨害を齎した一九四一年(昭和十六年)十二月八日に発生した戦争なるものは、米国を欧州戦争に導入する為の連合国側の挑発に原因し、我国に関する限りに於ては、自衛戦として回避することを得ざりし戦争なることを確信するものであります。

尚、東亜に重大なる利害を有する国々(中国自身を含めて)が、何故戦争を欲したかの理由は他にも多々存在します。これは私の供述の中に含まれて居ります。但(ただ)我国の開戦は最後的手段として、且つ緊迫の必要よりして決せられたものである事を申上げます。満州事変、支那事変及び太平洋戦争の各場面を通して、其の根底に潜む不断の侵略計画ありたりと為す主張に対しては、私はその荒唐無稽なる事を証する為、最も簡潔なる方法を以て之を反証せんと試みました。

我国の基本的且つ、不変の行政組織に於て多数の吏僚中の内、少数者が長期に亘り、数多の内閣を通じて、一定不変の目的を有する共同謀議(此の観念は日本には存在しないが)を為したなどという事は、理性ある者の到底思考し得ざる事なることが、直ちに御了解下さるでありませう。

私は何故に検察側がかゝる空想に近き訴追を為さるかを識るに苦しむ者であります。日本の主張した大東亜政策なるものは侵略的性格を有するものなる事、これが太平洋戦争開始の計画に追加された事、尚この政策は白人を東亜の豊富なる地帯より駆逐する計画なる事を証明せんとするため、本法廷に多数の証拠が提出せられました。之に対し私の証言は、この合理にして且つ自然に発生したる導因の本質を白日の如く明瞭になしたと信じます。

私は又国際法と太平洋戦争の開始に関する問題とにつき触れました。又日本に於ける政府と統帥との関係殊に国事に関する天皇の地位に言及しました。私の説明が私及び私の同僚の有罪であるか無罪であるかを御判断下さる上に資する所あらば幸せであります。

終りに臨み――恐らくこれが当法廷の規則の上に於て、許さるる最後の機会でありましょうが――私は茲に重ねて申上げます。日本帝国の国策乃至は当年合法に其の地位に在った官吏の採った方針は、侵略でもなく、搾取でもありませんでした。一歩は一歩より進み又、適法に選ばれた各内閣はそれぞれ相承けて、憲法及び法律に定められた手続きに従い之を処理して行きましたが、遂に我が国は彼の冷厳なる現実に逢着したのであります。当年国家の運命を商量較計するの責任を負荷した我々としては、国家自衛のために起ったという事が唯一つ残された途でありました。我々は国家の運命を賭しました。而して敗れました。而して眼前に見るが如き事態を惹起したのであります。


戦争が国際法上より見て正しき戦争であったか否かの問題と、敗戦の責任如何との問題とは、明白に分別の出来る二つの異なった問題であります。

第一の問題は外国との問題であり、且つ法律的性質の問題であります。私は最後まで此の戦争は自衛戦であり、現時承認せられたる国際法には違反せぬ戦争なりと主張します。私は未だ嘗て我国が本戦争を為したことを以て、国際**(確認後掲載)なりとして勝者より訴追せられ、又敗戦国の適法なる官吏たりし者が、個人的の国際法上の犯人なり、又条約の違反者なりとして糾弾せられるとは考えた事とてはありませぬ。

第二の問題、即ち敗戦の責任については当時の総理大臣たりし私の責任であります。この意味に於ける責任は、私は、之を受諾するのみならず真心より進んで之を負荷せんことを希望するものであります。 以上


右ハ当時立会人ノ面前ニテ宣誓シ且ツ署名捺印シタルコトヲ証明シマス

同日同所
立会人 清瀬一郎


宣誓書

良心ニ従ヒ真実ヲ述ベ何事ヲモ黙秘セズ又何事ヲモ附加セザルコトヲ誓フ


署名捺印 東條英機


昭和二十二年(一九四七年)十二月十九日 於東京、市ヶ谷

供述書 東條英機



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< 詔 書 >


天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇祚(こうそ)ヲ践(ふ)メル大日本帝国天皇ハ昭(あきらか)ニ忠誠勇武ナル汝有衆(なんじゆうしゅう)ニ示ス 朕茲に米国及ビ英国ニ対シテ戦ヲ宣ス朕カ陸海軍将兵ハ全力ヲ奮テ交戦ニ従事シ朕カ百僚有司ハ励精職務ヲ奉行シ朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ盡シ億兆一心国家ノ総力ヲ挙ケテ征戦ノ目的ヲ達成スルニ遺算ナカラムコト期セヨ

抑々(そもそも)東亜ノ安定ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄与スルハ丕顕(ひけん)ナル皇祖考丕承(ひしょう)ナル皇考ノ作述セル遠猷(えんゆう)ニシテ朕カ挙々(けんけん)措(お)カサル所而(しこう)シテ列国トノ交誼ヲ篤クシ万邦共栄ノ楽ヲ偕(とも)ニスルハ之亦(これまた)帝国カ常ニ国交ノ要義ト為ス所ナリ今ヤ不幸ニシテ米英両国ト釁端(きんたん)ヲ開クニ至ル洵(まこと)ニ已(や)ムヲ得サルモノアリ豈(あに)朕カ志ナラムヤ中華民国政府曩(さき)ニ帝国ノ真意ヲ解セス濫(みだり)ニ事ヲ構ヘテ東亜ノ平和ヲ攪乱(こうらん)シ遂ニ帝国ヲシテ干戈(かんか)ヲ執ルニ至ラシメ茲(ここ)ニ四年有余ヲ経タリ幸ニ国民政府更新スルアリ帝国ハ之ト善隣ノ誼(よしみ)ヲ結ヒ相提携スルニ至レルモ重慶ニ残存スル政権ハ米英ノ庇蔭(ひいん)ヲ恃(たの)ミテ兄弟尚未タ檣(かき)ニ相鬩(せめ)クヲ悛(あらた)メス米英両国ハ残存政権ヲ支援シテ東亜ノ禍乱ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿(かく)レテ東洋制覇ノ非望ヲ逞(たくまし)ウセントス剰(あまつさ)ヘ與国ヲ誘ヒ帝国ノ周辺ニ於テ武備ヲ増強シテ我ニ挑戦シ更ニ帝国ノ平和的通商ニ有ラユル妨害ヲ與へ遂ニ経済断交ヲ敢テシ帝国ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ニ裡(うち)ニ回復セシメムトシ隠忍久シキニ彌(わた)リタルモ彼ハ豪モ交譲ノ精神ナク徒(いたずら)ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ッテ益々経済上軍事上ノ脅威ヲ増大シ以テ我ヲ屈従セシメムトス斯クノ如クにシテ推移セムカ東亜安定ニ関スル帝国積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ帰シ帝国ノ存立亦正ニ危殆ニ瀕(ひん)セリ事既ニ此(ここ)ニ至ル帝国ハ今ヤ自存自衛ノ為蹶然(けつぜん)起ッテ一切ノ障礙(しょうがい)ヲ破砕スルノ外ナキナリ

皇祖皇宗ノ神霊上ニ在リ朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信倚(しんい)シ祖宗ノ遺業ヲ恢弘(かいこう)シ速ニ禍根ヲ芟除(きんじょ)シテ東亜永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝国ノ光栄ヲ保全セムコトヲ期ス

 御名御璽

   昭和十六年十二月八日
        各大臣副署




< 詔 書 >



朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾(なんじ)臣民ニ告ク

朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ對(たい)シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
抑々(そもそも)帝国臣民ノ康寧(こうねい)ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕(とも)ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ挙々措(けんけんお)カサル所曩(さき)ニ米英二国ニ宣戦セル所以(ゆえん)モ亦実に帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶畿(しょき)スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スか如キハ固(もと)ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戦己(すで)ニ四歳ヲ閲(けみ)シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆民ノ奉公各々最善ヲ盡セルニ拘ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之(しかのみならず)敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜(むこ)ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延(ひい)テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ

朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸連邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃(たふ)レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内(ごだい)為ニ裂ク且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念(しんねん)スル所ナリ惟(おも)フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固(もと)ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以て万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス

朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚(しんい)シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠(はいさい)互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク挙国一家子孫相傳ヘ確(かた)ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏(かた)クシ誓テ國體ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ

 御名御璽

   昭和二十年八月十四日
       内閣総理大臣
       各国務大臣副書



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



< 東條英機の慟哭 > (再掲)


今、東條英機の供述書を終って思うことは米軍の逮捕の使者が自宅に来た時、東條英機はピストル自殺を図ったが、どうしたことか手元が狂い自殺を為損ったのであった。首相で陸軍大臣という最高責任者だった者がと世間から冷笑を受けたが、あれは神様が日本の為に死なせない様に、手許を狂わせたものであったと私には思えてきた。東條英機程の人が普通だったら手元が狂う筈はないからである。多くの人達はそんな馬鹿な、とお思いになるかも知れないが神様は全知全能であるから、神様なら不可能を可能にすることが出来ると思う。之は信じるか信じないかの問題だから、判ってくれる人は判ってくれると私は思う。

さて余談になったが神様は東條英機にこの供述書を書く意思と時間を与えて下さったのだと私は思う。大東亜戦争について述べるのに、どんな人が書こうがこの東條英機の供述書に勝るものはないと私は思った。“神様は日本を護って下さっている”これを読むとその感が深い。多くの人がこの供述書を読むことによって、日本が戦った大東亜戦争の実相を知ることが出来て、日本は侵略国ではなかったのだという事を正しく知ることが出来るのではないかと思うのであります。

その言葉に、行間に、天皇への忠誠と、憂国と愛国の裂帛(れっぱく)の気合が感じられる。そこには死を覚悟した、いや、生死を超越した勇者のことばがあるのみである。


さて、東條英機のお孫さんに岩浪由布子(いわなみゆうこ)さん(本名岩浪淑枝=英機の長男英隆氏の長女)が居られるが、その方が書かれた『祖父東條英機「一切語るなかれ」』があるが、その中に「祖父が巣鴨拘置所にあった時に三浦先生は東條の主任弁護人、清瀬一郎先生と弁護の仕方で激論を交わしたことがある。

清瀬さんは東條の罪を軽くすることに奔走されていた。しかし、三浦先生の考え方は違っていた。たとえ死刑になったとしても、法廷では東條は堂々と自分の考えを述べるべきだと。そうでなければ、何故戦争を始めたかの一番大切なところが曖昧になるという立場をとられた。祖父もまったく三浦先生と同じ考えだったからこそ、あれほど堂々と法廷で自論を述べることが出来たのであろう。」と書かれている。供述書の終りの摘要に堂々と述べている。再び述べると



「私は茲に重ねて申上げます。日本帝国の国策乃至は当年合法に其の地位に在った官吏の採った方針は、侵略でもなく、搾取でもありませんでした。一歩は一歩より進み又、適法に選ばれた各内閣はそれぞれ相承けて、憲法及び法律に定められた手続きに従い之を処理して行きましたが、遂に我が国は彼の冷厳なる現実に逢着したのであります。

当年国家の運命を商量較計(注・左右する)するの責任を負荷した我々としては、国家自衛のために起ったという事が唯一つ残された途でありました。我々は国家の運命を賭しました。而して敗れました。而して眼前に見るが如き事態を惹起したのであります。

戦争が国際法上より見て正しき戦争であったか否かの問題と、敗戦の責任如何との問題とは、明白に分別の出来る二つの異なった問題であります。

第一の問題は外国との問題であり、且つ法律的性質の問題であります。私は最後まで此の戦争は自衛戦であり、現時承認せられたる国際法には違反せぬ戦争なりと主張します。私は未だ嘗て我国が本戦争を為したことを以て、国際**(確認後掲載)なりとして勝者より訴追せられ、又敗戦国の適法なる官吏たりし者が、個人的の国際法上の犯人なり、又条約の違反者なりとして糾弾せられるとは考えた事とてはありませぬ。

第二の問題、即ち敗戦の責任については当時の総理大臣たりし私の責任であります。この意味に於ける責任は、私は、之を受諾するのみならず真心より進んで之を負荷せんことを希望するものであります。」と結んでおります。

大東亜戦争は自衛戦であったというのは、その日本と戦った米国の連合国最高司令官マッカーサーは昭和二十五年五月二十五日、北朝鮮が突如三十八度戦を突破して韓国に攻め入った朝鮮戦争によって、共産主義国の脅威にはじめて目覚めて、朝鮮戦争に原爆を使うかどうかについて、トルーマン大統領と意見が合わず解任された後、アメリカ上院で証言し、「日本が太平洋戦争を戦ったのはSecurity(セキュリティー・防衛安全保障)の為即ち自衛の為だったと証言したのである。

日本とフィリッピンで死闘を戦った最高司令官が証言した意義は重大である。東京裁判を指揮して七名を絞首刑、残り十八名は全員有罪としたその人が、防衛・安全保障のためだった即ち侵略戦争ではなかったと証言したことは、東京裁判は間違っていたと証言した事と同じである。


これを念頭に置いて、再び岩浪由布子さんの書物から次の文を読むと東條英機の心情に心が打たれるのである。

即ち「・・・開戦を避けるために日夜必死に続けられていた日米交渉は遂に決裂し、昭和十六年十二月八日、日本は米・英に対して宣戦を布告した。十二月六日深夜から七日にかけて、祖母たちは祖父の寝室から忍び泣きの声が洩れてくるのに気がついた。その声は次第に慟哭(どうこく)に変わっていった。祖母がそっと寝室を覗くと、祖父は蒲団に正座して泣いていた。和平を希求される陛下の御心に心ならずも反する結果になり、宣戦布告をするに至った申しわけなさで身も心も、ちぎれる思いだったに違いない。慟哭の涙はとめどなく流れた。祖母は寒い廊下にしばし茫然と立ち尽くしていた。」とあります。


これを読むと、東條英機はこの戦争に、日本が勝利することは、きわめて難しいと覚悟をしていた様に思われる。それが判って居ても日本は戦わざるを得なかったのである。そして死中に活をもとめたのだろう。日本は戦争はしたくはなかったのだ。

しかし戦争をしないでハルノートを受諾したらどうだったか。日本は一戦も交えずに敗けたと同じに、支那、満州、仏印から、陸、海、空軍及警察の撤退、満州政府の否認、汪兆銘政府の否認ということになれば日本の面子は丸つぶれとなり、日本国内に反対の声が湧き起こり、三国干渉で旅順、大連を返還した時と比べものにならない騒乱の発生が予想されるのである。そうなれば戦はず敗戦国となり、収拾がつかなくなる恐れがあったのである。


インドのパール判事はハルノートについて次の様に語っている。「現在の歴史家でさえも、つぎのように考えることができる。すなわち、今次戦争についていえば、真珠湾攻撃の直前に、アメリカ政府が日本に送ったものと同じ通牒を受けとった場合、モナコ王国、ルクセンブルグ大公国のような国でさえも、アメリカにたいして武器をとって起ちあがったであろう」(田中正明「パール博士の日本無罪論」)と言っているのである。再び云う。日本は自ら好き好んで戦ったのではなく、自存自衛の為の戦いで侵略戦争ではなかったのである。



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



雅宣総裁! 貴殿がこの「東條英機宣誓供述書」を読んでも、依然として侵略戦争観を放棄しないならば、貴殿はもはや生長の家総裁ではない。「生長の家」=開祖・谷口雅春先生の『御教え』に反逆せる者であるとともに、貴殿はまさにジパノフォビア(反日的日本人)であります。どうしても、侵略戦争観を今後ともに主張し続けるならば、速やかに総裁の座を降り「生長の家」の看板を返し、外部で独立して頂く事を申し入れるものであります。反論あれば、「唐松模様」にて返答されたし!!



平成24年10月28日

本当の「生長の家」を伝え遺す信徒連合・作成





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