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烈日に伸びる (6)
日時:2012年08月01日 (水) 17時23分
名前:伝統


   *「光明道中記」(八月 烈日に伸びる)より

八月一日 神想観に心浄まる日

【もっと魂をみがいてから他を救おうと思うのは考え違いである。(生命の實相第十一巻)】


多くの人たちは今まで幸福を、健康を、供給を、財福を、すべての善きものを、外部に求めて来た。
しかしイエスの言ったように「神の国は爾の内にあり」であったのである。
爾とは私であり、諸君であり、すべての人であり、衆生である。

「神の国は爾の内にあり」と云うことを「華厳経」では「一毛頭初に三千世界を現ず」と
あらわしているのである。「一塵の中に一切の仏刹を現ず」とも言い現してある。

「一毛頭初」とは1本の毛の尖端である。
此のような小さな点の中にも三千世界が入っていると云うのである。

「我」と云うものは、一毛頭初よりも小さい。一塵よりも小さい。
併しもう「小さい」と云う言葉は当嵌らない。

「我」は既に肉体でもない。一毛頭初でもない。一塵でもない。
もう空間的な幅や広さや厚みの物質世界を超えている。

吾々は此の世界の中に生まれたのかと思っていたら、吾々の超空間的な「心」の中に
空間的な此の世界が浮かんでいるのだ。

神想観をしているうちに此の超空間的な存在であるところの「我」が自覚出来てくる。
澄み切った虚空と一体の「我」である。否、虚空が「我(わ)」が内にある。

一切が「我」が内にある。
今、そして此処に一切が”有る”の自覚である。

       <感謝合掌 平成24年8月1日 頓首再拝>

完徳成就の日 (19)
日時:2012年08月02日 (木) 04時36分
名前:伝統


   *「光明道中記」(八月 烈日に伸びる)より

八月ニ日 完徳成就の日

【汝らは初めから如来であり、成仏している。(生命の實相第一巻)】


神を外にのみ求むる時代は人類にとって過ぎ去ったのである。
神は外にあらず、内にあらず、中間にあらず、そして外にあり、内にあり、中間にある。

それは現象を超えた外であり、内であり、中間であり、
その本源であり、それを左右し、支配し、修正する力である。

嘗て、京都の講習会に往ったときに三高の英文学教授深瀬基寛氏から『現代英文学の課題』と
題する本を頂いた。此の書はその前年同教授夫人が叡山の生長の家講習会に受講して山上から
帰られると神徠(しんらい)のように書きたくなって書かれた書であると言う。その中に曰く――

「『完徳の観念』(Ider of perfection)はアーノルドに於いても根本的な地位を占めているが、
アーノルドは『教養』(Culture)の方法によって専らこの観念を実現せんとし、エリオットは
『個性の脱却』(Depersonalisation)によって個人以上の『他社の権威』(Outside Authority)
に合致することを以て完成の内容としている。

・・・個人の『内心の声』(Inner Voice)を最後の拠り処とする傾向が浪漫主義の本質で
あって、エリオットは此の傾向を『近代の異端』として排撃する」と。

此の「外の権威」と「内心の声」は内外(しげ)打成(だじょう)一片の生長の家に於いては
完全に一致する。

       <感謝合掌 平成24年8月2日 頓首再拝>

古典の尊厳を知る日 (50)
日時:2012年08月03日 (金) 05時03分
名前:伝統


   *「光明道中記」(八月 烈日に伸びる)より

八月三日 古典の尊厳を知る日

  【神は時代に相応して教祖を遣わし給い、それを通じて吾々に現れる。
                       (『生命の實相』第十一巻)】


エリオットは20世紀英国文学界の古典主義者であり、歴史主義者である。
流れる歴史の底に永遠不動の規範又は秩序を発見し、その規範秩序の中にのみ
価値を発見しようとする者である。

彼は近代を古典的時代よりも進歩せるものとする観方を否定し、進歩と云うものは
実はただ「超時間的の古典」又は「伝統」を発現せるものにほかならないのであって、

歴史的意識とは「時間的なるものと共に超時間的なるものの知覚であり、
また時間的なるものと超時間的なるものとの同時的知覚」であるとしている。

エリオットがそれを意識していたかどうか知らないが是は当(まさ)に
「華厳経」の「一時即一切時」の自覚であると思う。

今立つ此の歴史的一点に於て、久遠に成就せる「既成の歴史」が、「既成の世界秩序」が、
換言すれば、「古典」が其処に流れていると云う自覚である。

『古事記』が来るべき世界秩序の予言であると言い得るのもそのためである。
「既成の歴史」が今現在此処を流れているが故に、
現在は「古典」の発展であるほかあり得ない。

だから古典に於ける東洋の日本列島への天孫降臨の歴史は、
全世界への天孫降臨(神意帰一の世界連邦)となって実現するほかはあり得ないし、
大国主命の国譲りは各国の主権が神意連邦の中心に帰一することである。

       <感謝合掌 平成24年8月3日 頓首再拝>

常に神を憶う日 (64)
日時:2012年08月04日 (土) 04時58分
名前:伝統


   *「光明道中記」(八月 烈日に伸びる)より

八月四日 常に神を憶う日

【「幸福」とは神の実現である。そのほかに人間の幸福はない。
                      (『生命の實相』第十一巻)】

神の”いのち”なるわが”たましい”は、神と偕(とも)に常に此処に立っていることを
知らねばならぬ。恐れることはひとつもあり得ないのである。
われは神と偕であるからである。

神はすべてのところにましますが故にその癒しもすべてのところにましますのである。
癒しと云うのは病気を認めての語(ことば)であるが、これはただ病気をみとめている
人々に対してのみ言うところの方便的語(ことば)に過ぎないのである。

癒しと云うのは神の創造の顕現であり、神の完徳(まったきとく)が現象世界面に
あらわれて来ることに過ぎないのである。

だから吾等が神の完き創造の”ちから”と”めぐみ”と智慧とをみとめるならば、
病気のみならず、あらゆる事件に神の癒しは与えられるのである。

不幸に傷つきたる人々よ、神の癒しを受けよ。
神は無限の智慧、無限の愛、無限の生命(いのち)であり、世の終わりまで
”常に”吾等と偕に在り、吾等を愛し、吾等を護りつづけていられるのである。

此の不思議なる神または仏の護りを受けようと思う者は
常に神または仏を憶(おも)うことである。

仏典に「衆生仏を憶念すれば、仏衆生を憶念す」とある。
神を、仏を、憶おうとするには常にそれを思い起こさしめる書物を携帯して
少時間を利用してそれを読むことである。

       <感謝合掌 平成24年8月4日 頓首再拝>

神がすべての日 (87)
日時:2012年08月05日 (日) 04時50分
名前:伝統


   *「光明道中記」(八月 烈日に伸びる)より

八月五日 神がすべての日

【神は汝の善き行ないの中にある。愛の中にある。善き生活の中にある。
                      (『生命の實相』第十一巻)】

神が遍在でましますこと、何処にでも在(い)ますこと、一切のところに、
一切の空間を貫いて、どんな密閉した部屋の中にでも、そんな固い鉱石の中にでも
神が充満したまうこと。

従って、自分の肉体の中にも、骨の中にも、髪の毛の中にも神が満ちて在ますこと、
自分の中に斯く満ちて在ます神と、宇宙の何処にでも満ちて在ます遍在の神とは、
唯ひとつの神にましますこと。

このことを今日の神想観のときには眼を瞑ると直(ただち)に繰返し念じて、
神のほかに何も無い、神のみが在(ましま)すのだと云う深い信念が湧き出るまで
念じつづけること。

このほかには私にとって念ずべき何物もないのである。
神は”すべて”である。先ずその”すべて”にましますところの神を心の中に深く知る
ことは”すべて”を心の中に得ることである。

「心」の中に三千世界は蔵(ぞう)されているが故に、
「心」の中に”すべて”を把めば、全てのものはすでに吾がものである。

欲張っては可(い)けない。欲張るのは、なお自分の中に”すべて”が存在することを
悟らない近視眼者であるからである。

”すべて”が自分のものと云うのは全部が自分の肩にかかってくると云うことではない。
必要に応じて現われ、用足りて姿を消す極楽の境涯である。

       <感謝合掌 平成24年8月5日 頓首再拝>

娑婆即寂光土と悟る日 (118)
日時:2012年08月06日 (月) 07時47分
名前:伝統


   *「光明道中記」(八月 烈日に伸びる)より

八月六日 娑婆即寂光土と悟る日

【神の創造は皆完(まった)きものである。(『生命の實相』第十一巻)】

「世界に非道が充ちていると云うことは、歴史と同じようにそれよりも更に古い文学さえも
同じように、否あらゆる文学中の最も古きものなる祭司の宗教と同じように古い嘆きである」
とカントは言っている。

けれども生長の家は、世界には何ら非道なことは存在しないと言うのである。

それは存在するものは「道」ばかりであるから、それが少なくとも存在する限りは
それは「善」であり、それが「善」でない限りに於て、それは如何に存在するように
見えようとも、それは「非道」即ち「道の欠乏」「道の無」をあらわしているに
過ぎないとするのである。

カントも此の世界が如何に見えようとも「人間を本性(即ち普通に生まれついている通りの)
から身体(しんたい)が健康なのが当り前だと見做さねばならぬ如く、人間をその本性上から
精神的にも健全にして善なりと見做してはならない理由はない」と言っている。

すなわち世界及び人間の本質はそれ自身「善」であると云うことである。
釈迦はこれを「一切衆生仏性あり」と言い、「山川草木国土悉皆成仏」と言ったのである。

凡て心の眼を開いて見れば「悪」なるものは存在しない。
これ第一にして最後の真理である。

       <感謝合掌 平成24年8月6日 頓首再拝>

善のみを視る日 (143)
日時:2012年08月07日 (火) 05時03分
名前:伝統


   *「光明道中記」(八月 烈日に伸びる)より
         
八月七日 善のみを視(み)る日

 【環境と心とは合せ鏡のように互いに影響し合う。(『生命の實相』第一巻)】 

今日いちにち自分の前に立つ人を、必ず善人であると信ぜよ。如何なる不快なる
相(すがた)をもってあらわれようとも、その不快なる相は、現在又は過去に於て
自分のどこかに潜(ひそ)んでいた不快な心の反映であると信じて自己を省みよ。

そして相手の奥にある真実相を見て敬し、礼し、拝め。

自己には峻厳であり、他には寛大であれ。
自己に峻厳で、他に対して寛大なのは、自己は峻厳に耐え得る強さがあり、
他は峻厳に耐え得る強さがないと思い上がるからではない。

人は既に完全であるのに、その完全なる相が自分の眼(まなこ)に映じないのは、
自分の心の眼が曇っているのであるとして、責任を自己に帰し、
自己の現在の愚かさから自分自身を脱却せんがためである。

人の悪を指摘して改心せしめようとする場合には腹立った声、憎む表情
── そんなものを伴うならばこれを指摘しない方が好い。

相手のために倶(とも)に泣き得る底(てい)になったときのみ、
相手の悪を指摘してもそれは「咎められている」と云う感じを得ないで
相手を改心せしめ得るであろう。

人間は「咎められている」と云う感じを持ったとき、
魂を閉じて全く相手の忠告を受けないのである。

       <感謝合掌 平成24年8月7日 頓首再拝>

倶(とも)に泣く日 (180)
日時:2012年08月08日 (水) 03時56分
名前:伝統


   *「光明道中記」(八月 烈日に伸びる)より

八月八日 倶(とも)に泣く日

【家庭を本当に愛しないものは、本当に神を愛しているのではない。(『生命の實相』第ニ巻)】
 
「倶(とも)に泣く」と云う感じは自他一体の感じであるから、しみじみと有難く感じられる。
「咎める」と云う感じは自他分離の感じであるから、有難く感じられないのである。

「倶に泣く」と云う感じは、軽蔑感から来るのではなく、
本来あるべき筈(はず)の尊厳の境地を尊ぶことを前提として、
その墜落をともに悲しむのであるから、素直にすらすらと受け入れられる。

人間がよくなるためには自尊の念を必要とする。

自尊がなければ自暴に陥る。
自暴に陥れば改善とか改悛とかいうことはあり得ない。
自尊は他敬によって養われるのである。

「咎める」言葉が不結果を招く原因は、こんな所にもあることが判るのである。

人の悪を咎めるよりも、自己が倶に泣く愛の欠乏していることを恥じよ。

「愛」の中にこそ聖泉がある。

それは智慧が如何に斫(き)り開いても発見することの出来ないところの聖泉である。
その聖泉に身をひたすとき、一切の不完全は癒されるのである。

みんなと倶に泣こう。
悲しめる人は倶に泣くことによって癒されるであろう。
多くの病める人も倶に泣くことによって癒されるであろう。

       <感謝合掌 平成24年8月8日 頓首再拝>

迷い消ゆる日 (250)
日時:2012年08月09日 (木) 07時35分
名前:伝統


   *「光明道中記」(八月 烈日に伸びる)より

八月九日 迷い消ゆる日

【恐怖の宗教は人を迷いに導き、その挙句人を病気に突落す。(『生命の實相』第十巻)】
 
神の中には不幸はない。
不幸は神が完全に表現されていないからである。
神が完全に表現されていないのは、神を完全に観ないからである。

心の眼(まなこ)をひらいて神の全能を完全に観ないことを「迷い」と言うのである。
「迷い」は一つの「状態」であって「存在」ではないのである。だから不幸や災厄を
吾々の眼に視える世界から駆逐するには、ただ心の眼を開けば好いのである。

では心の眼をひらくにはどうすべきであろうか。

しずかに五官の眼を閉じ、五官によって仮りに見えているところの制限の感じを
取り去ることである。そして凡ての「善」のなかに、「幸福」のなかに、
包まれ切っているところの自分を静かに観ずるのである。

例えば次の如く ──

   自分は善のみ幸福のみの世界に住んでいる。
   自分の眼(まなこ)のとどく限り、
   自分の影響される限りの、

   すべての虚空にはただ神のみが
   幸福のみが善のみが満ちている。

       <感謝合掌 平成24年8月9日 頓首再拝>

善き言葉のみ使う日 (283)
日時:2012年08月10日 (金) 04時57分
名前:伝統

   *「光明道中記」(八月 烈日に伸びる)より

八月十日 善き言葉のみ使う日

【現象世界を善くするには言葉を善くせよ。万物はその言葉通りになる。
                        (『生命の實相』第六巻)】

すべての人間の中には「自分」の念(おもい)が映っている。
彼が善であり、悪であるかは、皆「自分」の念(おもい)の鏡である。

良人は「自分」が近づく以前からあんな悪い癖のあった男であったのであるから、
良人の性格が悪いのは私の責任ではないなどと云うのは、
三界唯心の真理を撥無するものなのである。

凡そ三界唯心の真理は「類は類を招(よ)ぶ」の真理を伴うものなのである。

即ち自分の心と類似の姿が自分の周囲に展開するのであるから、
自分の周囲にそう云う良人が引き寄せられて来るのは自分の心の反映であると
云うことが出来るのである。

良人から見た妻の場合も矢張りそうである。妻の性格がたとい自分と結婚する以前から
そのようであるにしても、そのような妻が自分の身辺に引き寄せられて来たことは
矢張り自分の業(ごう=念の集積)の展開であるのである。

かくの如くして自分の良人も、自分の妻も、自分の親も、自分の子も、
さては主人も、社長も、社員も、召使も悉く、
自己の念(おもい)の展開であるが故に、ただ「有りがたく受ける」ことである。

ただ有り難く受けたときには、業は形にあらわれるとき
蒸気の圧力がピストンの運動となって消えるのである。
そして本当に有りがたくならせて頂くのである。

明日から『歎異抄』の研究を始める。

       <感謝合掌 平成24年8月10日 頓首再拝>

心の窓を開く日 (328)
日時:2012年08月11日 (土) 07時16分
名前:伝統


   *「光明道中記」(八月 烈日に伸びる)より

八月十一日 心の窓を開く日

【心の窓を開けよ。実相の理想世界は既に其処に在り。(『生命の實相』第四巻)】

(歎異抄第一条)

  弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて、
  念仏まふさんとおもひたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益に
  あづけしめたまふなり。


弥陀の誓願とは、現象的には法蔵菩薩が四十八の願をたてられてところの”それ”を
指すのであるけれども、弥陀は「ミチ足(タ)ル」の言霊(ことだま)であって、
宇宙普遍、一切所に満ち足り給う大生命が弥陀である。

「彼(か)の仏、去って去る所なく、来って来る所なく、生なく滅なく、過、現、未来に非ず、
唯(ただ)願に酬い生を度(ど)せんがために西方に在(おわ)します」と趙宋(ちょうそう)
の法賢訳の「大無量寿経」にあるところの弥陀の本願である。

弥陀の本願は法蔵菩薩が四十八願以前に、無始の過現未を超越せる本体有に実在する
大慈悲そのものである。宇宙の本体の中に在(そん)する救わずにおかない大慈悲そのものが
「弥陀の誓願」であって、それは人間の思慮(おもいはからい)を超えたるものである。

すなわち「誓願不思議である」。その「誓願」が吾々の“いのち”の内部に廻向(えこう)し
来(きた)って「念仏申さん」という思い立ちが起るのである。

だから、吾等が「念仏申そう」という心が起ったとき、
その心の中に「救わずにおかない弥陀の誓願」が既に宿っているのであるから、
既に「摂取不捨(すくわずにおかぬ)」なのである。

       <感謝合掌 平成24年8月11日 頓首再拝>

業の消ゆる日 (358)
日時:2012年08月12日 (日) 06時54分
名前:伝統


   *「光明道中記」(八月 烈日に伸びる)より

八月十ニ日 業の消ゆる日

【業は実際に於いて何処(どこ)にも実在するものではない。(『生命の實相』第八巻)】

(歎異抄第一条)

   弥陀の本願には、老少善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要(よう)とすとしるべし。
   そのゆへは、罪悪深重、煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)の衆生をたすけんがための
   願にまします。


弥陀の本願は、宇宙大生命の大慈悲そのものであるから、老人であろうが、少年であろうが、
善人であろうが、悪人であろうが、問うところではないのである。

キリスト教の聖書には「天の父は太陽の善人をも悪人をも照したまう如く、これを照し給う」
とあるのは、仏耶(ぶつや)真理を等しうしているのである。

ただ救われるのは、「信」によって救われるのである。「信」は人偏に言(ことば)である。
人と神のコトバ即ち仏の誓願との一致である。誓願とはコトバにほかならない。
仏の誓願と人間の心とが一致したとき、人間は仏の誓願の中に溶け込むのである。

コトバは誓願であり、名号であり、本体であり、仏のイノチである。
仏のイノチの中に溶け込む時、”そのまま救われている”実相があらわれるのである。
「弥陀の本願には、老少善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要(よう)とすとしるべし」
である。

私は「老少善悪を選ばす」のほかに、「肉体の生死の前後を選ばす」と附け加えたい。
「肉体の生死」如何が「救われ」に関係があるなら弥陀の救いに条件を置くことになる。

       <感謝合掌 平成24年8月12日 頓首再拝>

弥陀の本願ありがたき日 (391)
日時:2012年08月14日 (火) 04時08分
名前:伝統

(最終的な復旧前ですが、昨日投稿し、現時点で未復旧の分の再投稿です・・・
日時:2012年08月13日 (月) 07時42分)


   *「光明道中記」(八月 烈日に伸びる)より

八月十三日 弥陀の本願ありがたき日

【光明念波は「類に非ざる念波」を反撥して災害から逃れる。(『生命の実相』第十三巻)】

   しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆへに。
   悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆへにと、云々。


そうだ、「弥陀」は「去って去る所なく、来って来るところなく、生なく滅なく、
過、現、未来に非ず」して空間時間生滅(しょうめつ)を超越せる絶対存在であり給うが故に、
その救いは絶対力にて行われるのである。

弥陀の救いの本願は、大実在の御意志であるが故に、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪は
存在し得ないのである。弥陀の本願力の前には「肉体」の滅不滅は何らの障礙にはなり得ない。

そこに生長の家の説く阿弥陀仏に至心廻向すれば
「肉体そのまますくわれている、此処がこのまま極楽浄土になる」
と云う真理が裏付けられるのである。

宇宙大実在の我を救いたまわんとの本願の絶対力の前には何物も礙(さ)えぎることが
出来ないと云うのは真理である。

そこに『歎異鈔』の「他の善も要にもあらず」「悪をもおそるべからず」の根拠がある。
本願の絶対力に触れるとき、無限燭光の光に触れて暗黒が消え去るように、
「他力の善」がおのずから自然に行われて悪が自然に消え去る意味である。

       <感謝合掌 平成24年8月13日 頓首再拝>

過ちの消ゆる日 (398)
日時:2012年08月14日 (火) 08時26分
名前:伝統


   *「光明道中記」(八月 烈日に伸びる)より

八月十四日 過ちの消ゆる日

【欠点に勝つには神想観(念仏)して欠点を神に預けよ。(『生命の実相』第九巻)】

(歎異抄第二条)

    各々十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ
    御(おん)こころざし、ひとへに往生極楽のみちをとひきかんがためなり。

    しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、
    こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。

    もししからば、南都北嶺にも、ゆゆしき学生(がくしょう)たち、おほく座(おわ)
    せられてさふらふなれば、かのひとびとにもあひたてまつりて、往生の要(よう)
    よくよくきかるべきなり。

『歎異抄』のこの一節で、親鸞聖人の許(もと)に、どんな多くの人たちが、
往生極楽のみちを問い訊かんがために集って来たかがうかがわれる。

各々十余箇国と云うのは関東から京都へ上るあいだの
常陸、下総、武蔵、相模、伊豆、駿河、遠江、三河、尾張、伊勢、近江、山城を指す。

それらの人々が、何か特別に極楽往生の秘密秘伝でもあるかの如く参集して下さったのは
有難いが、念仏のほかに何の秘密秘伝もなければ、何か素晴らしいほかの経文の功徳によって
極楽往生するのでもない。

そんな「学」や、法文の功徳で極楽往生するなら、南都(奈良)北嶺(比叡)などの学者たちに
御相談せられる好いと、親鸞は正面から迷いを破られたのである。

       <感謝合掌 平成24年8月14日 頓首再拝>

絶対信を獲(う)る日 (428)
日時:2012年08月15日 (水) 04時32分
名前:伝統


   *「光明道中記」(八月 烈日に伸びる)より

八月十五日 絶対信を獲(う)る日

【解脱の中には因なし、因なきを以て解脱となす。(『生命の実相』第十一巻)】

(歎異抄第二条)

    親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとの
    おほせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に
    むまるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。
   
    総じてもて存知せざるなり。たとひ法然上人にすかされまいらせて、
    念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ。


ここに親鸞聖人の絶対信がいかに深いかがあらわれているのである。
『よきひと』と云うのは法然上人のことであるが、怜悧(さかしら)に「念仏は何故(なぜ)
極楽往生の因であるか」などとたずねると当時の智者学者理窟やに対して、

「念仏は念仏は、まことに浄土にむまるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつる業にて
やはんべるらん。総じてもて存知せざるなり」とポンと撥ねてしまったところに、
迷妄裁断の親鸞の力が見られる。

「弥陀は何故絶対力で衆生を救いたまうか」と若し親鸞に訊(たず)ねるならば
「また総じてもて存知せざるなり」と応えるであろうと思う。

「何故神は完全であるか」と云う質問に対して私も、
「完全なものを神と称(よ)ぶのであって何故はない」と云うように答える他はない。

       <感謝合掌 平成24年8月15日 頓首再拝>

自力を捨てる日 (457)
日時:2012年08月16日 (木) 19時48分
名前:伝統


   *「光明道中記」(八月 烈日に伸びる)より

八月十六日 自力を捨てる日

【悟るとは内在の仏が浮かび上がって来るのであって、脳髄意識の巧者ではない。
                         (『生命の実相』第十一巻)】

(歎異抄第二条)

    そのゆへは、自余の行もはげみて仏になるべかりける身が、念仏をまうして
    地獄にもおちてさふらはばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔もさふらはめ。
    いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし。

何故神は完全であるかと云うことは、神以上の存在に我々がなって見て、
神の由って来る所以を批判しなければ判るものではないのである。

ただ吾々は完全なる絶対者を立ててそれを実在の本源として立て、
それに全帰依を捧げなければ、到底たえられない要諦を生命の内面に感ずるのである。

カントの所謂る「先験的要請(ア・プリオリ)」であるのである。
先験的要請は、人間の最も深い存在の根本に根ざすものであるから
否定せらるべきものではないのである。

親鸞聖人が「たとい法然上人に瞞(だま)されたとしてもどうせ他の行では救われない
自分なのだから」と仰せられたのは、決して自暴自棄的なお言葉ではない。

絶対力ある弥陀の誓願を立てなければ到底耐えられない「先験的要請(せんけんてきようせい)」
と、その「先験的要請」の主張する絶対他力の必然的存在を爰(ここ)に高調されたのである。

       <感謝合掌 平成24年8月16日 頓首再拝>

この儘救われる日 (474)
日時:2012年08月17日 (金) 04時49分
名前:伝統


   *「光明道中記」(八月 烈日に伸びる)より

八月十七日 この儘救われる日

【迷いを去れば此の世界は光明浄土。(『生命の実相』第十一巻)】

(歎異抄第二条)

   弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教、虚言(きょげん)なるべからず。
   仏説まことにおはしまさば、善導の御釈(おんしゃく)、虚言したまふべからず。
   善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。

   法然の仰せまことならば、親鸞がまうすむね、またもてむなしかるべからずさふらふか。
   詮ずるところ愚身の信心にをきては、かくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じ
   たてまつらんとも、またすてんとも、面々の御(おん)はからひなりと、云々。

ここに親鸞聖人はその信念が「法然上人に騙されても好い、どうせ救(たす)からない自分だ」
と云うような意味で、自虐的なことを被仰っているのではないことが判るのである。

法然上人の語(ことば)は、善導大師の御釈(おんしゃく)は釈迦の説法から出て、
釈迦の説法は、釈迦の「先験的要諦」から出たのである。

釈迦の先験的要諦と親鸞の先験的要諦とが戞々(かつかつ)と相触れたところに、
弥陀の本願をたのむよりほかないと云う念仏往生の悟りが発生したのである。

「このうえは念仏をとりて信じ奉らんとも、また捨てんとも面々の御(おん)はからいなり」
とは「そう云う先験的要諦は自分にない」と云う人には、無理に信ぜよと言っても仕方がないと
稍々(やや)鋭い親鸞の一面が現れている。

       <感謝合掌 平成24年8月17日 頓首再拝>

無恐怖の心境の日 (530)
日時:2012年08月18日 (土) 05時04分
名前:伝統


   *「光明道中記」(八月 烈日に伸びる)より

八月十八日 無恐怖の心境の日

【自己の内に神を観た者は恐怖を超える。(『生命の實相』第十一巻)】

(歎異抄第三条)

   善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。
   しかるを世のひとつねにいはく、悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をやと。
   この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。

   そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、
   弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、
   他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。

世の中には悪人さえ極楽往生を遂げるのに、いわんや善人が極楽行きは当然だと云う人があるが、
これは如何にも表面そのように思えるけれども、実際は反対である。

何故(なぜ)かというと普通善人と云うのは自力作善の人 ―― 
すなわち自分の力で今日は斯う云う善行を励みましたと云うように、
「“わたし”が善をしましたから救われる資格がある」と云うような人である。

ところが、その「“わたし”」なるものは本来無いのであって、
一切の善はただ大本体たる弥陀の御徳(おんとく)のあらわれである。

「“わたし”がした」などと云うものは世の中に一つもない。
それだのに「“わたし”がした」と云うのは大の偽善者であるから、
却って救われないのである。

       <感謝合掌 平成24年8月18日 頓首再拝>

大安心を得る日 (563)
日時:2012年08月19日 (日) 04時21分
名前:伝統


   *「光明道中記」(八月 烈日に伸びる)より

八月十九日 大安心を得る日

【罪業を浄めんと断食、水行をしても救われない。(『生命の實相』第十一巻)】

(歎異抄第三条)

   煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを
   あはれみたまひて、願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、
   他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。
   よて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せさふらひき。

「悪人成仏」の悪人は、「わたしはこんな悪をしたから救われる」と云うような
「罪悪誇り」の人間ではないのである。
だから「他力をたのみたてまつる悪人」と親鸞聖人は注釈し給うたのである。

「他力をたのみ奉る」とは、「自分には何の力もないのだ。すべての『善』は神力、
仏力に由るのである」と自己を謙る人を言うのである。

自分に何らかの善が行じられるならば、仏力が廻向(えこう)して自分にやらせて
頂くのであると知るが故に「自力修善」を誇ることがないのである。

       <感謝合掌 平成24年8月19日 頓首再拝>

何でも有難く感ぜられる日 (609)
日時:2012年08月20日 (月) 07時27分
名前:伝統


   *「光明道中記」(八月 烈日に伸びる)より

八月ニ十日 何でも有難く感ぜられる日

【信心とは仏の心が自分の中に生きることである。(『生命の實相』第十四巻)】

(歎異抄第四条)

   慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、
   はぐくむなり。しかれども、思ふが如く救けとぐること、極めてありがたし。

   また浄土の慈悲といふは、念仏して、急ぎ仏になりて、大慈大悲心をもて、思ふが
   ごとく衆生を利益するをいふべきなり。今生(こんじょう)に、いかにいとをし、
   不便(ふびん)とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。
   しかれば、念仏まうすのみぞ、末(すえ)とをりたる大慈悲心にて候ふべきと、云々。

慈悲にも自力の慈悲と浄土門の慈悲とがある。
自力の慈悲では「現象我」の智慧で救おうとするのであるから、その自力の「可哀相な」
「悲しい」「何とかしてやりたい」のはからいが却って相手の害する事になるかも知れない
のである。

肺病の人を救ってやりたい。「そんなに働いては病が増悪する。もっと安静にしていなさい」
と凡夫のはからい心で深切を尽せば尽す程相手の病人は恐怖心に駆り立てられて病気が
増殖するが如くである。凡夫の慈悲は始終(はじめおわり)を全うする事が出来ない。

ただ念仏即ち「実相」を念ずる浄土の慈悲によってのみ久遠の仏性は引き出され、肉体が
死ぬにせよ生きるにせよ。末徹(すえとお)りたる終りを完(まっと)うする慈悲になるを
得るのである。

       <感謝合掌 平成24年8月20日 頓首再拝>

はからわぬ日 (641)
日時:2012年08月21日 (火) 04時54分
名前:伝統


   *「光明道中記」(八月 烈日に伸びる)より

八月ニ十一日 はからわぬ日

【宗教生活とは神のはからいに委せた生活である。(『生命の實相』第十一巻)】

(歎異抄第五条)

   親鸞は父母の孝養のためとて、一遍にても念仏まうしたること、いまださふらはず。
   そのゆへは、一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり。いづれもいづれも、
   この順次生に仏になりてたすけさふらふべきなり。

   わがちからにてはげむ善にてもさふらはばこそ、念仏を廻向(えこう)して父母を
   もたすけさふらはめ。ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、
   六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもて、
   まづ有縁を度すべきなりと、云々。

これは父母の孝養のためにと思って念仏したら悪いと云うことではない。
『浄土真宗亀鑑』には、亡き母君の御遠忌(ごおんき)をも懇修(こんしゅう)せられた
ことが記されている。

念仏と云うのは先に言った通り、自力で称えるものではなく、他力に計らわれて内部から
催(もよう)して来るものであるから、自力でその方向を定めて此の念仏が私の父母の救いに
廻向しますようにと願うのは純他力の念仏に対する冒涜になる惧(おそ)れがある。

そこで親鸞聖人は、念仏はただ念仏すべきである。そしてそこに仏への完全なる帰一が成就
したとき、念仏自身の他力の自働によって父母の救いが成就すると考えられた。従って亡母の
御遠忌を修められたことと「父母のため」と限って念仏しないことは矛盾しない。

       <感謝合掌 平成24年8月21日 頓首再拝>

争い悉く解くる日 (672)
日時:2012年08月22日 (水) 04時35分
名前:伝統


   *「光明道中記」(八月 烈日に伸びる)より

八月ニ十ニ日 争い悉く解くる日

【宗教とは教祖が計画的に拵えたものではない。(『生命の實相』第十四巻)】

(歎異抄第六条)

   専修念仏のともがらのわが弟子、ひとの弟子といふ相論のさふらふらんこと、
   もてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたずさふらふ。そのゆへは、
   わがはからひにて、ひとに念仏をもうさせさふらばこそ、弟子にてもさふらはめ、
   ひとへに弥陀の御もよほしにあづかりて、念仏まうしさふらふひとを、
   わが弟子とまうすこと、きはめて荒涼のことなり。

専修念仏すなわち専ら念仏を修めて救われるようと云う教の宗派にいながら、あれは親鸞の
教派、あれは××の教派が異(ちが)うから救われないなどと言う者があるが以ての外である。

親鸞の開いた教派などと云うものは一つもないし、親鸞の弟子などと云うものも一人もない。
念仏を申すようになるも、念仏宗を開くのも自力でそう云うことが出来るのではなく、
仏の本願力(他力)が廻向(まわりまわ)って自分の中に催(もよお)して来たのであるから、

自分が開山ではなく、また自分の教に共鳴して念仏を申すようになった人も自分の弟子ではない。

それに何ぞや、自分自身を開山のように思い、一緒に念仏する人を自分の弟子のように思い、
他の教には仏の慈悲が催しているのだとは考えないで攻撃し合うなどは浅猿(あさま)しい
ことだと親鸞聖人は仰せられたのである。

       <感謝合掌 平成24年8月22日 頓首再拝>

仏縁尊き日 (693)
日時:2012年08月23日 (木) 07時13分
名前:伝統


   *「光明道中記」(八月 烈日に伸びる)より

八月ニ十三日 仏縁尊き日

【久遠常住の今――お前が仏であり、お前が極楽である。(『生命の實相』第六巻)】

(歎異抄第六条)

   即(つ)くべき縁あれば伴(ともな)ひ、離るべき縁あれば離るることのあるをも、
   師をそむきて、他(ひと)につれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんどといふこと、
   不可説なり。

   如来より賚(たまは)りたる信心をわがものがほにとり返(かへ)さんと申すにや、
   かへすがへすもあるべからざることなり。自然の理(ことわり)にあひかなはば、
   仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと、云々。

真宗につくべき因縁があるならば、真宗の同朋として同信の道に伴うのであるが、真宗に
離れるべき因縁のあるものは自然に真宗を離れるようになるのである。
真宗に即(つ)くのも離れるのも因縁によって催して来るのである。

自分が真宗に即くのも自分の手柄ではないし、他(ひと)が真宗を離れて他の宗教で念仏しても
往生出来ないという訳ではない。自分の時としてそれを標準に他を攻撃するような人は、
自分の頂いている「信心」を如来から廻施(いただく<えせ>)せられている「信心」だと
云うことを忘れて了って、自分の力で獲得(ぎゃくとく)した信心だと思っている間違である。

師弟の恩も因縁不可思議で造られるのであって私(わたくし)のはからいではない。
すべての恩は仏に帰せらるべきものだと解ったら、師の恩と云うことも却って知られるようになる
と聖人は仰せられた。

       <感謝合掌 平成24年8月23日 頓首再拝>

人を謗らぬ日 (724)
日時:2012年08月24日 (金) 07時10分
名前:伝統

   *「光明道中記」(八月 烈日に伸びる)より

八月ニ十四日 人を謗らぬ日

【幼な児の親にたよるが如く神に頼り切れ。(『生命の實相』第十一巻)】

(歎異抄第七条)
   念仏者は無礙の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には天神・地祇も
   敬伏(きょうぶく)し、魔界・外道も障礙することなし。罪悪も業報を感ずることあたはず、
   諸善もおよぶことなきゆへに無礙の一道なりと、云々。

念仏もうす者は無礙の唯一道を歩むものである。
念仏は人間自身のはからいによって称えるのではなく、絶対他力 ―― 時空を超越せる絶対神
大実在の、救わずにおかない大慈悲力が廻向(えこう)し来って、念仏となえる行となって
あらわれるのであるから、

念仏の進むところ天の霊、地の霊もこれを敬いたまいて平伏し、魔界外道、仏界以外のものも、
何ら念仏の前には障りとなる訳のものではない。

だから真実念仏の行者であるならば、魔界外道のものと言えども、決してそれを誹(そし)り
罵(ののし)る必要はない。念仏の力によって包容し救うだけの力がなければ
「念仏者は無礙の一道なり」と云うことは出来ない筈である。

「念仏は最善の行であるが故に、どんな自力の行よりも功徳の多いものであって、念仏の世界
には罪悪も業報を信ずることあたわずだ」と親鸞聖人は仰せられた。

これは「念仏(実相)の世界には罪悪は本来無い」と生長の家で言うのと同じである。

       <感謝合掌 平成24年8月24日 頓首再拝>

謙遜になり切る日 (748)
日時:2012年08月25日 (土) 04時55分
名前:伝統


   *「光明道中記」(八月 烈日に伸びる)より

八月ニ十五日 謙遜になり切る日

【神は祈ったから心を動かし祈らぬから罰を与えるようなものではない。(『生命の實相』第三巻)】

(歎異抄第八条)

   念仏は行者のために、非行非善(ひぎょうひぜん)なり。わがはからひにて行ずるに
   あらざれば非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば非善といふ。
   ひとへに他力にして、自力をはなれたるゆへに、行者のためには非行・非善なりと、云々。

念仏とは謂わば絶対者の力の廻向(えこう)し来る光明思想である。
吾々の行う光明思念も本当はその極致は、
わがはからいにて行ずる光明思念であってはならないのである。

「わがはからいにて行ずる光明思念」であるならば、「わたしが光明思念をしてやったから
病気が癒(なお)ったのだ」などと恩に着せがましく、また自力の善をほこりがましく自分が
大先生になりすましすのであるが、「自力」と云うものはひとつもないのであるから、
「わたしが光明思念をしてやった」と云うこともあり得ないのである。

大宇宙大生命の無辺の光明思念に”はからわれ”てそれが吾々に催し来たりて光明思念する
ように成るのである。「念仏は行者のために非行非善なり」とは直に以て「光明思念は行者の
ために非行非善なり」である。

この世に如何なる行と雖もわが”はからい”にて成し遂げる行とてなく、
この世に如何なる行もわがはからいにて成し遂げ得る「善」もない。

       <感謝合掌 平成24年8月25日 頓首再拝>

法悦なき法悦の日 (771)
日時:2012年08月26日 (日) 07時57分
名前:伝統


   *「光明道中記」(八月 烈日に伸びる)より

八月ニ十六日 法悦なき法悦の日

【形の地獄の中にも極楽がある。(『生命の實相』第十一巻)】

(歎異抄第九条)

   念仏まうしさふらへども、踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)のこころおろそかにさふらふこと、
   またいそぎ浄土へまいりたきこころのさふらはぬは、いかにとさふらふべきことにて
   さふらふやらんと、まうしいれてさふらひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房
   おなじこころにてありけり。

   よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどに、よろこぶべきことをよろこばぬにて、
   いよいよ往生は一定(いちじょう)とおもひたまふべきなり。

唯円房が「念仏を称えながらもわたしは天に踊り地に舞うような法悦が感じられませぬ。
後生を欣求(ねが)う念仏を称えながらも、私は急いで極楽浄土に往きたくはございません。
これは矛盾でございますが、どうしたものでございましょう」とおたずね申上げましたら、

親鸞聖人は「親鸞もお前と同じような疑問を持ったことがあるが、
唯円房よ、その方も同じ心だったな」
と仰せられました。

「よくよく考えて見れば、よろこぶべきことを喜ばぬ『自分』は『非在(えせ)の自分』の証拠
である。非在の自分を”ある”かの如く思いあやまっているからこそ、他力の悲願(おすくい)
が必要なのじゃとありがたく思えば好い・・・」と仰せられたのである。

       <感謝合掌 平成24年8月26日 頓首再拝>

当り前の事が楽しい日 (784)
日時:2012年08月27日 (月) 07時28分
名前:伝統


   *「光明道中記」(八月 烈日に伸びる)より

八月ニ十七日 当り前の事が楽しい日

【我執がなくて楽しく動き出せるのは本来楽しい実相が顕れるのである。(『生命の實相』第十四巻)】

(歎異抄第九条)

   よろこぶべきこころをおさへて、よろこばざるは煩悩の所為(しょい)なり。
   しかるに仏かねてしろしめして煩悩具足の凡夫とおほせられたることなれば、他力の悲願は。
   かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。

   また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずる
   やらんとこころぼそくおぼゆることも煩悩の所為なり。

   久遠劫(くおんごう)よりいままで流転せる苦悩の旧里(きゅうり)はすてがたく、
   いまだむまれざる安養の浄土はこひしからずさふら、ふこと、まことによくよく煩悩の興盛
   (こうじょう)にさふらふにこそ。

   なごりおしくおもへども、娑婆の縁つきて、ちからなくしてをはるときに、かの土へは
   まゐるべきなり。いそぎまいりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。

   これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定(けつじょう)と存じ
   候(さふら)へ。踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまいりたく候はんには、
   煩悩のなきやらんと、あやしく候ひなましと、云々。

ここは別に解釈の要はない。
安養の浄土は弥陀の建立せる方便の浄土であって実相の浄土でないことは次に説明する

       <感謝合掌 平成24年8月27日 頓首再拝>

自ら下に降りて人を救う日 (795)
日時:2012年08月28日 (火) 04時23分
名前:伝統


   *「光明道中記」(八月 烈日に伸びる)より

八月ニ十八日 自ら下に降りて人を救う日

【悔改めとは「全体の心の乗換」である。(『生命の實相』第七巻)】

(歎異抄第十条)

   念仏には無義をもて義とす。不可称・不可説・不可思議のゆへにと、おほせさふらひき。

生長の家の説く実相浄土は「いまだ生まれざる浄土」ではないのである。
肉体は死んでも生きてもそのまま此処が尽十方無礙光如来の世界であると悟るのである。

少しばかり所労(わずらい)があったからとて死ぬだろうと考えるのは、
それを尋ねた唯円房にまだ「観の転回」が出来ていない証拠である。

弥陀は尽十方無礙光如来として一切所に偏在したまう御本体であるから、
いたるところ尽十方無礙光如来の浄土たらざるはない。

その浄土が浄土に見えず、穢土に見え、而もその穢土に執着しているのが、
真実を観るところの「観の転回」の出来ていない唯円房であった。

親鸞は此のような弟子のために、「”此処が”尽十方無礙光如来の浄土である」と教えても
解(さと)らないであろうと思って、みずから其の迷いの境地まで身を引き下げて、この世を
唯円房と同じように穢土だと観、その穢土から救われるための念仏を説いたのである。

親鸞の教えは唯円房のような下根(げこん)の者のために、迷いそのままで、
「観」を転回せしむるために「彼岸(あちら)を見よ」と言ったのである。
そして念仏には理屈はないと「はからいの心の絶滅」(即ち救い)を説かれたのである。

       <感謝合掌 平成24年8月28日 頓首再拝>

既に救われている日 (841)
日時:2012年08月29日 (水) 06時56分
名前:伝統


   *「光明道中記」(八月 烈日に伸びる)より

八月二十九日 既に救われている日

【信じないのが最大の罪である。(『生命の實相』第十巻)】

(歎異抄第十一条)

   一文不通のともがらの念仏まうすにあうて、なんぢは誓願不思議を信じて念仏まうすか、
   また名号不思議を信ずるかといひおどろかして、ふたつの不思議を子細をも分明に
   いひひらかずして、ひとの心をまどはすこと、この条返す返すも、心をとどめておもひわく
   べきことなり。

この一節は「誓名(せいみょう)別執(べつしゅう)の異形」と言って、如来の誓願と名号とを
別々に見立てて、誓願こそ救いの本体であって、名号の不可思議力を否定せんとする教派の人達に
対する抗議である。

生長の家の説くように、声字即実相、名号即実相と云うことがハッキリ書かれているならば
問題はないのである。

聖書の『ヨハネ伝』には「その名を信ぜし者には神の子となる種を与えたまえり」と書かれている。

名号は実相であり、如来の名号の中に融け込むことは、如来の実相の中に融け込むことである。
理窟があっては融け込むことは出来ない。理窟を抜き、わたくしの考計(かんがえ)を脱(のが)れ
さってひたすら名号の中に融け込むことを要するのである。

念仏を称えたら何故救われるのか、そんな思いは雑念妄想である。
だから「念仏は無礙の一道なり」また「念仏は無礙を以て義とす」と仰せられたのである。

       <感謝合掌 平成24年8月29日 頓首再拝>

指方立相の浄土を知る日 (864)
日時:2012年08月30日 (木) 08時01分
名前:伝統


   *「光明道中記」(八月 烈日に伸びる)より

八月三十日 指方立相の浄土を知る日

【既に成就している実相の世界の幸福のみ見よ。(『生命の實相』第十二)】

(歎異抄第十一条)

    誓願の不思議によりて、やすくたもち、となへやすき名号を案じいだしたまひて、
    この名字をとなへんものをむかへとらんと御約束あることなれば、まづ弥陀の大悲大願の
    不思議にたすけられまいらせて、生死(しょうじ)をいづべしと信じて、念仏の申さるるも
    如来の御はからひなりとおもへば、すこしもみづからのはからひまじはらざるがゆゑに、
    本願に相応して実報土に往生するなり。

    これは誓願の不思議をむねと信じたてまつれば、名号の不思議も具足して、
    誓願名号の不思議ひとつにして、更に異なることなきなり。

誓願の自(おのずか)らなる延長が名号であることである。
誓願とは仏の衆生を救わずにはおかぬと云う決意である。
決意はコトバであり、名号となって表現される。

「名号を案しいだし」とあるのは、人間のように色々と救うべき方法を案出したと云う意味ではない。
誓願そのものの延長が名号である。名号と誓願とが一体であるがゆえに、誓願不思議でもあれば、
名号も不思議でもある。

報土と云うのは弥陀の誓願(コトバ)の客観的展開せる指方立相の浄土であって、
コトバ(振動)は或る立場より感ずるとき指方立相的に表れるのはテレビジョンでも明かである。

       <感謝合掌 平成24年8月30日 頓首再拝>

不可思議光を見る日 (890)
日時:2012年08月31日 (金) 07時15分
名前:伝統


   *「光明道中記」(八月 烈日に伸びる)より

八月三十一日 不可思議光を見る日

【成仏の種は「肉体の我」にはなく「仏性たる実相」にある。(『生命の實相』第三巻)】

(歎異抄第十一条)

   つぎにみづからのはからひをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、往生のたすけさはり、
   二様(ふたよう)におもふは、誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業を
   はげみて、まうすところの念仏をも自行(じぎょう)になすなり。

   このひとは名号の不思議をもまた信ぜざるなり。信ぜざれども、辺地(へんじ)・
   懈慢(けまん)・疑城(ぎじょう)・胎宮(たいぐう)にも往生して、果遂の願のゆへに、
   つひに報土に生ずるは名号不思議のちからなり。

   これすなはち、誓願不思議のゆへなれば、ただひとつなるべし。

肉体我のはからいにて「これが善」「これが悪」と区別し浄土に生まれる原因に成るとか成らぬ
とか言い、善悪によって極楽浄土へまいらせて頂きようが異(ちが)うと考えるのは如来の誓願の
不可思議力をたのまずして、自力で浄土に生まれる業(ごう)を積もうと思うものであって、

「念仏」するのでも「自行(じぎょう)」すなわち自分の”となえる力”で
救われると考えるのである。

こんな人は弥陀の名号”そのもの”の不可思議力を信じないのであるから、
直(ただち)に弥陀の浄土に転入する事はできないが、浄土の辺地(ほとり)の懈慢(なまけ)の者、
疑いの者などの生まれる仮の浄土(自力の心の客観的世界)に生まれるが、
兎も角「念仏」する故に、やがて弥陀の浄土に救いとられるのは同じである。

       <感謝合掌 平成24年8月31日 頓首再拝>



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