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奇蹟の『甘露の法雨』 (126)
日時:2012年08月06日 (月) 17時48分
名前:伝統

このスレッドでは、『甘露の法雨』における奇蹟の体験等について集めて参ります。

このスレッドは、基本的には、
以下の「生長の家“本流宣言”掲示板」内スレッドからの継続になっております。

(1)「生長の家“本流宣言”掲示板」内スレッド
   「甘露の法雨・世界平和の祈り ムーブメント (58)
    → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=29

(2)「生長の家“本流宣言”掲示板」内スレッド
   「甘露の法雨について 語ろう そして読もう・・・今だからこそ (3530)」
    → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=697

・・・・・

炭鉱爆発の時に起こった奇蹟 
        
     *新講『甘露の法雨』解釈(P322〜327)より

(「甘露の法雨」による)奇蹟は、あの昭和38年11月の九州三井鉱山の三川坑の
大爆発の惨事の時にも不思議な奇蹟が現れたのであります。

 大牟田市の前田常喜さんが、次の様な体験を発表されたのであります。

『私は11月9日の三井坑大爆発の際、坑内にいまして罹災(りさい)した一人であります。
・・・当日、平日と変わらず出勤いたしました。・・・

二十一卸(おろし)を昇って行きました所、粉塵、煙で真っ黒、今まで見たこともない
真っ黒な煙・・・誰かが「本線に出てはいかんぞ、事故が起こったらしい。早く退避しろ」
と言っている。

間もなく乗り場の方からよろよろと2人出て来て、崩れるように倒れた。 

私たちもガスを吸って・・・急激に手足の麻痺、頭痛が襲って来ました。
・・・私の右肩の工具箱には、お守りの「甘露の法雨」が入っています。

取り出す余裕もないので、そのままとにかく頑張れ頑張れと自分に言い聞かせて、
必死になって急ぎました。・・・

頭は朦朧(もうろう)として息苦しく「もう駄目だ」「いや二人の子供が待っている」
・・・自問自答を繰り返しながら「甘露の法雨」を袋の上から押さえて、
這(は)うように歩き続け・・・しかし体力の限界でしょうか、
倒れて失神(しっしん)してしまいました。

何時間くらい仮死状態で寝ていたでしょうか、
何かゾクゾクッとしたと思ったら、ハッと気がつきました。

目を開けると真っ黒い煙は、跡形(あとかた)もなく消え、キャンプ・ランプに
照らし出された坑道は、綺麗(きれい)な空気で満たされていたのでした。

右肩を見ると、「甘露の法雨」の入っている工具袋を、肩から胸にしっかり抱いているのでした。
「ああ、助けて頂きました。ありがとうございます」私は急いで「甘露の法雨」のお守りを
取り出し、左胸のポケットにしっかりとしまい込み、上から手で押さえ、
ただ「有難うございます」を繰り返していました。


失神していた時間は、2時間余りのようでした。
二十一卸の方から、「おーい、こっちに倒れとるぞー!」という声が聞こえ、
「眠ったらいかんぞ」「助かったんだ。しっかりしろ」と励ましの声と共に、
担架(たんか)に乗せられて二十一卸の四片口まで運ばれました。

担架で運ばれる道すがら、倒れている仲間の多数の遺体(いたい)を見て、
大事故だとの実感がやっとピンときたのでした。

天領町の三井総合病院に収容されたのは、10日の零時半頃でした。・・・

尚、当日は、長崎に行っていた妻は、朝から聖経三巻をあげ、神想観をして祈り、
長女は昨晩のように『甘露の法雨』をあげてくれていたとの事ですがその時間がちょうど、
私が失神から覚めた時と一致していたようでありました。

生きる喜び、九死に一生を得させて頂きました私の喜び、これこそ生長の家の大神様の
御導きとお守りでなくてなんでありましょう。ただ有難いばかりであります』

       <感謝合掌 平成24年8月6日 頓首再拝>

伝統さま 有難うございます (135)
日時:2012年08月06日 (月) 22時05分
名前:コスモス


 『甘露の法雨』のことが気になっておりましたが、伝統さまのお陰で、いつでも『甘露の法雨』の素晴らしさを読み返すことが出来て、本当に有難く思い、心から感謝申し上げます。
 本当に有難うございます!

これでこれからも『甘露の法雨』の素晴らしさをここでまた語り合うことが出来ますね。嬉しいです。

 皆様どうぞ『甘露の法雨』にまつわるお話を沢山書き込んで下さいませ。よろしくお願い申し上げます。 合掌

一人出家すれば、九族天に生まる (146)
日時:2012年08月07日 (火) 08時36分
名前:伝統

”コスモス さま” ありがとうございます。

暫く、”コスモス さま”の登場がなかったので、気になっておりましたが、
満を持しての登場、そして呼びかけに、心より感謝申し上げます。

私としては、掲示板が、一旦リセットされましたので、
新旧のつながりを整理していきたいと思っております。


そして、この掲示板では、”ガラスの仮面 さま”がスレッド「達人の剣NEW (137)」
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=68 >にて、

「この掲示板が少しでも光明の言葉に満たされますよう、期待します。」
と述べられております。

”コスモス さま”の言葉は、いつも光明と勇気の言葉に満たされております。
これからも多くの投稿をお願いいたします。


・・・以下に、奇蹟の体験例の紹介を続けて参ります。


「みんな毒ガスで窒息死を招いた中でだだひとり助かった奇蹟」 
        
     *新講『甘露の法雨』解釈(P327〜329)より

三井鉱山の三川坑での奇蹟的な『甘露の法雨』の救いは、ひとり前田常喜さんだけではない
のであります。

昭和38年11月22日、日大講堂において生長の家の大会がありました時に、
菊地藤吉氏が聖経千回読誦の功徳を次の様に、小宮正秋さんの体験談を取り次いで
お話になりました。

『・・・「甘露の法雨」の千回読誦(どくじゅ)をしようと心がけまして・・・
それで一所懸命にやっておりまして、そして今月の9日の朝でございました。
丁度、”ゆには道場“の当番として聖経をお誦げしておりましたら、何か胸さわぎがする。

終わってから「何か今朝胸騒ぎがした」と言ったけれども
一笑に付されたというのでございます。

ところが家に帰りまして、テレビを見ておりましたら、
あの大牟田(おおむだ)における三井の炭鉱の爆発、
自分の弟さんがあの炭鉱に勤めております。

そうして坑夫となって坑内に入っておりますので、どうだろうとテレビを見ておった所が、
その死亡者の中に小宮正秋という死亡者の名が――自分の弟さんの名が――
出たのであります。

・・・早速連絡を致しましたけれども、もうゴッタ返しのようで電話が通じない。
そこで小宮寛一さんは「自分が今やる事は、とにかく自分の心を落ち着けることだ」と
聖経「甘露の法雨」を一所懸命読誦いたしました。・・・

不安の中に聖経を一所懸命あげておりましたが、翌日になりまして
27時間坑内に入っておって、最後に救われた小宮正秋君、42歳というのが
大きく新聞に出たと言うのであります。・・・

実際は、この小宮正秋さんは、あの爆発の1時間前に、事務所の方へ至急な連絡があって、
電話をかけて寄越しております。それから1時間たって、爆発したんでありますが、
それで救助隊が入りました。

坑内から1800メートル奥へ入った辺が爆発の中心地でありますが、
救助隊が入っていきました
時に、24人全部そこでガス壊疽(えそ)を起こして死んでおりました。

死体を上げて来て数えてみたところが、一人足りない。
その一人が小宮だという事が分かりまして“小宮君は確か電話かけて来たのだからいる筈だ”
という訳で、また、10時間過ぎに捜査隊が入って行きましたけれど、どこにも見当たりません。

さらに探したところが、土砂の中にコンクリートで固めたマンホールがございまして、
その中に小宮さんは入って、しかも胸まで土砂に埋まって、
しかもマンホールの蓋(ふた)をして、その中で気絶しておったと、こういう訳であります。

引き上げて、色々手当てをしまして完全に立ち上がった訳でありますけれど、
どうして蓋をしたか、いつ蓋をしたか、いつマンホールへ入ったかそれが全然判らない、
埋まってから蓋がかかっているのですから、一体どうして自分がそのマンホールに
はいったものか、とにかく蓋をしてその中で助かっておったのであります。

もし、あそこで気絶していなければ、これは完全に一酸化炭素を吸っている訳ですから、
皆と一諸に死んでいなければならない。
この辺の“あや”が全く神様のお計らいと言うより仕方がございません。

それからの「甘露の法雨」をあげますのは、誦げるのが有難くって有難くって、
一字読んでは泪を流し、一句読んでは泪をながし

・・・弟さんにも今度は「甘露の法雨」のお守りを持っていって、
生長の家に喜んで入って頂く・・・

と言う事でございましたので、御報告をさせて頂きます。』


弟さんの正秋君は、まだ遭難当時は誌友でなかったのですけれども、
兄さんの寛一さんが、その時間に胸騒ぎがして一所懸命に『甘露の法雨』を
読誦した功徳であります。

仏典に  「一人出家すれば、九族天に生まる」  とはこのことであります。

       <感謝合掌 平成24年8月7日 頓首再拝>

原爆にも犯されない奇蹟の体験(1) (193)
日時:2012年08月08日 (水) 13時01分
名前:伝統

明日8月9日は、長崎に原爆が落とされた日です。
(8月6日には、広島が被爆)

原爆にも犯されない奇蹟の体験記録については、「生長の家“本流宣言”掲示板」でも、
紹介がありましたが、この掲示板にても、あらためて紹介して参ります。

以下の3例とも、Web「生長の家「今昔物語」からの転載です。

(1)高瀬教授の場合   <神秘面より観たる『生長の家』四十年史(p.45−46)>

   それは昭和20年8月9日、アメリカ空軍機B29が長崎を「原子の火」をもって
   攻撃した時のことであった。

   B29機は長崎市の中央にあらわれて、そこに落下傘(らっかさん)にぶらさげた原子爆弾
   (それは後に明らかにされた所によると、広島を襲った原子爆弾よりも2倍の爆発力をもった
   プルトニューム爆弾であった)を投下すると、そのまま西の空に消え去ったのであった。

   丁度その時、長崎の東端にある町、浦上にある有名なカトリック教会では、その信者の
   90%の人々が集まって熱心な祈りを捧げていたのである。

   それはカトリックのことであるから「主イエス・キリストの受け給いし苦しみを我にも受け
   せしめ給いて、自分たちを代贖者(だいしょくしゃ)としてこの戦争を終結せしめ給へ」と
   いうような意味の敬虔(けいけん)な祈りであったと思われる。

   そのとき落下傘によって空中に浮かんでいた原子爆弾は恰(あたか)もその祈りに応えるかの
   如く、風に吹かれて、その熱祷(ねっとう)を捧げている最中の、教会の真上まで来ると、
   ピカドンと爆発したのであった。

   そしてその熱祷を捧げている最も敬虔なキリスト信者たちは一瞬のうちに
   霊界に移行したのである。

   その教会の隣に、長崎医大及びその付属病院があった。
   病院勤務の臨床を担任している博士たちは一瞬のうち全部息の根が絶えた。

   病院全部を暖房するための煙突は“く”の字にひんまがり、
   付近の山王神社の御影石の鳥居はその一方の柱が無残にもへし折れて飛んだ。

   それは8月の事であったから大学は休暇であったから学生には被害がなかったが、
   学科を担任している教授たちは、頻々(ひんぴん)として長崎を襲ってくる空襲のために、
   もしか大学校舎に爆弾が命中して火を発したら、防火に従事する必要のために出勤して、
   泊り込んで当直する事になっていたのであった。

   当直に当たっていた教授は皆、無慚(むざん)な死をとげた。
   その日出勤していなかった教授だけが救かったのである。

   精神科の科長をしていられた高瀬清博士は(その夫人が長崎の生長の家白鳩会長であった)。
   その休暇を無駄に過ごさないで有益に利用しょうと思って8月1日から7日までの1週間、
   歯科医を集めて精神医学の講座を開いて、毎日数時間の連続講義をすることにせられたので
   あった。

   1週間連続の講座が終わると、教授の一人が、
   高瀬博士に「先生は御老体でもあるのに1週間も連続の御講義では、お疲れでしょうから、
   3日間位は公休をお貰いになって自宅で静養して下さい」と勧めるものであるから、

   8月8日、9日、10日と3日間、長崎市から汽車で1時間半の距離にある疎開先
   の自宅に帰って休養しておられたのであった。

   そのために8月9日に長崎市を襲った原爆から自然に身をかわして無事なるを得たのであった。

   当時の生長の家幹部の人たちは、あの原爆の当日、あの時間に、不思議にも何かの用向きで
   長崎市にいないで、原爆とスレ違って救かっているのである。

   どんな災害も、心がそれに波長があわねば近づくことが出来ないと言う真理の実証と
   見ることが出来るのである。

       <感謝合掌 平成24年8月8日 頓首再拝>

原爆にも犯されない奇蹟の体験(3) (285)
日時:2012年08月10日 (金) 05時01分
名前:伝統


(3)甲斐延佳君の場合  (神秘面より観たる『生長の家』四十年史(p.49−52))

   原爆の“第三の火”も傷つけることが出来ないという奇蹟は、
   宮崎県の青年、甲斐延佳君にも起こったのであった。

   甲斐君は、もと満鉄に勤めていたが肺結核に罹(かか)って満州は気候が療養に
   適しないので、内地療養を許されて日本へ帰っているうちに『生命の實相』に触れ、
   “人間神の子・本来無病”の真理をさとると同時に病気が癒(い)えたのであった。

   病気が恢復すると、恰度、大東亜戦争に差し掛かっていた時期であったので、
   召集されて軍隊勤務に入ることになった。甲斐君は先ず長崎師団の輜重兵(しちょうへい)
   として入隊し将兵の被服をしつらえる係になった。

   彼は何月何日に入隊するということが決まると、
   “自分は生長の家の説く真理によって救われたのであるから入隊前に、
   一度生長の家の講習会を受けて「神の子」の自覚を深めてから戦場に臨みたい”

   と考えて、どこに此の月は生長の家の講習会があるかと調べてみたら、
   佐賀県の武雄市にあるということが判ったのである。

   そして武雄氏の講習会に来てみると、わたしの講話の中にこんな話が出て来た。

   「海征(ゆ)かば水漬(ず)く屍(かばね)、山征かば草むす屍、大君の辺(へ)
   にこそ死なめ顧みはせじ」などというような、

   海で戦争すれば味方の軍勢が“水漬く屍”になり、
   山で戦争するならば“草むす屍”になる言葉ばかり唱(とな)えて、
   一語も「勝つ」の“カ”の字もないような歌を唱(うた)って戦っていては
   負けてしまうぞ。そんな不景気な言葉を唱える者は「言葉の力」を知らぬ者だ。

   “死ぬ”ことを、言葉で唱えれば、言葉の力で“戦死”を多く出す事になるから、
   “死ぬ”などということを唱えず、ただ「皇軍必勝、必勝生還」とのみ唱え、
   それを信じて戦うべきである。

   こういうような事を色々の実例を引いて私はその時、講演していたのであった。

   この午前の講義が終わって、控え室で昼食をしたためていると、
   甲斐君が日章旗を持って来て、そして硯に墨と筆とを用意して、自分が召集されて、
   一両日中に入隊することになっている事を話して、

   「今日の御講義まことに私のために話して頂いたような話で大変感銘いたしました。
   ついては先生のお言葉通り、この日章旗に“皇軍必勝・必勝生還”と書いて頂きたい
   のです」というのであった。

   私は講習先で時々揮毫(きごう)を求められることがあるのだが、
   単なる揮毫であるならばお断りするのであるけれども、

   午前中に自分が講義した文句でもあるし、もう直ぐ応召(おうしょう)して戦場に
   臨(のぞ)む人の願いであるので、断りもだし難く、日章旗の両縁の白いところに
   “皇軍必勝・必勝生還”と墨、黒々と祈りを凝めて書いて差し上げたのであった。

   甲斐君は、その日章旗を常に腹巻(はらまき)とし、
   その腹巻の間に『甘露の法雨』を捧持(ほうじ)して軍隊生活に入ったのである。

   彼は輜重兵(しちょうへい)として軍服や下着の調達の仕事を受け持っていたが、
   それが出発ぎりぎりの時間に間に合って、長崎港から出発する船に飛び乗った。

   それは軍が徴用した屋形船であって、船の中には既に兵隊がぎっしり乗っていて、
   足の踏み場もないような状態であったので、彼はその屋形船の屋根の上に乗った
   のであった。

   屋形船の日覆いになっている屋根は日本建築の屋根のように傾斜していた。
   その上に乗っている彼は、船が波のうねりで、もう一層傾斜すると、
   屋根が一層急勾配(きゅうこうばい)になるので、彼は屋根からすべり落ちて、
   肩を並べて坐っている兵隊の膝と膝の間へ割り込むように横倒しになったのであった。

   その瞬間、船の真上で敵の爆弾(砲弾かも知れない)が炸裂したのであった。

   頭をならべて乗り込んで坐っていた兵隊たちは、その敵弾の炸裂(さくれつ)を
   まともに受けて全員戦士したのであったが、甲斐延佳君だけは兵隊の膝の間に
   横に倒れて兵隊の腹や背が防御の楯のようになって自分を護っていてくれるので
   身に微傷をも帯びないでいた。

   それは「皇軍必勝・必勝生還」と私が書いた日章旗を腹巻として、その中に
   『甘露の法雨』を捧持していたお蔭だと私は考えたいのであるが、
   そのように考えたくない人は偶然の僥倖(ぎょうこう)であると考えても良いであろう。

   それから後、甲斐延佳君の所属の部隊は変更になって、
   長崎に原爆が投下せられた時には、彼は高射砲部隊に属していた。

   原爆が投下された日は、よく晴れた日だったらしい、
   非常に暑い日で高射砲部隊の人々は、上半身は上着もシャツも脱いで裸で、
   ズボンだけの軽装になっていた。

   原爆を投下したB29の逃げ去る跡を追って彼は、その高さを追跡するための
   測高機を見詰めながら伏向いて裸の背を空に向けた姿勢でいたのだった。

   突然、甲斐君は、爆弾の爆音と共に何千噸ともいうような重量の圧力を裸の背に感じて、
   体を上から下へと押しつぶされた。
   彼は踏み潰(つぶ)された蛙のように其処へヘタバッテしまったのであった。

   極近い距離からプルトニュームの原子爆弾の爆風と照射を、彼は何も覆(おお)う
   ものなき裸の背中から浴びたのであった。

   しかし彼は「皇軍必勝・必勝生還」と私が書いた、腹巻の中に『甘露の法雨』を
   捧持していた。
   彼は「真理」と一体になっていたのだ。

   彼の背中は、数日間、海水浴に往ってきた後の日焼けのように少し赤くなってただけで、
   その後爛(ただ)れることもなく、ケロイドになることもなく、間もなく普通の皮膚に
   返ったのであった。

   彼はその後、原子病に罹(かか)る事もなく、戦争が終わると、
   この神秘の体験をひっさげて宮崎県の生長の家青年会の支部執行委員長として
   青年たちの訓育に尽くして来た。

   青年会員の資格は35歳までであるというので、私が海外布教旅行に出かける
   少し前の年に、彼は青年会支部執行委員長の重責を満了して、ある生命保険会社の
   外務員として就職したが、私の海外旅行の前年、宮崎市で講習があった時に、
   あの長崎で原爆を受けた時の体験を多くの受講者の前で話したのだった。

   甲斐君はその時、生命保険の外交でも、
   生長の家の真理を生活に応用してやっているので、
   第一位の成績を挙げて表彰されたと言っていた。

   まことに「真理は汝を自由ならしめん」である。

   原爆の被害からの自由、貧乏からの自由、病気からの自由、一切の災害からの自由、
   一切の不幸からの自由・・・
   これらは皆“内”から得られる自由であるのである。    

       <感謝合掌 平成24年8月10日 頓首再拝>

ハワイ日系二世部隊の奇蹟 (329)
日時:2012年08月11日 (土) 07時18分
名前:伝統

    *Web「生長の家「今昔物語」からの転載です。
       (神秘面より観たる『生長の家』四十年史(P.52−55))

しかしこのような奇蹟は個人に関する霊験の片鱗(へんりん)であって、
もっと重大な奇蹟は終戦当時及びその後、日本国家の運命に及ぼした『甘露の法雨』の
偉大なる事蹟(じせき)である。

私は終戦の翌々年八月北海道登別温泉の第一滝本舘本館の大広間で、
終戦後の北海道講習の第一声を挙げた。

ホテルの大広間は寿司詰めに坐ると五百人ばかり入れるのである。
集まる人が激減している終戦直後ではこの位の講堂で間にあったのである。

午前の講習を終わって昼食をしたためていると、
係りの人が、「先生、アメリカ軍の将校の人が先生にお目にかかりたいと言って来ています」
というのだった。・・・彼はハワイ生まれの日系第二世の将校であった。

彼は私の顔を見ると、嬉しそうな表情をして、
「先生、今度の戦争でヨーロッパ戦線で勝利を得た民族はどこの民族ですか知っていますか」
と言った。

「知らないよ。それは、何処の民族だろうね」と答えると、
かれは意気軒昂(いきけんこう)というような身振りをしながら、
「それは、日本民族ですよ」と言った。

「それはどういう意味ですか」と私は思わず言った。
するとそのアメリカ軍将校は大体次の様な事を話してくれた。―――

ヒットラー・ドイツを制圧するために連合軍が組織されて多くの船団に各国の兵隊を乗せて
ヨーロッパ戦線に送られて行ったけれどもどこにも適当な上陸地点がないのであった。

そこで、最初に上陸の地点として選ばれたのがイタリーの南端のシチリー島であった。
ところがそこは天然の岩窟(がんくつ)の陰になっているところに要塞(ようさい)が
築かれていて、そこに砲塁(ほうるい)や機関銃座が沢山据えつけてあり、
上陸用舟艇がある距離まで近づいて行くと、其処に、砲弾・機関銃弾が集中して、
どの民族の部隊も全滅して上陸することが出来なかった。

最後に選ばれて上陸を敢行(かんこう)したのが、ハワイの日本民族第二世の部隊であった。

日本民族第二世の部隊が召集されることになると、
当時、ハワイの生長の家白鳩会の会長をしておられた宮川和子さんは、
英訳の『甘露の法雨』をたくさん印刷してそれに神想観して祈りを篭(こ)め、
応召出陣する第二世の兵隊さんのポケットにそれを一部づつ入れてやった。

そこでそれらの日本民族第二世の兵士たちは“われ『甘露の法雨』と倶(とも)なり。
不死身の軍隊なり”という自覚で難攻不落のシチリー島に弾丸雨注する中で勇敢に上陸を
試みた。

ところが、『甘露の法雨』を携帯しているために弾丸が不思議に中(あた)らない。           
中には『甘露の法雨』に明らかに機関銃弾が命中しながら、それを貫通することが出来ないで、
そこで弾丸が止まってしまっていて、肉体は傷ついていない人も大分ある。

英訳の『甘露の法雨』は日本文のそれのように硬いサックも表紙もなく、ただ白紙に、
新聞の五号活字位の大きさで印刷されているので、極(ごく)薄い紙片にすぎない。
それを弾丸が貫通しなかったのだから奇蹟というほかはない。
 
このような奇蹟があって、多勢の日本部隊がシチリー島に上陸することを得て
橋頭堡(きょうとうほ)が築かれ、続々と連合軍が上陸することが出来、
北上してイタリーのムッソリーニを仆(たお)し、さらに北上してヒットラー軍を
制圧して速やかに連合軍が勝利を得ることが出来たのであった。

常にこの日本民族第二世の部隊は、難処に至るほど勇気を鼓して先頭に立って奮戦し
連合軍を有利に導いて偉大なる戦功を樹てたのであった。
これ全く『甘露の法雨』のお蔭であるということであった。

私は、その時にはその報告の事実だけをただ素直に受け取っただけであって、
それがその後に及ぼす驚くべき影響については気がつかなかった。

だいたい大東亜戦争は、真珠湾集結のアメリカ太平洋艦隊に対する日本海軍の先制空襲に
よって始まった。それゆえに、日本に対するアメリカ側の憤(いきどお)りは実に
熾烈(しょくれつ)で、

アメリカ領のハワイ生まれの日本人第二世は、“アメリカ人”として市民権を本来持って
いるのだけれども、風当たりは烈(はげ)しくて色々の差別的な待遇を受けたそうである。

だから宗教でも、日本から往っている宗教の布教や集会は全然禁止せられた。
仏教の僧侶は勿論のこと、キリスト教会ですら、日本から往っている宣教師のいる教会で
は集会は禁止せられた。

生長の家も当然布教が禁止さるべきであったのである。
ところが英訳された『甘露の法雨』を米軍の検閲官が読んでみて、
「この宗教は、どこも悪いところはないではないか、布教しても宜しい」ということになって、
生長の家のみハワイは勿論アメリカ本土に於いても布教が許可されることになったのである。

ここに深謀遠慮(しんぼうえんりょ)の神さまの救済の摂理があったのである。

もし生長の家の布教が許可されていなかったら、ハワイ白鳩会長の宮川和子さんは、
英訳『甘露の法雨』を日本人第二世の兵隊に持たせることは出来なかったであろうし、
日本人第二世の部隊は『甘露の法雨』に敵弾が当たりながら貫通する事が出来ず、
傷つかずに、無事にシチリー島に・・・(以下省略)         

<参考Web:生長の家“本流宣言”掲示板内「日系人部隊出身者に米最高勲章 (5201)」
       → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=1098  >

       <感謝合掌 平成24年8月11日 頓首再拝>

聖経『甘露の法雨』の功徳、反乱の近衛部隊を鎮静せしむ〜田中静壹大将 (418)
日時:2012年08月14日 (火) 22時16分
名前:伝統

       
     *神秘面より観たる『生長の家』四十年史(p.56−58)
      (Web”生長の家「今昔物語」”からの転載です)

もう一つ『甘露の法雨』の功徳は、大東亜戦争の終結直前の奇蹟である。
というのは昭和20年8月9日及び14日の皇居の地下壕(ちかごう)に於ける、
天皇を中心に相対する14人の重臣たちによる御前会議に於いてポツダム宣言を受諾して、
戦争をやめるという、天皇陛下御自身の御発意による決定が下され、

 
陛下の御みずからの終戦の詔勅(しょうちょく)が、――

「・・・尚、交戦を継続せんか、遂に我が民族の滅亡を招来するのみならず、
延て人類の文明を破却すべし。斯くの如くんば、朕(ちん)何を以ってか
億兆の赤子(せきし)を保し、皇祖皇宗の神霊に謝せんや。

堪(た)えがたきを堪へ、忍びがたきを忍び、以って万世のために泰平(たいへい)を
開かんと欲す・・・云々」

と蓄音機録音盤2枚に吹き込まれ、明日8月15日正午、
日本本土及び満州、朝鮮、樺太(からふと)等全国にこの終戦の詔勅が
NHKのラジオで放送される事になっていたのであった。

それを聞いた近衛師団の当時の中堅幹部将校たちが
「まだ日本本土には百八十万の軍隊が無傷で待機しているのに、無条件降伏とは何事であるか。
そんな不合理なことには承服出来ない。

これは屹度(きっと)、天皇陛下の御こころに反して、本土決戦に入ったならば、
一番生命が危険なのは重臣たちなので、自分たちのいのちが惜しいから天皇の聖慮の陰に
かくれて無条件降伏だなどと言い出すのである。
吾々は最後の一兵になるまで天皇のために戦わなければならない」

と決意して、時の近衛師団長・森 赳中将の許に馳(は)せ向かい、
「閣下がお起ち下さいますならば、続々として全国の師団長が起ち上がります。
そうして上陸を試みる敵軍を水際で叩き落すんです。閣下、是非、蹶起(けっき)下さい」
と熱情をもって申し込んだ。

その時、森師団長は、
“天皇陛下の御こころはこうである。今となっては自分の役目は、皇祖皇宗から
授かってきたこの国を子々孫々に伝えることである。そのためには日本国民に一人でも多く
生き残って貰って日本再建に尽くして貰わねばならぬ。

無駄な戦いにいのちを棄ててはならないのである。
敵は恐るべき原子爆弾をもっているのである。
これ以上無駄な戦争を続けることは、ひとり日本国民にとっての不幸であるばかりでなく、
世界人類にとっても不幸なことである。

それゆえ、堪え難きを堪え、忍びがたきを忍んで、自分の体はどうなってもよい、
戦争を止めると決意したのであると天皇陛下は仰せられているのであるから、
天皇陛下のこの御慈悲深い御こころに背いて戦争を継続するわけにはゆかない”

と諄々(じゅんじゅん)と説明しようとすると、将校のひとりは、

「問答をしに来たのではない。事は危急を要する。戦争を継続して敵を叩き落とすか。
それに対してイエスかノーかというだけだ。イエスでなければ斬る!」と
軍刀を抜いて斬りかかった。それを止めようとした副官が誤って斬り殺された。

その隙(スキ)をねらって一人の将校が放ったピストルの銃弾が命中して、
森赳中将は劇的な最後を遂げたのであった。

いよいよ師団長を銃殺して起ち上がった中堅幹部将校は、もう後退する訳には行かない。
ただもう決戦に向かって邁進(まいしん)するほかはないのである。

そこで東部軍管区司令官・田中静壹大将のニセの戦争継続の命令を出して、
全国にそれを連絡しょうとし、一隊は、天皇陛下の終戦の詔勅が明日正午放送されたら、
「事、畢(おは)る」というので、

それを奪い取るべく皇居の中に忍び込んで探し廻ったが、
それは小さな手提げ金庫の中に収めて、書類押入れの書類の奥の下積みにして
隠匿されていて中々見出す事が出来なかった。   

近衛軍中堅幹部将校が終戦反対で師団長を射殺して、東部軍司令官のニセ命令で戦争継続を
画策しつつあるとのことを伝え聞いた東部軍司令官・田中静壹大将は、護身のため、

右手に聖経『甘露の法雨』を持ち、副官・塚本少佐ただ一人を従えて、
師団長の死を見て、益々殺気の孕(はら)んでいる近衛軍中堅幹部将校の中へ
飛び込んでいかれた。

そして右手に持った『甘露の法雨』を熱情で思わず打ち掉(ふ)りながら、
“天皇陛下の御心は斯うじゃ”と諄々として話されると、

その話の内容は森・師団長の話の内容と全く同じでありながら、
幹部将校たちは敬虔(けいけん)な態度でそれを素直に受け入れて、
ついに反乱中止・戦争継続中止となって、

八方から、田中静壹大将に銃口を向けていたピストルも銃口が下にさがり、
幹部将校たちは帰順し、無事翌日8月15日正午、
天皇陛下の“終戦の詔勅”が全国に放送される事になったのであった。


全くそれは不思議な奇蹟であった。

天皇陛下のお言葉を、森・師団長も東部軍司令官・田中静壹大将も同じように
反乱将校たちへ伝えたのであった。

それにも拘(かか)わらず、その反応は全然異なっていた。

一方は、師団長を射殺までして抗戦を継続しようとしていたのに、
もう一方は、素直に田中静壹大将の説得を受け入れて、
無事に戦争の終結に入ることが出来た事である。

その相違はどうして生じたのであろうか。

  

<神秘篇・第29−31話の補足−深き神界の御経綸>

無血終戦の偉勲者・田中静壹大将のこと=本部講師 中嶋與一先生記=
  (生長の家四拾年史 P.332−335)

昭和18年10月29日、陸軍大将田中静壹(しずいち)氏夫人の操(みさお)さんが
生長の家本部へ訪ねてこられました。

その日、谷口雅春先生は九州御巡錫中にて、私が本部道場の指導を受け持っておりました。
操夫人が訪れた時には私はすでに道場へ出ていたので、受付氏が「道場へいらっしゃい」と
言ったのですが、「待たせていただきます」と言われ、四畳半ほどの薄暗い部屋で約3時間
待ったようであります。

私が道場から下がって会ってみますと、その用件は
「夫が病気で重態です。すでに諦めてはおりますけれども、何か心の中に苦しみが
あるように思えるのです。可愛そうで見ていられないので、その心の苦しみを
取り去って安心させてあの世へ送りたい」ということでありました。

「病院はどちらですか」 
「陸軍第一病院でございます」 
「軍人さんですか」と尋ねますと、夫人は名刺を出されました。

見ると『陸軍大将 田中静壹(しずいち)』とあるのです。

「はぁー、これは軍人さん、大将閣下ですね。すみませんが私はお断りします。
誰か他の講師を紹介しましょう。」と、椅子から立って部屋を出ようとしますと、
夫人はあわてて、「なぜでございます。」と詰め寄ってこられました。

「私は近頃の軍人さんは大嫌いです。」と言いました。
というのは、その時分、私は牛込の憲兵隊や名古屋の憲兵隊から呼び出されて、
「おまえは“海行かば”の歌はいけんちゅうて講演しとるそうじゃな」と、
さんざん油をしぼられ、

その頃は身体に油気が少なくなっていた上にさらにしぼられたので意識が
不明瞭になったほどでありました。

そこで、「私は軍人恐怖症で、ことにあなた様の御主人は大将さんですから恐ろしいです。
とてもお会いする勇気がありません。」と言いますと、

夫人は、「私の夫は大将でございますけれども至極やさしい人でございます。
お友達から貴方様を紹介されましたので主人もお待ち致しているのでございますから、
是非お願いいたします。」と懇願されるのです。

「そのお友達というのは誰のことですか。」 
「東条大将の奥さんです。」

ここに至って私はいささか狐につままれたような気持になりました。

「はぁ--、少しへんですねえ。私は東条夫人は新聞でお顔を知っているだけですが-----。」
「奥さんもそう言っておられました。お会いしたことはないけれど、毎月この雑誌の文章を
読んで知っているだけなのですが、きっといい指導をして下さると言って紹介して
下さったのです。」

その雑誌は『白鳩』でありました。
夫人は「主人は貴方様を神様の次のようなお方と思って会いたがっております。」と
言われ、その言葉にそそのかされて私は逢(あ)ってみようかという気になったのです。

10月31日午後5時頃、病院を訪ねたのでありました。
病室の入り口には「面会禁止」とあり、その下の机には山のように名刺がおいてありました。

病室にはいると、将軍が寝台に長い体を横たえて、目も閉じ口も閉じております。
その傍(そば)に腰をかけ、ちょっと挨拶の言葉をかけてみたけれども返答がありません。
額に掌をあててみると相当に熱い。

「お熱があるようですね」と言ってみたのですが相変らず、黙然としているのです。
こうなると心持がわるくなって「さようなら」をするところでありますが
「主人が待っている」という夫人の言葉をまにうけて腰をあげることができない。

しばらく考え込んでおりますと、
フト何気なくポケットに手が行って『甘露の法雨』を取り出したのであります。

そこで、「これから生長の家の聖経『甘露の法雨』をよみますから、
閣下はそのままの姿勢でお聴きください。」と宣言して読みはじめたのであります。

二人の位置の関係上、私の右の掌は将軍の額に当り、
聖経をくりひろげる左手は胸部に置いている恰好でありました。

最後に「聖経終」と読み了(お)えたとき、田中大将はカッと目をあけて、
案外やさしい声で、「ありがたいお経ですね」と言ったのです。
 
それから私は『甘露の法雨』の講義をやったのであります。

田中大将はフィリッピンへ出征中、その年の3月12日に発病し、39度を越す高熱が
つづいているにもかかわらず原因が不明、マラリアに似ているが病菌が発見できず、
ついに8月6日、飛行機にて東京の陸軍病院へ送還されたということでありました。

将軍の語ったところによりますと、アメリカ駐在武官としてワシントンに在ったころ、
マッカーサー氏(当時佐官)と親交があり、その友人を今では敵とすることになった、
悪因縁でしょうね、と自嘲されるのでした。

また田中大将は、こうして病臥していることは天皇陛下に相すまない、
同時に多くの兵を戦場の露と消えさせることも、その遺族に対しても申しわけない、
といとも悩ましげに話されるのです。

そこで私は、因縁というものにとらわれているには“迷い”です。
迷いは無い、真理のみが実在である。人間は神の子で無限力、健康であるのが実在であって、
われ病めりという心の迷いが映し出されているにすぎないのです。

閣下は大忠臣です。けれども陛下にすまない、すまないと言いながら今病気で死んでは
田中陸軍大将は病気に負けてしまったことになる。

“肉体は心の影”“われに使命あり”と敢然と心中に唱えれば「言葉は神なり」、
すべてのものこれによりて成るのです。私の言葉は決して間違っていません。
たとえ大いなる槌をもって大地を損ずることがありましても、私の言葉は壊(こわ)れる
ことは断じてありなせん、と言い放ったのであります。

すると将軍は一つ一つうなずいて聴いて、
そして最後にニッコリして「有難うございました」と一言いわれたのであります。

翌11月1日、朝七時に田中大将夫人から電話が入りました。
その要旨は、主人は昨夜グッスリ眠り、今朝は上機嫌に目を覚まし、
これまで出しぶっていた尿が快調に出て大層心持がよろしい、
また熱も37度に下がり、私としましては嬉しくて、たとえようもございません。

これは奇蹟です、涙がこぼれて仕方がありません、というのです。

その日、もう一度病院を訪ねると、将軍はちゃんと寝台に端座(たんざ)して
私を待っておられました。

そこで再び『甘露の法雨』の講義を致し、以後毎日講義をつづけたのであります。
講義中は実に真面目に聴講せられ、その態度はさすがに立派でありました。

ある日、病院の下で一人の看護婦から呼びとめられました。
その人は田中大将を看護している3人の看護婦の中の1人でした。

「先生、毎日御苦労様です」と挨拶されてから彼女が私に語ったことによると、
長い間閣下は一言もお言葉がなく、何をしてさしあげてもあの大きな目でジロッと
御覧になるばかりでした。

それが先生が来られてからというもの、ガラリと態度が変わり、検温が終りますと
「有難う。ごくろうだね」と笑顔をむけられるようになったというのです。

今までは病室へ行くのを3人で譲り合って、誰も行きたがらなかったのが、
この頃では皆で行き、将軍をまじえて大声で笑い合うようになり、
こんな嬉しいことはありません、というわけです。

こうして田中大将自身は日ましに恢復し、
また操夫人は各方面へ『生命の實相』を配ったのであります。

退院した田中大将は、やがて東部軍管区の司令官として多忙な軍務に
いそしむようになったのです。


********


昭和20年8月15日、終戦の御聖断が下ってからもなお戦争続行を主張する青年将校たちの
反乱が起こりました。

その反乱をめぐって重要な役割をし、後に監禁された私の以前からの知人から、
次のような驚くべきことを聞いたのであります。

その日、正午から陛下の御放送が行なわれるという直前、反乱軍の幹部将校7名によって、
今上の御命を頂戴し幼い皇太子を擁立し戦争を続行する、との密議が行なわれたといいます。

かかる激越(げきえつ)な行動に移らんとした青年将校たちを説得し、とり静めたのが
田中静壹大将であったことは、総裁先生(註・開祖・谷口雅春先生)のお話によって、
つとに知られるところであります。

かくて陛下の歴史的な放送により、事なく終戦を迎えたのであります。

想うに、今上の御命をお救い申しあげるについて田中静壹氏の偉勲(いくん)は無上である
と申しても過言ではないと思います。

その田中大将は、すでに昭和18年に病にて絶えるはずであったと思われるのが
『甘露の法雨』によって救われたのでありますから、田中静壹大将を通じて
住吉大神の御使命が具現せられたということであります。

陛下には田中大将の働きに対し、8月15日午後5時15分、
蓮沼侍従武官長侍立の上拝謁をたまわり、

「今朝ノ軍司令官ノ処置ハ誠ニ適切デ深ク感謝スル。
今日ノ時局ハ真ニ重大デ色々ノ事件ノ起ルコトハ固ヨリ覚悟シテイル。
非常ノ困難ノアルコトハ知ッテイル。シカシ斯クセネバナラヌノデアル。
田中ヨ、コノ上トモシッカリヤッテクレ」

との優渥(ゆうあく)なるお言葉があったと承っております。

しかして8月24日、一切の使命を完うして
田中大将は極楽浄土へ移籍せられたのでありました。

<参考Web:「生長の家“本流宣言”掲示板」内の”山ちゃん1952 さま”による
       スレッド「田中静壹大将と甘露の法雨 (4660)」を参照願います。>
       → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=980

       <感謝合掌 平成24年8月14日 頓首再拝>

”還ってきたマグロの大漁” (695)
日時:2012年08月23日 (木) 07時17分
名前:伝統

先代の「生長の家“本流宣言”掲示板」での、「甘露の法雨〜」に関するスレッドへの
注目数が昨日”200”に達しております。

先代の掲示板は、既に歩みを止めておりますが、
「甘露の法雨」は力強く輝き、感動を与え続けているようです。

先代の掲示板のスレッド内にて、”さくらふぶき さま”が、
マグロの大漁に関した奇蹟を紹介しております。

今回は、この記事を含め、その前後に関する奇蹟の数々について、
次の書物から紹介いたします。


     林光彦・著「光がこだまする」(P83〜87)より

【魚は呼べばいい】

かつてニ百カイリ制限がしかれ、漁業の関係者たちが嘆いていたとき、
谷口雅春先生は、いとも軽くおっしゃったことがある。

「魚は呼べばよいのだよ」と。


【マグロは『甘露の法雨』が大好き】

それではここで、マグロの大群も、聖経『甘露の法雨』が大好きだという、
愉快な話をご紹介しよう。

昭和57年の初夏のことだ。

漁港で有名な鳥取県の境港では、当時不漁つづきで、漁民やその家族、
水産関係者の人たちがみな、頭をかかえていた。

そこで、生長の家の誌友が揃って、誌友会場や、由緒ある山の上の大湊神社で、
集団早朝神想観を実修した。世界平和は勿論、産土神社であるので、
その地域の人々の平和と幸福、それから大漁祈願や繁栄祈願も実修した。
毎朝である。鳥取県の教化部でも合わせて、そのことが祈られた。

やがて、7月2日、ふってわいたようなビッグニュースがとびこんできた。

日本海の赤碕沖に、とつぜんマグロの大群が押し寄せてきたというのである。
マグロといえば、これまで日本海でとれたことがないのである。
それなのにマグロがやってきた。

しかも、その大群に出逢って、いちはやく水揚げしたのは共和水産の船であった。
社長の和田義孝氏は長年の聖使命会員。
第一報をうった無線技師の柏木さんは家族ぐるみの生長の家。
船にも『甘露の法雨』がお護りとして飾られていた。

実は、柏木さんの奥さんも祈りのメンバーの一人であった。
ご主人が漁に出かけれる6月30日の朝、奥さんの明子(はるこ)さんは、
ちょうどお風呂に入っていた。

玄関を出ようとするご主人のけはいを感じた明子さんは、あわててとび出し、
「お父さん、一寸待って! これもっていってよ、忘れないでね! 」といって、
裸のままとびだし、お守り『甘露の法雨』をご主人に手渡したのだった。
ご主人も思わず笑いながら、出かけた2日後の朗報である。

境港は、ときならぬマグロの大漁で、おおいに賑わった。なにしろ35年ぶりの豊漁。
その上、日本海にはいないはずのマグロの珍客、それも大群で ―― というわけで、
テレビや新聞、ラジオもこのニュースでもちきりになった。

アフリカ沖のマグロと違い、近海ものの本マグロは値が高い。
一匹二十万円前後、それが千本も水揚があったのだから、しめて2億円以上の売上げだ。
境港では、マグロを解体する専門家がいないので、急遽、大阪や焼津などの各地から
呼び寄せての売りさばきであった。


【龍宮からのプレゼント】

ところが、この日かぎりかと思っていたら、なんと次の日にも奇蹟がやってきた。
しかも当ったのが共和水産の船。前日につづくマグロの大漁で、この日もまた
1億5千万以上の収入であった。

二日続きの、ときならぬ豊漁に、さすがの海の男たちも、初めてのことで、
「信じられない」と語っていた。

毎日、産土の神を通して、大漁祈願をしていた生長の家のメンバーは、大喜びである。
生長の家の神様は龍宮の神様である。

これは神様の龍宮からのデラックスなプレゼントだというわけで、手放しの歓びよう。
祈りは必ず実現するということを、みんなが体験したのであった。


【還ってきたマグロの大漁】

さて翌年のことである。
諺にも、柳の下にいつもドジョウがいるとはかぎらない、と言われるが、なんと次の年にも、
その奇蹟が訪れたのであるから、なんとも不思議というよりほかはない。

しかも、これを射とめたのが、これまた和田義孝氏の共和水産の船団であった。
大量の無線を打ったのは柏木さん。

マグロは、よくよく『甘露の法雨』がお好きなようだ。

7月7日の七夕の日。
本マグロ約千匹、一匹平均約百キロ前後。しめて約1億5千万であった。

他の船団もチャンスを狙って遊弋(ゆうよく)していたが、
第2回目の大漁が、名和の御来屋(みくるりや)沖で上がった。
この日も共和水産の船団が発見し、約1億円といわれた。

”還ってきたマグロの大漁”に、幸運つづきの境港市は、喜びに湧きたった。
2年続きのマグロフィーバーに、市をあげてわいたのも無理からぬこと。
全国的にマスコミの絶好の話題となった。

生長の家の祈りのグループは、これまたおどろいて、神に感謝を捧げた。
ビッグな大漁のニュースも、決して偶然とは思えなかった。

生長の家では「環境はすべてこころの影」と教えられている。
ふかき祈りのあるところ、ピチピチとした喜びの体験が湧いてくるもんだと、
境港の浜ッ子誌友さんたちも、デッカイ体験に目をぱちくり。

宇宙は一つ。呼べば、答え給うのが神の世界である。
幼な子のごとき無垢なる心をもって神に祈るとき、
供給の扉は我らの前に無限に開かれるのである。

       <感謝合掌 平成24年8月23日 頓首再拝>

千巻読誦を終えて (3119)
日時:2012年11月02日 (金) 16時57分
名前:元白鳩会員

 4月29日から始めた聖経『甘露の法雨』千巻読誦が一昨日(10月31日)終わりました。

 病に倒れた友人を救いたい、力になりたい、と思い立ち、始めた千巻読誦でしたが、振り返って見ると私自身の健康や生活習慣を見直すきっかけを与えていただいたように思います。思いもよらなかったことです。

 『当たり前の奇跡』(伝統さまが書いて下さっていますが、私にとって、とてもタイムリーな内容でした。)を読み進むうちに、その中の「心臓はただ当たり前のことを楽しく行じている」この一文に、はっといたしました。心臓ばかりではありませんよね。体の全ての臓器は1日も休まず、働いてくれているのですから。そして、生かされている命を思う時、両親のことが思い出されて、なつかしく、ありがたくてなりませんでした。

 友人もお陰さまで、快方に向かっております。ありがとうございます。

 何だか、まとまりのない文章になってしまいましたが、ご報告までさせていただきました。

元白鳩会員さま おめでとうございます (3120)
日時:2012年11月02日 (金) 17時11分
名前:コスモス


 元白鳩会員さま

 千巻読誦の達成、本当に素晴らしいですね。心から祝福させて頂きます。私まで嬉しくなりました。

 これからも続けて読誦されたら、きっと素晴らしい事になるのでしょうね。頑張って下さいね。 合掌

 

『千巻読誦』 おめでとうございます! (3144)
日時:2012年11月03日 (土) 04時56分
名前:伝統

”元白鳩会員 さま” ありがとうございます。

聖経『甘露の法雨』千巻読誦の成就をお祝い申し上げます。

ご報告に感激し、自分の心も洗われる思いで一杯です。
そして、勇気をいただきました。


それにしても、さすがです。
有限実行の実行力と信仰心の強さに脱帽いたしております。

ありがとうございます。


そして、”自然っ子 さま”によるスレッド
【「日本国家のために『甘露の法雨』を読誦しましょう。」】が高く飛躍しつつあります。
 → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=526

さらに高く飛翔することを願って、応援を兼ね、
「感謝の奇蹟」から谷口清超先生の言葉を紹介いたします。


    *谷口清超・著「感謝の奇蹟」(P33〜35)より抜粋

『甘露の法雨』のおかげをいただいて、病気がよくなるということは、他にも沢山あります。
その理由は、『甘露の法雨』には真理が書かれていますから、その真理のコトバが実相を
あらわし、本来ナイところの病気を消してしまうことになるからです。

だから、私達は毎日時間をきめて、『甘露の法雨』や『天使の言葉』或いは『続々甘露の法雨』
などを、心をこめて読誦しなければなりません。

さらに又、前にものべた通り、聖経を「写経」なさることも大変すばらしいのです。
金丸さんはその「写経」の一つの変形であるところの「点字訳」をなさったのであって、
これは誰にでも出来ることではありませんが、一般の人ならば写経をなさったらよいのであります。

(金子さんの点字訳についての話題は、「生長の家“本流宣言”掲示板」内スレッド
   「甘露の法雨について 語ろう そして読もう・・・今だからこそ (3530)」
    → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=697
 の記事「写経や点字訳の功徳 (8721)日時:2012年04月28日 (土) 06時44分」を参照)


(中略)

御祖先は、肉体はなくなられても魂として生き通しておられます。
御祖先の「ことを思い、愛し、尊敬して、よくお祭りをされる人には、その愛念に
御祖先の愛念が伝わって来て、すばらしいおかげをうけられるということになるのであります。

(中略)

私達が今こうして生かされているのは、御祖先の御愛念のたまものであることを感謝しつつ、
毎日一定の時間に「聖経」を読誦して、感謝と悦びの日々を送ることが何よりも大切です。

       <感謝合掌 平成24年11月3日 頓首再拝>

父の霊に導かれ、「試験合格」 (10337)
日時:2013年08月03日 (土) 04時25分
名前:伝統

        *谷口清超先生・著『家庭をたのしく』(P146〜150)より

《試験のために》

ある年の秋のこと、私が岡山の講習会に参りました時、駒松仁子さんという、当時まだ22歳の
娘さんが、次のようなことを話して下さいました。この方は岡山市南方の国立病院で看護婦を
なさっていたのですが、昭和40年3月14日に、看護婦の国家試験を受けるようになりました。

仁子(ひとこ)さんは平素からこの試験の準備をしておられたのですが、思うように勉強が
すすまず、気分がいらいらして来るのです。で、試験の一か月程前から、仁子さんは
亡くなられたお父さんのお仏壇の前で、夜の7時に一心に『甘露の法雨』をあげ、神想観を
することにきめました。

それをつづけながら、やがて試験をうけに出発する前日になりました。

その夜も仁子さんが熱心に『甘露の法雨』をあげておられますと、風もないのに、突然お線香
の煙が仁子さんの顔に吹きつけるようにかかって来る。仁子さんは、それを見て、

「ああ、これはきっと父が『甘露の法雨』をよろこんでおられるしるしだ。
きっと私の試験を見守っていて下さるのであろう」

と思い、とても嬉しくなってしまいました。

さてその翌日はし嫌悪ため、高松に出発することになっていました。
しかし仁子さんはまだ勉強したりない所があったので、その朝も4時頃から勉強するつもりで、
目覚まし時計をかけておきました。

4時になり、ベルが鳴ったので、夢中でとびおきたのです。
すると、枕許に、誰かわからないけれども、白地に水色模様のついたゆかたを着た人が立って
いた。顔はよく見えません。そしてその人が仁子さんに

「そんなにがりがり勉強しなくても大丈夫だ。しっかり休養をとりなささい」

といって下さるのでした。
そのやさしい声をきいて、仁子さんはほっと安心し、
そのまま再び床に入ってねむってしまいました。

《まもられている》

さて、それからお昼前になると、仁子さんは連絡船にのって瀬戸内海を渡り、高松に到着しました。

宿について、お風呂に入ってゆっくりした気分になり、やがてお風呂から出て、旅館から出して
くれた《どてら》を着ようとしますと、その《どてら》の中に《ゆかた》が重ねてある。

仁子さんがその《ゆかた》を見ると、その柄が、明け方夢に見た人の着ていた通りの、
白地に水玉模様のついた《ゆかた》だったのです。
これを見て仁子さんは、

「あっ、これは、父が見守って下さって、もうこの高松に来ていて下さったのだ。
その父の霊に私は今も見守られているのだ! 」

と強く感じ、それからすっかり心が落着いてしまいました。
そしてその日は休養をとるために、はや目に眠りました。

次の日は試験の当日でしたので、友人達は5時頃から起き上り皆で勉強を始めました。
友人は「あんたも早うおきて、しらべられい」といって仁子さんを起して下さるのです。

仁子さんも起き上り、パラパラと本をめくっていると、今まで全然手をつけていなかった
所が開かれました。そんなところが2、3科目、その朝にかぎって目につくのです。

そこで仁子さんは、その所をよく勉強し、いよいよ試験場に行ってみますと、何と、その朝
パラパラとめくって見た所ばかりが3問ほど、とても重点的に出されているのでした。

それで仁子さんは、

「ありがたい、もうこれで受かったようなものだ」

と思い、あらためて『甘露の法雨』の読誦のすばらしさに感謝し、父の霊がまもって下さる
ということをヒシヒシと実感したのでした。

試験の結果は5月1日に発表され、勿論仁子さんは見事に合格しておられたのです。


このように父の霊に対して感謝の御供養をつづけていると、導かれまもられ、次々と
すばらしいことが起って来るのであって、それは必ずしも亡くなった父母ばかりではなく、
御祖先そのものに対しても同じようなことが言えるのです。

            <感謝合掌 平成26年8月3日 頓首再拝>

上顎骨の癌が突然消える (10427)
日時:2013年08月07日 (水) 04時51分
名前:伝統


         *新講『甘露の法雨』解釈(P350〜353)より

昭和40年5月23日、岐阜市民センターで生長の家の講習会が催うされました時に、
大垣市荒尾町瀬古の伊藤三郎氏が次の様な体験を話されました。

『私は昭和21年に復員しましてから、今から丁度、20年前に酷(ひど)い胃腸病に
罹(かか)りまして、その時はまだ生長の家を全然知りませんでしたけども、

友達にすすめられて一晩、大垣の細川先生のお話を承ってその時は“分かった様な
分からない様な話だなあ”と思って帰りましたら、

2、3日経って気がついたら胃腸病がすっかり治っておりまして、
今はご覧の通りよく肥っておりまして、その後胃腸が悪いということは余り思ったことは
ありません。

けれどもその時は“有難いなあ”と思ったけれども段々忘れてしまって・・・

今日聞いて頂こうと思って上がり(登壇)ましたのは、家内の病気のことでございます。
・・・先日退院したばかりの話でございまして・・・

実は家内の右の顎(あご)が去年の秋から痛みはじめまして、
地方のお医者さんではどうしても分かりません・・・総合病院へ行ってくれと言われまして
・・・診察をして下さったA博士は・・・

「奥さんの病気は癌だ。・・・手術はとても出来ないと思う」と、
こう言われたんであります。

・・・で、驚いて、まあ恥ずかしい事ですけども吃驚(びっくり)しまして、
生長の家をすっかり忘れてしまったんです。・・・姉と私が付き添って入院しました。

・・・主治医のNせんせいは「奥さんの病名は上顎(じょうがく)癌に間違いなかろう・・・
手術の結果は決して期待をしてくれるな」とこう言われました。

退院してから分かったのですが、姉は別に内緒(ないしょ)で呼ばれて

「主人に話してくれるな、実は30代で上顎癌で入院したのはお宅の奥さんが3人目、
前の2人は手術をして間もなく亡くなっちまった。
若いほど危ないんじゃ、そういうもんや、これは決して主人や本人には話してくれるな、
あんただけ承知しとってくれ」と言われたそうです。

その時に、入院の時に、これではならじと思って、あの−生長の家を思い出したんです。

それで20年前に友達に貰いましたビリビリの、生長の家のビリビリの“アレ”を、
お経さんの「甘露の法雨」の終(しま)いについたのを持って入院しました、
これだけ持って。

そして、手術がどうぞ成功するようにと思って、一所懸命に御経を誦(あ)げたり、
あの−「甘露の法雨」を誦げたり、我流の神想観をしたりしてやっとりました。

そして16日になって、昼から夕方までかかって手術を受けました。
もう頼むのは生長の家の神様だけやと思って、一所懸命お祈りしました。・・・

1月下旬になって・・・家内が今日、実は主治医さんが
“このカルテ持って早いことコバルトへ行け”と言われた。

・・・カルテを読んだら一番新しいとこに“遂に・・・”何や知らん横文字で書いてある・・・」
と言うんですね。・・・「“ついに何か知らんを発見せり”と書いて感嘆詞(かんたんし)が
書いて、下をチョチョチョチョと線が引いてあった・・・」と言うんですね。・・・

素人(しろうと)で私たちで何もすることがないし、この時とばかりに、20年前には
あんなひどい胃腸病を治して下さったんじゃないかと、決して見棄(す)てなさる筈はないと、
もういっぺん親子4人のあの生活に返して貰えると言う事を信じて、
一所懸命に「甘露の法雨」を誦(あ)げたり神想観をやったりしたんです。

2月上旬になりまして、部長回診というのがありました。
ここの病気は、悪い時には手術のあとへもう一遍出るんだそうです。
で、再発しとると主治医さんが部長さんに話された。・・・

部長さんはここを鏡でこうやって見ながら
「経過いいじゃないか、なにもあらへんじゃないか」といわれたんですね。
そいで主治医さん変な顔して“そんな筈ない”というような顔をしておられた。

「こんなもの!経過良好や、この患者にはコバルトの必要ない・・・」と言われて
部長回診は終わったそうです。・・・それから体重も6キロほど減っておりましたのが、
ずんずん肥(ふと)り出して、

処置のたんびにどのお医者さんに診て貰っても「傷口がきれいだ」「傷口がきれいだ」と
いうて褒(ほ)めてくれまして、もう後は整形だけになりまして・・・
「もう何もすることがないで、早う出て行ってくれ、ベッドが混んどるんで」と
言われましたので、4月28日に退院と決まりました。

それで、主治医さんの所へ礼に行きましたら、
主治医さんは「奥さんの経過は非常に良好で、今診た所では再発のご心配は全然ありません。
おめでとうございます」と言われまして帰って来ました。・・・』

 
この体験談で注意すべき点は、手術をせられたN博士が明らかに癌の再発を認め、
コバルト60の照射を必要と宣言せられた。


それから部長が回診のある時までの短い間に、
『甘露の法雨』読誦と神想観とでその癌の再発が消えてしまっていた実例であります。


まことに観世音菩薩の灌(そそ)ぎ給う『甘露の法雨』の功徳は無限であります。     

          <感謝合掌 平成25年8月7日 頓首再拝>



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