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新生のための祈り〜『聖経 真理の吟唱』 (5176)
日時:2013年01月01日 (火) 03時43分
名前:伝統


《新生を感謝する祈り》

    *「聖経 真理の吟唱」(P10)より

われらここに新しき日を迎う。
感謝すべきかな。

われ神に感謝し奉り、さらに天地一切のものに感謝し奉る。
覚めている間も、眠っている間も、一分一秒といえども、
神の護りなくしては私たちは生きていられなかったはずである。

日光は、空気は、水は、食物は、すべて神より来たり、私たちを養い給うたのであり、
これからも常に養い給うのである。

新しき年を迎うるにあたり、過去の御護りに感謝し奉るとともに、
今後もまた神の御護りの篤からんことを希い奉り神の御恩に報い奉らんがために、
神から与えられたる使命に誠心(まごころ)をつくして邁進せんことを誓い奉る。

神はすべてのすべてであり給う。

天地一切のものは、神の愛と智慧と生命との顕現であり、
私たち人間も神の愛と智慧と生命との顕現であるから、
天地一切のものと、私たち人間とは、同根であり、兄弟姉妹であるのである。

それゆえに、天地間の一切のもの悉くみな私たちの味方であって、
私たちを害する者など何一つないのが実相であるのである。

もし私たちが何者かに害されたり傷ついたりすることがあるならば、
天地と同根であり一切の存在と兄弟姉妹である自分の実相をわすれて、
天地一切のものと自分の心とが不調和になったことの反映であるから、

神は「省みて和解せよ」と教えられているのである。

神はすべてのすべてであり給い、一切処に偏在し給うのである。

神は無限にして神聖、常に永遠に、そして今ここに、私を取り巻き、私の周囲に、
上にも下にも、左にも右にも、前にもうしろにも、天地、上下、四方、四維、
神の在(いま)さざる処は無いのである。

その神の最高の表現体として 今 私はここに生きてあるのである。

したがって私は、永遠の存在であり、有限に見ゆれども無限、個とみゆれども全、
久遠即今、調和おのずから備わり、万物の霊長であり、万物の支配者であるのである。

したがって、わが往(ゆ)くところ常にそこは極楽となり、地上に天国の秩序が実現し、
争いは消え、暗黒は滅し、病は癒され、悦びと感謝とに充たされるのである。

私は今、この真理に目覚めたのである。
この真理に目覚めることが新生である。

私は今新生して、新しき日を迎う。

過去は過ぎ去り、すべてのもの新しき悦びに満たされ、
すべての者、神に向かいて賛歌を謳う。

真理の御光り照り輝き、今より後、悲しむものなく、嘆く者なく、
苦しみによる呻(うめ)きも、叫びも、この世界より消え、
ただ神に向かいて感謝の歌を謳う。

その歌、天に舞いのぼりて、天上楽となり、地に降りて泰平楽となる。
まことに我れ新生して真理に目覚めたる今、ここに久遠実成の浄土が現実に存するのである。

われ今、神を敬し、神に感謝し、悦びの賛歌を献げ奉る。
頓首、合掌して、再拝又三拝す。

ありがとうございます。

            <感謝合掌 平成25年 元旦 頓首再拝>

《久遠いのちを生きる祈り》 (5202)
日時:2013年01月02日 (水) 06時35分
名前:伝統


    *「聖経 真理の吟唱」(P13)より

わたしは今、心を明るくして、神霊の前に座するのである。
神は永遠の歓喜であり、無限の法悦であるから、わたしが心を明るくして相対するとき、
たがいに心の波長が同調して神の歓喜と法悦とがわがものとなるのである。

わたしは神の子であるのである。
宇宙普遍の神霊が個性的な表現をとるために、
ここに生を享けたのが人間であり、私である。

それゆえに、私の実相は霊であり、聖なるものであり、久遠なるものであり、
不滅なるものであり、病まざるものである。

その実相を自覚するがゆえに、私は現実に、今、聖なる者であり、
久遠の生命(せいめい)を「今」生きつつあるのである。

「久遠」と「今」、「普遍」と「個」、「無限」と「有限」とがいまここに、
私の生命(せいめい)において一体となっているのである。

それゆえに私は、今普遍を支配し、無限を掌中に握り、
「個」にして同時にあらゆる徳行を成就するのである。

無限の新しき創造の力が普遍なるものの中から、自分に流れ入って、
輝かしき華となって咲き出るのである。

わが想うところの構想は神の無限の創造力から生み出されるものであるがゆえに、
常に建設的なものであり、必ず好き成績をもって成就するのである。

神の無限の創造はたゆみなく継続して杜絶えることはないのである。
それゆえ、神の子の創造もまた無限につづいて中絶することはないのである。

神の創造には、二度と同じものが繰り返されることはない。
それと同じく私たちの構想も二度と同じものが繰り返されることがないから、
わたしの発想は常に溌剌として新たなのである。

生命は常に新たであり、自由であり、つねに過去を破壊して新たなる創造へと
進むのである。

ああ、私は常に新しき生命なるかな。
私の進むところ 常に新しき情景がひらけてくるのである。
私の構想は常に新たであり、わたしの事業には常に新しき発展が約束さrているのである。

人生は無限の海への航海であり、進むにしたがって新しき展望がひらかれてくるのである。
わが乗る船の航海長は神であり、神がつねに安全な航路へと導きたまうがゆえに、
常にわが航海は安全にして、いささかの不安もあり得ないのである。

わたしは神の常住の護りと導きとに対して深き感謝の念を常にもつのである。

            <感謝合掌 平成25年1月2日 頓首再拝>

《神の光を受ける祈り》 (5217)
日時:2013年01月03日 (木) 05時03分
名前:伝統


         *「聖経 真理の吟唱」(P16)より
  
私の魂の内には永遠に消えない光が宿っているのである。
それは神から来たれる光である。
如何なる暗黒なる時にも、その光に照されて進んで行けば、
私たちは決して道に迷うことはないのである。

その光は愛の光である。
智慧の光である。
生命の光である。

愛が輝き出す時すべての憎しみは消えるのである。
智慧が輝き出すとき迷いが消えるのである。
生命が輝き出すとき疲労が消え、老衰が消え、病気が消え、死が消えるのである。

神の愛の光が、私の内に輝き出すとき「自」と「他」との障壁が消える。
利益の奪い合いがなくなり、怒り憎しみは赦しと変じ、
さらに相手を祝福することが可能となるのである。

私は常に心の窓をひらいて、神の愛の光を今受けるのである。
だから私の全存在には、神の愛の光が照り渡っているのである。

神の智慧の光が 私の内に輝き出すとき、
人間が物質的存在だと見えなくなり、霊的存在だということが悟られて来、
物質的欲望が少なくなり、霊的愛他的な行いに導かれて行き生活が浄められるのである。

すでに神の生命の光が 私の内に輝き出したのである。
わが全身は生命力にみちあふれ、老いなく、病なく、疲労なく、
溌剌として人類の共通的歓喜のために尽くすことができるようになっているのである。

神の愛の光も、智慧の光も、生命の光も、無限であるから、それは輝かせば輝かすほど、
与えれば与えるほど、光輝燦然としてその光と力とを増すのであるから、
私は愛を人に与えることを惜しまないのである。

智慧を与えることを惜しまないのである。
生命を与えることを惜しまないのである。

人は神の子であり霊である。
霊であるということがわかると、自と他とが一体であり、彼と我とが一体であり、
超焉(ちょうえん)として自他を超え、彼我を超え、
私の愛憎を超えて、全体の栄えのために尽くすようになるのである。

全体の栄えのために自己を挺身するとき、一粒の麦が姿を没して大地に身をまかすとき、
多くの新しき芽を分けつして、多くの実を結ぶことができると同様になるのである。

私はもはや、肉体的存在でないことをさとったのである。
私は「個」にして「全」、「全にして個」である。

個性を完全に発揮する悦びを味わいつつ、
しかも全体の栄えのために身を挺してそこに何等の矛盾もないのである。

            <感謝合掌 平成25年1月3日 頓首再拝>

《実相に超入する祈り》 (5247)
日時:2013年01月04日 (金) 05時04分
名前:伝統


         *「聖経 真理の吟唱」(P20)より

わが真実の相(すがた)は”霊”であるのである。
これを実相というのである。
わが実相は”神の子”であり、神は”霊”であるがゆえに我れもまた霊的存在である。

私たちが 悟りをひらき得たその程度にしたがって、私たちは 自己が”物質的存在”
ではなくて、霊的実在であるということが一層はっきり判ってくるのである。

すべての存在を物質として観てきた過去の考えは、
全く”迷いの心”の産物だったということが判ってくるのである。

すなわち釈尊が、山川草木国土悉皆成仏とお悟りになった其の如く、
山も川も草も木も国土も悉く物質ではなくて、
仏の”いのち”の現成であるということがわかってくるのである。

これを端的に表現して「物質は無い」というのである。

「物質は無い」というのは、肉眼に見える「物質」というものは”ある”よう見えても、
本来無いのだから、粗末に、かなぐり棄てても好いというような意味ではないのである。

すべて物質と見えるものも、実は、物質ではなく、仏の”いのち”
神の”いのち”の現成なのであるから、それおを拝む心で使わなければならない
という意味でなのである。

したがって一切の存在は完全円満であって、
不完全なものは何一つ”ない”ということである。

不完全なものは無いから、病気、老衰、貧乏、闘争、戦争
そんなものは実相においては決して存在しないのである。

それらの不完全な悪しき諸相が存在すると見えるのは、
ただ五官の誤れる認識がそのように見せているだけである。

われわれが、五官の感覚のあやまれる物質的認識に眼を瞑(と)じて、
実相を直接観ようと努力するとき、次第に、この世界の万物が物質ではなく、
荘厳きわまりなき、神の創造したまえる完全無比なる存在であることが判ってくるのである。

この”実相の荘厳なる相(すがた)を観ずる行事が神想観なのである。

「実相の荘厳なる相」のみが真に実在するのである。
「実相の荘厳なる相」の中に一切の善きものが存在する。

そこに完全な健康があり、
そこに無限の智慧があり、
そこに無限の愛があり、
そこに無限の供給があり、
そこに無限の歓喜があり、
そこに無限の調和があるのである。

”そこ”にこれらの善きものがあると見るとき、
まだそれは本当に実相を自覚したのではない。
”そこ”を”ここ”にもち来たすことが必要であるのである。

実相は今ここに、わたしの生命(いのち)のうちに、今ここに神があり、神の国があり、
完全なる健康があり、無限の智慧があり、無限の愛があり、無限の供給があり、
無限の歓喜があり、無限の調和があるのである。

わたしそのものが神であり、わたしそのものが神の国であり、
わたしそのものが無限の健康であり、わたしそのものが無限の智慧であり、
わたしそのものが無限の愛であり、わたしそのものが無限供給であり、
わたしそのものが無限の歓喜であり、わたしそのものが無限の調和である。

この真理を知って私は今無限の感謝に満たされております。
ありがとうございます。

            <感謝合掌 平成25年1月4日 頓首再拝>

《神と一体となる祈り》 (5280)
日時:2013年01月05日 (土) 04時54分
名前:伝統


         *「聖経 真理の吟唱」(P23)より

われは神と一体である。
神は宇宙に満ちていたまう。
宇宙に満つる力と自分は一体なのである。

その大いなる力が底打つ濤(なみ)のように
自分の生命(せいめい)の内には動いているのである。

その大いなる力は無限の智慧であり、
わが計画する事物を導いて必ず最高の結果にまで成就して下さるのである。

大いなる大生命の底打つ濤を自分は自分の生命(せいめい)の奥底に感ずるがゆえに、
一切の恐怖、一切の不安、一切の取越し苦労はわが心の内には感じられないのである。

神の無限の叡智が、わが人生の航路の水先案内者であるから、
自分は人生の航路に行く道をあやまることはないのである。

われは常に神とともに、神の大いなる生命(せいめい)の脈動とズムを合わして
行動するのである。それゆえ、わが行動は必ず肯綮(こうけい)にあたり、
あらゆる行動がその成果を挙げて前進するのである。

われは宇宙の創造者と一体である。
宇宙の創造者は常に新たな創造意欲をもって新しき創造をなし給うのである。

われはその創造のリズムに合わして生活するがゆえにわが生活は常に新鮮味を帯び、
新しき進歩があらゆる方面に見出されるのである。

”永遠に完全なる者”わが内に宿りて、着々とその完全さを具現し給いつつあるのである。

そのことを我は常に忘れず、常に憶念するがゆえに、常に悦びと勇気とに満たされて、
何事が起こってこようともたじろぐことはなく、失望することはなく、
常に心は光明に満たされてあるのである。

神は常に無制限にわれに与えたまう。
それを受けた自分は、無制限にわが能力と体力とを他に与えて
人生に奉仕することを悦びとするのである。

「与えよ、さらば与えられん」が心の世界における供給の法則であるのである。

われは何でも最初に与えられたものを神に感謝のしるしとして献げるのである。

自分は、その日の最初の時間を神に献げる。
自分は、その日最初の労力を神に献げる。
自分はその月の最初の日の収入を神に献げる。

それは父母に対して「今学期はこれだけの成績を得ました」と
学校の成績表を見せて悦んでもらうような気持ちで行なうのであり、
神に対する感謝と愛情の表現であって、決して僅(わず)かなものを献げて
多くのものを獲ようとする狡猾な心ではないのである。

神は知り給う。
神は、みそなわし給う。
我れ神に絶大無限の感謝の意を表現し奉る。

            <感謝合掌 平成25年1月5日 頓首再拝>

《内なる光を呼び出す祈り》 (5306)
日時:2013年01月06日 (日) 04時48分
名前:伝統


         *「聖経 真理の吟唱」(P26)より

神はわが御親にましますのである。

神は光であり給う。
その光は物質の光ではなく、一切のものを内より照り輝かす光であり給うのである。

われは“神の子”である。
さればわが生命(いのち)の内に神の光は宿り給う。
神の光はわれを照し給い、また一切のものを照し給う。
わが行くところ一切の暗黒は消え、光明のみが輝くのである。

われはこの世界に神の光を与えるために生まれたのである。
神の光は、愛の光であり、智慧の光であり、平和の光であり、調和の光であり、
歓びの光であり、癒しの光である。

われはこの世に神の愛をもたらし、神の智慧を与え、平和と調和を持ち来し、
悲しめる者に歓びを与え、病める者に癒しを与えんがために生まれたのである。

神はわれを“神の子”としてすべての人類に光を与えんがために、
この世に我れを遣(つか)わしたまうたのである。
万人に光を与えることがわが使命なのである。

さればわれは、われに触るる者ことごとくに光を与えるのである。
この光は神より来れる無尽燈であるから不滅の光であり、如何なる闇も、
いかなる反対もこの光を消すことはできないのである。

すべての人々に“神の光”は宿り給う。
単にわれのみに“神の光”が宿っているのではないのである。
それは或る宗派では内在の「仏性」と呼び、ある宗教では内在の「キリスト」と称するのである。

ただ光のみが光を知り、光を呼び出すことができるのである。
われは今、自分が、“神の子”として自己の内に“神の光”が宿り給うことを自覚したのである。
光はそれを自覚せる者の心の中に照り輝くのである。

自己が自己に宿る光を照り輝かして、相手の人々を観れば、類は類を呼び出し、
光は光を点じて、相手の人々から“神の光”が呼び出されてくるのである。

すべての人々から“神の光”が呼び出されてくれば、
地上に平和は来り、世界は天国浄土となるのである。
わが来れるはこの世を天国浄土たらしめんがためなのである。

真(まこと)に誠に、われは“神の子”である。
わが内に “神の光” は宿り給い、わが光は全世界に照りわたるのである。

光の照るところ闇なく、病いなく、悲しみなく、苦しみなく、不調和なく、争いなく、
すべての人々相互いに睦び合い、尊敬し礼拝し合い、この世に天国浄土か実現するのである。

われは今、“神の子”なる事を一層深く自覚し、
その自覚の深まるに従って、わが魂の高揚を感ずるのである。

わが魂の高揚するにつれて、わが“内なる光”はいよいよその輝きを増し、
全世界を照すことができるのである。

多くの人々、わが “内なる光” に照し出されて、
各人みずからの “仏性” すなわち “内在のキリスト” の光をあらわし、
唯一なる神をほめ讃う。

ああ、ありがたきかな。
神なる親様に感謝し奉る。

            <感謝合掌 平成25年1月6日 頓首再拝>

《地上天国実現の祈り》 (5339)
日時:2013年01月07日 (月) 04時44分
名前:伝統


         *「聖経 真理の吟唱」(P30)より

今ここは神の国、天国であり、神の御心の支配したまう世界であり、わが家(いえ)である。

われは一切の、悩み、憤り、憎しみ、憂え、悲しみ、争い・・・等の不調和な感情を
ことごとく放ち去ったのである。そして、ただ平和なる神への”全托”の心をもって
神の御心にまかせ奉るのである。

この世界は唯一の神の支配せる国土なることを私たちは知るのである。
神のみが支配者であって、われわれはただ神の御心を素直に実行し実現せんとする者である。

われわれは今、自己の”我(が)の心”をもってこの世界または人々を
支配しようとする心を完全に棄て去ったのである。

われらは今、心を空(むな)しくして神の御心にひたすら副(そ)い奉らんと欲するがゆえに、
われらの心の内に神の愛ながれ入り充ち満ちたまいて、すべての人々を愛し祝福したまうのである。
それゆえに、私もまた、その心を受けてすべての人を祝福するのである。

神の愛がわがうちに充ち満つるがゆえに、而して神の愛は絶対の愛であって偏りなき愛であるが
ゆえに、決して猜疑、嫉妬、憎悪の心は起らないのである。

神の智慧わがうちに充ち満つるがゆえに、われは心の法則を知るのである。
われは心の法則を知るがゆえに、人は自己の審(さば)きたる量目(はかり)をもって、
自己を秤(はか)られ、そのために人を審く心のものは常に安きこころなき事を知るのである。

それゆえにわれは常に人の実相の完全さのみを見て、常不軽菩薩の如く、
常に人々の仏性を礼拝するのである。

われ常に人々の仏性を見、これを礼拝するがゆえに、われに近づくすべての人々にことごとく、
その仏性あらわれて、われは人々の悪しき姿を見ることはないのである。

われに近づくすべての人々に仏性あらわれるがゆえに、
わが周囲には必ず平和と調和とがあらわれるのである。
そして今ここに、地上天国・荘厳の相(すがた)があらわれるのである。

われは今、ここ、地上天国に棲むのである。
わが魂はいよいよますますきよまりて、心は神に向かう。
神の霊わが身辺を蔽い、わが家(いえ)にみち、
わが行くところに充ち満ちて燦然と光明を放ちたまうのである。

ああ、平和が、愛が、智慧が、真理が、わが家(いえ)に充ち、周囲に満ち、
わが心に満ち、一切のものに満つ。

一切の悪は無きなり。
ただ善のみの世界なり。
一切の闇は無きなり。

ただ調和のみの世界なり。
われは神の霊と一体なり。

完全なる平和われを包めり。
われは神の愛に摂取せられて新たに生れ変りたるなり。

われ神に感謝し奉る。
ありがとうございます。

            <感謝合掌 平成25年1月7日 頓首再拝>

《善き家庭を実現する祈り》  (5370)
日時:2013年01月08日 (火) 04時55分
名前:伝統


         *「聖経 真理の吟唱」(P33)より

神の完全な愛がわが家庭に充満しているのである。

愛は審かない。
愛は調和である。
愛は美点を見出す。

愛は与えれば与えるほど悦びが増幅して減ることがないのである。
愛はそれを注ぎ出しても井戸の水のようには涸れることはない。

神の愛の充ち満つるところには、不安も恐怖も病気も貧乏も存在しないのである。
わが家庭には神の愛が充ち満ちているがゆえに、不安も恐怖も貧乏もないのである。

神の愛の充ち満ちるところには必ず、平和と調和が充ち満ちているのである。
わが家庭には神の愛が充ち満ちているがゆえに平和と調和とが充ち満ちているのである。

如何なる精神的摩擦も反感も不調和もないのである。
まことに天国が地上に映し出された楽園がわが家庭であるのである。

神の国に住む人たちは、決して人の悪しき噂を俎上にのせて、
それを無駄話の種にすることはないのである。だから私の家庭では人の悪評を
無駄話の種にする人は一人もいないのである。

神の国の人々はただ善のみを語り合う。
他の人の善行をたたえ、他の人の美点を称(ほ)め、善き言葉、賞賛の言葉、
励ましの言葉などを魂の食物とし、お菜(かず)として食するのである。

それゆえに、わが家庭の人々はつねに魂の栄養を得て
魂がすこやかに肥え太っているのである。

魂がすこやかに肥え太っているがゆえに、その映像としての肉体も
すこやかに健全であるのである。

神の完全なる智慧がわが家庭に充ち満ちているのである。
完全なる智慧の充ち満つるところに、何等の迷いもなく暗黒もないのである。

わが家庭には、ひとりの愚かなる行為をなす家族もなく、ひとりの失敗をする家族もない。

常に神の智慧に導かれて健康と繁栄と調和と歓喜との道を進み行くのである。

神よ、あなたの無限の愛と、無限の智慧と、無限の健康と、無限の富と、無限の歓喜と、
無限の調和とをわが家庭に満たし給うことを感謝いたします。

わが家庭の各部屋隅々までも、神の愛と智慧と調和とが充ち満ちていて、
暗黒の存在する余地は、完全にないのである。

まことにわが家(いえ)の各部屋には天国の花が香り、
天の童子が舞い遊ぶその実相の映像があらわれているのであります。

神よ、あなたが、常にわが家庭を護りたまい、愛と智慧と生命(せいめい)と供給とを
無限に雨ふらしたまいて、光明輝く歓喜と調和とをもて満たしたまうことを感謝いたします。

ありがとうございます。

            <感謝合掌 平成25年1月8日 頓首再拝>

《神の愛に溢るる祈り》 (5397)
日時:2013年01月09日 (水) 06時58分
名前:伝統

         *「聖経 真理の吟唱」(P36)より

神の輝く愛が自分の全身に流れ入り、
常に神の愛が自分の全身から雰囲気となって放射されているのである。

わが家庭全体に神の愛が雰囲気となって満ちわたり、
すべての家族ことごとく愛の雰囲気にとりまかれ、
輝くような悦びと平和と幸福とに生き生きとして生活しているのである。

わが家庭は神の家であり、神の子の集まりであり、
常に神の智慧に導かれ、神の愛に満たされているから、
如何なる不幸も病気も自分の家庭を訪れることはできないのである。

神の愛がわが家庭を護りたまうがゆえに、
わが家庭には善きこと、好ましきこと、美しきこと、調和したことのみが
集まつてくるのである。

神の愛はゆたかなる供給である。
神は決して富を求むる者に貧しさを与えたまうことはないのである。

しかもすべての家族は天分にかなう仕事を通して全人類に奉仕しているのであり、
ゆたかなる供給は自己が人類に与えたる貢献に対して、
“動・反動”の法則を通して自己に返つてくるのであつて、
決して、価を払わずして供給を得ようとするような卑怯な心を、
神は私たちに与えたまうことはないのである。

そういう卑怯な心を根絶したまうことこそ却って
私たちに与えられた神の愛であり恵みであるのである。

わが家族はすべて神の子であるから、
決して無責任な卑怯な心を持つことはないのである。

自分の一切の行為に対して責任を負い、決して偶然のチヤンスで幸福を得よう
というような卑怯な心はもたず、ただ「与えれば与えられる」の法則に従つて、
神からの恵みを受け入れるのである。

「与えれば与えられる」の法則によって循環してくる幸福に対しても、
私たちは決して自力によって、「人に与えた」とは思わないのである。

与える資源も、与える力も、すべて神からの賜物であるから、
私たち個人はただ神の恵みの通過するためのパイプのようなものであるのである。

私たちが自己の持っているところの富を、能力を、すべてのものを、
次へ廻さなかったならば、神の恵みの通過するパイプが塞ってしまったようなものであって、
自分自身の生活も快適にはなれないし、また人にも迷惑をかけ、
神に対しても誠に申し訳けがないのである。

愛とは決して単なる感情でも抽象概念でもなく、他(ひと)にとって”ため”になるものを
与えんとする意志の努力であるのである。

常に私たちを護りたまう神の愛に感謝いたします。

            <感謝合掌 平成25年1月9日 頓首再拝>

《幸福なる結婚を招く祈り》 (5432)
日時:2013年01月10日 (木) 04時29分
名前:伝統

         *「聖経 真理の吟唱」(P39)より

神は“一つの魂”を陰陽二つの肉体に分割して宿し給い、たがいに相呼(あいよ)ぶ
半身の魂として“愛”というものの美しさと、深さと、切実さとを体験せしめ給うたのである。

それ故に、純粋なる男女の相愛(そうあい)は奇(く)しくも美しく深く切実なるものであるのである。
その純粋なる極(きょく)においては決して肉体の欲望などを感じないのである。

もし、肉体の欲望を感ずるならば、みずからそれを恥じ、羞(はず)かしく思うものである。
純粋なる恋愛においては肉体の欲望満足を希(こいねが)うどころか、肉体が死しても、
魂が彼と一体となることをこそ希うのである。

恋愛の本質は一つの魂が、二つに分れて、たがいにその半身なる伴侶を呼ぶのであるから、
未だその半身を見出さずにある人も、必ずその半身なる魂が何処かにいて、
彼を呼んでいるのである。


すでに結婚したる人は、たがいに一つの魂の半身が相合うことによって完体と成り得たる
幸福なる人たちであるから、その幸福なる運命に感謝し、夫婦たがいに祝福し合いて、
その福(さいわ)いを悦ばねばならぬのである。

感謝と祝福と悦びとは夫婦の幸福生活を永遠に持続するための三つの心的要素であるのである。

今、私は”永遠に一つなるもの”―― 相(あい)愛する魂の一体感を深く自覚するのである。
私には唯(ただ)一人の魂の半身があり、また私の夫または妻となる人には唯一人の半身が
あるのである。

地上○十億の人類の中より、唯一人の半身を選び出し、唯一人の半身と一体となりし
わが家庭生活の神秘を思うとき、その深き因縁と、神の貴(とうと)き配剤とに
感謝せずにはいられないのである。

今、私の配偶と倶(とも)にありて、ここにわたしの半身を見出すのである。
わが魂の半身よ。
汝(な)は善しきかな、汝は美しきかな、汝は逞しきかな、汝は健やかなるなか。

われは汝(なんじ)の半身なり。
われは汝(なんじ)と一体となることによって”永遠の今”において汝(なんじ)とともに
”永遠に分ちがたき一つの生命(せいめい)”なることを知るのである。

魂の半身がたがあいに一体となるとき、
そこに私たちは”永遠の(えいえん)の生命(いのち)”を感ずるのである。

”永遠の世界”における”美”と汝(なんじ)との結合において私は見、
”永遠の世界”における”愛”を汝(なんじ)との結合において私は感ずるのである。

その永遠(えいえん)の生命(せいめい)の一体感から真実の”神の子”の完全な生活が
始まるのである。人生における真の”美”の創造がはじまるのである。
その”久遠の愛”が延長して人類に向うとき、そこに真に貴(とうと)き人類愛が
はじまるのである。

”久遠の生命(せいめい)”の祝福を受け、”永遠(えいえん)の生命(せいめい)”の
地盤に立って、本来一体なる”一つの魂”が”久遠の生命(せいめい)”の舞いを
今舞いつつあるのである。それが私たちの人生である。


尚、一つの魂の半身を見出し得ざる人よ。
必ずその半身が、あなたと同じくその半身を呼んでいることを自覚せよ。
既にあなたの半身は今既にそこにあるのである。

あなたたちはそれを信ずることによって互いに相逢(あいあ)う時がくるに違いないのである。

            <感謝合掌 平成25年1月10日 頓首再拝>

《観世音菩薩を称うる祈り》  (5460)
日時:2013年01月11日 (金) 04時50分
名前:伝統


         *「聖経 真理の吟唱」(P43)より

この世界は観世音菩薩の妙智力を示現せる世界であるのである。
観世音菩薩とは単なる一人の菩薩の固有名詞ではないのである。
それは宇宙に満つる大慈悲であり、妙智力であり、”心の法則”であるのである。

観世音とは世の中の一切衆生の心を観じ給いて、それを得度せんがために、
衆生の心相応の姿を顕じたまう「観自在の原理」である。三十三身に身を変じて、
われわれを救いたまうとは、このことである。

”心の法則”として、衆生の心に従って、その姿をあらわしたまう事、その事が大慈悲なのである。

観世音菩薩は、あらゆる姿とあらわれて、私たちに救いの説法を宣示したまうのである。
山々のたたずまい、雲の行きかい、風の韻(ひび)き、水の流れ、――
ことごとく観世音菩薩の慈悲の説法である。心に耳ある者は聴け、心に眼ある者は見よ。


さらに観世音菩薩は、私たちの周囲の人々の姿となって、
私たちに真理の説法を常になし給うのである。

意地悪と見える人の姿も、彼が意地悪なのではないのであって、
私たち自身の心の何処かに意地悪なものがあるのを、観世音菩薩が観じたもうて、
それをあらわしていられるのである。

だから他(ひと)を憎んではならないのである。観世音菩薩は或いは父となり母となり、
或いは良人となり妻となり、兄弟姉妹となり、小姑ともなり、或いは、社長とも重役ともなり、
同僚とも下役ともなりて、常に何かを語り給う。
心に耳あるものは聴くべし、心に眼ある者は見るべし。

予言者は遠くにあらず、山にあらず、街頭にあらず、今ここにあるのである。

私自身の内にあるのである。自己の想念するところのものが外にあらわれ、
自己の信ずるところのものが外界にあらわれ、自己の語るところのものが他者に
あらわれるのである。

想うこと、信ずること、語ることが予言となって、やがて実現する時期がくるのである。
されば私たちは悪しき事、憎むべきこと、暗きこと、消極的なことを想ってはならない、
信じてはならない、語ってはならないのである。

悪しき事、好ましからざる事があらわれた時には、外に原因を求める以上に、
まず自己の心の中に、そのような“心の模型”があるにちがいないと自己反省するが
よいのである。

自分の心にある原因を消さないで、外界の火を消そうと思っても、
一旦それは消えたように見えても、火元は自分自身にあるのだから、
再びまた他の所から発火するのである。

観世音菩薩は尽十方無礙光如来の大慈悲の顕現にありたもう。
それゆえに尽十方に満ちたもうのである。

あらゆる宗教の本尊は名称は異なれども、
その本体は尽十方に満つる神の大慈悲のあらわれなのである。
だから万教は一に帰するのである。

生長の家の礼拝の本尊は観世音菩薩なのである。われ観世音菩薩を讃嘆し奉る。

            <感謝合掌 平成25年1月11日 頓首再拝>

《天地一切と和解する祈り》 (5512)
日時:2013年01月12日 (土) 04時39分
名前:伝統

         *「聖経 真理の吟唱」(P47)より

われ今、ここに、神の子として新生し、神に感謝し奉る。
神は普遍的存在にましますのである。

一切を包容し、一切のものの周囲に、また一切のものの内にましまして、
一切のものを渾然と一つに融和していたまうのである。

それゆえに、私もまた、神の子として、その渾然たる一つの融和体の中に存在するのである。

それゆえに私は、天地一切のものと融和し、天地一切のものと調和の関係にあり、
わが働きは、他の天地一切のものを生かす働きとなり、
また天地一切のものの動きは、また我れを生かす動きとなるのである。

すべての人と事と物とは、今ここに渾然と調和しており、
たがいに争い立つということはないのである。

現象の世界に、如何なる対立の関係があろうとも、如何なる闘争の関係があろうとも、
それは妄想の顕わすところであり、妄想はやがて消えるべき運命にあるのであるから、
私はそれを恐れることもないし、それに愕(おどろ)くこともないのである。

妖雲冪々(よううんべきべき)と空を覆うことがあっても、
その上には常に蒼空(あおぞら)があるのと同じように、
如何に暗澹たる状態が現象的にあらわれてこようとも、
その状態に対して心を動ずることはないのである。

心を動ずることがないから、何らの対策をも講じないのかというと、決してそうではないのである。
心を動ずることがないから、最も適切なる智慧が泉の如く涌き出でて
暗を消してしまう処置ができるのである。

光の進軍に対しては暗は逆らうことも、抵抗することもできないのである。

事に応じてわが為すところの行為は、
神の子として大神の智慧の炬火(たいまつ)をとぼして進軍するのであるから、
誰もそれを遮ることはできないのである。

神は「暗に対しては光を以って相対せよ」と仰せられているのである。
光は進む、暗は消える。

神はわれらに「常に心を明るくもて」と仰せられているのである。
一時(いっとき)といえとも私は心を曇らすことをしないのである。

神は勇気の本源であり、神の子たる私は、勇気そのものである。
神の智慧われに来りて、迅速果敢に適当なる決意と断行をなさしめ給うのである。

ああ、感謝すべきかな、天地万物は、ことごとく神の子として兄弟姉妹であり、
われを常に祝福し、われを常に援助し、わが希望を必ず成就せしめ給うのである。

            <感謝合掌 平成25年1月12日 頓首再拝>

*谷口雅春先生による朗読
  http://i-kaminoko.tumblr.com/post/41269154224

            <感謝合掌 平成25年1月23日追加 頓首再拝>

《内在の生命力を振起する祈り》 (5560)
日時:2013年01月13日 (日) 06時43分
名前:伝統

         *「聖経 真理の吟唱」(P50)より

われわれが祈るとき、神想観するとき、または真理のコトバを念ずるとき、
または聖典ならびに聖経を読誦(どくじゅ)するときには、宇宙に満ちている創造の根源力
に呼びかけて、その創造力を善なる方向に駆使しつつあることになっているのである。

祈ることも、念ずることも、読誦することも、いずれもコトバの力を使いつつあるのである。

「ヨハネ伝」第一章には、「太初(はじめ)にコトバあり、コトバは神と偕(とも)にあり、
コトバは神なりき。……万のもの是によりて成り、……」と書かれていて、
コトバというものに創造力があることが示されているのである。

そのコトバの力を、明るい方向に、積極的な方向に、建設的な方向に駆使すれば、
自己のうちに宿る宇宙的な力が開発されて、われわれは一層健康になるし、幸福になるし、
一層好運が訪れて来、事業や商売は繁栄することになるのである。

「自己の内に宿る宇宙的力」とは「内在の神」の力のことである。

われわれ自身の内に宿る宇宙的な力は、この大いなる太陽を銀河系の中で織女星の方向に
向かって走らせている力と同じ力であり、また太陽の周囲を旋回公転する遊星を動かしている力
と同じ力であり、

牡丹の樹に牡丹の花を咲かせ、藤の木に藤の花を咲かせ、リンゴの木にリンゴの果(み)を
実らせ、梨の樹に梨の果を実らせる神秘な力と同じなのである。

そのような不思議な偉大なる力がわれわれには宿っているのである。

しかしその偉大なる力を有効な方向に使わないときには、自動車のエンジンをかけたまま
停車している時に、エネルギーは積極的に建設的な仕事をせず不快な噪音(そうおん)を
たてながら車体を震動させているのと同じように、

せっかく、われわれに宿っている内在の神の力も何ら積極的に建設的なはたらきをしないで、
エネルギーは内攻して、自分自身の肉体を単に疲労させることになるだけなのである。

それゆえに、私は、自己の内に宿る神の力を、常に積極的に建設的に使用せんことを
念願するのである。

積極的に建設的に「内在の力」を使用するには、コトバに暗黒的、消極的な悲観的なことを
言わず、心に不平や小言(こごと)や呟きや暗い事を思わないことが必要であるのである。

よき言葉の力は聖典や聖経に書かれてあるから、それを読むことによって、
自己に「内在する神の力」をよき方向に呼びだして使うことができるのである。

すべてコトバで唱えることおよび心で思うことは一種の「祈り」であり、
そのコトバおよび思いの方向に、「内在の力」を動かして創造の方向を決定することに
なるのである。

私はいまこの真理を知ったのであるから今より後決して暗い言葉、呪う言葉、悲しい言葉、
不平の言葉などを唱えず思わず、ただ悦びと感謝と将来の明るい希望の言葉とのみを心に思い、
コトバで唱えるのである。

この真理を知らしめ給いし神に感謝いたします。

            <感謝合掌 平成25年1月13日 頓首再拝>

《神と融合するための祈り》 (5592)
日時:2013年01月14日 (月) 04時25分
名前:伝統

         *「聖経 真理の吟唱」(P53)より

私は今、神を想い、ひたすらに神を念じ、神と融合するのである。
神は愛の火である。
神は火と水との完全な融合であり、そこより一切のものを生ずるのである。

今、私は、神と融合して神我一体であるのである。
神われにあり給い、われ神にあり給う。
私は、神と一体なのである。

わが内に神はあり給い、神の内にわれは在り、われは”初め”であり、”終り”であり、すべてである。
われは”生”であり”死”であり、生きることも自由であり、死することも自由である。
死するといっても無くなるのではないのである。

何故(なぜ)なら、我(わ)れは”実在”であるからである。
”実在”が我れであるからである。
死はわが生命(せいめい)の動きが方向をかえるために一時動きを停止したに過ぎないのである。

絵家印の停止はないのである。
私は停止することも自由であれば、動き出すことの自由である。
「死」という存在があるのではないのである。

生命(せいめい)の動きが”前向き”になるのと”後ろ向き”になるとの相違に過ぎないのである。
現象界から見たら”後ろ向き”であるときには、霊界から見たら”前向き”である。

いずれにせよ、人間は神の生命(せいめい)そのものであるから、自己の内に”無限”を包蔵して
おり、時間的序列の中に、常に一層美しきもの、善きものを展開してくるのである。

だから人間は常に生長し進歩するのであって決して退歩するということはないのである。
従って、私は如何なる時にも悲観することはないのである。

たとい一時後退するように見えても、生命(せいめい)は決して後退することはないのである。
生命(せいめい)は一進一退を繰り返しながら前進するのである。
それは昼と夜とが交代しながら植物が生長して行くのにも似ている。

またそれは春夏秋冬を繰り返しながら、年輪が増えて行くのにも似ている。
たとえば桜の樹は冬になって落葉し枯れたように見えるけれども、それは枯れたのではなく、
着々と桜の生命は一陽来復の春のために準備を整えつつあるのであって、
春がくれば万朶の花を咲かせるのである。

たとい、また、その桜の樹が枯れることがあっても、桜の樹の生命は枯れたのではなく、
必ずどこかに桜の樹の姿をあらわして、また万朶の花をつけるのである。 

“北極に近い森林が何かの原因で野火を起して山火事となり、
周り一面の樹木が広大なる地域にわたって全部灰になるような事があっても、
やがてそこに耐寒力の最も強い針葉樹が植えもしないのに芽を吹いて生長する。

そしてその針葉樹が相当の大きさになったとき、
やや耐寒力に弱い白樺が針葉樹の葉に護られて発芽する。
そして何処からも、それらの樹の種子が飛んでくるような距離には、その親樹は無いのである。
物質の親樹は必ずしも必要ではないのである。神が親樹である

神は無限であり神は一見「無」の中から無限を生み出す力をもっているのである。
人間も自己の内に神を宿すのであるから、一見「無」と見える中から
無尽蔵を生み出してくることができるのである。

この真理を知らせ給いし神に感謝します。ありがとうございます。

            <感謝合掌 平成25年1月14日 頓首再拝>

《想念感情を浄める祈り》 (5630)
日時:2013年01月15日 (火) 04時55分
名前:伝統

         *「聖経 真理の吟唱」(P57)より

神の“平和の霊”よ、吾に臨(きた)り給え。
われを平和の雰囲気をもって包み給え。

わがうちに“平和の想念”をもって満たし給え、
“調和の霊”をもって満たし給え、争(あらそ)いの心を起こさしめ給うことなかれ。
憎しみの感情を起こさしめ給うことなかれ。憂え悲しみの念(こころ)を起こさしめ給うことなかれ。

すべての暗黒なる想念感情を、太陽の光を乗せた朝風が、
夕べの霧を吹き払うがごとく雲散霧消せしめ給え。
ああ我れかく祈り奉る。

ああ神の霊(みたま)わがうちにあり、神の霊わがうちに輝きわたる。
霊の光あまねくわが内にあり、また、わが外を包めり。

わがうちに神のコトバあり、
神がそのコトバにて天地の一切のものを造り給いしが如く、
われも亦わが身辺、わが運命の一切をわがコトバにて造るのである。

コトバは創造のエネルギーであり、創造の鋳型であるのである。
鉄を溶かしてそれを鋳型の中に流し込めば、その鉄が固まるとき鋳型の通りになるが如く、
宇宙に満つる“無形の実質”が固定化して物質の形を帯びてくるとき、
それはコトバで述べた通りの姿形をあらわすのである。

それゆえに、私は今後決して、悪しき事をコトバにて言い表すことをしないのは
もちろんのこと、コトバによって悪しき事を心に想うことさえもしないのである。

心に想うことは“無声のコトバ”を心の中で発しているのであるから、
それは、ガラス工場の工員が、“無形の息”を透明のガラスの中に吹き込む
その吹き方の相違によって、色々のガラスの像(かたち)やガラスの器具を作るのと同じであって、
いろいろの運命、環境、境遇、健不健の肉体等を造り出すことになるのである。

今より後(のち)、決して私は悪しきことを思わず悪しきことを言わず、人を呪うことなく、
怒ることなく、現象の悪に心を捉えられることなく、ただ善のみ、光のみ、美のみ、幸福のみ、
豊かさのみ、調和のみ、平和のみの実相を心に見、コトバに発し、常に想念感情を浄めて、
この世界の実相たる天国浄土を地上に実現せんことを期するのである。

仰ぎ願わくは、大神の御慈導を得て、われら行く道に迷うことなく、
険しきを平らかならしめ給い、あやまりて暗黒の想念を起こすことなく、
我が心を常に護りて、もろもろの汚れより遠ざからしめ給え。
 
ああ、われは、天地を創造し給いし大いなる力ある“神のコトバ”と、
同じき言葉をわが内に有(も)つのである。

コトバは双刃(もろは)の剣である。
それは公平に自己を斬り、相手を斬り、一切の悪しき言葉を出す者の
すべてのものに公平なる宣告を与えるのである。

善き言葉をいだす者は永遠に祝福せられ、
悪しき言葉をいだす者は常にその言葉相応の傷を受けるのである。

われは今、この真理を知らしめ給いしことを神に感謝いたします。
ありがとうございます。

            <感謝合掌 平成25年1月15日 頓首再拝>

《神の生命の奥殿に坐する祈り》 (5660)
日時:2013年01月16日 (水) 04時57分
名前:伝統


         *「聖経 真理の吟唱」(P61)より

われは今しずかに神の生命(せいめい)の奥殿に坐するのである。
そこよりして、われを生かす神の生命(せいめい)はきたるのである。

「死」 は決して私には近づいてこない。
病気もまた無いのである。

われは今神の生命(せいめい)の奥殿に坐して、そこより新しき生命(せいめい)と、
力と、勇気とを受けるのである。 私には今何らの恐怖心もないのである。

われは今しずかに神の智慧の奥殿に坐するのである。
そこよりして、われを生かす神の智慧は流れ入るのである。
私は常に神の智慧に導かれるのであるから、
決して凡ゆる点に間違いをしでかすようなことはないのである。

私の一挙手一投足は、すべて急所に中(あた)って精確なる効果をあらわすのである。

われは今しずかに神の愛の奥殿に坐するのである。
そこよりして、すべてを生かす愛は湧き出(いで)てくるのである。
わたしの愛は神の愛の個性的表現であるから、偏頗(へんぱ)な愛憎の愛ではなく、
偏らない平等な愛であるのである。

私は万物の中に神の愛を見、その愛に感謝し、また、万物を愛するのである。

わが父よ、あなたは神の愛の表現であります。
わが母よ、あなたは神の愛の表現であります。
父母を愛する私の感情は神の愛から生まれたものであります。

兄弟よ、姉妹よ、すべての人類よ、あなた達はすべて神の愛の自己顕現であります。
山も川も、草も木も、一切の生物(せいぶつ)もことごとく神の愛の自己顕現であります。
されば、私は天地一切のものに愛され、天地一切のものを愛し、
天地一切のものの恩恵につつまれて生きているのである。

釈迦世尊が、「山川草木国土悉皆成仏、有情非情同時常道」 と悟り給うたその真理を
私は今悟ることができたのである。

この悟りは、神の奥殿より流れ出でたる智慧によって得られたものであって、
決して自力の智慧でも知識でもないのである。

われ神の奥殿に坐するとき、神の愛と智慧とは私を引き包んで、
如何に心を保ち何を成すべきかを教えたまうのである。

内なるものも、外なるものも、すべて神の愛の顕現であるがゆえに、
私を祝福し、私を愛し、私を生かし、善き事のみが私の周囲にあらわれるのである。

われはわが心を開いて神の生命と愛と智慧と祝福とを受けるのである。
だから私は常に幸福で健康で祥福に満たされているのである。

            <感謝合掌 平成25年1月16日 頓首再拝>

《神護と神智を受ける祈り》 (5697)
日時:2013年01月17日 (木) 04時58分
名前:伝統

         *「聖経 真理の吟唱」(P64)より

私は、今、普遍なる神の内に生き、神の御前に坐し、神の生命を呼吸し、
神の智慧を受け、神の愛にとりまかれ護られているのである。

神の愛は完全に私を護り給うているのであるから、如何なる人類意識の迷いも、
自分に感応することができないし、また如何なる個人の逆念も憎悪の念も
嫉妬の念も呪いの念も自分に近寄り、且つ自分を傷つけることはできないのである。

私は、ただ神の霊波のみを、神の愛のみを、神の智慧のみを、神の生命のみを感受し、
それを呼吸し、それを具体化し実現するのである。

私は、いま心をひたすら神のみに集中し、神の御声をききつつあるのである。
神の智慧の大海原より滔々として神の智慧は私に流れ入って来て、
私を正しさと、繁栄と、健康と、調和と、幸福とに導きたまうのである。

私は、今、大きく心の窓をひらいて、神の大いなる智慧の光を受け入れつつあるのである。
光の満つるところに闇はないのである。智慧の満つるところに失敗や愚かさはないのである。

わたしの生活は今、大いなる神の御心につつまれ、一切の暗黒は消え、醜悪は滅し、
成功と繁栄の雰囲気につつまれていることを自覚したのである。

その自覚は、時々刻々小やみなく、わが現実に実現してきて繁栄と幸福の生活と
なりつつあるのである。

ああ神は讃むべきかな、神は感謝すべきかな、
わが行く道を常に照らしたまいわが生活を常に護りたまう。
神は常に与えたまう。

私は常にそれを受けているのである。
しかし、ただ受け、蓄えるだけではせっかくの神の恵みも停滞し、腐敗し、
せっかくの神の恵みも、その完全なる祝福の相をあらわすことはできないのである。

“与えよ、さらば与えられん”は幸福生活の第一カ条であるのである。
受けるのみにて与えなければ、パイプの中が閉塞してしまうのと同じように、
神の供給も途中でその流入が停止してしまうのである。

それゆえに、私は、常に与えられたる神の恵みを次に渡す。
第一に神に還元して、私の如く、救われる人々の殖えるための献資とし、
第二に災害に遭いたる気の毒な人の少しでも多く救われんがための寄付金とするのである。

神は必ずしも献資の額の多寡をもって我が真心を秤りたまうのではないのである。
貧者の一燈は長者の万燈よりも、その真心においてすぐれたる献資であることもある。

しかし、私は自分を欺くことはしないのである。
私は素直に受けるべき祝福は受け、与うべき祝福は吝しみなく与えるのである。

私は吝しみなく与えるが故に、神からの無限供給のパイプは閉塞せられず、
滔々として新しき供給がゆたかに流れ入ってくるのである。

神様、これらの真理を知らしめ給いしたことにを深く感謝いたします。

            <感謝合掌 平成25年1月17日 頓首再拝>

《純愛の使命を完うする祈り》 (5718)
日時:2013年01月18日 (金) 04時36分
名前:伝統


         *「聖経 真理の吟唱」(P67)より

愛は神より来(きた)り、人間を中継放送局として愛を具体化して
全世界に愛を実現し給うのである。

愛を実現したとき人間はその使命を全うし、神もまたその本性を満足し給うのである。
愛によって全ての人類は一体となり、
地上に闘争は消え、戦争は滅し、全世界に平和は来るのである。

愛は憎しみを知らない。光が闇を知らないようにである。
愛がそこに完全にあらわれるとき、自然に憎しみは消えるのである。

愛は怒らない。
愛は自他一体・彼我一体の感じであるから、愛のあるところ常に相手の身になって
すべてのことを考えるのである。およそ相手の身になって考えてやるとき、対立は消え、
調和は来り、紛争は滅し、平和の天国浄土が実現するのである。

愛は失望しない。
何故なら愛は神であり、神は全能であるから、愛もまた全能であるからである。
もし人があなたに背くならば、あなたの愛が足りなかったのである。

或いは愛が充分にあっても、愛の表現が足りなかったのである。
愛は表現することによって、そして行動にあらわすことによって
愛の使命を完(まっと)うするのである。

愛は机上の空想でも空論でもないのである。
愛はひたむきな実践である。
実践が欠けている愛は自己欺瞞である。そこには誠(まこと)がないのである。

誠のない愛はニセモノである。愛は誠によって裏付けられなければならない。
愛は誠によって裏付けられ完うせられる。
誠があれば其の愛は必ず行為を伴うのである。

本当の愛はセンチメンタルな感情ではない。
愛は真理を実践しないではおかない意志である。
強い意志に貫かれない愛は、愛の仮面をかぶった自己欺瞞である。

愛は必ずしも愛する対象が美しいことを要しない。
美しい対象でなければ、それを愛することができないというのでは、
それは単に「好き」であって「愛」ではないのである。

本当の愛は、相手の現象の美醜を超えて、
彼または彼女に内在する”実相”の完全さを見るのである。
単に見るだけではなく、その”完全さ”を実現するために誠をつくすのである。

愛は、相手に内在する神性を見、それを敬し、礼し、それに仕え、それを観じて
その実現を俟(ま)つのであって、すぐにその結果が現象的にあらわれないからとて
失望して抛擲(ほうてき)するということではないのである。

愛は、自己愛でも、他愛でもない、愛は神の実現である。
愛は肉体に属するものではなく、神がそこにあらわれたものである。
肉体はただ神の実現としての愛に奉仕するだけである。

今私は神の愛を自己の内に深く感じ、万人を一様に自己のごとく愛することができるのである。
神よ、かくの如き大いなる愛を与え給うことを感謝いたします

・・・

*以上で、「新生のための祈り」の章を終わります。

            <感謝合掌 平成25年1月18日 頓首再拝>



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