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光明掲示板・第三

 

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吉田松陰 (1324)
日時:2014年10月27日 (月) 04時42分
名前:伝統

今日(10月27日)は【松陰忌】。

山口・萩の「松下村塾」にて伊藤博文らを教育した長州藩士、吉田松陰の命日。
安政の大獄にて処刑された。享年29。


このスレッドでは、吉田松陰の「講孟箚記」についての情報を中心に
紹介して参りたいと考えておりますが、今回は、来年の大河ドラマ「花燃ゆ」に
関連し、松蔭の妹文についての情報の紹介です。


《吉田松陰と妹文》

      *Web:吉田松陰の妹・楫取美和子(杉 文、すぎ ふみ・あや)より


吉田松陰の妹。久坂玄瑞の妻。

文は天保一四年(一八四三年)、
長州(現在の山口県)に杉小百之助(常道)の四女として産まれる。
(吉田松陰は次男)

杉家は貧しい下級武士であったため、農業をしながらの生活であった。
一家か十人以上にもなる大家族でが同居していた。

文の兄、松陰は自分の門弟で「長州第一の秀才」と評した
久坂玄瑞に自分の妹を嫁がせようと考える。

その妹が”文”である。
文は兄である松陰の言い付け通りに久坂玄瑞と結婚。
安政四年(一八五七年)、久坂玄瑞が十八歳。文が十五歳の時である。

結婚し、これから新しい生活が始まる文に、突然不運が訪れる。

結婚翌年の安政五年(一八五八年)、幕府が日米修好通商条約を終結させると
兄である松陰は日本の未来のために何もならない条約であると触れまわり、
「倒幕宣言」をする。

そして、老中首座の暗殺計画を実践するも、露見し幕府に捕まり、幽閉。
その後、松陰は斬首されてしまい、文は大事な兄を失うことになってしまう(安政の大獄)

兄を失った悲しみも束の間。
元治元年(一八六四年)、禁門の変が起こると京で
長州軍の陣頭指揮をとっていた玄瑞は各将の統制を取ることが出来ず、
会津・薩摩連合軍に敗退。八月二十日に玄瑞は自刃して果ててしまうのである。

結婚して十年も経たないうちに兄と夫を亡くしてしまうのであった。

文は玄瑞が■んで、長い間は未亡人であったが、
四十歳前後の時に群馬県令の楫取素彦と再婚する。

文と素彦は歳が十五歳も離れており、
”家政婦”としての意味合いが大きいのではなかったのだろうか。

文も再婚であったが、素彦も文は二番目の妻であった。

(素彦と結婚して、楫取文⇒楫取美和子に改名)

素彦も山口県の生まれであったため、晩年は山口県で暮らしている。
文は長寿で(七九歳)若い時に苦労をした分、
晩年は穏やかな日々を過ごしたのではないだろうか。

http://www.jpreki.com/miwako/


・・・

吉田松陰については、先代の掲示板において、次のWebがあります。

(1)“本流宣言”掲示板」

  ①吉田松陰精神に学べ  (全文) (4729)
    → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=994   

  ②松陰スピリッツ (4756)
   → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=998  

(2)「光明掲示板・第一」として、

   吉田松陰 (2876)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=581   

(3)「光明掲示板・第二」として

  ①吉田松陰~『留魂録』
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=507   

  ②千代(松陰の妹)から見た吉田松陰 (4255)
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=902  

  ③成人式(元服)での吉田松陰の言葉 (4558)
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=956   

  ④花燃ゆ~吉田松陰の末妹「文」の生涯 (11226)
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2140   

           <感謝合掌 平成26年10月27日 頓首再拝>

奇跡の教育者「吉田松陰」 (1494)
日時:2014年11月05日 (水) 06時20分
名前:伝統

         *「感動する! 日本史」白駒妃登美・著(P15~23)より

「かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂」

この歌は、下田から江戸に護送される途中、高輪の泉岳寺の前を通りかかった時に、
松蔭が詠んだ歌です。

泉岳寺に眠る赤穂浪士を讃える歌として詠まれましたが、その赤穂浪士と自身の姿を
重ね合わせることで、自らを慰め、奮い立たせたのでしょう。


野山獄での松蔭は、読書に没頭しました。
1年2ヶ月で、600冊を超えるといわれています。

獄中の他の囚人の多くは、読書に耽る松蔭を見て、あざ笑います。
「どうせここから出られる見込みはないのだから、勉強なんてするだけ無駄だ」
というわけです。

けれども、松蔭は、彼らとは違うところを見ていたのです。
松蔭は、諦めもせず、執着もせず、ただ自分に与えられた環境を受け入れ、
そこでできる精一杯のことをしようとしたのです。

そんな松蔭に感化され、囚人たちは少しずつ変わっていきました。
すさんだ空気が薄れていき、しだいに囚人たちは、
松蔭のもとで勉学に励むようになったのです。

松蔭は、囚人たちを集めて、座談会を開きました。
座談会を通して、国家の問題に目を向けるようになった
囚人たちは、松蔭に倣って、読書に勤しむようになっていったのです。


また、松蔭は、人の優れたところを見つける天才でした。
書、俳諧など、囚人たちの得意分野をみつけては、
その人を「先生」と呼び、教えを請いました。

やがて野山獄の囚人たちは、持ち回りで講師役を務め、勉強会を立ち上げたのです。
この勉強会では、松蔭自身も「孟子」や「論語」を講義しました。

この講義があまりに素晴らしいので、聞いている囚人たちは、みな正座して目に涙した
そうです。そしてふと牢の外に目を向けると、なんと野山獄の番人たちまで、
涙を浮かべて松蔭に講義に聞き入っているではありませんか!


野山獄に投獄されてから1年2ヶ月、松蔭は恩赦によって出獄すると、
実家の杉家で謹慎の身となりました。温かく迎えてくれた家族や近親者を前にして、
松蔭は、獄中で未完に終わっていた「孟子」の講義を続けました。

すると、その評判を聞きつけて、一人、また一人と、近所の青少年たちが集まってきました。
このことがきっかけで、松蔭は、松下村塾を主宰することになるのです。

松下村塾は、雑草集団でありながら、その中から、多くの優秀な人材が巣立っていきました。
松蔭が松下村塾で子弟の教育にあたった期間は、長く見積もっても2年10ヶ月、
それは、まさに教育の奇跡といえるでしょう。

           <感謝合掌 平成26年11月5日 頓首再拝>

「講孟箚記」とは (1701)
日時:2014年11月15日 (土) 03時32分
名前:伝統

          *Web吉田松陰 講孟箚記(こうもうさっき) 梁惠王上 より

講孟箚記とは吉田松陰が牢屋に入れられたとき、
その囚人仲間に「孟子」を解説したものです。

この著は、最初は「講孟箚記」と名づけられ、次に「講孟余話」と変更され、
その後、「講孟箚記」に戻されております。


孟子という人は中国の戦国時代(だいたい紀元前400年から200年くらいまで)の人です。

中国の戦国時代には七つの大きな国があって、
西から、秦、趙、韓、魏、斉、南に楚、北に燕、となります。

「梁惠王」というのは、梁(りょう)という国の惠という王様のことです。
梁というのは七つの大きな国の一つである「魏」という国の別名です。


「孟子」という書物は、孟子と梁の惠王との会話から始まります。

梁の惠王は孟子に、

 【千里を遠しとせずして来る。また将にもってわが国を利することあらんとするか】


 「孟子さん、遠いところを私の国までよく来てくれました。
 わざわざ来てくれたということは、私のこの魏の国の利益になる
 何かすばらしいアイデアを持ってきてくれたんですよね? 」


孟子は答えます。

 【王なんぞ必ずしも利をいわん。ただ仁義あるのみ】

 「王様というものは、利益というものを期待してはいけません。
 ただ、仁義のことだけをお気にかけていらっしゃればよろしいのです。」



この会話を普通に判断すればどうでしょう。

孟子はわざわざ遠くから魏まで来ているわけです。それを王様も知っている。
弱肉強食の戦国時代、仁義だけで国を維持できるわけないのは、当たり前の話。。
仁義の後ろに利益がチラチラ見える気がします。



これを吉田松陰が解説します。

まず松蔭は、
「仁義を実行した後、利益は期待できる」
といいます。

ここまでは普通です。しかし、松蔭はさらにこれを押していって、
「仁義を実行した後、利益は自然と期待できる。だから仁義さえ実行すればいい」
といいいます。

さらにこれを押して、
「仁義さえ実行すれば、利益なんて考える必要はない」
という境地にまでいたります。


最終的には感動的でさえあります。

松蔭はこういいます。

「私達は今、再びこの牢獄から出るという希望のない状況にある。
この状況で孟子を学んでなんに成るのであろうか。
しかし、その考えこそ孟子のいう「利」の考えなのだ。

努力によって正しい道を知ることが出たのなら、
それは喜ばしい事であり、実行の効果を考えることなど、問題にならない」

さらに幕末の状況にひきつけて、

「ペリーに対する幕府の態度はまことに恥ずかしい。
幕府には必勝の覚悟がないからだ。

さらにいえば、その幕府の態度こそが「利」の態度なのだ。
日本はただ仁義のみを実行すればいい」


吉田松陰は完全に孟子を越えています。

その精神は、ほとんど狂気と熱情の間にある。


           <感謝合掌 平成26年11月15日 頓首再拝>

『講孟箚記』の解説 (1933)
日時:2014年11月24日 (月) 03時37分
名前:伝統

          *Web:講孟箚記(こうもうさっき)より

松陰の「講孟箚記」は、松陰が安政2年から3年にかけて、
長州の野山獄と杉家幽室で幽囚の身であった時、囚人や親戚と共に、
孟子を講読した読後感や批評そして意見をまとめたものである。

「箚」は針で刺す意味があり、「箚記」は書物を読むにあたり、
針で皮膚を刺し鮮血がほとばしるように肉薄し、あたかも針で衣を縫うように
文章の意義を明確にする意味となる。

後に、松陰はその域に到達していないとして「講孟余話」と改題した。


松陰は強力な諸外国の開国要求に直面している状況の真っ只中に幽囚の身となる。
そして、急速に変化する状況で新しい対応策が必要であると痛感していた。
それには天下の人々の「積誠」だけが状況転換を可能にすると思考し、その態度を強めていく。

孟子の「至誠にして動かざる者は未だ之れ有らざるなり」という言葉は、
この確信の支えであった。
「誠心」は高い極限の形であり、強く人に訴える力を発揮すると確信していたのである。
その確信をまず身の回りの人々へ伝播・実践したのが、まさに「講孟」であった。


「我れ亦た人心を正しくし、邪説を息(や)め、?<言+皮>行(ひこう)を距(ふせ)ぎ、
淫辞を放ち、以て三聖者を承(つ)がんと欲す。」(滕文公章句下篇第九章)

 
松陰日く、「全章の主意は、この一節にある。またこの一節は人心を正しくするという
この言葉に帰着する。まさしく孟子が終身みずからに課したものもここにあった。」と。

また日く、「そもそもこの章は、むかし禹(う)が洪水を治め、周公が夷狄(いてき)を
征服し猛獣を駆逐して百姓を安らかにし、孔子が『春秋』を完成した事蹟に、
孟子がみずからを対比しているところである。」と。

重ねて日く、「そして朱子は、この章の注でつぎのように述べている、
『思うに邪説がほしいままにはびこって人心を損なうことは、
洪水や猛獣の災害よりもはなはだしく、また夷狄や、君位を奪い君主を
弑(しい)する悪逆の臣の禍いより痛ましいことである。
それゆえ孟子はこのことを深くおそれて邪説から人心を救おうとつとめたのである』と。
この言は深く味わうべきである。」と。

そして、「今日もっとも憂うべきものは、人心の不正ではなかろうか」と提起して、
「そもそもこの人心が正しくない場合には、洪水を治めたり、猛獣を駆逐したり、
夷狄を征服したり、逆臣を誅殺したりすることなど、どうしてできるはずがあろうか。

天地は暗黒と化し、人道は絶滅してしまうのだ。
まことに思うだに恐ろしいことで注意すべきことである。」と締め括っている。


この章を講釈する松陰の姿が目に浮かぶようである。
まさに、孟子の主意は「至誠」の二字にあり、松陰の至誠は「人民への至誠」である。

にもかかわらず、明治期の元勲たちは至誠の言葉を「天皇への至誠」とすり替え
利用して「富国強兵」「殖産興業」の道へと人民を扇動し、「人民への至誠」を
忘却したのである。

また、松陰は「梁恵王上篇第七章」において、
「民を恵むという美しい言葉は耳にするけれども、それが民衆にまで及んで
実際に民がその恩恵にあずかるところまでいっていない。」とも述べている。

つまり、「たとえ真実そのように心で思っていても、それが現実の結果となって
現出しないかぎり、評価に値しない。」と政治の結果責任を強調しているのである。

http://www.winbell-7.com/roman/mokuroku/win-1/syoin/win0020003.html


           <感謝合掌 平成26年11月24日 頓首再拝>

野山獄での教え (2130)
日時:2014年12月04日 (木) 03時21分
名前:伝統

       *Web:「魂の教え 松下村塾物語」より

(1)入獄

   松陰はペリーが日米和親条約締結のため再航した際に、弟子の金子重輔と
   ペリー艦隊へ赴き、見聞を広める為に密航をしようとしますが拒否されます。

   その後2人は幕府に自首し、長州藩へ檻送され、野山獄に入れられます。
   (金子重輔は隣接する岩倉獄に入れられます。)

   この野山獄は11名の重罪人が入牢し、在獄9年を筆頭に長く在獄していました。
   いったん入るとなかなか出られないと言われていました。

   そのような状況下で松陰は奇蹟を起こします。
   なんと明日への夢も希望もない囚人たちに授業を行なったのです。

   授業を行なうには受け手がいないと成り立ちません。
   つまり囚人たちが松陰を受け入れなければ「教わる」気持ちも起こりません。

   しかも年が一番若い当時25歳の松陰の言葉に
   どのようにして囚人たちが耳を傾けたのでしょうか?
   どのようにして松陰は囚人たちに受け入れられたのでしょうか?

   入獄してまもなく、松陰と海外渡航を計画した金子重輔が病気で亡くなり、
   松陰は獄中で金子重輔の慰霊を考えます。

   そして松陰は石灯篭(いしどうろう)建設費用を捻出するために
   節食を行ったといわれています。

   野山獄では囚人より申し出があれば、副食の一部を辞退することができ、
   一日分の食費から若干を削り、これを蓄えることができました。

   何時出獄できるかどうか分からない囚人たちにとって最大の楽しみは食事です。
   禁獄の苦しみを食で満たすことで補っていた囚人たちにとって
   松陰の行動は驚きであったに違いありません。

   そして、すでに長州藩の秀才として世に知られ、
   国禁とされている海外渡航を計画したこの男の言うこと
   を聞いてみようでないかという空気が起こったのです。

   ついに、松陰が入獄してから170日後に、彼の講義が始まります。

   (※石灯篭建設費用捻出については九州大学名誉教授、
   山口宗之『吉田松陰(世界哲学家叢書)日本語版』[私家版、平成13年]を参照)


(2)『孟子(もうし)』を講義

    松陰はどのような態度で囚人たちに接していたのでしょうか。

   「自分の知識を囚人たちに教えてやる」といった態度で接していたのかというと
   そうでありません。松陰は獄中では古代中国の思想家孟子が記した『孟子』
   について講義をしています。

   のちに松陰がその講義をまとめた書『講孟箚記(こうもうさっき)』に
   講義の内容や松陰の考え方をみることができます。

   『講孟箚記』の序文には

   「わたくしはこのたび米艦によって渡航しようとして失敗し、
   その罪によってこの野山獄に投ぜられたが、吉村五明・河野子忠・富永有隣という
   3人の友人を得て、ともに書物を読み、人たるの道を窮め、互いに意見を交換して
   ますます喜ぶに至った。

   そこでいうことには、『わたくしも、皆さんも、今、逆境にある。
   このことは励んで道を得るための良い境遇である』と。

   かくしてついに『孟子』の書を手にして、ともに研鑚しあって、
   孟子のいう道というものを求めようとした。」

   と松陰の囚人に対する姿勢がわかります。


   『講孟箚記』には

   「自分の本性は善であると認識するならば、これを根拠として
   身心を磨いて徳を完成することができるのである」
   (『講孟箚記』巻四上 告子上編)という箇所がありますが、

   孟子は「性善説」(人間は基本的に、善意に拠って行動するという考え)を
   主張し『孟子』を書いています。

   松陰も「性善説」にたって囚人たちに接しています。

      (http://www.shimonjuku.com/lifelong/kouza/bn10.html

           <感謝合掌 平成26年12月4日 頓首再拝>

『講孟箚記』序文 (2323)
日時:2014年12月14日 (日) 06時02分
名前:伝統

・・・

今日は、衆議院選挙投票日です。
選挙を断行した首相である安倍晋三の「晋」は
高杉晋作の「晋」であることは、多くの人はご存知だと思います。

その高杉晋作が歴史を変えたクーデター功山寺決起(下関市長府)を実行したのが
1865年の12月15日なのですが、実は高杉は14日にクーデターを計画していたが、
準備に手間取り決行は一日遅れたのです。当初の予定には14日だったとのことです。

この日、高杉はわずか84名で挙兵し、最終的には十数万の大軍に勝利を収めた、
まさに記念すべき日なのだ。


(この功山寺挙兵は、明治維新の基(もとい)をつくったと高く評価されており、
 もし晋作の挙兵が遅れていたら、明治維新が遅れ、日本の近代化が遅れ、
 我が国も恐らく当時のアジア諸国と同様に、ロシアか英仏などの植民地に
 なっていたであろう、ともいわれております。)


おそらく、維新の英雄 高杉晋作の名の一字をもらったという安倍首相は、
当然あやかりたいとの気持ちがあったのではと、ささやかれております。

それにこの日を大事にしたのは実は高杉晋作だけではなく、
高杉にとっては師にあたる吉田松陰もそうなのです。

松蔭も若い時、脱藩という重大な行為を行なうにあたって
12月14日を選んでいるのです。

理由はこの日は赤穂浪士の討ち入りの日だからです。
松陰は赤穂浪士をいたく尊敬していた。
だからこそこの日を大切にしていたのです。

ところで高杉の決起は一日遅れましたが、彼は実は縁起が良いと感じていたはずです。
なぜならその日山口県下関では珍しい大雪が降ったからであります。
赤穂浪士の討ち入りは大雪の中で行なわれ大成功に終わった事は誰もが知っています。

だからこそ、おそらく、高杉晋作が「こいつは縁起がいい」と思ったに違いありません。

今日の選挙投票日がもし雪が降って影響を受けたとしたならば、
その投票結果がどのようになるのか、
そして安倍首相はどのようなコメントを出すのか、興味津々です。

・・・

【講孟箚記 序】


道則高矣美矣約也近也人徒見其高且美以爲不可及而不知其約且近甚可親也
富貴貧賤安樂艱難千百變乎前而我待之如一居之如忘豈非約且近乎然天下之人方
且淫于富貴移于貧賤耽于安樂苦于艱難以失其素而不能自抜宜乎其見道以爲
高且美不可及也

孟子聖人之亜其説道著明使人可親世蓋無不讀讀而得于道者或鮮矣何也爲
富貴貧賤安樂艱難所累而然也然富貴安樂順境也貧賤艱難逆境也境順者易怠境逆者
易勵怠則失勵則得是人之常也

吾獲罪下獄得吉村五明河野子忠富永有隣三子相共讀書講道往復益喜曰吾與
諸君其境逆矣可以有勵而得也遂抱孟子書講究礱磨欲以求其所謂道者

司獄福川氏亦來會稱善於於是悠然而樂莞然而笑不復知圜牆之爲苦也遂録其所
得號爲講孟剳記夫孟子之説固不待辨然喜之不足乃誦之口誦之不足乃筆之紙亦情之之所
不能已則箚記之作其可癈哉

抑聞往年獄中無政酗酒使氣喧豗紛争絶無人道今公卽位庶政更張延及獄中百弊日改衆美
並興蓋司獄與有力焉今乃與諸君悠悠講學以得樂其幽囚者寧可不思所以對揚乎哉

安政乙卯秋日二十一回藤寅書諸野山獄北房第一舎







 道は則ち高し、美し、約なり、近なり。
 人徒其の高く且つ美しきを見て
 以て及ぶ可からずと爲し、
 而もその約にして且つ近、
 甚だ親しむ可きことを知らざるなり。

 富貴貧賤、安樂艱難、千百、前に變ずるも、
 而も我は之を待つこと一の如く、
 之に居ること忘れたるが如きは、
 豈約にして且近なるに非ずや。

 然れども天下の人、
 放且に富貴に淫せられ
 貧賤に移され、
 安樂に耽り艱難に苦しみ、
 以て其の素を失ひて
 自ら抜く能はざらんとす。

 宜なるかな。

 其の道を見て
 以て高く且美しくして及ぶ可からずと爲すや。

 孟子は聖人の亜。

 其の道を説くこと著明にして、
 人をして親しむ可からしむ。

 世蓋し讀まざるものなし。

 讀みて道を得たる者は或ひは鮮し。

 何ぞや。富貴貧賤、安樂艱難の
 累はす所と爲りて然るなり。

 然れども富貴安樂は順境なり。

 貧賤艱難は逆境なり。

 境の順なる者は怠り易く、
 境の逆なる者は励み易し。

 怠れば則ち失ひ、
 励めば則ち得るは、
 是人の常なり。

 吾、罪を獲て獄に下り、
 吉村五明・河野子忠・富永有隣の三子を得、
 相共に書を讀み道を講じ、
 往復益々喜ぶ。曰く

「吾と諸君と其の境は逆なり。
 以て勵みて得ること有る可きなり」と。

 遂に孟子の書を抱きて講究?磨し、
 以て其の所謂道なる者を求めんと欲す。

 司獄福川氏も亦來り會して『善し』と稱す。

 是に於て悠然と樂しみ、
 莞然として笑ひ、
 復圜牆の苦たることを知らざるなり。

 遂に其の得る所を録し、
 號して『講孟箚記』と爲す。

 夫孟子の説は、固より辨ずることを待たず、
 然れども之を喜びて足らず、
 乃ち之を紙に筆するも、
 亦情の已む能はざる處なれば、
 『箚記』の作は、其れ廢す可けんや。


 抑々聞く、往年獄中に政なく、
 酒に?<酉+凶>し、氣をして喧?紛爭して、
 絶えて人道なからしめたりと。

 今公の位に即くや、庶政更張し、
 延きて獄中に及び、
 百弊日に改まり、衆美並びに興る。

 蓋し司獄も亦與りて力あり。

 今乃ち諸君と悠悠として學を講じ、
 以て其の幽囚を樂しむことを得る者は、
 寧ぞ對揚する所以を思はざる可けんや。


 安政乙卯秋日、二十一回藤寅、
 諸を野山の獄の北房第一舎に書す。


           ・・・

『講孟剳記』序 現代語譯

人の人たる道は、氣高く、美しく、また簡單で身近なものである。
しかるに人々は、ただ其の道の氣高く美しい面だけを見て、
最初から自分にはとてもできないと思ひ、しかも、簡單で身近で
甚だ親しみやすいとは知らないのである。


それは、豐かであるとか、高い地位や名譽がある(これが富貴)とか、
貧しいとか賤しい(これが貧賤)とか、安穏であるとか、
樂しい(安樂)とか、災難や困難(艱難)が自分の前に來て、様々に状況が變はろうとも、
一切心に迷ひが生ずることがなく、どんなに環境にその身が置かれやうとも、
全く關係なく意識もせずに忘れた如くなるのである。


しかし、天下の人々は、その心が富貴によつて堕落してしまい、
貧賤によつて心が變節し、安樂に耽つて、艱難に苦しんで、平素の心懸けを失つて、
自らその境遇から抜けることができなくなつてしまつてゐる。

だから、人々はこの氣高く美しい人生を
自分ではとてもできないと考へてしまつてゐるのである。


孟子は亜聖と呼ばれ、聖人に次ぐ人物といへる。
彼の説く所は、まことに明快で、人々に道は親しむべきものであるといふことを知らしめた。
今の世の中で、この『孟子』を讀まない者は居ないと思ふが、
この『孟子』を讀んだとしても、道といふことを體得する人物はあまりにも少ない。

何故かといへば、先程言つたところの富貴貧賤、安樂艱難の環境によつて
煩わされてしまふからである。

しかし、富貴や安樂といふのは環境に恵まれてゐるといへる。
貧賤や艱難は、その環境は逆境といへる。


人間は順境にゐる時は怠けやすく、逆境に居る時は一生懸命勵むものである。

怠ければ其の道を失ひ、一生懸命勵んでゐたならば
道を得られるのは當り前のことなのである。

私は、この度ペリーの黒船によつて渡航しやうとして失敗して、その罪によつて
この野山の牢獄に入れられることとなつたが、吉村五明・河野子忠・富永有隣といふ
三人の友人を得て、共に書物を讀み、人たるの道を窮めん欲して、互に敎へ合つて
益々道が深まり喜んだ。

そこで「私と皆さんはその境遇は今、逆境にゐる。だからこそ勵む事ができ
人としての道を得ることができるのである。」と言つた。


そして、遂に『孟子』の書を手にして、共に講究し、學問思想を磨き、
人としての道を更に深くしてゆくこととなつた。

司獄である福川氏もまた、この集まりに参加して
「これは素晴らしいことだ」と言つてくれた。

私は遂に悠然と樂しみ、莞然として笑ひ、獄中に居るといふ圜牆といへる
苦しみを感ずることなく學問を心置きなくすることが出來るやうになつたのだ。

そして、その『孟子』の研究を記録して『講孟剳記』と名づけた。


では、その『孟子』の説とは一體どのやうなものであるかといふことについては、
勿論、私が語るまでもないことである。そうではあるが、その説を知れば知る程
喜んでも足りないのである。

だから、この『孟子』の説を素讀し、それでも私の喜びは溢れんばかりであり、
紙に書き記さずにはおられないことから、我が心が已むに已まれぬ思ひを
抑へる事が出來ないのである。

故にこの『剳記』を作ることは辞めることができないのである。
 

そもそも、聞くところによれば、その昔はこの牢獄には秩序が無く、
囚人達は酒に狂い、氣も荒く喧嘩や紛爭が絶えなかつたといふが、

今の毛利敬親公が藩主となられると、政の數々を革新拡張せられ、
その恩澤は獄中までも及んで、あらゆる獄内の悪習や風俗が改められ、
多くの美事が澤山起つたといふ。

思ふにこれは司獄の福川氏の力も大いにあつたのではないかと思ふ。
いま、獄中にありながら諸君と悠悠として學問を研究し、この幽囚生活を樂しめるのは、
すべて我が藩主の仁慈と福川氏の努力によるものであるから、吾等はそれに應へるやうに
勵まなければならない。

  安政二年の年の秋の日、二十一回猛士藤原寅太郎、
  この文を野山の獄の北房の第一舎に記した。


           <感謝合掌 平成26年12月14日 頓首再拝>

《『講孟箚記』序 ~ 解説》 (2522)
日時:2014年12月27日 (土) 04時47分
名前:伝統

・・・

『講孟箚記』序を、さらに深く解説したWebがありましたので、
以下に、紹介しておきます。

・・・

《序 ~ 解説 1》

        *Web:「『講孟剳記解説』(講孟余話) 序」より

「道」とは當然(とうぜん)ではあるが道路のことではない。
人間が進むべき正しい方向、則ち人生のことである。

そして、この章で述べられてゐることこそ
尤も自らに言ひ聞かせなければならぬ事である。

人間が進むべき正しい方向、則ち目指すところはいふまでもなく理想である。


幕末の志士佐久良東雄(さくらあずまお)の歌に


   死に人に似たる男児をのこに向ひおれば朝の間も寝ぶたくぞある

といふのがあるが、この「死に人」に似たる人こそ理想を持たぬ人といへる。


今の世を觀たならば、この「死に人」達が溢れてゐるやうに見えるのは、
理想を失つてしまつた人達の多さなのかも知れない。


さて、この序文では

人間がこの世に生まれてきたといふことは、
氣高く美しい人生を生きる爲に生まれてきたのであるといふことを主眼としてゐる。

即ち、理想を持ち理想に生きて、人生をいつも明るく歩いて行くといふことである。

そして、それは自覺さえすれば、誰でも簡單にできることであるといつてゐるのである。


冒頭の

「道は則ち高し、美うまし、約なり、近なり」は

その事を言つてゐるのである。

「高し、美し」とは、氣高く、美しいといふことであり、

私達は皆その様な生き方が出來たならと願つてはゐる。


松陰先生はそれを決して難しい事ではないと言い切つてゐる。
いや、簡單なことだと言つてゐるのである。

そして氣が附きさえすればすぐ身近にあるものだということも言つてゐるのである。

それが「約なり、近なり」である。

しかし、殘念なことに人々は、氣高く、尊く、美しい人生は
自分にはとても無理なことであるとあきらめてゐるとも言える。


よく、年長の人に

「そんな理想なんかを追いかけていては、人間食べてゆけないよ」

と言われることがあるが、
現實と理想という狭間はざまに私達はいつも阻はばまれて、あきらめてゐるのではないか。

何故そうなるのか。

それが

「富貴(ふうき)に淫(いん)せられ、
 貧賤(ひんせん)に移され、
 安樂(あんらく)に耽ふけり、
 艱難(かんなん)に苦しみ」

という一節に表されてゐる。

富貴とは豊かな生活と高い地位のことである。
即ち「富貴に淫せられ」とは、豊かな生活や高い地位でその心が堕落するといふことである。

「貧賤に移され」とは、
貧乏や賤いやしい身分という状況に心を變節してしまふといふことを言つてゐる。

「安樂に耽り」とは、
 安穏な生活や享樂に耽つてしまひ理想を忘れてしまふといふ意味である。

「艱難に苦しみ」とは、
大きな困難や苦勞に苦しむといふことで、
自らの持つ本來の大きな力を信じなくなつてしまふことで、

『氣高く美しい人生』は自分には到底不可能であるとあきらめてしまふのである。


それを解り易く言へば

「物質的に恵まれるとか、貧乏であるとか、
 社會的地位がないとか、過酷な環境に苦しむとか、
 日々が樂しければそれでいい」

 といふことに大きく左右されてゐるのである。

 このやうに目先のことで右往左往して、
 自分の人生を翻弄ほんろうされてゐるならば、
 人間として生まれてきた甲斐など感じることなどはないといえはしまいか。

       (http://ameblo.jp/kotodama-1606/entry-11579561099.html

              ・・・

《序 ~ 解説 2》

では、人間として生まれてきて甲斐ある人生とは何か。

それこそ『眞の理想に生きること』である。

その『眞の理想』とはなんであらう。

それを掴むためには、人間そのものを知らなければならない。

松陰先生はこの『孟子』の敎えを一つの素材として
私たちに人間とは何かといふことを教えてくれる。


講孟箚記は人間とは何か。

人生とはいかに素晴らしいものかといふことを掴むため
『孟子』といふ本の教えを教材にして人々に訴えてゐるのである。

この、講孟箚記の教えを深く深く考究したならば、
人間とは何かといふことを理解できるのである。

しかし、その學問を究めたいと願つたとしても、
富貴貧賤・安楽艱難に惑わされて、その実を得られなくなつてしまふ人も多いのである。


「命もいらず、名もいらず、
 官位も金もいらぬ人は、
 始末に困る人也。
 この始末に困る人でならでは、
 艱難を共にして
 國家の大業は成し得ぬ也」

と、西郷隆盛は言つたが、

この考えに立つた上で學問は行はなければならない。


今の世は

「命は惜しい、名も欲しい、官位も金も欲しい」

という風潮の時代であると言える。

山本常朝の『葉隠聞書』に於ても

「今時(いまどき)の奉公人を見るに、いかう低い眼の着け所なり。
 スリの目遣(めづか)いの様なり。
 大方おおかた身のための欲得(よくとく)か、利發(りはつ)だてか、
 叉は少し魂(たましひ)の落ち着きたる様になれば、身構えをするばかりなり」

とあるが今の時代と重なるのではないか。

これはどうしてかと言えば、
人間觀が歪んでしまつてゐることが大きな弊害になつてゐると思えるのである。

その元は、人間を猿から進化した類人猿といふ考え方にある。

人間を哺乳類ホモ・サピエンスと観てゐる限り、
眞の人間觀から遠く離れてしまい、人間の理想を確立することなど出來はしないのである。

眞の人間觀を確立することなしに、
美しく氣高い人生の理想などとは、ほど遠い生き方をせざるを得ないのだ。

美しく氣高い人生は
言葉を變えて言えば眞の人間觀に立脚した理想を把持した人生といふことになる。

もし、そうでなければ、それはあくまで幻にすぎない。

世の中に平和が續いた時、
人は享樂(きょうらく)にうつつを抜かしてしまふのは歴史が證明(しやうめい)する。

現代が將にそうであるが、
古くはローマ帝國などは、その國民の享樂を求める心によつて自ら滅亡していつた。

日本に於ても、江戸時代の元禄の頃も叉、然りであった。

そして、その頃書かれたのが、武士道を語るに、その代名詞ともいふべき
山本常朝(やまもとじょうちょう)の『葉隠聞書』である。

その中には平和を享受して、生きてゐる人々の世相が書かれてゐる。

「叉三十年來、風規(ふうき)相替(あいか)はり、
 若侍(わかざむらい)どもの出合(であ)いの話に、
 金銀の噂、損得の考え、
 内証事(ないしょごと)の話、衣装(いしょう)の吟味(ぎんみ)、
 色欲(しきよく)の雑談ばかりにて、
 この事なければ一座(いちざ)しまぬ様に相聞(あいきこ)え候。
 是非(ぜひ)なき風俗になり行き候」
  (聞書(もんじょ)第一)

この言葉など、將に現代の風潮そのものではないか。

それでも、この元禄時代に於ては若者に限られている。

しかし、現代を見たならば、大人を含めて葉隠で述べてゐる世相と言えるのではないか。

テレビ、ラジオ、雑誌、小説、映画等々、
その全てがお金、損得の考え、スキャンダル、ファッション、戀愛しか話題としていない。

それでいて、自分が幸福だとは思ふことがない。

このやうな世の中でよいのであろうか。

私たちは人間として生まれてきた。

しかし、今の姿は本當の人間の姿とは私には思えぬ。

欲望の中に身を置き、それを満足するために、無意義な時間を過ごしてゐる。

これらは人間觀の捩(ねじ)れがそうさせていると私には思える。

       (http://ameblo.jp/kotodama-1606/entry-11580254952.html

              ・・・

《序 ~ 解説 3》

それでは、眞の人間觀とは何か。

その前に人間とは『物(肉体)』なのか、それとも『心(精神)』であるか
といふことを考察してみたい。

當然のことであるが、
皆さんは人間は精神と肉體の合わされたものと答える方が殆どと思うが、
敢えて言ふが人間は心即ち精神であると。

もし、人間を肉體と考えてしまつたなら、私達の人生の理想的な生き方は、
本能的欲望を満たすことに、その目的を置くことになつてしまふのである。

だから、人間が生れ、一生を幸福に生きるための定義は、
今や五欲本能の満ち足りた人生を送ることになつてしまつてゐるのだ。

それでは、眞の人間觀からは遠く離れてゐることになりはしないか。


眞の人間觀から言えば、

「人間は神の子である」

といふことである。

更に言へば

「人間は神と一體なる存在」

といふことなのである。

ここにこそ、人間の生命の尊さがあるのであり、
その自覺を持つことですべてのモノの生命の
本當の尊さを實感することができるといふことなのだ。


本居宣長は、それを次のやうに言ふ。

「人の萬物(ばんぶつ)の靈(れい)たる所以(ゆえん)は、
 もつと根本的なものに基づく。

 『夫(そ)レ人ノ萬物ノ靈タルヤ、
  天神地祇(てんしんちぎ)ノ寵靈(ちょうれい)ニ
  頼(よ)ルノ故(ゆえ)ヲ以(もつ)テナルノミ』

從つて、吾が國には、上古(じょうこ)、人心(じんしん)質朴(しつぼく)の頃、

 『自然ノ神道(しんとう)』が在って、
 上下これを信じ、禮儀(れいぎ)自(おのづか)ら備るといふ
 状態があつたのも、當然(とうぜん)のことである」


人間が地球上に住む他の生物と大きく違ふところこそ

 『天神地祇(てんしんちぎ)ノ寵靈(ちょうれい)ニ
  頼(よ)ルノ故(ゆえ)ヲ以(もつ)テナルノミ』

といふ一節になるのである。

この考えさえ保持できたならば、
眞の人間として生きることが 可能となるのである。

そして「富貴貧賤、安樂艱難の累(わづら)はす所」から
離れて人生を歩むことができるといえる。


松蔭先生の精神の強さは、囚人といふ身になりながらも、

 「悠然(ゆうぜん)と樂(たのし)み、
 莞然(かんぜん)として笑ひ
 復(また)圜牆(かんしょう)の苦(く)たること知らざる」

といふ一節に表れる。

自らの境遇を心を以て變えるとは、將にこの事なのである。

松陰先生は言ふ。

 「富貴安樂は順境なり。
  貧賤艱難は逆境なり。
  境の順なる者は怠り易やすく、
  境の逆なる者は勵はげみ易やすし。
  怠れば即ち失ひ、
  勵めば則ち得るは、
  是これ人の常なり」  と。


考えてみれば、これを自らの歩んできた人生と照らし合わせたならば
放旦(まさ)にこの通りといえる。

眞の人間觀を持つことができたならば、逆境であろうと順境であろうとも

 「悠然と樂しみ、莞然と笑ひ、
  復圜牆の苦たることを知らざるなり」

といふ心の境地になるのである。

そこで初めて

「道は則ち高し、美し、約なり、近なり」

といふ人生が自らのものとなるのだ。

ここを以て、自らの原點としなければならないことが明確となる。
 

講孟剳記 序 解説 了

       (http://ameblo.jp/kotodama-1606/entry-11580802219.html

           <感謝合掌 平成26年12月27日 頓首再拝>

ついに「花燃ゆ」がスタートしました (2701)
日時:2015年01月05日 (月) 20時27分
名前:伝統

NHK大河ドラマ「花燃ゆ」第一話の要点


(1)明倫館教授・小田村伊之助との出会い

(2)禁書「海防臆測(かいぼうおくそく)」

   ~小田村伊之助が秘かに所持していた禁書
   ~九州遊学を終えて帰ってきた寅次郎も入手していた禁書

   ・・・

   禁書「海防臆測」とは?

   「海防臆測」とは、古賀侗庵(こがどうあん)という江戸後期の学者が書いた書物です。
   頑なに鎖国を維持する幕府の対外政策を批判し、外国と渡り合うために海外への進出、
   貿易を行なうべきだとする「海外進出論」を主張したものでした。

   「海防臆測」は幕府の政策を否定し内乱を招くものとして、
   「禁書」とされていました。

   これを所持しているだけで牢屋に入れられるほど、
   当時の日本人には過激な内容の本であった。


   人々はこうした幕府の情報統制により、新しい思想に触れる事が出来なかったわけです。

   ・・・

(3)吉田松陰と小田村伊之助の出会い

   明倫館において、寅次郎は玉木文之進に問いを投げた。

   「明倫館ではなぜ敵となるかもしれん異国のことを学ばせようとしないのです」 
   そして文之進の手にあった海防臆測を破り捨て、自ら持つもう一冊を取り出した。

   「むだです。どこにでもあります。なぜ人間は禁止された本を読みたがるのか?
   知りたいからです。学びたいからです。」

   「皆に問いたい。人はなぜ学ぶのか?」

   こんな一人演説を始めた寅次郎を、
   文に連れられてやってきた小田村伊之助は彼を見つめていた。

   寅次郎曰く、人が学ぶのは職を得るためでも、
   知識を得るためでも出世するためでもない。
   教えるためでも、尊敬のためでもない。

   己を磨くために、学ぶのだと。


   それを聞いた伊之助、自分が所持していた本であったと自ら名乗り出る。
   ざわつく場をしり目に、彼は自分の考えを自分の口で述べ始めた。

   人が学ぶのは、この世の中で己がなすべきことがなんなのか、それを学ぶのです。
   私は日本国はもとより、長州をお守りするために学びたい。

(4)長州藩主、毛利敬親

   騒ぎを巻き起こし、禁書を所有し、そして禁書を持つ有用性を訴えた。
   一般的には、どう考えたって二人には処分が下るはずだった。

   しかし、突如現れた藩主の毛利敬親は「このたびの一見は不問とす」と述べ、
   再び江戸で学びたいという意思を表明した二人に、「そうせい」と述べられた。

   一生の友となる小田村伊之助と吉田松陰は二人そろって江戸へ出立。

   「文、お前は人と人を出会わせる、不思議な力があるのかもしれんのう。」
   そんな寅次郎の言葉を思い出す文。ペリー来航の2年前の出来事であった。


<参考Web

  ①杉文の生涯
   → http://mens-full-life.com/entame/nhk-historical-drama/fumi/

  ②吉田松陰が生きた人生概略
   → http://mens-full-life.com/entame/nhk-historical-drama/shyoin/#prettyPhoto

  ③小田村伊之助(後の楫取素彦)の生涯
   → http://mens-full-life.com/entame/nhk-historical-drama/odamura-katori/

           <感謝合掌 平成27年1月5日 頓首再拝>

萩市立 明倫小学校で学ぶ松陰の教 (2796)
日時:2015年01月13日 (火) 10時54分
名前:童子

産経ニュース 【風を読む】

   「公」のために学ぶということ 論説副委員長・沢辺隆雄

 初回の視聴率は振るわなかったというが、NHK大河ドラマ「花燃ゆ」を見ていたら、幼少期の吉田松陰が頬を打たれ、学問の厳しさを教えられる場面があった。

 別の人物が「人はなぜ学ぶのか」「この国の役にたつために学びたい」などと語る場面も目を引いた。

 同局も心を入れ替えたのだろうか。

 我田引水になるが「国」のため、「公」のために学ぶということは、戦後教育で忘れられ、あまり語られなかったことだ。

 今年は、小中高校の次期学習指導要領や、大学入試について具体的な改革作業が本格化する。 戦後70年の節目に教育の分野でも、個性重視に目が向き、軽視されがちだったものを改めて見直す機会にしたい。

 教育者は、時代を経ても守るべき基本を大切にし、変化に応じる「不易流行」を心掛けてはいる。 しかし、教育改革で掲げる理念はすばらしくても、基本がおろそかにされ、易(やす)きに流れることがあった。「ゆとり教育」も一例だ。こつこつ勉強することが大切だと分かっていても、実行するのは難しい。

 本紙教育欄の「伝統の教え」というコーナーでも紹介したことがあるが、大河ドラマにも登場する長州藩の藩校「明倫館」の歴史を受け継ぐ山口県の萩市立明倫小学校では、毎日、吉田松陰の言葉を朗唱しているという。

 同校のホームページでも紹介されている朗唱文は、学年学期ごとにあり興味深い。

 6年生3学期は、

 「天地には大徳あり君父には至恩あり / 徳に報ゆるに心をもってし恩を復(かえ)すに身をもってす / 此(こ)の日再びし難く此の生復(ふたた)びし難し / 此の事終えざれば此の身息(や)まず」

 と、天地の徳や人々の恩を踏まえ、少しの時間も無駄にせず一生懸命に、と励ますものだ。

 地域の教育をみると、国をつくり故郷を懸命に守ってきた先人の取り組みを見直し、子供たちに伝えていこうという教育の工夫がみられるようになった。そうした地道な取り組みを積極的に行ってほしい。


http://www.sankei.com/column/news/150113/clm1501130008-n1.html



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