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光明掲示板・第三

 

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《青年を祝福する》 (2779)
日時:2015年01月12日 (月) 07時16分
名前:伝統

《『二十』(はたち)》            

           *メルマガ「夢の言の葉(2015.1.12)」より

 
 十(とお」、二十(はた)、三十(みそ)、四十(よそ)、五十(いそ)、
 六十(むそ)、七十(ななそ)、八十(やそ)、九十(ここのそ)……。
 
 古くは、声に出して数える時、十の位をこのようにいいました。
 
 
 ただ、単に「二十」を数える時は、接尾語の「ち」をつけて、
 「はたち」ということが多かったようです。
 
 
 昔は、年齢以外にも、「はたち」を使ったのですが、
 今では、年齢をさす場合にだけ、この言い方が残っていますね。
 
 
 
 「二十歳(はたち)」といえば、成人式。
 
 「国民の祝日に関する法律」によると、「成人の日」は、
 「おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます日」
 となっています。
 
 
 生まれた赤ん坊を、大人にまで育てあげる……。
 
 二十年という歳月は、それほどの長さと重みを持っているということです。
 
 
 
 これは、生まれてからの二十年に限らないのかもしれません
 
 
 人が新たに築き上げたもの、再建されたもの、
 生まれ変わったつもりで歩み出した人生……。
 
 さまざまなものにとって、二十年は、大きな節目です。
 
 
 成人の日になぞらえるとすれば、多くの人に支えられて、ここまで来れたことを自覚し、
 今度は、みずからの力で、さらなる道を進んでいく時期といえるでしょう。
 
 
 感謝と責任を胸に、一人前の大人としての一歩を踏み出すのが、二十歳……。
 
 その真価を問われるのも、これからなのです。
 
・・・


《青年を祝福する》

            *「第二青年の書」より

青年よ、あなたは既に完全である、何処にも欠点はないのである。
あなたは素晴らしいのである。

なぜならあなたは神の子であり、
神の最高実現としてこの世に出現した者であるからである。

「神の子」というのは、決してあなたを現在の有様が完全無欠だということではない。
あなたが現在どのような相であろうとも、それが、たとい、どんなに不完全な相で
あろうとも、そんな事は仮の相にすぎないのである。

そんなことに捉われるな。

仮の相はウソのすがたであり、ウソのすがたは本当の相ではない、
本当の相でないものはニセモノで、そんなものはあるがように見えても無いもの
なのであるから、そんなものに捉われてはないのである。

そんなものに引っかかるな。

あなたの本当のすがたは、即ち実相(じっそう)は、霊なのだ。
霊的実在なのである。

神の子であるということは、神は「霊」であるから、あなたも霊であるということである。
あなたは物質ではなく、肉体ではなく霊なのである。

まずこの事を知らねばならない。

あなたは「れ」であって肉体や、物質ではないということがわかると、
「霊」は物質の如くには分割し得ないものであるから、

あなたは肉体は個々別々に存在する「個人」であるが如くに見えても、
それは仮りの相であって、あなたは本当は普遍的な存在であるのである。


「霊」は空間的には普遍的な存在であると同時に、時間的には永遠の存在なのである。
決してあなたは、空間的にも、時間的にも断片的な存在ではないのである。
この事をあなたはまず自覚しなければならない。


永遠者として生活せよ。
永遠の理想をあなたは失ってはならないのである。

現代ほど「永遠」というような悠久にして雄大な直観の失われている時代は
少ないのである。

外見の「敗戦」という仮の相にとらわれて、国の理想を失って、ただ断片的に
感覚の世界を追って刹那刹那を生きている人々のいかに多いことであろうか。

諸君は、そんな矮小な人間になってはならないのである。

           <感謝合掌 平成27年1月12日 頓首再拝>

私は青年が好きだ   高村光太郎 (2782)
日時:2015年01月12日 (月) 11時20分
名前:平賀玄米


    私は青年が好きだ

私は青年が好きだ。
私の好きな青年は麦のように
踏まれるほど根を張って起きあがる。
私の好きな青年は玉菜(たまさい)のように
霜にあうほどいきいきとしてまろく育つ。

私は青年が好きだ。
私の好きな青年は木曾の檜(ひのき)の柾目(まさめ)のように
まっすぐでやわらかで香りがいい。
私の好きな青年は鋼(はがね)のバネのように
しなやかでつよくて弾みがいい。

私は青年が好きだ。
私の好きな青年は朝日に輝く山のように
晴れやかできれいで天につづく
私の好きな青年は燃え上る焚火(たきび)のように
熱烈で新鮮であたりを照らす。

私は青年が好きだ。
私の好きな青年は真正面から人を見て
まともにこの世の真理をまもる。
私の好きな青年はみずみずしい愛情で
ひとりでに人生をたのしくさせる。

                   高村 光太郎


老齢に至るとも、気概だけはこの光太郎の詩の如き
青年の気概を以って生きたいものと、この詩を投稿させて頂きました。 合掌。

「むかい風を歩くんだ。」 (2784)
日時:2015年01月12日 (月) 18時12分
名前:伝統

”平賀玄米 さま”いつもありがとうございます。

素晴らしい詩を紹介していただき、まことにありがとうございます。

・・・

以下は、今日の新聞各紙に、掲載してあった広告からの紹介です。



「むかい風を歩くんだ。」

          *某ウィスキー会社(太陽と鳥の会社)の広告より

成人おめでとう。

今日からみんな大人だって? そんなはずがない。

一日で大人になれるわけがない。

どうしたら大人になれるかって?

こうだ、という答えはどこにもない。

その上、大人になるには近道もないし、特急券も売っていない。

まずは家を出て、一人で風の中に立ちなさい。
そうして風に向かって歩き出すんだ。

歩きながら自分は何者かを問いなさい。
そうすれば君がまだ何者でもないとわかる。
それでも一人で歩くことがはじまりなんだ。

上り坂と、下り坂があれば、上り坂を行くんだ。
甘い水と、苦い水があれば、苦い水を飲みなさい。
追い風と、むかい風なら、断然、むかい風を歩くんだ。

どうして辛い方を選ぶかって?

ラクな道、甘い水は君たちに何も与えてくれないし、
むかい風の中にだけ他人の辛酸の声が聞えるんだ。

真の大人というものは己だけのために生きない人だ。
誰かのためにベストをつくす人だ。
金や出世のためだけに生きない、卑しくない人だ。

品性のある人こそが、真の大人なんだ。

どうだい? 大人って大変だろう。しかしそうでもないさ。

ひと休みに一杯やれる。さあ大人にむかう君と乾杯。

大人にむかう君と乾杯。

<伊集院静>

           <感謝合掌 平成27年1月12日 頓首再拝>

《悠久・雄大・永遠なる自己を自覚せよ》  (2792)
日時:2015年01月13日 (火) 04時04分
名前:伝統

成人式の冠~《弱冠》

         *『美人の日本語』(山下景子著、幻冬舎)より

~人は生まれて十年したら、「幼」といい、学問を始める。
 二十年したら、「弱」といい、冠をつける。
 三十年したら、「壮」といい、妻を迎える。

 四十年したら、「強」といい、仕官する。
 五十年したら、「艾(かい)」といい、重要な官職につく。
 六十年したら、「耆(き)」といい、人を指揮する。

 七十年すると「老」といい、家事をその子に伝える。

 八十年以上を「老毛」といい、生まれて七年までを「悼」と
 いい、「老毛」と「悼」の者は、罪を犯しても、刑を加えない。

 百年の人を、「期」といい、ねんごろに養う
                 ~(「礼記(らいき)」)

弱冠は、ここからきた言葉で、二十歳の男子のことです。

今では実際に冠をつけることはありませんが、
大人になるということは、目に見えない冠を賜り、胸を張って
いる姿こそ、ふさわしいのではないでしょうか。

その冠には、自負や責任がちりばめられています。

・・・

《悠久・雄大・永遠なる自己を自覚せよ》  

            *「第二青年の書」より


悠久にして雄大なる存在よ。それがあなたの実相だ。
理想は上空にかかる雲ではない。
理想はあなた自身の内部にある実相である。

永遠なるもの、久遠なるもの、不滅なるもの、神なるものが、あなたの内部に宿っていて、
それが、時々刻々無限の時間を通して顕現しようとしているのであるから、

現象的に見れば理想は無限の彼方にあり、
徐々に達し得るところの希望にすぎないと見えるであろうけれども、

映画の画面が銀幕の上で徐々にに展開するかのように見えながら、それは既に一巻の
巻き収められたるフィルムの中に完成したものであるのと同じように、あなた自身のうちに、
既に永遠なるもの、滅びざるもの、完全なるもの、既に完成せる理想が宿っているのである。

あなたは目標を間違えてはならない。
外界に引きずり廻されてらならない。
外界の現象はただ映画のように内界の影にすぎないのである。


深く深く内を観よ。
あなたは既に完全なのである。
あなたは愛深いものである。

あなたは利己的存在ではない。
あなたは神の最高の自己実現である。

それがあなたの実相である。

実相を現象の彼方に投映して考えるとき、それが「理想」として実現の目標として、
遠くに懸かっている雲のように見えるにすぎないが、
それは、あなたの内に既に完成している

 ―― それをまず自覚しなければならない。

           <感謝合掌 平成27年1月13日 頓首再拝>

『限りなく青年を愛す』   谷口清超 先生 (2799)
日時:2015年01月13日 (火) 12時28分
名前:童子

 青年よ、大志を抱け。 大いなる目標をもて。 小さな目標では、大きな成果は断じて得られない。 小さな器に、大きな物を容れることが出来ないように。

 青年よ、希望を失うな。 いかなる困難があろうとも、それはあなたの敵ではない。 あなたは困難とたわむれる勇者だ。 困難はあなたをより偉大なる者へと飛躍させる友人だ。 困難を敵視するな。 困難を困難と思うな。 それは、あなたの「神性」をみがき上げてくれる砥石なのである。

 青年よ、愛を行なえ。 君達が孤独者であることは不可能だ。 それは人間性に背反する。 青年は助け合い、はげまし合い、協力し合って善をなさねばならぬように作られている。 青年は愛を練習し、愛に習熟し、正しく愛し、ものごとに感謝することを学ばなければならないのである。

 青年よ、祖国を愛し、祖先の意志に忠実であれ。 諸君は単独でこの世に生をうけたのではない。 諸君の父祖は、この国に生をうけ、この国を愛し、この国の平和のために、よろこんで死んでいった。 それはみな、諸君の幸福を願ったからだ。 諸君は、そのような祖国にめぐまれ、祖先によって与えられた尊い生命(いのち)なのである。 それ故、祖先をうやまい、その志を正しく受けつぎ、祖国を愛し、発展せしめ、大和国(だいわこく)を建設し、「理想国日本」をして世界平和の礎としなければならないのである。

 青年よ、知識をひろめよ。 智慧なき勇者であるな。 正しく愛するとは智慧をもって愛することである。 盲目的な愛ではなく、秩序をもって愛することだ。 間違った愛し方で愛してはならぬ。 それは人を傷つけ、国をそこなうばかりだ。 日本国の秩序を乱し、外国のイデオロギーを日本に強制するような間違った愛し方は断じてするな。 そのためには、何が正しく何が間違っているかをよく知らねばならぬ。

 青年よ、努力せよ。 努力することを忘れた者は、もはや青年ではない。 努力によってのみ進歩はもたらされる。 努力しないでよいように神にたよっても、神はその願いを決してききとどけては下さらぬ。 何故なら、神は“怠け者”を好み給わぬからである。 信仰者を僭称する“怠け者”になるな。 「祈り」を「努力」の代りに用いてはならない。 「祈り」は、「努力」と共にあるべきである。

 青年よ、正しく信ぜよ。 青年が信仰を忘れるとき、青年の力は失われる。 「信の力」以上の力はどこにもあり得ない。 山をも動かし、海をも断ち切るのが「信の力」である。 信ずる通りの人生が、あなたの眼前に展開するのだ。 青年よ、「神の子」を信じ、「神の国」をあらわし出せ。



 私は青年を信頼する。 青年達は決して弱々しくはない。 青年は大望をもつ。 彼らは将来の世界を担って立つだけの資格を充分そなえている。 今でこそ目標を失った数多くの青年が、その持てるエネルギーを、夏山に、オートバイに、酒やダンスにバカ騒ぎに消耗しているかも知れないが、それは決して彼らの“本心”ではないのである。 彼らは、より一層「偉大」なる目的に向って生命力を限りなく燃焼させたくてたまらないのだ。

 何故なら、青年達の血脈には、かつて荒野を切り開き、深山に分け入り、大海に小舟を漕ぎ出でて行った、吾らの父祖の血が、豊かに脈々と流れている。 彼らは、日本国を建設し、それを3千年以上独立させ、外敵より護持し来った人々の嫡流なのだ。 「眠れる獅子」であり、「偽装せる天使」であるからだ。

 だからこそ吾々は、青年達に「正しき目的」を与えなければならない。 人生の意義と、日本実相の深淵なる秘義とを、彼らに伝えないわけには行かない。 それこそが「至上命令」であり、世界救済への道である。 青年を狂乱させれば、世界を破滅に追いやるであろう。 無目的に暴発させられた原子エネルギーは、全世界を灰塵に帰する.されば原子エネルギーを物質から解放した“主人公”を、どうして野放しにして置いてよいであろうか。

 吾らには、凡ゆるエネルギーを目的に指向せしめる義務があるのだ。 人間の生存権はこの1点にかかっており、世界の存亡も亦この1点に依存する。 吾々は原子エネルギーの暴発をおそれる以上に、心的エネルギーの盲目的暴発に心しなければならない。

 まさしく心が物を左右している。 物的エネルギーは、心的エネルギーによって創造される。 心によって全世界が支配されるのである。 青年のエネルギーは実に強大だ。 それがまだ正しく方向づけられていない。 この方向づけの如何によって、人間は、悪魔ともなり、天使ともなる。 人類は今や生と死との巖頭に立つ。 20世紀は、物的エネルギーの時代であったが、来るべき21世紀は心的エネルギーの支配する時代。 その方向が現代青年達に与えられた未来であり、青年の聖使命なのである。

 而してこの聖使命完遂力は「正しき信仰」からのみ生ずる。 この正信が「人間は神の子」と「神の国・日本」の自覚である。 人間は「神の子」であるから、当然「神の国」に住むべき権利をもつ。 いや、「神の国」をあらわし出すべき義務があり「聖使命」があるのである。
    



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