光明掲示板・第三

 

本流宣言掲示板」「光明掲示板・第一」「光明掲示板・第二」「光明掲示板・伝統・第一」「光明掲示板・伝統・第二」「谷口雅春先生に帰りましょう・第一」「谷口雅春先生に帰りましょう・第二

ご投稿は「谷口雅春先生に帰りましょう・第二」へ

「光明掲示板・第三」の目的
「光明掲示板・第三」のルール
「光明掲示板・第三」の利用法
重要リンク
Página de Português/ポル語ページ
必ずお読みくださるようお願いします
Página de topo/Top page トップページ

 

 
明治天皇 (846)
日時:2014年10月06日 (月) 04時53分
名前:伝統

明治天皇のご足跡については、次のWebにて紹介して参りました。

(1)「“本流宣言”掲示板」内スレッド「明治天皇崩御100年 (10940)」
   → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=2583

(2)「光明掲示板・第一」内スレッド「明治大帝崩御100年 (286) 」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=94

(3)「光明掲示板・第二」内スレッド「明治天皇 (492)」
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=166

このスレッドは、これらの継続です。

・・・

《贅沢や甘えを許さなかった明治天皇》

     *「日本人の原点がわかる『国体』の授業」竹田恒泰・著(P62〜63)より

仁徳天皇が体現なさったのは、まさに「国民のための政府」です。
国民のための天皇であり政府であるという思想を、現在に至るまで持ち続けてきたことが、
二千年以上にわたって皇室とわが国が続いてきた理由の一つです。

明治維新という時代の変化を経てもなお、そうした考え方は皇室に受け継がれました。

明治天皇は、生涯で焼く10万首の御製(和歌)をお詠みになりました。
天皇の和歌なのだから、さぞ綺麗な和紙にしたためられていると思うでしょうが、
そうではありません。

裏紙に鉛筆で書かれた御製が数多く残っています。
しかもちびた鉛筆を好んで使っていたといいます。
いかに贅沢が嫌いであったかがわかるでしょう。

明治天皇は家族に対しても贅沢や甘えを許しませんでした。
私の曾祖母は明治天皇の娘で、さぞかし特別待遇されて育ったのではないかと思われがち
ですが、大変厳しく育てられたという話を、祖父母から聞いています。

明治時代には全国に立派な御用邸が建てれました。
天皇と皇族方は「いつでもご自由に好きなだけお使いください」という新政府の配慮
なのですが、ついに明治天皇は一度もこれらをご利用になりませんでした。

それどころか、娘が御用邸を使うことさえ一度もお許しにならなかったのです。

「娘を愛している、ゆえに遠ざける」という理由だったようです。

            <感謝合掌 平成26年10月6日 頓首再拝>

孝明天皇(父帝)から明治天皇へ (999)
日時:2014年10月12日 (日) 06時16分
名前:伝統

      *月刊「歴史街道 平成24年8月号」(P28〜32)
         〜<竹田恒泰(明治天皇の玄孫)記事>より抜粋要約

(1)嘉永五年(1852)9月22日(新暦で11月3日)
   孝明天皇の2番目の皇子が誕生。幼名を祐宮(さちのみや)と賜った。

(2)孝明天皇は生涯で2名の皇子と4名の皇女を儲けたが、6名の内5名は短命。
   祐宮(さちのみや)だけが成長した。

   しかも、先代の仁孝天皇の皇子7名の内、孝明天皇を除く他の6名の近親者も
   既にこの世を去り、次に皇位を継承できる孝明天皇の近親者は、
   やはり、祐宮(さちのみや)一人だけだった。

   このため、この一人の皇子の誕生と成長は、
   日本の歴史上極めて重要な意味を持つ事になる。

(3)祐宮(さちのみや)の生母は権典侍 中山慶子(権大納言中山忠能の次女)。

(4)男の兄弟が一人もいなかった祐宮(さちのみや)は、
   孝明天皇の期待を一身に背負いながら歩んできた。

   万延元年(1860)7月10日
   儲君(ちょくん)<皇太子に内定した地位>)になった。

   同年9月28日、9歳(満8歳)になり
   立親王宣下の義により、御名を「睦仁」と賜った。
   これにより、祐宮は「睦仁親王」として正式の皇族の一員に加えられたことになる。

   強い皇統意識を持った孝明天皇は、万感の思いでこの日を迎えたことだろう。

(5)「豪胆」で知られる明治天皇も、幼少期は、体が弱く、病気がちであった。
   『明治天皇記』の記録によると祐宮は、降誕から践祚の慶応3年(1867)までの
   15年間に17回健康を崩し、その内の2回は大病で、1回は水痘(水疱瘡)だった。

(6)孝明天皇は歴代天皇の中でも神事・仏事を大切にした一人であり、
   「天皇は祈る存在」であるということを強く認識していた。

   命を懸けて祈りを捧げる孝明天皇の姿を近くで見ていたのが祐宮で、
   後に明治天皇として宮中祭祀を最も重視していました。

(7)明治天皇は生涯において約10万首の御製を詠んだといわれる。
   明治天皇の御製のなかで、祈りに関する代表的なものを二首紹介しておきたい。

   【 とこしへに 国まもります 天地の 神のまつりを おろそかにすな 】

   【 わがくには 神のすゑなり 神まつる 昔のてぶり わするなよゆめ 】

   天皇は国民の幸せを祈る存在であるということを、
   明治天皇は幼い時に父帝の後ろ姿から確実に学んでいたのではあるまいか。

(8)そして、明治天皇のこのような気概は、
   確実に大正天皇、昭和天皇を経て、今上天皇に継承されている。

   このようにして清らかな「大御心(おおみこころ)」が
   太古の昔から連綿と継承され、現在に至ることは、
   悠久の日本の歴史において誠に尊いことなのである。

             <感謝合掌 平成26年10月12日 頓首再拝>

明治天皇 (1009)
日時:2014年10月12日 (日) 13時39分
名前:元イビウーナ道場参加者

明治天皇の教育勅語です。
素晴らしい内容です。


PRESCRITO IMPERIAL ACERCA DA EDUCAÇÃO

Eu acredito que os antepassados desta Família Imperial, ao fundar este país o fizeram com um grandioso ideal e com séria decisão de edificar um Reino de Virtude.
Acredito que o nosso povo, unindo os seus corações no cumprimento do dever da felicidade ao seu senhor e da piedade filial; tenha realizado admiráveis feitos. Isto deve-se naturalmente ao seu elevado caráter, bem como aos fundamentos da Educação.

Caros filhos da Nação, vós deveis amar e respeitar os pais; entre irmãos, ajudar-vos mutuamente; entre marido e mulher, amar-vos mutuamente; entre amigos, confiar-vos uns aos outros; impedir palavras e gestos rudes; ser caridoso com todos; empenhar-vos nos estudos; dedicar-vos nos respectivos ofícios; aumentar os conhecimentos; aprimorar a personalidade; e ainda, contribuir para o bem estar da comunidade; respeitar as leis e manter a ordem da nação e, na ocasião da crise nacional, colocar vossa lealdade e coragem à serviço da nação, preservando a paz e a segurança do Império. O cumprimento destes deveres constitui não só a obrigação natural do meu fiel povo, mas significa também exaltar ainda mais as maravilhosas tradições que os nossos antepassados cultivaram.

Tal forma de conduta é, não somente os preceitos dos antepassados da Família Imperial, como também são os princípios morais válidos independemente da época, tanto no Japão como em outros países do mundo. Portanto, eu também, juntamente com vós, o povo, levo sempre em meu peito os preceitos dos antepassados com o sincero desejo de tornar-vos todos em bons cidadãos do Japão.

30 de Outubro de 1890
Imperador Meiji

Know ye, Our subjects:

Our lmperial Ancestors have founded Our Empire on a basis broad and everlasting and have deeply and firmly implanted virtue; Our subjects ever united in loyalty and filial piety have from generation to generation illustrated the beauty thereof.

This is the glory of the fundamental character of Our Empire, and herein also lies the source of Our education. Ye, Our Subjects, be filial to your parents, affectionate to your brothers and sisters; as husbands and wives be harmonious, as friends true; bear yourselves in modesty and moderation; extend your benevolence to all; pursue learning and cultivate arts, and thereby develop intellectual faculties and perfect moral powers; furthermore advance public good and promote common interests; always respect the Constitution and observe the laws; should emergency arise, offer yourselves courageously to the State; and thus guard and maintain the prosperity of Our Imperial Throne coeval with heaven and earth. So shall ye not only be Our good and faithful subjects, but render illustrious the best traditions of your forefathers.

The Way here set forth is indeed the teaching bequeathed by Our Imperial Ancestors, to be observed. alike by Their Descendants and the subjects, infallible for all ages and true in all places.
lt is Our wish to lay it to heart in all reverence,in common with you, Our Subjects, that we may all thus attain to the same virtue.

The 30th day of the 10th month of the 23rd year of Meiji. (1890)
(Imperial Sign Manual. Imperial Seal.)

教育勅語

「私が思うには、我が皇室の先祖が国を始められたのは、はるかに遠い昔のことで、代々築かれてきた徳は深く厚いものでした。我が国民は忠義と孝行を尽くし、全国民が心を一つにして、世々にわたって立派な行いをしてきたことは、わが国のすぐれたところであり、教育の根源もまたそこにあります。

 あなたたち国民は、父母に孝行し、兄弟仲良くし、夫婦は仲むつまじく、友達とは互いに信じあい、行動は慎み深く、他人に博愛の手を差し伸べ、学問を修め、仕事を習い、それによって知能をさらに開き起こし、徳と才能を磨き上げ、進んで公共の利益や世間の務めに尽力し、いつも憲法を重んじ、法律に従いなさい。
そしてもし危急の事態が生じたら、正義心から勇気を持って公のために奉仕し、それによって永遠に続く皇室の運命を助けるようにしなさい。これらのことは、単にあなた方が忠義心あつく善良な国民であるということだけではなく、あなた方の祖先が残した良い風習を褒め称えることでもあります。
 このような道は、実にわが皇室の祖先が残された教訓であり、その子孫と国民が共に守っていかねばならぬことで、昔も今も変わらず、国の内外をも問わず、間違いのない道理です。私はあなた方国民と共にこの教えを胸中に銘記して守り、皆一致して立派な行いをしてゆくことを切に願っています。」

明治 二十三年 十月 三十日
    明治天皇の署名と印




”元イビウーナ道場参加者 さま”ありがとうございます。  (1018)
日時:2014年10月13日 (月) 04時39分
名前:伝統

”元イビウーナ道場参加者 さま”ありがとうございます。


ポルトガル語、英語、日本語による「教育勅語」を紹介してくださり、
まことにありがとうございます。

ポルトガル語、英語による「教育勅語」は、光明掲示板・第二において、
”Cruzeiro do Sul さま”により紹介がありましたことを思い出しております。

<参考> 

(1)Perscrito Imperial Meiji acerca da Educação (262)
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=100

(2)The Meiji Emperor thinking about the education. (263)
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=101


このように、諸外国からも注目されていた
「教育勅語」は古今東西にかかわらず、素晴らしいものです。


”元イビウーナ道場参加者 さま”のご投稿をいただきましたこともあり、
この掲示板でも、別のスレッド(おそらく「教育勅語渙発124周年」)にて、
「教育勅語」に関する情報を集めてまいりたいと考えております。

重ねて、”元イビウーナ道場参加者 さま”に感謝申し上げます。

(合掌・再拝)


伝統様、  (1063)
日時:2014年10月14日 (火) 10時31分
名前:元イビウーナ道場参加者

私は日本の歴史は良く知りませんが、教育勅語一ページあれば、たくさんの法律などいらないくらい明らかになっていると存じます。
それを守っていくことにより、本当に素晴らしい社会が出来ると感じがします。

昔ブラジルにこられた日本人は、寝るときは、足を東の方に向けて寝てはいけないと教えていました。
何故なら、天皇の居られる方向だからと教わりました。
伝統様も、色々と記事の投稿、ありがとうございます。

徹底していた明治天皇の戦争嫌い (1261)
日時:2014年10月23日 (木) 04時33分
名前:伝統

     *「日本人の原点がわかる『国体』の授業」竹田恒泰・著(P63〜65)より

日露戦争の開戦前のこと、情勢緊迫でいよいよ国交断絶やむなしとなり、
御前会議が繰り返されるなか、食事も喉を通らなくなった明治天皇は、
食を3分の1に減ぜられたそうです。

そして内閣と統帥部が対ロシア開戦を決定したときも、明治天皇は「戦争を回避する
方法は本当にないのか」と、ご下問になりました。
重臣たちは1回下がって、もう一度ゼロから戦争回避の方法がないかを再検討しました。

それでも結論は変わりません。やはり開戦しかないと、明治天皇の裁可を仰ぎます。
そこで「ロシアとの国交断絶(=開戦)を裁可する」と明治天皇はおっしゃるのですが、
その日はついに米一粒もお召し上がりにならなかったそうです。

国交断絶が裁可されてからというもの、明治天皇は暖炉をお使いになりませんでした。
「わが身は戦地の将兵たちとともにある」からです。

日清戦争のときもそうでした。
日清戦争が始まって大本営の広島移動に伴って、明治天皇も広島にお移りになります。
天皇が大元帥として都を離れ地方に出征なさったのは、
斉明天皇以来千二百年ぶりのことでした。

天皇の居所ですからそれなりに立派なものが計画されましたが、
「立派なものは一切不要である」と、
寝室と執務室を分けることすらお許しになりませんでした。

ひとつの部屋で寝起きし、
あさになったら布団を片付けて机で執務をお執りになったのです。

見かねた将校が「部屋が殺風景だから壁に絵を一枚かけさせて頂けないでしょうか」と
お伺いを立てると、「戦場の将兵たちの官舎に絵がかかっているか」と
御下問があったといいます。

「いえ、かかっておりません」。その返答に対して
「ばか者! 絵を見ながら安逸の時を過ごしている場合ではない」
というような一喝があったそうです。


また別の将校が「せめてお休みになれるソファを1台入れさせてもらえないでしょうか」
と申し上げたところ、同じように「戦地の将兵たちがソファを使っているか」と問い、
「それはないと思います」「ばか者! 」とやはり一喝。

つねに戦場の兵士たちとともにあることを徹底なさいました。


日露戦争のとき、「緊急のことがあれば、いつでも上奏せよ」という御下命に従い、
伊藤博文が明治天皇の昼食時に緊急の案件を奏上したときの話です。

ちらっと横目で陛下が召し上がっているものを見てしまった。
なんと、好物も付け合せも何もない、ただの米を梅干し一粒でお召しあがりになって
いらっしゃったというのです。

それも「自分は質素な食事をしている」と見せるためではありません。

将兵たちが天皇陛下の食事を目にする機会などありませんから、誰もみていなくとも、
自分が戦場に行けない悔しさを噛みしめながら、将兵たちのことだけを考えて、
日々過ごしておいでだったことがよくわかります。

軍の大元帥であれば、連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を撃破したとか、
二百三高地を落としたなどの勝利報告を聞いて「よくやった。万歳! 」となるのが
当然の反応だと思います。

ところが、明治天皇はどんなに華々しい戦果が伝えられても、
表情一つ変えなかったといいます。
華々しい戦果の裏には、おびただしい数の死傷者が出ていることをご存じだからです。

わがほうの兵隊も死んでいるだろうし、敵のロシアや清の軍人も大勢亡くなっている。
戦場の悲惨な事実を知っているので、とても喜ぶ気にはなれなかったのでしょう。

天皇にとっては、勝敗の結果よりも、
戦争状態にあること自体が、すでに好ましからざる事態なのです。

            <感謝合掌 平成26年10月23日 頓首再拝>

教育勅語について (1306)
日時:2014年10月25日 (土) 23時48分
名前:マリーゴールド

伝統様

毎日、伝統様の謹写下さる真理のお言葉や、数々の貴重な文献の御紹介ありがとうございます。とても、勉強になり有難いです。ありがとうございます。

ところで、白駒妃登美さま(博多の歴女)の方のブログより教育勅語に関し、よき情報を得ましたので、御紹介まであげさせて戴きます。以前、学ぶ誌にも掲載されておられた方です。

既に、伝統様がアップなされておられたら、申し訳ございません。

以下の明治神宮のホームページですが、教育勅語の書写があるそうです。
希望される方には、送付して下さるそうです。

http://meijijingu.or.jp/kyouikuchokugo/pc/index.html#05


《君子はよく時中す》 (1312)
日時:2014年10月26日 (日) 04時58分
名前:伝統

”マリーゴールド さま” ありがとうぎざいます。

>白駒妃登美さま(博多の歴女)の方のブログより教育勅語に関し、
>よき情報を得ましたので、御紹介まであげさせて戴きます。

御紹介いただき、まことにありがとうございます。
白駒妃登美さまは有名な方ですね。
以前この方の著書を読んだ記憶があります。

教育勅語については、
上の記事「明治天皇 (1009”)元イビウーナ道場参加者さま”」でも紹介があり、
さらに今回、”マリーゴールド さま”の紹介をいただきました。

そのこともあり、教育勅語に関する話題を、このスレッドでも触れながら、
別の新たなスレッドにても、紹介してまいりたいと思っております。

・・・

《君子はよく時中す》

         *「致知」2014年1月号(P9)より

 東洋古典の名著『中庸』にある言葉である。
 原文は「君子而時中」。

 安岡正篤師によれば、
 「而」は「して」と普通は読むが、
 明代の大学者 兪曲園(ゆきょくえん)は
 これを「能(よく)」と読むべきと注釈している、という。

 さらに、「中」には相対立しているものを
 統一(相結ぶ)して一段高いところへ進めるという
 意味と同時に「あたる」という意味がある、

 と説明している(『洗心講座』)。


 立派なリーダーはその時その場に
 ふさわしい手を打ち、あらゆる矛盾、相剋を克服して
 どこまでも進歩向上していく。

 これが「君子、時中す」の意味である。


 「時中」はリーダーに求められる もっとも重要な資質と言える。

 その意味で忘れられない人がいる。
 明治天皇である。

 明治天皇は明治19年10月29日、
 東京帝国大学に行幸、授業をつぶさに見学された。

 皇居に戻られたのち、
 侍講・元田永孚(もとだながざね)を召されて
 次のように仰(おお)せられたという。

「朕(ちん)過日大学に臨す。
 設ける所の学科を巡視するに、
 理科・化科・植物科・医科・法科等は
 益々その進歩を見る可(べ)しと雖(いえど)も、

 主本とする修身の学科に於(おい)ては
 曾(かつ)て見る所無し」


 先日大学の授業を巡視したが、
 理科や医科などは目覚ましく
 進歩しているけれども、
 もっとも大事にしなければならない
 修身の学科はこれといったものが見られない、
 と憂慮されたのである。

(中略)

 大学は日本教育の最高学府、
 優れた人材を育成する所であるが、
 いまのような学科を教えているだけでは、
 専門に優れた人材は育つだろうが、
 国家の相となるようなリーダーを
 得ることはできない―

 明治天皇の慨嘆が
 直接聞こえてきそうな『聖喩記(せいゆき)』の一文である。


 明治に入り、西洋の文明が怒濤のように押し寄せ、
 その技術文明に遅れてはならじと
 日本国中が浮き足立っていた。

 例えば、初代文部大臣の森有礼は、
 日本語を廃し英語を国語にしようとしていた、
 という事実もある。


 そのような時に一人、
 明治天皇だけは時流に流されず、
 いま何をすべきか、
 何が重要かを知悉(ちしつ)していた、

 すなわち時中していたことを、
 この一文から窺うことができる。

 東京帝国大学の授業が
 どう改変されたかは知らないが、


 明治天皇のこの思いを広く国民に及ぼすべく、
 元田永孚が井上毅と協力、
 明治23年10月30日
「教育に関する勅語」を発布、
 これが永く日本国民の精神的規範となったことは、
 周知するところである。

            <感謝合掌 平成26年10月26日 頓首再拝>

明治節 (1462)
日時:2014年11月03日 (月) 06時25分
名前:伝統

今日は明治節。

明治時代の天長節は、昭和になって「明治節」となり明治天皇の遺徳を称えた。
現在の文化の日である。


《明治節唱歌 昭和3年》

作詞 塩沢周安  作曲 杉江修一

一、亜細亜の東日出づる処 聖の君の現れまして
  古き天地とざせる霧を 大御光に隈なくはらい
  教あまねく道明らけく 治めたまえる御代尊

二、恵の波は八洲に余り 御稜威の風は海原越えて
  神の依させる御業を弘め 民の栄行く力を展ばし
  外つ国国の史にも著く 留めたまえる御名畏

三、秋の空すみ菊の香高き 今日のよき日を皆ことほぎて
  定めましける御憲を崇め 諭しましける詔勅を守り
  代代木の森の代代長えに 仰ぎまつらん大帝


you tube
→ https://www.youtube.com/watch?v=EHrdFZZIN50


・・・

《明治節、清明心の日》

          *「光明道中記」(11月3日)より


   【さしのぼる朝日のごとくさわやかにもたまほしきは心なりけり】


明治天皇のこの御製を拝誦し奉る毎に 
朝日の如き無我の心境が思われるのである。

何故(なにゆえ)朝日はあんなにさわやかなのだろうか。

それは新たに生まれたからである。
手垢がついていないからである。

心に手垢がついていないと云うことが、
こんなにも清明(さわやか)な姿を顕わしめるのである。

太陽には我はない。そのままである。従順である。
さしのぼる時がきたとき差しのぼり、沈むときには沈んで悲しむと云うことがない。
落日を悲しいと見る者は見る人の心の反影に過ぎない。

烈々と照っても功を誇らず、常に跡をのこすことを求めず、来って驕(おご)らず、
去って悲しむと云うことがないのである。

而も一切衆生として、一物(もつ)として、その恩恵を受けないものはない。

まことに広大無辺なる姿である。

吾々の 《いのち》 は太陽より来る。
吾等太陽の如く生きんかな。
吾等は太陽の子だ。清明心の子だ。

どんな時にも光のみを見るのが日本人である。

よろこべ、勇み、楽しみ、潔(きよ)く前進せよ。

            <感謝合掌 平成26年11月3日 頓首再拝>

教育勅語の渙発 (1671)
日時:2014年11月13日 (木) 04時31分
名前:伝統

     *「日本人の原点がわかる『国体』の授業」竹田恒泰・著(P104〜109)より

《「教育勅語」というカンフル剤》


意外なことに明治十年代もまた、教育が荒廃していました。
今の日本の状況とまったく同じだと思います。

私たちから見れば明治は良い時代だったと思いますが、
今の教育で国家観を持つ政治家を育てることができるのか、
このままでは国が滅びると明治天皇がお嘆きになったことがあります。

そこで当時の日本は、教育にカンフル剤を打って建て直しを図りました。
明治20年(1890年)に『教育勅語』が渙発(かんぱつ)され、
そこから日本の教育が正道に立ち返りました。

明治維新には2つの目的がありました。
一つは文明開化で、外国のものを旺盛に取り入れることです。
もうひとつは、神武建国の精神に立ち返ることです。

その狭間で、明治天皇は大変お悩みになったということです。
開花ばかり進んで、「よきものを残す」ことが忘れられてしまいました。


《天皇は偉いが国民も偉かった》


『教育勅語』は天皇が語りかける形式を取っていて、
まず国体を語るところから始まります。

   「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニコヲ樹ツルコト深厚ナリ」

天皇は祖先(皇祖)は太古の昔に国を初め、徳に満ちた素晴らしい国をつくった。
この「徳」を立てたことが偉大である、という記述です。

さらにすごいのは、ただ天皇を絶賛するだけではないのです。
明治天皇はこのように語っておいでです。


   「我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ
   我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス」


「臣民」すなわち国民が「心ヲ一ニシテ」
天皇の治世を支えてきたことの偉大さを讃えています。

天皇は偉いが、国民もまた偉かった、ということです。
わが国が二千年以上も続いてきたのは「国民が支えてきたから」という
意味も込められているように思います。

こんな教育方針を明示した国が、ほかの国にあったでしょうか。

また、国民一人ひとりがいかに身を立てたらよいかについて、


   「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ」


とあります。
まず父母に親孝行して兄弟と仲良くし、夫婦は互いに協力して、
友達とは信じ合える関係を築きなさないといいます。

次に、具体的には学問を修め、仕事を身に付けることを説きます。


   「學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シコ器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ
   常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」


知性を高め、徳のある人間になり、そうやって積み上げてきたものを、
世のため人のために使うこと、憲法を守り、法律を守り、非常時の危機に際しては
国を守ることが記されています。


《一緒にこの道を進んでいく》


さらに、以下のように勅語の目的が記されています。


   「是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス
   又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン」


これらの美徳を励行するのは、
ただ天皇のためではなく、あなたたち自身のためである、というのです。

あなたたちの先祖がよき伝統を残してきたから今の日本があるのであって、
あなたたちがこの勅語を実行するのは、あなたたちの祖先の遺訓を顕彰することに
なり、ご先祖様も喜ぶとおっしゃるのです。

そして、何よりも大事なのが次の箇所です。


   「朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其コヲ一ニセンコトヲ庶幾フ」


天皇自らこれらを実行するから、国民も一緒にこの道を進んでいくことを願っている、
と書いてあります。

これは本当に素晴らしいことです。

「君」が「民」にこうしろと命ずるのではなく、天皇自ら実践するから、皆さんも
これを実践してみませんか、と語りかけているのです。

もし現代の1億2000万人がこの言葉どおりに実行すれば、どうなるでしょうか。

日本は世界一素晴らしい国になるはずです。

            <感謝合掌 平成26年11月13日 頓首再拝>

伝統様、有難うございます。 (1691)
日時:2014年11月14日 (金) 10時42分
名前:Cruzeiro do Sul

詳細なご説明を読ませていただき、有難うございました。
この教育勅語を、日本人だけではなく、世界中の方々が読み、理解して、実行すれば、凄い事だと確信しています。
どこかの教団見たいに、世界平和の事ばかり言うて、実際は自分の国も愛していないような事はまず無かろうと思います。

生長の家の真理の教えはまさに素晴らしい教えであります、そして教育勅語も本当に親から子供に教えているような感じがします。将来にこのような事を守り、広めていく必要が有り、重要だと思います。



名前
メールアドレス
スレッド名
本文
ファイル
URL
削除キー 項目の保存


Number
Pass
SYSTEM BY せっかく掲示板