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光明掲示板・第三

 

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神癒 (1176)
日時:2014年10月18日 (土) 04時29分
名前:伝統

光明掲示板・第二「神癒への原理 (10739)」の継続です。
 → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2065

       *「人生は心で支配せよ」(P16〜17)より

吾等は、吾々自身が自力で思い煩うことなくして、
宇宙精神の創造力に委せ切って
自分の欲する事物をほしいままに得ることが出来るのである。

吾らは創造力を自分で造るのではない。
大生命に委せ切って宇宙の創造力に働いて頂くのである。

吾らの委せ切りの心が深まれば深まるほど、その程度に従って
宇宙の自浄力(いやすちから)が吾らのために無限にはたらいてくれるのである。

すべて癒す力は宇宙の自浄力であるから、神聖である。

「それは求むるに従って与えて下さるのである」。
それは賜(たまもの)であって、自己の力がなすのではない。

人の心は自分の欲するものの想念を描く、
すると聖なる力がそこに顕現し、描かれた事物を創造してくれるのである。

この場合人は決して本源ではない。
宇宙の力を通す管(くだ)である。
光ではない、窓である。電源ではない、線である。

それゆえ、実相哲学の聖癒力は ―― 人は神の子であり、既に完全であるのだが、
その肉体及びその運命は心に描かれた通りに顕れるのだ ――
という法則から抽(ひ)き出される。

心は神の子なる「人間」の像(すがた)を描くとき運命をきずきあげ、
反対に罪の子なる「人間」の像を描くとき自己の運命を打催(うちくだ)く。

しかして現象世界を創造(つく)り出す力は想念(コトバ)によってその行く道を定められる。

イエスは最大なる哲学者であったと言うべきである。
何故なら彼は権威ある言葉(コトバ)を人の心に実に積極的に与え得た ――

かれが「起きよ、しかして寝床をあげよ」と言えば、
全身不随の病者がたちまちその命(めい)に従った。

彼は神の子なる人間の完全なる実相(ほんとうのすがた)のみを見て、
それをこころに描いたのである。そして十余年間不随の病人の像を心に描かなかったから
この奇蹟を生じたのである。

         <感謝合掌 平成26年10月18日 頓首再拝>

奇蹟を生ずる原動力 (1333)
日時:2014年10月28日 (火) 04時35分
名前:伝統

           * 『白鳩』誌(S.23年6月号<巻頭言>)より

『ただ有り難い』と念ずることが生長の家の坐禅であり、念仏であります。
坐禅しておるときだけが坐禅ではない、神想観するときだけが神想観ではない。

仏の自分であり、仏の世界であると、わからせて頂いて、
ただ有り難くなって、『ただ有り難い』と感謝しているとき、
行住坐臥其処に仏が動いているのであります。

坐禅する時だけが仏であって、坐禅を止めたら仏でなくなってしまうのだったら、
我々は仕事をしていることも出来ず、坐ってばかりいなければなりません。

『祇管打坐』と云うのは坐っていても、立っていても、寝ていても、
仏のいのちが坐っていると知ることであります。

我々のすべての生活は、物質の生活にあらず、肉体の生活にあらず、
『我常に此処にありて説法す』と云われた釈迦無尼仏の生活でなければならないのであります。


『久遠の我』が此処に生きているのである。
何と云う有り難いことであろうと知って、念々『有り難うございます』と
感謝出来るのが、新たなる自己の発見であり、キリストの復活であります。

十字架とは『今此処』にあります。
旧我の磔殺と新我の肯定であります。
それが×(クロス)と+(プラス)との同時存在であるところの十字架であります。

この『十字架』を背負って、我らはキリストと偕に歩めば、これが本当の洗礼であります。
ヨハネの洗礼は『水でバプテスマを施す』のでありましたが、
キリストの洗礼は『我れは霊にて洗礼を施す』と仰せられました。

それにも拘らず、水ばかりで洗礼を受けてクリスチャンになったと思っている人も
ありますが、それでは真の復活はありませぬ。
ですから今までの教会キリスト教では奇蹟があまり出て来ないのです。

霊(みたま)によって、自覚によって洗礼を受けなければならない。
自分と『生命』との結びが出来なければならない。

ところが生長の家では何故奇蹟が起るかと云うと、
霊(みたま)によって洗礼を受け、自分の内にキリストが蘇りたまうことを知り、
『我往きて汝等に来るなり』とヨハネ伝でイエスが言いたまうた『内在のキリスト』を
自己の内に自覚し、その『内在のキリスト』こそ真の自分であると知り、

罪の自分が解放されますから、ただ『有りがたい』と称名するだけで
奇跡的な功徳があらわれて来るのであります。

http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/24357934.html
    
         <感謝合掌 平成26年10月28日 頓首再拝>

神癒について (1627)
日時:2014年11月11日 (火) 04時41分
名前:伝統

        * 『白鳩』誌(S.23年4月号)徳久克己 医博

神想観をする前と、神想観をした後では、すっかり人相の変わった相手を発見することがある。

神の生命の虚の人に、神想観を通じて神の息吹が流れ入ると、
瞬間にして病気が消えて明るい神の生命が顕現してくるのである。

   「病とは神の生命の顕現していない姿である」

と云うことを、生命の世界で知らして戴く。

   「病がない」

と云う事を、少し判らして戴いて、神の世界が一層広くひろがったように感じる。

 
生命の實相を条件つきでなく、全面的に信じられるようになった私は幸福である。

   「谷口先生が云われるのだから間違いはない」

今の私は、ただこの喜びに包まれている。

 
神癒と云うと、何か悪いものがあって、それを神の力で修理してなおした。
と云うように感じるが、そうではなく、神の生命があらわれて、
生き生きとした「神の生きる力」が、流れ入ることである。

空気の抜けたゴムマリに、空気を入れるよりも、もっともっと力強く入るもので、
光に満ちあふれたようになる姿である。

   「病はない、神の生命のみあるのだ」

http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/22959707.html

         <感謝合掌 平成26年11月11日 頓首再拝>

奇蹟を生ずる原動力 (1917)
日時:2014年11月23日 (日) 03時41分
名前:伝統


           *『白鳩』誌(昭和23年6月号)より

『ただ有り難い』と念ずることが生長の家の坐禅であり、念仏であります。

坐禅しているときだけが坐禅ではない、神想観するときだけが神想観ではない。
佛の自分であり、佛の世界であると、わからせて頂いて、ただ有り難くなって、
『ただ有り難い』 と感謝しているとき、行住坐臥其処に佛が動いているのであります。

坐禅する時だけ佛であって、坐禅をやめたら佛でなくなってしまうのだったら、
我々は仕事をしていることも出来ず、坐ってばかりいなければなりません。 

『祇管打坐』 と云うのは坐っていても立っていても寝ていても、
佛のいのちが坐っていると知ることであります。

我々のすべての生活は、物質の生活にあらず、肉体の生活にあらず、 
『我、常に此にありて説法す』 と云われた釈迦牟尼佛の生活でなければならないのであります。

『久遠の我』 が此処に生きているのである。

何と云う有り難いことであろうと知って、念々 『有り難うございます』 
と感謝出来るのが、新たなる自己の発見であり、キリストの復活であります。


十字架とは 『今此処』 にあります。旧我の磔殺と新我の肯定であります。
それが×(クロス)と+(プラス)との同時存在であるところの十字架であります。 
この 『十字架』 を背負って、我らはキリストと偕に歩めば、これが本当の洗礼であります。

ヨハネの洗礼は 『水でバプテスマを施す』 のでありましたが、
キリストの洗礼は 『我れは霊にて洗礼を施す』 と仰せられました。

それにも拘らず、水ばかりで洗礼を受けてクリスチャンになったと思っている人もありますが、
それでは真の復活はありませぬ。 
ですから今までの教会キリスト教では奇蹟があまり出て来ないのです。

霊(みたま)によって、自覚によって洗礼を受けなければならない。 
自分と 『生命』 との結びが出来なければならない。 

ところが生長の家では何故奇蹟が起るかと云うと、
霊によって洗礼を受け、自分の内にキリストが蘇りたまうことを知り、 
『我往きて汝等に来るなり』 とヨハネ伝でイエスが言いたもうた 

『内在のキリスト』 を自己の内に自覚し、その 『内在のキリスト』 こそ
真の自分であると知り、罪の自分が解放されますから、
ただ 『有りがたい』 と称名するだけで奇蹟的な功徳があらわれて来るのであります。

         (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/17810964.html

         <感謝合掌 平成26年11月23日 頓首再拝>

神癒とは何であるか (2100)
日時:2014年12月03日 (水) 04時02分
名前:伝統

          *「人間無病の原理」(P236〜237)より

神癒というのは単に自分自身の「精神の転換」又は心の持ち方の一変によって
病気が快癒する以上に、霊界又は神界から霊力的な援助によって治ることを
いうのであります。

どの宗教でも時々そのような事は起こるのでありますが、霊界又は神界からの
援助といっても、神も霊も物質ではありませんから、物質的な手術とか霊薬とか
いうようなものを神や霊から授かって治るのではなく、

霊的波動の感応によって治るのですから、これはラジオの放送の感受と同じように、
こちらの感度の良さということが関係して来るのであります。

神霊の霊的波動に感応するような心の状態になった人が、神霊に対して感度のよい
という訳で、そう云う感度の良い心の状態になるために神想観をしたり、
『生命の實相』を読誦したりして、真理を知るのであります。

練成道場での「献労」と「笑い」「生長の家の本を読む」「甘露の法雨の読誦」、
「神想観の実修」、これらは皆、自分の利欲に捉われず、明るい心持になり、
心が浄(きよ)まり、神霊に対して波長が合いやすくなる行事であります。

         <感謝合掌 平成26年12月3日 頓首再拝>

神への無条件降伏により病は消滅する (2325)
日時:2014年12月14日 (日) 06時08分
名前:伝統

             *『人間無病の原理』(P8〜9)より

すべての癒す力は自己に宿る「生命」から来るのであり、他から来るのではない。
他に頼るものは自己を視(み)ないものである。

生命は自己に宿る神であり霊であり、物質ではないのである。
生命はその主観的道具として霊智心を、知性を、感情を、想念を、本能を使用し、
客観的道具として肉体を使用するが、その道具には色々の分限があるのである。

それらのものは道具として或る働きを有するが「生命」がそれに働く力を与えないときには
それは何の働きをもあらわすことが出来ない。それは主人公から食物を与えられないで
餓死しているシェパードのようなものである。

然し「生命」がそれに動く力を与えている限りは、これらの肉体やシェパードのような
主人公(生命)と独立した働きをあらわすことが出来る。

しかしこれらの「道具」であるところの肉体や想念が、みずからの独立性のゆえに、
主人公(神又は生命)を忘れ、みずからを主人公の意識に反して動き出すことがある
のであります。

キリストが放蕩息子の譬え話をもってしたのは主人公を忘れ、自分の我で
勝手なことを想念するこれらの「道具」のことを述べたのである。

道具が主人公の指導のもとに働かないで勝手気儘でいる限りは、自滅するほかはない。
それが病気である。

すべての道具であるところの「心」及び肉体は主人公(神の心、実相心)
の前に無条件降伏しなければならない。
絶対無条件に神の前にひれ伏してしまうとき病気は治る。

すべての病気は神の前に無条件に降伏し、神の統治が完全に行なわれるようになったとき
自然に消滅するのである。それ以外に真に病気を根治する道はないのである。

         <感謝合掌 平成26年12月14日 頓首再拝>

「永遠不死の自己」の再発見で病は消える (2484)
日時:2014年12月24日 (水) 04時10分
名前:伝統

             *『人間無病の原理』(P11)より

キリストは「我を信ずるものは永遠(とこしえ)に死なず」と云ったのである。
これは、「自覚されたる我」すなわち「内在神性」の無限性を信ずる者は永遠に
死なないと云う意味である。

宗教の目的とするところは、やがて死ぬ肉体を一時的のみに癒やすと云うことではない。
「永遠不死の自己」を再発見せしめることであらねばならない。
この「永遠不死の自己」の再発見に伴う付随現象として、肉体の病気も治るのである。

キリストは「汝の生命(いのち)に就いて思い煩うこと勿れ」と教えているのである。
「肉体のことについて思い煩うな。」「何を食(くら)い、何を飲まんと思い煩う勿れ」
これが宗教であらねばならない。

「地上の生命(いのち)のことについて思い煩うな。」
このイエスの教をそのままに受容れたとき、念が解放されるのである。
「念の凝り固まり」によって起っていた病気が消える。

治そうと云う心さえも放ち去って心が自由自在になったとき病気が《ない》のである。

         <感謝合掌 平成26年12月24日 頓首再拝>

われわれの内部に無限の電源が (2666)
日時:2015年01月04日 (日) 05時04分
名前:伝統

            *「あなたは必ず救われる」藤原敏之・著(P55〜58)より


生長の家の救いの根元となるところが、この第3頁で明らかにされているのであります。
総説「七つの光明宣言」の解説に、次のようにお示し頂いております。

「生命の実相の自性円満(そのままえんまんなこと)を自覚すれば、
大生命の癒力(なおすちから)が働いてメタフィジカル・ヒーリング(神癒)となります」

このことだけでも本当に解れば、
如何なる難病も奇病もたちどころに癒やされることになるのであります。

何故かといいますと、神癒の起る根本が明らかになるからであります。

生命の実相とは、本当の人間が何であるかということであります。

今迄本当の人間は肉体であると思い込んでいたのが、そうではない。
人間とは肉体ではなく、肉体以前の人間、肉体さえも造り、この肉体を使って生活し、
肉体を生かしている不思議なもの、すなわち、それは目に見えない生命である。

何を食べてもチャンと消化し、真赤な血にかえる働き、
世界中の学者や技術者が集っても一滴の血液さえも製造することが出来ないのに、
自分の内に宿る生命の働き(生理作用)は、それが出来るのであります。

その働きの根元となっている智慧と力とを兼ね備えた霊妙なる働き手のことを、
生長の家では「生命の実相」と教えられているのであります。

したがって、その創造主であり、現在もなお不思議な働きをもって、
食べたものの消化から、分類する働き、続いて栄養分の吸収から、
その吸収せられた栄養を赤い血に変える働き、そのまた赤い血を黒い髪の毛に変え、
肉に変え、骨に変え、皮膚に変え、あらゆるものに変える働き、

このことを一般では新陳代謝といいますが、この否定することの出来ない何ものかを、
私達は人間なるものの本体であると観て、これを生命の実相というのであります。

ですから、それ自体完全なものであることに、
一点の疑いも持つことが出来ないのであります。

そのことが「生命の実相の自性円満(そのままでえんまんなこと)を自覚すれば……」
とお示し頂いているところであります。

ここで特に注目しなければならないことは、自性円満とお書き頂いて、
振り仮名は「そのままでえんまんなこと」と書いてあることであります。

一般の人の考えでは「人間はもともと安全なものではない、病気もするのが人間である、
ろくでない事ばかりするのが人間である」と、ちょっと思ったくらいではなく、
大変長い間思い込んで来たのでありますから、どうにも救いようがないことになっている
わけであります。


この丸きり反対の自覚に立っているのでありますから、
大生命の癒す力が失われているのが当然であります。

ちょうど電源から離れた電燈のようなものであり、
スイッチを切った電熱器のようなものであります。

どんなに優秀に見える電球でも電熱器でも、肝腎の電源と切り離されていては、
何の働きも現れず、電燈は暗くなり、電熱器は冷たくなるより仕方ないのであります。

発電所には何万`、何十万`という電力が発電されておりますから、
大きな電球さえつけたら、どんな光でも表すことが出来、ナイターといって、
夜でも野球が出来る程に明るくすることが出来るでありましょう。

つまり、わが内に無限なる神の生命があり、それが本当の私であると自覚することは
30ワットか60ワットの電球をつけて、暗い暗いと思っていたのが、

電力は無限にあると分り、何百ワットの電球に取り換えると、
とたんに明るくなるのと同じであります。

自分の中に、完全な生命を自覚することが宇宙さえも創造し、
かくあらしめているところの大生命に繋がることなのであります。

大生命の働きは無限であり、絶対力でありますから、
そこから無限の力が与えられるから、どんな質(たち)の悪い病気でも
癒やされないということはないのであります。

このことを神癒が現れるというのであります。

メタとは「超越」するという意味であり、フィジカルとは「物質的」という意味であり、
ヒーリングという言葉は「癒すこと、治すこと」を意味すると示されております。

「物質的な方法によらず、実相円満の自覚によって、大生命のお力を呼び起して、
我々の不幸を癒して頂く方法であります」とあり、

ここにも救いの根本が自覚によるものであるとお教え頂きます。

大抵の人は、人間は生身(なまみ)であり、四百四病の入れものであり、
病気はあるものだという観念が、心の中を占領し先入観となっており、
他の意見等絶対に受けようとしないのでありますが、

この間違った観念を征伐し、追い払って、人間は神の生命そのものであり、
肉体は神様の住いとしてのお社(やしろ)であるという信念が入れ替わって
入って来たとき、どんな難病でも立ちどころに消えるのであります。

         <感謝合掌 平成27年1月4日 頓首再拝>

住吉大神の霊気身に受け (2790)
日時:2015年01月13日 (火) 03時49分
名前:伝統

           *『生長の家』誌  昭和56年11月号 より
            〜生長の家総本山練成部 本部講師  小 林 春 恵

今から6年前、私は急に視力が減退し始めてまいりました。 
老眼の度を調べて見ようと思い、近所の眼科医を訪ねて見ました。 

そこで診断の結果、「これはいくら眼鏡を取り変えても仕方がない。 
糖尿病のために視力が衰えているのですから」 と、医師から言われ、
手術をするほか方法のないことを知らされました。

私はどうしても治したい一心で、それから2年後、遂に両眼の手術を受けました。 
そのお蔭で、両眼の失明もまぬがれ、眼鏡さえかければ、列車の時刻表の
小さな活字さえも読むことが出来るほどに回復して、今日まで来られました。 

糖尿病は運動不足から起ると聞かされ、自分でも全く、
運動不足によるものだと思いこんでおりました。

昨年、山形から「団体参拝練成会」で、住吉大神様に参拝に詣りました時に、 
“今年3月で山形県の教化部長のお役が終れば、総本山の長期練成を受けさせて頂き、
住吉大神様のもとで献労にはげみながら、糖尿病を消して頂こう” 
と心ひとかに決めておりました。 

御世話になった医師からも、常々、
「眼の手術は手落ちなくやってあげたのですから、後は体の方を大切にして下さいよ」

と、言われていたものですから、 
“この寿命の続く限り、神様のお使いをさせて頂くからには、盲人にならないように、
天地一切の万物に感謝をしながら、人類光明化運動に邁進させて頂こう。 

それには総本山に御世話になることが一番いいことだ” と思っておりましたら、
御本部から総本山に勤めさせて下さるという有難いお言葉を頂きました。

念願が叶い、感謝の気持いっぱいで総本山にまいりました。

総本山練成部での楽しい道場生活が始まりますと、早速、若い人々に交って、
献労に参加させて頂けることになりました。

5月6日のことです。 
トラックに乗って、山林の献労に出かけましたとき、若い元気な人達に続いて、
トラックの上から林道に飛び降り、右足をひどくくじいてしまいました。

山奥ですから道場に戻るのも大変だし、周りの人々にも心配させては申し訳ないと思い、 
「なんともない、なんともない」 と、自分に言い聞かせながら、林の中に入って行き、
心の底で、「神様! 神様!」 と、御名を呼び続けながら終日献労をやり通しました。

練成道場に帰り着き、初めて皆様が気づかれて、大変心配して下さり、
看護の心得のある職員の方から、手厚い応急の処置を受けることが出来ました。

其の日は床につき、静かに体を横にしていると、別に痛みはなかったものの、
翌朝になると傷の様態に急変し、足を動かしたり、立ったりしようとすると、
まるで生身にメスをさしこまれるような烈しい痛みに襲われ、
歩行することも動くことも出来なくなりました。

私は、朝夕、宿舎から練成道場までの往復を車で送迎して頂くはめになり、
6月10日になると、近くにある病院に行き、患部にシップ療法をほどこしてもらい、
帰ってまいりました。 しかし、どうしてもよくならないのです。

18日の朝を迎えた私は、心に期するものがあり、 
「糖尿病のために傷が治らないのかも知れない、それならこんな見苦しい姿で、
いつまでも此処にいてはならない。 故郷に帰る以外ない」 と思いまして、
固い決意をして、再び病院を訪ねました。

病院でもあらゆる精密な検査を行って下さり、レントゲン検査の結果は、
骨に異常なし、血圧も正常、血液検査も異常がなければ、
尿にはいささかの糖分も含まれていない、という驚くべき結果が知らされました。 

積年の糖尿病がいつのまいか、すっかり消えていました。

“総本山の住吉大神様の霊気のお蔭で、一生盲人にならずに済む。 ああ、有難いことだ” 
と思うと、嬉し涙が止めどもなく頬を伝わって流れて来ました。 
その時の感激は言葉ではいい尽くせないものでした。

しかしながら、傷の診断の結果は、 
「あなたの足は、最低でも2週間は、正坐や神想観をすることを休まなければなりません」
と、医師から強く言い渡されて、練成道場に戻らなければなりませんでした。


住吉大神様の霊気に触れて糖尿病が癒されたことに対しては、
大神様に無上の感謝を捧げながらも、私は依然として不自由な足に悩まされていました。

25日の朝、目が覚めると床の上で、少しもよくならない足を見つめて、 
“よくこんなに痛むものだなあ” と、悲痛な思いをかみしめていました。 

なんとかして便所に立とうとしても、左足から右足に踏みかえる時の烈しい痛みを思うと、
全身が恐怖心で震えるのでした。

どうにもならない気持で、蒲団の上にお尻をついて、立ち上るのもためらいながら、
ジッと惨めな有様に堪えていました。

そんな時、ふと、私の内なる神の声から

「物質に知性なし、感覚なし!」  という言葉が、脳裡に浮んでまりました。

「物質の奥に、肉体の奥に霊妙きわまりなき存在あり! 春恵わかるか、わかるかい!」

その言葉は、さらに強く私の心を打ち震わせます。

思わず私は 「ハイ」 と、心に応えると、すっと立ち上っていました。 
痛まない!  あんなに苦しんでいたはずの激痛がない。 
坐ってみる、立ってみる、やはり痛みは感じません。

「ああ! ありがとうございます。 ありがとうございます」

言いようのない驚きと喜びをかみしめながら、蒲団の上で泣きながら
何度も言葉を繰り返していました。

18日には、2週間は動かせないと医師から宣告されていた足が、
それっきり立ち坐り自由に出来るようになりました。

まことに神癒でした。 総本山で神癒をいただいたのです。 
何人の如何なる業の現われも、住吉大神様の霊気の前には凡て消えてしまうということを、
身を以て知らされたのでございます。

総本山に来ればこその、今日の私でございます。 
私一人に与えられた悦びではなく、多くの方々に、この真理、この御教えをお伝えし、
生命ある限り住吉大神様のお使いをさせて頂く覚悟でございます。

http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/18674592.html

         <感謝合掌 平成27年1月13日 頓首再拝>



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