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光明掲示板・第三

 

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無執無縛 (1208)
日時:2014年10月20日 (月) 06時12分
名前:伝統

(このスレッドは、光明掲示板・第一「無執着 (9518)」からの継続です。
  → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1806 )


《信じて其儘たらしめよ》

           *『白鳩』誌(S.22年5月号<巻頭言>)より

人を自由に放つことが最大の美徳である。

その完全なる解放の奥には、人間性の善に対する深い信頼があるのである。 
人間性の深い信頼性の奥には、人間を創造りたまえる神への深い信頼と尊敬とがあるのである。

人間を悪であると思うものはこの意味に於て、
彼は神を信頼せず神の創造の本来の完全さを信仰せず、神の全智全能を信頼せず、
神にも欠陥あるものだと云う不敬な観念が奥底に潜んでいるのである。

一切の不幸は、神の善と愛と智慧と力との完きことを信ぜず、
その創造に欠陥あるとする漠然たる又は明瞭なる潜在意識の信念の具象化であって、
神の創造には責任はないのである。

神の創造は、今も、〈諸君が不幸に見舞われているように見えている時にも、
また病気に襲われているように見えている時にも〉 
完全円満にして、今ここに実在するのである。 

その実在に心の眼をひらかず、自己の心の仮作せる禍の雲を見、病の霜を見て、
日光の燦然と輝くごとき実相世界〈実在〉の完全なることを見ないのが、
あわれなる禍と病に悩む人である。

神を信ぜよ。 
神の創造の完きを信ぜよ。 

禍いと病いと悪しき人とは神が創造りたまいしものではないから非実在なのである。 

わが言葉を信ぜよ。 
而して神の創造の善なることを信ぜよ。 
しかしてすべての人間が神の子として善なることを信ぜよ。 

信じて人を縛ることなかれ。 
『こうあって欲しい』 と思うのも人を縛ることである。

彼を彼自身の‘そのまま’たらしむることが真の人間の解放である。 
そのままたらしめたときに、全ての人に善そのままの実相があらわれる。 

その時すべての悪は消え去り、すべての人は善となり、
禍いと病いと貧しさと憎しみとは此の世界から姿を消すであろう。 

信じて‘そのまま’たらしめよ。
‘そのまま’の時、実相あらわれる。 
『実相完全円満』である。

http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/24429940.html

            <感謝合掌 平成26年10月20日 頓首再拝>

その「怒り」と「憎しみ」と「嫉妬」を手放してみる (1365)
日時:2014年10月30日 (木) 04時27分
名前:伝統

         * 『全感謝する練習』喜楽・著(P67~69)より

なにか悩み事や問題を解決しようとするときに、一番厄介なのが”感情”の問題です。
なかでも、「怒り」や「憎しみ」「嫉妬」といった感情は、
自分の心を疲弊させ、やがて自分に跳ね返ってきます。

こうした「怒り」や「憎しみ」「嫉妬」といった感情があるとき、
まずはその感情を手放してみることが大切です。


たとえば、だれかが憎くて、その人にされたことを思い出すと悔しくて、
あなたは夜も眠れないとします。

でも、その人はきっと、あなたにしたことなど忘れて安らかに寝ているでしょう。
そう考えると、悔しくて夜も眠れないのは損だと思いませんか?


あなたが相手を嫌っているとします。
でも、あなたはそんな嫌いな相手のことを思い返し、大切な時間を相手に捧げているのです。
それってバカらしいですよね。

相手をゆるせないという気持ちはわかります。
でも、ゆるせないからといって、相手を恨み、憎んだところで問題の解決にはなりません。
それどころか、そういった「怒り」の感情は、必ず自分にも悪影響を及ぼします。
そのうえ、大切な時間まで憎しみで台無しにしていては、なにも良いことなんてないのです。

それよりも、「怒り」や「憎しみ」「嫉妬」といった感情はとにかく手放しましょう。
すぐには難しいかもしれませんが、まずは「怒っている自分」や「嫉妬している自分」を
まるで第三者になったつもりで観察してみてきださい。


また、”目線”を変えてみるのもいいでしょう。
人を真下から見たら、鼻の穴やら、尻の穴やら、汚いところが目に入ってしまいます。
でも、真上から人を見ると頭しか見えません。
自分の子どもの頭であれば、なでてあげたくなりますよね。

それと同じで、相手の汚いところ、イヤなところばかり目につくのだとしたら、
自分の目線を変えてみるのです。そうすれば、どんなにイヤな人でも「かわいそうな人だな」
というふうに気持ちが切り替わり、自分の気持ちも楽になります。


悔しさをバネにがんばるとか、決してあきらめずに最後までやり遂げることも大切です。
しかし、執着し過ぎると苦しくなります。そんなときは、一度手放してみて、
それが本当に自分にとって必要なのかを自問自答してみましょう。

《”手放す”の究極のかたちは”死”です》。
お金や地位、人間関係にどれだけ執着しても、それを死ぬときにもっているくとはできません。
最後には手放さなければならないのです。

死ぬときに、怒りや憎しみの感情に支配されていたら、その行き着く先は地獄です。
愛と感謝の気持ちがあれば、必ず天国に導かれます。

人はいつ死ぬかわかりません。
最後のときになって後悔しないためにも、「怒り」や「憎しみ」「嫉妬」といった感情は
手放し、「愛」と「感謝」の気持ちでつねに自分を満たすようにしたいものです。

            <感謝合掌 平成26年10月30日 頓首再拝>

「放下著(ほうげしゃく)」 (1611)
日時:2014年11月10日 (月) 04時32分
名前:伝統

        *メルマガ「人の心に灯をともす(2014年10月31日)」より

   (臨済宗全生庵住職、平井正修氏の心に響く言葉より…)

   同期入社の同僚が重要プロジェクトのスタッフに抜擢(ばってき)された、後輩が
   自分より早く昇進した…。

   よくある話ですが、
   当事者になったら、心穏やかではいられなくなるのではありませんか?

   妬(ねた)み、嫉(そね)み、憎しみ、といった感情が湧き上がってくる。

   また、テレビでアスリートたちを観ていて思うことがあります。
   どんな競技でも、ライバルの失敗を願う気持ちはないのだろうか?…と。

   妬み、嫉み、憎しみにしても、敵の失敗を願う気持ちにしても、
   持たないほうがいい、そんなふうに思わないほうがいいに決まっています。

   誰もそれはわかっています。
   しかし、思ってしまうのも、また、人の心の在り様なのです。

   それなのに、「思ってはいけない」と感情を抑えつけたり、
   思った自分をさもしい、後ろめたい、恥ずかしい…と感じたりします。
   その結果、心が騒ぎ、悩みや苦しみが生じるのです。

   抑えようとするのも、思った自分を気にするのも、
   そこに執着している、ということです。

   自然に湧き上がってくるのなら、思ったらいいじゃないですか。
   それは心にまかせて、あとは手放せばいい。

   水面に石を投げ込めば波紋が立ちますが、
   放っておけば波紋はしだいにおさまって、もとの静かな水面に戻ります。

   波紋を鎮めようとして手を入れたりすれば、新たな波紋ができるだけです。

   これと同じ。

   執着せずに、「まかせて、手放(てばな)す」とはそういうことです。

   「不落因果(ふらくいんが) 不昧因果(ふまいいんが)」という禅語があります。
   因果に落ちまいと考えてはいけない、因果をくらまさない(ごまかさない)ことが
   大切だ、といった意味ですが、

   思ってはいけないと考えたら、余計それにとらわれることになります。

   湧き上がる感情はごまかさないでいったん受け入れてから、
   自然のうちに手放していけばいいのです。

          <『花のように、生きる。』幻冬舎>

             ・・・

二人の若い禅僧の話がある。

あるとき、二人の禅僧が川を渡ろうと岸に来た時、
一人の若い女性が向う岸に渡れなくて困っていた。

すると見かねた一人の禅僧が、さっさと女性を背負い、向う岸に渡って下ろし、
何事もなかったようにまた歩き始めた。

その一部始終を見ていたもう一人の禅僧が、
「お前は修業中の身として、女性を背負ったりして恥ずかしくないのか」となじった。

すると、女性を助けた禅僧は、「お前はまだあの女性を背負っているのか」と答えたという。


「放下著(ほうげしゃく)」という禅語がある。
こだわりを捨ててしまえ、放り投げろということだ。

我々は、色々なものを後生大事に抱え込んでしまう。

「こだわり」「しがらみ」「嫉妬(しっと)」「妬(ねた)み」
「恨(うら)み」「怒り」「憎しみ」…。


「今泣いたカラスがもう笑う」という言葉がある。

子どもは、泣いていても、面白いことがあれば、すぐに機嫌を直して笑う。

子どもはこだわりがないから、大人のようにうじうじと前の感情を引きずらない。


子どものようなしなやかな感性を取り戻したい。

            <感謝合掌 平成26年11月10日 頓首再拝>

【寝る前の心がけ】 (1828)
日時:2014年11月20日 (木) 04時55分
名前:伝統

        *メルマガ「人の心に灯をともす(2014年11月08日)」より

   (中村将氏の心に響く言葉より…)

   僕は、これまで数多くのセミナー参加者のサポートをしてきました。

   その中で、気づいたことがあります。
   それは、悩み多き人はイヤなことを鮮明に覚えている。
   そして、成功者はソレを、覚えていないということです。


   悩み多き人は、「親にこんなふうに育てられた」
   「学生時代、友人にこんな陰口を叩かれた」「上司がこんな仕打ちをした」と、
   いつまでも過去のイヤなことを引きずっていました。


   一方、いわゆる成功者と称される人たちは、
   「ご苦労もあったんですよね? 」と尋ねられても、
   「え? 好きなことをしているうちに、ココまで来ましたよ」などと、
   過去のイヤなことを感じさせない答えが返ってくる。


   なぜこんな違いが出るのだろうといつも考えていました。

   その答えは、実は、「脳のしくみ」にあったのです。

   人間が、もし、すべての出来事を記憶してしまうと、脳はパンクしてしまいます。

   仮に、今日すれ違った人の顔や服装を全部記憶していたら、大変でしょう?
   だから、脳の中にある「海馬」という部署が、眠っている間に、
   「残しておく記憶」と「消す記憶」を整理しています。

   そう、あなたの記憶は、眠っている間に形成されているのです。

   だとしたら、毎晩、寝る前に、1日のイヤな経験を振り返ったり、
   悪かったところを反省してはいけません。

   海馬がその情報を鮮明に自覚してしまうからです。
   「イヤな気持ち」をひきずったまま寝てしまうと、
   眠っている間に「イヤな気持ち」が脳に定着してしまいます。


   寝る前に、絶対やってはいけないこと!

   それは…

   あの人に言われたイヤな言葉を思い出すこと。
   仕事で失敗した原因を考えること。
   テレビ番組で悲しいニュースを見ること。

   人にしちゃった悪いことを思い出すこと。
   起こるどうかわかなり将来の出来事を心配すること。
   反省すること。


   寝る前にはイヤなことを「ニャッ」と笑い飛ばしてから眠りにつきましょう!

   眠っている間、笑い飛ばした「良い気持ち」が定着するからです。

         <『イヤな気持ちが消える心の法則26』中経出版>

           ・・・

中村天風師は、夜寝る前の心がけについてこう語っている。

「夜の世界だけは、特に寝がけに、寝床の中に入ってからは、
この精神のアンテナというものは、無条件に、よいことでも悪いことでも、
もうすべてが、差別なく入りこんでしまう。

だから、いいことを考えるんだ。

嘘でもいいから、俺は優れた人間だ、俺は思いやりのある人間だ、
俺は腹の立たない人間だ、俺は憎めない人間だ、俺は焼きもちを焼かない人間だ、
こう思えばいい」


夜、寝る前の心がけは、おだやかな気持ちになって寝ること。

だから、ニヤニヤとわざとらしくてもいいから笑顔をつくるのはとてもいい。


成功者はイヤな思いを引きずらない。

イヤな思いを引きずらない方法は、小さなことでいいから、
良い気持ち、明るく楽しい気持ちに焦点をあてること。


毎晩、心やすらかな気持ちで眠りにつきたい。

            <感謝合掌 平成26年11月20日 頓首再拝>

「生命の実相」とは、何物にも縛られない自由自在なもの (2035)
日時:2014年11月29日 (土) 03時48分
名前:伝統

          *『生命の實相』第三巻光明篇(P36~37)より

「生命」の実相(ほんとうのすがた)というものはどんなものであるかというと
何物にも縛られない自由自在なものである。

こういうとその束縛を破ってしまわなければ自由自在になれないかというとそうではない、
《何々しなければ》自由自在になれないというのでは、その自由自在さは条件付きの
自由自在さである。

われわれの生命の実相の自由自在さは、そんな条件付きの自由自在さではない。

「縛られていても自由自在」ということが「智慧の言葉」に書いてありますが、
縛られていても自由自在なのが生命8せいめい)の実相(ほうとうのすがた)なのであります。

生命を縛るという物質的条件の縛りは真に実在するものではないのでありますから、
実在しないものに縛られていても、なんらわれわれの《本当の生命》は束縛せられる
ものではないのであります。

これが解らないと、自分は境遇に縛られているから自由自在になれないなどと
月並みなことを考えるようになるのであります。

人間は本来神の子であるから救われている、すなわち本来自由自在である。
束縛を脱して後はじめて自由になれるというようなものではない。

本来神の子なる人間は縛られていても縛られていないでも、
どちらでも自由自在なのであります。

この真理はただそう思っているだけでは「実」にならないのでありまして、
それを動的工夫に移し、その真理を実際に移して実行するとき、いくら余裕がないように
見えても余裕ができてき、

弱いように見えている身体から無限のカが湧き出て来るので、はじめてわれすなわち
神の子なる生命(せいめい)の実相(じっそう)が如実に悟られてくるのであります。

            <感謝合掌 平成26年11月29日 頓首再拝>

『むすんで ひらいて』の歌に込められた人生の真理を学ぶ (2247)
日時:2014年12月10日 (水) 04時21分
名前:伝統

         * 『全感謝する練習』喜楽・著(P135~138)より

『むすんで ひらいて』という歌があります。
幼稚園や保育園で手遊びとして習ったり、家庭で親子で歌われることも多い
この曲に、実は〝真理〟が隠されているとしたら、あなたは信じますか?
 

   『むすんで ひらいて』

   むすんで ひらいて てを うって むすんで
   また ひらいて てを うって その てを うえに
   むすんで ひらいて てを うって むすんで


まず「むすんで」とは、「結び」です。
人との出会い、あらゆる出来事はすべて「結び」なのです。

人は縁があって他人と出会い、様々なことを経験します。
その一つ一つの出会いや経験から人は成長するのです。

次に「ひらいて」とは「解き」です。
他人と出会えば、必ず別れがあります。
この別れが「解き」です。

またこれが、モノや出来事であれば
「執着しない」、または「手放す」ということを意味します。

この「解き」からも人は様々なことを学びます。
「結び」が学びならば、「解き」もまた学びなのです。

そして「てを うって」とは、「理解」です。
人は「なるほど!」と思ったとき、思わず手をうちますよね。
それにもう一つ意味があります。それは「感謝」です。

つまり、「結び」と「解き」から得た学びを理解し、納得し、感謝する。
そうすることで、また次の新しい「結び」へとつなげていくことができるのです。

 
さらに「その てを うえに」ですが、
ある人との出会いやある出来事から、なにを学べばいいのかわからないときがあります。
または、どうしていのかわからないときもあります。

そのときは「その手を上に」して天を仰ぎ、神様に委ねるのです。
そのときは「その手を頭に」置いて、理性で考えることも大切です。
ときには「その手を胸に」当てて、自分の素直な気持ちに聞いてみるのもいいでしょう。

さらには「その手をお腹に」当てて、
自分の腹の底、本心はどうなのかを問うてみると、答えが出るかもしれません。


それでも答えが得られないのであれば「その手を上に」して天を仰ぎ、
神様にその判断を委ねてお任せするのです。
つまり、「人事を尽くして天命を待つ」ということです。

こうして人は何度も、「むすんで」「ひらいて」学びを深め、成長していくのです。


「結び」も「解き」も、それぞれ学びですから、「良い・悪い」はありません。
人は「結ぶ」ことでしか学べないこともあれば、「解く」ことでしか学べないこともあります。

たとえば、一般論で言えば、「結婚」はしあわせなことで、
「離婚」は不幸せなことですが、
神様の視点で見れば、両方とも学びです。

離婚も、それを学びに変えれば新たな「結び」につながるので、
しあわせなことととらえることもできます。

さらに言えば、「結婚しない」ことでさえ、「結び」です。
結婚しないことでしか見えないものもあります。

もし、あなたが結婚したくてできないのであれば、
それはまだ学びの途中なのかもしれません。
または、相手になにかを求め過ぎたり、執着しているからかもしれません。

そうしたものを手放したとき、必ず新たな「結び」が現れるのです。

ここで説明した『むすんで ひらいて』の解釈は、あくまで私が独自に考えたものです。

これまで述べてきた通り、この「結び」と「解き」の考え方は「神道」からくるもので、
もしかしたら『むすんで ひらいて』を作詞された方が、
『神道』の考えを取り入れて書かれたのかもしれません。


            <感謝合掌 平成26年12月9日 頓首再拝>

汝の悩みを神にゆだねよ (2418)
日時:2014年12月20日 (土) 03時56分
名前:伝統

            *「幸福を招く365章」(P76~77)より

多くの人たちは大事件にはそれほど心を騒がせないで、
家庭内の小事件に心をイライラさせて折角の人生を不快なものにしてしまいがちである。

大事件には「仕方がない」とあきらめがつくが、
小事件ほど、何とか成ると思ってその事件をつかむからである。

何でも心でつかめば、心が悩むのである。
若し貴方の心を悩ますものがあるならば、それを貴方の心から放して、

「神よ、この問題を貴方の無限の智慧のはからいにお任せ致します」

と唱えて神(大生命)のはからいにまかせてしまうがよい。

            <感謝合掌 平成26年12月20日 頓首再拝>

【執着を手放す】 (2482)
日時:2014年12月24日 (水) 04時03分
名前:伝統

            *メルマガ「人の心に灯をともす(2014年12月13日)」より


   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

   執着やこだわり、捕らわれ、そういう呪縛から解き放たれた人を、
   日本語では「ほとけ」と呼びました。

   それは「ほどけた」「ほどける」というところから語源が始まっています。

   自分を縛るたくさんのもの、それを執着と言うのですが、
   その執着から放たれることが出来た人が仏というわけです。

   ところで、「執着」とは何か、と聞かれます。

   執着というのは、
   「こうでなきゃイヤだ」「どうしてもこうなってほしい」と思うことです。


   それに対して、楽しむ人は、「そうなってほしい」のは同じなのですが、

   「そうなったらいいなあ。ならなくてもいいけれど。そうなるといいなあ」
   「そうなると楽しいな」
   「そうなると幸せだな」

   と思う。


   「こうでなきゃイヤだ」

   と思ったときに、それが執着になります。


   超能力の立場からしても、「こうでなきゃイヤだ」と思ったときは
   脳波がβ(ベータ)波になって、15%の力でしかものを克服することが
   できませんし、実力でしか表現することができません。

   一方、「こうなるとうれしい」「こうなると楽しい」「こうなると幸せだ」
   と思ったときは脳波がα波になり、
   不思議な力(85%の潜在能力)が助けてくれます。

   超能力的な解決方法とでもいうのでしょうか。

   そういう力が、どこからか支援してくれるのです。


   こういう考え方もぜひ覚えておいてください。

   「こうでなきゃイヤだ」と思ったときは、「やだ」か「ゼロ」しか待っていません。

   例えば、「明日晴れなきゃ、やだ」と思ったときには、
   晴れないと(つまり、雨や曇りだと)、「やだ」なのです。

   晴れて当たり前ですから、それが「ゼロ」になります。
   「やだ」か「ゼロ」、「マイナス」か「ゼロ」しか待っていません。


   一方、「明日晴れたらうれしい」と思ったとしましょう。

   晴れなくても、雨でも曇りでも「ゼロ」です。
   「晴れたらうれしい」のですから、晴れたときにはその分「プラス」になります。
   「プラス」か「ゼロ」しか待っていません。

   「晴れたら楽しい」と思ったときには、
   「ゼロ」か「楽しい」しか待っていないのです。

   そういう、ほんの少しの考え方の違いで、
   未来に待ち受けているものが、完璧に違うのです。


   いろいろなものを、「こうでなけイヤだ」
   「どうしてもこうなってほしい、こうあってほしい」と思うことが執着。

   その執着はほとんど自らの手でむんずとつかんでいるところから始まっています。

   ちょっと見方を変えて、そのつかんでいる手を放してみたらどうでしょうか。

             <『この世の悩みがゼロになる』大和書房>

                  ・・・

経営学者の飯田史彦氏は、経営学の見方から、
「生まれ変わり」について述べている。

「生まれ変わり」など絶対にない、怪しい考え方だと思っている人が、
亡くなったとき、「あの世があった」としたら、がっかりして、
「マイナス」な気持ちになる。

もし、「あの世がなかった」としても、
何もないのだからプラスもマイナスもない、「ゼロ」。


反対に、「生まれ変わり」があったら楽しいなと思っている人が、
亡くなってあの世に行ったとき、「あの世があった」としたら、
思った通りだとうれしくなり、その分「プラス」になる。

もし、「あの世がなかった」としても、ないのだから、「ゼロ」。

だから、「生まれ変わり」を信じた方が得だ、という考え方。


この世における「執着」も同じ。

絶対にこうでなければイヤ、と思う気持ちを捨てること。

「そうであったら楽しいな、でもそうならなくても大丈夫」と執着しない。

見方を変えて、執着を手放したい。

            <感謝合掌 平成26年12月24日 頓首再拝>

全ての把住を放ち去る日 (2603)
日時:2014年12月31日 (水) 06時19分
名前:伝統

       *谷口雅春先生・著「神と偕に生きる真理365章」(P344)より

愈々「汝の持てる全ての物を売りてこれを貧しき者に施せ、
而して汝の十字架を負いて我に随え」というイエスの教えを
今日こそは実行すべき、今年最後の日であるのである。

「汝の持てる全てのものを売れ」というのは、
単なる物質の所有財産を売れということではないのである。

唯物論的な人間観、「物質は実在する」という人類一般の常識、
少しばかりの学的知識をもっていることを鼻にかけた高慢な心、
金銭さえ貯めて置けば何でも此世の事は自由になるなどという拝金宗、

このような「心の中に持っている全ての塵埃(ごもく)」
を悉く心の中から棄て去って「無」にまで施すということである。
 (注・「貧しき者」とは「無」の象徴である)

こうして一切の迷い、迷いの根源たる唯物論的”存在観”を「無」にまで還元して、
十字架にかかって”肉体”を無にまで抹殺したときに、Cross(クロス)は
十字架であり、×は抹殺であり、同時に+(プラス)であり、復活であり、

「真の自己」なる霊的”神の子”が復活するのである。

この事をイエスは自己の生涯に事実をもって証明されたのである。

さらば読者諸賢よ、この1年の最後の日に、一切の過去を棄て、
心の中につかんでいた唯物論的な一切を悉く棄て去り、

霊的に生まれ変わって、新たなる”神の子”としての生涯を、
来るべき年を迎える心の準備をせられよ。

来るべき新年はこの自覚により新生せる輝かしき年であることを
諸賢と共に信ずるのである。

今年1年中多くの愛語・愛念を送られた読者諸賢に深甚の感謝の意を表します。 

            <感謝合掌 平成26年12月31日 頓首再拝>

一切の不幸は人間が物質に執着した結果です (2758)
日時:2015年01月10日 (土) 04時55分
名前:伝統

         *「真理」第九巻生活篇(P318)より

物質への執着は人間を縛ります。
つかんだならば、つかんだそのものに逆に自分が縛られるのです。
嫉妬や羨(うらや)みの感情は人間を縛るのです。

そして生命(せいめい)が自由を失い、
自由を失った人間は自分を破壊するために争い闘うのです。

こんな不幸は神が造ったのではなく、人間が迷いによって物質に執着した結果なのです。
神様に責任はないのです。

物質に執着するのは何故(なぜ)であるかと言いますと、
物質は”心の影”だと云う真理を知らないからなのです。
つまり自覚が足りないのです。

物質が”心の影”だとわかったら、心を整理することによって物質を自由に変化することが
出来ると云うことを悟りますから、物質に執着しなくなります。

物質を欲すれば心を整えよう、自分の心の持方が悪いのだろうと
反省するようになりましたら、人間は争う前に善念を起すようになるでしょう。

            <感謝合掌 平成27年1月10日 頓首再拝>



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