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光明掲示板・第三

 

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『生命の實相』 (72)
日時:2014年09月03日 (水) 03時42分
名前:伝統


《『生命の實相』読誦の功徳について》

         *『眞理』第九巻生活篇(P397〜399)より

『生命の實相』を読んで病気が治る。
これは無数の礼状が実証するところである。

しかしこれは谷口雅春の功績ではない。
「わが神殿は既に成れり、名づけて『生命の實相』と称う」
と神は仰せられているのである。

『生命の實相』は神がその御栄えをあらわしたまうための道具である。
其処に奇蹟を生ずるのである。

しかし、心が頑固で其処に書かれている真理を素直に受容れることの出来ない人には
治病の奇蹟は起らない。

神の力が及ばないのではない。
光は充ち満ちていてすらも、眼を瞑じている人には光を受容れることができない
のと同じことである。

しかし、眼を瞑じている人にも光があれば明暗ぐらいは分るのである。
明暗をたよりに、其処に光があることを自覚して眼をひらけよ。


《すべては神の恩寵である》

『生命の實相』を読んで”病気本来無し”と豁然と悟りをひらいて病気の治る人もある。

しかしそれは、自分が偉いので自分の力で悟りをひらいたのだと
高慢な心を起してはならないのである。

神の恩寵なければ人は何ごとをも為し得ないのであり、『生命の實相』も、神が人を救いたまう
道具として書かしめられたのであり、その人の”真理を悟る力”も神が与えたもうたのである。
何処(どこ)にも人間だけの力で為し得るところのものは存在しないのである。

神の恩寵を自覚しない人のみが、自力で何でも出来るなどと高慢な考えを起すのである。
高慢な心を起したところが、恰もパイプの中の沈殿物のように、神の恩寵の流入を不完全に
するのである。高慢な心を捨てることである。

無我になって神に無条件降伏したときのみ、神の恩寵は一層ハッキリあらわれるのである。

・・・・

<関連Web>

(1)「“本流宣言”掲示板」内スレッド「生命の實相 (226)」
   → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=67

(2)「光明掲示板・第一」内スレッド「『生命の實相』 (773) 」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=199

(3)「光明掲示板・第二」内スレッド「『生命の實相』 (122)」
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=58

           <感謝合掌 平成26年9月3日 頓首再拝>

「月」に喩えた、生命の実相 (181)
日時:2014年09月08日 (月) 04時55分
名前:伝統

         *『生命の實相』第二巻實相篇下(P113〜114)より

また同じ『涅槃経』のうちの月喩品には、釈迦は月になぞらえて、
本当の自分(如来身)の滅びないことを説いて次のようにいっていられるのであります。

「仏、迦葉に告げたまわく
『譬えば、人有りて、月の現れざるを見て、月没すと言いて没相を作す。
しかし此の月性、実は没すること無きなり。他方に転現すれば、彼処の衆生また月出ず』と謂う。

しかもこの月性、実は出ずること無きなり。
何を以ての故に、月が隠れたるは須弥山に遮られたるがためにして月の性、本来出没なきが如し。
如来も亦斯くの如し、……如来の性、実は涅槃なし。

而も諸々の衆生みな『如来、実に涅槃に入る』と謂う。
譬えば月没すと謂うがごとし。
されど善男子、如来の性は、実に消滅なきなり……」

こういうふうに釈迦はお説きになっているのでありまして、われわれの本性(ほんせい)
すなわち生命(せいめい)は、この月のようにこの世界から没して往って極楽へ救いとられる
というような不完全なものではない。

山のこちらから月を見るから、月が出てから明るくなったように見える。
しかし月は山の上に出ようが出まいが常に明るいのであります。

それと同じように人間の本体も、五官という感覚器官の眼をもって見るからこそ
肉体が滅してから極楽世界に救いとってもらうように見えているのでありますが、
それはただそう見えるだけのことでありまして、

月が見える見えないとにかかわらず、月自体が明るいと同じように、
われわれ人間は感覚にはいろいろ没したり食したり、
苦しんだり悩んだりするように見えますけれども、

人間の本体そのもの(本物の自分)の上からいえば、

常にわれわれは仏教的にいえば極楽世界にあり、
キリスト教的にいえばエデンの園にあり、
古神道的でいえば高天原に住んでいるのであって、

死なく、病なく、罪なき、金剛身、無病身、清清身 ―― これが「本物の自分」なのです。

           <感謝合掌 平成26年9月8日 頓首再拝>

観世音菩薩が授けられた書 (415)
日時:2014年09月16日 (火) 04時54分
名前:伝統

         *『生命の實相』第25巻教育実践篇(P30〜31)より

中野の結核療養所に入院されていた井上弘冶という方も
『生命の實相』の分冊『吾が心の王国』というのをよんで、
さっそく元気を回復し退院して、もう病気は無いと豪語せられました。

看護の人や近親の人は井上さんを気が狂ったのではないかと言ったそうであります。
12月の下旬数回目の大喀血をして衰えていた人が、1月には本を読むだけで
すっかり元気になって退院した。

退院すると、その足でお礼に光明思想普及会を訪ねて来られた。
来てみると創立当時の社の間口が小さいので「これはやっぱりインチキかな」と思われたが、
ともかく、中に入ってみて自分の病気のなおった話をされると、

社の人たちはみんな仕事の手をやめて親身になって話をきかれ、
わが子の病気が治ったかのように涙を流して喜んでくれた。

それで、やっぱりインチキではない、本物だったとわかったと、大変な喜びようで帰られました。

このように、『生命の實相』の小分冊をたった1冊読んだだけで病気が治った実例が
たくさんあるのであります。

それでわたしは『生命の實相』は偉大な生命の教育書だと言うのであります。

自分が書いたのなら賞めるのに気が引けますけれども、これはわたしが書いたのであって、
わたしが書いたのではない。

神が宿ってわたしに書かしめられた。観世音菩薩がわたしに宿って書かしめられた。

           <感謝合掌 平成26年9月16日 頓首再拝>

《言葉・文章》と《真理》を合致させたのが「生命の實相」 (671)
日時:2014年09月28日 (日) 04時44分
名前:伝統

        *「生命の實相」第25巻教育実践篇(P102〜103)より

この《生命の実相》というものは、今までは文字言語のよく説くところではない、
言詮不及(ごんせんふきゅう)、不立文字(ふりゅうもんじ)であると言われていた。

それを文字を立て、文章を立て、言葉の力によって生命の実相を悟らせるようにさせた
ところが生長の家の独特なところであるのであります。

今までは真理と言葉とが二つに分かれていて、
言葉や文章は真理を完全にあらわすものではないと思われていた。

ところが生長の家では言葉と真理、文章と実相とをピッタリ一致させた。

古来、直接説法、以心伝心でないと悟ることもできない真理を、
ただ文章を読むだけで悟れるように、文字の中に生命あり、生命の中に文字あり、
文字と生命と一体というような域にまで達せしめえたのであろうと思います。

さればこそ本を読むだけで、直接参禅しても得られなかったような悟りに到達する人が
多勢あらわれてきて、その影響を及ぼすところ、肉体の病気も治り境遇環境まで変化して
くるというようになってきたのであります。

(中略)

生長の家では活字が道場である。
文章が教化の場である。

活字を印刷した小冊子の行くところ、
そこが道場化して人を救うということになるのであります。

           <感謝合掌 平成26年9月28日 頓首再拝>

『生命の實相』は、芸術であり、哲学であり、科学であり、宗教である  (819)
日時:2014年10月05日 (日) 04時26分
名前:伝統

     *既に閉鎖した掲示板より
      (http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=8739mira&mode=res&log=41
 
生長の家創始者  谷 口  雅 春 大聖師

>治病能力のすぐれたる人に宗教的感情の深い人が多い。 
理論的に説明は上手であっても治病的能力の少ない人もある。<

理論は脳髄皮膚の意識でも組立てられるのであって、
理論で肯定しながら、感情の底では反発しているような人もある。

思想や理論では戀する訳にも行かないし、戀しなかったら子を産むことも出来ないのである。 

戀とは思想や理論でなくて感情である。 
時には例外があるかも知れぬが、『子を産む』 即ち
創造力の本体は 『感情』 であるのであって思想や理論にあるのではないのである。

 

>人を真に動かすものは『感情』の力である。人を癒やす力も『感情』にあるのである。<

世に迷信視せられている 『お婆さん』 や行者の小宗教で病気が治る事実が続々あり、
それに理論が透らないと云う理由で、また偶々感情興奮を伴わない智的な人に試みて
治病成績が挙がらなかったと云う理由で、それらの治病宗教を詐欺視するが如きは、
治病の力が宗教的感情興奮にあるのであることを洞察しないものである。

『生命の實相』 が、それを読むことによって病気が治るのは、
文章力による宗教感情を興奮せしめる力が強いからである。

この点に於て 『生命の實相』 は文章芸術である。 
理論だけ簡単に透らそうと思って、手紙で簡要な返事さえ貰えば好いと思っている人は、
この点を見のがしているのである。

尤も現代の知識人(インテリゲンチャ) は 『お婆さんの宗教信者』 と異って
理論が透らないようなものは頭から排撃して了って、いくら名文でも宗教興奮を
惹起し得るものではない。

だから 『生命の實相』 は理論に於ても古今独歩、
古今一切の宗教的理論の中枢を包容しつつ、近代の精神科学から新興物理学理論までも
一貫せる一大生命学の理論体系を成しているのである。 

この点に於て 『生命の實相』 は一大哲学とも云えるのである。

芸術であり、哲学であり、而してその及ぼす治病の体験数は
医者が一つの事を肯定するに用うるモルモットの実験頭数よりも多く、
数千の実験礼状となって顕れているので、実験の蒐集であるから
科学であるとも云い得るのである。

而してその読書による感情興奮の種類は、個人と天地の大生命との調和的融合感を
興奮せしめるのであるから、宗教であるとも云い得るのである。

藝術であり、哲學であり、科學であり、宗教であるのが 『生命の實相』 である。


*(原典は、『生命の實相』幸福篇上(第37巻)<P143>のようです)

           <感謝合掌 平成26年10月5日 頓首再拝>

『生命の實相』と「真理の光」 (1119)
日時:2014年10月16日 (木) 04時19分
名前:伝統

      *『生命の實相』第35巻下化衆生篇(P71)より

『生命の實相』を読んでいてある瞬間に達すれば
必ず真理の光がたましいの中へ射し込んでくるのである。

その光は太陽の光よりもなお明るい光である。
自分の身体(からだ)が透明になったような感じがする。
自己の生命が無限生命の光線の中につつまれる。

その無限の光線の中に溶け込みつつ燦然として輝いている生き通しの生命こそ
わが生命であることが悟られる。

これこそ自分の本当の生命であったのだ
 ―― 今生きつつある地上の生命の小さきことよ。

それはただ自分の本当の生命の輝きが、迷いの雲間を洩れて、
地上に記(しる)した小さな光の点々にすぎなかったのだ。

迷いの雲間は裂ける。
本当の自分は輝き出でる。

地上の晴天の日の太陽が照らすごとく、
本当の自分は無限の輝きを放って地上の生活を照らすのである。

           <感謝合掌 平成26年10月16日 頓首再拝>

真理の積立預金 (1311)
日時:2014年10月26日 (日) 04時56分
名前:伝統

            * 『白鳩』誌(S.38年12月号)より

「人間は神の子であり、内に無限を蔵する」という真理を知ったからとて、
”真理の書物” を読む必要はないという訳にはゆかぬのです。

『生命の實相』の本や『甘露の法雨』の聖経には、
神から霊感された不滅の「真理の言葉」がつづられているのである。

既にあなたの心の中に真理が充ち満ちていても、
「真理の言葉」を一層深く潜在意識に吸収して悪いということはないのである。

それは自分のお札入れの中に紙幣が一ぱいつまっているからとて、
銀行の受取勘定を拒む必要がないのと同じことである。

常に一層「真理の言葉」を自分の潜在意識につぎ込んでおくことは
銀行に積立預金をして置くのと同じことなのである。

今現に知っているという現在意識の真理は、当座の財布の中の紙幣のようなものである。

イザというとき本当に大きな仕事に役に立つのは
潜在意識銀行に積まれている真理の積立預金である。

http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/23853630.html

           <感謝合掌 平成26年10月26日 頓首再拝>

『生命の實相』を讀んでいますか (1612)
日時:2014年11月10日 (月) 04時35分
名前:伝統

             * 『白鳩』誌(S.47年3月号)より

『生命の實相』が入口なんです。

病気を治すことだけを目的で『甘露の法雨』を薬みたいにして治そうというのが、
いけないのです。教えの根本を覚って〃病気はない〃という悟りに入ることが必要なのです。

兎も角、教えの根本は『生命の實相』に詳しく書かれてありますから、
それを読んで病気が本来無いということが解ったら、病気は無くなるのです。

薬を飲むみたいな気持で『甘露の法雨』を誦げたら治るなんて思っていられると困ります。

生長の家は病気治しぢゃないのです。
人間として本当に識らねばならぬ真理を説いているのです。
真理が解ったら、病気は本来無いから消えるだけのことです。

病気治すのが目的ではないのです。

兎も角『生命の實相』を読んで、人間とはどういうものか、魂とはどんなものか、
病気はどういう訳で出てくるかということを良く識って、心を変えなければならないのです。

http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/21732802.html

           <感謝合掌 平成26年11月9日 頓首再拝>

『生命の實相』 を繰返し何度も読むことが大切だ (1831)
日時:2014年11月20日 (木) 05時00分
名前:伝統

     *『生長の家』誌(昭和47年6月号<生長の家本部講師 徳久 克己>)より

『それでわたしは 「何よりもまず “生命の實相” をお読みなさい。 
再読また再読飽くまで真理に徹してください」 こう申しますのであります。 

8回であれ、10回であれ、反復熟読くださいましたならばおのづから悟るところがあり、
その心境に従って病気その他いっさいの現象的不幸も自然自消することになるのであります。』
   (『生命の實相』 第39巻 佛教篇 携帯版25頁、頭注版24頁)


谷口先生は、このように、私たちに 『生命の實相』 を、
繰り返し読むことをすすめておられます。 

谷口先生のような不世出の聖者が、心血をそそいで真理をお書きになった 
『生命の實相』 を、私たちが1回や2回読んでわかったつもりでいるのは、
とんでもない間違いです。 

特に、生長の家の教えをひろめ、人を救う使命を与えられた、
講師や幹部は、よけいに繰り返し読む必要があります。 

繰り返し読めば読むほど、自分の能力が開発され、人を救う力もできるのですから、
自分のためにも、世の人びとのためにも、ぜひ繰り返しお読みになることを、
心からおすすめします。


『生命の實相』 39巻 携帯版75頁、頭注版73頁に

『生長の家の 「光明一元の世界観」 が多くの人々に理解され難いのは、
多くの人が 「現象宇宙」 と 「実在宇宙」 とを混淆し、
「現象人間」 と 「実在人間」 とを混同し、

釈迦が 「久遠常在の霊鷲山」(実在界) を説いているのに衆生は 
「久遠常在の霊鷲山」 を見ることをえずして、
「焼け尽きて憂怖諸の苦痛ことごとく充満せる現象世界」 を見、
この世界は 「苦悩ことごとく充満せり」 と見ているのです。 

〈中略〉  

わたしが、 「光明一元の世界」 を説き、「病悩苦なき人間」 を説くとき、
それは 「実在の世界」 と 「実在の人間」 とを説いているのであって 
「現象の世界」 や 「肉体の人間」 を説いているのではないのです』


生長の家の教えを、一人でも多くの人びとに伝えて、
人類を 「幸せ」 にし、真の世界平和を実現しようと願っている私たちは、
生長の家で説く 『實相』 を、相手にわかってもらえるように、よく勉強せねばなりません。 

生長の家で 『實相』 を説いているのを、現象しか判らない人びとが誤解するのです。

 その意味で、『生命の實相』 を、繰り返し読むことが、大切です。

  (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/18813984.html

           <感謝合掌 平成26年11月20日 頓首再拝>

『生命の實相』  これは絶対真理であり、私の生命である (2049)
日時:2014年11月30日 (日) 03時59分
名前:伝統

        *『行』誌(昭和14年9月号)<生長の家本部講師 吉田國太郎>より

信仰は、観念の肯きや借物であっては何の得るところがあろう。 
其の値打は空(くう)の空(くう)にすぎず、至らざるを至ったと思って
地獄へ堕ちなければ、勿怪の幸である。 

若しこれだけでこと済むなれば、これは又何と簡単なことであろうか。 
そんなことで、ゆるされるなれば、多くの先人はあんなにも烈しい身を削る様な
苦しみは嘗めなかったであろう。 

心、物真似の玄人に迄達すればこと足りるであろう。 

苦難礼讃は迷いであると諭されている。 
だから私は苦難礼讃の心で云っているのではない。 

と云って受けて極めなければならないものを晦まして、
観念だけで浅くすべって走り出すことは宥されないことに違いない。 

書けもする、語れもするであろうが、それには根が無い、生命が無い、
実に生きて動く力が無い、空事虚事の言葉と共に河へ流して捨てられるべきものでしかない。 

受けねばならなぬものは受け、極めなければならないものは極めて行かなければ、
決して道は開いて行かない様である。 

実感は生れて来ない様である。 実感に迄掘り当ててこそ正しく生命の目覚めである。 
信仰では実感と云うことが宝である。

信仰とは上から浅くかぶった迄では駄目である。
やはり吾れと吾が身を投げ出して、其処に生み出して行った答でなければ駄目である。 
生命が砕かれて獲得した答でなければ駄目である。 

『唯信ずる』 と云っても、唯信ずると云うことを、
自分が砕かれて生命と引換にうけったのでなければ権威も無く救いも無い。

『‘自分は’、唯信ずる』 では鈍いのであろう。 
その 『自分は』 が消え、自分は、と引換に、 
‘唯信ずる’だけが生れたのでなければ値打はあるまい。 

此処の道程が各自銘々に与えられた修行であって、
借物でゆかず、他にたのむわけにもゆかない処である。

此処の境地迄到れば本当にそれ一つになり切れるであろうに、身を挺して生命で受けず、
唯借物である時、‘私は’があって、唯信ずるがついている時、其の言葉が己れの全て
とならず、時折頭をもたげて驚かすものが何処かにひそんでかくれているものである。

『生命の實相』 で諭されていること、これは絶対真理であり、私の生命である。

此の絶対真理が借物に終らず、本当に自分自身の血肉をつくり出す生きた現実の力となる
為には、先生が云われるままの其の侭の正しい意味での神の子である為には、
晦まさず、投げやりにならず、御座なりにならず、観念だけで坐りこまず、
泣事を云って悲鳴をあげず、自分で答を出し、諸々の世界を通過して行かなければならない。

毎日毎日の自分の生活を、此の諸々の世界の一つとして生きて行きたい。 
未だ未だ極めなければならない事の多い私には、色々な事が群り起って来るであろう。 

それが其の侭、偽物をはいで本物が生れる助けの道程であると思えばうれしい心も動く。 
然し、これらのはげみは何時でも、神に祈り仏に願いつつ、神であります様に、
御心であります様に、の心の中からでなければならないと思う。

http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/18756061.html

           <感謝合掌 平成26年11月30日 頓首再拝>

『生長の家』は現代人のために説かれた現代の生きたお経 (2271)
日時:2014年12月11日 (木) 04時39分
名前:伝統

         *『生命の實相』第二巻實相篇下(P95〜96)より


むろん『大般若経(だいはんにゃきょう)』を読んでよく解る人は
それをお読みになって実習せられるがよいのであります。

真に読み信じ理解し実習せられれば病気が治るばかりでなく、
事業などの上にも自由自在の境地に入れるのであります。

釈迦はこの同じ経の中に「この金剛の法門を聞くことを得て信解受持(しんげじゅじ)し、
読誦修習(とくじゅしゅうじゅう)するもの有らば一切の事業皆能く成弁(じょうべん)し、
常に一切の勝事(しょうじ)と和して、修行せんと欲する所の一切の勝知(しょうち)、
諸々の勝福業(しょうふくごう)、皆速かに円満すと説いていられるのであります。


お経は何も職業僧侶ばかりが読むべきものではありません。
病人が読んで病気が治り、事業家が読んで自他を成就する最も完全な知恵が湧いて来る
ところに値打があるのであります。

キリストは「死せる者に死せる者を葬らせよ」と断然(だんぜん)いっていられます。
死骸というからっぽにお経を読み聞かすのには生きた僧侶はいらない。

生きた人に、生きたお経を読み聞かすのであってこそ、始めて生きた知恵が湧いて来る。
病人が聞いたら病気が自然に治る知恵が湧いて来る。
事業家が聞いたら事業を建て直す本当の知恵が湧いて来る。

それであってこそお経というものが尊い、しかし、今の世の中に、
『大般若経』を読んでその意味が本当にわかる人は、職業僧侶か
その道の専門研究家のほかにはほとんどない。


解る人にとっては生きたお経であるが、
解らぬ人にとっては「生きたお経」ということができない。

釈迦の住んでいた時代と、われわれの住んでいる時代とは人間の生活状態も
異(ちが)うし人間の知恵も異う。それで説明の仕方や、実例の引き方や、
譬喩(たとえ)のたて方も、使う言葉も、変えて来てこそ、
現代人に解りやすいお経となって来る。

生長の家の本を私が書いている目的は実にそこにあるので、
その目的がどの程度まで達せられつつあるかは読者諸氏の知っていられる
とおりであります。

在来、家族中で一等虚弱な繊弱、体格の息子であった人が、
生命の實相の本を読むようになられてから誰よりも健康な、健康の標本のようになられて、
自分よりも数倍体格のよい人たちの数倍も仕事をしても疲れないようになられた方もあります。


不景気でほとんど皆が皆まで就職を求めて、就職難で困っているような時代に、
今まで貰ってサラリーをきれいにさらりと捨てて、独立新開業をする知恵と勇気とが
湧き出て来て現在相当にやっていっている人も出ました。

在来薬迷信にかかっていて、1日も薬なしにはいられなかった難治の慢性病患者で
「生長の家」数冊を読んで服薬を中止する勇気が出て、
たちまちその十数年来の難病から癒された人もあります。

「果実を見てその樹の良否を知れ」という諺(ことわざ)がありますが、
今までのところにおいて、「生長の家」の本を信解し読誦し実修している方は
これだけの効果を得ていられるのであります。

           <感謝合掌 平成26年12月11日 頓首再拝>

『生命の實相(生長の家誌)』は霊界の神が書かせたもの (2457)
日時:2014年12月22日 (月) 04時57分
名前:伝統

        *『生命の實相』第二巻實相篇下(P96〜97)より


「生長の家」の本をわたしが書くのならばあまりに蝶々(ちょうちょう)その効果を
語ることは気がひけるわけでありますが、これはわたしが書くのではない。

わたしにインスピレーションを与えて書かしめ導く霊界の神があることを
霊眼でチャンと見ている読者も数氏あるのであります。

わたしは先生ではなく、先生とは天を指さして霊界の神であるというほかはない。
よく生長の家の本部の建物はどこだときく人がありますが、わたしが今坐っている
ここは生長の家ではなく「生長の家」は霊界にあるのです。

そしてわたしはただこの霊界の本部の神の啓示を出版する役目を受け持たされているだけ
ですから、雑誌『生長の家』第二集第一号にもわたしのことを「生長の家」の出版部係と
書いてあります。

住吉在住当時のわたしの宅へお出でになった方はごぞんじでありましょうが、
わたしの宅には「生長の家出版部」とのみ標札が出ていた。
これは霊界にある「生長の家本部」と地上にある出版部とを区別せんがためであった。

ともかく、わたしは皆さんともに『生長の家』の一読者として、それを読み、習い、
修養して皆さんとともに一歩一歩向上せんと努力している一求道者にすぎないのであります。
わたしだって道をはずせば立ちどころにそれが具象化するのであります。

かくのごとく『生長の家』は単なる人間なるわたしが書くのでないからこそ
尊い現代の経典たるを得るゆえんで読んで病気が治るほどの真理が書けているのであります。


聖書やお経も肉体のキリストや釈迦の言葉ではなく神の啓示が、
キリストや釈迦の口からほとばしり出たからこそ尊いのであります。

「わたしがするのはわたしの業(わざ)ではない、天の父のなしたまう業(わざ)だ」と、
キリストもこのことを知っていた。わたしも今同様のことを感じています。

先日も「生長の家」の昭和六年三月例会における誌友の一人の話しに、
その方がある日、姉の所へ『生長の家』を送ってあげられた。

すると、それが姉の留守中に着いたので、その姉の良人がひらいて見て読まれた。
その良人といわれる方は本来善い方だが、当時身持ちが乱れていた。

その方が『生長の家』をお読みになると、ピッタリとそれ以来不品行をお止めになって、
その家庭に和気あいあいたる空気が蘇生(よみがえ)って来たのであります。

わたしは当時夫婦生活については一度も本文に書いたことがないのにこんな事が起こった。
そこに神の書かせ給える神誌『生長の家』の権威が明瞭に出ているのであります。

           <感謝合掌 平成26年12月22日 頓首再拝>

(聖典読誦と神想観の実修で、)實相覚を得て光明荘厳を観る (2644)
日時:2015年01月02日 (金) 04時41分
名前:伝統

            *『生長の家』誌(昭和39年6月号)より

あなたは 『生命の實相』 を毎日読んでいるとき、
または 『真理』 の全集を繰返し読んでいるとき、
そしてまた神想観を毎日実修をつづけるならば、

ある瞬間、突如として 『實相覚』 がひらけて来て、実相界の妙々霊々、
言語を絶する光明の世界を感じ、今まで味わうことのできなかった “生命の歓喜” を
全身が、しびれるばかりに感じられて来るのである。

この時、あなたは私の説いている 「現象以前の世界」 「エデンの楽園」 
又は 「天国」 なるものが本当に知ることができるのである。 

そして法華経に書かれている
「衆生、劫尽きて此世の焼くると見る時も、わが浄土は安穏なり」  という、
その 「実相の浄土」 を体験することができるのである。

しかしながら此のような実相荘厳の光景はある瞬間、又はある短期間見え、
又は感ずることができるだけで普通はまた吾々は現象世界につれもどされる
 ――  それは吾々は地上の現象世界学校に入学して魂を勉強させつつある
修行期間であるからである。


「実相世界」 又は 「神の国」 又は 「天国」 は、
それを観ることができるとか、できないとに関らず、今・此処にあるのである。 

それをイエスは “The Kingdom of Heaven is at hand” 
〈「神の国は手の達く処にある」〉  といったのである。

それは嘗ての日本語訳聖書では 「神の国は近づけり」 というように、
「神の国」 が時間的に、又は距離的に近づいて来るかの如く訳したものであるから、
多くの日本人たちに、「神の国」が今茲にあることを気がつかせるのに失敗したのである。 

しかし海外の宣教師たちの中にも、同じように 「神の国」 が今茲にあることに
気がつかない人たちが多いのである。

聖書にせよ、仏典にせよ、霊感的に書かれたる経典は、
読む人の悟りの程度、霊覚のひらけた程度に従って浅くも深くも解釈せられるのである。 

霊感も悟りもない人が、語学の力ばかりで通俗的に現代語に訳した如き
経典聖書は中味のない箱か表装だけをもって来たようなもので、
真実の意味を伝えること少なきもである。

http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/18637508.html

           <感謝合掌 平成27年1月2日 頓首再拝>

真理の自覚を研いておくこと (2770)
日時:2015年01月11日 (日) 04時11分
名前:伝統

           * 『生長の家』(昭和36年新年号)より

聖書や仏典を心讀すれば、
人間の本質(実相)が如何なるものであるかを知ることができる筈であるが、

なかなかその解釈がむつかしいのと、何処にその真理の中心があるのか不明なために、
その真理を捉え得ないのが普通である。

ところが 『生命の實相』 を讀めば、聖書や仏典に書かれている真理を開く鍵が得られ、
それによって今まで難解であった聖書仏典の章句の意義があきらかになり、
祖先伝来の宗教のよさがわかり、それがそのまま有り難くなるばかりでなく、
宗教が実生活に応用できることになるのである。

だから真理を自覚する最善の道は 『生命の實相』 を一日数頁は必ず讀むと云うことが、
幸福生活を実現する道だと云うことになるのである。 

その次に必要なことは教えの集りに出席して、真理を一歩でも多く到達した人に接触し、
その座談を聴き、体験に接することである。

私たちの日常生活は、大抵、物質の争奪や、虚栄、虚名をもとめる煩労に汚されている
のであるから、一日のうちの或る時間を、それらの汚れた生活から離れ去って、 

『生命の實相』 を讀み、神想観をし、
或は真理を求める同信者との会合に列席して心を清めることが必要なのであるのである。

人間は神の子であり、霊的実在であることは、一度でも 『生命の實相』 を讀んだり、
講習を受けた者には明らかなことであるが、その真理を知っていながら、
その真理が日常生活の煩労によるゴミに掩われてしまって役に立たないような状態に
なっていることが実に多いのである。

嘗て讀んで知っている真理は、整理箪笥の抽斗の中に入れてあって
忘れている道具のようなものであって、‘ある’には在るのだけれども、
何処に入れてあったかを急にそれを持出して実用に使えないのである。 

大工はつねに自分の道具を磨いて整備して置くものであるが、
真理を有効に使おうと思ったら、常に真理の自覚を磨いておかねばならぬ。 

その磨きが聖典読誦であり、神想観である。

http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/25347693.html

           <感謝合掌 平成27年1月11日 頓首再拝>



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