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光明掲示板・第三

 

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幸福 (85)
日時:2014年09月04日 (木) 04時46分
名前:伝統

《調和が幸福な状態》

     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(P38〜39)より

われわれがもし自分の周囲に幸福な世界を持ちたいと思うならば、
まず自分自身の心のうちに「幸福な世界」を持たなければならぬ。
環境は、心の影、外界は内界の反映であるからである。

では、自分の心のうちに「幸福な世界」を持つにはどうしたらよいであろうか。
また「幸福」とはいかなる状態であるのであろうか。

答えて曰く、調和が幸福な状態である。

億万の富があるも調和がなければ幸福だとは言えない。
だからわれらがもし自分の周囲に幸福な世界を持とうと思うならば
調和した心を持たなければならないのである。

ここに「汝ら天地一切のものと和解せよ」
この教えが絶対権威のあるものとして生きているのである。

まずあなたが不幸であるならば、手近のものと和解しているか省みよ。
和解するとは、「感謝することである」と『生命の實相』の巻頭には書いてある。

「感謝する」とは口先だけで「ありがとう」と
空念仏のような称え語(ごと)することではない。

心に深く感謝の意を起こし、その感謝の意を実行にまで駆り立てるほどの熱意ある
感謝でなければ本当に感謝しているとは言えないのである。

実行とは、心の思いの果実である。心で感謝していますと口には言っても、
実行しない感謝というものは、実のない感謝である。
徒花(あだばな)のような感謝は実を結ばぬ。

「あなたは良人に感謝していますか。」
「ハイ、感謝しております」こう答えながら、
時々「ああもして欲しい、こうもして欲しい、まだこうしてくれれば満足できぬ」と
言うような奥様がどこかにないであろうか。

ここの微妙なところで、その人の家庭の幸不幸と、健不健との岐(わか)れ目があるのである。


<関連Web>

(1)「光明掲示板・第一」内スレッド「幸い (475)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=137     

(2)「光明掲示板・第ニ」内スレッド「幸福 (10773)」
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2071

            <感謝合掌 平成26年9月4日 頓首再拝>

人の幸せを考える (345)
日時:2014年09月14日 (日) 04時40分
名前:伝統

         *メルマガ「人の心に灯をともす(2013年01月29日)」より

   (マーシー・シャイモフ氏の心に響く言葉より…)

   「スカーレットの物語」

   私は皮膚の難病に12年間悩まされていました。

   身体は弱り、満足に歩けもせず、いつも家族に頼るばかりの日々で、
   人生には絶望していたと思います。

   そんなとき、たまたま地元に住む仏教僧と会う機会があったのです。

   彼に自分の悲惨な状況を話した私は、
   同情のまなざしと思いやりの言葉を期待したのですが、
   僧侶は穏やかにこう言っただけでした。

   「自分を憐れむのはおやめなさい。人の幸せを考えるようにするのです」

   「無理です!  こんな状態なのですよ。自分のことで精一杯です」

   私は「彼は何もわかっていない!」と、がっかりしました。

   こんなボロボロの身体で人の幸せを願うなんて無理だと思いましたが、
   なぜかその言葉が心に引っかかり、その日から少しずつ気をつけるようになりました。

   まずは家族や友人たちの幸せと健康を、さらに知らない人たちのために、
   車の中から道行く人たちの幸せを、ついでに自分の嫌いな人たちのことも
   思いやってみました。

   ある日、電動車椅子に乗ってスーパーのレジに並んでいると、
   明らかに虫の居所の悪そうな女性が私の後ろに並びました。

   急いでいるらしく、いら立った目を周囲に向けています。
   カートの中身はあふれんばかりで、少しでも早くレジを通り抜けたそうにしています。


   いつもなら、イヤな思いをしないように、こういう人とはできるだけ
   関わらないようにしていましたし、実際真っ先に頭に浮かんだのは、
   「何て品のない人からしら。目を合わせないようにしよう」という考えでした。

   しかし、そのとき例の僧の言葉・・・
   「人の幸せを考えるようにするのです」を思い出した私はこう思い直したのです。

   「そう、きっとこの人は今日とてもイヤなことがあったのよ。
   私だってそういう日もあるじゃない。
   この人を幸せにしてあげるにはどうすればいい?」

  
   私は振り向いて「お急ぎのようですね」と言いました。
   女性は驚いたような顔で、ぶっきらぼうに
   「ええ急いでいるんです。遅れそうだから」と答えました。

   「私の前へどうぞ」

   女性は私のかごの中身が少ないのを見て、サッと首を振りました。

   「いえ、大丈夫です」

   「どうぞ遠慮なさらないで。
   私は急いでいませんから。
   さあ、どうぞ」


   変化は劇的でした。
   イライラをまき散らし、レジ係をどなりつけそうな勢いだったその女性は、
   人に親切にされ、気を遣われて、別人のようになったのです。

   私の前へとカートを進めながら何度も「ありがとう」と言い、
   レジがすむと店員にも礼を言って、買った物を袋に詰め終わると、
   笑顔で店を出ていきました。

   私はすがすがしい気持になりました。
   周りを見ると、誰もが私に笑顔を向けて、言葉を交わし合っているのです・・・
   「素敵ね」「気持のいい場面だったわね」「今日もいい日になりそうね」。


   それからはもっと人を幸せにしたくて、できることはないかと探すようになりました。
   人のためになろうとすれば、機会はいたるところに転がっているものです。

   身体を使い、心を使い、お金を使って、まだまだ私は人のために何かをしてあげられる、
   それはこの上もなくうれしいことでした。


   自分のために「人が何をしてくれるか」ではなく、
   人の幸せのために「自分が何をしてあげられるか」を、いつも考えるようになりました。

   うれしいことに、それから1年もしないうちに、
   皮膚の調子がよくなり、生きるパワーもみなぎってきました。

   杖なしで歩けるようになり、ジムにも通い始めました。

   医者は、病気がひとりで快方に向ったようだと言って、信じられないようです。

   僧侶の教えのおかげで人生の坂を転がり落ちずにすんだ私は、
   愛情という永遠の力を手に入れることができました。

      <『脳にいいことだけをやりなさい!』茂木健一郎訳(三笠書房)>


人は、他人の幸せを考えたり、人を喜ばそうと考えているときは、
自分の病気のことや痛みをすっかり忘れている。

幸せも、喜びも、愛も、感謝も・・・
もらうことではなく、与えることが奇跡を産む。

なぜなら、人に発した言葉は、実は自分が一番よく聞いているからだ。

人を悲しませ傷つけるような言葉を発すれば、
それが長い間にはボディブローのようにきいてきて、結局は自分も大きな傷を負うことになる。

どんな小さなことでもいいから、自分のできる範囲で、
「人の幸せを考える」ことができる人でありたい。

            <感謝合掌 平成26年9月14日 頓首再拝>

本当の幸福は心の平和より来る (641)
日時:2014年09月26日 (金) 04時17分
名前:伝統

          *「幸福を招く365章」(P78)より

幸福は常に内より来る。
外に百萬の富があろうとも、心の中に平和がなければ何の幸福ぞや。

外に何の富がなくとも、心に平和ありて、人を愛することが出来るとき、
それが本当の幸福なのである。
心の中の平和は神との一体感によって得られるのである。

神は我々が離れたと思っている時にも決して離れてはいないのである。
唯、自己に宿る神の声をわざと聞かず、肉体の声のみに耳を傾けているとき最初は楽しい
ように感じられていても、それは神から遠ざかるから結局淋しくなって来るのである。

自分が他(ひと)に対して腹立たしくなったり、
あまりに批評的になったりして来た場合には、他(ひと)が悪いのではない。

自分の心がイラ立っているのだと云うことを反省し、
周囲の人々に対して調和する祈り(思念)をしなければならぬ。

それは、次のように念ずるがよいのである。

『神は愛である。神の愛が私の行く処に充ち満ちている。
全ての人々は私に好意をもっており、私は全ての人々に好意をもっているのである。
私は周囲の人々から愛され私は周囲の人々に感謝しているのである。
有難う御座います。』

             <感謝合掌 平成26年9月26日 頓首再拝>

招き猫 (682)
日時:2014年09月29日 (月) 04時09分
名前:伝統

今日、9月29日は幸福を招く【招き猫の日】。

日本招猫倶楽部が1995年(平成7年)制定。
「9(くる)29(ふく)=来る福」 の語呂合わせ。

三重県の伊勢内宮前のおかげ横丁では「来る福招き猫まつり」が行われる。


        *以下は、Web(伊勢神宮おかげ横丁)吉兆招福停より

《招き猫のご利益》

挙げた手には違いあり
右手挙げの招き猫はお金とのご縁を結ぶ。
左手挙げの招き猫はお人とのご縁を結ぶ。

どちらも大事。

ちなみに、対で飾るときには、挙げた手をそれぞれ外側にして並べると、
外から内に福を呼び込むとされます。


《色によっても縁起それぞれ》

(1)白猫は福招き
(2)黒猫は厄除け
(3)赤猫は病除け
(4)黄猫は縁結び
(5)青猫は安全
(6)緑猫は合格
(7)金猫は満願成就  

風水の色とは一寸違う。


《手の長さにも違いあり》

挙げた手が、耳を越えれば遠くからも福を集める。
これは、『手長』と呼ばれ、生産の都合上、型から抜きにくいため
種類も少なく珍重されます。

かといって耳より手が低い猫が悪いというわけではなく、
手の短い猫は、身近な福をせっせと集めてくれるのでご心配なく。


《目の色違えば》

左右、目の色が違えばお金を招くという、
これを『金目・銀目』と称します。


《毛並に注目》

招き猫をよく見てみると、どういう訳か、三毛猫が多いこと。
実は、これにもちゃんと意味があるのです。

遺伝学的に、三毛猫のオスは千匹に一匹程度しか生まれないという大変貴重な存在。

そのため昔から幸運の守り神と重宝されて、
特に船に乗る者の信仰を集めており、三毛猫のオスを乗せた船は沈まない。
または、大漁を約束すると信じられてきました。

       (http://www.okageyokocho.co.jp/shop/iware.html

             <感謝合掌 平成26年9月29日 頓首再拝>

本当の幸福は「心の平和」にあります (818)
日時:2014年10月05日 (日) 04時24分
名前:伝統

           *『眞理』第九巻生活篇(P84)より

人間の本当の幸福は、「心の平和」と云うことであります。
心に平和がなければ、巨億の富があるとも、それは不安と心配との種であり、
幸福とは言えないのであります。

では「心の平和」は如何にして得られるかと云うと、
常に遷(うつ)り易(かわ)る外界のもの、物質的なものをつかんでいては
決して得られるものではありません。

「遷(うつ)り易(かわ)ることなき平和」をつかまければなりません。
「遷(うつ)り易(かわ)ることなき平和」は「神」のみであります。

「神」を自己の内に、平和の源泉として一切の恵みの源泉としてみとめなければなりません。
如何に外界が動揺して見えましょうとも、また肉体が不確かな健康にみえましょうとも、
「遷(うつ)り易(かわ)るもの」は実在ではないのですから
そんなものに心を捉われてはなりません。

「吾れは我が内に平和の源泉である神が宿ることを知る。
されば浮動する現象に振り回されることはないのである」
と繰り返し念ずるようにするがよろしい。

             <感謝合掌 平成26年10月5日 頓首再拝>

幸せの海 (1019)
日時:2014年10月13日 (月) 04時44分
名前:伝統

          *「すべてを味方すべてが味方」小林正観・著(P32)より  

私たちは、幸せの本体「幸せの海」の中でただひたすら生きているだけです。

海の中に棲む魚は、海の本体がどんなものかわからない。
だから、海というものを見たいといつも思っています。

この魚がそう希望していると、
神様というのは限りない優しさをもっていますから、
魚の望みを叶えるために海を見せてあげようとします。

つまり、人間に釣り上げられるのです。

釣り上げられた魚は海を見下ろして
「あー、海ってこういうものなのか。海は広くて大きくて、水平線があって、
白い雲があって、ヨットが浮かんでいて素敵なものだなー」と思います。

たしかに「海を見たい」という望みは叶いましたが、
海から出ているので呼吸が出来なくて苦しい。

結局、釣り上げられている状態というのは、
海は見えるけれども、同時に苦しい、つらい目にあっていることになります。

これを言い換えると災難といいます。

魚が(私)で、釣り上げた人を「神」あるいは「仏」と置き換えます。

海は「幸せ」そのものです。

人間は、病気や事故、トラブルなどに巻き込まれたときに初めて、
自分の「海=幸せ」が見えるのです。

             <感謝合掌 平成26年10月13日 頓首再拝>

今ある「幸福」に感謝 (1247)
日時:2014年10月22日 (水) 04時03分
名前:伝統

         *「希望を叶える365章」(P249〜250)より

将来の「幸福」のみを追求するに急であって、
現在受けている「幸福」に感謝することを忘れてはならない。

今ある「幸福」を感謝して有効に使わなければ、
次なる「幸福」が花咲き、実を結ぶことはできないのである。

今ある「幸福」がどんなに小さいものであるにしても、
それは次なる一層大なる「幸福」が発展する基礎となるものである。

「種子(たね)」から一ぺんに花咲くものはないのであり、
「基礎」を立派に築いて置かなければ立派な建物は建たないのである。


使わないものはだんだん萎縮して用をなさなくなり、
尊ばないものは忘れられて消えてしまうのが法則である。

現在ある「幸福」の種子がどんなに小さいものであるにしても、
それを尊び、それを『種子(たね)』とし、「基礎工事」として
生かして使うようにしなければならない。

現在はどんなに不幸な境涯におかれている人も、
若し心の眼(まなこ)を開いて見れば、
何らかの”神の恵み”を受けているのである。

             <感謝合掌 平成26年10月22日 頓首再拝>

法則に拠って幸福を招く言葉  (1445)
日時:2014年11月02日 (日) 06時40分
名前:伝統

            *『光の泉』(S.38年6月号)より

神は宇宙を貫く法則であり給うのである。
この世界は法則の支配する世界である。
法則の支配する世界とは、換言すれば神が支配し給う世界だということである。

われは”神の子”である。
われは”神の子”であるということは、
われわれ自身が”法則の子”であるということにほかならない。

それゆえにわたしは常に法則に対して従順であるのであって、
決して法則に逆らうことをしないのである。
完き自由は法則に従うことによって得られるのである。

この世界には愛の法則が支配しているのである。
愛の法則は宇宙に於いて万有引力としてあらわれているのである。
すべてのものは愛によって結びつき、愛によって形をあらわすことができるのである。

愛の法則は一面に於いて「与える法則」としてあらわれ、
他面に於いて「受ける法則」としてあらわれるのである。

それは”与える”ことによって”受けられる”という”相互むすび”の法則である。
されば私は決して与える事なくして受けようというような
吝(まず)しいことを思わないのである。

私は常にゆたかに人のため国のため公けのために心を与え、資を与え、
身を挺して人類の幸福増進に尽すのである。
それゆえに、わが神より与えられる分量もまた豊かであるほかはないのである。

この世界は、まことに法則の支配する世界であるのである。
心に想うものが形の世界にあらわれるという法則が支配しているのである。
今日以後、決して私たちは、乏しき事、貧しき事を思わないのである。

私たちは神の子であるから富むよりほかに仕方がないことを常に念じて、
自己の有てるあらゆるものを、人々を生かすために、人々を愛するために働かすがゆえに、
自然にゆたかに富が集って来るのである。

この世界は法則の支配する世界である。
私たちは法則を素直に守るがゆえに、法則は常に私たちに幸福を齎(もたら)す
ばかりであるのである。

この世界には”類をもって集る”という法則が支配している。
明るき事を思えば、明るいものが集って来、暗い事を思えば暗いものが集って来るのである。

それゆえに私は常に明るき事のみを想い、暗きことを考えないのである。
それゆえに私は常に豊かなる事のみを想い、乏しき事を考えないのである。
それゆえに私は常に健全なる事のみを想い、不健全なことは決して考えないのである。

わたしたち家族はすべて”光の子”である、”神の子”である。
今その自覚を一層明らかにして、善きもの、美しきもの、愛すべきもの、
喜ばしきもの、健全なるもののみわが身辺に呼び寄せるのである。

われ等一同を”神の子”として産みたまいし神に感謝し奉る。

ありがとうございます。

      (http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/22862001.html

             <感謝合掌 平成26年11月2日 頓首再拝>

幸せになるための10の法則〜その1、その2 (1669)
日時:2014年11月13日 (木) 04時17分
名前:伝統

        *Web:幸せになるための10の法則 より

《第1法則》 幸せになるには ・・・『神』中心の生活を送ろう。

  @私たちが『神様』の中にいるのです。
   太陽も地球も草木も生物も人類も総て、『神様』のお体の一部なのです。

  A存在していること自体が『神』のお力、そして今生かされていることも
   『神』のお力によるものなので、幸せになりたければまず第一に、
   徹底的に生活の中では『神様』を真中心にし、『神様』を最優先させることです。

        

《第2法則》 幸せになるには・・・「善と悪」という二元論的考え方を捨てよう。

  @『神様』は人間全員を幸せいっぱいにしたいのですから、そのためには
   人々の個々のカルマを消して下さろうとします。
   それが、不幸現象の正体です。

   そして今という時代は、総ての過去世のカルマの一大清算期に遭遇しているのです。

  A総ての「不幸現象」と思われる現象も、一切がよくなるための仕組み、
   人が幸せいっぱいになるための、『神様』の仕組まれたプログラミングだったのです。

  B人知で「悪いこと、不幸なこと」と見えることは、
   霊的には一切がよくなるための仕組みなんです。

   だから、自分が思った通りに実現するかしないかで、それを「いい」だの「悪い」だの
   判断することは、『神』の権限を侵すことになります。

   私たちの身近に起こる出来事は「すべて良し」なのです。

        
             <感謝合掌 平成26年11月13日 頓首再拝>

幸せになるための10の法則〜その3、その4 (1934)
日時:2014年11月24日 (月) 03時41分
名前:伝統

《第3法則》幸せになるには…素直は得と心得よう。

  @今与えられている状況や総ての現象は、その人を幸せいっぱいにするための
   『神』のプログラムの発動なのです。

   だから、総てのことを「あるがまま、なすがまま」に
   素直に受け入れることが極めて大事なのです。

  A素直とは「主直」とも書けますね。
   素直とは『主(ス)』のみ意(こころ)に直くなることです。

   さらに漢字の「素直」は「主」と「糸」と「直」です。
   『主』に糸で直接つながるという意味です。

   『主』のみ意は、人知をはるかに超越したものです。
   そのみ意に直くなる(直接つながる)のですから、「素直は得」だと言えるのです。

  B素直の極意とは「雨が降ったら傘をさす」ということです。
   大成された方々を見ていますと、木に引っかかった時に無理押ししない。
   あるがまま、なすがままになってさっと処する。
  

        


《第4法則》幸せになるには…「小乗の善」は罪ともなることを知ろう。

  @『神』のされることに一切の無駄はなく、さらに、善一途の『神様』が
   されることだけに総てがよくなるための仕組みなのです。

  Aそれを表面的な現象だけを見て、奥にある霊的仕組みを覚らずに、
   「かわいそうだ」というだけで物質的、肉体的にだけ救うとカルマ消しに
   つながる状況に介入することになり、その人を幸せにする『神』の
   プログラミングをお邪魔することになってしまうのです。

   そうなると、その人が背負うべきカルマが自分に付け替えられてしまう
   という現象が起こってしまいます。

  Bよく、自分の身を犠牲にしてでも人を救うのが利他愛だと考えている人がいますが、
   自分の身といえどもそれは『神様』から戴いた体なのです。

   自らの身を犠牲にするというのはその『神』から戴いた体を大事にしないこと
   になるので罪になるのです。

   だからと言って、溺れている人を見て見ぬふりをするのも最低の行為です。
   そういう時はつかまるべきものを投げてあげるとか、報酬をもらって人命救助を
   することを仕事としている人を呼んで救助を要請するとかすればよいのです。

  C相手が必要としていないのに、お節介に強すぎる正義感から手を差し伸べては
   いけません。しかし、そういう時でも視線はそらさずに、視線を送り続けるのです。
   そうすると、向こうから救いを求めてきます。

   救いを求められたら、手を差し伸べます。
   そして、もし食事を与え、病気を手当てして癒したのなら、
   次に「福音を伝えよ」ということです。

   イエスは弟子たちを福音宣教に派遣するに際して、次のように訓戒しました。
   「その町にいる病人をいやしてやり、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい」
                         (ルカによる福音書 / 10章 9節)

        
             <感謝合掌 平成26年11月24日 頓首再拝>

幸せになるための10の法則〜その5、その6 (2097)
日時:2014年12月03日 (水) 03時52分
名前:読者

《第5法則》幸せになるには…優しさだけでなく、厳しさをともに十字に組もう。

  @『神様』は、大慈観と大悲観の両方の性質を持たれた方です。
   『神』の愛は大慈観という優しい愛と、大悲観という
   厳しい愛を兼ね備えた大愛に他なりません。

  A幸せになるためには、厳しさと優しさを十字に組んで調和のとれた、
   『神』の大愛そのものの愛を周りに与え、互いに愛し合うことです。

        

《第6法則》幸せになるには…「我(が)と慢心」を捨て、「下座」に徹しよう。

  @『神』は究極の「幸せ」です。
   その『神』を濁らせるのが「我(が)」ですから、
   そのようなものがあれば永遠に幸せになれないのです。

   「我(が)」とは何か…それは、自分を最優先する心、自分が中心の心、
   自分が一番正しいと思う心に他なりません。

  A「我と慢心」がない姿を「謙虚な心」といいます。また「心の下座」ともいいます。

   下座の行を積み重ねて、この世を平穏にわたる道が開けるのです。
   どんな時でもところでも弛むことなく、下座の行を忘れないことです。

   下座の行を積み行く姿を『神』はお褒めになり、
   他人様が押し上げてくれる人になれるのです。

  B幸せになるには、「我(が)と慢心」を取り去り、自分を捨て、
   霊的に新しく生まれ変わらなくてはなりません。

   全く想念を『神』中心に転換してしまうことです。

        
             <感謝合掌 平成26年12月3日 頓首再拝>

あなたの幸福は先ず心を調(ととの)えることからです (2304)
日時:2014年12月13日 (土) 03時47分
名前:伝統

           *『眞理』第九巻生活篇(P97〜98)より


物質によって幸福を得ようと思っても、幸福は神からのみ来るものでありますから、
結局は、その幸福は束の間であって、幸福だと見えていたものは直ちに不幸に転じて
しまします。

その実例は新聞の社会面を見れば無数に見出されるのであります。

吾々が幸福を得ようと思ったならば、物質は心の結果として反映してあらわれるもの
であることを知り、物質を求めるよりも先ず心を調える方に専念することが肝腎であります。

あなたが赦さない心をもっている限り、あなたは幸福にはなれません。
赦さない心は「縛る心」ですから、そんな心を持っている限り
あなた自身が縛られて幸福になけれません。

他(ひと)を赦しなさない。
自分を赦しなさい。

若し何か罪悪感をもっているならば、祈りによって神に赦しを願いなさい。
そしてすれに赦されたと信じて感謝しなさい。

             <感謝合掌 平成26年12月13日 頓首再拝>

幸せになるための10の法則〜その7 (2420)
日時:2014年12月20日 (土) 04時12分
名前:伝統

《第7法則》幸せになるには…プライドを捨てよう。

  @『神様』は人を本当の幸せに導くため、その人の魂の核を向上させるために
   「神試し・神篩い」をされます。本当にその人が「神中心」の想念を確立しているか
   どうかを試されます。その時は、その人のいちばん弱いところをついてこられます。

  Aさまざまな不幸現象は前にも述べたようにその人の罪の清算であると同時に、
   「神試し」である場合もあります。その「神試し」に対する考え方と、
   起こした行動によって合否が分かれます。

   それを「不幸現象」と思いこんで不平不満を言っていると、不合格になります。

   しかし、合格しても、『神様』はその人の弱点を補強してさらに魂を向上させる
   ための「神鍛え」を行います。

   特に、大きな役目を与えようと『神様』が思われている人には、
   大きな「神鍛え」が来ます。そこには一切の無駄はありません。
   すべてがその人の向上のため、よくなるための仕組みなのです。

  B「神鍛え」に対して大事なのは、「感謝」です。
   お鍛えに対しては素直に「あるがまま・なすがまま」に受け入れ、感謝し、
   それを楽しむくらいの想念が必要です。

       

             <感謝合掌 平成26年12月20日 頓首再拝>

ローマ法王が語る「幸せのための10カ条」 (2559)
日時:2014年12月29日 (月) 04時07分
名前:伝統

               *Web より

(1)人を裁かない
 
   フランシスコ法王は同性愛に関して「自分は裁くべき立場にない」と発言している。
   キリストも「山上の説教」の中で、
   「人を裁いてはならない。自分が裁かれたくないのなら」(マタイ7章)と語った。


(2)他人のために身を捧げる

   自分のお金や時間を必要としている人に与える。
   よどんだ水のようにじっとしていてはならない。


(3)静かに行動する

   20世紀初頭のアルゼンチンの作家リカルド・ギラルデスの小説から引用。

   人は若い頃は「あらゆる場所を急流のように流れる」が、
   年を取るにつれて「静かに穏やかに流れる川」になる。


(4)余暇を楽しむ

   大量消費社会は耐え難い不安をもたらした。
   子どもたちと遊び、休息を取らなければならない。

   次の買収のことばかり考えて過ごしてはいけない。

   お金ではなく、時間をうまく使う。


(5)日曜日は家族のために
 
   これは十戒の一節「安息日を設けよ」(出エジプト記20章)に由来する。
   週に1日は心の求めに応じ、瞑想(めいそう)、礼拝、家族との生活のために充てる。


(6)若者に仕事を
 
   若者が健全でいるためにはシンプルな仕事が欠かせない。
   フランシスコ法王はインタビューの中で雇用創出を環境破壊と結び付け、
   良い仕事がないのは、自分たち自身や地球に対する尊敬の念が欠けているからだ
   と指摘した。

   生産的な良い労働にこそ価値があり、華やかな仕事に就く必要はない。
   金持ちになる必要はなく、普通でいい。幸福はそこにある。

   良い仕事を持ち、他人のために良い仕事を創出する。


(7)自然に敬意を払う
 
   これは第6項にも関連する。
   フランシスコ法王は、「人類は無差別で横暴な自然利用によって自殺を図っているのか」
   と問いかける。

   多大な苦しみを伴わずに空気を汚したり、河川を汚染したり、
   樹木をむやみに伐採したりすることはできない。

   私たちの周りの不安や苦しみは、
   元をたどれば資源の不正利用に起因するのではないだろうか。

   私たちは自分の魂を浪費しているとも言える。


(8)悪いことはさっさと忘れる

   自分を困らせたり苛立たせたりする相手について不平を言ってはいけない。
   そうしたことはできるだけ早く忘れ去る。

   人のことを悪く言う人は自分自身がみじめになり、私たちもみじめになる。


(9)信教を強要し過ぎない

   改宗への勧誘は停滞を招くとフランシスコ法王は説く。
   自分はキリスト教徒だと公言したとしても、人にはそれ以前に個々の世界観がある。

   この教えは一見、キリストが世界への布教を促した「大宣教命令」(マタイ28章)
   に矛盾するように思えるが、フランシスコ法王はこの活動を緩やかに解釈し、
   実例による教えの方をよしとした。それがキリストの真意だったのかもしれない。


(10)平和のために働く
 
   フランシスコ法王は法王に就任した日からこの教えを説いてきた。
   エルサレムに行ってユダヤ人とパレスチナ人の連帯を働きかけ、
   平和のために祈り、平和のために働いた。

   「平和をつくる者は幸いである」というキリストの言葉そのままに。

         (http://blog.livedoor.jp/drazuli/archives/7447633.html

             <感謝合掌 平成26年12月29日 頓首再拝>

「幸せは自分自身の心の中にある」  (2732)
日時:2015年01月08日 (木) 04時52分
名前:伝統

         *『致知』2014年3月号
          〜 龍村仁(映画監督)・村上和雄(筑波大学名誉教授)対談より
     
・・・

映画『地球交響曲』――。


平成4年の初公開以来、延べ240万人に鑑賞されてきた
龍村仁監督のロングランヒット作として世に広く知られています。


とりわけ3・11の大震災以降、
「生命の大切さ」について考える機運が高まったからでしょうか。

現在、若い有志による自主上映会が増え、
これまでに5600回以上も上映され、全国各地に感動と覚醒をもたらし続けています。


すでに七作が製作され、目下、八作目に取り組んでいるといいます。


そんな龍村氏が作品づくりを通して掴んだ「人生を幸せに生きる秘訣」とは――。

・・・


村上 撮影中に意図せずしていい場面に遭遇することもあるわけですか。


龍村 あり得ないような偶然によって凄くいいシーンが撮れたことは、
   これまで何度もあります。

   例えば『地球交響曲』第一番にご登場いただいた野澤重雄さんは、
   1万3千個も実のなるトマトの巨木を作った方なんですが、
   最後のシーンに実が満開になっているところを絶対に撮りたかったんです。


   ところがちょうど同じ時期に、
   同じ作品に登場してもらった登山家のラインホルト・メスナーさんの撮影で
   どうしてもイタリアに行かなければならなくなった。


   野澤さんからは、「そろそろ実が落ちますよ」と言われていましたから、
   そこのところは一つの賭けだったんですね。

   野澤さんは「トマトは心を持っている」とおっしゃる方で、
   撮影当初から「トマトと話をしながら撮ってくださいよ」と言われていましてね。

   みんなで「おまえ凄いな」みたいに語りかけながら撮っていたんですが、
   イタリア行きに際して
   トマトから「どうするの? 」って問いかけを受けるわけです。


村上 それでどうされたんですか。


龍村 僕は、帰ってきた時にすでにトマトが命を終えていたとしても、
   それはそれでよいことだと受け止めることにしました。

   ただし待っていてほしいとは思う。
   それで毎朝心の中で「ちょっと待っていてくれな」と祈ったんです。

   そうしてイタリアの撮影が終わり、成田から駆けつけてみたら、
   なんと真っ赤なトマトが5千個くらい、ダーッとなっていたんです。

   奇跡的にあの感動的なラストシーンが撮れたんですよ。


村上 きっとトマトに思いが通じたんでしょうね。


龍村 野澤さんは、

   「トマトは心を持っている。
   私は、そのトマトの心に尋ね、トマトに教わりながら、
   成長の手助けをしただけなんです」

   とおっしゃっています。


   人間がコントロールしようとしてはダメで、
   トマトは本来、地球の条件を自分で感知して成長していくもので、
   条件が変われば そういう巨大な木になる可能性もあるというんです。

   残念ながらつくば科学万博でそのトマトが紹介された時には、
   特別な成長ホルモンで大きくしているような誤解を受けて、
   野澤さんの言いたかったことが伝わりませんでした。

   だから僕は、映画を通じて彼のメッセージをちゃんと伝えたかったんです。


村上 僕もつくば博であのトマトを見ましたがとても感動しました。

   あれは水と空気と日光を十分に受けられるような環境を整えることによって、
   トマトの潜在能力をスイッチ・オンしたものだと
   僕にはすぐ分かりました。


龍村 野澤さんの言葉で言えば、
   欲しいものはいくらでもあるから
   我慢せずにどんどん吸収していいんだよと、
   トマトに情報を与えているようなものだということでした。

   トマトが周りの環境を判断して
   あれだけの実をならせたことを心というなら、
   まさにトマトには心があるということになります。


村上 脳はないけど細胞があるわけですからね。
   細胞の膜で情報の判断をするというのは、
   心の働きとも通じるものがあるわけですよ。


(中略)


龍村 僕は『地球交響曲』のコンセプトとして
  「共に感ずるシンフォニーから共に奏でるシンフォニー」と
   謳っています。

   映像に登場するのは一見特別な人のように見えるかもしれませんが、
   彼らが話したり行なったりしていることは、
   実は皆さんも知っているはずだというのが僕の思いなんです。

   それはつまり、自分の命は自分の私有物ではなく、
   大いなる繋がりの中で生かされているということです。

   そのことを自覚すれば、
   もう感謝と祈りの心にならざるを得なくなるし、幸せに生きられると思うんです。

   幸せは結局、自分自身の心の中にあるわけで、 すべての命の営みは、
   人間同士であれ、人間と他の生命体であれ、過去や未来の人との繋がりであれ
   空気や日光であれ、あらゆるものとの双方向の創造行為なんですね。

   そのことを本当に自覚した人が、それを分かち合うことで幸せが広がっていく。

   そういう願いを込めて、共に感ずる、共に奏でると謳っているわけです。

   我われは、実はそのことをすべて知っている。
   それを思い出せばいいのだと僕は思います。


             <感謝合掌 平成27年1月8日 頓首再拝>



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