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光明掲示板・第三

 

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実相を観ずる〜「神想観」 (88)
日時:2014年09月04日 (木) 04時55分
名前:伝統

光明掲示板・第二「実相を観ずる〜「神想観」 (10714)」からの継続です。
  → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2061


(you tube)

基本的神想観の実修(正座)編 谷口雅春先生ご指導
  → https://www.youtube.com/watch?v=e-0C5q5qbYk

           ・・・


       *『生命の實相』第8巻・観行篇(P14〜15)より

有念有想でありながら、われわれの生命(せいめい)の親様を専念専思することによって
大生命に帰一し、この身このままで大生命と一体となり、

弘法大師が「即身成仏」と言われたような円融無碍の境地となり、
一挙手一投足がキリスト教で言うところの「みこころにかなう状態」になり、
日本古神道で言うところの惟神(かんながら)の生活ができるように

ならせようというのが、
わが「神想観」であります。

この修行においては、必ずしも念を排斥せず、招神歌(かみよびうた)によって
「神想観」を守護し給うべく顕われたまいし生長の家の神を招神(しょうしん)し奉りて

不完全な止観(不完全な精神統一)の中途の状態においてわれらに禍(わざわ)いせんとする
陰魔(おんま)、外魔(げま)、時魅(じみ)等の魔障を防ぎて後方の障礙(しょうげ)を
全然断ち、

同時に心をひたすら大生命なる親様に集中して、なんの危なげもなく、
親さまなる大実在と一体となる修行ができるところに特長があるのであります。

(中略)

霊眼で見れば、それとアリアリわかる守護の神に護られて、修行中の魔障の障(さわ)りを
断ちながら生命(せいめい)の親様なる無量光明生命に遍照されている相(すがた)において、
自己自身を専念(せんねん)心(こころ)に観ずる「神想観」の観法こそ他(ほか)よりも
完全な観法であります。

           <感謝合掌 平成26年9月4日 頓首再拝>

浄円月觀 (180)
日時:2014年09月08日 (月) 04時49分
名前:伝統

(正坐瞑目合掌し、普通の神想観の如く、
 無限の智慧、愛、生命、供給、歓び、調和の世界を観じたる後、次の如く繰返し祈る)

 神よあなたの無限の愛を吾れに流れ入れ給いて、
 吾れに於て愛の霊光燦然として輝き給え、
 然して、すべての人の罪を赦しすべての人々を愛したまえ。

(以下思念を次の通り繰返します)

 神の無限の愛吾れに流れ入り給いて吾れに於て愛の霊光燦然と輝き給う。

(坐れる自身の身長と同じ位の空色の浄円月の雰囲氣に包まれている自分を内観します)

 吾れに浄円月の雰囲氣ただよう。
 吾が雰囲氣は、やわらかく、あたたかく、清く、うるわし。
 
 すべての人々に平和と喜びを与え、すべての人の罪を赦し、
 すべての人を愛するのである。

(前に戻って繰返し念ずるのであります)

 
 *「浄円月觀」の詳細については、「詳説 神想観」(「浄円月観」)か、
  「”本流宣言”掲示板」内スレッド「中秋の名月 (4406)」にてご確認ください。
   ( → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=907 )



・・・以下は、『生命の實相』第39巻(P205〜206)より

次に掲ぐる浄円月の十大願を毎日聖経読誦の後または、神想観実修の直後に
朗々と誦して、自己の潜在意識に、月の円満なるがごとく円満なる実相を印象せられます
ならば、自己の雰囲気が浄化されて円満となり、人生に処しても何事も都合良く行く
ようになるのであります。


浄円月の十大願

(1)月の円満なるがごとく自心も欠くることなし。
   われ万徳を具足し、一切種智を成就せん。

(2)月の潔白なるがごとく自心も潔白なり。
   われ自性潔白にして性徳円満なることを実現せん。

(3)月の清浄なるがごとく自心も無垢なり。
   われ月のごとく自性清浄にして本より貪染(どんぜん)なからんことを期す。

(4)月の清涼なるがごとく自心も熱を離れたり。
   われ慈悲の水をそそいで、瞋恚(いかり<しんい>)の火を消さん。

(5)月の明照(みょうしょう)なるがごとく、自心も照朗(しょうろう)なり。 
   われ本より無明を離れて光明遍く照らす。

(6)月の独一(どくいつ)なるがごとく、自心も独尊なり。
   われ諸仏の尊ぶところ、万法の帰するところなり。

(7)月の円満なるがごとく、自心も偏りを離れたり。
   われ常に中道を極めて永く辺執(へんしつ)を越えんと欲す。

(8)月の遅からざるがごとく自心も速疾(そくしつ)なり。
   われ秘密の輪を転じて刹那に惑を断ち心を浄(じょう)に遊ばしめん。

(9)月の巡転するがごとく、自心も無窮に巡転す。
   われ正法の輪を転じて邪迷(じゃめい)の闇を破せん。

(10)月の遍く現ずるがごとく、自心も遍く静かなり。
    われ一体を分かたずして九界の前に現じ多身を仮らずして十方の土に臨み
    一切苦厄ある者の暗(やみ)を照らさん。

  (弘法大師の阿字円月観の説明の円月の十大功徳による)

           <感謝合掌 平成26年9月8日 頓首再拝>

神想観中に黙念する言葉〜その1【心の独立を得る言葉】 (372)
日時:2014年09月15日 (月) 04時55分
名前:伝統

          *『人生は心で支配せよ』(P33〜35)より

自分は今自己の生活を意識的に自分自身で支配する。

吾等は今より自分の考えようと思う事物をのみ考える。
自分は自分の生活に何事が湧いて来ようとも、
自己の心を支配することによってそれを支配するのだ。

吾等は自己の思想を日に日に一層よきものたらしめ、
創造を司る宇宙霊が、吾等に一層幸福なる状態にこの世界を創造してくれることを
信ずる。

吾等は至上の智慧に導かれんがために、真理についてのみ考えるのである。
吾等はあらゆる智能に優(まさ)った神的平和を獲(う)るために
信仰のことに就(つ)いてのみ考えるのである。

吾れは今愛の霊に充たされている。
吾れは今聖なる宇宙の心と調和している。
吾れは今心を開いて至上なる者の感情を胸に受けているのである。

吾れは今意識的に愛とそして智慧なる宇宙の心に接触している。
吾れは今神のみ側(そば)にはべって、
神が吾が力を新たならしめたまうのを待っている。

吾が心は今神の上にのみ注がれている。
それ故に、吾れはすべての人々に対して、又自分自身に対しても平和なのである。

如何なる禍(わざわい)も自分の上には降り注(そそ)がない。
愛の天使が自分の周囲をとり巻いている。

吾れはいま吾がいのちが神の子であることを知るが故に、
無限なる者の力をうけて歩むのである。
吾らは神の子として生きて決して奴隷の如くには屈従しない。

われは法則を守り、法則は吾れを護るのである。
われは法則に従い、法則はに吾れに従うのである。

吾れは無我の聖悦に充たされながら、神に吾が胸を打ちまかす。
今此の時、吾れは神の援助の慈手(やさしきみて)が吾が上に来ていることを感ずる。
吾れは歓喜(よろこび)に充たされている。

吾れは強し。吾れは今生命と愛とを吾が裡(うち)に感ずる。


  神想観の坐法、態度、静観時の呼吸法等に就いては、『生命の實相』観行篇、『静思集』
  『詳説神想観』『新聖光録』に詳記してあるから参照せられたい。

           <感謝合掌 平成26年9月15日 頓首再拝>

神想観中に黙念する言葉〜その2【新たに生まれる言葉】 (597)
日時:2014年09月24日 (水) 04時52分
名前:伝統

          *『人生は心で支配せよ』(P46〜47)より

吾れはいま力と勇気をもつて新生し、新しき日の仕事と生活とに向うのである。
吾れは今わが仕事にあふるる熱誠をもつて赴く。
吾れは歓びに満たされて進み行く。

そは吾れいま吾が求むるものは凡(すべ)て神より与え給うと信ずるからである。
吾れは今吾がうちに神が宿り給うことを知る ―― この感じを失わない。    

吾れは今日も終日(ひねもす)吾れを支えて呉れる無限全能の力を   
わがうちに感ずるのである。何が吾れに起って来ようとも、それに対する準備が 
与えられていないという事はあり得ない。

吾れに智慧が必要ならば其の智慧は既に与えられているのである。

吾れに勇気が必要ならば其の勇気は既に与えられているのである。
吾れに力が必要ならばその力は既に与えられているのである。

吾が内なる生命は、神と融(と)け合つて一つとなっている。       
「吾が内より生命の清水(しみず)は無限に泉(いず)み出る」のである。   

「真理なる神は吾れに凡てを教えたまい、真理の道にわれを導き給う」のである。
吾れは全能の力によって守護されているのである。

吾れは無限の力の泉を自己の衷(うち)に有する。
不思議なる力と平和とがその泉から湧き出て来るのである。

今日われに接する人々は、
わが雰囲気に大いなる魔力の如き力のあることを感ずるであろう。

吾れはこの魔力の如き力が、吾が内に宿れる「無限なる者」の力で
あることを知るのである。

           <感謝合掌 平成26年9月24日 頓首再拝>

「実相覚」によって真の自己を把握するのが神想観 (742)
日時:2014年10月02日 (木) 04時20分
名前:伝統


神想観中に黙念する言葉〜その3以降については、
別の掲示板(谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐)にて続けていきます。

→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=28

・・・


《「実相覚」によって真の自己を把握するのが神想観》

         *「詳説神想観」(P19〜22)より

存在(もの)の実相を捉えるには、吾々は「実相覚」によって「一つの神」即ち、
在りとし在らゆるものを在らしめている一つの力を認めねばなりません。

本当の人間 ―― 神が造ったままの人間 ―― 私が常に「真の人間(リーアル・マン)」
又は「神人(ゴッド・マン)」と言っている人間は物質の人間ではないのであります。

それは円相の人間、光明身の人間、自在身の人間、清浄身の人間、虚空身の人間、
無憂苦の人間、絶対無病の人間 ―― いくら吾らが上等の最上の言葉をもって説明しても、
この物質界の事物を形容するためにできている吾々の通用語ではとても説明のしようがない
ほど完全な人間であります。

そんな人間がこの世界に実際あるものかと疑う人もありましょうが、
皆さん各自が、今現に実相の世界においては、この霊妙な円相の人間、光明身の人間、
自在身の人間、清浄身の人間・・・等であられるわけで、それが本当の《あなた》なのです。

この「真の人間(リーアル・マン)」を措いてその他にあなたはないのであります。

あなたは真の人間 ―― 即ち「神の子」なのであって、今あなたが、
これこそ自分の身体(からだ)だと思っているその肉体は「ウソのあなた」
「念の影のあなた」なのであります。


本当の自分の実相は、今も厳然として実相の世界に存在する。
今までも天地と共に生き通してきた。

これからも天地と共に、生き通して朽ちず老いず苦しまず、病まず、
悩まざる円相的妙楽の存在、金剛身、不可壊身、無量無辺身、自由自在身、久遠の如来、
アブラハムの生まれぬ前(さき)より在るところの「久遠のキリスト」なのであります。

今まで自分達の実相をこの肉身であると思っていたのは自己の真性を磔(はりつけ)に架け、
自己の実相をエデンの楽園から仮に追放して有限身をもって無辺身に換え、
有限生命をもって無限生命に換え、自己の生命の実相を蔽い隠していたのであります。

その蔽いを取去って自己の内に宿るキリストを復活せしめる。
これがキリストの再臨であり、普賢菩薩の在す実相浄土「東方淨妙国土」の
地上再臨なのであります。

これこそ一切苦厄を度(すく)う神癒の根本原理であって、
この原理を、自分に宿る真理と宇宙に存する真理と相触れてカチカチ鳴る底の
直接的認識作用すなわち「実相覚」によって覚らなければ、吾々は「本当の自分」を
把むことができない訳で、

この自己を把むためにする修行が神想観の修行なのであります。

           <感謝合掌 平成26年10月2日 頓首再拝>

神想観の目的 (1023)
日時:2014年10月13日 (月) 04時53分
名前:伝統

      *『生命の實相』第15巻・人生問答篇(P89〜91)より


大川(兄)―― ある人の説によりますと「神想観」の招神歌(かみよびうた)は
        たんに精神統一の手段だから、別にあのとおり唱えなくともよい。

        「松の木、松の木」と唱えても「一二三四」(ひとふたみよ)と唱えても
        同じことを何遍も唱えておればそれでよいとおっしゃいましたが、

        わたしは「松の木、松の木・・・では満足できん、
        やはり神様を招(よ)ぶ歌でないといかぬように思う」と言って
        争ったことでしたが、先生の御意見を伺いたいと思います。



谷口   ―― 招神歌(かみよびうた)は精神統一のたんなる手段ではありません。
        それは精神統一のたすけにもなりましょうが、
        精神統一をして何も考えなくなると云うことは
        別に大して結構なことではありません。

        《何を対象として精神を統一するか》ということが肝心なのです。

        すべてのものを生かしている神、生きとし生けるものを生かしている神、
        これにひたすら精神を統一して「神すなわち我(われ)」の自覚に入る
        ことが肝心で、これこそ「神想観」の目的なのです。

        「松の木」という言葉に精神を統一して、
        「松の木か、我か、無差別」の境涯に入ったとてなんにもなりません。

        仮に、われわれは精神統一をすればよいのであるからどんな言葉に
        精神統一をしてもよいということになれば、われわれは「病気、病気」
        ということを唱えて精神統一をしても良いと云う事になるでしょう。

        そうなると病気ということばに精神統一をして
        「病気か、我か、無差別の境涯」に入れば、どうなると思います。
        その人は病気になってしまうでしょう。

        今、世の中に病人が多いのは、人類の多くが「病気という言葉」に
        精神を統一しているからなんです。

        新聞を《一心》に読んで精神統一状態になっているときに、売薬の広告
        などで「病気の実在」ということを“心の鏡”に映されたがために
        病気になっている人が世の中にどれほどあるでしょう。

        たんなる精神統一を非常に結構のように思っている方がありますが、
        精神統一そのものは可もなく、不可もなく、澄んだ鏡のようなもので、
        それにいかなる念(こころ)の影を映すかということでその価値が
        きまるのです。

        「松の木」というものに精神を統一すれば
        「松の木」だけの価値しか発揮されぬし、

        「病気」というものに精神を統一すれば、
        「病気」だけの力しか発揮されぬのです。

        「大実在たる無限の生命」に精神を統一するとき、
        われわれは無限の力を発揮することができるのです。

        これこそ「神想観」であって、
        たんなる精神統一は野弧禅に終わることがあります。



大川(兄)―― 「神想観」をして無我になって何もわからなくなったという人が
        よくありますが、何もわからなくなってよいのなら寝てしまったらよい
        とわたしは言うのです。



谷口   ―― 何もわからぬどころではない、真理をはっきり解っての上での
        不動の心境でないと本物ではありません。

        真理すなわち「神に生かされているということ」を知るために
        精神統一をするのです。


           <感謝合掌 平成26年10月13日 頓首再拝>

何故、『神想観』や祈りが必要か (1290)
日時:2014年10月25日 (土) 04時40分
名前:伝統

           * 『白鳩』(S.42年5月号)より

あなたが『神想観』を実修して、神のつくりたまえる霊的世界の実相を観じ、
その霊的世界に住むところの完全なる霊人(肉体は自己に非ず、内在の霊の仕事服である) 
こそ自己であることを自覚しようとつとめるとき、

その自覚の程度に応じてあなたは、
実相世界の天国的状態を現象世界に持ち来しつつあるのである。

あなたの意識を媒介として、天国が地上に映写されて来るのである。

『神想観』も祈りも、神様の意志を動かして
特別にあなたに恩恵を余計に与えるようにするものではないのである。

神は善人にも悪人にも太陽が同じように光線を与え給うように、
既に平等に恵みを与えていられるのである。

ただそれを充分受ける心構えの出来ている人と、
それを受け得ない ”心の波長”をもっている人との区別があるだけである。

神は ”恵み” の完全な放送局みたいなものである。
テレビ・セットが整備されていないで放送される ”恵み” の画像が
完全に現れないからとて、放送局が悪いのではないと同じく、神が悪いのではないのである。

『神想観』も祈りも決して神の心を動かすための懇請ではなく、
結局は、あなたの ”心のテレビ” を ”神様放送局”のチャンネルに
波長を合わす働きをするものである。

http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/23809507.html

           <感謝合掌 平成26年10月25日 頓首再拝>

『観普賢菩薩行法経』の功徳 (1477)
日時:2014年11月04日 (火) 04時58分
名前:伝統

           *『白鳩』誌(S.50年6月号)より

『観普賢菩薩行法経』には、自己の実相を普賢菩薩として観ぜよとあります。

〃普賢〃とは宇宙に普遍する理性(りしょう)の顕現であり、
〃観世音〃とは宇宙に普遍する観自在の原理であり一仏一切仏でありますから、
自己〈又は相手〉を普賢菩薩と観ずるのも、観世音菩薩と観ずるのも、
結局は、実相を観ずるのと同じことになるのであります。

『観普賢菩薩行法経』には、
「此の観の功徳は諸々の障礙を除いて上妙の色(しき)を見る」とあるのであります。

〃色(しき)〃というのは波動によって顕現している姿を指すのでありますが、
現象界では「色即是空」と称する場合の如きに於いては、〃色〃は物質を指しますが、
天人が色身をもつという場合は、霊的波動の体をもつことであります。

病で苦しんでいる肉体などは「上妙の色」ではなく、「低次の色」でありますが、
観世音菩薩や普賢菩薩の霊身を拝するのは「上妙の色」を見るのであります。


 『観普賢菩薩行法経』には、

    無量の勝方便は実相を想ふより得
    一切の業障海は、皆妄想より生ず
    若し懺悔せんと欲せば端坐して実相を念へ
    衆罪は霜露の如く、慧日触く消除す。       とあるのです。


〃懺悔〃というのは〃洗浄〃するという意味で、浄心行であります。
一切の業障海は ―― 即ち業が障りとなってあらわれている世界海は ―― 
皆妄想より生ずというのは、

「人間は神の子だから子宮脱などは無い。それがアルように見えるのは妄心で見るからである」
という箴言がありましたのを思い出して下さい。

一切の悪業の障りによって出来た世界などは、本来〃神の創造〃ではないから本来無いのです。
その〃無い〃のがアルと見えているのは妄想又は妄心がそのように見せているだけである。

だから、その妄想を消してしまえば業障も消えてしまう。

その妄想を浄化して消滅するには端坐〈正しく坐る〉して実相を念じたならば
衆(もろもろ)の罪は、太陽の光の前にある霜や露みたいに、
智慧の日光が消してしまうというのが「慧日能く消除す」であります。


    〈※註:〃業障海〃とか〃世界海〃とかいう風に〃海〃という字が附いているのは
    現象界は海のようなもので、表面は波立ち常に変化するが、深海の奥底は静かで不
    動であるという意味で〃海〃とつけるのであります〉

http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/23752873.html


           <感謝合掌 平成26年11月4日 頓首再拝>

座禅的瞑想にしても (1517)
日時:2014年11月06日 (木) 12時03分
名前:一寸法師

伝統様 いつもありがとうございます。

 祖師は、「神想観」を“座禅的瞑想”と言われたことかありました。

 「生長の家」を家出してから、もう八年になります。最近は、神想観を重視しなくなってきた…と聞きますが、それはそれでよかっなぁと思います。

 正直いって、現在神想観を正しく、かつ厳しく教導される教化部長、講師は存在しないと思います。

 かって、総本山の菅原総務が団参の講話で「丹田力」(地天泰チテン タイ)を強調されていたのが印象的だったが、“杜の事務所”に鎮座している姿からは「明鏡止水」「泰然自若」にはほど遠い。彼もまた、神想観ゴッコを通してサトリを得たふりをしている、知的求道者の一人であるのだろう。

 この先、「生長の家」が糺され、正常化されるのがどれくらいかかるかわからないが、伝統様はともかくも、不肖一寸法師はもはやこの世にはいないと思っている。

 


”一寸法師 さま” に感謝です! (1535)
日時:2014年11月07日 (金) 07時46分
名前:伝統

”一寸法師 さま” ありがとうございます。

>祖師は、「神想観」を“座禅的瞑想”と言われたことかありました。

<参考Web:神想観チャンネル
       → http://seinenkai.jp.seicho-no-ie.org/?cat=13 >


・・・

>正直いって、現在神想観を正しく、かつ厳しく教導される
>教化部長、講師は存在しないと思います。

もし、そうだとしたなら、嘆かわしいことです。
そうでないことを祈るのみです。


・・・

>「丹田力」(地天泰チテン タイ)を強調されていたのが印象的だった

地天泰 という言葉は、小生は知らなかったので調べてみました。

@「泰」は泰平、安泰の泰であり、やすらかで落ち着いている、安定しているという意。
A地天泰は、大地が太陽のエネルギーを受け入れた象です。
B地(陰)は下り、天(陽)は上り、それらが互いに調和融合するのが良い、
 というのが地天泰の意義。
C泰は地という器に天というエネルギーが注入される格好。


谷口雅春先生は、「詳説 神想観」にて、丹田に関し、次のように述べております。

(1)神想観の呼吸法も神から教えられたもので、
   それが自ずから生理的理由にもかなっているのであります。

   丹田に力が下り息ができるだけ穏やかな状態が最も心が統一できやすいのであります。

   (P95〜96)

(2)「イキ」は「イキル力」である。
   空気を吸うのではなく、空気の奥に「イキル力」を吸うのであります。
   吾々自身の本体は「イキル力」です。                (P96)

(3)(神想観のときは)下腹(=丹田)に適当に力を保っている方がよいのです。(P97)

(4)お尻をウンと引いたそのままの位置で体を起こし、尻を引いたまま
   お腹を張り出して腰をしっかり据えます。               (P103)


まとめると、神想観は臍下丹田(せいかたんでん・ヘソの下の下腹部あたり)でゆったりと
“腹式呼吸”をしつつ、息とともに神さまの無限の生かす力が流れ入り、満たされていると
思念します。


さて、今日11月7日は、「立冬」で「満月」です。

この日は、宇宙エネルギー(天地エネルギー)が入る日といわれ、
天から陽のエネルギー、大地から陰のエネルギーをたくさん吸収することができるそうです。
神想観で、天地の陰陽のエネルギーを、いつも以上に充電する機会でもあるようです。

さらに、素足で土の上を歩いたり、木のそばに立つなどすると、
天から陽のエネルギー、大地から陰のエネルギーをたくさん吸収することができ、
マイナスイオンもたっぷり取り込めるとされます。


・・・

>総本山の菅原総務が・・・
>“杜の事務所”に鎮座している姿からは「明鏡止水」「泰然自若」にはほど遠い。
>彼もまた、神想観ゴッコを通してサトリを得たふりをしている、
>知的求道者の一人であるのだろう。

小生は、菅原総務・・・という方は存じ上げませんので、何ともお応えできませんが、
「ほとんどの人が知的求道者の一人である」という”一寸法師 さま”の言葉は否めません。

多くは今、知的求道者から行的求道者へとのステップアップ中であると観じております。


・・・

>この先、「生長の家」が糺され、正常化されるのがどれくらいかかるかわからないが、
>不肖一寸法師はもはやこの世にはいないと思っている。

おそらく、悠久の時の流れから俯瞰すると、現在の「生長の家」の諸問題は、
闇夜で蠢く魑魅魍魎の輩によるお遊びなのかも知れません。

早々に、鶏鳴一声で、闇夜が明ける時が来るように働きかけ続けるのみです。

「生長の家」の天の岩戸開きには、顕幽両界からのエネルギーが注がれますから、
万一、”一寸法師 さま”があの世に移られましても、
”一寸法師 さま”が活躍される機会はたくさんありますので、大丈夫のようです。

           <感謝合掌 平成26年11月7日 頓首再拝>

「・・・を学ぶ」と「・・・に学ぶ」 (1543)
日時:2014年11月07日 (金) 12時24分
名前:一寸法師

伝統様 いつもありがとうございます。

 このたびは一知半解な妄想文に対して、懇切なご賢察をお示しくださり感謝いたします。

 さて、昨今の「生長の家」の混迷というか、もはや末期症状の体たらくにしか過ぎない様相を野次馬の一人として眺めていると、滑稽というよりも、ただただ哀れとしか言いようがありません。

≪現在の「生長の家」の諸問題は、闇夜で蠢く魑魅魍魎の輩によるお遊び・・・。

と伝統様のように、實相直視の立場にいるのが問題解決の本道ではあるでしょうが、もし(歴史にもしはないが)、谷口雅春祖師が御存命ならばいかなる差配を振われるのだろうかと常々考え込んでいます。

 ところで、スレッド名「・・・を学ぶ」と「・・・に学ぶ」ですが、折々「神想観を学ぶ」と「神想観に学ぶ」とは違うのではないかと思っているのですが、脳内で堂々巡りをするだけで未だ明快な解は得られていません。

 これまでにも、教化部長や講師様など先達のお歴々に尋ねてきましたが、「テニヲハ」の問題でどっちでもよい。「それより神想観をしっかりやれよ」と叱責がかえてくるだけでした。

 御多忙な伝統様には御迷惑とは思いますが、積年の耄碌老爺の愚問に明確な指針を分与賜りますよう伏してお願いいたします。




「神想観は日常生活を教える」 (1557)
日時:2014年11月08日 (土) 04時47分
名前:伝統


”一寸法師 さま” ありがとうございます。

>谷口雅春祖師が御存命ならばいかなる差配を振われるのだろうかと常々考え込んでいます。

小生もそのように考え込むことがありますので、”一寸法師 さま”と同じ思いです。

ただ、谷口雅春先生が御存命ならば、
混迷となる種を、事前に刈り取っていたのかも知れません。



>「神想観を学ぶ」と「神想観に学ぶ」

申し訳ないのですが、小生にも、明快な解はわかりません。
ただ、概略的には、前者は技法がイメージされ、後者は全体の概念がイメージされます。

そうは言っても、

彼岸から此岸へ戻ってきて間もなく2年になるほどの”一寸法師 さま”ですから、
”一寸法師 さま”の足元にも及ばない小生より、

”一寸法師 さま”の方が、
その明快な解にたどり着ける可能性を大きく有しているように観じております。

問いを持って求道している”一寸法師 さま”に、輝きを感じます。

・・・

さらに、スレッドを先に進めてまいります。

以下は、「詳説 神想観」(P187)からの抜粋です。


「神想観は神想観を教える」と同時に、
「神想観は日常生活を教える」ので、
日常生活の意義が一変するのです。

心の姿勢を正しくすれば、身体の姿勢は正しくなり、
身体の姿勢が正しくなれば、常住坐作進退、法にかなうことになり、
従って実生活も軌道にのり万般の事物順調に行くようになります。

           <感謝合掌 平成26年11月8日 頓首再拝>

「生長の家の神想観に就いて」 (1779)
日時:2014年11月18日 (火) 05時01分
名前:伝統

           *『生長の家』誌<昭和5年7月号 (第5号)> より 

吾々 「生長の家」 では就寝前に合掌正坐して
 「神想観」 を十分間修行をするのであります。 

即ち此の合掌を霊交のアンテナとして生きとし生ける物を生かし給える
無限智、無限光明、無限生命と一体となると観じ、吾れの全身の細胞ことごとく光明遍照の
 「神詰ります」 姿で見、或は阿弥陀仏の無量光に遍照されている姿で見、
或は十字架より照射する霊光に全身の罪が洗い清められた姿で見、

吾が五尺の身体の力で生きるのではない、
無限智、無限愛、無限光明、無限生命、無限力で生かされていることの
深い深い信頼と平和と有りがたさとで心を充たしてから眠りに入るのであります。

この 「神想観」 における観念の持方は、私自身だけに就いていいますれば、

吾れは生きとし生けるものを生かし給える無量無限の大生命に生かされていると
観ずるのも 〈自然科学的な見方〉、 

吾れは光明遍照の‘神詰まります姿’であると観ずるのも 〈神道的な見方〉、 
吾れは阿弥陀仏の無量光に遍照されていると観ずるのも 〈仏教的な見方〉、 

吾れは十字架より照射する愛の霊光で一切の罪が洗い清められていると観ずるのも
 〈基督教的な見方〉、 

結局ピッタリと同じ一つの真理に熔かされて感じられるのであります。

        (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/18564105.html

           <感謝合掌 平成26年11月18日 頓首再拝>

『神想観』の本義 (2019)
日時:2014年11月28日 (金) 03時26分
名前:伝統

         *「生長の家本部道場(昭和40年5月30日)御指導」より

神想観をおやりになるには、
本当に‘真剣な’、その‘真剣さ’というものが必要だと思うですね。 

‘真剣さ’がある処に本物が出て来るのであって、
ただ型だけを真似しているというのでは、本当の神想観にならないと思うのであります。


『詳説 神想観』36頁に、神想観は実相観なり
 ―― 与えられた勘定書を正確に算出する「祈り」なりとあります。 

我々は神の子として、親譲りの素晴らしい財産が ―― 財産と言っても
物質の意味ではないんですが ―― あらゆる善きものが ―― ちゃんと勘定書に
正確に書かれて、与えられているわけなんです。 

それを、神想観して素直に遺産相続を受けて、
正確にその受けとったものを算出する祈りであると、
そういうように書かれているわけです。 

そして正確にその勘定書を受けとれば、今、皆さんのおっしゃったような、
色々の功徳がその勘定書に出ているということになるわけなんです。


それで、次の37頁には、
“神想観は現象観ではない、神を讃美する「祈り」である” とあります。 

本当に実相の世界にありとあらゆる善きものがあって、
既に我々にそれが与えられているということが解れば、
自然に神を讃美する心が起り、祈る心が起って来るということになるわけであります。

そして神想観が本当に喜びの神想観、讃美の神想観、感謝の神想観になる。 
それが、そうならないのは、まだ本当に実相に於いて凡てのものが与えられている
という自覚が乏しいというわけでありまして、

やっぱりその自覚を導き出すために本当に感謝の心が起らなくっても、
感謝の心を無理に起すようにすると、それが迎え水のようになって、
実相世界の完全なものが現われて来るということになるわけです。


この神想観は、単に或るものを波長合わすようにこう観るんだったら、
これは神さまとの人格的まじわりというようなものが乏しくって、
機械的になりまして、宗教的体験として出て来ないということになるのであって、

そこでこの “神想観は神様との人格的まじわりである” 
ということを知ることが大切であります。


38頁の終りの行に  
“実相の神は南無阿弥陀仏と呼べば、阿弥陀仏の姿を現じ給う神様であり、
生長の家の神様と呼べば生長の家の神様を現じ給う神様であります。 
吾々が実相の神に祈るのは、現象界へ実相の神を呼ぶのであります。 

「衆生仏を憶念すれば仏衆生を憶念し給う」 と云う語がありますが、
神は実相界に遍満し給う神でありますから、呼んでも呼ばなくとも
満ちてい給う神様であります。 

が、呼ぶとき其処に人格的交渉があらわれ人格神として応現し給う”  

と書いてあります。


此処に宗教的体験としての神想観が出て来るので、
単に波長を合わせばいいというような機械的祈りではないということになるわけです。 

それで人格的祈りということと、観法ということが、一つに合体して調和したもの
 ―― これが神想観である ―― わけで、
それがその次に書かれているわけなんであります。


此の本の42頁には “行住坐臥の祈り” が書いてあります。 

これは一定の時間に坐るというだけが神想観ではないんで、
行住坐臥、神を念じ、実相を念じ、実相の中に今、自分が居り、
神と自分とがいつも一緒にいる、ああ、有難うございますという、

その念の中に生活すること ―― この行住坐臥の神想観をしていますと、
無限の愛であり、無限の智慧である神様の背中に、いつも‘おんぶ’されて
生活しているんだ、或はその神様に手を引かれてこの世界を歩いているんだ
というような境地になるわけでありまして、

そうすると何も恐るべきものが無くなって、常に神様が守っていて下さり、
正しい方向に導いて下さって、必要な一切のものを与えて下さる父であり、
母であるその神様といつも一体である ―― という自覚が出来てくるわけなんであります。

其処に本当に神想観は最高の喜び、最高の幸福であるということが解るわけでありまして、
これが行住坐臥の神想観であるというわけであります。

次に一定の時間に、坐って神想観をする場合ですね、

それは44頁にあるように、祇管唯観実相であって、 

「欲する事物を心に描いてそれを呼び出す方法」 などと考えてはならないのであって、
それ以上のものであるわけであります。


この神想観の一番の根本にあるものはですね
 ‘この世界は神のみが実在であって、一切の悪はない’ ―― という大前提を
しっかりと把んで、

どんなに悪があらわれていても、病気が出ていても、どんな不調和が現われていても、
そんなものは無い! と唯善一元、神一元、神の外何もないという唯観実相一元観に
立つことが必要であって 

「善も悪も色々あるのでその中の善に対して私は波長を合わすのである」 
というような考え方では、それは二元的な考え方に堕して本物ではないわけです。

“神、その造り給える凡てのものを見給いけるに、甚だ善かりき”〈創世記〉。 
もう既にある完全な実相を唯、観ずるものであるということが
44頁の終りから6行目にありますね。 

そして神想観は全身が真理となること ―― つまり真理とは実相ですね。 
唯善だけがある実相と自分とが一枚になってしまう。 もう外に何もないんです。 

善一元・神一元の世界 ―― 
そうなった時が即ち、神想観の三昧境ということになりまして、
もう何とも言いようのない、至美至妙・金剛不壊の実相身を自分の生命の上に体得した
ということになるわけであって、

これが神想観の本義であり、功徳は自ずから其処に出て来るわけであります。

      (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/17879052.html

           <感謝合掌 平成26年11月28日 頓首再拝>

“真理の霊” を呼び出す (2236)
日時:2014年12月09日 (火) 03時37分
名前:伝統

          * 『生長の家』誌(昭和33年6月号)より

わが内に宿る生命は神より来れるものである。
神は完全であるがゆえに、わが生命も完全である。

真理を知るならば、わが生命が完全であることを知ることができるである。
真理は一切の迷妄を打ちくだいてしまうこができるのである。


常に真理の書を読むことが必要である。
真理の書を読めば、真理の霊がわれを導きたまうのである。

言葉は種子であり、 『真理の言葉』 は 『呼び水』 となって
自己の内に宿るところの完全なる実相を呼び出すことになるのである。

神想観をする前に、真理の書を読み、信仰心を高めて置いてから、
それを実修するならば一層効果が多いのである。

 
神想観は現象の一切の矛盾を超えて、実相の調和した世界に躍入せしめるのである。

朝起きて神想観。 夜眠る前にも神想観。

http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/25628764.html

           <感謝合掌 平成26年12月9日 頓首再拝>

一向専心至心廻向、神想観しましょう (2443)
日時:2014年12月21日 (日) 05時00分
名前:伝統

               *「女は愛の太陽だ」(P194〜195)より

自分の魂の波長を、神の霊波に波長を合わせるためには、
”一向専心至心廻向称名念仏”ということが必要である。

”一向”とは”ひたすら”であり、”専心”とは”心をもっぱらにする”ことである。
”至心””高度に頂上まで高め上げた心”である。
”廻向”とは神又は仏に対して”心をクラリと廻(めぐ)らし振り向ける”ことである。

”称名念仏”とは、”神の名(みな)又は仏の名を称えて念ずる”ことである。

即ち、「ひたすら心をもっぱらにして心の緊張度を頂上まで高め上げて心を神(又は仏)
の方に振り向けて、神の名を称え念ずるがよいのである。
(これを神仏一元の生長の家の万教帰一的立場からいうのである)

その「至心廻向称名念仏念神」こそ神想観の極致である。


神想観を毎日一定時間に実修し、ひたすら専ら心を神に振り向けて、
個我が自然に消滅してただ神のみ ―― みほとけのみ ―― の存在が自分と知るとき、
自分と神とは不可分の一体となり、神の生命は滔々と流れ入り、
自然良能は旺(さか)んとなり身体はますます若く健康になるのである。

また神の叡智が渾々(こんこん)と流れ入って必要なときに必要な智慧が与えられ、
そこから事業が発展し、新しき良き計画が思い浮かび、問題があれば速やかに調和した
相(すがた)で解決し、家庭は調和し、あらゆる点に美と調和と健康と繁栄とが
得られるのである。

その根本は何といっても神想観の実修により、
全能全智の神との一体感が意識の深層に打ち建てられるということである。

           <感謝合掌 平成26年12月21日 頓首再拝>

日々「神想観」をして実相の完全さを観るべし (2599)
日時:2014年12月31日 (水) 06時09分
名前:伝統


          *谷口清超先生著『伸びゆく日々の言葉』(P266〜267)より

人は名月を見て、心を清め、その美しさを讃嘆(さんたん)する。

するとこの世の雑念妄想から、一時的にも離れることが出来る。

そのように円満完全な「実在」を毎日心で瞑視(めいし)して、神想観を深めていると、
雑念がさり、神の国の美しさや素晴らしさが、ありありと実感されてくる。

そして自動的に神国の如(ごと)き「設計図」が描かれ、
それが実現する方向に進むのである。

           <感謝合掌 平成26年12月31日 頓首再拝>

神想観によって富嶽の如く常に精神を安穏たらしめよ。 (2747)
日時:2015年01月09日 (金) 03時27分
名前:伝統

《富嶽の静かなるが如く動ぜず》

           *「女は愛の太陽だ」(P113〜114)より

常に神想観を怠らず、自己を”神の子”であり、身体は健全であり、
心気は悠然としているのであり、気宇は偉大であり、何事にもコセコセしないのであり、
常に落ち着いているのであり、物事に動じない自分であると観じて、

富嶽の如く須弥山(しゅみせん)の如く常に精神を安穏たらしめよ。
現象の変化によって自分の心を動揺せしめてはならないのである。

その時、あなたは先ず何を為し、その次には何をなすべきかが分かってくるのである。
而して常に第一のものを第一に為して、目先の利益に捉えられてはならないのである。

《神と自己との一体感を求めよ》

神想観を修して、更に一層”神の子”たる自覚を明らかにして神の智慧と愛と生命と
その護りと無くてはならぬ一切の供給に囲繞(いにょう)せられているだけではなく、
自己の全身に神の智慧と愛と生命とが滲透し充ち満ちていることを確認せよ。

神は絶対者であり、神は絶対の愛であるから、それに導かれている自分には何一つ
恐れることは生ぜず、自分の生活に及び地上に必要なるものは何一つ供給されない
ということはあり得ないのだということを確信せよ。確信は実現の力である。

あなたは毎日毎日神想観を実修することによってこの確信は深まり、
確信の深まるにつれていよいよますます幸福が来るのである。
                        (谷口雅春著『詳説神想観』参照)

           <感謝合掌 平成27年1月9日 頓首再拝>



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