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光明掲示板・第三

 

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今を生きよ! (135)
日時:2014年09月06日 (土) 04時09分
名前:伝統

《あなたが生きるべき時は、「今」しかない》

          *『生命の實相』第30巻聖典講義篇(P280〜281)より

「今」の連続が持続してわれわれの生活は成り立っているのであります。
ですから、「今」生きなければ生きる時は一つもないのであります。

「今日(こんにち)一日主義」というのを唱えた人もありましたが、
「今日(こんにち)」のどの時間を生きるかと申しますと「今」を生きるのです。

「これは善いことだけれども明日(あす)にしよう」などと考えているような人は、
とても成功のおぼつかない人であります。

「生長の家」へ来て病気が癒(なお)りたいという人でも、
この「今」の生活を捉えない人はなかなか治らないのであります。

(中略)

明日か、明後日か、その次の日かを期待している人は永遠に機会を掴むことのできない人です。
事業をするにしても「今」思い立ったらすぐする。

「今」思い立った時に、素直にこれは神が与え給うたことであるとして、
ただちに実行に移り移りうる人は心の柔軟性を保っている人であります。


取り越し苦労のない生活を送る秘訣は今思い立ったことをすぐ実行するにあります。

・・・

<関連Web>

(1)「“本流宣言”掲示板」内スレッド「人生の時間銀行 」
   → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=1357 

(2)「光明掲示板第一」内スレッド「「今」を全力を出して戦いとれ」。
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=302

(3)「光明掲示板第二」内スレッド「“今”を生かせということ (28)」
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=16

             <感謝合掌 平成26年9月6日 頓首再拝>

「今こそ出発点」 (346)
日時:2014年09月14日 (日) 04時43分
名前:伝統

        *尾関宗園(臨済宗大徳寺派大徳寺大仙院住職)語録より

人生とは毎日が訓練である

わたくし自身の訓練の場である
失敗もできる訓練の場である
生きているを喜ぶ訓練の場である

今この幸せを喜ぶことなく
いつどこで幸せになれるか
この喜びをもとに全力で進めよう

わたくし自身の将来は
今この瞬間ここにある
今ここで頑張らずにいつ頑張る

             <感謝合掌 平成26年9月14日 頓首再拝>

本日ただ今がしあわせの原点 (593)
日時:2014年09月24日 (水) 04時41分
名前:伝統

      *「幸せな気持ちになる不思議な本」福田 純子・著(P57〜60)より
 
明日という字は、「明るい日」と書きます。
「明るい」という字を、よく眺めてみましょう。
お日さまとお月さまが仲よく並んでいる姿です。

その「明」にもう一つ、お日さまがついて、「明日」です。
お日さまが二つにお月さまが一つですから、いやがうえにも明るいわけです。

「若い時は二度とない」といいますが、実は「『若くない時』も二度とない」のです。
人生に二度ある時は、一つもありません。
いつも「永遠の今」しかないのが、人生なのです。

夜が明けて「明日」になれば、その日は「今日」で、
そのまた夜が明けて「明日」になれば、また「今日」です。
朝のこない夜がないように、「明日」のこない「今日」はありません。

昔の人は、その日その日を大切に生きろと説明するために、
太陽のことを「今日(こんにち)さま」といいました。

あるいは、お年寄りが「お天道さまに申し訳ない」などと
囗にするのを聞いたことがありませんか。

人間は昔から、お日さまを大切にし、
本日ただ今がしあわせの原点であることを知っていたのです。


一方、「暗い」という字は、お日さまに音と書きます。
暗いのに「日」の字が二つも含まれています。

じっと眺めていると、真っ暗な中で、お日さまが横と下から
「さあ、早く立ち上がりなさい」と応援しているように見えませんか。

「くらい」という字は、このほかにも「昏」「冥」「闇」などの字を当てますが、
ほとんどといっていいくらい、「日」の字が含まれているのです。
暗いという状態は、けっして絶望的ではないのですね。

今はまだ真っ暗でも、「もうすぐどこからかお日さまの音が聞こえてくるんだなあ」と、
プラスイメージを描いてみましょう。
実際、空か一番暗いのは、月や星が消え、朝日が昇る直前です。

また、「朝」という字も不思議です。
日が昇るからこそ朝なのに、右側には日ではなく大きな月が残っています。

この字を右回りに読むと十月十日となります。
これは、「どんなにつらいことがあっても、十月十日で赤ちゃんが生まれてくるように、
次の朝にはまた新しい自分が生まれているんですよ」という意味があるそうです。

明日は「明るい日」です。
先のことを暗く考えていては今を充実して生きることはできません。

ならば1秒先は未来、すなわち明日につながるのですから、
「この先、何かあるのかしら」「なんだかわからないけど、面白そう!」と
ウキウキ、ワクワクして生きていきましょう。

勇気を奮って明るい「気」を起こして、
気持ちを切り換えてスタートすると数倍楽しくなりますよ。


  【 今、何を見て、何を考えるかで、あなたの未来が決まるのです 】

             <感謝合掌 平成26年9月24日 頓首再拝>

今ここに勝利がある (703)
日時:2014年09月30日 (火) 04時21分
名前:伝統

        *『眞理』第九巻生活篇(P86〜87)より

「今」がすべてである。
過去も未来も考えることなしに、「今」ここに」「自分」に於いて
神が生きていると観ぜよ。

「今」が私の日であり、「今」が神の生命(せいめい)の出発である。
「今」ここに神が生き、「今」ここに勝利がある。
今日(きょう)が勝利の日であり、今日(きょう)が幸福の日である。

今、神はわれと偕(とも)にある。
何を憂えんや。
今、神の智慧はわが内に働き、今、神は吾を導き給うているのである。

「昔は斯(こ)うであった」とあなたが言うようになったとき、
あなたの生命(せいめい)は前方に向かわずに後方に向かう。
それは進歩の停止であり、老衰の兆候である。

「今」を祝福せよ。
「今」が幸福の時である。

「今」ここに吾が内に生きる神を自覚して、神と偕なる自己を祝福せよ。
「今」万物は新たである。

「今」あなたは幸福である。
「今」あなたは神と偕にある。

             <感謝合掌 平成26年9月30日 頓首再拝>

「今、ここ」のゼロの発見 (890)
日時:2014年10月08日 (水) 04時16分
名前:伝統

      *「幸せな気持ちになる不思議な本」福田 純子・著(P71〜73)より

ある一人の僧のお話をしましょう。

修行中の二人の僧が師のもとへ旅をしていました。
大きな川に差しかかりその川を渡ろうとしたとき、若い娘が渡れずに困っています。

一人の僧はその娘を肩に乗せて向こう岸まで渡らせてあげました。
その後旅を続け、やっと師のもとへ着いたとき、もう一人の僧が師に言いました。

「師よ、この者は修行中の身でありながら若い娘を担いで川を渡りました。
けがれた心で修行をしております」

これに対して師は、

「彼は川を渡れず困っていた人を渡してあげて、その娘を川向こうに下ろしたところで、
もうそのことにとらわれていない。おまえこそ、ここまでとらわれを引きずっているではないか。
修行が足りないのはおまえのほうだ」

と戒めたという話があります。


私も、母の老化が進み、同じことを繰り返し言うのにイライラしたこともあります。
しかし、「今、ここ」しか生きていない私たちです。
何度も同じことを言うからと腹を立てるのは、過去にとらわれているからなのです。

「今、ここ」に生きている人は何度同じことを言われようとも、「そうですね」と、
その時その時の言葉として新鮮に受け止めることができるのです。

痴呆症になった母は、私のとらわれを気づかせてくれる尊い指導者となりました。
自分白身のとらわれやこだわりは人によって気づかされ、
自らがほどいていかなければなりません。

ましてや、こだわらないということにすら、こだわることがありますから、
そのこだわりがほどけたかどうかの証は、感謝があるかどうかなのです。

過去にこだわるがために「今、ここ」を捨てて生きるわけでもなく、
未来に夢をかけるがために「今、ここ」をなおざりに生きるわけでもなく、
「今、ここ」だけを生きる。

「今、ここ」にこそしあわせはあり、「今、ここ」以外のどこにもしあわせはないのです。

             <感謝合掌 平成26年10月8日 頓首再拝>

「懈怠比丘不期明日」 (1172)
日時:2014年10月18日 (土) 04時17分
名前:伝統

「懈怠比丘不期明日」(げたいのびくみょうにちをきせず)

         *Web:「日々是好日」(2012.06.30)より

千宗旦(利休の孫)は不審庵を三男の江岑宗左にゆずり
裏の家に四男と共に隠居した。その折小さな茶室を作った。

宗旦の参禅の師である大徳寺の清巌和尚に茶室の命名をお願いしようと招待した。
ところが約束した時間に和尚様が来られない。
宗旦は別の用事の為出かけてしまった。

弟子に「もし来られたら明日もう一度来ていただくよう申し上げて」と言い残した。

間もなくやってきた和尚さまは宗旦の伝言を聞き、
茶室の腰張りに 「懈怠比丘不期明日」 と書き残して帰った。

「遅刻するような怠け者の僧である私は、明日の事はお約束しかねます」

帰宅してこれを見た宗旦は、
一寸先は解らぬ人生に明日の約束を求めた自分を反省し直ちに大徳寺を訪ね

「今日今日といいてその日を暮らしぬる、明日のいのちはとにもかくにも」

(明日の命もわからないのに、大切な今日をおろそかに暮らしているのは愚かなことでした。)

という反省と和尚の教訓への感謝をこめてこの歌を呈したということです。

このことから裏千家を今日庵という様になったようです。

まだ明日が有ると時間を無駄にしないで
一日一日を大切に生きたいものと改めて肝に命じました。

     (http://soukou22.blog90.fc2.com/blog-entry-683.html

             <感謝合掌 平成26年10月18日 頓首再拝>

創造は「今」行なわれている (1331)
日時:2014年10月28日 (火) 04時30分
名前:伝統

         *「静思集」(P146〜147)より

創造は「今」行なわれているのである。
「一(はじめ)に神天地をつくり給えり」と云うのは
「今」が一(はじめ)であり、「今」が終(おわり)である。

一は一二三四・・・の現象的相対的一ではなく、
原始(はじめ)であり、終末(おわり)であり、
一(アルファ)であり、一(オメガ)であるところの「一」である。


「今」わが運命は、わが健康は、創造(つく)られつつあるのである。

何によって。

それは言(ことば)によって。

言(ことば)は神であり、それに生命(いのち)あり、
すべてのもの言(ことば)によって創造(つく)られつつあるのである。

             <感謝合掌 平成26年10月28日 頓首再拝>

この境遇にこの時間 (1586)
日時:2014年11月09日 (日) 04時56分
名前:伝統

       *「人生読本」(P179〜180)より

さて、すべての人は単なる「時間」という目に見えない流れの中に生きているだけではなしに、
ある具体的の境遇というものの中に住んでおります。

この具体的な境遇というものが、いわば横の広がりであります、
時間という縦に続いているものと、境遇という横に続いているものとが
交叉した十文字の一点に私達は生きているのであります。

時間は無形で形がありませんから、どの時間でもよく似たように見えておりますけれども、
この境遇、この自分の置かれた横の位置というものは、常に変わっているのであります。

たとえば昨日の午前8時、今日の午前8時、また明日の午前8時、時間は皆午前8時であっても、
自分のいる位置が変って、自分の生命(いのち)の波が変わっているのであります。

時々刻々私達は自分の生命が変っているのでありますから、いつも異う新しい自分であります。

常に新しい自分が、常に新しい境遇に於いて、常に新しい時間の流れに生きるというのが、
私達の時々刻々生きているところの生命であります。

ですから、常に私達は、「今」の時間と境遇とをできるだけ十分生きて、
新しき生長をしなければならない。
そうしなければ私達は「今」の自分の生命(いのち)を捨てているわけであります。

「今」の自分の生命(いのち)を捨てては、単に自分の生命(いのち)が生長しない事に
なってしまうと同時に、ニ度と掴む事の出来な千載一遇の尊い境遇機会というものを
逃してしまう事になるのであります。

             <感謝合掌 平成26年11月9日 頓首再拝>

時間を拝んで使え (1812)
日時:2014年11月19日 (水) 05時04分
名前:伝統

            *「人生読本」(P181〜182)より

ですから私達は常に時間をどう使ったらよろしいかというと、
拝んで使うようにするとよいのであります。
時間を拝む気持ちになるのであります。

私達は常になんでも拝む事を忘れてはならないのであります。

生長の家は人間を神の子として拝み合うのでありますが、
時間もやはり神の生命(いのち)の流れだと考えて拝むように使うのがいいのであります。
とにかく、時間は尊ばなければならない。

単に利益だけを考えて、「これだけ捨てたら惜しいものである」と思って、
時間を大切に使うのも結構ではありますが、もっと深く考えますと、

ここにこういう時間に生きているという事は、
これは神様の生命の流れの中に一日一日をこうして生かされているということで、
実にありがたい事である、

と、こう思う事によって、私達は今この生きている事実に、
本当に掌(て)を合わして拝む気持ちが出てくるのであります。

そうして今までここにこうしてこの位置に生かされているという事、
それ自体が実にありがたい事であると拝めるようになりますと、

本当に時々刻々が捨てられないところの一つの尊いものになってきて、
自然に時間を無駄にしなくなるのであります。

             <感謝合掌 平成26年11月19日 頓首再拝>

今、この時を生かす (2017)
日時:2014年11月28日 (金) 03時18分
名前:伝統

            *「人生読本」(P176〜179)より

《「いのち」を大切にせよ》

たいていの人は、時間というものをぼんやりと過ごしてしまう人が多いのであります。

ところが、「時間」ぐらい大事なものは世の中にないのであって、
何物をもって較(くら)べてみましても、時間以上に尊いものは
この世にないのであります。

というのは、第一私達の寿命(いのち)というものが時間によって成立っている。
人は生命(いのち)から二番目は金である、とこう申しますけれども、
その生命そのものはもう一番目である。

その生命が何によって成立っているかというと、
時間の継続によって成立っているのでありますから、
この時間を十分(ぷん)でも無駄に費やしたら、
その十分だけ自分の寿命が縮まった事になるわけであります。

しかも、それに気のつく人が実際少ないのは残念であります。
それに気のついた人は必ず何かできる人になっている。
必ず何か世の中で頭になっておられるとか、
或いは何か事業に成功するとかしているのであります。

「時間」さえ生かして使えば私達はこの世の中に於いてなんでもできない
というものはないのであります。



《金貨よりも時間は大切》

ところが、この時間ぐらい目に見えないものはない。
目に見えないためにどうも粗末にされ易く、失われ易いのであります。

金はなくしたら人から借りる事もできますが、
時間をなくしたら人から借りる事はできません。

仮りに金貨を握ってそれを捨ててあるいたら、
「ああもったいない」と言って拾って歩く人はありますけれども、
時間を捨てて歩く人の後ろからついて往って、
「ああったいない」と言って時間を拾って歩く人はないのであります。

時間は目に見えないから拾って歩くわけにはゆかないし、
時計で測って見て、眼に見えたからといって、時計の捻子(ねじ)を逆に廻して、
針を逆さまに廻してみても、時間そのものは後へ戻って来るものでもなく、
「あんた時間を落としてますよ」と言って拾って上げるわけにもゆかないのであります。

このように時間と言うものは生命(いのち)から二番目の金よりも大切で、
一番の一番の生命そのものでして、時間を失ってしまったらどうにも仕方がない
のでありますから、

皆さんどうぞ1分間でも時間を生かして、良い事に、勉強に、仕事に、
人に喜ばれることに、自分をよくする事に、人をよくすることに、
人のためになることに、使うことにいたしましょう。



《一度失われた時間は復(かえ)らぬ》

いつも午前8時には時計の針は一定の8の字を所を指しますけれども、
今日この「8時」という時間は永遠にやって来ないのであります。

午前8時というのは何回でもやってきますけれども、今日のこの時間、
自分の生きるこの時間という同じ時間はやって来ないのであります。

今日のこの自分の「生きるこの時間」というものを生かさなければ、
この私達の有する自分の生命(いのち)というものが全然ないわけであります。

ですから、いつでも、「今」が自分の生きるか死ぬかの正念場なのであります。
私達自身を生かすか殺すかの重大な時期、それが時々刻々の時間であります。

             <感謝合掌 平成26年11月28日 頓首再拝>

今、行動せよ! (2248)
日時:2014年12月10日 (水) 04時23分
名前:伝統

          *『生命の實相』第22巻聖語篇(P11)より

明日しようと思っている間に時は過ぎ行く。

あやまる事は早くあやまるが好いし、和解することは早く和解するが好い。

すべての支払いは、『明日に、明日に』と思っている間に、
延ばしている期間だけ先方から悪い念波の放送を受け、自分自身の生長を妨げられる。

             <感謝合掌 平成26年12月10日 頓首再拝>

「今起て! 」の啓示が天降った日 (2306)
日時:2014年12月13日 (土) 03時54分
名前:伝統

12月13日は、谷口雅春先生が「今、起て! 」の啓示を受けられた日です。
昭和4年12月13日に谷口雅春先生に「今起て! 」の啓示が天降りました。


・・・以下は、「生命の實相」自伝篇(P157〜159)から抜粋


いろんな点において昭和4年の暮はわたしの旧生活の最期の時であった。

震災以来、二度目の盗難にあった。

これは、わたしにとって重大な意義があった。

このままでは、永久に、わたしの使命感を果たさずに
この肉体は死んでしまうかも知れないと思った。その時


「今起て! 」という声が、覚えずわたしの頭の中で、どこからともなく
降るように聞こえてきたのだ。


「今起て! 」とその声は言った。

「今のほかに時はない。『今』のほかに時はない。「今」の中に無限があり、
無尽蔵がある。軍資金が出来てから、時間の余裕が出来てから、身体の余裕が出来てから、
光明化運動を始めようなどと云うのは間違いだ。

三界は唯心の現れだ。力が出ると知れば、その時既に無限の力は汝の有(もの)である。
実相のお前は久遠の神性であり、既に無限の力を持っているのだ。
既に無限の力を有っているのだ。」


「だけど、それは実相のことです。わたしはまだ現象としては無力であり、
現承知しては資力がありません」 わたしは心の中で抗弁した。

「無力なことはない。力は与えてある。資力も与えてある。」

「実相はそうでも、現象の自分は・・・」

「現象は無い! 無いものに引っかかるな。無いものは無いのだ。
知れ! 実相のみがあるのだ。お前が実相だ。釈迦だ。キリストだ。
無限だ。無尽蔵だ! 」

大きな降雹(こうひょう)のたばしるような声がわたしの頭の中でした。
わたしは全身の痺れを感じた。

久遠の今、すでに無限力であり無限知であり、
仏である自覚が自分に蘇生(よみがえ)ってきた。

             <感謝合掌 平成26年12月13日 頓首再拝>

”今”が生き甲斐の機会です (2485)
日時:2014年12月24日 (水) 04時13分
名前:伝統

           *「女は愛の太陽だ」(P176〜177)より

”今”があなたの”機会”なのです。
好(よ)き機会がやがて来るだろうと、次の機会を待っているようなことでは、
常に機会は逃げてしまうのです。

老少不定(ろうしょうふじょう)―― 老人が早く死に、少(わか)い者が必ずもっと
後の死ぬとはきまっていないのです。”無常迅速”とも謂われています。
今日、唯今、あなたは本当に生き甲斐ある生き方をしなければならないのです。

人に伝えよ、あなたの少しでも持っている真理を。
一粒の麦でも、たった一粒だからとて机の抽出(ひきだし)に入れて、与えることを
しなかったら、その一粒はいつまでも一粒で、しかも発芽の能力を失ってしまいます。

その一粒を土中に与える。
するとそれは発芽し、20本ぐらいに分蘗(ぶんけつ)して
そのおのおのの穂に80粒位の種を実らせるでしょう。

たった一粒が半年ほどの間に1600粒にも増えるのです。
この「一粒の麦」の譬えで学びましょう。

あなたが、真理の話を一つ読んだら、それを次に伝えるのです。
その真理は、一粒の麦の種の発芽のようにひろがって実をむすびます。

その報いは求めずして、自然に自分に対する「運命の祝福」として還って来るのです。

             <感謝合掌 平成26年12月24日 頓首再拝>

今直ぐ生きよ (2657)
日時:2015年01月03日 (土) 03時37分
名前:伝統


           *「女は愛の太陽だ」(P177〜178)より

過去に何があろうとも、過去は過ぎ去ったのである。
今あなたの眼の前にある事物に深切と誠心とを尽くして奉仕せよ。

「奉仕は雇われてする仕事ではないから、随意に随時にやるのだから、
まあボツボツやればよい」などという考えを棄てよ。

奉仕とは、神に「仕(つか)え奉(たてまつ)る」ことなのである。
だから、無論に人に「雇われ」てするのではない。

それは生命の切り売りではない。
それゆえにこそ、神に対して全力を尽してするのが奉仕なのである。

誠心のないパートタイムの仕事などは
決して”奉仕”の中に入れられる美徳ではないのである。

「”奉仕”だからノンキにやっているので、何も雇われ仕事ではない」
などと、なまけているのは全く奉仕の精神の反対である。


朝目が覚めたら、直ちに心を神に振り向かせよ。
そして、その日の仕事を神に預けよ。
かくして神から如何になすべきかの指示を受ける準備をするがよい。

それには起床の直後、20分でも30分でも神想観をするがよい。
そして何か黙示か、啓示か、霊感があるならば、それを書きしるすための手帖又は
メモ綴と鉛筆を用意して書いて、それを書きとめて又神想観をするがよい。

メモに書いた霊感による指示は必ず速やかに実行するがよいのである。
今実行してよい事でも、時を失したら事情が逆転することも往々にある。

今、直ぐ生きよ。

             <感謝合掌 平成27年1月3日 頓首再拝>

今を生き抜く (2788)
日時:2015年01月13日 (火) 03時44分
名前:伝統


            *谷口清超先生著『伸びゆく日々の言葉』(P26〜27)より

人間は生き通しであるといっても、
あの世のことや前世がちっともわからないという人がいる。
生れ替りがあるなら、どうして過去世の記憶がないのかと質問する。

それは、この世の生活の秩序を保つためだ。
もし前世の記憶が残っていると、「今」の生活が混乱し、無限の過去世と、
ごちゃまぜになってしまうだろう。

それでは、「今」を生き抜くことができない。

この世に生をうけたのは、この今の一点に於いて、すべてをかけて生きぬくためである。
それが魂を発達させ、過去を尊び、未来を生き抜くことだ。

今なすべきことに、全力をつくせ。
それができてこそ、はじめて未来が開ける。
今やるべき、あなたの任務を完遂することが大切である。

             <感謝合掌 平成27年1月13日 頓首再拝>



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