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[24]しかし・・・ 投稿者:巫俊(ふしゅん)

投稿日:2006年10月17日 (火) 03時30分

いつもながら文章が長い上に、自分自身以外の人に理解できるような文章を書いているかどうか不安です(^^:
どう転んでも安定郡の安武という地名には、記録されずに埋もれた人々の魂の叫びを感じずにはいられないんですよね。
感性に頼り過ぎているでしょうか・・・(^^:

[23]それから持論 投稿者:巫俊(ふしゅん)

投稿日:2006年10月17日 (火) 03時22分

「安武侯という封君号は雅号であって、安武に封じられた訳では無い」ということはお話しました。
では安武という地名のもうひとつの有力な起源として、「武力によって併合した土地の安定を嘉して、辺境の開拓地に安武という地名が命名された」という可能性を考えてみます。

交州武平郡と南漳郡の安武は後者の例かもしれませんし、安定郡の安武についても後者かもしれません。

>秦代に安武という地名があったかどうか判然とせず

次にここに注目します。

まず趙高は県侯以上だろうと推定します。
秦代に安武という県名があったというよりは、趙高の安武侯は雅号であって、
安武という地名に封じられたではないと考えるのが自然ですから、
安定郡の安武という地名が、武力による併合と安定を嘉して付けられた後者の地名と考えると、趙高の安定封土説は矛盾することになります。

では後者の場合ですが、安定郡の位置するケイ水の上流の地方はというと、昭襄王の時代まで義渠という戎が地盤としていましたから、
義渠を平定した昭襄王の時代にこそ第一に、「武力によって併合した土地の安定を嘉して、辺境の開拓地に安武という地名が命名された」可能性が求められることになります
しかし秦代の当地域に安武という地名は見当たらないことからすると、命名基準に「辺境の開拓地」という条件を重視するなら、後者の説明は矛盾してしまいます。

そうすると、秦代に安武という地名が無いことが、かえって封君号に由来するというリアリティを浮かび上がらせてくるのです。

そういうことで、趙高封土説は一定の可能性があると思うんですが、
あと落とし穴があるとすると、安定郡の安武という地名は、後世の戦争で安武という名前が付けられたという可能性です。
そのことは安定郡の諸都市が戎狄のいる原野のなかにつくられたという性格を暗示させます。
再びの戦争で安武という地名が冠せられた背景には、異民族の翳を感じるのですが、、、、

封君説にしろ武力平定説にしろ、後世説にしても、共通するのは安定郡という風土に価値が置かれていることですね。
私が趙高だったら、安武侯になって安定地方に代官を派遣し、異民族の烏氏を介して、甘粛地方の月氏と交易しますよ。

注・一貫して問題の地域を安定郡と呼んでいますが、秦代には安定郡は置かれていません。

[22]超弱気になっちゃうけれども 投稿者:巫俊(ふしゅん)

投稿日:2006年10月17日 (火) 02時40分

根拠が弱いとは思ってましたが、よく考えると
き・わ・め・て根拠弱いですよね。。。。。
そのうち全文検索使って、あれこれ安武という地名の特徴なんかを洗っていきたいんですが、
安武って地名が封君の号に由来するか否かはひとまず置いておくとしまして、

>また楚の懐王が劉邦を安定郡安武に封じたとは、考えられないですし。

え〜と、綱成君の例にしても、蔡沢は綱成に封じられたのではなく、蔡沢が綱成君に封じられたから、現地では君号に由来する岡成城という地名が生まれたというプロセスだと思いますが。

安武という地名についても同じことで、劉邦と趙高の封邑は別々の場所であってもいいし、
安武という地名は封君号に由来すると考えることができる。
加えて、趙高が六国の反乱にのんびり構えていることからすると、封土も関中にあると考えるのが自然です。

[21]安武を地名とすると 投稿者:NAGAICHI Naoto

投稿日:2006年10月16日 (月) 19時03分

おっしゃるとおり、漢以降の安定郡安武は、秦の北地郡に属していますが…。秦代に安武という地名があったかどうか判然とせず。また楚の懐王が劉邦を安定郡安武に封じたとは、考えられないですし。『晋書』地理志の交州武平郡に安武があったり、『隋書』地理志の南漳郡に安武があったりするのも秘密です。
きわめて根拠弱いですね。

[20]安定、義渠、北地郡 投稿者:巫俊(ふしゅん)

投稿日:2006年10月15日 (日) 05時17分

仮説。
趙高の封地は漢以降の安定郡という説ですか。
趙高と結びつける論拠が乏しいですが、安武侯という封君の称号は有り触れてそうなので、秦の時代以降に安武侯と自称/他称する君主がその地安定(秦の北地郡)にいたかもしれないですね。
秦の北地郡は、秦に対抗する君主国家・義渠の故地ですから、エン州東郡の岡成城のように、辺境の守りとして封君が配置されていた可能性があります。

呂不韋の時代に封君の衛が河内郡の野王に遷されたのも、辺境の守りが目的らしく、
封君=辺境の例は他にもありそうです。
安定のあたりが秦に制圧されたのはいつだったかな・・・
義渠が降伏したのは秦の昭襄王の時代だったはず。

[19]秦の封号 投稿者:NAGAICHI Naoto

投稿日:2006年10月13日 (金) 19時27分

一県・一城・一邑クラスの小諸侯がいたのは間違いなさそうですね。問題はそれが限定的なものだったのか、大勢いたのかですが、史料が足りなさそうです。
平勢説は、なんか食傷したかなあ(笑)。
喜君の『編年記』も短くて淡々としてますが、面白いですね。『史記』秦本紀や始皇本紀と読み合わせても、大きなズレはないようですが、秦の天下統一の過程で『史記』を補完できるところもあるわけで。
安武侯…「楚の懐王が沛公(劉邦)を封じて安武侯と号せしめた」(『史記』絳侯周勃世家)と、こちらは「封」ですね。北魏のときには、安定郡安武の人の韓茂が安武侯に假せられている例もあり。まあ後代の例を安易に前代に当てはめるのは危険ですけど。

[18]蔡沢と平勢説と安武侯趙高 投稿者:巫俊(ふしゅん)

投稿日:2006年10月09日 (月) 23時52分

『戦国策』の秦三と秦五の場合は、剛成君蔡沢となっているようです。
ちょっと面白い記事を見つけたんですが、『後漢書』郡国志の注には「秦蔡沢を封じて岡成君と為す。未詳。」とありまして、
本文には「東郡は十五城。戸十三萬六千八十八、口六十萬三千三百九十三。・・・陽平は侯国。莘亭有り。 岡成城有り。」と書いてあるようです。
蔡沢は呂不韋の時代に置かれた秦の東郡のなかに、封地をもっていたらしいです。

世に言う平勢説は、自説の都合に合わせて年代の方を動かしている詭弁だと考えるべきでしょう。
その牙城が衛の滅亡年なわけで、たしかに立年称元法で計算しますと衛の滅亡年が天下統一の年(前221年)と一致しますが、

http://www.jianbo.org/Wxbz/2002/shuihudi/biannianji.htm
秦の南郡の雲夢沢のはずれから出土した竹簡『編年記』(↑)では、天下を統一した年は「今廿六年」と書いてあるだけで、その年の備考の欄は空白なんです。
天下統一というフレーズを過大評価して、諸侯はすべて滅びたとか、封建制は終わったとか、衛国の滅亡も短絡的に結び付けてしまったんだと思います。

平勢説は、聖書を乱数表にしたらダイアナ妃の死を予言していたとか何とかというトンデモ説と同じで、
年代を乱数にしてコンピュータ計算で組み上げて、もっともらしいものが出てきたら、平勢説の根拠にするってやり方です。
あれだけ年代を操作したら、偶然の一致ってホイホイ出てきますよ。
平勢説は日本語タミル語起源説(↓)と同類なんじゃないかな。

http://homepage3.nifty.com/rosetta_stone/wissenshaft/tamil_1_A.htm

それと趙高は安武侯みたいです。
『史記』秦始皇本紀の後ろの方に「趙高丞相安武侯と為る。」って書いてあります。
二世皇帝の時代の爵位ですが、呂不韋の時代の爵位の文信侯とネーミングセンスは同系統みたいですね。
これだけじゃ封地のこととか分からないんですけど。

[17]木主に封君 投稿者:NAGAICHI Naoto

投稿日:2006年10月08日 (日) 19時37分

>生半可さま
重耳の兄弟(晋の献公の子)は、申生・夷吾・奚斉・卓子といずれも二字名なので、重耳だけが本当は「重」で一字名であるとすると不自然な気がします。そこら説明が必要かと。
晋の文公の挿話に文公じしんの主体性がないというのは、まるっきり同感です。支えてる部下たちが偉いよという話ばかりですよね。

>飛覇帥さま
お久しぶりです。
更新再開されましたか。相変わらず飛覇帥さんと鏡秋雪の掛け合いは楽しいですねえ。
「よいぞ、よいぞ」

>巫俊さま
平勢説では衛の滅亡年動かしてますが(笑)。
秦代に封領をもつ諸侯がいたというお話ですが、郡県制を基本にしながらも、そういう人たちがいたというのは僕も賛成です。
呂不韋は十万戸とか言われてますし。
ほかにも長安君とか昌文君とかいますものね。封領をもたない列侯と違うのかどうかも問題ですけど。
ところで蔡沢は綱成君ですよね。

[16]始皇帝と封君 投稿者:巫俊(ふしゅん)

投稿日:2006年10月08日 (日) 05時28分

最近、戦国衛の歴史に興味を抱くようになったんですが、
どうも秦の始皇帝が斉を滅ぼして天下を統一した前221年(秦王政二十六年)以降も、
秦帝国のなかに封君(郡県に封じられた封建諸侯)って沢山いたんじゃないかなと考えるようになりました。
郡クラスの封君は流石にいないかもしれないですが、県クラスならいてもおかしくないんじゃないかと。

呂不韋の時代に野王に遷された衛君のほかに、『戦国策』魏策によると河南省にあった安陵氏という封建諸侯が、韓魏の滅亡後も秦に仕えて五十里の国を保ったと書かれています。
そのほか、呂不韋の時代には剛成君蔡沢という秦の封建諸侯が確認できますし、
秦の諸侯か楚の諸侯か判断に困りますが、楚の王族で秦の相国に任じられた昌平君は、始皇帝が楚を攻める以前までは秦に仕えていたようです。(昌平君は項燕といっしょに挙兵して死ぬ)

こうしてみると、始皇帝の天下統一のすぐ手前の時代まで、秦には領地をもつ封建諸侯が沢山いたように思われます。
その大なるものが文信侯呂不韋ですが、失脚して領地を召し上げられた呂不韋はともかくとして、
ほかの諸侯の領地を没収したとか俸禄に代えたとか、封建諸侯の制度を無くしたとか、そういうはなしって『史記』には一切無いですよね。

六国を滅ぼして海内を郡県にしたと、『史記』秦始皇本紀には書かれていますけども、
秦国内の諸侯がどうなったかは書いてないんです。
『史記』衛康叔世家によると、衛は二世皇帝の元年に滅ぼされたということですが、二世皇帝の元年といったら、二世皇帝の兄弟たちが罪を着せられて殺されていった時期です。
秦の公子たちが殺されたときに、公子たちのなかの誰かと姻戚関係にある衛の君主もまとめて滅ぼされたんじゃないかと考えると、辻褄が合うような気がしてきました。

問題は史料が全然足りないということですが(^^;
報告までに。

[15]こんばんは 投稿者:巫俊(ふしゅん)

投稿日:2006年10月08日 (日) 02時08分

木主といえば宮城谷昌光の小説『太公望』の描く周の文王を思い出します。
『太公望』では、死んだ文王の木主を車に乗せ、文王の死を隠したまま武王が殷討伐の軍を進めるのですが、
『太公望』が出版された後に宮城谷昌光はこんなことを言っていましたね。
殷の紂王によってユウ里の獄に囚えられた文王は、すでに獄中で死んでいたのではないか。
屍体が周にかえされた後、文王の木主が殷討伐の軍を挙げたと。
死んだ男が蘇生して軍を起こすなんてホラーです。
ましてやそれで周の文王ここに在りと天下に知らしめることになれば。

してみると、晋の文公というのも本当は存在してなかったりして(笑)
生半可さんのお説面白いです。
春秋の晋が廃れたからといって、晋覇を受け継ぐ戦国の諸王が晋文を貶めるのは考えにくいと思ったりもするんですけど。
平勢説みたく、国家のつくった歴史書が晋文を誹謗してると考えるのではなくて、
晋文の説話を集めて著作を書いた人に思うところがあったんだと思いたいですね。

しかしながら、戦国魏の襄王の墓から出た『竹書紀年』には「舜が堯を囚えた」とありますし、
戦国時代の楚簡の『容成氏』には、湯(商の初代湯王)が夏の一族を殺戮して根絶やしにしたと書いてあるんですが、
そう考えると、晋文のことも考えてしまいますね。




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