生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
トップページへ戻る
↓↓↓ 訪問者数 ↓↓↓
また、又、亦、本部直轄掲示板?に姿を現わした「初心者」=マサノブ君 <その@> (3575) |
- 日時:2014年03月21日 (金) 13時16分
名前:怒りの信徒代表
また、又、亦、「初心者」=マサノブ君が姿を現し屁理屈・哲学論争を始めました。自ら宣言して「掲示板」から身を引いたマサノブ君ではありましたが、――
@ 雪に閉じ込められ、雪かきにも飽いてヒマを弄ぶ今日この頃である事!
A 独裁者の醍醐味である「人事移動」も決め、ひと息いれたいころ!
B 書きたい!書きたい! 趣味の虫が騒ぎ始めイライラがつのり始めた!
C 「森のオフィス」は失敗、と「本流」からはメッタ打ちにされ、腹が立って仕方がない!
D 「本流」には太刀打ち出来ないが、書かずには居れないこのクヤシサ!
E 異身同体の先鋒役ジャリンコチエ・曳馬野を従え総大将「初心者」さまの再再度の挑戦だ!
<「初心者」=マサノブ君、曰く> (各文要点を抜粋) http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11764/1376543876/
688 :初心者:2014/03/19(水) 12:54:01
病気が治ったからこれは真理だ。これが生長の家を支える基本原理ですよね。・・・生長の家では病気治しに利用できるものを真理と呼んでいるわけです。利用できれば、それがなんであっても真理です。利用できなければそれは虚説です。こういう単純な図式が、生長の家では成り立っています。・・・『生命の實相』は全編が真理の利用の仕方について説かれた書物といってよいのではないですか。「真理を利用して奇跡を起こしたい」と欲する人々が読む書物といってよいのではないですか。雅春先生と倉田百三氏による「寂光論争」がなんであったかというと、「自分は真理を病気治しに利用したいとは思うがそんなに都合よくは利用できないと考える」とする倉田氏にたいして、「真理は病気治しに利用できます」と雅春先生が応答されたものではなかったですか。「真理の利用可能性」ということが問題にされた論争ではなかったですか。倉田氏にしても真理を利用したい立場にあるわけですから、「利用できる」とする雅春先生に反対する理由はどこにもなかったはずです。あの論争は、論点などはじめからどこにもなくて、倉田氏が欲したごとく、「利用できる」との結論をえて予定調和的にことが運んだ論争であったということがいえるでありましょう。このように『生命の實相』は、メタフィジカルヒーリングにはじまって寂光論争にいたるまで、全編が真理の利用可能性について説かれたものであるといって過言ではないとおもうのでありますが、いかがでありましょう。「利用する」ということでいえば、これは天然資源にもあてはまります。生長の家の考え方の根本が「真理を利用する」ということにあるとするなら、こうした考え方が「資源を利用する」とする考え方にむすびつくのは当然のことといえます。「人類の幸福のために真理を利用せよ。国家の繁栄のために資源を利用せよ」。本流がいっているのはけっきょくこういうことです。総裁の思想的立場は「資源を都合よく利用するな」であり「真理を都合よく利用するな」であるといってよいでしょう。こうした立場にあることをもって「虚説」とみなされているわけです。資源にしても真理にしても、自分に都合よく利用してよいものなのか。これが問われているのではないでしょうか。
689 :初心者:2014/03/20(木) 14:08:52
総裁のかかげる環境運動が、「悪化した地球環境をよくしようとする運動」と考えていたのでは事実を見誤るでしょう。・・・雅春先生と現総裁は、その考え方や生き方において対極にあるといわざるをえません。雅春先生の考え方というのは、どちらかというと享楽志向なのですね。健康問題であれ、経済問題であれ、人間関係の問題であれ、それが人生を存分に享楽できる状態にあることをもって「善」といっておられるように感じます。人々を享楽へと駆り立てないではおかない国家の繁栄を、雅春先生が教えの根本に立てておられることに、若き日の享楽的な生き方の影響をみてとるのはそれほどむつかしいことではないような気がいたします。・・・雅春先生の教えから、「享楽」ということをわたしはどうしても連想してしまいます。現総裁は、意識的にではなくおそらく無意識的に、雅春先生の教えに「享楽」の二文字を感じとっておられるのでしょう。・・・どちらかといえば享楽することを肯定的にとらえておられたともいえる雅春先生と、享楽をかたくなに否定し禁欲的な生き方をつらぬいておられる現総裁とでは、その考え方に大きな食い違いが生じるのはむしろ当然のことといえます。雅春先生は人間を中心におくことで、真理であれ資源であれ、それを人間のために利用するという方向で教えを説いておられたにちがいありません。現総裁は、真理を否定しているのではなく、そういう方向性を、つまりは人間を中心におくという方向性を、享楽志向につながるものとしてたんに否定しておられるのではないか、ということです。古代ギリシャの人々は、世界をひとつのものとして捉えていたといいます。プラトンはそのひとつのものであった世界をイデア界と物質界のふたつの世界に分離しました。こうすることでプラトンは、それまでは世界から真理を受けとる立場にあった人間を、世界に真理をあらわしだす立場の人間に置き換えたということがいえるでありましょう。世界から真理を受け取るだけの端役的立場から、世界に真理をあらわしだす主役的立場へと、プラトンは人類を押し上げたのです。世界をふたつに分かつことで人間中心主義がいよいよはじまった。これを古今東西の真理とするなら、生長の家は世界をふたつに分かつことで、まさしくこうした人間中心主義の流れのなかを突き進んでいるということがいえます。雅春先生の教えが人間中心主義の教えであるということは、それが世界をふたつに分けるプラトンの教説に近いということからあきらかにいえるとおもいますが、これにたいして現総裁の思想は、人間中心主義が開始される以前の、世界をあたえられたひとつの自然とみなす古代ギリシャのそれに近いのではないか、ということをわたしは感じます。現総裁の思い。それは生長の家がかかげる享楽的ともいえる人間中心主義にたいする懐疑であり反発ではないかとわたしが考える理由がここにあります。総裁のかかげる環境運動とは、それが悪を認める二元論であるから虚説であると否定してことがすむ問題ではなく、真理や資源を自分中心に利用しようとする人間中心主義への疑義であり、そうした人間中心主義をもたらしたふたつの世界への疑義であるとの観点から理解する必要があるのではないかと考えます。
690 :初心者:2014/03/20(木) 20:12:13
わたしは総裁がどのような生き方をしておられるのか、正確には存じておりません。ただ、断片的に入ってくる情報から想像的に組み立てたのが「享楽を否定する生き方」というものでした。・・・肉体はない。生長の家ではこのように説かれています。肉体がないのであれば病気などあるはずがない。したがって「病気はない」となる。ならば健康はあるのかといえば、肉体がないのに健康などあるはずがない。しかし「健康はない」とは誰もいわない。なぜなのか。病気は悪であり現象であるから「ない」のであるが、健康は善であり実相であるから「ないとはいわない」と説明されても合点がいくものではない。たとえ実相を持ち出されたところで、肉体はないのであるから健康な肉体もないにきまっている。なのに、なぜ「健康はない」とは誰もいわないのか。生長の家の人々は病気によって挑発されている。それゆえ「病気はない」とことさらにいわねばならないのであるが、健康によっては挑発されていないので「ない」という必要はとくにない。これが「健康はない」とはいわない理由であると考えられる。生長の家の人々は、あるはずのない病気があるようにみえていることによって挑発され、「病気はない」ということで逆にあるはずのない病気を挑発する。挑発し挑発されるという関係がここにあるとするなら、これを享楽というしかない。生長の家の人々は病気でさえも享楽の対象にしようと欲する人々ではないのか。たぶんそうなのだろう。・・・ここでいう享楽とは、「生物資源や地下資源の収奪」という形で自然界を挑発し、そうすることで自然界からのさらなる誘いを受けるという形で自然界によって挑発される状態をいう。はたして総裁はいかなる意味で「享楽する人」といえるのだろうか。本流が総裁によって挑発され、逆に総裁を挑発することで「享楽する人々」となっているのはまずまちがいない。
692 :初心者:2014/03/20(木) 22:18:25
わたしはここで、総裁がなぜ環境運動に向かったのか、その理由をあきらかにしたいと考えておるのですけども、雅春先生をけなそうとしているとか、そういう方向へ話がむかっているようですね。雅春先生と現総裁との考え方のちがいをあきらかにせぬかぎり、しかもなぜそうなったのかをそれぞれの志向性にまで踏み込んであきらかにせぬかぎり、問題はなにも解決せんでしょう。微力ではあってもそれをやろうとすると「雅春先生をけなすのか」とくる。つける薬がないとはこのことですな。イデア界と物質界、実相世界と現象世界というように、世界をふたつに分ける行為が人間中心主義を生みだしたとする問題提起への反応はないのでしょうか。総裁はこうした人間中心主義に反発を感じているのではないかとするわたしの予想への反論はないのでしょうか。あるいは病気治しに真理を利用せんとすることの是非。人間中心主義におちいった人々は真理を私的に利用することを当然のことと考え、利用にあたってはなんの躊躇も示さなくなる。もちろんこうした利用的態度は生物資源や天然資源にたいしてもあてはまる。こうしたことを問題にしておるのですが、なにか言いたいことはないのですか。
696 :初心者:2014/03/21(金) 08:41:14 病気が治らなくても、「病気なし」とする雅春先生の教えを真理とあなたは考えるのか、ということですよ。それでも「病気なし」というのであればそれでよい。奇跡が起こらなくとも、あなたは雅春先生の教えを「真」とみなすのか。病気が治るからこそ、奇跡が起こるからこそ、「真」とみなすのではないのか。「病気が治ったからこれは真理だ」というのは、こういうことをいっているのですよ。「ちがう」というのであれば、自分の意見を堂々と書きたまえ。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
<一言コメント>
再々来の「初心者」=マサノブ君の上記の屁理屈投稿文は、歪んだ眼で見るとこのように感じる人も往々にしてあり、の一例にしか過ぎない。「初心者」=マサノブ君よ、そんなに「生長の家」の『御教え』がイヤなら「生長の家」という看板を即座に返して総裁辞職して出て行き、そこで好き勝手に批判文章を書けばよいのである。精神異常者以外には誰も君についてゆく人なんてないである。君の所論のマチガイについてはこれまでの「本流」掲示板で多くの信徒が指摘しているのであるから繰り返す必要はないのである。
-
|
|
禁欲的ってどんな事を言うのでしょうね。 (3577) |
- 日時:2014年03月21日 (金) 17時15分
名前:通りすがりの九州方面の信徒
現総裁の方が放蕩しているように見える。 巨大な資金が無ければ実現不可能な理想と、衆生の心に日を灯す温かい触れ合いの言葉や場所を保ち続けてゆく努力と。どちらが堅実なのかと思われる。
そもそも自ら寒い暮らしにくい所へ赴いて、そのために余分な労力を周囲の人々に払わせておいて、自らは慎ましく自制的であるとは、とても滑稽でおかしなことだと思う。
そこに気がつかない感性は、どう考えても、変だ。何か意識的に見ようとしていない、無意識に見落としている何かがあるように見える。論理思考だけでは気が付けない、心の闇みたいなものが。
-
|
|
鉱物と地下資源。 (3578) |
- 日時:2014年03月21日 (金) 17時38分
名前:通りすがりの九州方面の信徒
連投失礼致します。
鉱物と地下資源は宗教を作らない。 宗教をつくった人々は鉱物や地下資源を想うことができる。
みなさんも、初心者さんの言葉には思うことがたくさんあると思いますが、鉱物や地下資源を想いやっているのは人間だから、人間を肯定してゆけば、ゆくゆくは鉱物や地下資源の最良のあり方にまで人間は考えを及ばせてゆくことができるのではないのかと感じるのです。
初心者さんも現総裁も、人間について、よくお分かりでないのでは。理詰めで他人を追い詰めても、イエスマンの取り巻きしか心の底からは納得してくれない。そうゆう不可思議なものが人間でしょう。そうゆう深い心の仕組みを持つ人々を動かして真理の場へ人を誘っているのは聖使命会員さんの日頃からの愛と気付きと無私の実践。思い遣りの愛の成果です。
論理で言い負かせて相手の無知を恥じる気持ちを逆手に取り無理やり人を連れてきているのではありません。言い負かしても納得してくれない人達がいつまでもそこにある。それは人の心を動かしてないからです。
教養の差や知性の差はあれど、通じるものがあるから、宗教には老若男女、様々な社会階層や境遇の人々が集ってくれるのです。
初心者さん達は、前の投稿でも触れたように、心に蓋がはまってて、どうしてもそうゆう事実が受け入れられないようにしか思えない。会員さんが普段接している人々とは異質な道理で動いてらっしゃるとしか思えません。ならば、自分達にとってももっと話しの弾む、同志と呼べる人々を募って、もっと発展的な活動をすれば人生をより良く生きられるのではないでしょうかと...。
前回登場した時に、初心者さんの思想はおおよそ理解しましたので。言っている事は伝わてますから。その論理は、理解できました。でも心が動きません。そうゆうことです。
-
|
|
私も「初心者」さんの書き込みから抜粋。 (3579) |
- 日時:2014年03月21日 (金) 20時31分
名前:通りすがりの九州方面の信徒
>708 :初心者:2014/03/21(金) 17:21:36 >自然宗教に立ち返ろうということですね。自然宗教であれば、人間の意識がどうであるかは問題になりません(人間中心ではなく自然中心だから。もちろん神の子の自覚も必要ない)。
神の子の自覚なくして、自然への思い遣り、鉱物や地下資源への、肉体人間、物質人間を超越した感謝・いたわりたいと思う心、自然への慎み、それらの心が起こりますでしょうか?
人間の意識がどうであるかは問題になりません(文そのまま)。だということです。他人を励ましたり勇気づけたり、傷ついた心を癒やそうとしたり、深い悲しみに同慈同悲、して、そこから共に歩みだそうと、他人の心に歩調をあわせたり。素晴らしい人間の慈愛や献身する人への感動やは、問題にならないようです。
初心者さんは、どうやって、人間の信仰者を今後も獲得できるとお思いなのでしょうね。教団の財産が尽きたらそれで終わりとでもお思いなのでしょうか。わかりません。以前に初心者さんが登場したときも、教団とそこに関わってゆく信徒の人々の将来についてどうゆう展望があるのか、まるでわかりませんでした。
-
|
|
暴力性のある側。暴力性のない側。と、言い切っております。 (3586) |
- 日時:2014年03月22日 (土) 12時17分
名前:通りすがりの九州方面の信徒
>722 :初心者:2014/03/22(土) 09:48:18 >さくらちゃんへ (略) >これはそのとおりですね。自分の考えと異なる考えを「悪や虚説として排除する」のが、人間中心主義におちいった人物にありがちな行動パターンなのですね。なにしろ、現象はすべてが自分の心の影なのですから、他者の考えといえどもそれは自分の心の影であり、それが「悪や虚説」としてみてえているとすれば、それは自分の心の影としてそのようにみているだけだから、それを「ない」といって否定するのはあたりまえ、となるわけです。
>相手がどんなに傷つこうとも、すべては自分の心の影なのですから、「虚説」として否定するのはあたりまえなのです。 >ところで、「人や物の奥にある理念や神性を礼拝する」とはどういうことなのでしょう。理念や心性は自分の心の影ではないですね。つまり、生長の家の人々とは、心の影の部分とそうでない部分とを瞬時に、しかも完璧に見分けて、そうでない部分だけを礼拝する能力を身につけた人々であるということなのですね。こんなことができる人たちなんですねえ。 >でも、総裁は「こんな器用な真似は自分には無理」と考えられたんですねえ。もっと難易度の低い宗教はないか。このように考えられて、「心の影」というようなややこしいことは考えずに、「すべてを神として礼拝する」という自然宗教へ切り替えようとしておられるということなのですね。
>>(イタリアの哲学者ヴァッティモは、西洋形而上学は絶対的価値、真理、普遍といったものを主張する、「強い思考」であり、暴力性がそなわっているとして距離を置くと、言いました。 >宗教でも、絶対的価値観、真理、高い理想や正義を主張した時、時に暴力的なものがあります。 >…対して、弱い思考というと、誤解されそうですが、 >宗教において、なにか…大切なものは、世間の権力や、制度などに対して変革するなどの「力」は、本来求めないものだと思っています。)
>イタリアのジャンニ・ヴァッティモですか。アメリカのローティとならぶ「弱い思考」の提唱者ですね。さくらちゃんはヴァッチィモを読んでおられるのですか。いやー、おそれいりました。 >いま人類に必要なのは、ローティの唱えるアイロニズムの発想ですよね。ヴァッティモは読んだことがありません。ローティに影響されたわけではありませんが、暴力的な思想はアイロニズムの欠如から生じる、というのはたしかなことのように感じられます。相手の考えていることを「虚説」と言ってのけられるような人々には、たしかに暴力性のようなものを感じます。
通りすがりの感想。 初心者氏が言われている事が、ブーメランのごとく、初心者さん側の行ってきた行いを思い返させます。 権力的に行われることは暴力ではないという認識のようです。 権力を持たない人間が判断したことのみ、その判断に暴力性を持つようになると。 そう読み取れます。 自分達の一群に、どのような性質があるのか。自らの検証も洞察もまるでないで、上から評する。 初心者氏の知識力より少し秀でているような言説に慇懃になりつつ同意しながら、もう知識的な面や直感力の面で負けているというのに、屁理屈をこねくり回す。いつまで話していても核心的な部分にまで討論が深まらない。いつもの初心者さんの平常運転です。
-

|
|