生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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また、又、亦、本部直轄掲示板?に姿を現わした「初心者」=マサノブ君 、堂々と開祖・谷口雅春先生への反逆屁理屈論を展開・・・<そのA> (3587) |
- 日時:2014年03月22日 (土) 16時30分
名前:怒りの信徒代表
<「初心者」=マサノブ君、曰く> (余分なところを省き、各文要点を抜粋) http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11764/1376543876/
698 :初心者:2014/03/21(金) 10:49:55
ところで、「病気が治るからこれは真理だ」はいいのですよ。「これ」とはなにか、これをはっきりさせましょう、といっているのですよ。・・・「これ」とはなにか。それは「真理」ではなく雅春先生の「筆力」でしょう。・・・雅春先生の弟子たちが「とるにたらぬ人間知」だの「真理を知らぬ迷い人」だのと、わたしを侮蔑することをいいますから、そんな弟子たちを育てた雅春先生を侮蔑するような表現をもちいたとしても、文句をいわれる筋合いではないでしょう。文句があるなら、雅春先生の名をけがす不肖の弟子たちにいいなさい。
700 :初心者:2014/03/21(金) 12:12:00
人間中心主義は「心こそが大事」、「意識こそが大事」という意識中心主義へと簡単にむすびついてしまうところがありますよね。・・・心などほんとうはどうでもいいのですよ。どんな心であろうとも、そんなことは本質的な問題ではない。しかし人間中心主義におちいった人は、「心こそが大事」といいはじめる。誤った考えです。ではなにが大事か。それは言葉ですよ。言葉こそがすべてなのです。・・・心は似せやすい。だからそんなものはどうでもいい。言葉は似せがたい。だからこそ言葉は大事なのだ。ほんとうに大事なのは、心ではなく言葉なのだ。・・・おそらく総裁は、冒頭の引用文で示されたような、「心こそが大事」といいたげな人間中心主義者のおそれをしらぬ言い分に、強い不信感をいだいておられるのでしょう。 環境破壊は世界を二分して考える人間中心主義がおこしたもの。「心こそが大事」とするあやまった真理観もまた世界を二分して考える人間中心主義がつくりだしたもの。総裁がもしもこのように考え、あるいは直観しておられるとするなら、環境運動への傾斜の理由がおぼろげながらもみえてくるのではないでしょうか。
706 :初心者:2014/03/21(金) 15:17:50
「総裁はなぜ環境問題を?」ですが、「愛国運動へのアンチテーゼ」だと思ってます。愛国運動のアレルギーで、環境問題へと舵取りをされた、あまり高尚な理由はなかったんじゃないのか。まとめれば現総裁ですが、「愛国運動アレルギーの払拭のために、アンナ事(環境問題)を開始した」に、なりはしないかと。 こういう説明はもちろん成り立ちますけども、これでは宗教が環境運動に傾斜した理由説明として不十分すぎますね。宗教が傾斜したとなれば、それなりの理由づけをする必要がある。・・・環境運動がなぜ真理にむすびつくのだろうか。・・・こうした疑問にたいして、これまでどのような説明がなされてきたのでしょう。「なるほど」と納得できるような説明がなされてきたのでしょうか。「愛国運動への抵抗」ではなんの説明にもなっていないのではないですか。おそらくいかなる説明もなされていないのでしょう。もしそうだとすれば、これがゴタゴタの原因のひとつなのですよ。・・・説明がなされればそれに賛同する人と反対する人があらわれて議論のなしようがある。これほどまでにゴタゴタする必要はない。しかもそうなれば、対外的にも宗教団体として恥ずかしくない姿勢を示すことができる。教団と本流の双方が「なにも説明しない」、「なにも議論しない」というのであれば、ここでやってみるよりほかはないでしょう。雅春先生を守れ!そう叫んでいる者が最も、「御教えを軽視できるのはなぜか?」 和解の仕方がわからんのですよ。知恵がたらんのですよ。
708 :初心者:2014/03/21(金) 17:21:36
「環境運動」を真理に結びつけようなんて発想はなくて、もともとは、自然崇拝の、宗教の本来の意味に立ち返ろうという「信仰運動」にしようと思ってやったんです。・・・自然宗教に立ち返ろうということですね。自然宗教であれば、人間の意識がどうであるかは問題になりません(人間中心ではなく自然中心だから。もちろん神の子の自覚も必要ない)。総裁が自然崇拝という形で宗教のほんらいの形に立ち返ろうとしておられたとすれば、人間中心主義からの脱却を図ろうとしておられたと考える根拠になりますね。ただこのとき、雅春先生の教えはどうなるのか、ということです。いかなる理由説明もなく切り離すことはできませんね。環境運動に真理をむすびつけようとの発想がたとえなかったとしても、啓示宗教が自然宗教へと変化した理由を真理とむすびつけて説明する義務はとうぜんのごとく生じます。そうしなければ、「雅春先生の教えはどうなった?」となって混乱が増すだけですから。・・・「挑発」という言葉がキーワードになるような気がいたします。かつて自然は畏怖の対象でしたね。自然にたいする畏怖が自然崇拝にむすびついたはずです。ところが人間中心主義の考え方があらわれたことで、自然は畏怖の対象から挑発の対象となったのです。つまりですね、総裁がかかげる自然崇拝への回帰とは、自然を畏怖の対象へといきなり回帰させることではなく、挑発の対象からまずははずすということであったはずなのです。自然を挑発の対象からはずすために「まずはエコロジーから」、との発想になったのかもしれませんね。いずれにしても、「雅春先生の教えはどうなったのか?」の疑問に答えるためにも、環境運動と真理との関係をきちんと説明しておく必要がありそうです。
709 :初心者:2014/03/21(金) 20:52:41
いくら「自然信仰への回帰」といっても、いまさらアニミズムの世界にもどるわけにはいかない。総裁はどうなさるおつもりなのでしょう。・・・「自然の言葉を代弁する」。ここに注目しましょう。・・・自然の言葉ってなんだ?自然に言葉があるといっても、生長の家の人にはたぶんわからない。わからないからこそ、世界をふたつに分けるのがよいことだと思い込んでいる。「自然には言葉がある」というのはわかりきったことでしょう。人間は自然の一部。その人間に言葉あるってことは自然にも言葉があるってこと。ただし自然の言葉は人間が使う言葉よりもはるかに複雑で、そこで使われている語彙や文法は人間の知るところではない。・・・わかる人にはわかるんだよなあ。自然には言葉がある。自然はなにかを語っている。自然はなにを語ろうとしているのか。それを言葉で言い当てるのが「真理を言い当てる」ってことなのです。これ以外に真理を言い当てる方法はない。霊的直観はたぶん自然の言葉には効かない。霊は霊のことしかわからないから。・・・総裁は世界をふたつに分けようとはしていないみたいだから、いつか自然の言葉を聞けるようになるかもしれない。世界をふたつに分けた人って、自分が世界でいちばん偉いと思っているだろ。そんな人間に自然はけっして語りかけたりはしないけど、総裁にはそのうち語りかけてくるかもしれない。
710 :初心者:2014/03/21(金) 22:06:42
物質体には宇宙の叡智が埋め込まれている。第五時空にいたって、自我はようやく物質体とむすびつき、宇宙の叡智を知る手がかりを得た。まことに残念なことではあるが、生長の家は宇宙の叡智が埋め込まれている物資体を「ない」といって否定している。そのために、自我が物質体とむすびつけずにいる。本流掲示板で騒いでいるバカものどもをみてみろ。物質体とむすびつけぬ自我はあのようになってしまうのである。あわれなことというしかない。
711 :初心者:2014/03/21(金) 23:21:22
総裁がもしも、世界を現象と実相とに分ける生長の家の教えは必然的に人間中心主義へとむすびつくと、みずからの体験や理論的な考察からこのように判断なされたとします。そしてまた人間中心主義は環境破壊を引き起こす直接的な原因になったともお考えになられたとします。こうしたことから総裁は人間中心主義を地球からほうむりさろうと決断なされて、雅春先生の教えを封印なさるとともに、人間中心主義にたいする批判や対抗などの意味を込めて、教団の舵を環境運動の方向へきられたとします。ここで質問です。以上のごとく想像することの問題点があるとすれば、それはどのような問題でしょう。「総裁がそのようなことを考えるはずがない」というような問題ではなく、筋書きとして不自然な点があるかどうか、筋書きじたいが稚拙であるかどうか、筋書きに説得力があるかどうか、筋書きにこれを述べるだけの意味や価値があるかどうか、こういったことに関する問題点があるとすれば、それはどのような問題点であるとお考えでしょうか。
715 :初心者:2014/03/22(土) 07:28:10
ここでなにをそうとしているのか、要点をまとめておきます。
@教団の環境運動は真理の観点からもまっとうなものであることを説明する。
Aイデア論としての唯神実相論への疑問を提示する。
B自然宗教へと回帰することの意味を基礎づける。
以上です。
716 :初心者:2014/03/22(土) 07:38:13 総裁に期待するのは、雅春先生によってふたつに分割された世界をほんらいのひとつの世界にもどしていただくことです。総裁には現代のプロティノスになっていただきたい。これがわたしの望むところです。
717 :初心者:2014/03/22(土) 07:56:46 総裁がなそうとしておられること、それは、雅春先生によって覆い隠された物質界の叡智を復活させることである、とわたしは考えております。
721 :初心者:2014/03/22(土) 09:47:28
雅春先生の教えは「天地の万物を神として礼拝する教えである」とされるのですね。もしもこれが事実であれば、雅春先生の教えはイデア論ではなくプロティノスの思想であるといってよいでしょう。物質界とは自然界でもありますが、ここには宇宙の叡智が埋め込まれていますね。・・・自然界を一者の流出ととらえるなら、世界を現象世界と実相世界に分ける必要などどこにもないはずです。ふたつに分けずとも唯神実相論は成り立ちますね。それを雅春先生はなぜかふたつの世界に分けられたのです。なぜ分ける必要があったのか、これがわかりませんね。天地の万物を神として礼拝する教えでありながら、なぜ雅春先生は天地の万物を、実相世界から切り離されたのでしょう。切り離さずとも、それを「一者の流出」とみなせばよいではないですか。一者の流出として礼拝すればよいではないですか。なぜ「現象はない」と否定する必要があったのでしょう。「天地の万物は一者の流出であるから神として礼拝する」。これでよいではないですか。わたしのいう人間中心主義とは、「悪としてみえている天地の万物は自分の心の影であるから、自分はこの心の影である天地の万物に真理の光を照射してほんらいのあるべき姿としてあらわしだすのだ」というように、世界を自分の意識で処理しようとすることです。「実相をみる」といいながら、生長の家の人々は、世界を自分の意識のなかで処理しようとしているのではないですか。もしそうであれば、これを人間中心主義といいます。世界を自分の心の影とみなすこと。これが人間中心主義です。世界を自分中心に組み立てること。これが人間中心主義です。
722 :初心者:2014/03/22(土) 09:48:18
端的にいえば、
一、宗教の教義や論理を根拠にして、自分が信じた理想の正義、または善を実現するために都合の悪いもの、邪魔になるもの、またその反対になる考え方を、「悪や虚説」として、排除する、という二項対立の考えに陥るものと、
二、宗教行や祈り、感謝の生活を大切にしていく信仰心。「理想実現」を掲げるというより、人や物の奥にある「理念」や神性を礼拝する生活。(二項対立がないので、何かを排除するという発想はない。)
本来の信仰、信仰運動は、わたしは、こちらだと思っています。これはそのとおりですね。自分の考えと異なる考えを「悪や虚説として排除する」のが、人間中心主義におちいった人物にありがちな行動パターンなのですね。なにしろ、現象はすべてが自分の心の影なのですから、他者の考えといえどもそれは自分の心の影であり、それが「悪や虚説」としてみてえているとすれば、それは自分の心の影としてそのようにみているだけだから、それを「ない」といって否定するのはあたりまえ、となるわけです。相手がどんなに傷つこうとも、すべては自分の心の影なのですから、「虚説」として否定するのはあたりまえなのです。 ところで、「人や物の奥にある理念や神性を礼拝する」とはどういうことなのでしょう。理念や心性は自分の心の影ではないですね。つまり、生長の家の人々とは、心の影の部分とそうでない部分とを瞬時に、しかも完璧に見分けて、そうでない部分だけを礼拝する能力を身につけた人々であるということなのですね。こんなことができる人たちなんですねえ。でも、総裁は「こんな器用な真似は自分には無理」と考えられたんですねえ。もっと難易度の低い宗教はないか。このように考えられて、「心の影」というようなややこしいことは考えずに、「すべてを神として礼拝する」という自然宗教へ切り替えようとしておられるということなのですね。 宗教でも、絶対的価値観、真理、高い理想や正義を主張した時、時に暴力的なものがあります。宗教において、なにか…大切なものは、世間の権力や、制度などに対して変革するなどの「力」は、本来求めないものだと思っています。) 相手の考えていることを「虚説」と言ってのけられるような人々には、たしかに暴力性のようなものを感じます。
723 :初心者:2014/03/22(土) 10:08:34
ところで、絶対的真理の発想におちいりかねない形而上学が暴力性をともなうのは当然なのですが、形而上学という発想じたいが世界をふたつに分ける発想なのですね。・・・「虚説」に象徴されるように、生長の家の教えを信じる人々に暴力性がともなうのは、「真の生長の家の教え」が形而上学であることと関係しているのかもしれません。
726 :初心者:2014/03/22(土) 10:45:55
「現象はない」わけですから、天地の万物が現象であるはずがありませんよね。だって天地の万物はここにありますもの。現象ならあるはずがないでしょう。天地の万物とは物質体ですね。物質体は実相であり実在なのです。もちろんそれは心の影でもありません。でもね、たとえ方便とはいえ、ふたつに分けたことで問題が起きてるんじゃないですか。絶対に起きてますでしょう。
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<一言コメント>
@ 「初心者」=マサノブ君の思想は、外国の哲学者がどう言った、こう云っている、それに対して開祖・谷口雅春先生の思想は云々と思考基準を外国の学者においていると云うことであります。外国の哲学者の説を全部外してマサノブ君のコトバだけで抜粋文を抜き出しました。
A マサノブ君の思想の根本的欠陥は、開祖・谷口雅春先生が「無の関門」を透過されて直接認識された絶対実在の絶対認識を捨象して、本来の『御教え』批判に走っていることであります。マサノブ君は、“盲目、蛇に怖じず”の如く、開祖・谷口雅春先生との境涯の天と地ほどの差がわからないで、屁理屈批判をしているのであります。
B 屁理屈理論でありますから「マサノブ教」には現実的救済能力がないのであります。マサノブ教団が1年間かかって節減したCO2の削減量など、観光客誘致の飛行機の増便一機分で帳消し、共産中国の毎年増え続ける自動車普及速度に依っても帳消し、まさに信徒の浄財の無駄使いであります。マサノブ環境理論は既に破綻しているのであります。
C 開祖・谷口雅春先生の本来の『御教え』は現実的衆生救済力、国家救済力があるのであります。屁理屈屋にして机上の空論家は早く出て行って頂きたい。信徒の総力挙げて責任追及して行かねばなりません。
(注)「初心者」=マサノブ君の投稿文の掲載されている掲示板の名称は、< 「徳久克己」先生顕彰新傍流′f示板 >の「脱力ネタ」板 管理人:「訊け」君であります。何故此処に「徳久克己」先生の名前が出てくるのでしょうか?理解に苦しむところであります。 http://jbbs.shitaraba.net/study/11764/
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もう、なりふり構わずですね。 (3589) |
- 日時:2014年03月23日 (日) 06時53分
名前:通りすがりの九州方面の信徒
最近の初心者さん”身分卑しき者さん”は、もうなりふり構わずですね。以前は、自身が=(イコール)現総裁ではないという、ご想像にお任せしますという体(てい)を微妙なラインで保っていたと思いますけど。総裁にしかわかりえない心情まで交えて語り出したら、もう現総裁、本人だとバラしてるようなものじゃないですか。
そんなに理屈をこねくり回さずとも、
和顔・愛護・讃嘆
を生き抜くこと。
出会う人々すべてに慈愛をもって接し、どのような身分の人でありとも包摂し人生の日々を積み重ねてゆくこと。
ただそれだけで、自分の話に深く聴き入ってくれる隣人は得られると思います。
年齢に見合ったまともな人間力を研鑽して来なかったから人が離れたり異論を積極的に唱えられたりするんです。
他人は、論理の面では、少々怪しくても、人格が素晴らしいと信じられる方であれば、その人の多少の誤りまで含めて、その人であるならば、助力してあげようという気持ちをもってくれます。
論理に先んじて、まず年齢相応の人格と人間性。温かい雰囲気。 論理はあとから付いてくる。そうゆうものです。
宗教の真理というのはSTAPみたいな論文じゃないんだから。
まず、人格で証明しないと。論文を学会に持ち込んでも宗教の正当性の証明にはなりません。
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