生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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重ねて、「あまむし庵」先生に御教示を御願い申し上げます。 (4615)
日時:2014年07月27日 (日) 16時29分
名前:元・白鳩地方講師



「あまむし庵」先生、合掌ありがとうございます。去る7月15日にこの掲示板に先生へご教示を御願いしたものでございます。http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=snihonryuu&mode=res&log=1856


先生からは未だご回答の御教示はございませんが、その後先生の御文章13と14が投稿なされており、それを読ませていただき、より一層ご教示いただきたく重ねて御願い申し上げます。私と同じ思いの方々も多いと思い、この掲示板上でご質問という形をとらせていただき、ご教示を仰ぎたく存じます。


先ず、先生のNO.13と14の御文章を読み、特に私が重要だと思った箇所を抜粋して次に示させていただきます。



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

13/「本部赤痢菌事件」は私ども「不遜の弟子」に対する、雅春先生の乾坤一擲の御指導である

 如何なる社会的問題も、国家的問題も、人類的問題も、その存在を知っただけでは、何も解決の助けにはならないものです。それらの問題を、「自分自身の問題」として受け止めた時、初めてその問題が抱える深刻さを「己(おのれ)自身の魂の底から味わう」ことができ、深刻な危機感(切実感)を伴った「真剣な祈りと行動」を始めることが可能となるのです。それは結局は「自身の内なる神(自他一体、愛)の隠蔽(罪)」でありますから、その人の周囲には、その神(愛)の隠蔽を払拭させんがための、観世音菩薩の慈悲の働きとして、自己の隠蔽(罪、迷い)の象徴的映しが現れざるを得ないことになるのです。生長の家で言えば、それが今回の「生長の家本部赤痢菌事件」であったのです。「放蕩息子」が如き、「反日、赤化思想」の現総裁の姿から、その奥に隠されている「教訓、メッセージ」を一人一人の生長の家人が汲取(くみと)らぬ限り、この問題はさらに大きな破壊力を持って、我ら自身を巻き込んでいくことでありましょう。与えられた「問題」を無視すれば、さらに「切実な問題」として現れて来てくれるのです。つまり、その人自身の問題として、周囲(愛する家族や子供等)に様々な問題となって現れ、その切実な苦しみ(他人の苦しみを吾が苦しみとして味わう自他一体の「愛」)を通し、人類に対する自他一体の「愛」を実感することで、人類を愛するための実際行動(人類光明化運動)に、心が向くように結局は定められているのであります。現象界(観世音菩薩の世界)の基本原則は、何度も繰返して申しますが、「現実世界に映し出された姿を詳しく観察することによって、それの原因であった、心の雛形を明確に知る」処にあるということです。悪事を働く者は、必ずといって良い程、自己の心が読まれないように、「原因結果」の因果関係を隠蔽するのです。そして、三代目総裁の代となりました。谷口雅春先生が神去られてから約三十年、今の教団の姿を見て、「素晴らしい生長の家教団に生長した」と言う人は全く見受けられません。「立派な教団になった」と、喜んでいる人に出会った事もございません。映し出されている教団の姿は、生長の家の人々の心の結果と言えます。同時に極論を申せば、その時々の中心者の心の結果ということになりましょう。「天皇国日本実相顕現」など、ほど遠いと言いましょうか、それとは全く逆の運動が堂々と展開されている現実は何を示しているのでしょうか。日教組教育、マスコミ等に洗脳され、弱体化されてしまった戦後生長の家人の、当然の結果と言えるのではないでしょうか。 吾々の「過去の心の姿」を教えて下さる「観世音菩薩」として感謝して拝み切る時、「過去」も「現象」も成仏するのです。その感謝は、本来あるべき「自分の姿」を教えんが為であり、吾々自身が神であったことを思い出させんが為であり、自身を通して神が地上天国実現せしめんが為であったことを悟らしめ、その地上天国実現運動に喜びをもって邁進せんが為であった、ということであります。畢竟我らの神性を開発せしめんが為の、観世音菩薩の御姿であったのだと、いずれ吾々は知ることになりましょう。見方を変えれば、生長の家本部を舞台とし、谷口家主役であるところの戯曲「生長の家本部赤痢菌事件」なる大芝居を打たせての、霊界の指導霊谷口雅春先生から、私たち弟子に対する「一世一代の直接御指導」であったとも、見得るのであります。当時の生長の家信徒の運動の不甲斐(ふがい)なさに、先生は「笛吹けど踊らず」と悲しみの言葉を洩(も)らされたことがありました。雅春先生御自身の感じておられる世界と日本に対する「危機感」と、幹部や信徒の受け止める「危機感」には、極めて大きな隔たりがあったということを意味しています。 所詮、実体験を伴わぬ言葉の説得だけでは、人々は実感が湧かずなかなか行動せぬものです。故に、先生御自ら、最も愛してやまない「谷口家」の痛みを伴った貴重なる御体験を通して、吾々生長の家人一人一人に対し、懇切丁寧にご教示されていると考えられるのであります。この地球が抱える最大にして、究極の課題が何であって、その問題を隠蔽したり、放置したり、忘れ去った場合には、どのような結果をもたらすのか。という「貴重なる教訓」を我らの目の前に見せんがための、「一大説法」であると解釈することができるのであります。そのように解釈することは、先生に対する御恩返しにつながる「門」であるのではないでしょうか。その「門」は一大公案であり、いわば現代の「無門関」とも言うべき「宗教的大関門」であります。その「無門関」の公案を通過することが、地球規模の最大の問題を解決し得る「大力量人」となり、資格が与えられるものと解釈できるのであります。それを実践させんがためでしょうか。雅春先生が創られた「生長の家」教団の本部を舞台とし、「谷口家」の方々がそれぞれの役割をもって、精魂込めて建設された本部会館さえも解体せしめ、様々な争い事を演じてまで、この「戯曲」を完成させようとしておられます。恐らくそれぞれのお立場で、信徒には理解の遠く及ばぬ、言うに言われぬ、苦しみや悲しみを受けておられるに相違ありません。この「戯曲」における、「谷口家」の方々の迫真の演技は、唯々、吾々到らぬ信徒、弟子に対する禅の「痛棒」に外なりません。「眠れる神の子の弟子達よ、これでも目が覚めぬか!」「日本と世界人類を蝕む唯物思想の問題は、決して他人事ではないぞ!」「これを真に救い得るは、天皇国日本に生を受け、唯神実相哲学を学びし諸君なるぞ!」「吾が愛する弟子達よ、今立て!」と言わんばかりの、霊人雅春先生の師子吼ではありますまいか。こうでもしなければ、「天皇国日本実相顕現」「地上天国実現」運動の「観客」然とした、私ども「不遜の弟子」は、長い眠りから目を覚まさぬのでしょう。霊人となりし雅春先生からの乾坤一擲(けんこんいってき)の御指導、師の声なき声を聞く者は誰ぞ、であります!


14/ 「謙りの姿勢」から神が現れる

 何らかの原因で苦しい気持ちを自分が受けたということは、その同じ「心の痛み」「心労」を、周囲の誰かが受けていたことを、自分に知らせんがためであると、生長の家では教えています。私にとって今現に問題視している最大の関心事は「生長の家本部赤痢菌事件」であります。つまり、現時点で「誰かの心労」とは、この事件の直接の当事者である処の、現総裁谷口雅宣氏、本部の幹部関係者が、日々背負っているところの大変な「心の痛み」「心労」であると、私は感じたのです。 相手の「心労」を少しでも理解することは、「愛する」ことの第一歩と言えると思います。相手を「理解する」ことなしに、「愛する」ことなしに、「和解する」ことなしに、何かを行うことは、「神」をこの世界に現し出すことの拒否にもなりかねません。自分自身が受けた「心労」を切っ掛けとして、私の目前に展開している「生長の家本部赤痢菌事件」の一番の当事者である処の「谷口雅宣総裁」自身の「心の痛み」「心労」を、自分自身がどれほどまで知り得るかということに、意識を集中せざるを得なくなって来たのであります。現総裁だけに留まらず、本部中枢にて役を演じている全ての方々も、大なり小なり大変な「心の痛み」「心労」を受けておられるに違いないと思うのであります。本来皆神の子ですから、誰からも愛される「善役を演ずる」ことは楽しいことですが、本来の神性を忘却し、周囲から嫌われ批難され敵扱いされてこそ、役割を果たせ得る「悪役を演じる」ことは、さぞかし大変なことでありましょう。『悪人(悪役)を演ずるのは、善人(善役)を演ずるより大変』なのであります。「悪役」を演じている雅宣氏初め幹部の方々は、きっと吾々には想像を絶する大変な心労を背負って、毎日を過ごしておられることでしょう。彼等は彼等なりの「言うに言われぬ理由」があってのことだと思うのであります。その理由を、彼等自身がはっきりと分かっている場合もありましょうが、多くの場合、その理由は自分では分からぬままに、より大きな力に動かされて突き進んでいるのではないでしょうか。(谷口雅春先生著『古事記と日本国の世界的使命』同書162頁)別の解釈をすれば、天界、霊界で創作された「戯曲」の悪役を、誰かが演じなくてはならず、その悪役を演ずる俳優がいなければ、この「戯曲」は成立しなくなるのでしょう。成立しなければ、その「戯曲」を通して多くの生長の家人に伝えるべき、大切な「教訓」と「真理」を伝えることが出来ずに終るのです。 その「戯曲」をシナリオに沿って、忠実に役を演じているのが、現総裁谷口雅宣氏と、生長の家幹部諸氏であろうと、私は確信する者であります。その「戯曲」はこの時期、生長の家内部において、必ずや演じる必要があったのでしょう。その「戯曲」の真意を汲み取りたいと、切に願わずにはいられません。そこに示されているであろう「教訓」と「真理」を是が非でも、受け止めねば、悪役を演じて下さっている雅宣氏と幹部諸氏に申し訳が立たぬのではないでしょうか。勿論、現教団に反対されている熱心な誌友信徒諸氏にも、申し訳が立たぬのです。すでに、私の心の中では「誰が悪い、彼が悪い」という問題ではなくなっていました。到らなかったのは、私自身であったのです。谷口雅春先生の生長の家立教の精神と、神に対する真摯な祈りの連続であった先生のお気持ちを知らずに、無頓着でいたのは私自身であった、というだけのことでありました。小生は別に善人とは自認していなかったものの、殊(こと)生長の家に関しては、やはり「善人」を演じていた、現在の生長の家総裁を「悪人」と見ている自分があるのです。如何せん「善人」なる己は、人を裁くのは得意中の得意であります。私は色々とこのブログで書いてまいりましたが、結局ここに来て、「置き去りにして来た『神の愛』」を書かざるを得ない状況に、自分自身を追い込んでしまったようであります。そして「謙(へりくだ)りの世界」を、真剣に見直すことになりそうです。やはり、今までの自分には、「愛」が極端に欠乏していたと言わざるを得ないのです。現総裁を論理的に「非難」していることを良しとして、自分自身を「善人」とし、相手側を「悪人」として捉えている心の性癖が見て取れました。相手の人格に対して、いつの間にか「悪人」というレッテルを張っている自分がおったのです。「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」。この親鸞上人の有名な言葉を思い出したとき、自分の「善人振り」が見えたのです。この言葉を後世に残した親鸞上人は偉大であります。では、一体私に何が足りなかったのでしょう。それを端的に申せば、雅宣氏を「神」として拝んでおらなかったということです。「人」として見ていたのです。表面的現象の現れだけを観察して、その表面上に現れた問題点や間違いを批判していたのです。その瞬間、雅春先生の説かれた「唯神実相」から外れている自分がおりました。「唯神実相の雅春先生の教えから雅宣氏は外れている」と指摘しながら、「指摘している己が唯神実相から外れている」という大矛盾を自ら犯していたことに気付けたのです。またしても「謙る自分」を忘れていたのであります。「省みて和解せよ」これが私に課せられた神からの絶対命令であったのです。そうなのです。雅宣氏の「神性」を礼拝するしか、私には道は残されておらなかったということです。すなわち「雅宣氏の実相と和解」し、「雅宣氏を愛する」ということなのです。「天地一切のものとの和解が成立するとき 天地一切のものは汝の味方である」と神示にありますように、相手を礼拝し、和解し、愛した時、神が現れ、相手の存在は「味方」となるのであります。その「味方」とはどういうことを意味しているのでしょうか。様々な解釈が考えられましょうが、「味方となった雅宣氏」は吾々生長の家信徒に、「偉大なる贈り物」を提供してくれる存在なのではないでしょうか。その「偉大なる贈り物」は、見る人によって様々であると思います。それは、「教訓」であったり、「浄化」であったり、「悟り」であったり、「絶体絶命の決意」であったり、「偉大なる贈り物」をそれぞれの観客に与える「深い愛」が、氏の奥に見えるのであります。『観世音菩薩を讃える祈り』に示されているが如く、それはまさしく観世音菩薩そのものの働きであるのです。世界のあらゆる事件、問題に根底から介在しているのが、ユダヤ勢力であります。このユダヤ勢力の目的は何かと申しますと、端的に言えば、「人類の財産を略奪する」処にあるのです。このことはとても悲惨な大事件に見えるのでありますが、霊的神的に解釈して見ますと、「人類に潜む唯物思想(自我)という迷い」を、破砕することが目的であると解せるのであります。 それは何故かと申しますと、「唯物思想」とは「物質有り」「肉体有り」という妄想から発しており、様々な我欲や傲慢な意識、つまり一切の「迷い」の源泉であります。その「迷い」に囚われて「神我」を眩ます限り、人類は「迷い」から生ずる無数の苦しみから逃れることはできないのです。それを救済せんがために、ある種の強制力をもって、それに気付かせる為の慈悲の働きだと、考えられるのであります。ある人の心に「唯物思想」が潜んでおりますと、それを砕破させる為により強力な「唯物思想」を持って、その人の「唯物思想(自我意識)」という迷いを、徹底的に破壊してしまうのであります。その「唯物思想(自我意識)」という「迷い」の破壊は、「神への絶対服従」「神への全托」である処の「謙り」の心から生ずるのです。人類に「謙り」を体験させんが為に、ユダヤ勢力は相手の財産・権力を破壊する総攻撃を仕掛けている、と解釈し得るのです。つまり、物質欲(高慢)を持った人類が、他者(ユダヤ勢力)からの強制力によって、財産、土地、権力、地位、名誉等の諸権利を剥奪(はくだつ)された時、はじめて人類の欲心が破壊され、謙りの姿勢が生まれるということです。 こうして、ユダヤ勢力の強烈なる「唯物攻撃」を通して、人類の心の中に潜んでいる「唯物思想」という「迷い」の念が、消え去って行くのであります。「愛」がある処、「和解」した処にのみ、「神」は現れる。神から愛されている谷口雅春先生直系の「お孫さん」が、「神に不従順」となっているのであります。このことにより、生長の家人は、谷口雅春先生の聖典の出版と使用が極端に制限され、本部会館は喪失し、生長の家教団の財産はなくなり、本来の教えは大きく歪んでいます。多くの生長の家人は、これによって、各々が頼りとしていた「教団組織、総裁」という形の世界から切り離されてしまいました。今生長の家人は、一人一人の心の中で、言うに言われぬ屈辱感や悲しみや憤りの観念に苦しみもがいています。 これこそ、神の恩寵(おんちょう)でありましょう。私は、人類最大の問題である「ユダヤ問題」について、これを神の恩寵と見、神の憐れみと祝福を受けるための道であると信ずるものであります。同時に、「生長の家本部赤痢菌事件」も、神の恩寵であり、神の憐れみと祝福を受けるための、神霊の計画せるものであると思うのです。そこに至るための問題解決方法は、唯一つであります。「謙りの姿勢に立ち返り、神性隠蔽している一切の迷いの観念を捨て去り、神に無条件降伏する」ことでありましょう。その時、内なる「実相の神」が吾等を通して燦然と輝くに違いありません。「謙りの姿勢に立ち返り、無我の心となって、神に全托する」という行為は、「相手を真に愛する」ということであり、「相手の実相に和解する」ということでもあると思います。下記『マタイによる福音書 第5章』で、イエスは敵対する者にさえ「愛し」「祈れ」と命じています。現在置かれている吾ら生長の家人のお手本とすべき処ではありませんか。「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と明言されています。このレベルの愛は、実に相手の実相を拝む深い愛であり、実相との和解とも言えましょう。「愛」がある処にのみ、「神」が現れ、「和解」した処にのみ、「神」は現れることを端的に示していると言えるのです。神を地上に現し出す事のみに、己の精魂を傾けて生きたいと願わずにはいられません。神さえ現れれば、それだけでいいのであります。外に何もいらないのであります。そのためにも「謙りの姿勢」を一時たりとも忘れてはならないのです。

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以上でございますが、更に絞り込んで印象深く読ませて頂いた部分を掲げさせていただきますと、――

* 「如何なる社会的問題も、国家的問題も、人類的問題も、その存在を知っただけでは、何も解決の助けにはならないものです。それらの問題を、「自分自身の問題」として受け止めた時、初めてその問題が抱える深刻さを「己(おのれ)自身の魂の底から味わう」ことができ、深刻な危機感(切実感)を伴った「真剣な祈りと行動」を始めることが可能となるのです。」

* 「見方を変えれば、生長の家本部を舞台とし、谷口家主役であるところの戯曲「生長の家本部赤痢菌事件」なる大芝居を打たせての、霊界の指導霊谷口雅春先生から、私たち弟子に対する「一世一代の直接御指導」であったとも、見得るのであります。」

* 「現時点で「誰かの心労」とは、この事件の直接の当事者である処の、現総裁谷口雅宣氏、本部の幹部関係者が、日々背負っているところの大変な「心の痛み」「心労」である。「悪役」を演じている雅宣氏初め幹部の方々は、きっと吾々には想像を絶する大変な心労を背負って、毎日を過ごしておられることでしょう。彼等は彼等なりの「言うに言われぬ理由」があってのことだと思うのであります。天界、霊界で創作された「戯曲」の悪役を、誰かが演じなくてはならず、その悪役を演ずる俳優がいなければ、この「戯曲」は成立しなくなるのでしょう。成立しなければ、その「戯曲」を通して多くの生長の家人に伝えるべき、大切な「教訓」と「真理」を伝えることが出来ずに終るのです。」 

* 「その「戯曲」をシナリオに沿って、忠実に役を演じているのが、現総裁谷口雅宣氏と、生長の家幹部諸氏であろうと、私は確信する者であります。その「戯曲」はこの時期、生長の家内部において、必ずや演じる必要があったのでしょう。その「戯曲」の真意を汲み取りたいと、切に願わずにはいられません。そこに示されているであろう「教訓」と「真理」を是が非でも、受け止めねば、悪役を演じて下さっている雅宣氏と幹部諸氏に申し訳が立たぬのではないでしょうか。勿論、現教団に反対されている熱心な誌友信徒諸氏にも、申し訳が立たぬのです。すでに、私の心の中では「誰が悪い、彼が悪い」という問題ではなくなっていました。到らなかったのは、私自身であったのです。」

* 「表面的現象の現れだけを観察して、その表面上に現れた問題点や間違いを批判していたのです。その瞬間、雅春先生の説かれた「唯神実相」から外れている自分がおりました。「唯神実相の雅春先生の教えから雅宣氏は外れている」と指摘しながら、「指摘している己が唯神実相から外れている」という大矛盾を自ら犯していたことに気付けたのです。またしても「謙る自分」を忘れていたのであります。「省みて和解せよ」これが私に課せられた神からの絶対命令であったのです。そうなのです。雅宣氏の「神性」を礼拝するしか、私には道は残されておらなかったということです。すなわち「雅宣氏の実相と和解」し、「雅宣氏を愛する」ということなのです。」

* 「今生長の家人は、一人一人の心の中で、言うに言われぬ屈辱感や悲しみや憤りの観念に苦しみもがいています。 これこそ、神の恩寵(おんちょう)でありましょう。私は、人類最大の問題である「ユダヤ問題」について、これを神の恩寵と見、神の憐れみと祝福を受けるための道であると信ずるものであります。同時に、「生長の家本部赤痢菌事件」も、神の恩寵であり、神の憐れみと祝福を受けるための、神霊の計画せるものであると思うのです。そこに至るための問題解決方法は、唯一つであります。「謙りの姿勢に立ち返り、神性隠蔽している一切の迷いの観念を捨て去り、神に無条件降伏する」ことでありましょう。その時、内なる「実相の神」が吾等を通して燦然と輝くに違いありません。」



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次に、私の「あまむし庵」先生へのご教示いただきたい質問を書かせていただきます。言うまでも無く、私は先生のような極めて高いお悟りの境涯には程遠い心境の一信徒でございます。先生のお説きいただいている事は、全くその通りだと思うのですが、自分に身近な家庭問題やご近所付き合い問題についてはその通り実践して参りましたが、こと、到底自分ひとりの力の及ぶところではない雅宣総裁問題や政治的な問題について、一人の信徒として具体的にどう解釈し、行動すべきかが明確にはわからないのでございます。次の3つのご質問という形で問題提起させて頂きますので、ご教示の程を御願い申上げます。


@ 神の愛は、“犠牲”とも言える現象の問題を通さなければ顕われては来ないのでしょうか?
アシュケナージー・ユダヤ人(ユダヤ教徒ハザール人)の作ったイスラエル国家は、本来のユダヤ人・スファラディー・ユダヤ人(パレスチナ人)の居住地を一方的に武力占領を続け、占領地を拡大して行っています。この様なときに、パレスチナ人はイスラエル国家の侵略に対して、イスラエル国家を観世音菩薩としてその實相を礼拝し、イスラエル国家の指導者も言葉に出来ない程の心労を感じながら、止むを得ず悪役を演じているのだから、イスラエル国家指導者を神として拝み、現在の痛ましい紛争状態をも神様の恩寵として受け止め、謙って相手を侵略者と見ず、一切抵抗敵対反撃せず、観世音菩薩としてのメッセージを感得しなければならないと言うことになります。

これは究極的真理ではありますが、パレスチナ人全員がこの様な高い心の境地に達しているかという現実的問題を考えると、答えはNO!となって犠牲者の数はさらに大きくなると共に、パレスチナ国家は消滅します。この現実を部外者は「戯曲の演出」として簡単に片づけることが出来てよいものでしょうか?

同じようなことは、共産中国の尖閣諸島奪取計画にも当てはまります。現在の日本国民の絶対多数が「あまむし庵」先生と同等の高い悟りの境地に達しているかといえば、これまたNO!であります。そのような現実的問題の中で、尖閣諸島を奪取しに来る中国の姿を、日本人全体の至らぬ心境の反映だとして謙って共産中国指導者を日本に対する観世音菩薩として礼拝して、そのメッセージを感得するといって、言いなりになる事は結局将来的には、日本領土は全て中国領となるのです。「竹島」がその例です。この場合には日本人は犠牲者の立場となります。

また、同じ事が今の生長の家教団にも当てはまります。信徒の悟りの境涯も千差万別で「あまむし庵」先生のお悟りの心境まで達している人は、まだまだ少ないと思います。私もその境地に達していない大勢の信徒さんの中に入ります。この様な状況下では、結局のところ開祖・谷口雅春先生の本来の『御教え』は消され、「生長の家」は解体され地上から無くなって行きます。現に原宿本部は解体が完了し、総本山も鎮護国家の働きがなくなり、実質的には解体されたも同然です。独裁者雅宣総裁はやりたい放題、「生長の家」解体計画を着々と予定どうりに進めています。真理の適応を誤ると背負い投げを喰らうことになると思われます。「あまむし庵」先生の説かれる究極の真理を現在の教団を含めての信徒さん全体に自覚実践していただくことを希望することは現実問題として雅宣総裁の「生長の家」つぶしの加速にしか役立たないと思うのですが、・・・

要は、現在の地球へ霊魂進化を目指して転生して来ている地球人の霊魂の発達(實相顕現)段階は、まだまだ低レベルの段階にあり、「あまむし庵」先生の如き究極のお悟りの御境涯に達せられている霊魂は稀でありますので、「あまむし庵」先生のお説きいただいている究極の真理は、現在の地球人にそのまま当てはまるものではないと思うのでございますが宜しくご教導の程御願い申し上げます。


A 「公人」の場合、「私人」の場合との違いについてご教示いただきたく存じます。
雅宣総裁や習近平主席や朴槿惠大統領は、“公人”であります。“公人”の立場にある人は大勢の人たちへの影響力は大きく、また“公人”はたくさんの人たちから受ける念波(心の想念)も千差万別です。強き想念波や弱き想念波、順念と逆念に十重二十重にとりかこまれていますから、少数の非常に高い心境の人からの念波も絶対多数の逆念によって打ち消されたり、霊界からの強力な悪霊波バリアの影響下にある場合には跳ね返される事もしばしばだと思われます。一方、私人の場合は、高い悟りの人からの高い想念の放射は非常に届き易いのではないでしょうか。従いまして、「あまむし庵」先生の説かれている内容でもっても公人たる雅宣総裁の神性隠蔽の幕を融かし落すことが現実問題として可能かどうか私には分かりかねますので、どうかご教示を御願い申し上げます。結果が出なければ意味がないと思うのです。

また、その公人の表明するところの大勢の人たちに大きな影響力を及ぼす「意思表明の内容」が、誤った見解(虚説)である場合には、それを観世音菩薩の悪役を演じての説法としてそのまま放置しておくのがよいのか、『御教え』のごとく、「虚説」は徹底的に撃破すべきか、「あまむし庵」先生は如何お考えでしょうか? この点には触れておられませんのでぜひともご教示の程御願い申し上げます。


B 「あまむし庵」先生は、現下の雅宣総裁の「生長の家」解体問題に対して< 問題解決方法は、唯一つであります。「謙りの姿勢に立ち返り、神性隠蔽している一切の迷いの観念を捨て去り、神に無条件降伏する」こと>と書かれておられますが、われわれレベルの低い悟りの境涯に居る本流復活を願っている信徒としては、「生長の家」解体を進めている雅宣総裁に対して具体的にどう行動すべきであるのかをご教示いただけないでしょうか? どのように行動して行けば世界の世相潮流を主導できる本来の「生長の家」の姿を取り戻すことが出来るのでしょうか? このままでは、雅宣総裁により開祖・谷口雅春先生ご創始になる「生長の家」は完全解体されることだけは確かに思えてきているのでございます。 私には的確な方法手段がわかりませんので宜しくお願いもうしあげます。 再合掌






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