生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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<終戦の月・特集> *大東亜戦争の英霊諸霊に捧ぐ  「大東亜戦争は侵略戦争ではありませぬ!安らかに鎮まりませ・・・」 <その一> <その二> <その三> <その四> <その五> <その六> (4653)
日時:2014年08月01日 (金) 20時25分
名前:信徒連合

<終戦の月・特集> 


          *大東亜戦争の英霊諸霊に捧ぐ*

        「大東亜戦争は侵略戦争ではありませぬ!
           安らかに鎮まりませ・・・」



 八月十五日は、大東亜戦争終戦の日であります。今回の特集は当、ブログ(「今昔物語」)の今までの掲載記事の中から関連記事を集めました。第三代目・雅宣総裁の“侵略戦争観”は明確な間違いであります。ここに於いてこの事を再確認し、開祖・谷口雅春先生の霊的真理に基づく日本国民としての正しい歴史の見方を学びましょう!


               <その一>



大東亜戦争無縁戦没者英霊に捧げる辞


<< 大東亜戦争に忠勇無双の奮闘をつづけ ついにこの戦争に肉体の生命を捧げつくして霊界に旅立ち給える諸霊に告げ奉る ことに今なお遺族不明にして御魂を祀ることを成し得ざりし戦死の霊たちに斎主(いつきぬし)谷口雅春告げ奉る 本日大東亜戦争終了の記念日を選び卿(けい)等の忠誠と功績を偲び奉りみたまを慰め奉り 真理の悟りに導き奉らんとして ここに生長の家の信徒たち集まりて聖経『甘露の法雨』を読誦し奉らんとす 庶幾(こいねがわ)くはこれを受け給え

 惟(おも)うに大東亜戦争は卿(けい)等の忠勇無比なる奮戦にも拘わらず日本の敗戦となりたれども 決して卿等の奮戦は無駄に終わりたるにも 犬死せられたるにも非(あら)ず。あの戦いの目的は当時すでに明瞭に「大東亜民族の解放戦」と名づけられたるに非ずや これは人類進化の一周期の完了期が近づきたるが故に 今まで白色人種に侵略され その原住国土を白色人種の属国 保護領 植民地とされ 有色民族たる原住民は奴隷のごとく待遇されいたる大東亜およびアフリカの有色民族も この人類進化の宇宙周期の完了に際して 白色人種と同等に「神の子なり」との自覚を得て独立すべき宇宙プログラムを現象界に実現する時機至りたれば 有色人種といえども白色人種を圧倒する力を有するという実例をしめして有色民族たちの自立独立の精神を自覚せしめる契機を与うる必要ありてあの戦争には宇宙の人類進化の神界のプログラムを達成する役割を演ずる偉大なる犠牲者出現せざるべからざりしなり 

 その偉大なる役割を演ずるために開かれたるがあの大東亜戦争なり その偉大なる犠牲的役割を演じて自己の生命を捧げて人類進化に道をひらきたるが あの大東亜戦争において戦死されたる卿(けい)等日本軍の将兵たちなり 卿等の戦死はまことに無意義にも犬死にも非ざりしなり キリストが一身を捧げて人類の身代わりとなりしがごとく 卿等は一命を捧げて 大東亜諸民族およびアフリカ諸民族の魂の自覚の進歩のために貢献せるなり

 卿等の功績決してキリストの人類救済の功績に優るとも劣るものにあらず すでに大東亜の民族はすべてその原住国土において独立せり すでにアフリカの民族もそのほとんどは原住国土において独立せり かくて「大東亜民族の解放戦」と称したりしかの戦争目的はすでに達したり 戦争目的の達成は勝利というべきなり 日本は勝利せるなり

 卿(敬)等はみじめに敗戦して犬死せる者には非(あら)ず 人類進化の周期完了に近づきて偉大なる功績を果たせるなり 今上天皇陛下(編注 昭和天皇)が 平和愛好の御心(みこころ)にて あの大東亜戦争開始に反対の意志をなされ「四方(よも)の海みなはらからと思う世になど波風のたちさわぐらむ」という明治陛下の御製(ぎょせい)を御前会議の席上にて朗詠せられたるにも拘わらず戦争を抑止することを得ず 軍の真珠湾爆撃後 陛下はついに宣戦布告の詔勅において「豈(あに)朕(ちん)が志ならんや」の一句を挿入せしめられたるごときは まことに以(もっ)て あの戦争が人類進化の過程として道を拓(ひら)くべき宇宙的プログラムにして何(いず)れの国民かが犠牲となって大東亜およびアフリカ民族の自覚促進に貢献する宇宙的必要必須(ひっす)の使命を果たす必要ありたるが故なり

 かくて卿らは一身を捧げて すでにこの偉大なる目的を達成せられたるなり 讃(たた)うべきかな卿らの犠牲的精神よ 宇宙の大神 今卿等の功績を称賛し 霊界において一層高き位に進められんとす そのための悟りの彼岸(ひがん)に渡すべき如来の願船としてここに聖経『甘露の法雨』を読誦す これ観世音菩薩の願船なり 塩椎(しおつち)大神の目無堅間(めなしかつま)の小船(おぶね)なり この如来の願船たる聖経に乗りたまいて悟りの彼岸に渡り給えと生長の家信徒一同卿らを敬って合掌礼拝して感謝の意を述べ奉る  頓首再拝


(これは、昭和三十五年八月十五日、生長の家本部大道場で開催された「大東亜戦争無縁戦没者慰霊祭」における谷口雅春先生のお言葉であります。)




[T] “伝え方を間違えてはなりませぬ!”


 特攻隊の文章を書くときには、映画監督や主演女優の思いを紹介することも必要ですが、それ以上に<特攻の母>といわれた「鳥浜とめ」さんの言葉を紹介することを忘れてはなりません。なにしろ、隊員の傍で、夫々の人柄に接し、肌で感じてきた人ですから、その語られた言葉は正鵠(せいこく)を射ており、今まで制作された特攻隊に関する映画の監督や主演俳優以上の真実性があるのです。


 「特攻隊で行かれた方は、将にこの時代に生まれて来ることを分かって生まれて来て、すべてを投げ打って日本の国の為に捧げて、将に神さまだった。だから優しかった。

 伝え方を間違えずに、あの子達のことを伝えて行かなくてはいけない。」

       < ちるために 咲いてくれたか 桜花 

            散るほど ものの 見事なりけり >

 と、詠み観音像を知覧平和公園にある記念館に建立されたのであります。


 鳥浜とめさんの言葉の中で非常に大切なところは、

 ・ 将にこの時代に生まれて来ることを分かって生まれて

 ・ 将に神さまだった

 ・ 伝え方を間違えずに、あの子達のことを伝えて行かなくてはいけない

 という部分であり、この部分は将に『実相直視』の言葉であり、特攻の英霊の人達も鳥浜とめさんもいづれも高級霊の方々であったと拝察されるのであります。



< 『伝え方を間違えずに、あの子達のことを伝えて行かなくてはいけない』 >

 この千金の重さのある言葉は、特に社会的影響力の大きな立場にある人々、即ち第三代目・雅宣・純子総裁は申すまでもなく、マスコミを始めとする各種のメディア、映画やドラマの製作者、歴史作家および各界の指導的立場にある人達は、常に心がけねばならない事であります。

 その為には、本当の<実相の叡智>が必要とされるのであります。個人的な浅はかな形而下的唯物的価値観を基準にして伝えてはならないのであります。





<終戦の月・特集> *大東亜戦争の英霊諸霊に捧ぐ  「大東亜戦争は侵略戦争ではありませぬ!安らかに鎮まりませ・・・」 <その二> (4660)
日時:2014年08月02日 (土) 07時36分
名前:信徒連合





<終戦の月・特集> 


          *大東亜戦争の英霊諸霊に捧ぐ*

        「大東亜戦争は侵略戦争ではありませぬ!
           安らかに鎮まりませ・・・」



 八月十五日は、大東亜戦争終戦の日であります。今回の特集は当、ブログ(「今昔物語」)の今までの掲載記事の中から関連記事を集めました。第三代目・雅宣総裁の“侵略戦争観”は明確な間違いであります。ここに於いてこの事を再確認し、開祖・谷口雅春先生の霊的真理に基づく日本国民としての正しい歴史の見方を学びましょう!


               <その二>



[U] 開祖・谷口雅春先生の大東亜戦争観と第三代目・雅宣総裁のそれとの比較



「今の教え」における大東亜戦争について


<大東亜戦争は日本が起こした侵略戦争であってアメリカ(連合国)がこれを阻止して打ち破った。>これが第三代目・雅宣総裁の説く「今の教え」であります。


(1)生長の家としては、日本で「大東亜戦争」と呼んでいた戦争を<正しい戦争>とは考えていない。(「信仰による平和の道」)

(注)「大東亜戦争」と<呼んでいた>のではなく当時の日本政府の正式決定呼称であり、戦後の「太平洋戦争」という呼称は占領軍層司令部(GHQ)による言論統制による強制使用が今日の一般呼称となったものであります。日本国民としてはこの事は是非知っておかねばなりません。これは極めて重要な事であります。


(2)大東亜戦争は<迷い>であると自覚されたならば、あれは誤りであった・間違いであったと否定する(明らかに<侵略>であったと肯定する意)ことに躊躇(ちゅうちょ)してはならない。(「理想世界誌」・平成4年3月号)


(3)大東亜戦争がその悲惨極まりない人間同士の極限的争いの過程で「人間同士が殺し合う事は、如何なる理由によっても正しくない」と教えてくれたからと言っても、それは神が大東亜戦争を起こして人類にその事を教え給うたのではない。人間の自らの<迷い>が引き起こした愚かなる行為を、人間の中にある神性・仏性が「偽りなり、偽りなり」と否定しているのである。(「理想世界誌」・平成4年3月号)


(4)雅宣副総裁(当時)は、宇治別格本山の精霊招魂神社大祭祝詞の中から谷口雅春先生の「尽忠の精霊に告ぐるの詞」の重要部分をば削除されたのであります。

 このコトバは、大東亜戦争は侵略戦争ではなく、摂理に基づく聖戦であったとの印象を与える故に不適切と考えられた為でありましょう。その削除されたコトバとは

<< 「今や人類進化の一周期の終わりに臨み、すべての人類はその皮膚の色彩の相違に関わることなく平等の尊厳を快復し、平等の取り扱いを受け、その国土は独立し、万民平等の自由が確保せらるべき理想実現の時期が近づきたりしが、この理想実現のためには何れかの国の民族かが尊き犠牲となって、有色人種に<神の子>の実相を自覚せしめ、その独立精神を喚起せしめる天使たるの役割を演ずる必要ありしなり・・・」>>




「本来の生長の家の御教え」における大東亜戦争について


<大東亜戦争は摂理として顕れた地上天国実現のための聖戦――これが大東亜戦争の実相であった。>これが開祖・谷口雅春先生による本来の正しい御教えであります。


(1)大東亜戦争は、現象以前の「心の世界(霊の世界)」においては避けることの出来ない出来事として出来上がってしまっていた。(「心の法則と平和への道の神示」)


(2)「迷い」と「迷い」との自壊作用が戦争である。(「声字即実相の神示」)


(3)摂理としての内部的動力が動き出すと、現象界には迷いと迷いと相搏って自壊するという形が現れ、その自壊作用を通して平和と光明とのみ充満する理想世界が現れる。(「梅の花の神示」)


(4)大東亜戦争における<摂理の内部的動力>とは、「人類は霊的に互いに兄弟であるから有色人種の植民地の国々を民族自決によって独立せしめねばならぬ」という<理想>であり、大東亜民族解放のための戦いであった。そして日本はその開放のために一人十字架を背負って侵略国の汚名を着せられたのである。(「梅の花の神示」)


(5)大東亜戦争は、日本的「無」の立場、禊(みそぎ)的立場から見ると、宇宙大生命の神聖なる聖意の実相顕現に献身する戦いであったのであります。だからこそ<聖戦>といいうるのであります。故に今上陛下の愛深き大御心を以ってしてもその戦いを未発にとどめることが出来なかったのであります。(「碧巌録解釈・前編」)


(6)多くの人達は、戦争の悲惨な方面ばかり見て、その道徳的・宗教的意義を理解しない。肉体の無と大生命への帰一とが同時に完全融合して行われるところの最高行事が戦争なのである。戦争が地上に時々出てくるのは、地上に生まれた霊魂進化の一過程として、それが戦地へ赴くべき勇士達にとっては耐え得られるところの最高の宗教的行事であるからだと観じられる。これは、地球に生を享けた高級霊が地球を卒業して他の天体に生まれかわる最終段階としての霊魂進化の一過程なのであります。(「戦前版・生命の実相・第16巻」)


(7)第二次世界大戦において、多くの自己処罰も行われたが、多くは滅私奉公の尊い犠牲精神で神去りまして、高級天体へ移行した夥(おびただ)しい霊魂もあるのである。戦争はこうして人為と摂理と両方から起こるのであるから、人間がいくら努力して警戒して平和論を唱えても無くなるものではないのである。大東亜戦争は一方においては、<高級霊>が最後の滅私奉公の行動を通して、急激に霊魂の地上進化の最後の過程を終えて高級天体に移住する契機をつくったのである。(「神・真理を告げ給う」)


(8)戦争は、一人一人の自己処罰では足りない集団的自己処罰として起こる場合と、高級霊が「自己」を滅して「公」に殉ずるところの自己犠牲の行為を通して普通の生活状態では到底達し得ない急速度の霊魂の浄化を得んがために起こる場合があるが、たいていはその二つの原因が重複して起こるのである。

 従って、戦争には<低い霊魂>が互いに処罰し合う残虐な悲惨な所業が各地で行われるのであるが、また他方には、純潔な<高級霊>が理想のために「公」のために自己を犠牲にして「私」を顧みない崇高な精神の発露が行われるのである。

 前者の残虐な悲惨な面だけを説く人もあるが、高級崇高な自己犠牲を行う<場>として戦場が選ばれたということを看過ごすのは片手落ちである。(「神・真理を告げ給う」)


(9)日本の国難を救わんとして献身を行った特攻隊その他の兵士達をすべて侵略に協力した者として攻撃する人もあるけれども、<結果>ばかりによって論ずべきではない。一粒の麦となって同胞愛のために生命を捨てんと挺身した兵士達をば十字架にかかったキリストのように傷ましくも仰ぎ見るのである。(「新生の書」)




<注釈コメント>


(1)第三代目・雅宣総裁の聖戦否定の侵略戦争論こそ、現象に捉われた大東亜戦争の「実相」を見ない間違った見解なのであります。


(2)雅宣総裁にとっては、英霊の自己犠牲の行為などは少しも眼中にはない。只の結果論として評論的に<日本は、してはいけない間違った戦争をしてしまった。侵略戦争を仕掛けて敗北した。その過ちを素直に認めて懺悔(ざんげ)しなければならない。>と東京裁判史観・戦争贖罪(しょくざい)意識・自虐史観の三点セットによる戦後日教組教育そのままの思考を続けておられるのであります。


(3)第三代目・雅宣総裁は、「歴史から何を学ぶか」に於いて、今までは、谷口雅春先生の説かれたことや教団の歴史にも真剣な反省や分析が出来ていなかったので、これからはどんどんとやって行きたい。今までなぜか知らないけれどタブーだった色々な事にも挑戦すべきです。その挑戦の一つの大きなものが大東亜戦争観なのです。と云われているのであります。


(4)開祖・谷口雅春先生は「古事記と日本国の世界的使命」において・・・・

 「歴史というものは一体何であるかといいますと、現象世界に実相が如何に投影し表現されて来るかという事のその現れ方、即ち実相が現れる場合の作用・反作用という風なものを追うて並べてゆくことによって、その民族に如何ように実相が現れ、実相が現れんとするに当たって、如何に反作用を起こし自壊作用を起こしたかを知り、それをずっと時間内に貫いて観て、そこに実相が如何なる相を以って現れるかを知る事によって大宇宙における日本国の位置およびその将来性を知り、現在自分が国家構成の一員として及び個人として如何に生くべきか、将来この世界は如何に発展して行くべきものであるかと言うことをはっきりさせるためのものが歴史の研究であります。」

 「ですから、歴史というものは、単に過去の記録を書いたという風なものではないのであって、生命の生々流動の流れの相、実相が現象界に貫いて出る時のそのままの相が書いてあるのであります。その相を見ることは自分自身の生命の相を見ることであり、宇宙の相をみることであり、宇宙が自分が今如何に生き抜いて、今如何に発展すべきかを知ることであります。」


(5)開祖・谷口雅春先生は「古事記と日本国の世界的使命」において・・・・

「<古事記>を研究しますのも、単に過去にこういうことがあったと言う事であるとか、あるいは日本の古くからの言い伝えがこうであるとか、神話やお伽噺がこうであるとか、そういう死んだような動かない過去の記述や人の創作した物語を読むようなつもりで読んでいただいては間違いで、実相が迷いを通して輝き出るときの<波動紋理>というものを掴み出さなければならない。換言すれば、我々日本人が如何に実相を生き自壊作用を闘うて来たかということの記録がこの<古事記>に現れているのであります。」


(6)開祖・谷口雅春先生は「報恩行についての神示講義」において・・・・

「世界の歴史的発展を指導する世界精神というものの流れの中にあって、日本はその為すべき役割を果たしたのであります。そしてこの戦争を契機としてアジア民族の新しい目覚めが生まれ、日本にもその他のアジア民族にも新たなる人生観が生じ、新しき社会制度が生まれて来る事になり、人類はだんだん進歩して行く事になりつつある訳であります。」

「その歴史的発展に要する事件のうちの一つでも抜いたら、こういう世界状態には成れなかったものである事を思いますと今までに起こったありと凡(あら)ゆるものは、みな必ずしも<悪い>といって排斥すべきものではないのであって、それがあったればこそ、こう言う事になれたのであると、そう感謝できる事になるのであります。」

「だから、過去の歴史上の出来事に対して我々は不平を言ったり争いの心を起こしたりする必要は無いのであります。だから戦争責任を<軍閥が悪い>と軍閥に擦り付けることも間違いである。ある時代には軍閥もやはり必要であったのであって、これによってロシアが日本や朝鮮を植民地にすることを防ぎ得たのであります。」


(7)開祖・谷口雅春先生は「報恩行についての神示講義」において更につづけて・・・・

 「その真心を尽くすところの手段が如何に現れるかということは、その時代・その階級・その当時の民族の風習によるもので、異なる時代の我々から一概にそれを批判することは出来ない。「君臣一体の忠義感」がいかんものであると言うような考え方をするのは間違いであります。忠義というものは「君臣一体」の生命のムスビの上から解釈しなければ本当の意味は判らないので在ります。」


<<要は、後世の人間が自らの時代の価値観で以って、先祖の時代のことを一方的に批判してはいけない。歴史とは先祖の時代における自壊作用のよって実相がどのように現れてこようとしているかの過程そのものでその過程の上に立って後世があるのである。そしてそこから自分の生き方、現代の生き方を学び発展させて行く事が大切だということであります。>>




<日本は断じて侵略戦争を仕掛けたのでは無かった。断じて侵略国家ではなかった。>


その歴史上の事実・・・


(1)アメリカは、日露戦争の日本の勝利を分析し脅威感を抱き、日本を将来の仮想敵国とした「オレンジ計画」を策定し、この政策に従ってその後の対日戦略を展開して行った。


(2)ルーズベルト大統領による緻密(ちみつ)かつ狡知(こうち)な演出(スチムソン米国陸軍長官の日記)

 「如何にして日本を操り、我々の損害を少なくし、如何にして最初の一発を打たせるように仕向けるかが問題だ。とルーズベルト大統領は語った。」


(3)また、昭和16年(1941年)12月7日(現地時間)午後0時10分、アメリカ海軍司令部に一通の暗号電報が入電した。「ワレ、日本潜水艦ヲ撃沈セリ」。つまり、アメリカは日本による「真珠湾攻撃」の1時間20分前に「宣戦布告」も無しに先制攻撃をなした。と云う事実。(米国海軍フューウイット調査機関提出書類)


(4)連合軍総司令官であったダグラス・マッカーサー元帥の昭和26年5月3日アメリカ合衆国上院の軍事外交合同委員会での証言

<大東亜戦争は日本の自衛戦争であった>。

「日本は、絹産業以外には固有の産物は何も無いのです。彼らは綿が無い。羊毛が無い。石油の産出が無い。錫が無い。ゴムが無い。その他実に多くの原料が欠如している。そしてそれらの一切のものがアジアの海域には存在していたのです。もしこれらの原料の供給を断ち切られたら一千万から一千五百万人の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。従って彼らが戦争に飛び込んで行った動機は大部分が<安全保障>の必要に迫られての事だったのです。」(これでも第三代目・雅宣総裁は「日本は侵略戦争をした」と信徒に説き続けられるのでしょうか?)






<終戦の月・特集> *大東亜戦争の英霊諸霊に捧ぐ  「大東亜戦争は侵略戦争ではありませぬ!安らかに鎮まりませ・・・」  <その三> (4671)
日時:2014年08月03日 (日) 10時34分
名前:信徒連合



<終戦の月・特集>


            *大東亜戦争の英霊諸霊に捧ぐ*


          「大東亜戦争は侵略戦争ではありませぬ!
           安らかに鎮まりませ・・・」


 八月十五日は、大東亜戦争終戦の日であります。今回の特集は当、ブログの今までの掲載記事の中から関連記事を集めました。第三代目・雅宣総裁の“侵略戦争観”は明確な間違いであります。ここに於いてこの事を再確認し、開祖・谷口雅春先生の霊的真理に基づく日本国民としての正しい歴史の見方を学びましょう!



                 <その三>



[V] 大東亜戦争に関する、聖経『甘露の法雨』の奇蹟



ハワイ日系二世部隊の奇蹟

神秘面より観たる『生長の家』四十年史(p.52−56)



<< しかしこのような奇蹟は個人に関する霊験の片鱗であって、もっと重大な奇蹟は終戦当時及びその後、日本国家の運命に及ぼした『甘露の法雨』の偉大なる事蹟である。

 私は終戦の翌々年八月北海道登別温泉の第一滝本舘本館の大広間で、終戦後の北海道講習の第一声を挙げた。ホテルの大広間は寿司詰めに坐ると五百人ばかり入れるのである。集まる人が激減している終戦直後ではこの位の講堂で間にあったのである。午前の講習を終わって昼食をしたためていると、係りの人が、「先生、アメリカ軍の将校の人が先生にお目にかかりたいと言って来ています」というのだった。・・・彼はハワイ生まれの日系第二世の将校であった。

 彼は私の顔を見ると、嬉しそうな表情をして、「先生、今度の戦争でヨーロッパ戦線で勝利を得た民族はどこの民族ですか知っていますか」と言った。「知らないよ。それは、何処の民族だろうね」と答えると、かれは意気軒昂(けんこう)というような身振りをしながら、「それは、日本民族ですよ」と言った。「それはどういう意味ですか」と私は思わず言った。するとそのアメリカ軍将校は大体次の様な事を話してくれた。―――


 ヒットラー・ドイツを制圧するために連合軍が組織されて多くの船団に各国の兵隊を乗せてヨーロッパ戦線に送られて行ったけれどもどこにも適当な上陸地点がないのであった。そこで、最初に上陸の地点として選ばれたのがイタリーの南端のシチリー島であった。ところがそこは天然の岩窟の陰になっているところに要塞が築かれていて、そこに砲塁や機関銃座が沢山据(す)えつけてあり、上陸用舟艇がある距離まで近づいて行くと、其処に、砲弾・機関銃弾が集中して、どの民族の部隊も全滅して上陸することが出来なかった。

 最後に選ばれて上陸を敢行したのが、ハワイの日本民族第二世の部隊であった。日本民族第二世の部隊が召集されることになると、当時、ハワイの生長の家白鳩会の会長をしておられた宮川和子さんは、英訳の『甘露の法雨』をたくさん印刷してそれに神想観して祈りを篭(こ)め、応召出陣する第二世の兵隊さんのポケットにそれを一部づつ入れてやった。

 そこでそれらの日本民族第二世の兵士たちは“われ『甘露の法雨』と俱(とも)なり。不死身の軍隊なり”という自覚で難攻不落のシチリー島に弾丸雨注する中で勇敢に上陸を試みた。ところが、『甘露の法雨』を携帯しているために弾丸が不思議に中(あた)らない。中には『甘露の法雨』に明らかに機関銃弾が命中しながら、それを貫通することが出来ないで、そこで弾丸が止まってしまっていて、肉体は傷ついていない人も大分ある。

 英訳の『甘露の法雨』は日本文のそれのように硬いサックも表紙もなく、ただ白紙に、新聞の五号活字位の大きさで印刷されているので、極薄い紙片にすぎない。それを弾丸が貫通しなかったのだから奇蹟というほかはない。

 
 このような奇蹟があって、多勢の日本部隊がシチリー島に上陸することを得て橋頭堡(きょうとうほ)が築かれ、続々と連合軍が上陸することが出来、北上してイタリーのムッソリーニを仆(たお)し、さらに北上してヒットラー軍を制圧して速やかに連合軍が勝利を得ることが出来たのであった。常にこの日本民族第二世の部隊は、難処に至るほど勇気を鼓して先頭に立って奮戦し連合軍を有利に導いて偉大なる戦功を樹てたのであった。これ全く『甘露の法雨』のお蔭であるということであった。


 私は、その時にはその報告の事実だけをただ素直に受け取っただけであって、それがその後に及ぼす驚くべき影響については気がつかなかった。

 だいたい大東亜戦争は、真珠湾集結のアメリカ太平洋艦隊に対する日本海軍の先制空襲によって始まった。それゆえに、日本に対するアメリカ側の憤(いきどう)りは実に熾烈(しょくれつ)で、アメリカ領のハワイ生まれの日本人第二世は、“アメリカ人”として市民権を本来持っているのだけれども、風当たりは烈(はげ)しくて色々の差別的な待遇を受けたそうである。だから宗教でも、日本から往っている宗教の布教や集会は全然禁止せられた。仏教の僧侶は勿論のこと、キリスト教会ですら、日本から往っている宣教師のいる教会では集会は禁止せられた。

 生長の家も当然布教が禁止さるべきであったのである。ところが英訳された『甘露の法雨』を米軍の検閲官が読んでみて、「この宗教は、どこも悪いところはないではないか、布教しても宜しい」ということになって、生長の家のみハワイは勿論アメリカ本土に於いても布教が許可されることになったのである。

 ここに深謀遠慮の神さまの救済の摂理があったのである。

 もし生長の家の布教が許可されていなかったら、ハワイ白鳩会長の宮川和子さんは、英訳『甘露の法雨』を日本人第二世の兵隊に持たせることは出来なかったであろうし、日本人第二世の部隊は『甘露の法雨』に敵弾が当たりながら貫通する事が出来ず、傷つかずに、無事にシチリー島に上陸することも出来なかったであろうし、そうなればその後の戦線の状況も自然に変化していたに相違ないし、あんなに早くヨーロッパ戦線は片付かず、尚、数百万の白人兵士の犠牲が必要だったかも知れないし、世界情勢は現在とは非常に異なるものになっていただろうとも想像されるのである。

 ともかく、このシチリー島上陸作戦に演じた日本人部隊の功徳はアメリカ本土の中央政府は勿論、アメリカ国民全体に大きく報道せられ、この事績では日本人は戦勝功労者として広く称(たた)えられ、ハワイの日本人はアメリカに忠節であったそれゆえに、白人アメリカ人が尚、百万人以上も犠牲を払う必要があったのに、こんなに早く戦線が片づいたのは日本人のお蔭であると言い伝えられて、アメリカ全体の対日本人的好意が高まることになっていたのである。・・・

 ・・・恰度(ちょうど)その時、天皇陛下が皇室の全財産及び、歴代天皇から伝わるところの宮中の御物までもアメリカ軍に提供して国民を餓死させないように願われた。それに動かされたマッカーサー元帥はついに日本に食糧を送るように中央政府に要望してくれたのである。しかし、アメリカは民主国家であるから、国民の世論がものをいうので、もしあの時、真珠湾を忘れるな、日本人が飢え死にするのは自業自得ではないかと言うような世論であったら、いくらマ元帥の要望があっても、トルーマン大統領は、日本への食糧補給にサインしなかったであろう。

 ところが時のアメリカ人大多数の世論が、真珠湾への先制爆撃の旧怨(きゅうおん)をわすれて、「シチリー島でそんなに戦功をたてた民族の日本人が食糧に困っているならば、食糧を送ってやろうじゃないか」と言うことだったので、トルーマン大統領がガリオア資金という名称で日本に食糧を補給し、更に進んでエロア資金という名称で産業復興資金を貸与することにサインしてくれたのであった。

 これが今日、日本の経済発展の基礎になっているのであって・・・実に『甘露の法雨』がシチリー島で戦功を樹てた功徳であり、生長の家の神さまが、あらかじめこの事に対し用意しておられて、敵国の宗教でありながら、ハワイで生長の家のみ自由に布教することを許され、そのために応召の日本民族第二世部隊の兵員に、一冊づつ『甘露の法雨』を持たせることが出来た結果だといい得るのである。>>





<終戦の月・特集> *大東亜戦争の英霊諸霊に捧ぐ  「大東亜戦争は侵略戦争ではありませぬ!安らかに鎮まりませ・・・」 <その四> (4678)
日時:2014年08月04日 (月) 07時21分
名前:信徒連合


<終戦の月・特集>


            *大東亜戦争の英霊諸霊に捧ぐ*


          「大東亜戦争は侵略戦争ではありませぬ!
              安らかに鎮まりませ・・・」



 八月十五日は、大東亜戦争終戦の日であります。今回の特集は当、ブログ(「今昔物語」)の今までの掲載記事の中から関連記事を集めました。第三代目・雅宣総裁の“侵略戦争観”は明確な間違いであります。ここに於いてこの事を再確認し、開祖・谷口雅春先生の霊的真理に基づく日本国民としての正しい歴史の見方を学びましょう!



                 <その四>



            8月15日と『甘露の法雨』の奇蹟 


       < 聖経『甘露の法雨』は日本民族分断の悲劇を防いだ >



 8月15日は、大東亜戦争終結の御詔勅(しょうちょく)が玉音(ぎょくおん)放送として全国民にNHKラジオから伝えられた日であります。このことに聖経『甘露の法雨』が、大いなる働きをなした事、そして日本民族分断の悲劇を防いだ事、この奇蹟については、現代に生きる「今の教え」を信仰している生長の家信徒の人たちは詳しくご存知ないと思いますので、謹んでお取次ぎ申し上げます。


 昭和二十年八月九日と十四日の御前会議で、ポツダム宣言を受諾して大東亜戦争を終結するとの昭和天皇陛下御自身の御発意による決定が下され、終戦の御詔勅が翌八月十五日正午にNHKラジオで放送されることになり、その録音が完了されました。

 これを知った近衛師団の中堅幹部将校たちが本土決戦による徹底抗戦を主張し、これを阻止しようとした森師団長を射殺し、軍司令官のニセの戦争継続命令を出そうとしたのであります。これを伝え聞いた東部軍管区司令官・田中静壹大将は『甘露の法雨』をもって副官を従えて反乱現場へ駆けつけ、右手にその『甘露の法雨』を打ち振りながら熱情を篭めて天皇陛下の御心を諄々(じゅんじゅん)と反乱将校たちに諭(さと)されたのであります。

 不思議にも、この時、田中静壹大将が右手で打ち振っている“紫色のサック入り大型の聖経『甘露の法雨』”が反乱軍将校たちには、“紫色の絥紗(ふくさ)に包んだ天皇陛下の御諚(ごじょう)”に見えたのであります。かくして反乱軍は鎮圧されたのであります。そして無事に戦争は終結したのでありますが、反乱が実行され戦争が継続されていたならば、その後の日本はドイツと同様、東西に分割占領され、日本民族は分断の悲劇を招く事になったでありましょう。

 この民族的悲劇を間一髪のところで食い止めたのは田中静壹大将の打ち振られた『甘露の法雨』であります。開祖・谷口雅春先生は「生長の家四十年史」P.59−60に於いて次のように書かれておられます。――


<< ・・・ 反乱軍の戦争継続の考えを変更せしめたものは、全くこの奇蹟であったのである。田中静壹大将の右手に握っているものは、紫色ではあるけれども、紫色のサックに入った紫色の表紙を持つ大型の聖経『甘露の法雨』であったのである。それを反乱軍の中の唯一人が、天皇陛下の御諚と見あやまったのであれば、それは唯の錯覚だと言う事が出来るかも知れないが、田中静壹大将を取り巻いて、「戦争継続に反対なら射つ」と身構えして覘(ねら)っている多勢の将校全部に、その『甘露の法雨』が、紫色の絥紗に包んだ陛下の御諚と見えたのである。

 これは明らかに、住吉大神が日本滅亡の危機を救わんが為に『甘露の法雨』を媒介として、奇蹟を演じられたのだと解釈するほかはないのである。もしあの時点で日本が終戦の終結に同意いていなかったならば、ソ連は八月十五日の三日後にはエトロフ、クナシリ、ハボマイ、シコタンの諸島にまで侵入して来ていたし、(これをソ連はまだ返還しようとしない)日本軍は、当時まだ日ソ中立条約が有効中であるので、ソ連軍は決してその条約を破って攻撃して来るとは予想もせず、従ってソ連国境および北海道の兵員は極々手薄にして、南方に全兵力を投じていたものだから、ソ連が計画的に正規軍を以って侵入してきたら、ひとたまりも無いのである。

 もしあの時、近衛師団の反乱を鎮定(ちんてい)できずに戦争継続状態になっていたならば、瞬(またた)く間に北海道、東北六県、関東、信越諸県はソ連軍の席巻するところとなり、東京は東部半分がソ連の駐屯、西部半分がアメリカ軍の駐屯となり、日本は、恰もドイツが東ドイツ、西ドイツと分断され、ソ連圏内の東ドイツが未だにソ連に搾取誅求されて、経済的には常に貧しく、思想の自由すら失った警察国家であるように、ソ連圏の東日本はドンナひどい目に会わされていたかも知れないのである。

 これを救い給うたのは、実にあの時点に於ける天皇陛下の戦争終結の大英断の賜であるが、それにしても近衛師団が反乱を起こして、全日本の師団をリードして抗戦を続けていたら大変な事であったのに、その反乱を中止せしめた、住吉大神(観世音菩薩)の降ろしたまえる聖経『『甘露の法雨』が奇蹟的に反乱将校を鎮圧せしめる功徳を演じてくれたお蔭である。

 住吉大神が何のために、万教帰一を説きながら、特殊の生長の家という姿で、今から四十年前に出現しなければならなかったか――それはこうして此のような時点に於いて日本国家を鎮護救拯(きゅうじょう)せられんが為であったのである。>>

(注)「神の真義とその理解」P.223−230もご参照下さい。




<終戦の月・特集> *大東亜戦争の英霊諸霊に捧ぐ  「大東亜戦争は侵略戦争ではありませぬ!安らかに鎮まりませ・・・」 <その五>  (4690)
日時:2014年08月05日 (火) 07時52分
名前:信徒連合






<終戦の月・特集>


            *大東亜戦争の英霊諸霊に捧ぐ*


          「大東亜戦争は侵略戦争ではありませぬ!
              安らかに鎮まりませ・・・」



 八月十五日は、大東亜戦争終戦の日であります。今回の特集は当、ブログ(「今昔物語」)の今までの掲載記事の中から関連記事を集めました。第三代目・雅宣総裁の“侵略戦争観”は明確な間違いであります。ここに於いてこの事を再確認し、開祖・谷口雅春先生の霊的真理に基づく日本国民としての正しい歴史の見方を学びましょう!



                 <その五>



<深き神界の御経綸>



           無血終戦の偉勲者・田中静壹大将のこと



             =本部講師 中嶋與一先生記=

          (生長の家四拾年史 P.332−335)



<<昭和十八年十月二十九日、陸軍大将田中静壹氏夫人の操さんが生長の家本部へ訪ねてこられました。その日、谷口雅春先生は九州御巡錫(じゅんしゃく)中にて、私が本部道場の指導を受け持っておりました。操夫人が訪れた時には私はすでに道場へ出ていたので、受付氏が「道場へいらっしゃい」と言ったのですが、「待たせていただきます」と言われ、四畳半ほどの薄暗い部屋で約三時間待ったようであります。私が道場から下がって会ってみますと、その用件は「夫が病気で重態です。すでに諦(あきら)めてはおりますけれども、何か心の中に苦しみがあるように思えるのです。可愛そうで見ていられないので、その心の苦しみを取り去って安心させてあの世へ送りたい」ということでありました。


 「病院はどちらですか」 「陸軍第一病院でございます」 「軍人さんですか」と尋ねますと、夫人は名刺を出されました。見ると『陸軍大将 田中静壹』とあるのです。

 「はぁー、これは軍人さん、大将閣下ですね。すみませんが私はお断りします。誰か他の講師を紹介しましょう。」と、椅子から立って部屋を出ようとしますと、夫人はあわてて、「なぜでございます。」と詰め寄ってこられました。「私は近頃の軍人さんは大嫌いです。」と言いました。というのは、その時分、私は牛込の憲兵隊や名古屋の憲兵隊から呼び出されて、「おまえは“海行かば”の歌はいけんちゅうて講演しとるそうじゃな」と、さんざん油をしぼられ、その頃は身体に油気が少なくなっていた上にさらにしぼられたので意識が不明瞭になったほどでありました。そこで、「私は軍人恐怖症で、ことにあなた様の御主人は大将さんですから恐ろしいです。とてもお会いする勇気がありません。」と言いますと、夫人は、「私の夫は大将でございますけれども至極やさしい人でございます。お友達から貴方様を紹介されましたので主人もお待ち致しているのでございますから、是非お願いいたします。」と懇願されるのです。


 「そのお友達というのは誰のことですか。」 「東条大将の奥さんです。」ここに至って私はいささか狐につままれたような気持になりました。「はぁ--、少しへんですねえ。私は東条夫人は新聞でお顔を知っているだけですが-----。」「奥さんもそう言っておられました。お会いしたことはないけれど、毎月この雑誌の文章を読んで知っているだけなのですが、きっといい指導をして下さると言って紹介して下さったのです。」


 その雑誌は『白鳩』でありました。夫人は「主人は貴方様を神様の次のようなお方と思って会いたがっております。」と言われ、その言葉にそそのかされて私は逢(あ)ってみようかという気になったのです。


 十月三十一日午後五時頃、病院を訪ねたのでありました。病室の入り口には「面会禁止」とあり、その下の机には山のように名刺がおいてありました。

 病室にはいると、将軍が寝台に長い体を横たえて、目も閉じ口も閉じております。その傍に腰をかけ、ちょっと挨拶の言葉をかけてみたけれども返答がありません。額に掌をあててみると相当に熱い。「お熱があるようですね」と言ってみたのですが相変らず、黙然としているのです。こうなると心持がわるくなって「さようなら」をするところでありますが「主人が待っている」という夫人の言葉を真にうけて腰をあげることができない。しばらく考え込んでおりますと、フト何気なくポケットに手が行って『甘露の法雨』を取り出したのであります。そこで、「これから生長の家の聖経『甘露の法雨』をよみますから、閣下はそのままの姿勢でお聴きください。」と宣言して読みはじめたのであります。
 二人の位置の関係上、私の右の掌は将軍の額に当り、聖経をくりひろげる左手は胸部に置いている恰好でありました。

 
 最後に「聖経終」と読み了えたとき、田中大将はカッと目をあけて、案外やさしい声で、「ありがたいお経ですね」と言ったのです。それから私は『甘露の法雨』の講義をやったのであります。

 田中大将はフィリッピンへ出征中、その年の三月十二日に発病し、三十九度を越す高熱がつづいているにもかかわらず原因が不明、マラリアに似ているが病菌が発見できず、ついに八月六日、飛行機にて東京の陸軍病院へ送還されたということでありました。将軍の語ったところによりますと、アメリカ駐在武官としてワシントンに在ったころ、マッカーサー氏(当時佐官)と親交があり、その友人を今では敵とすることになった、悪因縁でしょうね、と自嘲(じちょう)されるのでした。また田中大将は、こうして病臥していることは天皇陛下に相すまない、同時に多くの兵を戦場の露と消えさせることも、その遺族に対しても申しわけない、といとも悩ましげに話されるのです。

 そこで私は、因縁というものにとらわれているには“迷い”です。迷いは無い、真理のみが実在である。人間は神の子で無限力、健康であるのが実在であって、われ病めりという心の迷いが映し出されているにすぎないのです。閣下は大忠臣です。けれども陛下にすまない、すまないと言いながら今病気で死んでは田中陸軍大将は病気に負けてしまったことになる。

 “肉体は心の影”“われに使命あり”と敢然と心中に唱えれば「言葉は神なり」、すべてのものこれによりて成るのです。私の言葉は決して間違っていません。たとえ大いなる槌(つち)をもって大地を損ずることがありましても、私の言葉は壊れることは断じてありなせん、と言い放ったのであります。


 すると将軍は一つ一つうなずいて聴いて、そして最後にニッコリして「有難うございました」と一言われたのであります。翌十一月一日、朝七時に田中大将夫人から電話が入りました。その要旨は、主人は昨夜グッスリ眠り、今朝は上機嫌に目を覚まし、これまで出しぶっていた尿が快調に出て大層心持がよろしい、また熱も三十七度に下がり、私としましては嬉しくて、たとえようもございません。これは奇蹟です、涙がこぼれて仕方がありません、というのです。

 
 その日、もう一度病院を訪ねると、将軍はちゃんと寝台に端座して私を待っておられました。そこで再び『甘露の法雨』の講義を致し、以後毎日講義をつづけたのであります。講義中は実に真面目に聴講せられ、その態度はさすがに立派でありました。


 ある日、病院の下で一人の看護婦から呼びとめられました。その人は田中大将を看護している三人の看護婦の中の一人でした。「先生、毎日御苦労様です」と挨拶されてから彼女が私に語ったことによると、長い間閣下は一言もお言葉がなく、何をしてさしあげてもあの大きな目でジロッと御覧になるばかりでした。それが先生が来られてからというもの、ガラリと態度が変わり、検温が終りますと「有難う。ごくろうだね」と笑顔をむけられるようになったというのです。今までは病室へ行くのを三人で譲り合って、誰も行きたがらなかったのが、この頃では皆で行き、将軍をまじえて大声で笑い合うようになり、こんな嬉しいことはありません、というわけです。


 こうして田中大将自身は日ましに恢復し、また操夫人は各方面へ『生命の實相』を配ったのであります。退院した田中大将は、やがて東部軍管区の司令官として多忙な軍務にいそしむようになったのです。


               * * * * *


 昭和二十年八月十五日、終戦の御聖断が下ってからもなお戦争続行を主張する青年将校たちの反乱が起こりました。その反乱をめぐって重要な役割をし、後に監禁された私の以前からの知人から、次のような驚くべきことを聞いたのであります。

 
 その日、正午から陛下の御放送が行なわれるという直前、反乱軍の幹部将校七名によって、今上の御命を頂戴し幼い皇太子を擁立し戦争を続行する、との密議が行なわれたといいます。かかる激越な行動に移らんとした青年将校たちを説得し、とり静めたのが田中静壹大将であったことは、総裁先生(註・開祖・谷口雅春先生)のお話によって、つとに知られるところであります。かくて陛下の歴史的な放送により、事なく終戦を迎えたのであります。


 想うに、今上の御命をお救い申しあげるについて田中静壹氏の偉勲(いくん)は無上であると申しても過言ではないと思います。その田中大将は、すでに昭和十八年に病にて絶えるはずであったと思われるのが『甘露の法雨』によって救われたのでありますから、田中静壹大将を通じて住吉大神の御使命が具現せられたということであります。


 陛下には田中大将の働きに対し、八月十五日午後五時十五分、蓮沼侍従武官長侍立の上拝謁をたまわり、

 「今朝ノ軍司令官ノ処置ハ誠ニ適切デ深ク感謝スル。今日ノ時局ハ真ニ重大デ色々ノ事件ノ起ルコトハ固ヨリ覚悟シテイル。非常ノ困難ノアルコトハ知ッテイル。シカシ斯クセネバナラヌノデアル。田中ヨ、コノ上トモシッカリヤッテクレ」

 との優渥(ゆうあく)なるお言葉があったと承っております。

 しかして八月二十四日、一切の使命を完うして田中大将は極楽浄土へ移籍せられたのでありました。>>








<終戦の月・特集> *大東亜戦争の英霊諸霊に捧ぐ  「大東亜戦争は侵略戦争ではありませぬ!安らかに鎮まりませ・・・」 <その六> (4698)
日時:2014年08月06日 (水) 07時09分
名前:信徒連合



<終戦の月・特集>


            *大東亜戦争の英霊諸霊に捧ぐ*


          「大東亜戦争は侵略戦争ではありませぬ!
              安らかに鎮まりませ・・・」



 八月十五日は、大東亜戦争終戦の日であります。今回の特集は当、ブログ(「今昔物語」)の今までの掲載記事の中から関連記事を集めました。第三代目・雅宣総裁の“侵略戦争観”は明確な間違いであります。ここに於いてこの事を再確認し、開祖・谷口雅春先生の霊的真理に基づく日本国民としての正しい歴史の見方を学びましょう!



                <その六>



        [ W ] 護国の英霊はかく語りき(霊界通信体験記)



 この霊界通信体験記は、広島県尾道市西土堂の木曽正人氏が記され遺されたものであります。氏はその後、天上界に移られたそうでありますが、氏の霊魂の許可を頂きまして、この貴重なご体験を皆さまにお伝え致したく存じます。



<< 昭和五十三年六月末頃より、私は地元の「三都新聞」編集長の小林嘉雄氏から、フィリッピン・レイテ島への戦没者遺骨拾集と慰霊を兼ねた「日比友好使節団」の団長を勤めてくれないかとの勧誘を再三うけていた。しかし、私自身、当該地に直接関係がないこと、また市議会議員としての重責等、多忙で承諾できなかったのだが、私の他に適任者がないと週に二、三回の強引なまでの勧めに、遂に渡比する決心がついたのだった。ところが私の出発直前になって熱心に説得してくれた当の小林氏が急に入院され、十月二十七日の早朝、氏の訃報を受けたのである。「木曽さんが団長を引き受けてくれてよかった、私の役目はおわった。」と彼は亡くなる前、細君に語られたとの事であった。私をフィリッピンに眠る英霊たちの慰霊に是非行かせたいとの一念に生きて下さったのであろう。小林嘉雄氏に心からなる哀悼の意を表するとともに、後で起きた大感動を想うとき、深く感謝の意を捧げるものである。


 顧みれば、私が満州の関東軍に従軍していた昭和十九年当初、フィリッピン防衛と現地応援のため、機械化部隊の隊長として着任するばかりになっていた二日前、急遽、内地の学校付転任を命ぜられ、突然の事とてことのほか残念でならなかったが、私の原隊である福山四十一連隊の一部を中心に編成された炭谷部隊は、レイテ島に進出し、悲涙の下に全滅したのである。嘗ての日、転任を命じられなかったならば、今の私はなかったであろうことを思うとき、運命の神の御業か、私に英霊供養等の事をせしむべく残され給うたか、感無量、叉、私をかく導き護り下さる産土の神と、吾が御先祖様に深く感謝の意を表せざるを得ないのである。




 運命のビリヤバ部落へ


 昭和五十三年十月十九日午後一時四十分、私たち一行はフィリッピンに向けて成田国際空港を出発した。龍宮住吉本宮落慶の直前であった。当初四十一名の団員はコレラ騒ぎ等で逐次減少し、終には十名となり、更にルソン島で八名になった。

            
 マニラ空港には七時着、更にセブ島を経て翌二十日レイテ島タクロバン空港に到着、当初予定した「日比平和の集い」には参加出来なかったが、マルコス大統領夫人宅のレセプションに出席し、翌二十一日朝より、ジープにて炭谷部隊及び他の部隊の戦跡慰霊に出発したのである。


 タクロバン市西方約四十キロのトンガ河、更に西南方二十キロの通称五一七高地、リモン峠激戦地跡に到る。此処で炭谷部隊は多くの戦死者を出し、且つ、弾薬、食糧の欠乏、マラリヤ等の病魔に冒され、ついに「天皇陛下万歳」を絶叫して全員壮烈な自決を遂げたという。
 

 次々に遺骨の拾集と慰霊祭を行い、私たち一行は十時十五分、リモン峠から西方九十キロのビリヤバ部落に入った。ここは日本軍各部隊が大集結、激烈な戦闘の末に多数の部隊が全滅し、実に七千名にも及ぶ戦死者を出した運命の地である。山麓に位置するこの地には既に二基の慰霊碑、五十近い卒塔婆が立ち並び過去の慰霊の跡が偲ばれた。私たち一行も持参の品々を供え慟哭の祭典を挙行したのである。




 雲集する英霊たち


 雲一つない上天気、慰霊祭は、土肥政男「三都新聞」写真部長の般若心経の読誦に始まり、私の弔辞へと移った。その直後である。快晴の天空の彼方から“ドドド-----ン”という雷鳴が轟き渡り、一行を驚嘆させた。更に弔辞を終える頃、再び雷の大音響が轟いたのである。一同、度重なる現象の不可思議に驚き入るばかりであった。過去に二十七回も慰霊及び遺骨拾集に参加された土肥氏は「実に不思議だ。今まで一度もこんなことに出会ったことはない」とこの時の模様を『三都新聞』に記事にされている。引き続き、各自瞑目合掌の内に祈りを捧げていたそのとき、私は驚天動地の如き体験を得ることになるのである。


 私は心の奥底で、祖国のために奮戦し武運つたなく護国の神と化された多くの英霊を呼び、感謝の誠を捧げるべく一心に聖経『甘露の法雨』を暗誦しながら精神統一していた。いつしか幽明の境を越えたのであろうか、暫くする内に何とも形容出来ぬ柔らかい、ほのかな光が私の全身に投げかけられているような雰囲気にふと眼を開けた。(肉眼をあけたか、心眼で観たものか、今もって不明だが)


 眺めると小高い山頂付近に、柔らかい黄金色に包まれた神か仏か観世音菩薩か、定かには分からない御方が、尽十方に燦々(さんさん)と霊光を投げかけておられる。その両側に何時の間にか入道雲のように(最初は本当に雲だと思った。)横に整然と兵隊姿の英霊が正に雲集して浮かんでいる。その数何千、何万とも知らず、皆ボロボロに破れた軍服に穴のあいた帽子と、見る影も無いほど無残なものでありながら、そのお顔だけは皆二十歳前後の若々しい喜びを満面にたたえて私の方を見ているのである。すると叉、遠方で“ドドド-------“という雷鳴(私には、英霊が口を揃えて歓声を挙げたかに聞こえた)と同時に、中央に居られる神々しいお方の口が動いたと思うや、私の耳元に柔らかい、まるで澄み切った金の鈴を振るような声が聞こえてきたのである。
「よくお出で下さいました。お待ちいたして居りました」と。私は全身にピリピリと電流が流れるような身震いを感じた。信じられない事が眼前に展開されている。!


 そのお方は続けられた。――――

 「この日を長いことお待ちしておりました。今日まで多くの遺族の方々、立派なお寺の住職、政府派遣の方達が慰霊のために幾度となくお出で下さいました。それは嬉しいことであります。しかし、これまで誰一人として私たちとの話し合いの出来る方と会うことがありませんでした。誰かそのような方をと、数年前より想念を送り続けてまいりました。が、ついに本日こうして貴方に来ていただき話し合いが出来る事は誠に有難いことです。」


 私は身に余る感激に唯々合掌し、一心にこの言葉を聴いていた。(もっともこれは帰国後気付いたことではあるが、英霊との交流はフィリッピンへ出発する約二年ほど前より続けられていたのかも知れない。と言うのは、夜半の午前三時から三時半頃になると、私は必ず誰かに起こされていたのである。起きた時は全身に汗をかき、胸の方がびっしょり濡れていたのだ。最初の半年くらいは身体をふき、再度床についていたが、次第に朝六時頃まで眠ることが出来ない状態にまでなってくると、その辛(つら)さは筆舌につくし難いほどで、「生命の実相」を貪り読んだ事もあった。また聖経『甘露の法雨』を仏前で読誦し、一ヶ月ほどは水風呂に入り神想観をし、亀の子たわしで血の滲むほど摩擦もしたが全ては徒労だった。身体は四キロもやせ、気は焦るばかりだった。ところが慰霊祭の旅から帰ると不思議にもいつしかその症状がすっかり消え、ぐっすりと眠れるのである。)

 
 このビリヤバの地で、英霊の「数年前から霊念を送り続けた」と言はれる事と私の身体の現象とを思い合わせるとき不思議な感慨にとらわれるのである。




 祖国の再建を約す


 中央座のお方は、さらに続けられた。「私たちは、過去三十有余年前、祖国のため第一線に参じ、唯々一死奉公、残念ながら武運つたなく、この地に於いて戦死しましたが、今日に至るも、私たちは魂の安住の地を得ることが出来ませんでした。悲しみの中に、今尚戦い、且つさまよっている霊魂の戦友が沢山おられるのです。私たちは今も“此処”に生き続け、祖国日本を護らんと祈念し続けて来ました。何卒、一日も早く、私たちに安住の地を--------貴方を通じて多くの人にお伝え下さい」!!


 そう語られると、周囲に雲集せる英霊が一斉に頭を下げられた。私も自然に深く礼拝したと思う。滂沱(ぼうだ)と流れる涙に胸つまり、恐らくは一切無の心境から、ふっと我に返り、自問自答していた私である。―――有史以来、初めての敗戦によって大きな痛手を受けた日本国民が、占領憲法、日教組教育、マスコミの扇動等で民族の誇る精神文化は喪失され、靖国神社への天皇陛下の公式参拝は言うに及ばず、その国家護持さえもままならぬ今日である。英霊の申されることは痛いほど心にしみる。しかし、急ぐべき憲法復元改正も靖国神社法案成立も、果たしてこの私一人が動いたとて出来る事であろうか、否、否、不可能だ--------。


 そう思うや、眼前の黄金色の霊光が急に暗くなり、中央座の御方の御姿は薄らぎ、同時に喜色満面だった英霊の顔が落ち窪んでそれは悲しい骸骨に一変したのである。私は驚嘆し、一心に懺悔し落涙していた。“私は間違っていました。祖国再建に全力を尽くします”と絶叫した。その瞬間、周囲は再び元の霊光燦然たる世界にもどり、神々しき御方の御言葉が再び聴こえるようになった。しかし、それからの内容は、生長の家の信徒の私にとり、誠に衝撃的なものであったのである。




 尊師は神であらせられる


「霊界では、これまで祖国の現状を見るにつけ、私たちの死が無駄であったとか、そうではないとか様々な意見があって混乱しておりましたが、この数年間に漸く平定され、今後は現象界が浄化されて来るでしょう。

 そのために世界は非常に危機的な様相を呈して来ます。(この内容も具体的に表現されたが本稿では割愛する)日本もその渦中に包含されるが、祖国の上空は私達、念の力で必ず護ります。」

 私は思わず反論した。「念の力で、その様な事が可能でしょうか?」

 間髪を入れずに厳しい叱責の声。

 「念の力がどんなに強いかは、貴方が一番良く識っているではありませんか。」

 心に飛び込んで来た響きに、私は素直に謝意を表した。

 「しかし、現象の日本国は何と言っても現象界の貴方たちの努力で護るより他に方法はない。私達も勿論応援はします。ところで今、長崎に素晴らしいものが完成しつつありますね。」

 「-------はい、鎮護国家出龍宮住吉本宮という住吉大神の御出御を仰ぐ御社が出来ています。」

「私たちは以前から承知しております。誠に慶びに堪えません。その完成の日を待ちこがれていたのです。さて貴方は谷口雅春(呼びすてにされた)を識っていますね。」

 「はい、私達、生長の家の総裁先生であります。」


 「そうです。しかし、ご存知ですか、あの方は人間の姿をして居るが、実は住吉大神の化身でありますよ。」


 その強い響きの言葉に触れた時の私の驚きたるや、言語を絶したものであり、永年の信仰生活の中でこれほどの感動はなかった。


 嗚呼、尊師は神そのものであらせられる。

 「今後の日本国を護る、その中心になって活動するのは、実に谷口雅春導きになる生長の家の信徒の皆様意外にはありません。確かに自衛隊も必要ですが、まだまだ不十分です。国と国との戦いよりも内部の革命分子の蜂起を未然に防止することに起ち上がって下さるのが信徒の皆様なのです。

 しかし、何と言っても、現在の誌友が二百五十万や三百万では不十分です。少なくとも、一千万人の方々が信徒・誌友にならなければ-------この儘ではこの日本国は名のみ残り、真の日本国は永久に顕われないかも知れません。

 幸いに住吉大神の御顕斎をする御社が建立され、今後は此処が日本国の真の姿を顕す中心となるでしょう。且つ亦、同時に世界浄化の中心の起点となるでしょう。

 以上の事をよく御考慮下さいまして、お帰りになりましたら直ちに是非とも多くの方々にお伝え下さることをお願いします。」

 その言葉が終わるや眼前の霊光はすうっと消えていったのである。



               
 天皇国・日本の実相顕現に向けて


 その直後、私はドキッと心臓が高鳴るような衝撃を受けて我に返った。誰かが私の肩を叩いたらしい。一気に現象界に目覚めたものの、暫くは自分が何処にいるのか混沌としている有様だった。

 霊的対話の時間は定かではない。遺族の方の申されるのもまちまちで、三十分と言う人、五十五分という人も居た。ただ一様に私が立って祈って居たのが、いつしか座して不動になった事を不思議に思っていたとのことである。

 あの時の英霊との対話は夢ではなかったと私は信じている。しかし、現象的にはどうしても納得がゆかず、あれこれ悩み乍ら、いつしか歳月が流れ、英霊達との約束もはたされないままであった。心中、申し訳なさで一杯の日々であったが、今や内外の情勢は、刻々緊迫の度を深めつつある。日本を護るため今、ここで起ち上がって尊師の御心を体し、日本国の実相顕現、鎮護国家、人類光明化運動の実を挙げる時は来たと思う。

 皆様のご批判を仰ぎ、賛意を表していただけるならば、急遽(きゅうきょ)この体験を知って頂きたい。そう念じつつ筆を執った次第である。


           広島県尾道市西土堂町3−13  
                    木曽正人   >>




  



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