生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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「本流復活促進信徒」と「マサノブ教信徒」の間の決定的相違点は何処にあるのか? (6617)
日時:2015年03月30日 (月) 18時21分
名前:画龍点睛

合掌、ありがとうございます。
同じ「生長の家」の信仰を持ちながら、どうして「本流(正統・生長の家)信徒」と「別派・マサノブ教信徒」に別れていったのか?――今回はこのことについて私の永年の体験を通して考えて見たいのであります。その決定的相違点は次の3つが考えられるのであります。

1、真理に対する「求道心」
2、真理宣布に対する「使命感」
3、信仰に対しての貞操、即ち「信念」




[ T ] 真理に対する「求道心」について


誌友会に始めて出席した時に、講師先生のお話が終わって、お茶の時間の座談会で自己紹介を求められ、初参加の事由を大抵の方は述べられます。その殆んど90%以上は、その方が現在直面している病・悩・苦の解決の為に誌友会に誘われて参加されたのです。中には、誌友会案内のチラシや電柱広告の張り紙を見て、深い宗教的真理を求めて自ら進んで生長の家のお話を聞きに来られた人もあります。


そして、一回限りで疎遠になる人、ある程度続けられたが段々と疎遠になる人も沢山居られますが、自分や家族の病・悩・苦が現実的に生長の家真理の実践によって解決され、『御教え』の真理そのものに深い魂の感動共鳴を覚えて熱心な信仰者になり、積極的に『御教え』の伝道者になった信徒さんも数多くおられるのであります。あるいは又、最初から、「人間とは何か?」・「人生の目的とは何か?」・「本当の幸福とは何か?」・「人間はどこから来たりどこへ行くのか?」・「人間の生命は死んだら終わりの一回きりなのか?」といった所謂<人生の一大事>について本当のことを知りたいと思って、生長の家の門を叩かれた人もおられるのであります。


「生長の家」の真理に対する、その人の過去世からの霊的な縁が今世に於いて熟することになった人は、ひとたび「生長の家」の真理のお話を聞きますと、「自分の今まで真に求めていたものは此処にあった!」と魂の奥底深くから沸きあがる霊的歓喜を味わい、爾後の人生を「生長の家」の熱心な信徒としてすごされていかれるのであります。しかし、頓得の悟りを得た後は、更なる漸得へと、「米、熟するや否や?」、「米熟すること久し!されど、なお篩を欠くる事あり」へと求道していかなければならないのでありますのに、大多数の信徒さん達は、当初の「病・悩・苦」の問題が解決されてしまうと、たとへ誌友会へ継続出席して居られても、その楽しい雰囲気と気の合う仲間作りに終わり、積極的に更なる『御教え』の深き理解、求道の道に進んで行かれる信徒さんはそんなに多くはないのであります。


真剣に、求道の道を深めて来たかどうか、自己の信仰の真贋が明らかになったのは、三代目の継承候補として、マサノブ副総裁が就任して、開祖・谷口雅春先生の『御教え』とは異なる“個人的見解”を表明し始めた時からであります。まず、マサノブ君は、「大東亜戦争は侵略戦争である」と『御教え』とは全く異なる見解を発表したのであります。その後、彼は「迷いは自由より来る」とか「特攻隊は現世否定の自殺行為である」とか「地震や火山の噴火は自然現象である」とか、さらにエスカレートして「生長の家=谷口雅春先生ではない」更に、「開祖・谷口雅春先生の『御教え』は完全ではなかった。その不完全なところを自分が補うのだ」、「開祖・谷口雅春先生の『御教え』は現代には適合しない古い教えであり、今の総裁である自分が語る教えが“今(現代)”の生長の家の教えである」等々と堂々と主張し始めたのであります。


左翼的戦後教育を受けて育った信徒さんにして、真剣な求道心を持たずに、単なる同好会的「生長の家」信仰生活を送っておられた極めて多くの信徒さんは、マサノブ君の言う侵略戦争観や地球環境問題や国際平和問題に対して「極めてごもっともな考え」と思って、「マサノブ先生は別に間違ったことを言われているわけでもない。時代が動いているのだから、教えも時代とともに変化する事はもっともな話だ。それで、いいのではないか」とそれ以上の深い求道的思索はしない方がよいと考えられて、マサノブ君の主張に積極的抵抗を示されなかったのであります。これが、現在のいわゆる「別派・マサノブ教」に在籍している信徒さん達であります。


しかし、入信後も一貫して、強き求道心をもって「父母未生以前本来の面目」を肉体頭脳的理解ではなく自己の生命そのもので感得すべく霊的精進を重ね、宇宙や日本国の霊的根本構図を霊的に理会する事を目指し、無限真理の探究を真剣に求め続けることを怠らなかった信徒さん達は、上記のようなマサノブ君の浅き頭脳的な左翼思想に接するや、霊的反発を覚え、マサノブ君の「今の教え」の非真理性を忽ちのうちに見破ったのであります。入信後も怠りなく、開祖・谷口雅春先生の御著書の熟読を怠らなかった信徒さんは、マサノブ君の「今の教え」に直感的違和感を憶えたのであります。この様な信徒さんが、本流復活を目指す人たちであったのであります。


このように、「本流復活促進信徒」と「マサノブ教信徒」の間の決定的相違点は、自己人生を掛けた真剣な「求道心」の有無にあると申しても過言ではないのであります。




[ U ] 真理宣布に対する「使命感」


この自己人生を掛けた真剣な「求道心」を持つ人達は、第一のものを第一にして来た人たちであります。どのような人でも、長い人生航路の途中に於いては、人生の岐路に何回でも立たされるのであります。左右何れの道に進むべきか、であります。真理(真義)を貫くべきか、それとも自己保身の道を取るべきか? 大抵の人達は自己保身、即ち、地位・名誉・報酬の継続獲得の道を選ぶのであります。現在の「別派・マサノブ教」に依然として在籍している信徒さん達は、この自己保身の道を選んでいるのであります。


「第一のものを第一にせよ」との『御教え』を、実際の自己人生の岐路の選択に当っての判断基準にできなかった。そこまで、開祖・谷口雅春先生の御著書を“生命”そのもので以って読んでいなかったのであります。“いのち”が“いのち”するところまで真理と自己とが一体になっていなかったといえるのであります。その第一人者は、独裁者マサノブ君を支えている、若頭のイソベ理事長・金庫番のユキシマ副理事長・お飾り雛のオオツカ参議長たちであります。自称プロの宗教家であるにせよ、何と情けない、不甲斐ない最高幹部たちでありましょうか? 全くの「ニセ宗教家」たちであって、彼らは将来帰幽した時に、開祖・谷口雅春先生の面前で如何に申し開きを為すのでしょうか? 否、彼らは、「ニセ宗教家」でありますから、余りにも心の波長が低くよどんでいるわけですから、霊界では、開祖・谷口雅春先生の居られる高級霊界へは近づくことすら出来ないと思われるのであります。


これに較べて「本流復活」に挺身している「本流」信徒さん達は、自己の人生航路において「ニセ宗教家・マサノブ」が出現した時、自己人生の岐路の選択に際して、敢然として「第一のものを第一にする」選択を為した、自己保身基準を捨て「真理の道をまっしぐら」に突き進んだ人たちであります。禅宗「無門関」第三十一則<趙州勘婆>の公案で「驀直去!」の解答を実人生において為した信徒さん達であります。「別派・マサノブ教」のマサノブ教祖を支持、擁護、温存する信徒の皆さんは、この「驀直去!」の解答を為し得なかったのであります。


「驀直去!」の解答を実践しそれの正しきを証明している「本流」信徒の皆さんは、開祖・谷口雅春先生の御著書を自己の實相生命で以って熟読されてきたわけでありますので、開祖・谷口雅春先生の「生長の家」の真理が、その深さにおいて、その高さにおいて、その幅の広がりにおいて、地上最高のもの、宇宙最高のもの、人類の至宝なるものである事を明確に把握されておられるであります。このまま、独裁者マサノブの勝手気ままにさせて置くならば、この最高至上の『御教え』は、マサノブ君の「生長の家」つぶしによって、再起できない状態にまでこの地上から消滅せしめられる。なんとしてでも元通りの隆盛を取り戻さねば、本当の人類の平安と平和は来たらない。日本守護の霊的トライアングルゾーン原宿への凱旋帰還は必須のものである。又、小規模な『御教え』の伝え遺しは開祖・谷口雅春先生の御意志ではない。かつての目標――地球規模での「生長の家」真理の宣布を可能とする規模への「生長の家」の規模面での復活でなければならない。これが「本流」信徒の使命感であります。人類生活の凡ゆる面治病∞教育∞繁栄∞政治≠光明化する事が本来の「生長の家」の使命であるわけであります。詳しくは、――
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=daityouwa&mode=res&log=2778


開祖・谷口雅春先生の御著書を熟読し、求道の人生を行き続けてこられた「本流」信徒の皆様は、開祖・谷口雅春先生の力強い次のような格調高き御文章が、各人の潜在意識の奥底深く定着しているのであります。『第二青年の書』第二十章<人類光明化運動の選士を讃えて>から引用させて頂きます。



<<  人類光明化運動の選士よ、神に選ばれたる若人よ。諸君は神武天皇建国の日本国に生まれたることを誇りとし、慶びとし、この誇りと慶びとを若き人たちに分かち、子々孫々に伝えることを名誉ある使命とするのである。

諸君は、天祖、彦火瓊々杵尊(ヒコホニニギノミコト)の天降りましてより、神武天皇に至るまで、約そ一百七十九万二千四百七十余年の古き伝統をもて建てられたる日本国に生まれたることを誇りよし、慶びとし、この誇りと慶びとを若き人たちに分かち、子々孫々に伝えることを使命とするのである。

彦火瓊々杵尊(ヒコホニニギノミコト)の天降りを歴史的事実にあらずと疎んじてはならないのである。諸君は天照大御神の御孫の天降りとは、天球すなわち大宇宙を照らし、それを光明化する理念の天降りであることを知るのである。理念は現実に先立つ、日本の現実はいまだ理念の完全さに達せずとも、宇宙を照らす大理想をもって天降り来たったことが日本民族の使命として斯くの如き神話を創造して代々相伝承して来たったことが尊いことを知るのである。

諸君は知る、天照大御神の孫の降臨とは、真子(まご)の降臨であることを。それは神意の伝承、「まことの理念」の伝承のことである。この尊き天意の伝承の下に日本国は肇まったのである。されど、時運いまだ開けず、交通不便にして、日本民族全体が統一国家になっていなかった時代が幾世代も続いたのである。それを『日本書紀』は「是の時に世、荒きに逢い、時、草昧(くらき)にあたれり」というような言葉で表現しているのである。時期の至るまで、神武天皇にいたる多くの世代を通じて、天皇家の雌伏の時代がつづいたのである。単に雌伏していたのではないのである。「かれ蒙(くら)くして正を養い、此の西の偏(ほとり)を治らす。皇祖皇考(みおや)、神聖(かみひじり)にして、慶を積み、睴(ひかり)を重ね、多(さわ)に年所(としのついで)を歴たり」と『日本書紀』は書いている。暗黒の時代にも、常に「正」を養って来たのが、日本民族の祖先であり、その祖宗は、「神聖(かみひじり)である」ということを知っていたのである。即ち、日本民族は、連綿として、神の霊統をつぐところの「神の子」であるという自覚をもって正を養い、みずからの修養に尽くして来たのである。諸君は、斯くの如き尊き伝承をうけつぎ来たった日本民族の一員として生まれ来たったことを誇りとし、慶びとし、この誇りと悦びとを若き人たちに分かち、子々孫々に伝えることを名誉ある使命とするのである。

神武天皇の出興せられし頃は、交通不便なるがゆえに僻遠の地は天皇の恩沢にうるおうすべもなく、邑々、あい分立して境界争いして鎬をけずっていたのである。これを『日本書紀』は『遠くはるかなる国、王沢(みうつくしび)にうるおわず、遂に邑に君あり、村に長(ひとのかみ)あり、各々自ら境を分ちて、以って相凌ぎ軋ろわしむ』と書いている。神武天皇は、此の小村小邑相分立し闘争を事とするのを見るにしのび給わず、「天業を弘め延べて、天下を光の宅たらしむべし」と思われたのである。そのとき塩土老翁あらわれて、「東に美し地あり、青き山四方に周り、蓋し六合(くに)の中心(まなか)」と教え奉ったと『日本書紀』は伝えている。神武天皇の大和国への困難なる御出動は此の神示に基くのである。その塩土老翁こそは、生長の家の人類光明化運動を起こしたまえる本尊、塩椎神、住吉大神であり給う。蓋し、塩土老翁は常に、日本の重大事きたるときにあらわれて、国家の安泰のために導きたまうのである。

生長の家の信徒たる青年は、塩土老翁の分身分霊として、日本危急の場合に処して国を護らんがために、神縁ふかく、神意に導かれて引き寄せられたのである。まことにも諸君は祖国の危うき際に処して国を護らんがために神に選ばれたる選士であるのである。諸君よ、必ずその神縁を空しくすることなく、大神の召喚に応えまつりて、祖国守護の第一線にわれらと倶に立たんかなである。佛人ポール・リシャルは『告ぐ!日本国』なる文章で日本国を次の如く讃えて日う。「諸々の神に愛護せられたる国よ、諸々の神もまた汝に於いて互いに相和せり。異なれる神の宗教は、至る所に互いに相呪うを常とするに、独り汝の拡量なる奉仕のみは、互いに他を排する事を為さずして、却って相補全せしめたり。異なれる神の宗教とは何ぞ。一は神の内在を教え、自然の諸々の生命が躍動する空間に於いて、祖先が生動する時間に於いて、万種に通ずる一如を教うるもの、他は即ち神の超在を教え、時空を超越し、永遠の寂静裡に至上の祝福を司り、独一の中に万殊を蔵するを説くもの是なり。而して世界に於いて流血の汚れに染まず、『地に平和あれ』と宣伝するの権利を保有するものは、唯だ此等両個の宗教のみに非ずや・・・」、

ポール・リシャルのこの賞賛の言葉にも拘らず日本の現実の宗教は諸宗諸派に分岐れ、互いに境を分ちて相軋り合っているのである。しかしこれは、職業宗教人の生活や面子のために為すところの歪められた宗教であって、“万殊に通ずる一如を教える”真の日本の宗教ではないのである。真に日本的なる“万殊に通ずる一如を教え、独一の内に万殊を蔵する”宗教は、ただ万教帰一の“生長の家”のみである。生長の家のみが日本の實相である永遠の「大和」の理想を発揚し得る唯一の宗教であるのである。世界の平和を説けども、みずから宗教同士互いに相排斥しながら闘争を事として何の甲斐あらんやである。諸君は、万国大和の使命を有する日本国に生まれたる事を誇りとすると共に、“万殊に通ずる一如”を把握し、“独一の中に万殊を蔵する”万教帰一の教え「生長の家」に来て、万国偕和の“理想世界”建設運動に参加できた事を光栄だと思わなければならないのである。

まことにも諸君の幸福と光栄とは、諸君が「個我」に捉われず、自己放棄によって全人類の願いに生きる事によって、自己拡大が行われたことである。真の民主主義は、「個我」を伸ばす事に懸命であるような自己中心主義ではないのである。戦後の多くの国民は、輸入された民主主義を穿きちがいて、自己の利益追求主義と肉体的快楽追求主義とを民主主議だと考えて小我を自己放棄する事によって得られる内的自我の”自己拡大“の真の魂の悦びを知らないのである。彼らは、魂がまだ幼稚なのであり、小我の殻の中に眠っている蛹のようなすがたであるのである。然るに諸君は既に自己中心主義の小我の殻を脱ぎ捨てて人間の”蛹”状態から飛び出して全人類を平和ならしむる人類光明化運動の使徒として飛躍したのである。素晴らしいかな諸君!!

 日本の国が、「建国以来一系の天皇、永遠に亘る一人の天皇を奉戴する唯一の国」であるのは、ポール・リシャルの言うが如く「地上の万国に向かって、人は皆な一天の子にして、“天”を永遠の君主とする」人類永遠の理想を象徴的に具現せるところの“真理国家”であるからである。万物には永遠変ることなき一つの中心がある。原子には永遠変ることなき一つの中心“原子核”があるのである。その中心が変化すればその原子は崩壊して、別の原子に転換する。細胞には、永遠変ることなき中心として一個の細胞核があるのである。その中心たる核が破壊すれば、細胞は死滅するのである。樹木にもその中心として永遠変ることなき一本の幹があり、幹が枯れれば、その樹木は枯れるのである。太陽系にはその永遠変らざる中心として太陽が存在する、而して、若し太陽が崩壊すれば、その周囲をめぐる遊星の上に棲む生物は悉く死滅するのである。

されば宇宙の真理は、「存在する万物万象」には必ず一つの変わることなき中心が存しることを要請するのである。然るに、今や世界諸々の国家には、その中心として仰ぎ見る中心たる「万世一系にして変わることなき中心者」たる王が存在しないのである。それゆえに、これ等の国家は常に、その中心者たらんことを願う僭主が現れ、相争うて闘争の絶え間がないのである。ただ日本国家のみ、ポール・リシャルが指摘せるが如く「建国以来一系の天皇、永遠に亘る一人の天皇を奉戴し」万象万物ことごとく一つの永遠に変わらざる“中心”が存するという「宇宙の大真理」を具体化しているのである。

それゆえに、諸君は、此の「宇宙の大真理」を具体化せる此の国家を尊びて、“大日本真理国家”と呼ぶのである。“大日本”というは、形の大小をいうにあらず、宇宙の大真理を具現せるがゆえに宇宙の相そのままに「大」なるがゆえに、尊びて斯くいうのである。諸君は此の世界に唯一つのみある此の”真理国家“に生まれたることを誇りとし、栄誉とし、悦びとし、この国体(くにがら)を護持せんがために結束して、全世界に此の真理を宣布する使命のために起ち上がった選士である。正しき愛国者とは斯くの如き日本の實相と、日本国民の使命を自覚して、それを実現せんために行動する諸君のことであるのである。>>


この壮大なる使命感を「本流」信徒の皆様は持っておられるのでありますが、「別派・マサノブ教」在籍信徒さんには無いであります。在ったにしても、彼らの「神性隠蔽」のために心の奥深く埋没してしまっているのであります。開祖・谷口雅春先生のこの魂を揺さぶる霊感的御文章は、熱心な求道心を持つところの日本人ならばまことに深い感銘と霊的感動を覚えるのであります。「別派・マサノブ教」のマサノブ教祖は、この御文章を毛嫌いし、排斥し、一回たりとも講習会の講話のなかで語ったことはないのであります。この点から考えましても、マサノブ君は、非生長の家人であり、その心は非日本人なのであります。




[ V ] 信仰に対しての貞操、即ち「信念」


開祖・谷口雅春先生は、信仰にも貞操観念が必要と言われたのであります。如何なる事態に立ち至っても揺るぎのない信仰心を持ち続けることを強調されたのであります。この「揺るぎのない信仰心」は、強烈な求道心と使命感から出てくるのであります。「生長の家」の真理、『御教え』に対する確固不動の「信念」であります。「本流」信徒の皆さんには、この確固不動の「信念」が確立されていたのであります。しかし、極めて大多数のその他の信徒さんには、この確固不動の「信念」が確立されていなかったので、幻術師・マサノブ君の“時代即応の教え”(マサノブ先生は別に間違ったことは仰られてはいません、との単純な浅い考え)に簡単に洗脳されてしまったのであります。深き求道心なきが故に、今生を日本人として生まれたけれども、最高の『御教え』に触れた霊的感動からの使命感を感ずること無きが故に、マサノブ君の出現とともに、そのままズルズルと「別派・マサノブ教」の信徒へとぬるま湯に浸(つ)かりながら易々と“連行”されて行ってしまったのであります。


マサノブ君は「万教帰一」の説明を「諸宗教の共通点」と表現しているのであります。これは、一見、非常に解り易い説明のように感じられるのでありますので、「別派・マサノブ教」の信徒さんはこれで満足して疑問を感じてはいないのであります。しかし、このようなマサノブ君の浅はかな解釈は完全に間違っているのであります。「生長の家」教規第五条には、「教えの創始者谷口雅春の唯神實相の神学を鍵として全世界の宗教の経典の真義を顕示して人生に光明あらしむる」とあります。つまり、世界の宗教を「生命の實相哲学」と称せられる「唯神實相神学」でもって、即ち『鍵』として解明す時に初めて、@世界の宗教は唯一の本源より発している,A万教は唯一の真理に帰一する,B人間救いの原理は唯(ただ)一つであること、この三つのことがそれぞれの宗教や宗派の言葉の違いや説明の仕方を超えて、明らかになると云うことなのであります。“共通点探し”という簡単なゲーム感覚での試験問題のようなものとは次元が違うのであります。また、この「唯神實相神学」を『鍵』としての万教帰一の解明は、肉体頭脳解釈ではなくて、神界からの霊的啓示を伴ってできるものでありますから、開祖・谷口雅春先生と等しき高度な霊性開発の為された人にして始めて可能なのであります。決して、マサノブ君の如きIQ指数だけが高いだけの、霊的音痴の左翼唯物現象論者などには、真の「万教帰一」の解説などは所詮が無理なのであります。「万教帰一」とは諸宗教の“共通点”を探す、それも肉体人間の肉体頭脳知で探して理屈付けしている「マサノブ教」というものは、開祖・谷口雅春先生の本来の『御教え』とは、似て非なるものである事を直感的に感得出来なければ、真の「生長の家」信徒とはいえないのであります。


そのまま、ズルズルと「別派・マサノブ教」に在籍し続けることは、信仰に於ける“貞操観念”の喪失であります。信念をもって『生長の家』の信仰を貫いているとはいえないのであります。深き求道心に基づいた「生長の家」信仰の「信念」の持ち主ならば、「別派・マサノブ教」とは、サッサと袂を分ち、「本流」復活促進活動に参加してこそ、宗教上の貞操を貫く信徒といえるのであります。


開祖・谷口雅春先生の『御教え』は、コトバの霊的波長(リズム)が最高のものであります。深き求道心さえ持っていれば、開祖・谷口雅春先生の御文章の言葉の霊的ヒビキを實相生命で以って感得し、心の奥底からの霊的共鳴歓喜がこみ上げてくるのが解るのであります。人それぞれ、その霊的ヒビキある語句、章句は違いますが、私の場合は、次のような語句、章句に物凄き魂を揺さぶる霊的歓喜を覚えるのであります。

1、 『生命の實相』・『實相世界』・『實相宇宙』

2、 『無の関門』・『絶対実在の絶対認識』・『入龍宮不可思議境界』

3、 『汝ら天地一切のものと和解せよ』

4、 『汝ら「人間・神の子」の自覚より更に進んで「神の子・人間」の自覚に入るべし』

5、 『生命の實相の自性円満(そのままでえんまんなること)を自覚すれば大生命の癒力(なおすちから)が働いてメタ・フィジカル・ヒーリング(神癒)となります。』

6、 『生命の實相を知る者は因縁を超越して生命本来の歪みなき円相的自由を獲得せん』

7、 『無明(まよい)はあらざるものをありと想像するが故に無明(まよい)なり』

8、 『金波羅華 天皇国日本の實相』・『大日本真理国家』

9、 『理念は現実に先立つ』・『真理国家日本の建設』

10、 『久遠を流るるいのち』

11、 ・・・・・

12、 ・・・・・


この様な開祖・谷口雅春先生の語句章句は、実に大きな魂の霊的歓喜を引き出すものであります。そして、その霊的歓喜に浸りきる時、コトバでは表現出来ない“生々流動するいのちそのもの”を感得するのであります。「別派・マサノブ教」のマサノブ教祖の語る言葉や書く文章からは、このような魂の底から湧きあがる霊的歓喜が感じ取れないのであります。「日本は侵略国家であった」、「迷いは自由から来る」、「人間至上主義」、「人間は自然界の一部」、「自然との共生」、「環境保護」、「神・自然・人間の大調和」、「国際平和」、「神を演ずる前に」、「宗教はなぜ都会をはなれるか?」、「ていねいに生きる」、「面倒くさいが世界を救う」、「真理の目玉焼き論」、「ムスビの原理」・・・



宗教の世界とは、宇宙の實相と自己生命の實相とが直接触れて、カチカチと音を出し、霊的歓喜に浸る世界であります。「別派・マサノブ教」は、このような宗教本来の世界とはまことに縁遠い、名前だけの宗教であります。斯くのごとき宗教上の本質的違いが解らず、したがって、開祖・谷口雅春先生の「生長の家」の『御教え』の宇宙最高と言っても過言ではない真の値打ちが解らず、ただ、「寄らば大樹の蔭」・「“いのち”のことよりも、“求道”のことよりも“地位と名誉とお金”を優先して考える偽善的信仰、“真理や求道”よりも、“お孫さま意識、お友達意識のつながり”だけで結ばれている「別派・マサノブ教」の一般信徒さん達は、信仰の世界に於ける「信念を貫くこと」や「信仰上の貞操観念」を持ち合わせているとは決して言えないのであります。「別派・マサノブ教」の信徒の皆様、一日も早くこのことに気付かれまして、「別派・マサノブ教」と訣別し、開祖・谷口雅春先生の真の「生長の家」再興運動にご参加下さいますようお願い申し上げます。 再合掌









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