生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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検証: 雅宣(自称)総裁・新刊 「生長の家(雅宣教)ってどんな教え?」<第1回> (67) |
- 日時:2013年02月19日 (火) 19時23分
名前:信徒連合
検証:
雅宣総裁・新刊 「生長の家(雅宣教)ってどんな教え?」
<第1回>
[ T ] 何故、我々は“検証”する必要があるのか?
合掌、ありがとうございます。 このたび、雅宣総裁は「生長の家ってどんな教え?」と云う新刊書を出版しましたが、本書出版の目的を「宗教の“信仰への入口”を示す」(同書P.4)としている。
雅宣総裁は「生長の家入門」とは書いていないことに先ず注目しなければならない。その理由は簡単である。
彼は、開祖・谷口雅春先生御創始の「生長の家」の『御教え』の三代目の後継者を自負しているが、三代目・雅宣総裁の説く「生長の家」の教えは、開祖・谷口雅春先生の『御教え』の全相を100%受け継いでいるのではなく、自己の戦後日教組教育で受けた左翼唯物論という価値観のの篩(ふるい)を通して残った部分を「今の教え」として全国各地の講習会で信徒に説いているから「生長の家入門」とは書けないのである。
このようなわけで、開祖・谷口雅春先生の本来の『御教え』はその根幹部分において“換骨奪胎”せられ、本来の『御教え』とは似ても似つかぬ、言わば「雅宣教」となって内容が入れ替わってしまっているのである。
それにも増して雅宣総裁の最も卑怯なところは、この換骨奪胎した、偽(ニセ)の教義を『生長の家』の看板はそのままにして説き続けていることなのである。
このことは、宗教の世界にとっては「教祖反逆罪」といって、法律的な罪ではないが、宗教家にとっては一般人の幾相倍にも値する最大の“宗教的犯罪行為”(法罪)であって、彼のこれからの未来世を含めた長々期間の転生人生において大いなる苦悩を背負って償っていかなければならないのである。
「生長の家ってどんな教え?」の書名は間違っているのである。正確には、「雅宣教ってどんな教え?」でなければならない。
このまま放置すれば、雅宣総裁によって歪められた「今の教え」(雅宣教)が開祖・谷口雅春先生の『御教え』であると云う誤った考えを世の識者や宗教や信仰に関心を持つ一般の人たちに植え付けていくことになるのである。
これは、われわれ開祖・谷口雅春先生の『御教え』の全相を信奉する所謂「本流の信徒」にとって看過する事の出来ない大問題である。此処に浅学菲才を顧みず、不十分ながらでも敢えて「検証」の行動に出ざるを得ないのである。「検証」の未だ到らざる不十分なところがある事は十分承知の上であります。その節は各位に於かれまして、開祖・谷口雅春先生著の根本聖典『生命の實相』その他の御著書を深くお読みいただき正しい答えを見つけていただきますようお願い申し上げる次第であります。
[ U ] 「はしがき」の文章を検証する。・・・その一
雅宣総裁は、「生長の家ってどんな教え?」の「はしがき」P.2で<生長の家の宗教としての特徴・・・理性的信仰である>と書いている。
彼が、未だ「生長の家」について知らない人たちへの「入門書」として本書を書いたのであれば、“理性的信仰”といった宗教学者や宗教評論家のような言葉を使わずに、何はさておき、「生長の家」の始まり、つまり、開祖・谷口雅春先生の名前を挙げて、どういう経緯で「生長の家」が宗教といわれるようになったか、そして「生長の家」の目指すところは何かを、少しぐらいページ数を増やしてでも、読者の関心を引くように書かなければならないのである。開祖・谷口雅春先生のこれらの点に関する御文章を掲げる。
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@ < 真の宗教は”人為“をこえたものである > (新講『甘露の法雨』解釈P.310―315より)
<< そのころ、私は別に宗教を拵えるというつもりはありませんでした。今でも人為的に宗教を説く積もりはないのであります。 宗教というものは、野心をもって人間が拵えるものではないのであります。神の起こしたまえる「人類光明化運動」あるいは「人類救済運動」として、神からもよおされて自然に出て来るのが、本当の宗教であります。 ところが大東亜戦争後、野心家が、自分が宗教というものを拵えて教祖様になるとか、或いは宗教というものは政府の束縛がないとか、大変収入があっても税金が要らないから都合がいいとかいうような利己主義的な事を考えて、ある団体を拵えて、それを「宗教」だと名前をつけて届けさえすればよいというので、戦後の日本では終戦後にずいぶん沢山新宗教が出来たのですけれども、このようなのは人造のものであって本当の宗教ではないのであります。 それは人造真珠みたいなものであって、本当の真珠より劣ること数倍である。中を割って見れば、ガラスに太刀魚の銀色の鱗が張ってあるというようなのを真珠と言って売り出しているのとおなじように、戦後の宗教には、人間の拵えた擬似宗教がずいぶんあります。 本当の宗教というものは、そう言うものではないのでありまして、自然に阿古屋貝の貝の中に真珠の珠が生まれて来るように、自然とそこに光輝燦爛とした教えが生まれて来て、その光によって人々が引き寄せられて来て功徳があらわれ、自然に宗教が生まれて来る、これでなくては本当の宗教ではないと、こういう事になる訳なのであります。 『生命の実相』の教えや『甘露の法雨』の聖経は、人間が、それを宗教にするつもりでないのに、それが宗教に自然になってしまったのであって、そこに神が内面的に働いておられる宗教だといえるのであります。だから『甘露の法雨』を披くだけでそこから光が燦然と出るのを見た人がでて来たりいたします。>>
A < 住吉大神に導かれて > (『神の真義とその理解』P.193〜194)
<< 私はその求人広告に応募して和英両文の履歴書を速達で送り、やがてテストを通過してヴァキューム・オイル会社に勤めることになったのであります。・・・その会社は神戸の阪神電車の終点である“滝道”駅から徒歩で五分間位の距離にあったが、養父母の住む夢野町からは電車の駅が遠いので、毎日長時間かかって長距離を歩かなければならなかった。もっと時間の節約になるようにと思って日曜日ごとに神戸の近郊に家を見つけに往きました。そして住吉神社がそこに奉祭されている村である住吉村にその家を発見することになったのであります。こうする過程によって私は住吉大神の御座所に引き寄せられることになったのであります。私は朝風呂が大好きであったが幸いに家の近くに“勇湯”(いさみゆ)という銭湯があって、朝五時からお風呂が沸くのであった。その極近くに住吉神社があって、毎朝浄水で浄められた体のまま住吉神社に参拝して日本国の隆昌と皇室の弥栄(いやさか)を祈って帰ることにしていました。毎朝礼拝後、自宅に帰って静座黙念の修行を続けているうちに、神想観の座法や呼吸の仕方なども自然に教えられた。そして『生命に實相』頭注版第二十巻一三九頁にある「朝、東方に面して、合掌礼拝して、霊々妙々円満の大生命を観ずれば・・・」の詩にある様な心境に入ったのである。その時わたしは人類光明化のために機関雑誌『生長の家』を出せという神の声をきいたのであったが、併しその頃の私はまだ躊躇して思い切って雑誌の発行に踏み切る勇気がなかったのです。・・・『生長の家』誌の発行はもう二十年も後のことになるはずでありました。そうしたら、その二十年間に生長の家の真理普及運動によって精神的又は肉体的に救われるであろうと予想される数十万人の人を救わずに見殺しにすることになるはずでありました。『生長の家』誌の発行をのばしている当時の私の心は、これら数十万人のひとの運命について考えていなかったことに気づいたのでした。その時わたしは、「今起て、今のほかには時はない、“今”の中に無限があり、無尽蔵がある!」という神の声をきいたのでした。私は、いつの間にか“有限の現象界”に引っかかっている自分に気がついて愕然としたのでした。そして『生長の家』誌の発行に踏み切る勇気がでた。それは昭和四年の十一月十三日のことであったと記憶しています。>>
B 『生長の家』出現の精神 (神誌『生長の家』昭和五年三月一日発行創刊号)
<< 自分はいま生長の火をかざして人類の前に起つ。起たざるを得なくなったのである。友よ助けよ。同志よ吾に投ぜよ。人類は今危機に頻している。生活苦が色々の形で押し寄せて人類は将に波にさらわれて覆没しようとしている小船の如き観はないか。自分は幾度も躊躇した。起つことを躊躇した。自分は中心者として増上慢のそしりを受けることを恐れていたのだった。一求道者としていつまでも謙遜でいたかった。併し今は謙遜でありたいと言うことが自分にとっては安易を貪る一つの誘惑と感じられる。自分は此の誘惑に打ち克って人類を救わねばならない。自分の有っている限りの火で人類を救わねばならない。自分の火は小さくとも人類の行くべき道を照らさずにはおかないだろう。此の火は天上から天降った生長の火である。火だ!自分に触れよ。自分は必ず触れる者に火を点ずる。生長の火を彼に移す。自分は今覚悟して起ち上がった。見よ!自分の身体が燃え尽くすまで、蠟燭のようにみづからを焼きつつ人類の行くべき道を照射する。自分のかざす火は人類の福音の火、生長の火である。自分は此の火によって人類が如何にせば幸福になり得るかを示そうとするのだ。如何にせば境遇の桎梏から抜け出し得るか、如何にせば運命を支配し得るか、如何にせば一切の病気を征服し得るか、また、如何にせば貧困の真因を絶滅し得るか、如何にせば家庭苦の悩みより脱し得るか・・・等々。 今人類の悩みは多い。人類は阿鼻地獄のように苦しみ踠がきあせっている。あらゆる苦難を癒す救いと薬を求めている。しかし彼らは悩みに眼がくらんでいはしないか。方向を過っていはしないか。探しても見出されない方向に救いを求めていはしないか。自分は今彼らの行手を照す火を有って立つ。>>
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雅宣総裁は、上記のような御文章を参考にして、「生長の家」がどのような経緯を経て誕生して来たのかを説明しなければ「生長の家ってどんな教え?」のタイトルに対する基礎の説明をしていないことになり、初めての読者には不親切極まりないことになるのである。
[ V ] 「はしがき」の文章を検証する。・・・その二
雅宣総裁は、この本の「はしがき」で書いていることは二つある。一つは<生長の家の宗教としての特徴は“理性的信仰”であるということと、もう一つは<「なぜ?」を多く発することで宗教も科学と同様に発達していく>と述べている。
この本が「生長の家」と云う宗教への入門書であれば、「生長の家」の教えの特徴を“理性的信仰”という面だけで説明するのは極めて一面過ぎるのである。彼はあまりにも知らなさ過ぎるのである。次のように書き換えるべきである。そうでなければ、宗教界の大学院の教えとまで世の識者から絶賛評価されていた『御教え』(真理)を雅宣総裁自ら矮小化してレベルを落としてしまうことになるのである。
@ 「生長の家」の真理によって、人生百般の問題で解決されない事柄は無い。
A 「生長の家」の真理の力は過去世、今世、未来世の三世に亘っての救済力を持つものである。
B 「生長の家」の真理は、個人の救済に留まらず、釈迦、キリストその他の宗教者の為し得なかった「国家の救済」にまで及ぶ力を持つものである。
@及びAに関しては項を改めて説明する。Bに関しては開祖・谷口雅春先生は次の如く説かれているのである。つまり、個人の救済と国家の救済と同時達成できる内容の教えが「生長の家」の『御教え』であると強調しなければならないのであるが、雅宣総裁はこの考え方には反対しているのである。
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* 新しき宗教の使命、それは“国家の成仏”(昭和42年度青年会全国大会での御講話)
<<従来の宗教というものは、単に個人が悟りをひらく、そして自分の生活が良くなるとか云うような問題も むろん人間を救う上では必要でありますけれども更に、国家の成仏ということが出来る宗教でなければならない。国家の成仏、国家の成仏と云うのは、釈迦が示された金波羅華の世界の、その姿、秩序整然たるすがたにこの世界をならしめると云うのが、それが国家の成仏と云うことです。、つまり釈迦は、何のために出現したかというと、この世界が、金波羅華の世界、もうひとつ言い換えると蓮華蔵世界、蓮華の荘厳なるスガタを内に蔵している蓮華蔵世界である。その有様を地上に完成する。そうすると地上の国家が成仏して仏のいのちそのままになるということであります。それが新しき宗教の使命でなければならぬのであります。>>
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[ W ] 「はしがき」の文章を検証する。・・・その三
「生長の家」の信仰は、特に個人的な病悩苦からの救済に於いては抜群の救済力を発揮してきたのである。
それは教えの内容が教育水準の高い人たちにも容易に理解しやすい(迷信くさくない)、そして実践しやすく説かれているからである(開祖・谷口雅春先生の文章芸術の粋)。
だから、「生長の家」はインテリの信ずる宗教とも言われ、生活に生きて歩む宗教とも言われてきたのである。言い換えれば「科学的宗教」である。科学は実験結果の集積を重視し、科学的真理は実験によって確認される。
「生長の家」の真理によって実に膨大な数の人生の病悩苦が、常識的には不可能な事をみごとに解決してきた。唯物論の常識の世界では説明がつかない奇蹟的出来事も実に多いのである。この膨大な数の信徒の体験の集積によって「生長の家」の真理が実人生、実生活において活用できる正しい真理である事が証明されたのである。
だから、「生長の家」の宗教的特徴は“科学的宗教”と言えるのであるが、雅宣総裁は“理性的信仰”といっている。雅宣総裁は、極端に信徒の奇蹟的体験談を忌み嫌っている。科学的に証明できていないからだという。
併し奇蹟的体験という事実は事実である。現代科学がまだ宗教的奇蹟を証明する段階にまで達していないだけの事。しかし、彼は頑として信徒の奇蹟的体験談を軽視し、時には無視さえする。開祖・谷口雅春先生や二代目・清超先生が体験談を極めて重要視されていたのと全くの対極である。
だから雅宣総裁は「科学的」と言わず、「理性的」と云っているのである。しかし、「理性的」と言われても意味がよくわからない。雅宣総裁は「理性的」ということばについて明確な説明をしなければならないのである。
[ X ] 「はしがき」の文章を検証する。・・・その四
最後に、雅宣総裁の「立脚点・着眼点」と本流信徒との「立脚点・着眼点」の違いを指摘することにする。
雅宣総裁は、「生長の家」本来の使命である人々の現実的病悩苦からの真理による救済を放棄した。また、国家の霊的救済をも放棄した(鎮護国家祈願の放棄)。
そして、左翼学者・評論家と同列の理屈と評論と机上だけの世界平和を叫んでいるのである。彼には、実人生における生き詰まりを真理(『御教え』)によって解決した体験も無く、信徒の真剣な個人的悩みを『御教え』によって指導解決した経験もなく、セレブ的階層から宗教を見て、学者的評論家の目線で文章を書いている。
真理による具体的奇蹟的信仰体験がないから、理屈だけで文章や講話をしなければならないから、彼の講話や文章からは温か味を感じさせるもの、感情を揺り動かされるものは何も無い。聞く側や読む側にとって何の喜びや感動も湧いてこない。知識だけの伝達である。
だからして、「生長の家」の信仰は「理性的信仰」つまり、理性で以て理解することであるとして、宗教本来の現実的な病悩苦からの解放に関することや鎮護国家・愛国心のことには一切言及しないのである。
開祖・谷口雅春先生のことへの言及も一切なく、根本聖典たる『生命の實相』が発売以来累計で2000万部の隠れたベストセラーで実に多くの人々を救ったことへの言及も無い。だから、この本のタイトルは「生長の家ってどんな教え?」は不適切であり、「雅宣教ってどんな教え?」とすべきが妥当とわれわれは主張するのである。
一方、本流信徒の我々は皆、入信の動機を持っているのである。ある人は病悩苦からの解放を求めて、ある人は真剣な求道を求めて、ある人は真の愛国心に目覚めて、ある人は人生の目的に悩んで等々、そして「生長の家」の『御教え』こそ人類史上最高の教えであると信じ、自己人生の諸問題をこの『御教え』の真理で解決し、毎日の生活の先頭に開祖・谷口雅春先生の『御教え』を置いて今日まで生きてきた者達である。
雅宣総裁は、「生長の家」に所属したのは、開祖・谷口雅春先生の如き人類救済の悲願に燃えてではなく、結局のところ一番有利な永久就職先として、また個人的人生目標を他人のお金を使って達成できるところとして「生長の家」という就職先を選んだに過ぎない。
このように雅宣総裁と信徒のわれわれとでは「生長の家」の信仰をどう見るかの「立脚点・着眼点」が全然違っている事がこの「はしがき」を見てもハッキリと解るわけである。 再合掌
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重要投稿再読を・・・ (470) |
- 日時:2013年03月16日 (土) 00時13分
名前:信徒連合
特に、ニュー信徒のみなさま・ニュー講師のみなさまは再読されんことを・・・
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重要記事に付き、今月も再掲示いたします。 (824) |
- 日時:2013年04月16日 (火) 15時37分
名前:信徒連合
<非・生長の家>である雅宣教団では、最近の講習会のテキストとして『生長の家ってどんな教え?』を必死になって信徒さんに売っているようであります。<雅宣著>のこの本は『生長の家ってどんな教え?』ではなくて、『雅宣教ってどんな教え?』が正しい書名であります。「聖使命新聞」の講習会場での販売実績数は、開祖・谷口雅春先生の御著書以上に“中売り”で強制?購入が促進されているものと見えます。「聖使命新聞」発表の数字(今年1月の講習会場販売数)は、――
* 1月20日、長崎北部教区 「生長の家(雅宣教)ってどんな教え?」 43冊、 「新版 光明法語」 41冊
* 1月27日、東京第一教区 「生長の家(雅宣教)ってどんな教え?」 207冊、 「新版 光明法語」 169冊
* 2月3日、静岡教区 「生長の家(雅宣教)ってどんな教え?」 496冊、 「新版 光明法語」 122冊
なお、中村晃生氏が、この「生長の家(雅宣教)ってどんな教え?」の独断と偏見について検証されておられますので、ぜひともお読み下さい。 http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=snihonryuu&mode=res&log=370
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我々は決して騙されない! (1080) |
- 日時:2013年05月15日 (水) 14時34分
名前:信徒連合
雅宣(自称)総裁著のこの新刊「生長の家ってどんな教え?」は、開祖・谷口雅春先生の本当の『御教え』の全相を語るものではありません。
ハッキリ言えば、宗教本来の使命である人間の病悩苦の救済を放棄し、国家の存在の重要性を取り上げてはいないからであります。また、開祖・谷口雅春先生はずしを目的とする本であります。
よって、正確には「雅宣教ってどんな教え?」であります。「雅宣教」への誘導洗脳本であります。
不適切・不合格本です。信徒の皆様、反日思想家である雅宣(自称)総裁にウッカリだまされないように致しましょう。
以上の理由により再掲示を致します。
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