生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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<転載> 尊師の高弟に学び、後に続こう!! ――三大弟子・服部仁郎、吉田國太郎、山口悌治師を語る――「谷口雅春先生を学ぶ会」代表 中島省治 <第一回>・<第二回>・<第三回>  (2345)
日時:2013年10月25日 (金) 11時41分
名前:信徒連合


尊師の高弟に学び、後に続こう!! 

――三大弟子・服部仁郎、吉田國太郎、山口悌治師を語る――

「谷口雅春先生を学ぶ会」代表 中島省治 


<第一回>



■ 高級霊波に曳(ひ)き寄せられる

「勇将のもと弱卒なし」、古来、宗教・学問・芸術・政治・武道・・・各界第一級の秀れた人(開祖)のもとには、波長の合う方霊の導きにより、自ずと師を慕い、師を求める人が集って来た。

谷口雅春先生の場合、長詩「野の百合の生きる道」に深刻に表現されている師の「求道と伝道」の峡(はざま)、「絶大な使命感と現実との乖離(かいり)」に懊悩(おうのう)せられる中で、「今起て」の神啓のもと、全くの0(ゼロ)から発進された尊師の人類光明化運動に、高級霊集団の導きか、尊師のオーラに曳き寄せられて、錚々(そうそう)たる方々が、神もよおしに次々と尊師の周りに集ってこられた。

宗教界では師弟それぞれが集団を成し、弟子の間に序列ができたりして来た。釈尊の十大弟子、キリストの十二弟子。また各流派・宗祖のもとにも同様であった。

生長の家では、特に、そのような格付けは文献の上には見られない。山口悌治元理事長の追善供養祭鎮魂祭(昭和53・7・22日)の引導文(谷口雅春先生)の初めに「・・・昭和十年の秋より本部講師として吉田国太郎、杉浦慶一君等と共に三羽烏の一人として・・・」とある位ではなかろうか。それらの方の中で筆者が副題の三氏を掲げた独断の理由については後述する。



■ 初期直弟子の種々相

生長の家創立初期の二十年間、筆者は全く御縁なく『生長の家三十年史』の三篇の座談会等により知るのみである。陸軍主計中将 辻村楠造(つじむらくすぞう)師の、年長ながら羽織(はおり)・袴(はかま)で尊師の側に控えておられる姿には感服するのみだが、昭和十年代活躍された側近の弟子のうち、秋田重季(あきたしげすえ)、清都理門(きよとまさかど)、中嶋与一、中林政吉、吉田國太郎、服部仁郎(本名 仁三郎)、山口悌治(やまぐちやすはる)師は戦後も長らく最高幹部としてそれぞれの役で活躍され、筆者もいろいろな面で接触、ご指導を頂いた。

田中静壹(しずいち)陸軍大将の難病を救った中嶋元総持(理事長)は「光の泉」編集担当時代、相談室解答者として、又単項本『光明生活の手引』の作成で自宅(後に病床まで)に伺った。同姓のよしみで、信徒さんから、私を息子かと問われて肯定され、読者から間違えられ、当惑し、先生に申し上げたら磊落(らいらく)に「ああ、訊(き)かれたから、そうですと応えたよ、アハハハ」と言われた。ハワイ駐在から帰国後、アロハ姿の先生と新宿の街中で出逢った。(因みに師の長男 逸平(いっぺい)氏の没後、谷口雅春先生から世界聖典普及協会理事の後任に推挽(すいばん)された)

中林師には終戦直後の元旦、お山での祝賀のあと、九州から日本教文社編集部に奉職のわれわれ若者三人を山口編集長と共に自宅に招かれ、楽しい気分にならせて頂いた事は忘れられない。昭和49年(別府正大・西川清明)日本を守る会創立のとき、民族派文化人との人脈の故か、編集担当専門委員として本部職員を差しおいて推奨されたが、何かと御縁は続いた。氏は渉外担当が多く、教団代表で多くの団体の役職につかれ、教団にとっては欠かせない特異な存在であられた。

秋田師は子爵。勅選貴族院議員ながら、辻村師と同じく和服姿でいつも尊師の身近におられた。戦後は日本教文社と隣接の元家庭光明寮(花嫁学校)の社会事業団理事長室に何回か用事で伺った。さすがに、雅楽で宮中行事にも参画された風格のある方であった。大山晶平、東山半之助、和田英雄、彫刻家の伊東種、中神学師・・・当時の教団には、社会的にも錚々(そうそう)たる方々が重きをなしておられた。

文書伝道――編集担当のおかげで、日に三度、お山(原宿隠田のお宅)へ伺い、玄関で、或いは書斎で谷口雅春先生に親しくご教示を頂いたり、急ぎの折は本部総裁室でお願いや本の装丁(そうてい)お伺い、カバー色校正をご覧頂くなど、ご無理を願ったことも思い出す。お山ご一家とは素よりだが、教団中枢の方の図書出版もあり、尊師の直弟子の方(徳久克己、菊地藤吉、楠本加美野、吉田武利師)とは関係団体の一員として、地方の方(長村婦美子、小林春恵、平岡初枝、有留弘泰、北尾巳代次、藤原敏之師)も含め、かなり多くの方と親しく接触し、生長の家の“全相の中のいろいろな面”を如実に見る(識る)機会を得たことは、他にあまり類のない望外の幸せであった。



■ 高弟に学ぶ

直弟子、高弟の方の生きざま、教団への貢献の実態は入信の機縁、その個性・才能などさまざまな特質により万般にわたるが、それらが生長の家教義・教団運動の全相の貴重な多彩な面を形成し、教団のスケール、幅と厚み、深みを形成している事に、改めて驚嘆する。もちろん三大弟子に限らずの事で、それがそのまま頂点に立たれる谷口雅春先生の存在感、偉大さを益々高めている事は言うまでもない。即ち、弟子方が真摯(しんし)に教えを理会し、受け継ぎ、それぞれの働きによって教団に社会に表現展開していかれた。教えの弟子の裾野(すその)に連なる私共が、多くの先輩方の真摯な生き様に学ぶ意義を強く感ずる所以(ゆえん)である。

思わず前置きが長くなった。現在の、と言うより昭和六十年以降の教団の輝きを失った、高級神霊=生長の家大神から見放されたかの如き実態を視(み)る毎(ごと)に、立教当初よりの高弟への想いが昴(たか)まり、新設の当会日本橋道場での挨拶で図らずも“生長の家三大弟子”の発言となった。そして独断ながらと、副題の三氏を挙げた次第である。



その概略――


● 服部仁郎氏については、極めて劇的な入信の機縁から、遺言を書かされた病床より起ち上がり、即、次ぎ次ぎと治病体験を演じ、病気を癒し、霊感第一と言われ、「主婦の友」誌の取材探訪記により一躍生長の家を広くPRされた。更に谷口雅春先生ご一家を住吉から東京に招き、(株)光明思想普及会の設立に貢献された。詳細については『今を生きる』を中心に後述する。(本誌109・110号)


● 吉田國太郎氏は谷口雅春先生が「弟子ながら先生と呼ぶ宗教的天才」と称された求道・篤信(とくしん)の直弟子で、最初の出会い、本部で開かれた「体験談=自身の悟り」を早速、翌日の東京・音羽の護国寺の『甘露の法雨』講義(第一回補い十年六月)で「からっぽの話」として紹介しておられる(頭注21巻30〜32頁)。如何に雅春先生が感動されたか、想像に余る。(右の30頁の一行目にある「昨日」及び護国寺講演の日につき、浦和の太田栄氏に調べてもらったが、当時の「生長の家」誌に記載なき由。吉田氏の本部奉職はその直後の筈だが不明。明治45年生で時に25歳)

難解、歯が立たないと言われながら不思議に版を重ね、新版・続巻まで出てロングセラーの『常楽への道』の書き出しは昭和14年3月(29歳)で、谷口雅春先生が講習会で何回も長々と紹介朗読された。また『維摩経解釈』の講義に吉田氏の話を引用された。求道・執筆のみでなく、講話・指導でも「吉田君は20万人を救った」と雅春先生に称された。(本誌84号)


● 山口悌治元理事長については、何故か「谷口雅春先生を学ぶ」誌に余り書いてないので、三大弟子として遜色(そんしょく)なき貢献の実態を新たに詳述する。

因(ちな)みに山口氏追悼記「明窓浄机」53年11月号に引用の、主治医小山伊松氏の手紙の末尾に「・・・誠にも山口先生は、完全に肉体の病癒えて、住吉大神様の御許に往かれたのでございます。流石(さすが)に尊師第一の高弟の尊いお姿と、合掌礼拝申し上げる次第でございます。以上」とある。(右92頁)“尊師第一の高弟”の表現をそのまま転載されたことは、尊師も認められたことと、筆者は独断に胸を撫(な)で下ろした。


神界では、位層が厳しく異なる由にて、現象界でのように、互いに親しく交流できないのか、或いは時空を超えて自在に、今も教えを乞(こ)い、研鑽を深めておられるか、凡人には窺(うかが)う由もないが、ともあれ“永遠に道を求める”は信仰者の最大の眼目である。ただただひたすらに!! 合掌(続く)

( 『谷口雅春先生を学ぶ』平成25年1月号より )




<転載> 尊師の高弟に学び、後に続こう!! ――三大弟子・服部仁郎、吉田國太郎、山口悌治師を語る――「谷口雅春先生を学ぶ会」代表 中島省治 <第二回> (2389)
日時:2013年11月01日 (金) 09時18分
名前:信徒連合





 尊師の高弟に学び、後に続こう!! 

――三大弟子・服部仁郎、吉田國太郎、山口悌治師を語る――

「谷口雅春先生を学ぶ会」代表 中島省治 


<第二回>



■ 山口悌治(やまぐちやすはる)氏と生長の家

谷口雅春大聖師の高弟としての生きざまを記すに方(あた)り、ヒラメキと言うか、フトあることが思い浮かんだ。「谷口雅春先生は、山口悌治氏をある時点から、あるときには身内=実弟のように想われた(ことがある)のでは・・・?」ということである。あくまで、丁度30年にわたる公私ともの厳しく親しい山口悌治氏との触れ合いの間での、氏の数々の発言の累積(るいせき)が、ヒョッコリ執筆の時点で浮かび上がった(結実した)全くの独断である。尊師に対する非礼極まる推測で、いま書きながらも大いにためらっている。

しかし、「聖使命」紙(昭和53・8・15)にある尊師が祭主となられての、空前絶後の盛大な本部主催・追善供養鎮魂祭、尊師が読まれた「氏の不朽(ふきゅう)の功績・不滅のロマンを賛える長文の引導文」(右「聖使命」紙および『中(みなか)のこころ』に全文掲載)、「生長の家」誌昭和53年10・11月号「明窓浄机」の切々たる行き届いた追悼文(ついとうぶん)(計15頁)。輝子先生も「理想世界」誌10月号に「山口悌治さんを偲びつつ そのころを語る」を書かれた。

更には山口氏のライフワークとも言える『万葉の世界と精神』前編への推薦文・・・。そして何よりも昇天の24時間前(7月15日)輝子先生とともに、長崎別格本山で採れた西瓜(すいか)を提(さ)げて東京・目黒の山口宅を見舞われ、枕頭(まくらもと)で聖経を誦(ず)され、西瓜を口に差し入れられ(末期・まつごの水か)、眠りに入った愛弟子(まなでし)の安らかな昇天を見送られた。

お山での出会いより、立教四十九年の四十三年の長い間、常に師の身近にあって、文書伝道の助手として、また組織拡充、運動展開に、師の意図されるところを的確に体して、運動方針十三か条をも創るに到り、理事長の現職として往生した縁(えにし)深い弟子。・・・それらの(他にも後述するが)数々を虚心(きょしん)に辿(たど)っていくとき、師弟の間の尋常一様では済まされない、唯(ただ)ごとならぬ師の深い深い山口悌治氏への思いやりをおもうとき、小生の独断を師は(輝子先生も)黙ってうなずかれるのでは、との甘えを抑(おさ)えられない。師は何ゆえに、これほどまでに山口氏に・・・。



■ 不思議な出会いと抜擢(ばってき)

三大弟子と掲げた服部仁郎・吉田國太郎両氏の聖師との出会いに比べ、山口悌治氏のそれは全く異例である。

直接の出会いは昭和十年、長文の手紙を本部に出され、秘書的に文書の選別をされる輝子先生が「これはぜひ先生に読んでもらわねば・・・」と渡されたことに始まる。(右「理想世界」)師は「この人は知っているよ。倉田さんの『生活者』の編集をしておられたんだよ」と十年前よりの認識を示された。

山口悌治氏も青年時代、師と同じく人生の真実を求め、苦悩し、左翼運動に走り、拘置(こうち)され、倉田百三氏の門を叩き、氏主催の「生活者」誌の編集に携わった。(それに、谷口雅春先生は大正15年6月号から昭和2年7月号まで「フランス美術家の心霊現象」を連載。氏は校正して感動している)後に姉より『生命の實相』を奨(すす)められ、奥付きに師の名を識(し)る。昭和9年12月に「生長の家」誌友となっている。その間、あらゆる職、辛苦(しんく)を経て、千葉の炭坑から前記の手紙となる。

右の手紙を読まれた師から即面接、採用となり、昭和10年8月6日から本部奉職、光明思想普及会入社となり、25日から選ばれてお山(師のお宅)で、師あての書簡の返事担当となる。そのときの「天にも昇る有頂天の悦び――山程ある把握できかねる問題を先生にご質問申し上げて、片っぱしから氷解(ひょうかい)させて頂くとの願い」は、「この三つのもの」の一として「白鳩」誌昭和26年5月号にある。(『中のこころ』58頁)

同年十一月一日、奉職三ヶ月で本部講師を拝命する(31歳)。立教六年目の本部組織や講師規定が如何になっていたか、知る由(よし)もないが、氏の才幹、信仰姿勢、人格が師の眼に適(かな)ったものと言えよう。12月5日、本部教化部に配属、吉田國太郎氏らと三羽烏(さんばがらす)の一人と謳(うた)われるに至る。

翌11年には九州派遣となり、福岡・長崎等で講演、11月には引導文にもある総合雑誌「いのち」創刊に関わり、編集長となる。その道程は、なぜか、大本時代の師の経歴とオーバーラップするが、思い過ごしだろうか。その間、「生命の教育」の座談会、「いのち」への執筆などあり、昭和15年3月に第二回小木(おぎ)虎次郎賞を受賞している。(詳しくは『中のこころ』略年譜参照)

山口氏の来歴を辿(たど)っていくと教団の歴史になりかねないので、要点に限るが、昭和15・16年に満州に派遣され、大東亜戦争末期には若い職員と同じく、徴用工として銃後の兵器担当に参加(動員)する。

敗戦により文書伝道の展開となり、光明思想普及会を改称した日本教文社常務取締役編集部長となる。(昭和22・10・10)。この間、社会事業団の設立に伴い募集された『世界光明思想全集』の翻訳員として採用された荒地清超氏が、山口氏のもとに編集部で勤務した。戦後出版の書籍第一号は昭和21年6月の右全集第一巻から四巻と『運命の原理』である。(因みに、三代目の雅宣氏が大学卒業前の昭和48年12月1日より“卒論も提出済みで登校の要もなく”とて日本教文社にアルバイト出勤することになり、書籍担当の第二編集部に属した。(翌年四月より正社員となり昭和50年末まで)部長は筆者(この人事は辻村彦次郎社長とお山との直接交渉にて決められ、専務・常務は全く関与せず、少々もめた。小生も唐突のこととて困惑した)。



■ (財)世界聖典普及協会の設立へ

占領政策は教団にも及び、谷口雅春先生が昭和22年9月執筆追放となられた。(日本教文社がG項の公職となり、要職にあった服部仁郎・辻村彦次郎両氏が同時に追放処分)

谷口雅春先生と日本教文社との関係は法的には“一人の著者と一出版社の関係”とされ、先生の著書以外のものも出版しないことは“先生を追放違反”と認めるとの注意もあり、「清水崑(こん)氏の漫画絵本」も出した(昭和23年6月)。

更に“ゲーテ・クーリエ他「世界文庫」13点、ユネスコ叢書、地球平和大系、K・A・メニンジャー翻訳三部作など、生長の家以外の外部出版を行い、編集部に加入した田中忠雄氏(編集部長を継承、後に教文社常務・本部理事・生政連会長・評論家)と協力して、追放処分に対処(糊塗・こと)して来た。この辺の状況は山口悌治氏の昇天後の昭和53年10月号「生長の家」誌に田中忠雄氏の「淳乎(じゅんこ)として淳なる魂」の堂々たる名文で、その苦衷(くちゅう)が記された。

こうして出版社創設の本来の目的は棚上(たなあ)げされ、ひいては谷口雅春先生と誌友(信徒)との魂のつながりが断ち切られるという事態が起ってきた。誌友=月刊神誌申込者の名簿は日本教文社にあり、一切の取扱いを本部ならぬ日本教文社が扱っていた。その出版社が谷口雅春先生と無関係となる状況打開のため、山口悌治常務と亀井潔人(かめいきよと)常務は昭和25年3月に部長を辞任して無任所役員となり、神の国寮(元家庭光明寮)の一室で新構想の研究に当った。

昭和25年8月号「生長の家」誌の法語に谷口雅春先生の「教祖に還れ」が示され、本部より清都理事長ほか四氏、日本教文社より北岡社長ほか三氏が委員となり協議を重ね、新組織の原案を得、昭和25年10月1日、(財)世界聖典普及協会の設立となり、教文社の教団関係の業務全般を世界聖典普及協会に移すことになった。(販売権の譲渡)

全ては尊師の意を体しての、師と信徒との文書伝道の道筋が、名実ともに一貫した本来の相(すがた)に立ち還った。山口氏の努力の成果といえよう。

山口悌治氏は昭和25年10月10日世界聖典普及協会理事に、昭和27年5月15日教団理事・教団編集部長となる。(つづく)

( 『谷口雅春先生を学ぶ』平成25年2月号より )










<転載> 尊師の高弟に学び、後に続こう!! ――三大弟子・服部仁郎、吉田國太郎、山口悌治師を語る――「谷口雅春先生を学ぶ会」代表 中島省治 <第三回> (2430)
日時:2013年11月08日 (金) 11時36分
名前:信徒連合




尊師の高弟に学び、後に続こう!!

 ――三大弟子・服部仁郎、吉田國太郎、山口悌治師を語る――

「谷口雅春先生を学ぶ会」代表 中島省治 


<第三回>



● 運動発進宣言を生き抜いた山口理事長

山口氏の高弟たる実態を綴(つづ)るに当り、公正を期するには、谷口雅春先生の「引導の真理の言葉」『中(みなか)のこころ』巻頭の「追善供養鎮魂祭における祭主(まつりぬし)の追善供養祭の詞(ことば)」に則(のっと)るべきとて、次のご文章に愕(おどろ)いた。


「汝命(なんじみこと)は病に斃(たおれたるに非(あら)ず。おのが内に燃やしつづけ来たりし、愛国の炎、人類救済の炎におのがじし焼き尽して、使命授けられるもの一切を完了し給(たま)へるがゆえなり。

病本来無の真理を、汝命(ながみこと)は肉体本来なしの真理と共に実証しつつ天命を完(まっと)うせられしなり。病と共に肉体をもかき消し、一切の恩讐(おんしゅう)、怨恨(えんこん)の世界から超脱せられ澄み切った高き霊界に進み行かれたるなり。

昭和五十一年六月理事長に就任し、教勢の拡大に腐心(ふしん)し尽され、この物質の法則の世界にてはその耐え得べき限界を超えたるが故の障害が法則として肉体上にあらはれたりしにすぎざるなり。

汝命(なんじみこと)は病魔に斃(たお)されしに非(あら)ざるなり。汝の不朽の精神力が肉体に休むことを赦(ゆる)さず、自ら鞭(むち)打ち、大神の御使(みつか)ひとしての自覚を堅持(けんじ)し、私の高弟としての矜持(きょうじ)を失はず、致心献身の誠心を捧げ尽して、教(おしえ)に殉(じゅん)じ切って命を燃焼し尽せしものなり」


谷口雅春先生は山口氏の昇天に接し、氏は正(まさ)に、創刊号記載の「運動発進宣言」の“自分の身体が燃え尽すまで、蠟燭(ろうそく)のようにみずからを焼きつつ・・・”を身を以て実践されたと認識されたのだ、と直感した。

右書七頁後半の右文の中に「燃やし、炎、焼き尽し、燃焼」の辞が実に六ヶ所もあり、谷口雅春大聖師の切々たる懐(おも)いを感じた。


右の引導文および右書巻末の略年譜、鎮魂祭の当日の案内栞(しおり)等により山口氏の高弟たる所以(ゆえん)を辿(たど)ると、生長の家運動史の再認識になる。

服部仁郎・吉田國太郎両高弟と別の面の独自の働きとして、われわれ後輩――直弟子に<幾世代を経て>連なる者に参考となる。否、尊師の全相を具体的に識(し)る――接するよすがとなるのでは、とも思うのである。具体的には『中(みなか)のこころ』の二・三・四部に「神・国家・人間」「日本建国の理念と生長の家」など主な論文を掲載。



● 新企画功労賞一等受賞

本誌前月号の谷口輝子先生のご文章にもある本部会館落慶を機に、会館建設のためにつくられた“道場建設維持報恩会”の組織を聖使命会に組み替え、教団の財政的基礎を確立した。引導文にはそれを「汝命(ながみこと)の功績なり」とある(『中(みなか)のこころ』五頁六行)

山口氏は当時、29年3月14日、教化推進部長兼宗務部次長、九州教化総長となり、『生長の家五拾年史』によれば、「山口悌治(やすはる)理事を中心に『飛躍発展のための具体策』を原案起草し、八月に総合企画委員会に上程され、第二回全国代表者会議で『新体制』が発足」とある。隣保班の提唱、教化支部長制度実施にも参画している。

その後、11月22日の秋の記念日に「生長の家教団新体制の企画に当り、その顕著な功績が認められ」、前小見出しの功労賞受賞となった。氏の役職は27年5月教団編集部長、8月から谷口雅春先生ご巡錫(じゅんしゃく)随行(ずいこう)(32年まで)、28年1月初代新教連会長、34年8月、教化企画編集局長、第一次五ヵ年計画に尽力・・・など、教団の中枢要職(ちゅうすうようしょく)を歴任している。『生長の家三十年史』には二つの座談会に出席、二つの論文「生長の家の現代的意義」他を掲載している。正(まさ)に八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍、谷口雅春尊師の信頼もさこそと肯(うなず)ける。



● 運動方針十三か条を作成

『菩薩は何を為すべきか』尊師の「はしがき」三頁には「“人類光明化運動指針”と云(い)うのは『生命の實相』はじめ其(そ)の他の私の著書の中より、・・・菩薩行(ぼさつぎょう)の精髄を抜粋(ばっすい)して、それを数人の<編纂者>が文意を凝縮(ぎょうしゅく)し章句(しょうく)を練って十三か条にまとめたもの」とある。( < >印は筆者)

 引導文には「・・・常に光明化運動の根幹となる年次計画を立案遂行し、ついに“光明化運動指針十三ケ条”をもつくりあげ――」と氏を賛えられる。高級神霊の加護によるものか。目黒の「三方の壁の本に押し潰(つぶ)されそうな狭い玄関」で、執筆に呻吟(しんぎん)、奮闘していた姿をおもいだす。氏独特の息の長い文章である。(『中(みなか)のこころ』第四部に年次計画二篇あり)   (つづく)






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