生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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<転載> 尊師の高弟に学び、後に続こう!! ――三大弟子・服部仁郎、吉田國太郎、山口悌治師を語る――「谷口雅春先生を学ぶ会」代表 中島省治 <第四回>・<第五回>・<第六回> (2484)
日時:2013年11月15日 (金) 09時33分
名前:信徒連合


● “後嗣ぎに”と師は直感!?


尊師が山口悌治氏を“あるとき、実の弟のように想われたことがあったのでは”との、末弟子として誠に不遜大胆(ふそんだいたん)な推測を本欄二月号に述べた。次いで又々、高弟の一人と仰ぐ吉田國太郎氏について、あるヒラメキを受けた。それは、尊師は「あるときは吉田氏を教えの後嗣ぎと秘(ひそ)かに心中に想われたことがあったのでは・・・」である。異論はもとより予測する。しかし率直な直感として敢(あ)えて記した。そのヒラメキに潜在する根拠は幾つかある。(後嗣ぎとは、教団<法人>で言われる法燈とは別の意であり「捻華微傷」(ねんげみしょう)にみられる以心伝心(いしんでんしん)による、教えの神髄、霊妙な魂のひびきの伝達である。もとより当人一代限り。そして生長の家の法燈とは、尊師お一人で、尊師神界ご移行の後は、神示に第一の神殿とある聖典『生命の實相』こそが永遠不滅の法燈である、と筆者は以前より確信している)



● “空っぽの体験”を翌日講話


吉田國太郎氏が体験を発表され(おそらく赤坂の道場でと思われる)、初めて接する若い信徒の「空っぽの話」に、尊師は新鮮な感銘を受けられた(と推測する)。翌日、東京音羽(おとわ)護国寺における『甘露の法雨』講義に、その話を引用された。(『生命の實相』頭注版21巻29頁〜)

当時、吉田氏は25歳位である(師とは17歳ちがい)。もちろん、肉体的には幾つかの重症にとりつかれていた。しかし、活字で見る「空っぽの体験」の因(もと)となる吉田氏のぶっつけるような語り口の告白は、格別な迫力、訴えるものがあったに違いない。それ故にこそ、尊師は翌日すぐさま、講義に採り入れられた。そのとき、師は第一印象で“すでに”吉田氏の宗教的天才ぶりを見抜いていられたのでは・・・。



● 生前中に出版を!?


『常楽への道』の書き初めは、「そのままなる常楽」昭和14年3月(29歳)である。(氏は昭和10年に生長の家に奉職)終章「今此処天国光明三昧」(いまここてんごくこうみょうざんまい)は23年12月(38歳)である。實相を、絶対の真理をひたすら求め究(きわ)めつづける魂の発露(はつろ)、戦時下、つづいて空襲のもとで、また衣食住とも最低の戦後の状況下に、神“もよおし”そのままを書き認(したた)められた貴重な信仰随想が、当時として極めて稀(まれ)な上製本として日本教文社から敢行されたのが24年7月10日であった。尊師の聖典発行もまだ少ない頃である。

その間の特異な状況は本誌21年9月号に書いたが、尊師がその原稿の存在をいつお知りになられ、眼にされたか。そして出版の運びとなったか、又々推測で申し訳ないが、病身の氏を気づかわれる師は、出版事情最悪の中で、何とか弟子存命のうちに、その魂の結晶を公にしてやり度(た)い、愛弟子(まなでし)の修行研鑽(けんさん)に応える師のつとめ、とまで考えられたのでは・・・。尊師のお気持ちを忖度(そんたく)し、本の出来栄えを見ての、長年の出版担当者としての率直な感懐(かんかい)である。(これに連(つら)なる尊師の弟子へのご愛念は、山口氏の生前唯一の書『万葉の世界と精神』前篇に寄せられた推薦文にも明白である。師はその冒頭に、「・・・もう一遍、全部を通読して印象を新たにして感想文を書かせて頂こうと思って・・・校正刷りを読んで一層感銘を深くしたのである。・・・日本人全部に読んで貰(もら)いたいと思うほどである」と述べられ、具体的に克明(こくめい)に五頁にわたり紹介され、「本当の日本民族の精神の歴史を書くのに最もふさわしい人として私は山口悌治(やまぐちやすはる)氏を見出した」と最大級の賛辞を弟子に呈(てい)された。(本稿の詳細は山口氏を偲ぶ折りにゆずる。)



● 同信(どうしん)の回顧(かいこ)=髄一(ずいいち)の弟子


『生長の家三十年史』の座談会「生長の家の先師たちと初期の人々」(辻村彦次郎・中林政吉・山口悌治・東山半之助)で吉田氏について最も長く二頁近く語られている中で『常楽への道』について頁(ページ)の四分の三にわたり五氏がこもごも感想を述べ、率直に賛(たた)えている。

「ほんとうに純な詩情、吉田迦葉尊者(よしだかしょうそんじゃ)。反俗の精神、生活態度を一貫した。本当に谷口雅春先生のお弟子らしいお弟子。随一じゃないですか。深く入っていてとても到底及びがたい深さ。第二、第三の吉田國太郎氏が出て来てくれることが本当に大切なこと。素直に吉田さんが吉田さんを出している文章がいい」

尊師のお膝(ひざ)もとで倶(とも)に修行し生活した同信のこえは尽きない。羨(うらや)ましい限りの高次元の信仰集団、いま何処(いずこ)にありや?!



● 弟子の書を長々と朗読


『弟子像』という大著(A5版564頁)を短い生涯の中で書き遺した榎本恵吾(えのもとけいご)氏は、六人の尊師の弟子の三番目に吉田國太郎先生を、72頁にわたり体験を交え、述べている。

その「はじめに」に「求道(ぐどう)の仕方を本当に学ばねばならなかった自分にとって、今までは尊師谷口雅春先生の御本を読ませて頂くこと、それは神から与えられた聖典であるのに対し、それを如何にして受け、如何に求道するかということを指し示して呉れるために尊師(神)が私のためにおつかわし下さったのが吉田國太郎先生であり、『常楽への道』でありました。私はこの書によって、尊師の偉大なることを知らされ、生長の家の有り難さを知らされ、再び生長の家人としての生命をふき返して来たのである」と冒頭(ぼうとう)にある。

その『常楽への道』の一節(163頁)を尊師は昭和49年、日本武道館で朗読された。「絶対感謝の中で血を吐(は)くならば血を吐くことも結構である。血を吐きつつも絶対感謝にかえれば、眼(まなこ)の鱗(うろこ)は落ちて其処(そこ)に其(そ)のまま仏を発見する」。ここで尊師は朗読を止められ「本当に悟るとこれが言えるんです」と念を押され、この節「新地に生きる」の最後まで読まれた。

『『維摩経解釈』(ゆいまきょうかいしゃく)の中には、氏への思い出がある。(73・74頁)「吉田君は本当に“實相”を悟っていた」と。横浜の講習会でも「往相精進(おうそうしょうじん)の境を超えて」を荘重なひびきを以て朗読された。何たる光栄!!師がそれ程までに弟子の書に関心をもたれ、講話の中で読まれ“實相を悟った”と称さる・・・。“この師にしてこの弟子あり”と言うべきか、谷口雅春先生を学ぶ会同信の大先達“教えの後嗣ぎ”との独断を幾分でも理解して頂ければと想う。(つづく)


( 『谷口雅春先生を学ぶ』誌 平成25年5月号より )





<転載> 尊師の高弟に学び、後に続こう!! ――三大弟子・服部仁郎、吉田國太郎、山口悌治師を語る――「谷口雅春先生を学ぶ会」代表 中島省治 <第五回> (2536)
日時:2013年11月22日 (金) 11時10分
名前:信徒連合




● “弟子の祈り”に心配りの師


吉田國太郎高弟を語るに方(あた)り外(はず)せぬ話は、一幅(いっぷく)の名画の如き、お山(原宿の尊師宅)の庭(畑)における尊師と、離れの部屋で祈る吉田氏の見えざる姿である。

その秘話は、昭和50年代の秋の総本山大祭に招待された本部理事夫人(未亡人)と帰りのバスで、吉田桂代(かよ)夫人より伺った。余りに奇篤(きとく)な逸話(いつわ)で公開すべきと思い、輝子先生ご生誕百年記念の『輝子先生を偲んで』に寄稿して頂いた。第三部第二章二番目「お山に住まわせて頂いた頃」の一節である。抜粋紹介する。

昭和二十年五月の東京空襲で焼け出された吉田氏夫妻は、お山下の宮崎邸の一室から、尊師に誘われ、お山の離れに仮住まいすることになった。八月から約二年間である。炊事は別ながら、お風呂は尊師のあと頂いていた。(その後、赤坂の元家庭光明寮・花嫁学校で社会事業団・神の国寮の二階に移らる)

当時(終戦後)今の本部新館のあたり、仮事務所の焼跡整理と畑仕事に、尊師ご夫妻をはじめ吉田夫妻、在京の講師四人で朝五時から七時まで働いていた。お山の庭も戦争中から全て開墾(かいこん)され、野菜など作られ、離れのぬれ縁にそっと置かれ、頂いたという。

本部が休みの木曜日も、尊師は朝食後、庭の畑で精を出された。吉田氏は、家の中で神想観。庭からよく見えていた。そのとき、輝子先生が洗い張りなどで大きな声を出しておられると、「今、吉田君が神想観をしているから、静かにしなさい」と注意された。師は庭で畑仕事、弟子は室内で独り神想観。存分に集注できるようにと、師は夫人に心くばり。

“この師にしてこの弟子あり”と言うべきか。おそらく他(宗教団体)に類のない情景ではないか。一幅(いっぷく)の名画と称する所以(ゆえん)である。吉田氏は祈り一途(いちず)の人であった。

赤坂に移られたあと、体調不良のとき、毎日のようにお山に伺い、谷口雅春先生から思念して頂いていた。氏は先生の枕を借りて横になり、師の招神歌を聞きながら、その間にいびきをかいていた、という。これ以上なく先生に可愛がられ、氏もまた存分に、子供のように甘えていた。何の“へだて”もない間柄=水魚の交りと言えよう。



● 玲瓏(れいろう)魂にひびく招神歌


吉田先生の短い生涯(昭和32年没・47歳)の中で、何回も聞いたことはないが、その招神歌の声調というか、響きは忘れ難い。谷口雅春先生の透(す)き通った張りとつやのある力強い声調とは別の、唇を微(かす)かに開いた透き通った(と思われる)、特に抑揚(よくよう)をつけぬ、坦々(たんたん)とした、すでに神と一つになり切った境地から流れ出るかと思われる、独特の称(とな)えごとである。如何にマネしようとしても及びつかない、只管打座(しかんだざ)の祈りの境地にして初めて発せられる“ひびき”と思わざるを得ない。正(まさ)に「神想観が神想観を神想観する」境地と一体なりと推察する他はない。



● 難解にしてロングセラーの謎?!


『常楽への道』が読み易いと言い切れる人は余り居ないのでは、と思っている。それなのに、早くより近影口絵入りの改装版が出たり、氏の講演カセットが発見されて増補版、更に「続篇」まで刊行された。歯が立たない、難解だ、と言われながら、不思議な魅力を持っている。他のお弟子さんの著書のベストセラーのようにとは言えないが、“米の飯”のたとえではないが、息長く、あきられず読まれている。企業人のファン(?)で、人にすすめるため継続して求められたり、隠れた愛読者は性、年齢を超えて全国に多い。

二十年ほど前、和歌山県から関西空港の一番発で五人で上京、吉田夫人の案内で墓参(千葉県あびこ市)、聖経読誦された愛読者もある。墓参と言えば、昭和三十年代、東京近辺の愛読者で常楽会通信を出したり、当時は筑波山麓の墓地へ大型バス一台借りて参加、若い女性が墓前でバイオリンを奏(かな)で供(そな)えたことがあった。『常楽への道』について語り合うことが、何よりも實相研鑽の悦びと自認する方々、大蔵省のエリート役人から元陸軍大尉、大きなレストランなどの経営者、インド哲学の研究者(婦人)・・・多彩であった。

東山半之助講師のご子息は「病床で右書ばかり読み、胸の上に置いたまま死んだ」と『生長の家三十年史』の座談会にある。(354〜369)歯が立たないがなぜか手放せない、魂の糧(かて)か!! 私事で恐縮だが、この数年、あれ程とりつき難(にく)かった右書が何故か、すっと、しみじみと素直に読めるようになった。吾れながら嬉しい限りだが、肩の力が抜けたのか、編集時代の頭デッカチの信仰姿勢から少しは卒業できた故か・・・。



● 實相直視(じきし)に100%徹した


尊師が湯殿(ゆどの)で滑(すべ)って倒れられ、背骨と肘(ひじ)を打ちつけられた話をめぐる吉田講師の話は『維摩経解釈』にあり(73〜74頁)、カセットテープにあるので有名だが、全身病におかされながら、十数年、病なしと奇蹟的な活動をつづけた氏について「實相を自覚すれば現象が成就し、真諦(さとり)が成就すれば世諦(このよのこと)が成就する」と尊師は書かれた。“谷口雅春先生を学ぶ”私共の大先達(だいせんだつ)の生きざまを、その結晶たる『常楽への道』を通して、聖典に取組み学ぶ弟子としての(求道の)姿勢の範(はん)としたい。如是(にょぜ)合掌


(「谷口雅春先生を学ぶ」誌・平成二十五年六月号より)




<転載> 尊師の高弟に学び、後に続こう!! ――三大弟子・服部仁郎、吉田國太郎、山口悌治師を語る――「谷口雅春先生を学ぶ会」代表 中島省治 <第六回> (2586)
日時:2013年11月30日 (土) 11時35分
名前:信徒連合



■ 最上級の追悼(ついとう)号

手もとに「聖使命」紙1115号がある。赤茶けたそれは昭和53年8月15日号、35年前の貴重な資料である。

第一面上段枠内に「永遠の祈り遺(のこ)し山口悌治(やまぐちやすはる)理事長逝(ゆ)く」と横一杯に大活字。下の写真が、壮麗(そうれい)な祭壇の前で祭主 谷口雅春先生が御挨拶中の「故山口氏の本部主催の追善供養鎮魂(ちんこん)祭」である。右下に、二階席手すりに飾られた全国教化部の献花を背景に満堂の参列者の写真もある。

一面中央に縦に「不朽(ふきゅう)の功績、不滅のロマン」の大見出しがあり、左半分に谷口雅春師の「追善供養の言葉」が七段にわたり掲載。(山口氏の遺稿『中(みなか)のこころ』巻頭に全文収録されている)その後、理事長が何人就任し、何人昇天されたか、「聖使命」紙にこのような紙面で追悼(ついとう)されたか、それ以前を含め、小子の記憶にない。(本部葬としては、谷田国次郎・宮信子理事。満中陰昇天祭として吉田國太郎・田口精亮・秋田重季・清都理門理事がある。『生長の家四十年史』)

「聖使命」紙編集兼発行人の一存(独断)で一面すべてを使い、最上級の敬称・賛辞をもって紙面を構成できるものではない。わざわざ長崎から上京され、祭主となられ、祭の全体にわたり配慮された<式次第を拝するに引導文、悟りの歌・御言葉があり、当日配布の二つ折りリーフレットには『万葉の世界と精神』前篇推薦文抜粋(ばっすい)がある>大聖師の深く篤(あつ)い慮(おもんばか)を承(う)けての紙面である。そのお気持に応える当事者(本部職員として故人の膝下で最後まで仕え、指導を受けた直接の部下)たちの骨身に感じていた故人の生きざま<尊師の弟子としての徹底した信仰姿勢>をより忠実に具体的に広報せねばとの、これ又、上司を通じて徹底して育てられた部員たちの、追悼(ついとう)の懐(おも)いの結晶でもある。



■ 尊師を「お父さん」と!!

先ず紙面右上の序詞(リード・イントロダクション)全文を転記する。
「荘厳な死であった。久遠のいのちの果てから、六字(ろくじ)の名号(みょうごう)を唱えるが如く、半ば開かれた口蓋(こうがい)には、あくまでも静謐(せいひつ)な永遠の祈りがあった。偉大な魂が生涯かけて、いのちをこめて愛した日本と日本人の何と雄渾(ゆうこん)にして限りなく美しいことか。その国のいのち人のいのちの奥儀(おくぎ)をお聞き下さった谷口雅春先生を故人はどれ程お慕いし、どれ程敬(うやま)って止(や)まなかった事か。偉大な魂をよく知り得るものは、又偉大なる魂のみである。今、比類なき至純の魂が、今生(こんじょう)の訣別に臨(のぞ)んで声ならぬ祈りに托(たく)して先生に言寄(ことよ)せたのは、生前決して口にはしなかったが、万感込めた『お父さん!』の一言ではなかったろうか。渾身(こんしん)こめた切々たる、いのちがいのちをいのちする粛然(しゅくぜん)たるいのちの讃歌ではなかったろうか。巨星遂に墜(お)つ。(後略)」小子は本誌125号で「尊師は時に故人を弟の如く」と推測したが、「故人は師をお父さん」と述べている。



■ 炎のような情熱と至誠

一面右半分には、上に横組みで「至誠の生涯 壮大なロマン飛鳥維新(あすかいしん)」とあり、縦に「一切者の自覚に生きて」との三行の見出しを如実に裏づける無記名の六段の「思い出の記」がある。冒頭に昭和29年頃の歌「火の如く燃え燃え燃えんあわれわが 五十(いそ)の生命(いのち)かなしと思わじ」を掲げているが、初めて眼にする絶唱である。そしてこの頃、『万葉の世界と精神』の全貌(ぜんぼう)、飛鳥維新の雄渾(ゆうこん)な全体像が故人の前に大きく開かれんとしていた。この歌に托した炎のような情熱とひたむきな赤誠とは、74年の生涯を通じて一貫して変ることがなかった。次の二首「さながらに太古の時の流るるか さきたたなみのみささぎを行く」「ただ行かない行きめぐらな高千穂の あの瀬この峰神ながらならし」も故人の心情が明確に偲(しの)ばれる。

小子も初めて接する故人の数々の歌を以て、飛鳥維新から万葉の世界へと到る故人の軌跡(きせき)を紹介する追悼文は、永年の編集作業や運動推進の企画打ち合わせなどの折々に、故人からしぼり出すようにして「もらされた想い」を裏づける、余人の書き得ぬ実に貴重な“本音”であろう。“一切者の自覚とは、一切の責任は自己にある、ということ” “中(みなか)の理念”も何十回となく聴いた懐(なつ)かしい言葉である。



■ 尊師の至上最大の思いやり

追善供養鎮魂祭の栞(しおり)を視て、その式次第の陣容の重厚さに改めて圧倒された。祭主は前に述べたが、副祭主 谷口清超先生(帰幽の神示)で、招神歌・祈願文・追悼の辞・執行委員長挨拶に、吉田武利・和田秀雄・黒河内潤・岩田安雄・中林政吉氏と本部正副理事長(現・既・未)五人が奉仕する。

その下に頁の四割近くに山口氏の著『万葉の世界と精神』の尊師推薦文の抜粋(ばっすい)がある。(18字42行756字)その一部はすでに本誌五月号12頁に記したが、この抜粋の中程に「自然の美を歌う詩人は自然を愛する人である、・・・それと同じく・・・何年に何が起こり、何年に何が・・・という出来事の記述だけでは・・・日本民族の精神の美しさの歴史とは言えないのである。・・・現象の出来事のその奥を流れる日本民族の魂の美しい動きを、感動をもって資料の中から感得し得て書きあらわす事ができてこそ、日本民族の精神の歴史である。そういう本当の日本民族の歴史を書くのに最もふさわしい人として、私は山口悌治氏を見出したのである」とある。

右著前篇の五頁にわたる推薦文は、実際に本文を読まれて具体的に引用され、文末には、「最も心を打った章」として、聖徳太子が勝鬘経(しょうまんぎょう)を誦(しょう)ぜられ、十七条憲法を制定されるに至るご心境と、その条章についての山口氏の透徹(とうてつ)した解釈、大化改新における中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の御心境の描写を「山口氏が詩人の魂をもって太子、および皇子の魂の中に貫き入り、魂と魂とが同一化し得てこそ、これだけの深い思い遣(や)りのある解釈が出来得ると思う」と述べられる。弟子としてこれ以上ない有り難き賛辞、最高の面目(めんぼく)である。それにしても、氏の性格からよくも思い切って師にお願いされたと、師弟の深い縁(えにし)(信頼関係というべきか)に、ただただ感服するのみである。



■ 實相観入の厳しい選評

詩人山口氏の話となったので、氏の遺著『いのちを詠(うた)う=歌壇選評』山口悌治選書に触れざるを得ない。本著は96頁に増えた昭和31年3月号の「生長の家」誌から始まった「生長の家歌壇」の選評と、採り上げられた歌のみをまとめたA5版330頁の本である。最近も四国の会員から「一読して感動、厳しいの一言、発行して下さって感謝、二読も三読もする本」との手紙に「昭和43年、河口湖練成会で山口先生のお話を聞きました。・・・『万葉の世界と精神』も読みましてビックリ、・・・読んでいるうちに鬼気(きき)迫るものを感じた。先生に会えて良かった」とあり、当日の参考資料「飛鳥維新と日本建国の理念」の表紙コピーを同封。45年前の感動を今に記憶“山口氏の究極の懐(おも)いが今に確かに生きている”と痛感した。ある教化部長からは「神・国家・人間――生長の家の歴史的任務」なるB5版タイプ印刷(昭和27・39年に「生長の家」誌に連載の二論文・64頁)の仮とじ本を頂いた。有りがたく、感無量である。

右著の巻末に“編纂責任者あとがき”として発行人の小子が「實相観入に肉迫する求道の表白(ひょうはく)」四頁を掲載した。本書の成り立ちとともに「谷口先生がね、僕の選評を読んで下さっているんだよ。『毎月、楽しみに読んでいるよ。なかなか面白いね』とおっしゃってね!」との氏から何回となくささやかれた内心の無上の悦びが端的に示すように、「22年一貫する厳しい選と、正(まさ)に火花の散るような、ギリギリの更に奥の随まで究(きわ)め尽くさずにおかぬ、歌を通して信仰の深化・教えの神髄(しんずい)に迫る求道随想の如き異色の“選評”」である。それは遺著の『中(みなか)のこころ』とは別趣の歌と同じく短い詩の中に詩人・求道者山口氏の75年の真骨頂(ほんね)を凝縮(ぎょうしゅく)した、集大成の観がある。谷口雅春先生が毎月期待されたのも宣(うべ)なるかと納得せらるる高弟の貴重な記念碑と言えようか。

( 「谷口雅春先生を学ぶ」誌 平成25年8月号より転載 )






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