[750] 正しい信仰 ― 天上天下唯我独尊の自覚 |
- 童子 - 2013年12月16日 (月) 11時27分
正しい信仰というものは、釈尊が尼蓮禅河畔で迷いを去って悟りのひらかれた時のように 「天上天下唯我独尊」 と知ることであり、キリストがヨルダンの河畔でサタンの誘惑を退けて自己の神性を知り 「われ神の子」 と宣言されたように、あなたも亦、 「われ神の子、天上天下唯我独尊」 と悟ることなのである。
この 「天上天下唯我独尊」 の自覚は、決して利己主義でも個人主義でもないのである。 自己〈自個〉の内に “独尊” の絶対価値をみとめるとき、はじめて “他個” の中にある “独尊” の絶対価値を見ることができるのである。 自己の内に絶対価値を見出し得ないような者が、どうして、“他個” のうちに絶対価値をみとめて、それを礼拝することができるであろうか。
「天上天下唯我独尊」 の自覚は、「有情・非情同時成道」 の悟りに連なるのである。 自分だけが “独尊” であって、他のものは悉く自分より下等なものであるというような “自己”中心的な “他個”軽蔑的なものの考え方は凡そ悟りから遠いものなのである。
“有情” 即ち “情(こころ)あるもの” も、“非情” 即ち “情なきもの”〈無機物〉 に至るまでも悉く、同時に “道” の現成であるということが 「有情・非情同時成道」 である。 “道(コトバ)” は天地に満つる “法(ほう)” であり、 「太初に道あり」〈ヨハネ伝〉の “道(コトバ)” であり、“法身の如来” であり、天地の理法であり、 “神” なのである。
かくして有情・非情を “法身の如来” がそこに姿を顕されものであるとして見るとき、天上天下唯我独尊の自覚は、何処にも傲慢のかげもなく、その独尊の絶対価値を天地の万物一切に見出して拝むことができるのである。
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