[292] 大楠公 『いのちの道』 |
- 童子 - 2013年06月08日 (土) 06時01分
光明掲示板にて伝統様が連載していられますが 谷口雅春先生の
昭和16年3月3日 大隈会館に於ける軍人遺家族慰安大講演会 『いのちの道』 より
楠正成公は明日湊川に出陣して戦死するということを自覚なさいました時に、兵庫の広厳寺に明極楚俊禅師と云われる禅宗の偉い坊さんのところにお出でになりまして、明日の覚悟をお聞きになったのであります。
どう言ってお聞きになったかといいますと、『生死交謝の時如何』 ―― 生と死とが交替する時にはどうなるのですか、 その時の覚悟を聞かして下さい ―― 斯う言ってお願い申上げたのであります。
そうしたら禅師の言われるのに 『両頭倶に截断すれば一剣天に倚って寒し』 ―― 両頭とは両方の頭であります。 両方の頭を倶にちよん切ってしまったならば一剣天に倚って寒しである、 斯ういう答えなのであります。 両頭即ち両方の頭とは 『生』 の頭(生きるという頭)と、死の頭(死するという頭)です。 生も死も両方とも一刀両断にスパリと切ってしまえば生も死もないのだ。
吾々は生れるとか死ぬとか、生きるとか死ぬとか云いますけれども、生れる前から生きているのが吾々の ‘いのち’であります。 死と生とが交代する時どうなるかなんて ―― そんなことを考える必要はない。 ずっと生れぬ前から生き通しているのが吾々の‘いのち’であります。
生れるとか死ぬるとか生きるとか、そんなことに引っかかっているから、死んでからどうなるか覚悟は如何? というようなことを聞かなければならぬというようなことになるのだぞ、その死ぬとか生きるとか、そういう両(ふた)つの頭をみんなちよん切ってしまったら、そしたら生以前の 『生』 死の後(のち)までも続いているその 『生』 があるのであります。
‘そこには’天地を貫くところの一剣、それは 天皇の大御‘いのち’であります。 天皇の大御‘ことのり’、宇宙を貫く真理のみがあるのであります。 天皇の大御‘ことのり’は 『明日湊川に出陣せよ』 と云われた。 兵法の大家であるところの楠正成公には、あんな寡兵を以てあそこに出陣したら必ず死ぬるのである、是はよく分っておったのであります。
分っておったけれども、楠正成公は決して 天皇の大勅(おほみことのり)に背くという事はしない、唯 『ハイ』 の心であります。 『ハイ』 の心というものが日本精神であります。 日本精神は無我の精神、何もないところの精神であります。
自分の 『我』 というものがない。 吾々は天之御中主神様の、宇宙大生命の‘いのち’を宿している。 天之御中主神様と天照大御神様と 天皇様とは御一体であらせられますから、その 天皇の大御勅のまにまに、そこに死するという時に、吾々は個人を超え、生死を超えて天地を貫く大御勅と倶に生きて行くと云う事になるのであります。 個人に死して天地を貫く死せざるところの‘いのち’、それを生きるのだ ―― それを自覚なさいましたのであります。
併しその時直ぐはそれが分らなかった。 そこで 『落処如何?』 ―― 落着く処はどこですか。 首を切ったり両方の頭を切ったら、どこに落着くのですか、落着くところはどこですかと云う意味で、『落処いかん』 と問われた。 そしたら 『喝!』 と楚俊禅師は一喝されたのであります。
その時正成公は釈然と真理が分った。 そんな死んで消えるような 『我(われ)』でないのだ、吾々の‘いのち’を 天皇の大御‘いのち’に帰一する時宇宙を貫いている真理が大御‘いのち’が私の‘いのち’なんだ、という事が本当に分ったのであります。
楠正成公はあの時に死なれたように見えているけれども死んでいらっしゃるのではないのであります。 『七度生れて国の為に報ぜん』 斯ういう風に被仰った。 七度(ななたび)生れてというのは七回のことでない。 七つは完成の数であって永遠に生きているという事であります。 永遠に生きておって、そしてみ国の為に私は死なないのであると自覚せられた。
今や日本の国に無数の楠正成公がいらっしゃるのであります。 皆さん一人一人の中に楠正成公の‘いのち’が生きているのであります。
若しあの時に楠正成公が湊川で戦死なさらないで 天皇の大御‘ことのり’に背いている方が戦略上好いのだ、というような意味で生きておったならば、それはその時何十年か余計に生きたかも知れないけれども、併し 天皇の大御‘ことのり’と共に永遠に生きることが出来なかったに違いないのであります。
然るに大楠公は 天皇の宇宙を貫いているその大御‘ことのり’と一つになって生きることが出来たからこそ、あの大楠公の‘いのち’が吾々の‘いのち’の中にも生きているのであります。 大楠公の宇宙の大御‘いのち’と一つになったところの生命(いのち)は今生きておってそして吾々の中に働いている。 今や百万の兵隊の魂の中に大楠公の‘いのち’は生きている。 百万どころでない、一億一心の中に、一億の大楠公と現れて、日本の国の為に尽されているのであります。
第一線に於てなくなられた人々の魂は、大楠公の魂と一つのものである。 『愛』 というのは互に一つだという自覚であります。 吾々は大楠公のことを思うと涙が自ら出て来る。 それは悲しみの涙であるか、否々悲しみの涙ではない。 それは喜びの涙であります。 恐らく第一線で失われたところの皆さんの家族、その家族のことをお考えになりまして、そして皆さんの目から熱き涙が溢れ出るのは、もう悲しみの涙ではないと思うのであります。 それはきっと喜びの涙である。 喜びを超えて宇宙と倶に生きているところの涙であると私は思うのであります。
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