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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱

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[298] 『信仰生活の暗黒時代を通過する道』
童子 - 2013年06月19日 (水) 04時16分


 『生長の家』誌 24年6月号より



         一。


 吾々が真理にふれる時、そして神との接触が行われたと自覚された時、凡ゆる方面に吾々の生活が輝いて来て、病は癒され、家庭は調和し、事業は繁盛におもむき、 「行く所可ならざるなし」 というような状態になるのが普通である。 そういう時にその人は信仰に熱がのっていて、所謂る「感激中」というような状態になるのである。


 所がその感激中は、そう長くは続かないのであって、所謂信仰の「干潮期」がやってくるのである。 最初に自分を感激せしめたその同じ真理が、今では一向自分を感激せしめないし、それに伴って自分をとり囲んでいる物質的環境も順調に行かなくなって色々の悩みやいらいらしさが現れて来るのである。




 ある場合には、自分自身又は家族の中に突然の病気が現われて来たり、愛する者との間に何か紛争が捲き起って来て耐えがたいような状態を演出することがある。 暗黒が自分の周囲をとじこめて、迷宮はますます迷宮に入り、再び真理の光を見る望みは失われ去ったようであり、ともすれば自暴自棄になろうとする。


 病気や周囲の不調和そのものの苦しみよりも、一度はあんなにも奇蹟を現わして、自分に輝く世界を見せてくれた真理が、今は何の効果もなく、この悩みを解決する力を失ったという事の打撃の方が、尚一そう痛切に感じられるのである。 もう拠り所がない。 もう掴むべき藁一筋もないというような、淋しい信仰の頽廃期である。




 かかる時吾々の魂は叫ぶ。 真理は無力なのか? 信仰は無駄なのか? 祈りはきかれないのか?  否、否、祈りはきかれているのである。 吾々はそれに対して信仰をもたなければならない。 ただぐらつきかけているのは自分の信仰だけである。 暗闇の中でも心臓は鼓動し、肺臓は呼吸して吾々を生かしている。 


 かように、真理は吾々の暗黒期の中でも有力に働いていてくれるのである。 祈りはきかれてすべてが順調に進んでいるのである。 暗黒に見え、逆境に見えている時にさえも、真理の種子はそこに成長し、祈りはそこに実現すべく働いているのである。 


 祈りによって蒔かれたる種子は潜在意識の暗黒の大地の中に蒔かれていて、そこに日光が射さないけれども、種子は次第にふくらみかけているのである。 そして、緑の小さい芽がその胚芽から成長し出でつつあるのである。 


 吾々は一旦自分の潜在意識に蒔かれたる真理の種子が、もう芽をふかないかと思って、掘りかえしてみるような愚かな事をしてはならないのである。 吾々が種子を目に見えない地面の中に植えつけて、その発芽するのを大地の力に任せてしまうかのように、吾々は祈りの結果を、祈りによって蒔かれたる真理の種子の成長を、神のみ手に完全に委ねて、神が “神の方法によってそれを適当な時期に適当な形で” 芽を出し茎をのばし、葉を拡げ、蕾をつけさせてくれるまで待たなければならないのである。 神に任せてこの待つ心のないものは遂に美しき花を見ずに終るかも知れないのである。




 一たん蒔かれたる真理の種子は、吾々が信念の欠乏から、掘り返してみない限りは必ず根を膨張し、必ず根を拡げ、必ず芽を出し、頭をもたげ、土を破るのである。 その結果は破壊と振動とがその周囲に起るのである。 それが起らないようでは、その祈りが効果があったというには足りないのである。 新しい大きな芽が頭をもたげる時には大地の周囲が破壊するのである。 かくて古きものは破壊し新しきものが現われるのである。 周囲に起る不調和と見えたものは吾々が祈り求めた新しき状態に移るために古き状態が真理によって爆撃されつつある光景にすぎないのである。


 これを吾々は 「迷いの自壊作用」 といって来たのである。 この自壊作用そのものの中に神が吾々の祈りに応じ給うた解答があるのである。 吾々はその変化の中に、擾乱の中に、不調和の中に、病気の中に、周囲の反抗の中に、祈りの実現しつつある過程を見て、感謝し得るだけの智慧をもたなければならない。 吾々に必要なのは形の世界がすぐに調和してしまうということではないのである。


 神の求め給うのは吾々の生命の進化であり、魂の発達である。 そんな擾乱の中に於いてすらも、その奥に神の智慧と愛との導きのあることを見得る所の魂の発達こそ、神が吾らに課し給うた所のものであるのである。 


 吾々は直ちに小さな 「現象の善さ」 を求める。 然し神はもっと立派な 「魂の善さ」 を与えようと欲していられるのである。 吾々が神の前にさし出す盃が余りにも小さいのである。 吾々はもっと大きな盃をださなければ神の愛と恵みを完全に受けることはできないのである。 神は吾々が形ある小さきものの成就を求めたのを契機に、形なき宇宙に拡がる魂の喜びを与えようとしておられるのであるということに気がつかねければならないのである。

                      〜 つづく

[299] 『信仰生活の暗黒時代を通過する道』 2
童子 - 2013年06月21日 (金) 04時48分


 もし吾々が凡ゆる方面に行きつまって何事も思うように行かないというような状態が信仰を得た後に、毎日祈っているにも拘らず現われたとしたならば、吾々は喜ばなければならないのである。 それは大地がわれる程の大きなものが下から芽をふきつつあるのである。 地面が動きだしたからといって、その地面の動きを征服しようと戦ってはならないのである。 またその地面を平らかにしようと鍬や鋤を加えてはならない。 吾々は驚いたり騒いだりしてはならないのである。 吾々は神に全托しなければならない。 神は 『神の方法によって』 吾が祈りにこたえ給うのである。 自分の我の心で 『神の方法』 を批判してはならない。 かかる時に於いて我らの祈るべき言葉は、


 『神よ、あなたの無限の智慧を以って導き給え。 神よ、この解決を貴方の方法にお任せ致します。 今起っている事件の意義を知り得る智慧を与え給え、そしてこの試みに耐えて、わが魂の発達致しますように』  というようでなければならないのである。



 もし吾々が、祈りにも拘らずそこに現われた不完全な状態と見えるものに対して、恐れ戦き、或は周章狼狽し、我の心でその状態を変化しようと努力するならば、折角 『神よ あなたの方法にお任せ致します』 と祈ったその祈りを、取消してしまうことになり、神の智慧に逆いて、我の智慧を行使することになり、結局、祈った事物の実現をおくらしてしまうことになるのである。


 祈りは我々が神のみ心に対して完全に任せきり、『神の方法』 に逆わなくなった時に、もっともなめらかに実現するのである。 然しこれは時として甚だ難しいことがあるかも知れない。 ある場合には、今迄かくも愛し、かくも恩恵を与えて来た相手が自分に反抗して立ち、自分に矛を向けて、小さな欠点を鵜の目鷹の目で探しだし、恩を仇で返すような仕打をしてくることがあるかも知れない。 


 そのような時に、普通ならば吾々は彼を恨み、自己弁護するために、彼と同じように彼の欠点を数えあげて相手に傷つけたくなるであろう。 然しそれでは決して神のみ心にかなうやり方ではないのである。 かかる状態が自分の目の前に現われたということは、自分の魂がそれによって磨かれて、かかる敵をすらも愛する力を、わが魂に実現せんがための、神の摂理であるのである。




 更にそれはあなた自身の魂を磨かんがための課題として現われた状態であるばかりでなく、恩を仇で返そうとしているようなその人の誤れる 『精神傾向』 が自滅せんがために一遍に爆発しつつあるのである。 我々の祈りが彼の謝れる 『精神傾向』 の火薬庫に焼夷弾を投げこんだのである。 焼夷弾は小さくとも、彼の潜在意識の蔵の中に貯えられている業の爆弾は大量であるのである。 だから彼は自分に対してはげしく反抗して立つかの如く見えるのである。 それをただの 『反抗』 であると思ったり、 『状態の悪化』 であると思ってはならないのである。


 それはただ真理の焼夷弾が彼の 『精神傾向』 の悪さを爆破せしめつつあるのである。 彼自身も何故そんなに反抗したくなるのか、意地悪をしたくなるのかその意味がわからないのである。 ただ内部から大きな力で揺り動かされるような感じである。 とめようと思っても内部から爆発してくるその力がとまらない。 もしあなたが、彼のその内部的な業の自壊作用を理解することができるならば、あなたは彼の反抗や、意地悪に対して同情することができるのである。 そしてその彼の感情の爆発の奥にある実相の善さを見て拝むことができるのである。 そして一そう彼を愛し、平和の心を以て彼に対し 『祈りはきかれつつある』 と自覚して感謝することができるのである。

                       〜 つづく

[306] 『信仰生活の暗黒時代を通過する道』 3
童子 - 2013年06月26日 (水) 11時08分

    
           二。


 祈りの反応として現われて来る不調和な状態の中には、時として自分自身が病気になり、時として自分の愛する家族が病気に罹ることがあるのである。 そんな時に祈りの効果を疑ってはならないのである。 それはむしろ祈りの効果が現われつつあるのである。 

 すべて古きものの破壊は新しきものの実現の場所を造りつつあるのである。 発熱の中に、発疹の中に、下痢の中に、古きものが燃焼しつくされ、排泄され、新しき組織ができつつあるのである。

 これは祈りの応答として、神があなたに病気を課しつつあるのではないのである。 肉体は魂の 『機関』 であり、精神の 『座』 であるから、発達せる魂が、尚一そう自由なる精神をその機関を使って働かせんがために、必要なる所の改造が行われつつあるのである。

 それは肉体の不調和の状態の如く見えているかも知れぬけれども、それは病気でもなければ不調和でもないのである。 魂の機関が、精神の座が、それによって浄められつつあるのである。 

 祈りの応答としてのかくの如き肉体の状態の意味を吾々が本当に知ることができるならば、吾々はその肉体の状態に対して、否、その奥に動いている所の浄化作用に対して 『ありがとうございます』 と感謝しなければならないのである。



 環境や周囲の擾乱に対して、それと戦うことを止め、それを 『迷いの自壊作用』 と認めて尚一そう相手を赦し愛する気持になった時に、速かに周囲に光明輝く状態が現われてくるのと同じように、かくの如くにして起った病気に対して、その病気の意味を理解し、それに感謝するようになった時、自分の病気が、或は自分の家族の病気が奇蹟的な迅速さを以て回復することがあるものである。

 『悪に抗する勿れ』 『汝をなやめ賽むるところの敵のために祈れ』 とキリストがいった言葉の真理が又ここにもあてはまるのである。

[309] 『信仰生活の暗黒時代を通過する道』 4
童子 - 2013年06月28日 (金) 05時55分


           三。


 吾々は他を赦すことによってのみ自分が赦されるのである。 旧約の救いは 『目にて目をつぐなひ、歯にて歯をつぐなふ』 自力の行によって行われたのである。 新約の救いは、キリストの愛と恵みによって行われるのである。 吾々は 『キリスト』 を通じて、過去に如何に多くの罪業があろうとも救われるのである。


 私のいう 『キリスト』 とは二千年前に生まれた肉体イエスのことではないのである。 キリストとは 『自己の内に宿る‘無限の赦す心’』であるのである。 キリストは 『七度を七十倍度赦せ』 といったのである。 『赦す心』 がキリストである。 我々が 『赦す心』 を自分の内に起した時に、キリストは自分の内に宿っているのである。 キリストは 『我は道なり、真理なり、生命なり』 といい、又 『我は扉なり、もし誰にてもあれ吾より入るものは救わるべし』 といったのである。 


 吾々が人を赦す時吾が内に真理が生き、生命が生き、キリストが生き、そのキリストの扉を通して、常楽の世界なる天国に入ることができるのである。



 吾々が、もし祈りの効果あらしめんと欲するならば、人を赦さなければならないのである。 もし吾々が一つの罪に対して必ず一つの報いを受けるという法則の世界に於いて生活するならば、吾々は決して赦される時は来ないのである。


 吾々は今迄自分が生活する為に無数の生きものを殺して来たのである。 もし一つの殺生を以て一つの殺生に報いられるというのであるならば、吾々は幾度死刑の執行をうけても赦されようがないのである。 かくの如く現象面から見るならば罪の深い深い人間なのである。 


 それが赦されるためには神の無限の大慈悲の中にとびこまねければならないのである。 然し神の無限の大慈悲の中にとびこんだ所が自分自身が 『赦さない』 固い心をもっている限りに於いて神の大慈悲の波長と、波長とが合わないのであるから依然として赦されないのである。



 吾々が心の中に 『赦し』 の念を起す時 『赦し』 の法則が自分の心の中に行われ、そこに自分に宿っている 『‘赦し’』(‘キリストの救い’) が実現するのである。 我々が深い信仰を以て赦しの言葉を心の中で唱える時、一切の罪の報いは消滅してしまうのである。 原因結果の法則を越えて救いの世界へ超入する道は、自分自身が 『赦し』 の心を起して、 『赦し』 なる神の愛と一体になる必要があるのである。


 もし吾々が如何なる罪を犯しておろうとも、真に自分が凡ゆるものを赦すことができる心境に達すれば、神の赦しの波長はそこに実現し来たて、自分自身が赦される事になり、自分自身が完全なる自由を獲得することができるのである。

[312]  《 法則と自由意志  吉田國太郎 》
童子 - 2013年06月29日 (土) 08時01分

           四。


 要するに 『我』 の考えや我欲によって動いている時に因難というものは来たるのである。 即ち神の法則を、神を智慧に導かれて正しい方向を使わずして誤った使い方をするのである。 そして神が吾々に幸福になるべく造ってくれた所の火の中に、手をつっこむに等しいような行動をとることになるのである。


 人間が幸福になる道は、『我』 を捨てることである。 『智慧の樹の果』 をすてることなのである。 キリストがいった 『十字架を負いてイエスに従う』 ことなのである。 『十字架を負う』 というのは 『我』 を磔刑にかけて、『我』 を抹殺してしまって、神のみ心に神の智慧によってすなおに従うことなのである。 そこから本当の平和が本当の智慧が湧き出てきて、人間は真の幸福に達することができるのである。


 
 キリストが第一最大の誡めとして教えたのは、『心をつくし、精神をつくし、魂をつくして汝の神を愛せよ』 という事であったのである。 次に彼が教えたのは 『汝の如く汝の隣人を愛すべし』 ということであった。 更に彼が教えたことは 『いと小さきものを愛するはキリストを愛するのである』 ということであった。 そして最後に 『汝た互に相愛せよ。 愛する所に春はいるなり』 と教えたのである。


 この四つの教えを連関させて考えて見る時に、神を愛するということは神の子である人間を愛することであり、いと小さき人間をも愛し得ないものは神を愛しているのではないということである。 吾々は自己の中に宿る所の 『神の子』 を礼拝すると共に、人々の中に宿る所の 『神の子』 をも礼拝しなければならないのである。



 パウロは 『神を愛するのは神を霊として愛さなければならない』 といったが、人間も 『神の子』 である以上はそれを霊として愛しなければならないのである。 吾々は時として、人間を愛する道を誤るのである。 そして彼を肉体として愛する。 そこに時としてまちがいが生じてくるのである。


 彼を見るのに肉体として見るのである。 自分の見るのに肉体としてみるのである。 わが子を見るのに肉体としてみるのである。 そしてそこに病気を見る。 そこに不幸を見る。 そこに困難を見る。 そこに肉慾や情欲を見、その慾を満たしてやりたいと考える。 これは相手を肉として愛するのであって 『神の子』 として愛するのではないのである。 それは決して人間の実相を見ないのであって、人間は未だかって、病まず、不幸にならず、苦痛をうけず、肉慾の欲望に支配されざる所のものなのである。

 

[319]  《法則と自由意志  吉田 國太郎》
童子 - 2013年07月03日 (水) 06時34分

         五。


 吾々の祈りがきかれない場合には、以上述べたようないろいろの原因が交錯しているのである。 まず第一に注意すべきことは、自分を或は自分の子供をその他すべての家族達を、神の子として、霊としてみているかを反省してみるべきである。 もし治らない恐怖心や、死の恐怖があるならば、それは人間を霊として見ていない証拠である。 霊は病もなく死もないからである。




 第二には、自分は誰かを恨んでいないか、憎んでいないかということを反省して見ることである。 時とすれば、もう記憶にも残らないほど誰かを憎んだままで赦していないで、そのまま忘却していることもあるのである。 できるだけ過去を記憶によびもどして、もし不調和な人があらばその人を赦して彼と和解する事である。 憎むべき原因、色々の争い等は、本来実相の世界には存在しないのであって、すべての人間は、皆善き人間ばかりなのである。 従って憎み恨みという事は結局根拠のないことだと悟って、すべてを赦してしまうことである。


 それには静かに坐して目をつぶり、目の中に相手の姿を思い浮かべその名前を数回となえて相手を呼びだすような気持になり、  『私はあなたを赦しました。 私はあなたを愛しています。 もし私があやまってあなたに気に入らないことをしていましたならどうぞお赦し下さいませ。 あなたと私とは神の愛の中に渾然と融けこんで互に一体でございます』  というような言葉を心の中で幾回もくりかえし、二十分乃至三十分間その思念に精神を集中し心の世界で相手と和解するのである。




 第三には、、吾々は業の観念から解放されなければならないのである。 過去に何か誤った業をおかしてその報いをうけなければならないというような罪の観念を捨ててしまうことが必要である。 多くの不幸病気災難等は自己処罰の観念の具象化として現われて事が多いのだから、自己処罰の観念を捨てなければならないのである。

 
 そのためには瞑目合掌神想観して  『神の光吾に流れ入り給うてすべての過去の罪と業とを浄め給うたのである。 今吾は完全に洗い浄められて、本来罪なき所の円満完全清浄無垢なる神の子に生れ変ったのである。 もう自分は如何なる罪の束縛も業の束縛をも受けることはないのであって、自分は自由自在である』  というような言葉を心の中にくりかえし念ずることが必要である。  

[333]  お詫びと訂正
童子 - 2013年07月12日 (金) 08時12分


 No.312 〔4〕
 No.319 〔5〕 を

 谷口雅春先生の 『信仰生活の暗黒時代を通過する道』 としましたが

 これは 吉田國太郎氏の 『法則と自由意志』 の 〔4〕節 〔5〕節 でした。

 

 本来ならば削除すべきですが・・・・・

 

[336] 『信仰生活の暗黒時代を通過する道』 5
童子 - 2013年07月17日 (水) 16時10分


           四.


 吾々が神の救いにあずかろうと思うならば、神と同じ心境にならなければならない。 神は完全なる善であるから、神は悪を感ずることができないのである。 それは丁度光は暗を感ずることができないのと同じことである。 


 吾々が悪を感じ得るのは、少なくともわが心の中に悪の波動が起るからである。 我々が、 『赤い色』 を感じ得るのは自分の心の中に 『赤い色』 の波動が起るからである。 赤色々盲に於いては、心の中に 『赤色』 の波動が起らないが故に、 『赤色』 を見る事ができないのである。 神に於いては、一瞬間といえども、『悪』 の波動が起らないが故に、神は吾々の 『悪』 を認め給うことは決してなく、従って吾々の悪を罰し給うこともないのである。 


 
 吾々が神の救いと完全に波長を合せようと欲するならば、吾々自身が神と等しく、一切の悪を認めない心境にならなければならないのである。 神は吾々の愛深き父であり、神の子たる人間の唯 『善』 のみを見給うのである。 その如く吾々人間も、すべての人間の内にある 『神なるもの』 『完全なるもの』 『人間の実相』 『内に宿るキリスト』 を見て礼拝しなければならないのである。 そこに如何なる悪と見えるものの前にも、それを見ない所の無限の赦しが生ずるのである。



 法華経に於ける常不軽菩薩はすべての人間を、 『仏なるもの』 として礼拝し、石で打たれさえも、更に相手を仏なるものとして礼拝したのである。 キリストは十字架につけられながら、一緒に磔にかかっている盗賊に対して 『次の日汝らは我と共に天国にてあらん』 といって悪を見ないで天国にいる神の子人間を見たのである。

[343] 『信仰生活の暗黒時代を通過する道』 6
童子 - 2013年07月24日 (水) 21時28分

         五。


 人が罪を犯したが故に、神に跪いてその赦しを求めるのであるが、罪とは果して何であるか。 罪とは実相に対して目をつぶっていることであって、それは眼をつぶった目に光の存在しないと云うことにすぎないのである。 それは罪という実物が存在するのではなくして、光に対して目をとじていることだけの消極的状態にすぎないのである。


 吾々は唯目を開けば好いのである。 ただ赦せばいいのである。 余りに赦す心なく、心のレンズを絞るから光が入らないのである。 自分自身の心を小さく絞ることをやめよ。



 祈りは、結局想いであって、心の中に想い浮べた通りが形に現われてくるのである。 人に対して憎みながら、 「幸福が来ますように」 と祈ることは雑草を蒔きながら 「米を刈りとらせて下さい」 と祈るのと同じである。 我々が人を憎めばその憎みが自分に戻って来て刈りとられるのである。 


 吾々が肉体を大切にしないならば、肉体は吾々を大切にしないであろう。 吾々が金銭を大切にしないならば、金銭は吾々を大切にしないであろう。 吾々が人間を大切にしないならば、人間は吾々を大切にしないであろう。 吾々は、与えた所のものが与え返されるのであるということを知らなければならない。

 吾々がある人を傷つけるならば、その報いはその人からかえって来ないことがあるかも知れないが、他の人から同じような害を与えるようにかえってくるのである。 吾々が甲に対して出し惜みをするならば、乙は私に対して出し惜みをするであろう。



 このようにこの世界は原因結果の法則に支配されているのである。 憎みや、怒りや、復讐のパイプを造って置いて、そこから平和や喜びや、幸福が流れこんでくると考えてはならないのである。 人から奪うような方法によって、富んで見ても、その富は又人から奪われるか、そうでなければ他の方法でその人の幸福は奪われるのである。



 多くの富める人の生活につきまとうものが、家族の病気や、家庭の不調和や、団体と団体との面白くない葛藤等によって起る不幸であるということは、その富が人から幸福を奪うような部分があるからである。  人の幸福を奪うものは、又自分の幸福が奪われるのである。



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