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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱

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[604] 『生長の家』 昭和25年9月号法語(1)〜(30)【完】
明鏡 - 2013年10月11日 (金) 11時57分



『 生長の家 』 昭和二十五年 九月号 法語(1)〜(30) 谷口雅春先生




25-9  一日の法語  人間は奴隷になってはならぬ


聖者たるものは言葉の手品に惑わされてはならないのである。

聖者は言葉がただの空気の振動に過ぎないことを知っているのである。


聖者は人の毀誉褒貶(きよほうへん)の上に超出しなければならない。

なぜなら自己の生命の本質が「神そのもの」であることを知っているからである。


俗世間の毀誉褒貶は、彼ら自身が、わが実相の完全円満なることを見る力がないことを

みずから表明しているに過ぎないのである。


他(ひと)によってうごかされるものは奴隷である。奴隷のみが世間的名誉を求めるのである。



25-9  二日の法語  実相を語らない言葉は只の振動である


人が自分を悪しざまに批評するときは、それは神のコトバで無いことを知れ。

神のコトバは必ず善きことのみを語るのである。

悪しき言葉は迷いによって引き起されたる只の空気の振動に過ぎないのである。


悪しき言葉を聴くときには次の如く心に唱えるが好いのである。

「彼は憐(あわ)れなる者である。彼は言葉を浪費することによって自己のエネルギーを浪費し、

自己の魂を汚しつつあるのである。自分は決して斯くの如き実相を語らない言葉によって

動かされる事はないのである。実相を語らない言葉は単なる空気の振動に過ぎない。」



25-9  三日の法語  唯、善き言葉のみを語れ


吾らは苟(いやしく)も言葉を語るならば、善き言葉を語らなければならない。

苟も言葉を語るならば誰かを幸福にする言葉を語らなければならない。


人を傷け、人を悲しませ、人を憤(いか)らしめるような言葉を語ってはならない。

人を軽蔑(けいべつ)する言葉を語ってはならない。怒気を含んだ言葉を語ってはならない。



「世の中に軽蔑さるべきものは存在しないのである。唯、軽蔑すると云う心のほかには。」と

知恵の言葉に書かれているのである。


吾等が唯、優しき言葉、愛の言葉のみを語るとき、其処(そこ)に天国が実現するのである。




25-9  四日の法語  聖者は言葉の音楽で人生を飾る


言葉も動作も優美でなければならない。美は調和であり、音楽である。

すべての人の言葉と動作が調和ある音楽を奏でるようになったとき、

其処に天国浄土が実現するのである。


実相に於いては人間はすべて完全であるのである。


聖者は言葉を慎みて悪しき言葉を使わないが、世俗の人はみずからを高くせんとして相手を侮辱又は

見下した言葉を使う。その結果却って自分自身が侮辱せられ、又、わざわいを招くのである。


実相を表現するものも言葉であれば、実相をくらますのも言葉である。




25-9 五日の法語  奴隷にならぬ方法


位置を欲するものは位置の奴隷となり、女を欲する者は女の奴隷となる。

食を欲する者は食の奴隷となり、金を欲する者は金の奴隷となる。

名誉を欲するものは名誉の奴隷となり、酒を欲する者は酒の奴隷となる。


奴隷は自由を得ることは出来ないのである。


吾らは如何なる者に対しても其の奴隷的状態から超出しなければならぬのである。

人間が如何に民主主義の世界を求めても、自分自身が奴隷である限りは、

制度はいくら変っても奴隷であるのである。


制度のことは政治的天才にまかせて置け。

人間が奴隷的心境を脱したとき彼はどんな制度の下にも自分が自分の主人公となる。




25-9 六日の法語  事物の真相を知れば恐怖はない


人生の問題は若(も)しその因って起るところの原因が明瞭になるならば、

それは容易に解決することが出来るのである。


問題を未解決にし、取越苦労や恐怖心にみたされるのは真相がわからないからである。

真相がわかれば恐怖すべきものは何物も存在しないのである。


第一に吾等が知らなければならない真相は、吾々の想念と云うものが自分自身の心の快不快を

変化すると同時に、自分を取りまいている環境、人間、供給、境遇、位置などを変化すると

云うことである。これが真相である。



25-9 七日の法語  先ず心を幸福にせよ


吾々の想念感情が先ず幸福にならなければ吾々の住む世界は幸福にならないのである。


貝類は自分の分泌する液によって、自分の肉体の棲(す)む貝殻を造るかのように、

吾々は自分の分泌する想念感情によって自分の住む環境をつくるのである。


吾々は旅行するにも、その旅行を最も楽しきものにするには、旅行案内書を見て、

どの行路をとるのが最も良き景色であるかを知らなければならないのである。

そして、旅行地のどの点に心を注いで鑑賞しなければならぬかと云うことを知らねばならぬ。



25-9 八日の法語  人間の霊的解放


先ず吾々の知らなければならない事は、「 自分とは何であるか 」 と云うことである。

自分を「物質」だと知る限りに於いてその人は「物質的存在」としての制約を受けるのである。

そして自分を霊的存在として自覚し得た程度に随(したが)ってその人は解放され、

自由を得るのである。


「人は自己の信ずる通りのところのものとなる」のである。


宗教は病気治しでも家運隆昌術でもないが、「 自己とは如何なるものか 」 を知らしめる結果、

人間が霊的に解放され、その随伴的効果として家運隆昌も起れば肉体の健康をも得られるのである。



25-9 九日の法語  人生の目的は何であるか


宇宙の一切、随(したが)ってまた人間の生命も神より生じたるものであるから、

自分自身の生命を見詰めると云うことは結局、神を知ることになるのである。


兎(と)も角(かく)人として生れた以上は、「 何が 」 「 何のために 」 「 如何なる理由で 」

「 如何にして 」 地上に生れ出たのであるかを知らなければならないのである。

それを探求することは結局、「 人生の目的は何ぞや 」 の問題に触れるのである。


しかしそれを研究するには 「 心 」 とは何ぞやの問題を解決しなければならぬ。

人生の研究も結局、心によって行われるからである。



25-9 十日の法語  「心」とは何であるか


「 心 」 とはこれを 「 意識 」 とも云い、ものを感ずるところの働きである。

それは自分の存在することを知り、自分の環境を知るところの働きである。


「 意 」 は欲する働きであり、自己の存在を自證(じしょう)するのである。

「 識(しき)」 は外界を知る働きである。


「 意思する自分 」 があることは自明の事実であってそれは証明を要しないのである。

その 「 意思する自分 」 が何がゆえに外界を識(し)ることが出来るのであろうか。


それは内界と外界とが 「 本来一つ 」 のものであり、その波動を一つにするものであるからである。


然(しか)らばその 「 本来一つ 」 のものとは何であろうか。それは物質か、心か?




25-9 十一日の法語  物質より心が先である


物心一如(いちにょ)的立場から云うならば、事物の根元は 「 物質 」 であると云うのも、

事物の根元は 「 心 」 であると云うのも一如(ひとつ)であると云うことになる。


しかし、「 物質 」 と云うものの概念は、「 知性も感情もないものを物質と云う 」 意味に於いて

考えられているのであるから、物心一如と云うことは 「 知性も感情もない物質 」 と

「 知性も感性もある心 」 とは一如と云うことになる。


こうして物と心とが一つであれば、どちらが先なのであろうか。


「 知性も感性もある心 」 を高位とし、「 知性も感性もない物 」 を低位としなければならない。


高位のものは内に低位のものを含み得るが低位のものから高位のものは生れ得ない、

従って、心は物質に先立つのである。



25-9 十二日の法語  形よりも理念が先立つ


ダリヤの花はその球根から生ずるが、「 花そのものの形 」 は球根と云う物質に

あるのではなく、球根の奥にある霊的世界にある 「 ダリヤの花の理念 」 から

生ずるのである。


理念又は霊は、物質の形に先立つのである。


イエスの理念は、肉体イエスに先立って存在したのである。

だからイエスは 「 アブラハムの生れぬ前(さき)より我はあるなり 」 と

云っているのである。


物質より前に理念があるのである。


素粒子が如何に排列して或る種の物質になるかは、法則によるのである。

そして、法則は知性(心性)である。



25-9 十三日の法語  肉体は人間ではない


普通の人間は肉体の脳髄がものを考え、感ずるのであると考えがちであるけれども、

肉体はただ意識のラジオ・セットにすぎないのである。


脳髄にどんな打撃が加えられようとも、肉体のどの部分に故障が起ろうとも、

意識の主体たる人間そのものは 「 神の子 」 だから何ら破壊せられることなく、故障が起ることなく、

ただ毀(こわ)れたラジオ・セットに音波が起らなくなるように、その肉体は音無しくなるだけである。


眼が傷(きずつ)いたら、人間はその眼を通して見なくなる。

脳髄が傷いたら人間はその脳髄を通して考えなくなるだけである。



25-9 十四日の法語  苦痛は人間が苦しむのではない


眼鏡(めがね)が毀れたので、人がその眼鏡を使わなくなったらもうその人間は

死んだのだと考えたら間違である。眼鏡が毀れた後も人間は生きている。


その如く肉体が傷ついた場合に痛みを感ずるのは、「 人間 」 の道具である肉体の

故障を告知して、その修繕作業を内部からも外部からも営(いとな)ましめるための

信号なのである。人間そのものが苦しんでいるのでも何でもないのである。


若(も)し、この故障を告知する 「 苦痛 」 の感じがなかったならば、

吾にはどんなに出血していても手当を加えることなしに全身の機構が壊滅に

帰してしまうのである。



25-9 十五日の法語  人間は神から生れた


物質はただエネルギーが想念の影響を受けて凝縮し、それが形をあらわしたものであるから、

本来の相(すがた)はないのである。


本来ない姿が仮にあらわれているのであるから、それは無常なるものであり、常に間断なく

変化するものなのである。


かかる無常なるものから 「 神の子 」 たる人間は生れて来ると云うことはないのである。


だから 『 生命の實相 』 の実相篇には 「 未だ曾(かつ)て人間は女の子宮から生れて出たことが

ない 」 と明瞭に断言してある。


人間は神聖受胎であって神から生れたものである。




25-9 十六日の法語  人間は全人類一体である


人間は神より生れ、神の中に住み、神の生命を食し、呼吸し、永遠に死なず病まざる霊的実体である。

神は宇宙生命であり、「 渾(すべ)ての渾ての一体 」 であるから、人間もその実相に於いては

すべての人間と共通の生命を有(も)つのである。


すべてのすべてと一体である自覚を 「 愛 」 と云うのである。

すべての人類は神に於いて兄弟姉妹であるのである。


愛にそむいた思いや行為が病気を引き起すのは、自己の生命の本質を破壊する思いで

あるからである。


渾てに一体である生命を自覚して愛を尽せば病いは治るのである。




25-9 十七日の法語  本能は道具に過ぎない


人間は物質に支配されたときには、本当に健全なることは出来ないのである。

物質は想念の反映であるから、反映を実在と思って、それに対して一喜一憂しているようなことは

想念は、益々動揺するから、その想念の反影である現象の姿は益々悪くなるのである。


人間は物質を支配したとき本当に、自分が主人公になることが出来るのである。


それには物質を心の前に出しゃばらせず、心をもって物質を支配しうるよう心掛けなければならぬ。

本能に支配されてはならない。本能を支配すべきである。

食色の本能は霊の利用する道具であって、霊によって支配すべきである。



25-9 十八日の法語  人間は遍照金剛の霊的実体である


物質、肉体それ自身は、認識の形式の銀幕(スクリーン)上に映っている影である。

映画にうつっている人物に生命はないが如(ごと)く、肉眼に見えている肉体人間そのものは

実在でもなければ、生命もないのである。

肉体は自分ではなく、その奥に本当の自分(霊的自分)があるのである。


「 霊的自分 」 は 『 甘露の法雨 』 に書かれているように 「 神より出でたる光なり 」 であって、

光輝燦然(さんぜん)、遍照金剛(へんじょうこんごう)の存在である。


その光の前に想念のフィルムを回転して表現されているのが肉体人間なのである。

それは一種の映像であり、本当の自分自身ではないのである。




25-9 十九日の法語  人間の病気は幻である


肉体人間は単なる映像であるから、失うべき生命を持っていないし、

実相人間は霊的実在であるから死ぬ事はないのである。


従って肉体の方から云っても、霊的本体の方から云っても、人間は結局、病気になったり死んだりする

ものではないのである。だから人間の病気や死は結局 「 幻 」 に過ぎないのである。


それは人類の群衆意識中に存在する観念によって、共通に催眠状態にならしめている人々の心に

描かれた 「 幻 」 に過ぎないのである。 「 幻 」 を見て、病気を実在と思ってはならない。



25-9 二十日の法語  問題を掴(つか)んではならぬ


神は渾(すべ)ての渾てであり、神は善であり、随(したが)って、

すべて悪は存在しないのであると知る。


それを知ったとき歓喜勇躍し、あらゆる事物に光明が充満しているかの如く見えたのに、

いつかそのインスピレーションは消え去り、現象が暗然として真暗がりの姿をあらわす。

いくら真理の本を読んでも、神想観してもその暗い現象の影は消えない。


それは何故であろうか。

それは問題をつかまえていて、「 問題 」 の中へ神を押し込んで働かそうとするからである。

問題を放して神のみを思うとき、はじめて光明の想念が力を発揮するのである。




25-9 二十一日の法語  神のみの世界を見よ


問題を人間知慧で解決しようと云う努力を止めよ。

神のみが全てであり、神は善であり、愛であり、生命であり、供給であり、

それに既に抱かれていると信ぜよ。


肉体の眼をとじて、五官の世界に起っている問題を思わず、問題を解決しようと思わず、

ただ神の愛につつまれて既に善であり幸福である世界を想念せよ。―

こう想念して問題を解決しようと考えてはならないのである。


イエスは何か問題に面しても、その不完全のところを突止めようとしなかった。

ただ 「 病いなき 」 を見たのである。そして 「 起ちて歩め 」 と云ったのである。



25-9 二十二日の法語  現象の悪を追求してはならない


誰が悪いであるのか、何が悪いのであるか。悪の原因はどこにあるのか。

こうして物質的に悪の原因を追求してはならない。


物質的に悪の原因を追求すればするほど、悪を心に描くがゆえ、

それが心的原因となって、悪が一層多く現象化して出て来るからである。


悪を探求する心を捨て、問題と格闘する心を捨て、しずかに実相の完全な姿を

観ずるようにしたとき、心の中にある「問題」が消えて行くから、

現象の世界にある問題も次第に消えて行くのである。



25-9 二十三日の法語  神の善と愛とを一層長く想念せよ


あなたの子供に何か起ったとせよ。それは屹度(きっと)あなたが子供について

「心配」したことがあるに相違ないのである。


その「心配」の時間や度数と、あなたが神に対して心を振向けた時間や度数とどちらが

多かったかを考えて見ると好いのである。


屹度、あなたは神を思ったよりも心配の方を度々又長時間思ったにちがいないのである。


若(も)し子供についての心配の時間よりも、神のつくり給いしただ善のみの世界を

想う時間の方が長くなるならば、善き現象はあらわれて来、病気や不幸は消えて来る

ことになるのである。




25-9 二十四日の法語  実相の円満さを実現するには


実相世界の完全円満なる姿を此の世界に実現せんがためには、

神をあらゆる存在の根源者とみとめなければならない。

そして神とは無限の生命であり、無限の愛であり、無限の知慧であり、

神の生命以外には生命はなく、神の生命は完全であるがゆえに、

人に宿る生命も完全であると云うことを知らなければならないのである。


如何なる人間の知慧も神の知慧ほどすぐれた知慧は存在しないのであるから、

人間智の思い煩いを捨てて、神の智慧を瞑想し、神の智慧の催しに従って

無我愛の生活を送るならば、実相世界の完全な相(すがた)があらわれて来るのである。



25-9 二十五日の法語  神は渾ての渾てである


神を渾ての渾てとみとめるよりほかに、本当に人類の幸福は来ようがないのである。


互いに相戦い、相抵触する二つ以上の無数の力の存在をみとめる限り、

人類は戦いの世界におかれなければならないのである。


その戦いは人類相互の戦いもあれば、微生物と人間との戦いもあれば、

逆境に対する人間の戦いもある。


かかる戦いはいずれも人類の潜在意識の中に暗示され印象されたる想念の具象化である。


かかる想念の具象化たる世界からのがれるには、先ず、心の中に、神は渾ての渾てであって、

皆一つであるから相対立する何物も存在しないと悟ることが必要である。



25-9 二十六日の法語  すべては霊的実在である


すべては霊的実在である。霊的実在を物質として固定化して観るときにこそ迷いを生ずるのである。


霊は神通自在のものであり、物質は不自由なものである。

神通自在の霊的自己を、不自由きわまる物質と思い誤まることが最初の迷いであり、

その最初の迷いから一切の悪が第二次の迷いとして生じたのである。


物質は本来無いのである。それは心に描かれたる影である。

霊的実在を悟る程度に従ってこの世界が物質であると云う観念が薄らいで来るのである。



25-9 二十七日の法語  悪は幻であって存在しない


人間の病気は、霊的実在は不滅であり、金剛不壊であると云う真理と矛盾するものなのである。


すべて病気のみならず、一切の悪は五官の心の迷いであり、幻であるのである。

生長の家では一切の悪(神の属性である生命、智慧、愛、無限供給、調和に反するもの)は

非実在であると云うのである。


一切の悪は「本当にないもの」を「ある」と思い過った誤りなのである。


唯善のみ、愛のみ、智慧のみ、調和のみ、豊かさのみが実在するのである。

五官の眼を閉じよ、而(しか)して実相のみを見よ。



25-9 二十八日の法語  宇宙は唯、霊の海


大宇宙は唯、霊の海である。物質を探ねても、そんな物は決して存在しないのである。

霊は無限であり、無限であるから完全である。完全であるから病気はない。


無限にして完全なる霊から不完全があらわれて来る筈はないのである。

完全なる霊から生れて来たものは唯、調和せるもの、美しきもの、

義(ただ)しきもの、妙(たえ)なるもの、清きもののみである。


此の世界は霊と物質との混合ではないのである。

ただ霊のみが存在するのである。霊のみがすべての運動の根元である。


霊の動きは唯完全である。

完全以外の業の働きなどは決して存在しないのである。

業の働きをあまり重視してはならない。



25-9 二十九日の法語  死への願望を捨てよ


重態の病人が治ると治らないとは主として其の患者の切なる願いが「治ること」を

希望していると否とにかかっているとは名医の指摘する真理である。


人間が病気から治るためには「病気になりたい意思」を捨てなければならないのである。


「この世が嫌になった」と仮初(かりそめ)に云う言葉の奥にも、死への願望や、

病気への願望がひそんでいるのである。


夫婦喧嘩や、事業の失敗や、現世で迚(とて)も遂げることの出来ない願望に

絶望したのちに人間が病気にかかるなどはそれである。



25-9 三十日の法語  希望は切実に願うべし


商売の成功を望むにしても、販売の増加を望むにしても、良き交友を求めるにしても、

自己の向上を望むにしても 「 切に願う 」 と云うことがなければならないのである。


潜在意識内の切実なる願望は、宇宙の潜在意識を媒介として、その願望を実現するに

適当な人の潜在意識にその希望を伝達し、その人を動かして、希望を実現するに必要な

要素を集めてついにそれを実現するに到(いた)らしめるものなのである。


先ず強く深く切に求むること。その決意に従って断乎として動くこと。

既になれりの信念を以て動けば必要な要素は集って来るのである。








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