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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱

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[810]  “ 神 ”を更めて観直す-神とは如何なるものであるか-(1)〜(31)【完】
明鏡 - 2014年03月01日 (土) 22時01分

 


『 生長の家 』誌 昭和四十年 三月号 谷口雅春先生



一日の法語  神を金融業者と間違えてはならない

二日の法語  霊か、物質か、いずれを選ぶか

三日の法語  天国を地上に実現するには

四日の法語  戦争は「心の状態」の投影である

五日の法語  世界平和のための祈り


六日の法語  “儲け”ないで“儲かる”方がよい

七日の法語  「祈る心」と「念仏申す心」

八日の法語  人間は肉体の自力によって救われるのではない

九日の法語  神、汝の実相に触れ給う

十日の法語  肉体的自覚の外皮を脱ぎ棄てること


十一日の法語  神想観を繰り返して「自覚」

十二日の法語  覆土を排除することによって新芽は伸びる

十三日の法語  何故、現象界の処置が必要であるか

十四日の法語  実相の顕現としての幸福生活

十五日の法語  脚下にしっかりと実相を踏んまえて


十六日の法語  悪しき存在はすべて迷いの影である

十七日の法語  馬を“宝の車”の後ろにつなぐ勿(なか)れ

十八日の法語  私たちは自己の運命の主人公である

十九日の法語  自己の自覚の程度の投影としてのその人の現実生活

二十日の法語  誰かの役に立つ事をしましょう


二十一日の法語  あなたの生活を天国生活にするには

二十二日の法語  祈りの方法及び意義について

二十三日の法語  天国を地上にあらわすためにあなたの心を調律しましょう

二十四日の法語  神が唯一の創造者である

二十五日の法語  如何にして現象界に不調和があらわれるか


二十六日の法語  神の智慧のままに生活する者は幸いなるかな

二十七日の法語  我みずからにては何事をも成し得ず

二十八日の法語  自己に宿り給う神を悦ばすこと

二十九日の法語  一切万事、神より来る、唯感謝あるのみ

三十の法語  すべての人種は悉く「神の兄弟」である

三十一の法語  天地万物 相互礼拝 相互感謝 の生活


[811] 一日の法語   神を金融業者と間違えてはならない
明鏡 - 2014年03月01日 (土) 22時11分



誤った信仰に向っている人たちのうちには、神の方向に振り向いて

「祈り」という形の説得法によって、神を説き服(ふ)せれば、

神が動かされて 神が何らかの功徳を与えて下さるかの如く錯覚している人が

あるけれども、神は高利貸でも、銀行屋でもないから、上手に説き服せたら

金を貸して下さるというような方ではないのである。


キリストが説いたように「 人は二人の主(しゅ)につかえることはできない 」のである。


私たちは「 物質の幸福 」を求めている限りに於いて、

霊的な主につかえることはできないのである。


物質を愛していながら、神を愛することはできないのである。


肉体の幸福に重点を置きながら、霊的に高まろうと思っても、それは出来ないのである。


キリストは 「 わが国はこの世の国に非ず 」 と訓(おし)えておられ、

悪魔サタンがあらわれて、「 世のもろもろの国と、栄華とを示して

『 なんじ、若(も)し平伏して我を拝せば、此等を皆なんじに与えん 』 といって

誘惑したとき、イエスは


『 サタンよ退け“ 主なる汝の神を拝し、ただ之(これ)にのみ

事(つか)え奉るべし ” と録(しる)されたるなり』」(『マタイ伝』第四章八節)


と答えているのである。






[812] 二日の法語   霊か、物質か、いずれを選ぶか
明鏡 - 2014年03月02日 (日) 00時08分



右するか、左するかだ。右と一緒に左にも行こうなどと狡(ずる)いことを

考えてはならない。神は甘言(かんげん)によって胡魔化(ごまか)されるものでは

ないのである。


祈りさえすれば物質的な利益や、肉体的な快楽の功徳を神が与えたまうものだと

考えてはならないのである。


教師でそのように説く場合が若(も)しあるとするならば、

それは物質に眼がくらんでいる人を神に振り向かせるための

一時的な方便の説法に過ぎないのである。


折角(せっかく)、神に振り向きながら、神を「物質的富の配達夫」だぐらいにしか

思っていない人があるのは誠に残念なことである。


神はただ霊の賜物(たまもの)のみを与えたまうのである。


「 神は霊なれば拝する者も霊と真(まこと)とをもて拝すべきなり 」


(『ヨハネ伝』第四章二四節)とイエスは教えていられるのである。





[813] 三日の法語   天国を地上に実現するには
明鏡 - 2014年03月03日 (月) 00時29分



天国が地上にあらわれるためには、人間自身が一変して、地的な欲望を去り

天的にならなければならないのである。


物質的な欲望を去り、一層 霊的にならなければならないのである。


人間自身が物質的な欲望を沢山もちつづけていながら、

その物質の生活が楽になるために、

「 神よ地上に平和をもち来たしたまえ 」などと祈ってみても、

それは愛してもいない女から、肉体的快楽を得るために

「 私はあなたを愛しています 」と掻(か)きくどいているようなものである。


人間の女だったら、そのような“掻き口説き”に応じて、肉体の快楽を

与えてくれるかも知れないけれども、神を欺(あざむ)くことはできないのである。


神は霊であるから、神を愛するならば、もっぱら霊を愛しなければならないのである。




[815] 四日の法語   戦争は 「 心の状態 」 の投影である
明鏡 - 2014年03月04日 (火) 00時31分



人間自身が一変しないでいて、ただ物質的平和や幸福を祈ってみても、

それが実現しないことは世界の歴史を見ても容易にわかるのである。


人類は歴史あって以来、数え切れない戦争によって、恐怖せしめられ、

具体的に損傷を受け、破壊と戦後の窮迫とに苦しめられて来たのである。


何人も戦争を止(や)めたくて仕方がない。この悲惨を見るにつけ、宗教家の多くは、

「 どうぞ平和が来りますように、人類互いに殺傷いたしませぬように、

戦争を止(や)めて下さいますように 」 と神に対し祈って来たのである。


それでも地上に戦争は絶えたことがないのである。

一所懸命 祈ったら、神はその祈りに答えて下さりそうなものであるのに、

何故 その祈りがきかれないで、戦争は止(や)まなかったのであろうか。


それは人間自身が変らないからである。人間自身を変えないでいて、

戦争と称する 「 物質的状態 」 だけを変えようと試みたからである。


「 物質的状態 」 は 「 心の状態 」 の投影(かげ)であるから、

「 心の状態 」 を変える祈りこそ 先ず為すべきであったのに、

それが為されていなかったのである。




[816] 五日の法語    世界平和のための祈り
明鏡 - 2014年03月04日 (火) 19時57分



私たち生長の家の信徒たちは、第三次世界戦争ー恐らくそれは原水爆戦争になるで

あろうと思われていたーが起らないように一斉に祈ることにしたのであった。


しかし私たちは原水爆戦という物質的戦争が止むようにとは祈らなかった。


戦争は結果であり、争闘精神が原因でありますから、戦争の根源となるべき

争闘精神が無くなることが先ず必要なのである。


しかし争闘精神を無くするために、心に「 争闘 」 をつかんで祈ったのでは、

「 心につかんでいるものが形にあらわれる 」という法則によって

益々争闘精神があらわれることになるから、


私たち生長の家の信徒は、「 戦争がなくなりますように 」とも

「 争闘精神がなくなりますように 」とも祈らないで、

唯(ただ)「 神の無限の愛 われに流れ入り給いてわれに於いて光明燦然と

輝き給い、その光 愈々輝きを増して全地上を覆い すべての人類の心に愛と

平和の思いを以って満たし給う 」 と祈ることにしたのである。


愛と平和の思いに満たされたら争闘精神はなくなり自然に戦争はやみ、

平和が招来されるからである。


この祈りの最後の句は、この“世界平和の祈り”をはじめた当初は

「 愛と平和の思いを“起さしめ給う” 」 であったが、「 起った 」だけで

花火線香のようにすぐ消えてしまったら何にもならないので、


後に「 愛と平和の思いをもって“満たし給う”」 と祈りの言葉を変えることに

したのである。


するとアガシャの預言では一九六五年までに人類の大多数絶滅の悲惨事が

起るような預言であったが、それが変更され「 第三次世界戦争は起らない 」という

預言に変ってしまったのである。




[819] 六日の法語   “儲け”ないで“儲かる”方がよい
明鏡 - 2014年03月05日 (水) 23時29分



神は霊であるから、人間が物欲にとらわれている限りに於いては、

神の無限の愛の霊波も、無限供給の霊波も、波長が合わないのであるから、

神として何とも致し方がないのである。


つまり 波長の合わぬものを「 縁ななき衆生は度しがたし 」 というのである。


このように申し上げると、「 生長の家に入信したら神から無限供給が得られ、

裕(ゆた)かに富むことができる 」 と思って、信仰に はいったのに

「 何じゃ物質的欲望を起したらいけないのか、詰(つま)らないな 」 などと

考える人があるかも知れないけれども、物質的欲望を盛んに起して賃上げ闘争などを

して恒久的に富む人はないのである。


「 儲けよう 」 と思ってする仕事は儲からず、

本当に、最大多数の人のためになる仕事をしようと、

「 儲け 」( 物質的欲望 ) を度外にして、

人類の為になる新しきアイディアに燃える人が却って儲かるのである。


リコーの市村社長も“ 儲‘け’る事業と儲‘か’る事業 ”と ‘け’ と ‘か’の

たった一字違いだが其処に非常な相違があることを指摘しているのである。




[820] 七日の法語    「祈る心」と「念仏申す心」
明鏡 - 2014年03月06日 (木) 20時52分



神と人間との接触は、霊と霊との接触であって、

「 神 」 と 「 肉体人間 」 又は、「 神 」 と 「 物質人間 」 との接触では

ないのである。


だから 「 肉体人間 」 が病気で苦しんでいようと、災難に遭おうと、

どんな姿で苦しんでいようと、「 肉体人間 」 同志が争って戦争をしようと、

それは神の救いの圏外にあるのである。


だから 「 神が本当にあるなら、何故(なぜ)人類がこんなに苦しんでいるのに

救(たす)けないのか 」 といって無神論に陥る人が出て来るのも無理は

ないのである。


神は霊であるから、神は無限の救いの霊波を放送していられるけれども、

人間の霊的部分の、而(しか)も波長の合う部分にだけ感応するのであるから、

特に霊的に波長を合わした人だけが、神の霊波に感応して救いを受けることに

なるのである。


祈りや念仏は、それによって神仏が動かされて、特別 「 祈る人 」 や

「 念仏する人 」 だけに恩恵を与え給うというのではないのである。


「 祈り 」 や 「 念仏 」 によって動かされるのは、「 祈る人 」 「 念仏する

人 」 自身の心が動かされて 「 祈る心 」 「 念仏申す心 」 になって、

神仏のお救いを感受し得るようになるのである。





[821] 八日の法語  人間は肉体の自力によって救われるのではない
明鏡 - 2014年03月07日 (金) 22時23分



人間の行為の正しさ、その形式的な道徳の守りかただけによって、

私たちは神の恩寵に対して波長を合わし得るというものではないのである。


形式的に律法を守り、道徳的生活をきびしく守って来たのはイエスの時代に

於いてはパリサイ人(びと)であったのである。


しかしイエスは、人間の肉体が形式的に道徳的生活を送るというだけで天国に入ろ

うと思うならば、「その義(ただ)しさパリサイ人にまさる者でなければならぬ」と

いっているのである。


親鸞聖人も『歎異抄』の中で、「善人なおもて救わる況(いわ)んや悪人をや」と

いっていられるのである。


人間が救われるのは肉体の意識的努力によってではなく、

その人間に宿っていて、まだ眠っている“神の子”なる“実相”に神が触れたまい、

その眠りを醒まさせ給うた時に始まるのである。


しかし、それはまだ土中に眠っていた種子(たね)が、太陽の光線に触れて

目醒(めざ)めて徐々に発芽を始めたようなもので、

その実相の完全さはその後 徐々に、時間的経過を通じて展開して来るのである。





[822] 九日の法語    神、汝の実相に触れ給う
明鏡 - 2014年03月08日 (土) 21時03分



神が、吾々の内にやどる実相に触れ給い、実相が目醒めて来ることが

必要なのである。

諸君が 「 生長の家 」 を知ったのは、実は、諸君自身が知ったのではなく、

神が諸君の実相たる“神の子”に触れ、その眠りを醒まさせられたのである。


換言すれば 「 汝われを選びしにあらず、われ汝を選びしなり 」 と

神は 諸君に対して呼びかけていられるのである。

諸君はこの光栄に感激感謝しなければならないのである。


無論 「 種子(たね) 」 の中には、発芽し、生長し、花開き、実を結ぶ実相が

宿っている。


しかし、その実相を具体的に目醒めしめるのは 「 水火土(しおつち)の神 」 の

大いなる生命力に触れなければならないのである。

水火土(しおつち)の神とは、宇宙普遍の唯一の神が 「 おしめり 」 (水)と

「 ぬくもり 」(火)と 「 土 」 との三大原理として発現したものである。


人間も亦(また) 「 水火土の神 」 の恩寵に触れて、その実相が目醒めてくるのである。

(谷口雅春著 『 秘められたる神示 』 (参照)

一ぺんに実相が開花したと思ったら、思い上がりである。

何人もまだ、種子(たね)の生命が目覚めたばかりである。






[824] 十日の法語   肉体的自覚の外皮を脱ぎ棄てること
明鏡 - 2014年03月09日 (日) 22時52分



“ さとり ” というものは、結局、植物の種子( たね )の内部にある

「 神なる生命 」 が「 種子の外殻(がいかく)」を割って出(い)で

ついにその外殻を「 自分そのものでない 」 として棄て去って、

生命の美しさを伸ばして行くようなものなのである。


この場合の「 種子の外殻 」 にあたるものが、私たちの「 肉体としての

自分の自覚 」 である。


この「 肉体としての自分の自覚 」 を脱ぎ棄てる程度にしたがって、

内部にある「 神なる生命 」 が愈々(いよいよ)はっきりと展開して

益々 その実相の完全さを発揮するのである。


宗教的修業というものは、この「 肉体としての自分の自覚 」という外皮を、

層一層脱ぎ棄てて行く修業だといえるのである。


それには三つの修業がある。


(一) 聖経 聖典 神誌 等を繰り返し読むことによって、「 人間は肉体ではない 」

という真理を潜在意識の底まで畳(たた)み込むこと。


(二) 神想観を修して、肉体の感覚を蕩尽(とうじん)し、実修の上で、

人間は「 霊的実在 」 であるという実相に 直接 触れること。

  

(三) 他(た)の人に真理をつたえ、又は愛行を人に施すことによって、

他の人が救われる悦びを知り、物質的肉体は互いに離れて別々の存在に

見えていても、生命は互いに一体であって、同悲同喜の感情の起る体験を

通して人間は、単なる肉体的存在ではないということを知ること。




[825] 十一日の法語  神想観を繰り返して 「 自覚 」
明鏡 - 2014年03月10日 (月) 23時24分



神想観を実修する度毎に、その観の深浅の程度に従って、

私たちは 次第に 人間は 「 物質的肉体 」 そのものでないことを

知りはじめるのである。


そして 次第に時間、空間の制約を超える存在であることを知り、

自己の生命は暦(こよみ)の年齢によって老衰せず、

如何なる外部的状態によっても破壊されざる金剛不壊の存在であることを

知るのである。


涅槃経に釈尊が説いていられるように 「 月に没性(もつしょう)なく、

月に盈欠(えいけつ)なきが如く、人間は没性なく盈欠なき存在である 」 ことを

知るに至るのである。





[827] 十二日の法語  覆土(ふくど)を排除することによって新芽は伸びる
明鏡 - 2014年03月11日 (火) 22時16分



神は時間、空間を超越し、唯一の実在者であることを知るとき、

一切の悪は非存在であるという自覚に目醒(めざ)めてくるのである。


現象の世界を見るならば、色々の“悪の力”が存在するかのように見えるのである。


しかし現象は“仮存在”であり、実相は“ 実在 ”であるから、実相を自覚したとき、

現象界の“悪の力”は、その自覚者を害することはできないのである。


それでは、神想観ばかり修して座っておれば、“現象悪”に対して

何ら対処することなくして“現象悪”が消えてしまうかといえば、

必ずしもそうではないのである。


土に埋(うず)もれている種子(たね)が太陽の光熱を適当に受けるとき、

土を排除して芽を吹き出す働きが起こるように、自然に“悪の力”(実相の顕現を

覆うて妨礙(ぼうがい)する力)を排除する働きが起って来るのである。


実相を観じていさえすれば、安保条約や軍備がなくてもよいではないか、

憲法改正などしないでもよいではないか。ソ連からでも中共からでも、

日本へ来たい者は自由に入国させてやればよいではないか ー などという議論は、

「 実相の芽 」が顕われるために「覆土(ふくど)」を排除しないでもよいではないかと

いう議論に似ていて、実相の完全さと現象処理の問題とを混同した議論である。





[830] 十三日の法語   何故、現象界の処置が必要であるか
明鏡 - 2014年03月12日 (水) 22時50分



神のみが唯一の力であり、神は善であり、神は無敵であるから、

神を信ずる限り、「 実相の完全さ 」を神想観で念ずる限り、

中共が核兵器をもとうとも、神の力に敵するものはないから、

それに対抗する日米安保態勢など不要ではないかというような議論が

往々行われるけれども、それは実相と現象との区別をわすれて、

現象界に於ける適当の処置をなおざりにするものである。


「 実相の完全さ 」を念ずるとき、その「 完全さ 」があらわれるための

現象的処置が自然に出来て来るのである。


インフルエンザ・ヴィールスが侵入して身体(からだ)に熱があるときには、

寒気(さむけ)がして、自然に温かい衣料で身体を覆いたくなるように、

内部の「 神の力 」( 生命力 )が催して来るのである。


中共の核兵器が近くにあるのはヴィールスが皮膚面に迫って来つつあるのにも似ている。


何かそれに対して危険を感ずるのは、カゼ引きのとき、

悪寒(おかん)がするのに似ている。


「 温かい衣料で覆う 」ことは充分の軍備で自国を覆うか、

日米安保条約の外套(がいとう)で自分の身体を包むのに似ているのである。


神は無敵であるということは、何もしないで外敵に身をさらすということではない。


時と処と相手に応じて、神が適当な処置をとらせ給うて、

自然的過程を通じて敵と見えたものが害をしなくなるということである。





[832] 十四日の法語  実相の顕現としての幸福生活
明鏡 - 2014年03月13日 (木) 20時31分



本当に永遠にくだけない不滅の幸福生活というものは、

外面的の操作や懸引(かけひ)きや、真心のない外交手段によって得られるものでは

ないのである。


それは自己の生命の深層に横たわる普遍なる神(実相)から汲みだされて来て

あらわれて来るものなのである。


生命の深層から汲み出された神の智慧によって行われる“行為”も、

迷いの現在意識が、とつ追いつ やり繰りをして行われる“行為”も、

それはいずれも行為であるから、外見からみれば、現象にあらわれた行為として

同じレヴェルにあるように見えるかも知れぬけれども、

その結果に於いて著しい相違を来たすのである。


行為は結果であり、結果は更に結果を生むが、

その行為が、実相の発動が原因としてなされているか、

迷いの蠢動(しゅんどう)が原因としてあらわれているかによって、

結果に於いて幸と不幸の相違や、繁栄や衰微の相異を来すことになるのである。


だからキリストは『 果実を見て、その樹(き)の善悪を知れ 』 と教えたのである。





[834] 十五日の法語    脚下にしっかりと実相を踏んまえて
明鏡 - 2014年03月14日 (金) 22時01分



神想観中には、

人を観るな。

事件を観るな。

外界の一切を見るな。

現象を観るな。

実相ばかりを観よ。

実相を観ずることに徹底せよ。


而して、観(かん)終りて

現象界を見、

人を見、

事件を見、

そして内部から催して来る智慧によって外界に向って行動せよ。


問題があれば、それは自然に解決する行動がとれることになるのである。

それが「 果実を見てその樹の善悪を知れ。その樹が善ければ必ず善き果(み)を結ぶ 」という

ことである。






[836] 十六日の法語  悪しき存在はすべて迷いの影である
明鏡 - 2014年03月15日 (土) 23時48分



何故、他の人の悪を見て、それを咎めようとするのであるか。

それは、あなたが生長の家で説いている真理を、その時ド忘れしているからである。


此の世界は、善なる神の創造せる世界であり、

神のみが唯(ただ)一(ひと)つの存在の根源であり、

人間は、善なる “ 神の子 ” であるから、

悪なる存在もなければ、悪なる人間もないのである。


私たちは 「 悪なる存在 」 と戦う必要もなければ、

「 悪なる人間 」 を咎める必要もないのである。


「 悪 」 に見えるもの、又は人が、あらわれて見えるならば、

神想観によって、その 「 悪しき存在 」 又は 「 悪しき人 」 は

五官意識の迷いの産物であるとしてそれを否定し、

善なる実相のみ実在であることを強く強く観ずるがよい。


しかして神想観 終って、自然に内より催す如く “ 行動する ” がよいのである。


これが 「 先ず神の国と神の義を求めよ。その余のものは汝らに加えらるべし 」 である。

行動は結果として生ずる 「 その余のもの 」 である。


そしてその行動は、その時、処、相手に従って千差万別であって

第三者から見て批判すべきものではないのである。





[838] 十七日の法語  馬を“宝の車”の後ろにつなぐ勿(なか)れ
明鏡 - 2014年03月16日 (日) 23時29分



「 先ず神の国と神の義を求めよ。その余のものは汝らに加えらるべし 」 が

正しき順序であるのである。


多くの人たちは 「 その余のもの 」 (現象存在)を先ず求めて、

それが沢山整うたら「神の国」ができ上がるように思っているけれども、


「 神の国 」 がまず自覚されて現象界にあらわれて来たところの 「 地上天国 」 でない

限りは、本当にくだけない 「 幸福の世界 」 はあり得ないのである。


或る人は肉体の健康を求め、肉体の健康が得られたら幸福になれるように思い、

また或る人は現象の富を求め、現象の富さえ裕(ゆた)かに得たら幸福になれる

ように思っているが、健康な人でも、そして裕かに富をもっている人で、

本当に何らの不安なく、恐怖なく、摩擦のない天国的生活を送っている人が幾人ある

だろうか?


富も健康もそれを 「 顕われ 」 から見れば、

「 実相 」 からあらわれた“ それ ”と

「 迷妄 」 からあらわれたそれと区別がつかないようであるが、

実相の投影としてあらわれたそれには 不安も 恐怖も 争いも 魂の悩みもないのである。






[839] 十八日の法語    私たちは自己の運命の主人公である
明鏡 - 2014年03月18日 (火) 02時06分



人間が、自己を単なる肉体的存在とみとめ、

肉体の意識によって生活している限りに於いて、

彼が健康であったり、病弱であったり、運が好かったり、運が悪かったりするのは、

それは偶然のめぐり合わせであって、彼自身に責任がないかのように見えるのである。


しかしながら、現象世界が、実は、「 生活する人 」 自身の “ 心の状態の顕われ ” で

あることを知るとき、その人は自分の心を支配することを通して、

病気をはじめとして人生の諸問題を自己の欲する方向に変化する事ができるのである。


毎日々々の吾々自身の起す想念が、将来起る吾々自身の運命の原型を

形成しつつあるのである。


私たちは 「 想念 」 の種子(たね)を蒔いて、それが現象としてあらわれたのを

自己の運命として獲(と)りつつあるのである。





[841] 十九日の法語  自己の自覚の程度の投影としてのその人の現実生活
明鏡 - 2014年03月18日 (火) 23時48分



若し人間が、本当に 「 実相 」 の完全さを自覚して、

更に心が本当にその完全さにのみ集注することができるならば、

病気も無くなり、悪癖、悪習慣もなくなり、貧乏もなくなり、

一切の不調和は消えてしまうことになるのである。


一切の不調和がまだその人の運命、境遇、環境、家庭等から消えないのは、

その人が本当に「 実相 」の完全さを自覚していないか、

たとい自覚していても、心が「 実相 」の完全さにのみ集注しないで

道草を食っているからである。


私たちは「 実相 」以外のものに、「 神の国 」以外のものに、

心を止めて道草を食ってはならないのである。


「 神の国 」( 実相 )以外のものに心を止めて道草をくっているものは、

「 先ず神の国と神の義を求めよ。その余のものは汝らに加えらるべし 」 という

訓(おし)えを守っていないことになるのである。





[842] 二十日の法語  誰かの役に立つ事をしましょう
明鏡 - 2014年03月19日 (水) 23時32分



今日、誰かに必ず役に立つ仕事をしよう。


大いなる仕事が見つからなかったら、目の前にある瑣細(ささい)な愛行や、

深切な言葉や、奉仕や、清掃などの仕事でもよい。


何か誰かに悦ばれる事を必ずするがよいのである。


他の人の自由や財産を侵して自分が利益を得たり、権力を得ようと思ってはならない。


このようにあなたの日常生活を浄めることによって、

あなたは神の霊波と波長が合うことになるのである。


その時、「 その余のものは 汝等に加えらるべし 」 であるから、

日常生活に必要なものは自然に整うことになるのである。





[845] 二十一日の法語  あなたの生活を天国生活にするには
明鏡 - 2014年03月20日 (木) 21時04分



小我(しょうが)に仕えるか、大我(たいが)に仕えるかだ。

肉体の欲望や権勢欲や名誉欲に仕えるか、それとも唯、神に“のみ”仕えるかである。


それによって、その人の生活が地獄にもなり、極楽にもなるのである。


財産もあり名誉もあり国家の権力者になっている人たちが、

内心に顧(かえり)みて、本当に私の魂は平安である、私は神に悦ばれる生活をしている、

魂の底から「お前はよくやった」という讃辞をきくことが出来るという人が幾人あるであろうか。


彼らの大多数は、魂の不安、地位からの顛落(てんらく)の恐怖に悩まされ、

心に敵を描いて常に闘争の精神にみたされて、心は修羅(しゅら)の如くであるのである。


もっと人間は神に悦ばれる者と“先ず”ならなければならないのである。


それが「先ず神の国と神の義を求めよ。その余のものは汝らに加えらるべし」であるのである。





[846] 二十二日の法語  祈りの方法及び意義について
明鏡 - 2014年03月21日 (金) 20時26分




神は無限の善であり、無限に完全なる智慧であり、無限に完全なる生命であり、

無限に完全なる供給であり、無限に完全なる調和であり、

一切処(いっさいしょ)に充ち満ちていられる遍在者であるならば、

その神は“ 各人の内 ”にも遍在してい給うことは明らかであるのである。



神の恵みは遍在して既に“ 各人の内に ”あるのに、

殊更(ことさら)に祈り求めなければならないというのは何故であろうか?



神の恵みは譬(たと)えばラジオの放送電波のように、

何処にも、空間いたるところに充ちているのである。


しかし放送はあり、電波は自分の体の中までも達しているのに、

それでもそれを受信し得ない人があるのは何故だろうか。


自分のラジオ・セットを放送電波に波長を合わせないからである。


それと同じく、神は既にあらゆる恵みを遍在的に放送していられるのに

私たちが霊的に波長を合わさないときは、それを受信することができないのである。


祈りは、自分の心のひびきを調律して神に波長を合わせる方法であり、

神に懇請(こんせい)、懇願(こんがん)して、神を説得する方法ではないのである。


だから 既に与えられている恵みに感謝の念を起す神想観が最も正しい祈りである。





[848] 二十三日の法語  天国を地上にあらわすためにあなたの心を調律しましょう
明鏡 - 2014年03月22日 (土) 21時38分



テレビの把子(つまみ)をひねって放送局の波長に合わすと、

放送中の番組が具体的に肉眼に見えるようにあらわれて来るのである。


それと同じく神様の霊波(心の波長)に人間の心の波長を合わすと、

神様の世界(実相世界)に実在する状態が肉眼に見えるように

自分の周囲にあらわれて来る。即ち地上に天国が実現するのである。


これは神様に「天国を地上にあらわしめ給え」といくら懇願しても懇請しても、

自分の心が争いの念に充ち満ちていては天国が地上にあらわれて来ないのである。


テレビのチャンネルを間違ったところへやりながら、

NHKのテレビ番組をこのテレビ・セットにあらわし給えといくら祈っても、

その番組が出て来ないのと同じである。



「 祈り 」というものは 懇請や“泣き付き”ではなく、自分の心を調和した状態にすることである。





[849] 二十四日の法語  神が唯一の創造者である
明鏡 - 2014年03月23日 (日) 21時14分




生物学が進歩し、人体の生理活動の機構が分析され、研究され、

いかに肉体の機構が組み立てられていて、それが作動するかが明瞭となり、


肉体の成分が精密に分析されて、いかなる栄養素が如何に組み合わされているかが明らかに

なったとしても、なお 其処(そこ)には 科学ではどうしても説明できない或る点に達するのである。



誰がそのように精巧なる人体機構を案出し、どの成分をどのように排列(はいれつ)することによって

「人間」という驚くべき装置(比喩的に謂う)を発明したのであるかということである。



その「誰が」を見た人はないのである。その発明者を見たことはないのである。


人体だけではなく、一木(もく)の植物を考えてみても、その最初の発生のもとになった「種子(たね)」は

誰が考案したのであるか。誰が発明したのであるか。



その発明者が「 神 」 であるのであり、 「 神 」 が、それを考案したのである。


「 考案する 」 とは霊の世界に於いて 「 想念を用いる 」 ということである。


万物は霊の世界に於いて神の想念によって創造され、それが時間空間の「認識の形式」を通して

現象界に転現して、吾々はそれを見ているのである。







[850] 二十五日の法語  如何にして現象界に不調和があらわれるか
明鏡 - 2014年03月25日 (火) 00時17分



「 霊の世界 」に於ける「 神の想念 」による創造は、

純粋無雑に、ただ神によって創造せられているが故に、

それは至美(しび)至善(しぜん)妙楽(みょうらく)完全円満の世界である。


その完全の世界が「実相世界」である。


イエスが「 御心(みこころ)の天に成るが如く地にもならせ給え 」と祈ったときの

「 既に天に成る完全世界 」(神の国)である。


しかし、それは「天国」であり、「霊の世界」であるがゆえに、肉眼には見えないので、

恰(あたか)もテレビ装置に於いて肉眼に視(み)えない放送電波を

ブラウン管という「認識のための形式」の面に於いて、肉眼に視える形にあらわすのと

同じように、


私たちの生命は時間空間という「 認識の形式 」を“ 心でつくって ”、

その形式面上に具象化して見るのである。


そのような「 認識の形式 」を通して見る其(そ)の途上に於いて、

あらわれる形に歪(ゆが)みがでて来たのが、色々の現象界にあらわれる擾乱(じょう

らん)であり、混乱であり、病気であり、災害である。


それは恰もテレビに故障を生ずると、画像が歪んで崩れてくるのと同じである。


心でつくった「認識の形式」であるから、その画像(現象界の出来事)の歪みを直すには、

心を直して、神からの放送電波に波長を合わすほかはないのである。


受像のチャンネルを直さないで歪んだ画像を正しくしようと、

いくらテレビ・セットに祈ってみても、何の効果もないのである。





[851] 二十六日の法語  神の智慧のままに生活する者は幸いなるかな
明鏡 - 2014年03月25日 (火) 19時47分




率直な心で神の智慧を受ければ、自然に何時(いつ)、如何になすべきかが

示されるのである。


イエスは「 空の鳥を見よ、播(ま)かず、刈(か)らず、倉に収めず、

然るに 天の父はこれを養いたまう 」といっている。


彼らは自然な心をもっているから、自然に「 内部の啓示 」を受けて、

その時その場に適当な処置をとり得るという意味であって、

小鳥は懶(なま)けているという意味ではないのである。


渡り鳥のうちには 南米から北米へと驚くべき長距離を季節にしたがって

移動する智慧をもっているのがあるという。


或る海亀は 干潮(かんちょう)の夜 海浜(かいひん)の砂の中に産卵に来て、

それから一定の日数を経ると、それが孵化(ふか)して海に帰る恰度(ちょうど)その日に

大潮が満ちて来て、孵化した亀の幼児を海に搬んでくれるように、


その海亀は天文学も気象学も学んだこともないのに、

潮の満干(みちひ)の周期を知っているのである。


蝶はその卵が孵化して幼虫になった時に食物となる樹(き)を選んで産卵する。


驚くべき智慧が宇宙には満ちており、季節と自分、海水と自分、鉱物と自分、

植物と自分の間にも相互関係があり、互いに相手の動きを知る智慧があるのである。


これによっても宇宙の万物ことごとく「 一つの智慧 」によって支配されていることが

分かるのである。その「一つの智慧」が「神」である。





[852] 二十七日の法語   我みずからにては何事をも成し得ず
明鏡 - 2014年03月26日 (水) 23時55分



イエスは「 我みずからにては何事をも為し得ず、天の父われに在して御業(みわざ)を

なさしめ給うなり 」 と訓(おし)えている。


諸君は、自分が生まれて来ようと努力して、母親の胎内でその栄養分を自分で整理し

排列して自分の人体を造ったのではないのである。


「 われみずからにては何事をも為し得ず、天の父われにいまして、この人体を

造り給うたのである。」


それならば、私たちが母親の胎内から出て来てからも「 われみずからにては何事をも

為し得ず」であって、自分の力では胃液を製造することも、各種のホルモンを製造する

ことも、そのホルモンの精妙なバランスを得させることもできないし、自分の力では

腎臓で不浄物を択(よ)り分けて排泄(はいせつ)することもできないのである。


これらの働きは悉く神授のものであるのである。


この真理が理解できるならば、私たちが病に罹(かか)ったとき、

自己の内に宿っているこの無限の智慧の御(おん)はたらきに全托して

「 神よ、み心の如くならしめ給え 」と、人間的心配を棄て去ったとき、

神癒の力がこんこんと内部より湧き出でて速やかに癒される理由がわかると思うのである。





[853] 二十八日の法語  自己に宿り給う神を悦ばすこと
明鏡 - 2014年03月27日 (木) 19時34分



人間は土を耕(たが)やし植物に肥料を与え水を灌(そそ)ぐ。


けれども、植物が本当に生する力は植物の内部にある「 生命力 」であって、

「 生命力 」がなくなってしまった植物にどんな肥料をやっても、

水をかけても生長しないのである。


その「 生命力 」が「 神 」であるのである。


自己の内部に生命力をいつまでも若々しく元気に保存して置こうと思ったならば、

自分の体から「生命力」即ち「神」が去ってしまわないようにしなければならない。


そのためには私たちは日常生活に、その「 神 」を悦ばすような愛行と善行とを

しなければならないのである。




[854] 二十九日の法語  一切万事、神より来る、唯感謝あるのみ
明鏡 - 2014年03月28日 (金) 23時46分




「 神 」即ち「 生命力 」が去ったならば、一瞬間もあなたは立っていられないのである。


その美しい肉体は筋肉美も皮膚の美も悉く失われてしまうのである。

あなたが均斉(きんせい)のとれた美しい肉体、つやつやした美しい皮膚をしているのは

「 神 」があなたの中に内在しているからである。


食物(たべもの)が胃袋の中で消化されるのでも、胃袋が食物を消化するのではなく、

神が消化したまうのである。


私達は毎日、神によって護られ、導かれ、生かされて来たのに、

“ 自分が ”生きているかの如く錯覚して神に感謝する事を忘れ過ぎていたのである。


道を歩むとき、空気を吸うとき、食事のとき、仕事をするとき、何事でも気がついた時、

神の恩恵のあまりにも裕(ゆた)かであることを想い起して感謝せよ。





[855] 三十の法語  すべての人種は悉く 「 神の兄弟 」 である
明鏡 - 2014年03月30日 (日) 03時37分




自己の内に宿り給う神、それがあなたの生命である。

あなたの生命は神なる大生命より来る。神は無限の叡智をもちたまい、

必要に応じて必要なるものを準備したまう。


赤道直下や亜熱帯地方に生まれた人種には、その強力な紫外線を防ぐために、

皮膚に黒い暗幕をつくって紫外線の害を防いでいられるのである。これが黒人種である。


緯度の高い、太陽光線の乏しい地域に生まれたる人種は、太陽光線が体内に吸収せられ

やすいように皮膚を殆(ほとん)ど透明にして色素の乏しい幕を張ってあるが故に、

これを白人人種と称し、血管が皮膚を透かして見えるが故に、概ね淡紅色(たんこうしょ

く)の顔貌(がんぼう)をしているのである。


私たち黄色人種は 赤道直下ほどには日光は強くないし、さりとてヨーロッパの大部分の

地域ほどには、日光の乏しい地域でもないので、適当に淡彩をほどこした皮膚の幕をもって

全身を覆っているのである。


皮膚の色が異るとて、その人々に宿る「 神の生命 」は本来「 一つの神 」であるから

互いに兄弟姉妹なのである。皮膚の色に拘(かかわ)らず兄弟姉妹互いに愛し合うべし。






[856] 三十一の法語  天地万物 相互礼拝 相互感謝 の生活
明鏡 - 2014年03月31日 (月) 01時11分



鳥類は、季節が近づけばその羽根の装(よそお)いが豊かになり、

厚い外套(がいとう)を着たように羽毛が密生するのである。


夏近づけば夏服に着かえるかの如く、羽根の装いが軽くなり、

厚い外套を脱いで、恰(あたか)も夏服に着かえるのである。


植物にもこれが起る。

同じ摂氏(せっし)十度でも、夏を過ぎて摂氏十度が近づけば、

欅(けやき)の葉は黄色くなって落葉しはじめて冬の支度(したく)をするのである。


ところが冬も終りに近づいて春が間近になると“知る”と、摂氏十度よりも寒い日があっ

ても、前途の春をチャンと“予知して”欅は、新しい緑の若葉を出しはじめるのである。


脳髄も神経組織もないかのように見えている植物も「知る」力をもっており、

「知った事」に対して準備をする不思議な知性をもっているのである。


その「 不思議な知性 」が植物に宿る「 神 」である。


神は到る処に充ちていられる。釈尊はこの真理を直感せられた。


そうして「 有情非情同時成道、山川草木国土悉皆成仏 」と讚歎せられたのである。


それを簡単に説明するならば、「有情」即ち「情(こころ)有るもの」(動物等)も、

「非情」即ち情(こころ)非(あら)ざるもの(鉱物、植物等)も

「同時」即ち「超時の今」神の大生命(道)が現成(げんじょう)せるものである。


そして山も川も草も木も国土も悉く皆、仏のいのちの現成せるものである。


宇宙の一切悉く神なる大生命の顕現ならざるものはないという意味である。


この覚(さと)りに立って生活するとき、

一切を礼拝し、一切に感謝する相互礼拝、相互感謝の生活が始まるのである。


( 谷口雅春著『 無門関解釈 』参照 )







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