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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱

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[415] 悟りと神想観  (1)〜(8) 【完】
明鏡 - 2013年09月11日 (水) 01時26分


本稿は『理想世界』誌、昭和三十二年十月号に掲載された「青年哲学講座」で、谷口雅春先生が神想観に関連した質問に答えたものです。


【 断食修行について 】


司会  断食修行というものと、霊能の発達とか、悟りとかというものの関係を、もう少し詳(くわし)くお教え下さいませんか。


谷口  断食その他肉体を苦しめる修行が霊的方面の発達に寄与するというのは、肉体の否定、物質の否定というものが、生活の上に実際に行われるから霊的覚(さと)りというものが得られ易(やす)くなるのであります。


このことは実際の釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)の生活行蹟からみて、そういえるわけなんです。肉欲をサンザ満足させながら霊能が発達するということはあり得ません。


今でも山へこもって断食をしたり、水行をしたり滝に打たれたりする人もあり、それによって何らかの覚(さと)りに到達するというような人もあります。


私も断食したことがあるけれども、私は断食したから覚ったというわけでもないけれども、ある覚りが得やすくなるということは事実です。


しかし皆さんに断食をせよというのではありません。生長の家は「苦行は悟りの因(たね)にあらず」というので、徒(いたず)らに肉体を苦しめるということが修行にいいのだとはいわれないんだが、


物質を否定する上からいうと、肉体というものを余り楽しませていると、肉体的欲望という方へ心の天秤(てんびん)が重くおりて来て霊的比重の方が軽んぜられて来るということになりますから、霊的悟りというものは得がたくなるのです。






[416] 悟りと神想観(2)
明鏡 - 2013年09月11日 (水) 02時04分


更にもうひとつ断食修行の弊害というものは、断食すると肉体的精神が減衰するのと逆に、霊的感受能力というものが過敏になります。


その結果、低級霊もいろいろかかって来ることになり、その場合に正しい指導者がいなかったり、或(ある)いは修行者自身に正しい強力な守護神がいない場合には、迷ってる霊にだまされる事があるんです。


これは釈迦が悟りをひらく最後の直前に悪魔波旬(はじゅん)があらわれたり、イエスが神の子の自覚を得る直前にサタンがあらわれたりしている。


それを釈迦やキリストはその悪霊の誘惑に負けないで、それが正しい神でないことを知って「去れ」と退(しりぞ)けているのです。


山に籠(こも)り断食などをしていると、山に浮浪(ふろう)しているような野天狗(のてんぐ)とかいうようなつまらない種類の霊魂にひっかかったりして、其(そ)の結果、ちょっと位の第六感が働いて霊眼がひらいて霊の姿や霊界の一部が見えたり、


或いは天言通(てんげんつう)を得たとか言って、「神様の言葉」を自分でしゃべるとかというような境地になる人もあります。


けれども、それは霊的感受力が鋭敏になった結果、一種の霊媒状態になったのであって、自分の実相が神であるという実相の神性を覚ったという状態ではないから、その霊の示すところにだまされて脱線する危険性が非常にあるのであります。


ですから、山へこもって断食水行をするとかいうようなことはしない方がいいのであります。
神は普遍者でありますから、山へ行く必要はない。悟るためにはやっぱり神想観をするのが一番いいのであります。







[417] 悟りと神想観(3)
明鏡 - 2013年09月11日 (水) 02時20分


夜神想観をする時にはむしろ電灯をとぼしておく方が良いのであります。それは明るくして神想観をする方が、迷っている霊の霊波というものは(つまり波長の弱い霊波というものは)光線によってその霊的波動が粉砕されるのは、恰度(ちょうど)、中波のラジオ波が昼間の太陽の光線で破砕されて遠距離通信が出来ないのと同じ道理であります。


ところが暗いところで神想観すれば、弱い霊的波動でも粉砕されないから、低級の霊でも吾々に働きかけることが出来、神想観が純粋に出来ない場合、低い霊が吾々を欺(あざむ)いて、神様めかしく吾々に働きかけることがあるのです。


低い階級の霊の波動を光に粉砕せしめて人間に働きかけにくい様にするために、暗がりの中で神想観をするよりも、明るい昼間又は夜なら電灯をとぼして神想観をする方がよいのであります。



[419] 悟りと神想観(4)
明鏡 - 2013年09月11日 (水) 19時28分


【 神想観について 】


司会  神想観をするにはやっぱり姿勢が正しいということが必要であると言われておりますが、心さえ整えば寝ころんでいてもよいのではありませんか。


谷口  姿勢のあり方は、神想観のときに説明していますし、『生命の實相』観行篇にありますから重ねて此処(ここ)では申しませんが、ちょっと位足が痛いからというのでごまかしているといかんのであります。


やっぱり体の姿勢というものが、「心の姿勢」というものに互いに影響を与えます。ちょっと姿勢が違うとラジオセットでもバリコンというところ、ダイアルを廻すあの奥の方にあって外からは見えんけれども、金属円盤が重ねてある装置がある。あれが、ちょっと位置が変わるだけで波長が変わるんです。


それで神想観する時には本当に正しい姿勢をもって神想観するということが必要なわけです。そして神想観してもある人は早く覚(さと)れるしある人は早く覚れない。これはその人の霊魂の発達の程度だから、仕方がない。


人間の霊魂は、皆神の霊魂が宿っているんだけれども、皆出発の時期が違うんですから、スタートが違うんですね。その人の魂の発達が遅れていると言って低級なという意味で遅れているのではなくて、その霊魂が神から生み出された最初の出発時期が違うんです。


何遍でも生まれ更(かわ)って修行している霊魂もあれば、まだ回数少なくしかこの世に出ていない霊魂もあるのです。そういう霊魂は他の人が早く覚れても、自分はまだ覚りが遅いというのは、これは止むを得ないことなんですよ。





[420] 悟りと神想観(5)
明鏡 - 2013年09月11日 (水) 19時32分


しかしこれは最後のギリギリの悟りだなどというものは、それはなかなか誰にも得られない。最後の一番最高完全な悟りというものが得られないのは、この世界は「無限生長の世界」と説かれているのでもわかります。


無限生長ということは幾(いく)ら生長してもまだまだ前途遼遠(ぜんとりょうえん)に生長するという意味であります。


だから、若(も)し、「もうわしは悟った。これで最後の悟りだ。自分は一番偉いんだ」と思ったならばそれは一番偉いんではなくて、それは途中で天狗になったというわけであります。


だから悟りにもいろいろな段階があるわけですよ。だけども、ともかくこの自分の本性(ほんしょう)が神であるということを、本を読んだり、話をきいたりして、知的にでもそれがうなずけるというのは、既に神なる実相がそこまで現われて来ているからであります。



だからこそ、有神論に反感を覚(おぼ)えずに、

「成程(なるほど)そうだ。神はある筈(はず)だ。自分のいのちは神から来ているんだ、理論的にうなずける。」

と、こういう感じが起って来るのです。既に実相がそこまで現われているから、それを肯定することが出来るのです。




[441] 悟りと神想観(6)
明鏡 - 2013年09月14日 (土) 16時08分


ところが「そんな馬鹿なことがあるか。神なんて説くものはみな迷信だ」とそういう風に感ずる人があるとすると、そういう人はまだ実相があらわれていないのです。そういう人が随分たくさんあるのです。大学教授みたいな学者でも神の存在をみとめられないような人は実相がまだそこまで現われていないからであります。だから霊的にいうと低いんだということになるわけです。


神の存在を知的に理解して分っても、それはある程度実相が現われて悟っているというわけなんだけれども、無論最後の悟りの境地ではない。


そういう人がだんだん神想観もやり、本も読みやっているうちには「我(われ)は神の子である」という自覚を得てですね、本当に何というべきか、法悦というべきか、歓喜勇躍というような状態になるときが来るんです。


しかしそれでも、尚(なお)それが最後の境地というわけじゃないんです。それは最後の境地じゃないんだけれども、そういう状態になって、感情的に、情感的に、そういう自覚が得られるのはそれは知的に把握したよりももう一段深く把握した一層高い心境で、実相がその程度まで来たということであります。


そういう深い境地は中々文字や言葉ではあらわせぬ。それで禅宗などでは言詮不及(ごんせんふきゅう)とか不立文字(ふりゅうもんじ)とか言って、文字や言葉では悟りというものを説くことが出来ない、文字を立てることをしないと言って、音のない声を聞けという訳で「隻手(せきしゅ)の声を聞け」などとも言いますし「まあ坐れ。坐ったら分かるんだ」とも言う。


道元禅師も只管打坐(しかんだざ) ー ひたすら坐れと被仰(おっしゃ)いました。





[442] 悟りと神想観(7)
明鏡 - 2013年09月14日 (土) 19時32分


【 悟りの行的把握について 】


併(しか)し、二十年も坐禅しとっても分からん者が、神想観をしたら‘はい’分ったというような例もありますが、別に私は神想観と坐禅との優劣を言っているのではない、機を異(こと)にするに随(したが)って縁が異(ことな)るのであります。


とも角も、神想観でも坐禅でも覚(さと)れんこともない。どちらでも覚れるけれども、それで最後ということじゃないのであって、白隠(はくいん)禅師でも「大悟(だいご)十八回、小悟(しょうご)は数知れず」と言っておられます。


大悟徹底したと思っても、まだまだそれは、ひとつの段階であって、今度こそ大悟徹底したと思っても、まだそれもひとつの段階で十八回も大悟したと言われておりますがね、だからもうこれでお終(しま)いだと思ったら無限生長じゃないのであります。ですから、まだまだ吾々は修行をしなければならない。


知的にまず把握し、それから感情的にも把握し、それから今度は行(ぎょう)的に把握しなければならない。さっきおっしゃったところの愛行が真理の行的把握です。人に本当に愛を与えた時に本当に生き甲斐の自覚というものが感じられ、そして「我れ神の子である」というよろこびが実感として起って来るというのが、真理の行的把握ですね。


行動というものは、ただ単に感情というものでもなければ、知的に知るというだけでもない、もっと具体的に全体ですね。だから「行動化して悟る」ということになれば、尚(なお)一層高い程度に悟って来たということになるわけであります。


それでそのやっぱりその真理の書物を読んでそして同時に神想観をして、それによって全生命が感情的に情感的に悟って、その悟りから起(た)ち上って、そして人を救うという実際運動を行じてこそ、そこに本当に永続的な覚(さと)りのよろこびというようなものが得られて来るのです。


ただ坐禅とか神想観だけをして自分が悟っても、それはある意味からいうと、ひとつの利己主義であるとも言えます。自分だけ悟ってなかなかいい気持であっても、陶然(とうぜん)として坐禅に酔い、神想観を修して神(かん)ながらのよろこびの感情が湧く程度までなって来てもですね、それは、‘自分が’たのしいのであって、人を救うという境地にはならないのでありますから、その境地でとどまったらいけないのであります。






[443] 悟りと神想観(8)
明鏡 - 2013年09月14日 (土) 19時34分


【 ひとりよがりの愛行では駄目です 】


しかし人を救ったら、それだけでいいかとこう考えますと、やっぱり救っただけじゃいかんのであります。自分は人を救ったつもりで、かえって人を害しているようなことが随分(ずいぶん)たくさんあるのです。いいことしたつもりで人に迷惑をかけとる人は随分たくさんある。それは何(ど)ういう処(ところ)から起るかというと自分の「我(が)」の考えの愛行から起るのです。


「我」の考えの愛行であの人に親切にしてあげたいと思って深切するけれども、間違いの深切している。そしてその人の発達をさまたげることが随分ある。


一時その人はお金でも貰(もら)って助かることもあるかもしれんけれども、そのためにかえって自分が努力することを忘れることもある。また或る時は人に忠告をしたらあの人は良くなるだろうと思って欠点を指摘すると、かえって其の人は欠点の暗示を受けて「もうわしはこんなに欠点があるから駄目だ」という具合に堕落する場合もあります。



そういうようにただ「愛行」をするというだけではひとりよがりになります。「私は人を助けているんだ」と思っとったらあにはからんやちっとも助けていないで却(かえ)って害を与えているかもしれない。そこでやっぱり神想観をして、そして神に融合一致して、其処(そこ)から出て来る神様の智慧(ちえ)によって、愛行を実践してゆくということにしなければならない。


ですから、やっぱり真理の書物を読み、神想観をし、そこから愛行を実践するという風に、この三つを常に一緒に具体的に実行するということによって、神に対する悟りがだんだん深まって来るということになるわけであります。まあ此の問題はこれ位にしておきましょう。




          〈 了 〉







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