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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱

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[458] 『生長の家』昭和25年10月号法語( 31+5) 【完】
明鏡 - 2013年09月17日 (火) 20時01分



『 生長の家 』 昭和二十五年 十月号 法 語(一日〜三十一日)+五日 谷口雅春先生



本稿は、新版『 幸福を招く365章 』 「 第十二項 あなたも神癒が受けられる 」 に、五日間の法語を
合わせて編成、所収されております。

4日の法語 神の愛はすべての渾て             (3日の法語に合わせて所収)
8日の法語 月は常に円相である              (7日の法語に合わせて所収)
12日の法語 いつまでも 「 闇 」 をつかんではならぬ    (11日の法語に合わせて所収)
22日の法語 「 心 」 は偉大なる創造者            (21日の法語に合わせて所収)
25日の法語 自然療能力に頼れ               (24日の法語に合わせて所収)


【 参考 】新版『幸福を招く365章』第十二項より

(27日) 毎日の朝々光明の想念を満たせ
(28日) 神の癒力を受けるには
(29日) 神の癒す力を受けるには
(30日) 神は神罰を当てぬ
(31日) 新年を迎える心の準備

よって、上記の27日〜31日の法語も、本への所収に沿って追加で謹写させていただきます。



[459] 25-10 一日の法語  別時の念仏に就いて
明鏡 - 2013年09月17日 (火) 20時03分



静かに坐(ざ)して祈る時間は、恰(あたか)も 「 別時の念仏 」 のように特に全身全霊を神の方へ振向ける行事として必要である。


それを神想観というのである。


行住坐臥(ぎょうじゅうざが)ともに神想観の心境でおれば別に或(あ)る特定の時間に神想観する必要はないと云うのは、高慢な人の慢心である。


行住坐臥にはどうしても物質が存在するかのように五官には見えるのであるから、それを物質でないと観(み)て処置して行くことは至難のことであるのである。


だから、或る一定の時間には五官の目を閉じて、実相円満の相(すがた)を心に強く感ずることが必要なのである。


南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と云うのは、「 阿弥陀仏と私とは命が一体だ 」 と云う思念である。





[460] 25-10  二日の法語  不完全の状態はただ迷いの影である
明鏡 - 2013年09月17日 (火) 20時07分


迷いの心は、実相完全円満の状態とは全然異る状態を空想してつくり上げる。


人間が肉体であると見えることは時間空間面に投影して描いたところの自己欺瞞(ぎまん)的映画に過ぎないのである。


時間空間は 「 認識の形式 」 謂(い)わば映画の銀幕(スクリーン)のようなものである。


吾々の迷いの心は 「 時間空間 」 の銀幕上に、始終感覚にて暗示され連想される妄想を描いてそれをあらわすのである。


ただ神のみが創造者であるのである。


それにも拘(かかわ)らず、この世界に「悪」が「病気」が現れて出ているのは、それは真に実在するのではなく、唯、迷いの心の反映である。




[461] 25-10  三日の法語  神癒の根本は愛にある
明鏡 - 2013年09月17日 (火) 20時11分


神癒の根本原理は「愛」である。神は愛であるからである。


若(も)し、誰(だれ)かを自分が憎んでいることがあるならば、愛に反することがあるならば、それを今直ちに是正し、憎んでいる人を赦(ゆる)し、愛に反する行為を愛に置きかえることが必要なのである。


真理の書を浴びる程読んでも、若し自分の心の中に愛の心が喚起されなかったならば、それはただ真理の外形だけを掴(つか)んでいることになるのである。


感謝と云(い)うことも、愛をしみじみ感ずるところから湧(わ)いて来るので、神の愛を先(ま)ず感じ、神の子である人類を先ず愛することから始めよ。




[462] 25-10  四日の法語  神の愛はすべての渾(すべ)て
明鏡 - 2013年09月17日 (火) 20時14分


神はすべてのすべてである。これが神癒の原理の第二の根本である。


神は愛であるから、愛の展開としての世界に、人間に不幸感を与えるような病気や災難や貧乏が存在しようがないのである。


先ずこれを信ぜよ。「 信 」 が茲(ここ)に必要である。


神の愛を信ずるや否やと云うことである。


人は信ずる通りのところのものになるのである。神の創造(つく)りたもうた世界に悪が決して存在し得ないことを信ずることが出来るものは、神癒の根本原理を把握したものである。





[464] 25-10  五日の法語  無きものを無きとせよ
明鏡 - 2013年09月17日 (火) 21時12分



君は神を肯定するか。病いを肯定するか。これが先ず諸君の運命を決定するのである。



目に見えざる神を信ずるか。目に見ゆる五官的存在を信ずるか。二者択一の問題である。


神のみが実在であり、神の世界のみが実在であるから、そして神は善であるから、実在の世界に悪は存在しないのである。


実在の世界に於いては苦痛は存在しないのである。病気は存在しないのである。


迷いの心も存在しないし、苦病を感ずる感覚も存在しない。


般若心経(はんにゃしんぎょう)の 「 五蘊皆空(ごうんかいくう) 」 であり、眼耳鼻舌身意無(げんにびぜっしんいなし)である。唯(ただ)あるものは実相のみ、彼岸のみ、極楽のみである。





[466] 25-10  六日の法語  実相は仮相ではない
明鏡 - 2013年09月18日 (水) 16時55分



善の中に悪はなく、悪の中に善はない。生命(いのち)の中に病(悪)はなく、病の中に生命(善)はない。


生命の中には生命のみがあるのである。


生命の中に死物であるところの物質はない。生命の中には、物質(肉体)が腐食すると云うような病いはない。生命にとっては「物質の腐食」(病)と云うようなことは存在しないのである。


物質肉体は生命(せいめい)でなく、生命(人間)は物質ではない。


実相は仮相ではない、仮相は実相ではない。実相の中に仮相はなく、仮相の中に実相はない。


人間は神の子であり、霊的実在であり、未(いま)だ曾(かつ)て病人だと云うこともなく、これからも病むと云うことはないのである。




[467] 20-10  七日の法語  「 迷いの心 」 はない
明鏡 - 2013年09月18日 (水) 17時02分



「迷いの心」「迷わぬ心」「実相の心」「仮相の心」そのような二元論的な考えは間違である。


ただあるものは「実相の心」のみである。


本当に存在する心は「実相の心」のみであるから、「迷いの心」などと云う語は或(あ)る意味から云うと、間違った語法である。


真実存在する心は唯「神の心」のみであるから、「迷いの心」とは単に「非存在の心」と云う意味である。


慧可禅師(えかぜんじ)が『この心迷って仕方が御座いませぬ』と云ったときに、達磨大師(だるまだいし)が『その迷いの心を持って来い』と云った。慧可は「その『迷いの心』を探したが見つからない」と答えた。


「迷いの心は無い」これが達磨の悟りであり、慧可の悟りであった。





[468] 25-10  八日の法語  月は常に円相である
明鏡 - 2013年09月18日 (水) 17時07分



皎々(こうこう)と輝く月にとっては、雲は存在しないのである。雲は下界(げかい)の心から見るから存在するのである。


月そのものにとっては存在しないのである。「迷いの心」は此の雲のようなものであって、人間そのものにとっては存在しないのであるが、下界の心(五官の心)にとってのみあるかの如(ごと)く見えるのである。


月そのものにとっては、月は常に円相である。


そのように下界の心(五官の心)にとっては、人間が病み苦しみ不幸になるように見えても、人間そのものにとっては人間は円満完全であり健康である。




[469] 25-10  九日の法語  人間の病気は夢である
明鏡 - 2013年09月18日 (水) 17時11分



神癒の根本は神はすべての渾(すべ)てであり、神は霊であり、神は愛であり、神は善であると云うことである。


従って霊ならざるものは何一つ存在しないと云うことである。そして「人間は神より出でたる霊的放射である」と云うことである。


人間は神の霊的放射であるから、自己がそれを甘んじて許さない限り、物質的法則によって支配されると云うことはないのである。


又、人間は霊的実在であるから黴菌(ばいきん)や気候の変化や、肉体の酷使などによって冒されると云うことはないのである。


従って人間が病気になったり、不幸になったりすると云うことは唯「夢」である。見ゆれども実在ではないのである。




[470] 25-10  十日の法語  妄想(もうぞう)から病気が起る
明鏡 - 2013年09月18日 (水) 17時16分


悪が存在するという妄想、激情、邪慾(じゃよく)、邪恋、害心、恐怖、嫉妬(しっと)、猜疑(さいぎ)、羨望(せんぼう)、憎悪、復讐(ふくしゅう)の念、増上慢、憤怒、悲哀、寂寥(せきりょう)の感、罪ありとの観念・・・・・・これらはいずれも、円満な月を蔽(おお)う叢雲(むらくも)のようなものである。


それは悪が存在すると云う最初の妄想、換言すれば、神以外のものが存在すると云う第一の神性隠蔽(いんぺい)(迷い)から生じたものである。


第一の最初の神性隠蔽から、恰度(ちょうど)、月の光が叢雲に蔽われた暗夜(やみよ)に不詳の事件が起るように、「悪が存在する」という迷いの下に暗くなった心の中に上記のような色々の妄想があらわれ、それが病気や不幸を表現さす原因になるのである。



[471] 25-10  十一日の法語  懺悔(ざんげ)によって心を浄めよ
明鏡 - 2013年09月18日 (水) 17時20分



すべての妄想、邪念、激情・・・・・その他病気不幸を来す想念感情は、懺悔によって消えるのである。


雲は晴れても晴れないでも円月は円月であるのに相違ないけれども、雲が綺麗(きれい)に洗い流された時にのみ下界からもその美しい円月が観(み)えるのである。


迷いの心が五官の世界に、どんな不完全な相(すがた)を投影しておろうがいまいが、人間の本当の姿は、円月のように完全であるにちがいないが、


しかし下界の世界(肉眼の世界)にも、人間の本当の完全な相があらわれるためには迷いの心を懺悔の心によって「ああ済まなかった」と洗い流す事が必要なのである。




[472] 25-10  十二日の法語  いつまでも心で「闇(やみ)」をつかんではならぬ
明鏡 - 2013年09月18日 (水) 17時23分



懺悔によって、雲を涙の雨で洗い流した後に必要なのは、いつまでも過去の罪に捉(とら)われない事である。


吾々(われわれ)は手掌(てのひら)を返すように、迷いから悟りの方へ、闇から光の方へクラリと心を転向しなければならない。


手の甲が上を向っていたのが、クラリと手掌を一転して上向けば既に手の甲は上にないが如(ごと)く、罪あり、迷いありと見えた心の状態も、それを「ああ間違っていた」と光の方を振向けば、既に闇は消えて無いのである。


いつまでも、罪や、迷いや、悪をありと思ってはならないのである。






[541] 25-10  十三日の法語  物質に健不健はない
明鏡 - 2013年09月28日 (土) 11時49分



健康と云うのは物質の問題ではない。


物質には物理化学的性質があるだけあって、健不健はないのである。


肉体は物質であるから肉体に健不健はないのである。


肉体の状態を色々気にしている者があるが、健不健は 「 心 」 にあるのである。


吾々は五官の證明(しょうめい)を信じて、「 此処(ここ)に病気あり 」 などと

考えてはならないのである。


人間は霊的実在であって 「 神より出でたる光 」 であるから、物質の法則によって

冒されるものではないのである。


自然科学の法則は人間に益するように利用することは出来るが、

人間を害するように作用することが出来ないのである。


唯(ただ)、人間を物質的肉体だと云う群衆意識で自己暗示に陥って物質の法則に害されるのである。






[546] 25-10  十四日の法語  人間は霊である
明鏡 - 2013年09月29日 (日) 19時28分



人間は神の子である。神は霊である。従って人間は霊である。


霊的存在である人間は物質ではなく、肉体でもないのである。


肉体というものはただ吾々の五官の心が霊的波動を、時間空間と云う時間及び縦横厚みの

四次元的ひろがりの銀幕 ( スクリーン ) とも云うべき 「 認識の形式 」 の上に

置き直して表現した形態であって、人間そのものの姿ではないのである。



併(しか)しひとたびそう云う 「 銀幕(スクリーン)」 上に表現して見ると、

五官の心はそれを実在(´´)と誤認してつかむのである。



そして、物質の愛くべき破壊、消耗などの運命をあらわす。

これが蛇の智慧にだまされてエデンの楽園から追放せられたのである。




※ 実在(´´) ・・・ワードの文字を強調するルビです。




[555] 25-10  十五日の法語  五官の世界は象徴である
明鏡 - 2013年09月30日 (月) 18時19分



吾々は人間の本質を自覚するには、五官的認識から飛躍しなければならない。


五官に見える状態は一種の象徴として取扱わなければならないのである。



それは物そのものではなく、画家が画家自身の生命の象徴を絵として表現するように、

吾々は五官の世界に自分の心の波動を象徴として表現するのである。



象徴とは 「 象(かたち)」 として捉えがたきものを 「 象 」 をもって徴(しるし)として

あらわしたものである。



だから、私は、「肉体も環境も吾が心の象徴(かげ)」と云うのである。







[562] 25-10  十六日の法語  物質の法則は実は想念の法則である
明鏡 - 2013年10月01日 (火) 11時08分



物質の法則というものは【本来の意味で謂(い)えば】 「 無い 」 のである。

何故なら、物質は影であって実在ではないからである。



物質の法則と見ゆるものはすべて想念の法則である。心の法則である。


物質そのものが法則を与えるのではなく、心が法則を与えるのである。

自然界の法則は「神の想念の法則」の上に「人間の心の法則」を二重映ししたものである。



神の想念の法則は不変でありただ善のみ生ずるが、人間の心がその上に

印(いん)する法則はその人の心に従って二重映し的に、善のみの状態を不完全に

現像して病気等があるかの如くあらわすのである【。】が、

病気は【心の相(すがた)の現像であって本来】無いのである。



※ 本に所収する際に、【 】部分は付け加えられた箇所。
( が、は削除 )




[564] 25-10  十七日の法語  自然の法則も心で変化する
明鏡 - 2013年10月02日 (水) 09時13分



京都府舞鶴市に有名な外科の医学博士があった。


常にレントゲンで患部を診察して執刀施術をするのであったが、

ついに自分の右の手にレントゲン潰瘍を生じて手指(しゅし)を

三本切除しなければならなくなったのである。



あと残った拇指(おやゆび)と人差指の二本も切除するほかはないと云う時に

その医者は 『 生命の實相 』 を読んだのである。



そして人間は神の子であり、自然界の法則の主人公であり、自然界の法則を

駆使することは出来るが自然界の法則は人間を害することは出来ないと悟った。



すると潰瘍の進行は止って、手指の切断は不要となり今では残った二本の手指で自由に外科手術を

行っているのである。





[565] 25-10  十八日の法語  実相人間には法則は害し得ぬ
明鏡 - 2013年10月03日 (木) 08時06分



レントゲン照射を過度に行うと潰瘍を生ずる。それは自然の法則である。


その潰瘍は中々癒えがたいものであって患部が段々拡大し手腕全体にひろがる惧(おそ)れがあり、そして又癌に移行することがある。それは自然界の法則である。


その法則に従って医者は手術するのである。



ところがその患者が 「 人間は神の子であり、自然界の法則は人間を益するためにのみ

作用することが出来るのであって、人間を害するために作用するように見えるのは

自己の迷いだ 」 と悟ると



自然界の法則が人間を害しなくなくなるのは、法則が不確実原理のものであって人間の信念によって左右せられる証拠である。





[569] 25-10  十九日の法語  実相人間は物質や黴菌には害されぬ
明鏡 - 2013年10月04日 (金) 03時41分



真に健康を得ようとするならば、物質が人間を支配し得る、黴菌が人間を支配し得ると云うような考えを絶対的に克服しなければならないのである。


実相に於ては、人間は霊的存在であるから物質に支配されることはないのである。


実相に於ては、人間は万物の霊長であるから黴菌に支配されると云うことはないのである。


実相に於いては 『 甘露の法雨 』 にあるように 「 一切の生物処を得て争うものなく相食(あいは)むものなく」互に害する状態は存在しないが故に黴菌に冒されると云うこともないのである。


「 絶対そんなことはない。ない。ない。神の子の勝利だ 」 と三万遍繰返して思念せよ。






[573] 25-10  二十日の法語  愛に背く法則は存在しない
明鏡 - 2013年10月05日 (土) 14時11分



物質は人間を害する力であると云う古き皮袋の中に、真理の新しき酒を注ぐことは出来ないのである。


また古き酒が充満している甕(かめ)の中に新しき酒を注ぐことも出来ない。


刻苦精励して、物質の人間に及ぼす権威を潜在意識の中から逐(お)い出し、新たに人間神の子の権威を潜在意識の中にたたみ込まなければならないのである。


在来の物質観を捨て去り、宇宙には唯一つの大法がある。それは神である。


神の大法は愛であり、調和である。愛にそむく法則、調和に背く法則などはあり得ようがない、従って、人間に苦痛をもたらす法則などはあり得ようがないと云うことを知ることである。





[580] 25-10  二十一日の法語  最初に 「 心 」 あり、万物あらわる
明鏡 - 2013年10月06日 (日) 10時02分



原子は如何(いか)にして生じたのであるか。原子を構成する電子、陽子、中性子、中間子等々・・・の素粒子は物質から生じたのであるか。それは物質を生じたのであって、物質から生じたのではないのである。


かかる素粒子は非物質の真空より生じ、また非物質の真空の中に消散するのである。


非物質の叡智(えいち)が素粒子の根元であり、その素粒子が物質を構成する法則も非物質の叡智である。


非物質の叡智とは 「 心 」 である。


心が物質に先立つのである。物質にもある働きがあるが、それは 「 内在の心 」 である。
心は物質を造り、物質を支配するのである。




[584] 25-10  二十二日の法語  「 心 」 は偉大なる創造者
明鏡 - 2013年10月07日 (月) 10時25分



「 心 」 は偉大なる創造者である。 「 心 」 が 「 物質 」 に先立ち 「 物質 」 を創造したものならば、
「 心 」 は主人公の方が従僕よりも権威があるのは当然である。


尤(もっと)も従僕の方が主人公よりも或る特別なよき働きをすることもあるが、
「 心 」 は空間的存在ではないから、物質の入り込み得ない処へも侵入して、それを適当に処置し得るのである。


脊椎(せきつい)カリエスで骨質の中へ結核菌が入り込んで骨質がボロボロになっているものでも
「 心 」 が真理を悟ると治ってしまうのである。




[588] 25-10  二十三日の法語  真の完全なる治癒
明鏡 - 2013年10月08日 (火) 00時20分



病気が治るか治らないかは、如何なる治療法をとるかどうかと云うことが問題ではないのである。

吾々は必ずしも其人(そのひと)が物質的治療法をとることを排斥するものではない。



それが治ると治らないとは、患者の迷いの心が、その治療法を媒介として、克服され、

生命の本来完全なる姿が自覚されるか否かによって決定するのである。



真の完全なる治療は、ただ生命の自性円満なる相(すがた)が実現することによってのみ可能で

あって、それ以外の治癒は結局、一つの迷いの信念を或る方法によって克服したことに過ぎない。





[595] 25-10  二十四日の法語  薬剤を信ずる者には薬はきく
明鏡 - 2013年10月09日 (水) 07時58分



薬剤の効果は厳密に云って科学的法則ばかりによるのではない。

だから同一の種類の病気に対する同一の処方が或る人には立派な効果をあらわすし、

或る人には不確な効果しかあらわさないのである。


これは患者の精神状態が甲と乙と異ることによるのである。


薬剤を信ずる者には薬剤が効果をあらわすが、 「 結核には治す薬はない 」 などと

信じながら、何かに頼っていなければ淋(さび)しいと云うので薬剤を用いても、

それを信じていないから効果はないのである。



かかる場合には断じて薬を排して自己の内に宿る神(自然療能)に頼ることである。





[597] 25-10  二十五日の法語  自然療能力に頼れ
明鏡 - 2013年10月10日 (木) 09時09分



信ずべき薬あればそれを摂(と)れ。信念が癒すであろう。


信ずべき治療法なければそれに頼るな。生きている不可思議の力に頼れ。
この力が実際あることは自分自身が知るのである。


黴菌が侵入して来た場合に、体温を上げて殺菌し白血球で黴菌を殲滅(せんめつ)しつつある不可思議なる力に頼れ。その力は信頼するほど強力となって病源を退治してくれるのである。


自然療能が信じなければ強く発現しないのは、自己の部下でも信じなければ充分働かないのと
同じである。


自分は細胞群の指揮者であるから指揮者が恐怖すれば兵卒は萎縮して敵軍に降伏してしまう
のである。





[602] 25-10  二十六日の法語  心を明るくせよ
明鏡 - 2013年10月11日 (金) 01時32分



心に希望をもち、勇気をもち、心を常に愉快に保つ者は速かに癒えるのである。 


肉体を構成する一切の細胞は物質ではないのであって、心の具象化せるものである。


だから、その指揮者である本人の心の状態に非常に鋭敏に感ずるのである。


先ず本人の心が恐怖心を滅しなければならない。



「病気が自分を殺すかも知れぬ」と云うような恐怖を捨てなければならない。

病気が客観的存在であって自分を傷つけると思うのは迷信であるのである。



病気は自分の心が作ったものであり、幽霊の正体見たり枯尾花である。

自分の心が変れば、対象が変化するのである。

( 別著 『 神癒への道 』(新選谷口雅春選集第三巻) 参照 )





[607] 25-10  二十七日の法語  人間は肉体に非ず
明鏡 - 2013年10月12日 (土) 11時10分



病気は恐怖を去ればその八十%は治ったと云ってもよいが、

しかし恐怖心を恐怖することも止(や)めなければならない。



人間の実相は 「 神の子 」 であるから病気によっても、恐怖心によっても

滅ぼされるようなものではないのである。



肺臓が何だ、心臓が何だ、脳髄が何だ、血液が何だ、人間は肺臓に非ず

心臓に非ず、脳髄にあらず、筋肉にあらず、それらすべてを結合したるものにも非ずだ。



人間は霊なり、神の子なり、実相なり。人間を動かすものは 「 神の生命 」 である。

それ以外のものの増減に捉(とら)われてはならないのである。





[614] 25-10  二十八日の法語  体温計が麻痺(まひ)症を治す
明鏡 - 2013年10月13日 (日) 15時10分



サー・ハムフリー・デービーは或る麻痺症の患者を診察して患者の体温を測るために、

体温計を患者の舌の下へはさんで暫(しばら)くじっとさせていた。

体温計を舌の下へはさんでいるうちに其の麻痺症は治ってしまったのである。

患者は始めての経験なので、体温計を病気を治す機械だと思い間違えていたのである。


水をモルヒネと信ぜしめられて注射されると疼痛(とうつう)の治る患者や、

饅頭(まんじゅう)のアンを丸めてドイツ新輸入の催眠剤だと教えられて、

不眠症の治った人もある。


これによっても治病の効果は、物質そのものの効果の上に著(いちじる)しく、

患者自身の信念が作用するものだと云うことが判(わか)るのである。







[616] 25-10  二十九日の法語  健康も感染する
明鏡 - 2013年10月14日 (月) 10時42分



人が泣いているのを見ると涙が出て来る。

唯この一つを考えて見ても、人の感情が感染して其人(そのひと)の内分泌液に

変化が起ることが判(わか)るのである。



涙が感染するとすれば、消化液の分泌状態も感染する。

換言すれば胃病も感染するのである。



涙が感染し、胃病が感染し、欠伸(あくび)が感染し、感冒が感染し、

肺病が感染する ー 多少物質的影響もあるが、

心の感染が物質的感染の素地(そじ)を作るものであることは明(あきら)かである。



その反対に健康なる心の感染によって病気が癒えることも度々(たびたび)あるのである。

それは飛田給練成道場の生長の家練成会に於て往々(おうおう)見られるところである。







[623] 25-10  三十日の法語  暗黒より心を一転せよ
明鏡 - 2013年10月15日 (火) 16時56分



事物が何事も思うように行(ゆ)かず、八方ふさがり、四面楚歌(しめんそか)の

ように見えるとき、その暗黒より心を一転して光明面を見、光明面のみを心に描き、

光明面のみを語る者は偉大なるかな。



今の形の世界は、過去の心の影であるがゆえに、

そして今後の状態は、これから心に描く相(すがた)の影であるがゆえに、

現在何があろうとも恐れることはないのである。



既(すで)に汝(なんじ)は神の子であることを信ぜよ。

既に汝は健康であることを信ぜよ。

既に汝は勝利者であることを信ぜよ。

既に希望は実現せることを信ぜよ。


今より後(のち)常に斯(か)く信じて行動せばそれは必ず実現するのである。






[626] 25-10  三十一日の法語  われは神の子である
明鏡 - 2013年10月16日 (水) 12時18分



「 われは神の子である。

われは最勝(さいしょう)なるものである。

われは病いを病まず。

われは苦しみを苦しまず。

われは悦びそのものである。

われはすこやかそのものである。

われは愛である。

われは智慧である。

われは勇気である。 」


神想観の最後にこのような言葉を数回繰返し思念することは精神に悦びを満たし、

神の子の自覚を深め、健康を増進し、愛と智慧とに満たされたる光明生活を

現象界に実現する最もすぐれたる方法である。


何故(なぜ)なら人はその最も深く想念するところの事物となるからである。






[631] ( 27日 )  毎日の朝々(あさあさ)光明の想念を満たせ
明鏡 - 2013年10月17日 (木) 15時19分



朝起きたときの最初の思いは 「 私は神の子だ、私は楽しい 」 と云うことで

なければならない。


その思いを出来るだけつとめて意識的に思い出すようにすることだ。


朝起きたとき、「身体(からだ)がダルイなあ、つまらない人生だ」などと思ってはならぬ。


そう思いそうになったときには、 「 私は神の子だ、楽しいなァ 」 と

強(し)いて呟(つぶや)け。


そして眼前の蒲団(ふとん)を見よ、「蒲団があったので安楽に眠れたのだな。

これも神様のお恵みだ、ありがとうございます。」ととなえよ。


かくとなえながら蒲団に感謝して蒲団を押入(おしいれ)にしまうがよいのである。

こうして、朝起きたときの最初の憂鬱(ゆううつ)の感じを吹っ飛ばしてしまうのである。


一日の出発は朝にある。


朝の感じの好いときに思いついた仕事は成功するが、

憂鬱な気分のときに思いついた仕事や考案には碌(ろく)なものがなくて

失敗に導いて行(ゆ)くものが多いのである。








[635] (28日) 神の癒力を受けるには
明鏡 - 2013年10月18日 (金) 20時08分



どんな重い病気の力よりも、神の癒やし給う力は強いのである。


ただ人間が他の力の方へ振向いて神の癒やす力の方へ振向こうとしない事が、

人間の禍(わざわい)であるのである。


これが、「アダムが蛇の知恵にだまされて、知恵の樹(こ)の果(み)を食った」と云う

喩(たとえ)である。


人間の知恵の方が神の知慧よりまさっていると云う考え方である。


この考え方を改めない限り、神の癒やす力に対して、吾々の心が全開(まるびら)きには

されないので、神の癒力は多少とも常に働いてはいるが、完全には働かないのである。


と云って私は薬剤を排斥せよと云うのではない。

製薬業者も神の子であって、神の知慧を受けて出来る丈(だけ)の事をしているのである。


それは心の問題である。

神が授けたまうた霊薬(れいやく)として医者の処方してくれた薬剤を

拝んで飲むとき驚くべき効果が発揮される。









[640] (29日)  神の癒やす力を受けるには
明鏡 - 2013年10月19日 (土) 18時57分



神の癒力(ゆりょく)を受けるためには、何もしないで、神にまかせ切りだなどと

怠けたことを考えてはならないのである。


神の癒力を受けるには熱心に祈らなければならないのである。

祈りが徹底すればするほど、神の癒やす力の流れ入(い)る道がひらかれるのである。

神の癒力と波長が合うのである。


祈りは最も強力なる神への道の開拓者である。


しかしその祈りは泣きつきや、暗い感情に満たされている掻(か)き口説(くど)きで

あってはならないのである。


イエスは 「 言葉多きによってきかれんと思うな 」 と教えているのである。

クドクドと愚痴(ぐち)るのは真の効果ある祈りではないのである。


神の無限の力を信じて、それに全託してしまって、心が平和に満たされつつ

「 神の癒やす力が今自分に流れ入りつつある 」 と念ずるが好いのである。



別著 『 祈りの科学 』 (新選谷口雅春選集第四巻)及び 『 健全の真理 』 (谷口雅春法話集第四巻)
参照。







[641] (30日)  神は神罰を当てぬ
明鏡 - 2013年10月19日 (土) 19時05分



「 往(ゆ)きて福音を宣(の)べ伝えよ 」 と云うのがイエスの教えであった。

祈りが成就しない原因のなかには、この福音を宣べ伝えないことが

原因になっていることもあるのである。


東京渋谷区にセブンス・デェイ・バプチストの基督(キリスト)教会が出来たが

講話をききに来てくれと私の宅まで挨拶(あいさつ)に来た二十歳位の娘さんが

あったのである。


その勇敢な伝道ぶりには感じさせられたと私の家内が云っていた。


何とか云う新興宗教は、 「 一人で百人を信者に勧誘しないと、この病気は治らぬ 」 と

言っておどして信者拡大をする方便としている。


この種の恐怖宗教は決して少くなくないのである。


××教では 「 人を救えば我が身たすかる 」 と云って、自分の業が解消し、

因縁を切り病気が治るためには、他の人をその宗教に引込まねばならぬと教える。


自分が助かりたいために血まなこになって病人を探して伝道している××教信者は

それである。



生長の家のみ神は神罰をあてぬと云う。


本当の正しい宗教は人に安心を与えるのである。


恐怖を与える教えは宗教の仮面をかぶった説教強盗みたいなものである。









[642] (31日)  新年を迎える心の準備
明鏡 - 2013年10月19日 (土) 19時16分



あなたの心のうちに新年を迎える準備が出来ていますか。


今年もよく三百六十五日を無事に過すことが出来ましたのは

神様、あなたのお陰でございます。


神に感謝致しましょう。

御先祖様に感謝致しましょう。

父母に感謝致しましょう。

夫又は妻に感謝致しましょう。

家庭の、又は勤め先の、協力者すべてに感謝致しましょう。


みんな心の中に思い浮べて、しみじみと心の中で御礼を申しましょう。


今年一年の間に過って何か不快な思いをさせたことがあったかも知れませんが、

どうぞそれをお赦し下さいと念じましょう。


この感謝と懺悔とによって、今年一年中にあったすべてのあなたの思いと行いとが

清められるのです。


そして、来年になすべき善き事のプログラムを定めましょう。


では皆さん、御機嫌よう。




※ 当初10月の法語でしたが、本に所収される際に12月の法語になっております。









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