[914] 十一月 さらに新芽を含む |
- 伝統 - 2015年10月29日 (木) 18時41分
(上旬)
人を憎んでいては、健康にはなれない
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月1日)より
春に出る新芽は春になって初めてできるのではない。 もう11月の頃から、あるいはもっと早くから用意されているのである。 この用意が不完全だったら、よい新芽は出ないのである。
まちがい上に本物を建てることはできない。 健康になりたい人はまずまちがいを捨てなければならない。 まちがいの上にどんな立派な建物を建ててもそれは倒れてしまう。
「まちがい」とは、それが《ある》かのように見えても本来、「当に有るべからざるもの」 すなわち「不当有(ふとうう)」であるから、不当有(ふとうう=まちがい)の上に 物を建てたものは、いずれも壊(くだ)けてしまうのである。
人を憎んでいて健康になどなれるものではない。
憎みは「不当有(あるべからざるもの)」であるから、神に対する背反である。 神は「生命(せいめい)」であるから、「憎み」のあるかぎりその人は「生命(せいめい)」 に背反しているのであるから、その人の健康が不良なのは当然である。
「憎み」を持続しながらその人の健康を維持しているように見えても、 それは表面のことであって、その人が、「神」すなわち「生命(せいめい)」に背反して いる限り、すでにその人の健康は危殆に瀕しているのである。
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人の本質を礼拝せよ!
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月2日)より
怒り、憎み、恐怖、嫉妬、利己心、冷酷・・・等々は いずれも「生命(せいめい)」に対する背反である。
みずから癒えんとする者および他(ひと)を癒やさんとする者は、 これらの心を捨てて愛をもって置き換えなければならぬ。
善人を愛するだけではなんにもならぬ。 悪人をも愛すると言っても悪を容認する意味ではない。
悪人は本来「不当有(ふとうう)」であるから、悪人と見えていても、 実は何かのまちがいでそう現れているだけであるということを知り、 その人の本質を礼拝して疑わぬことである。
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濁り水を捨て、真理の水を注げ!
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月3日)より
生命(せいめい)の清水(しみず)を注ぎ込むには 全部の濁り水を捨ててから、注ぎ込むことが必要である。
濁り水を残しておいて清水を注ぎ込んでも、われわれは依然として濁り水を見るのみである。
怒り、憎み、恐怖、利己心、冷酷・・・等、すべて愛に背く心を残しておいて 『生命の實相』を読んで真理を注ぎ込んでみてもなんにもならぬ。
せっかく清冽(せいれつ)な真理の水が濁るばかりである。
よき衣装をまとうには、古き弊(やぶ)れ衣を脱ぎ捨てねばならぬ。 襤褸(ぼろ)の上に美しい衣装をまとってみても不似合なばかりである。
心の襤褸の上に、真理を羽織ってみても効果はない。 真理をまとうくらいならば、今までのものを全部捨てて真理を着ねばならぬ。
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「本当の汝」を呼び戻せ!
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月4日)より
なんじの愛の乏しきことを嘆け。 なんじの心の審判(さばき)の満ちたることを嘆け。 なんじの心に虚偽(いつわり)の満ちたることを嘆け。
真理がなんじの心のうちに未だ顕れざることを嘆け。 本物を蔽(おお)い隠す泥棒のみ主人顔をしてなんじのうちに幅を利かせていることを嘆け。 なんじの物質精神を嘆け。
「本当の汝」はいずこにいるぞ。
それでもなんじは「真理」を悟ったというか。 『生命の實相』を読んだというか。
いな、いな、いな、断じて。 真理はなんじの中(なか)にいないのである。 「《本当の汝》」は汝の中にいないのである。
「本当の汝」をなんじの中に呼び戻せ。 なんじは癒ゆるであろう。
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神人一体を行ぜよ
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月5日)より
神と人とが一体であることを、書籍の上で読むだけではなんにもならぬ。 神と人とが一体であることを、行じねばならぬ。
神の愛が、神の御心がなんじによって行じられねばならぬ。
なんじは神の表出口である時にのみ、 神に結ばれて神によってその存在意義がみとめられるのである。
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永遠価値のものを愛し、考え、求めよ!
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月6日)より
万事物質的なものは遷りかわるものであり、その遷りかわるものに心惹かれているかぎりは、 波にさらわれた小舟のようなものであって不安は去らない。
われわれは遷り変わらないものを愛しなければならぬ。 永遠価値のものを愛しなければならぬ。 絶対的なものを愛しなければならぬ。
すべて心を労してもとめても、やがて価値の変わるものに心を労してはならぬ。
神より出ずるもの、神の属性であるもののみ無限価値がある。 愛は無限の価値あるものである。 赦しは無限価値あるものである。
忠、孝はむろんのこと、すべて肉体を超えて永存する価値のことを考え、求めねばならぬ。
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愛なき心がわれらを傷つける
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月7日)より
物質はわれわれを傷つけることはできぬ。 愛なき心がわれらを傷つけるのである
―― そしてあたかも物質がわれわれを傷つけたるがごとく錯覚せしめるのである。 物質に傷つけられたるがごとく見えている時に、反省してみると、 物質によるよりも先ず自分の心が恐れていたか、憎んでいたか、怒っていたか ――
ともかく傷ついていたことを発見するであろう。
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キリストは道標
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月8日)より
キリストに対するユダヤ人の呪いは「彼は自分自身を神の子と称せり。彼は神を?(けが)す ものである」ということであった。
ユダヤ人の思想には、人間は永遠にエデンの楽園から追放された「土の塵の人間」、 「汝は土より採(と)られたれば土に還るべきなり」とエホバの宣言したところの 物質人間でしかなかったのである。
キリストが出て、当時のユダヤ人の思想を覆して、 「人間は神の子である」と宣言したのである。
そして「我(われ)は道であって、この道を通ればすべての人間は神の子なることを自覚し えて、永遠に渇(かわ)かない生命(せいめい)を得る」と断言したのである。
キリストは道標(みちしるべ)であった。 キリストの指し示したところをわれらも自覚するとき、 われら自身もキリストと同じく神の子たるを得るのである。
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肉体を思い煩うことなかれ!
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月9日)より
人間は神の子であるということが覚れたら、人間は肉体のことを思い煩わなくなる。
思想の上では「人間は神の子だ」と知りながら肉体のことを思い煩っている間は、 なおその人の本心は、「人間は肉体であり、物質である」と信じているのであって、 自分は「人間は神の子だ」と覚っていると言っても自己欺瞞にすぎない。
神のほかに何物にも頼らなくならなければ本物ではない。
そしてだれにも責任を負わせないで、自分のみが責任を負うようにならなければ本物ではない。
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*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月10日)より
人間は「神の子」であるから不死である。 死んだと見える人間は、それは始めから死んでいるところの物質でしかないのである。
病気が治ったことを悟ったためであるというのは、自分の反省を鞭撻する資料になっていいが、 病気が治らないで死んでいる人のことを、彼が悟らないからだと言うのはどうかと思う。
釈迦もその肉体は死に、キリストもその肉体は死んだのである。 とうにわれわれは肉体においては死にきっていたはずの自分ではないか。 病もなく死もなくして、病を現じ、死を現じているのが肉体であるのである。
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