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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐

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[30] 『生長の家』誌 昭和25年7月号 法語 谷口雅春先生(1)〜(31)【完】
明鏡 - 2014年06月30日 (月) 20時45分

【 目次 】


一日の法語  狭き門より入れ

二日の法語  五官は番犬に過ぎない

三日の法語  五官の心を神にまで統制せよ

四日の法語  人生の目的は神を実現せんがためである

五日の法語  今、吾が生命を直視(じきし)せり


六日の法語  絶対者の顕現としての我

七日の法語  己に克つことが実相を顕現する

八日の法語  肉体の快楽に精力を浪費してはならない

九日の法語  生命の真理を自覚する

十日の法語  自己が霊的存在であることを瞑想せよ


十一日の法語  肉体を神の栄光のために捧げよ

十二日の法語  神の国を迷いで汚すな

十三日の法語  地上の欲望を超えた者は高級霊である

十四日の法語  影を追いて実を求めぬ者は愚かなり

十五日の法語  消ゆる肉体を永遠の存在だと思うな


十六日の法語  肉体は死んでも人間は死なない

十七日の法語  常にそのままであれ

十八日の法語  良心は汝にやどる神の囁(ささや)きである

十九日の法語  自己の迷いで縛られるな

二十日の法語  精進努力は実相実現の鑿(のみ)である


二十一日の法語  実相は肉体よりも尊い

二十二日の法語  未来は今日の想念の中にある

二十三日の法語  肉体を十字架につけて新生せよ

二十四日の法語  過去の悪は既に無いのである

二十五日の法語  浮世の喜びは玩具(おもちゃ)に過ぎない


二十六日の法語  「 若(も)し・・・ならば 」 と云うな

二十七日の法語  現状に飽き足らぬ人は現在が不幸になる

二十八日の法語  常に自己を反省せよ

二十九日の法語  心に悩みを抱いてはならぬ

   三十の法語  悪癖を矯正するには

  三十一の法語  常に神は吾を守り給う




[31] 一日の法語 ・ 二日の法語
明鏡 - 2014年06月30日 (月) 20時51分



【 一日の法語  狭き門より入れ 】


実相の智慧以外に

何人をも幸福ならしめるものはないのである。


それ故にたえず実相の書をよみ、実相を観じ、久遠不滅の実在の世界を把握し、

久遠不滅の自己を想念することを努めなければならないのである。


実相智は 五官の智慧では求むべくもないのである。


実相智に達するには

五官の誘惑に打ちかたなければならないのである。


実相智に到達すれば 喜ぶ世界のみであるけれども

それに到達するには 己に打ち克つことが必要である。


「 己 」 とは 「 ニセモノの自分 」 である。

「 狭き門より入れ 」 とイエスが教えたのは そのためである。




【 二日の法語  五官は番犬に過ぎない 】


五官の心は 「人間自身」 ではなく

人間の道具である。

それは 番犬のようなものである。


五官の喜びは 番犬の喜びであり、

人間自身には ニセモノであり、迷わしであり、

それは 幻にすぎないのである。


幻にすぎない快楽は

永遠に持続するものではない。


されば ニセモノに打ち克ち

本物を現わすために

決然 克己心をふりおこして

過去の肉体的欲望の惰力に

打ち克たなければならないのである。


肉体の快楽は 一時的に汝を喜ばすかは知れないが、

汝の魂に深い悩みと淋しさとを残すのである。


それは 「 本当の自分 」 が

打ち敗(ま)かされたからである。


本当の魂を喜ばすのは

実相智によるほかはないのである。




[32] 三日の法語 ・ 四日の法語 
明鏡 - 2014年07月02日 (水) 23時02分



【 三日の法語  五官の心を神にまで統制せよ 】


本当の喜びは 五官の心を徹底的に自己統制して、

自分の生活の凡ゆる瞬間、如何なる小さき行動も、

如何なる小さき心の想いも

神にささげてしまった時にのみ得られるのである。


人生とは 「 ニセモノの自分 」 が 「 本物の自分 」 ( 神 ) に

徐々にささげて行く所の練習過程である。


早くささげきったもののみが本当の幸福に入り

永遠不滅の魂の喜びを味わうことができるのである。


番犬である五官の喜びを 「 自分 」 が 喜んでいるのだと思ってはならない。

肉体が喜ぶのは 番犬が喜んでいるのであって

「 本当の自分 」 は隠されているのである。




【 四日の法語  人生の目的は神を実現せんがためである 】


吾(われ)は 今 吾(わ)が本性の 「 神 」 なることを知ったのである。


吾は個人ではないのである。吾は全体である。

吾は無限である。吾は絶対である。

吾は永遠である。吾は不滅である。

吾が人生の目的は これを実現せんがためである。


「 吾が完全円満なる実相よ。

実相の愛よ、吾が内にあふれ出(い)でよ、

実相の生命よ、吾が内にみなぎれよ、

実相の智慧よ、吾が内に湧(わ)き出でよ、

実相の供給よ 吾に豊かにあふれよ。」


かく絶えず自分の内に対して

黙念によって呼びかけよ。


かくすること、十日、二十日、一ヶ月にして

諸君の生活は一変するであろう。




[33] 五日の法語 ・ 六日の法語 
明鏡 - 2014年07月04日 (金) 22時07分



【 五日の法語  今、吾が生命を直視(じきし)せり 】


吾が生命は 永遠に生きて死するものなきものである。

吾は 今 永遠の生命を自覚したのである。


吾は すでに みたされているのである。

吾に煩悩はないのである。

渇欲は もはや吾を苦しめないのである。

罪は 吾を汚すことはできない。


生滅するものは本当の存在でないから、

それに対して吾が心を動かすことはないのである。


吾は凡ゆる苦痛と悩みとの彼方(かなた)に超出したのである。


吾は 今 絶対完全なる自由を獲得して

神人の実相を実現したのである。


五官の誘惑は 自分を もはや ひきつけないのである。




【 六日の法語  絶対者の顕現としての我 】


吾は 永遠なるものである。

吾は 不滅なるものである。

吾は 神である。

吾は 迷える凡夫(ぼんぷ)ではないのである、吾は 仏である。


吾は永遠である。

吾は普遍である。


自分を個別的存在であると思っていたのは 迷いである。

吾は 決して有限の存在ではないのである。

吾は 死をこえたものである。


吾は 時間をこえ、空間をこえ、久遠に存在し、

無限の智慧をもち、無限の愛をもち、

死せず滅せず、苦しまず、悲しまず、

永遠に喜ぶ所のものである。




[35] 七日の法語 ・ 八日の法語
明鏡 - 2014年07月07日 (月) 02時54分



【 七日の法語  己に克つことが実相を顕現する 】


己に克つことが実相を顕現する唯(ただ)一の道である。

「 己 」 とはニセモノのことである。

ニセモノを否定しないで本物が得られると思うな。


五官の快楽にひきつけられている間は

まだ蛇の智慧にだまされているアダムであり、イヴである。

彼は 結局 楽園から追放されねばならないのである。


蛇とは 「 地 」 ( 物質 ) に這(は)うもの、物質についた五官智である。

五官の誘惑は 自分を 「 肉体的存在 」 とみる所からおこるのである。


自分を 「 肉体的存在 」 と思わぬならば、

肉体の快楽にひきつけられることはないのである。




【 八日の法語  肉体の快楽に精力を浪費してはならない 】


肉体の快楽に精力を浪費すれば

霊的能力はそれだけ減少するのである。


霊的能力は本当は無限であり減少することはないのであるけれども

五官に対してのみ 心を奪われている時には、

千手観世音菩薩に千本の手があっても尚(なお)且(か)つ一本の手に心を奪われていれば

九百九十九本の手が何の役にもたたないのと同じことである。


心そこに非(あら)ざれば

見れども見えず聞けども聞こえずである。


心が五官に奪われて、心が 「 霊 」 に向かわなければ

霊的力は発揮しないのである。




[36] 九日の法語 ・ 十日の法語
明鏡 - 2014年07月09日 (水) 01時17分



【 九日の法語  生命の真理を自覚する 】


浮世の苦しみと悩みは、

結局人間が世俗的な名声や、地位や、富や、五官的な喜びを

追い求めた結果、生ずるのである。


かくの如き五官的な世俗的な喜びは

本来実相の喜びでないから、

あるが如く見えても存在しないのである。


だから かくの如きものを求めて

永遠の喜びを追求するのは

焔(ほのお)をのんで渇(かわ)きを癒(い)やさんとせるが如きものである。


魂の喜びは焔をのむことによっては得られないのである。

キリストが 「 永遠にかわかぬ水 」 といった所の生命の真理を自覚することである。


生命の真理を自覚することによってのみ

人間は魂の渇きは 永遠に癒されるのである。




【 十日の法語  自己が霊的存在であることを瞑想せよ 】


生命の真理を自覚する為には、

自己が永遠の生命であり、不滅の生命であり、

無限の智慧と愛と生命とにみたされている所の霊的存在であるということを、

常に瞑想することが必要である。


ダイヤモンドを磨くには

ダイヤモンドを以(もっ)てしなければならないのである。


心を磨くには、心を以てしなければならないのである。


ダイヤモンドであるからこそ磨くのであって、石炭なら磨く必要はないのである。


人間は 本来神の生命であるから磨く必要があるのである。

道元禅師は これを 「 證上(しょうじょう)の修 」 すなわち、

実相は 仏として既に證(さとり)をひらいている上での修行であるのである。




[37] 十一日の法語 ・ 十二日の法語
明鏡 - 2014年07月11日 (金) 00時16分



【 十一日の法語  肉体を神の栄光のために捧げよ 】


肉体の自己を否定し、肉体の欲望を否定し、ニセモノの自分を抹殺し、

肉体を神の目的までささげることによってのみ

人間の実相の完全さは現われて来るのである。


百万の敵軍を殲滅(せんめつ)するよりも

汝(なんじ)の内に宿る低卑なるものを征服する方が偉大であるのである。


汝の内に宿る低きものを征服せよ。

高きものを築きあげよ。

汚れたるものを清めよ。


崇高なるもの、偉大なるもの、価値あるもののみを求めよ。

汝は 間もなく聖者となるであろう。


人間とは 肉体に非ず、物質に非ず、肉体の奥に、

物質の奥に 霊妙極まりなき存在がある、それが人間であるのである。




【 十二日の法語  神の国を迷いで汚すな 】


この世界は神の造った世界である。

だから実相に於いては

完全であるのである。


それは恰(あたか)も親が子供のために

立派な邸宅を造ってくれた様なものである。


その邸宅は 檜(ひのき)造りで

畳はあたらしく どこにも塵(ちり)一つ存在しないのである。


けれどもその邸宅をもらった子供は

そこで 「 五官の快楽 」 や 「 浮世の欲望 」 などと云う色々の玩具(おもちゃ)をだして、

その邸宅を “ ごみ ” だらけに汚してしまうのである。


「 五官の快楽 」 や 「 浮世の欲望 」 などの玩具をとりのけて

その邸宅を清掃した時にのみ

実相の清らかな邸宅を見ることができるのである。




[38] 十三日の法語 ・ 十四日の法語
明鏡 - 2014年07月13日 (日) 00時26分



【 十三日の法語  地上の欲望を超えた者は高級霊である 】



「 五官の快楽 」 や 「 浮世の欲望 」 は玩具にすぎない、

吾々がまだ玩具を好んでいるのは

吾々の魂がまだ未発達で

まだ幼児(おさなご)であるからである。


吾々の魂が成長し、その様な玩具がいらなくなった程度に従って

その人の生命は成長し、進化し、向上しているのである。


されば煩悩の脳熱を消去せよ。

五官の快楽を捨てて 浮世の欲望を放ち去れ、

それが汝の魂の向上する道である。


神の国へ行く道は 「 せまい 」 のである。

徒(いたずら)に楽行道だと称して、五官の喜びに まどわされるのは、

サタンに跪(ひざまず)いて礼拝するものである。




【 十四日の法語  影を追いて実を求めぬ者は愚かなり 】


肉体も 現象世界も 影であることを知れ。

汝ら影であるもののみを追いて、

実なるものを何故(なぜ)かえりみぬか。


本当の喜びは 「 実 」 なるものからのみ得られるのである。


影であるものは空(むな)しいのであるから、

それを得たら幸福であろうかと思って“つかんで”みると、

それは本来 存在しないのであるから

その喜びは消えてしまうのである。


だから肉体の快楽は追求してつかんだ後には

辛き疲労が淋しさが残るだけである。


しかも本当のものをつかんでいないから

益々(ますます)飢えかわいて飽くことを知らないのである。





[39] 十五日の法語 ・ 十六日の法語
明鏡 - 2014年07月14日 (月) 20時40分


【 十五日の法語  消ゆる肉体を永遠の存在だと思うな 】


意志強きものは

やがて神の国に到達することができるのである。


愛深きものは

すでに神の国に到達しているのである。


智慧明らかなるのもは

神の国へ行く道を知るのである。


知り且(か)つ行ずるもののみ

本当に神の国に住むことができるのである。


愚かなるものは、

この消ゆる肉体を永遠の存在であると思い、

それを追求し それを美しく保ち、

人に好かれ様と思うのであるけれども、

彼は 魂のみが本当の存在であるということも知らないのである。


折角(せっかく)手入れをし 美しくし 人に好かれた肉体も

やがて衰えしなび美を失いて死するのである。


肉体は一時の影にすぎないのである。




【 十六日の法語  肉体は死んでも人間は死なない 】


日々に神想観を行じ、

日々に聖典をよみ、

日々に慈悲と愛とを行ずるものは、

太陽が東より出(いで)て、輝きて西の空に入るが如(ごと)く

その魂は必ず霊的光輝を発して極楽浄土に沈むのである。


然(しか)しながらその魂は死するのではないのである。


太陽が輝きて西の空に没するとも

太陽は死んだのではないが如く、

人間の魂も、没したかの如く見えようとも

決して死んでいるのではない。


人が死するが如く見えるのは、 「 幻 」 にすぎない。




[40] 十七日の法語 ・ 十八日の法語
明鏡 - 2014年07月16日 (水) 23時38分



【 十七日の法語  常にそのままであれ 】


常に単純であれ。

常に“そのまま”であれ。

構える心をおこすな。

“そのまま”の心になれ。

しかも行きとどくべし。


常に精神統一を行じ

心を激昂(げきこう)せしめてはならない。


激情は心の波をさわぎたて、

汝の実相の悟りを不可能にするものである。


怒り憎みは、執着すべからざるものに

執着するからおこるのである。


何よりも常に魂のことを考えよ。


肉体のことについて思い煩うな。

肉体は今日一日の存在だと思うべし。


魂は永遠の存在である。

魂の喜びを求めよ。




【 十八日の法語  良心は汝にやどる神の囁(ささや)きである 】


常に高尚なる理想のみを描け。


心にかえりみて

これは卑しいと思うものに

心をふりむけてはならない。


汝の魂が何が尊いかということを

よく知っているのである。


汝の内なる魂のささやきを

無視してはならない。


神は 汝の魂の内にあるのである。


良心は 汝の魂の内なる神のささやきである。


高き理想は 汝の内にやどる神のみこころである。


良心をくらますものは

汝の魂をくらますものである。


常に高き理想を描きて邁進(まいしん)するものは、

常に神につかえている者である。




[41] 十九日の法語 ・ 二十日の法語
明鏡 - 2014年07月19日 (土) 00時01分



【 十九日の法語  自己の迷いで縛られるな 】


蚕は自ら糸をはいて繭をつくり、

自らそれに縛られて眠るのである。


人間も煩悩の糸をはいて、

迷いによって自分の環境の繭をつくって

その内にとりかこまれて身動きができなくなるのである。


いつまでも囚人(とらわれびと)の如(ごと)く

煩悩の繭の中に眠っていてはならない。


煩悩の繭を食い破って

自己解放をとげなければならないのである。


煩悩の糸に縛られるものは

囚人(しゅうじん)である。


煩悩の糸を悉(ことごと)く摧破(さいは)し

克服したものが仏である。




【 二十日の法語  精進努力は実相実現の鑿(のみ)である 】


忍耐、克己及び精進努力は

実相を実現するために

トンネルを穿(うが)つところの鑿であるのである。


吾々は精進努力して煩悩の岩を穿って

魂の自由なる境涯まで達するために

トンネルをうがたなければならないのである。


トンネルを穿つには

真理の光を以(もっ)て照らし、

正義の尺度をもって その方向を定め、

理性によって 今自分が人生のトンネルを如何にうがちつつあるかということを

測定しなければならないのである。


真理と正義と理性によって正しき方向に向かわないものは

折角(せっかく)の精進努力も無駄になるのである。






[42] 二十一日の法語 ・ 二十二日の法語
明鏡 - 2014年07月20日 (日) 23時27分



【 二十一日の法語  実相は肉体よりも尊い 】


実相を自覚したものは、

現象界のどんなさばきに面してもその心は平静である。


彼は肉体の快楽に誘惑されるということはない。

肉体の快楽以上の深い喜びを知っているからである。


彼は物質の損失に心もだえることはない。

なぜなら彼は実相円満な無限の供給を

魂の中に把握しているからである。


天地は失せても魂の喜びが消えないほどの境地に達したものほど

実相を悟るものだといわなければならないのである。


古人曰(いわ)く、朝(あした)に道をきかば夕べに死すとも可なりと。

実相を知る悦びは、肉体の御利益を超越しているのである。




【 二十二日の法語  未来は今日の想念の中にある 】


今なすべきことを明日にのばすな。

明日なすべきことの準備を今ととのえよ。

昨日のことを思い煩うな。


今時々刻々自己の完全なる生命を生ききれ。

未来は今日の想念の影である。

過去の暗黒は今光で照らせば光明に化するのである。

今を生きないものは永遠に生きることはできないのである。


肉体のことに思い煩うな。

今生きよというのは今魂のことを生きよということである。


イエスは神の国と神の国の義を求めよ、

その余のものは汝らに加えらるべしと教えたのである。


自分の生命を時々刻々神にささげたるものとしなければならない。




[43] 二十三日の法語 ・ 二十四日の法語
明鏡 - 2014年07月22日 (火) 21時37分



【 二十三日の法語  肉体を十字架につけて新生せよ 】


「 人もしキリストにあらば、新たに造られたるものなり。

古きはすでにすぎさり、見よ、新しくなりたり。」(コリント後書第五章十七節)


吾々は肉体だと思ってはならないのである。

肉体はイエスと共に十字架につけ抹殺してしまったのである。


かくてキリストと共に吾は新生するのである。


そうでないものは 今すぐ「 肉体無 」 を悟って

肉体を抹殺しなければならない。


かくて肉体無を悟る時、

汝は自己の内にキリストを見、

新たに造られたるものとなるのである。


古きはすでにすぎ去り、

みよ 汝 新しくなり 霊的存在となったのである。




【 二十四日の法語  過去の悪は既に無いのである 】


過去に行いたるすべての悪しきことは

霊に属せざるものであるから なげくことはないのである。


それらは 「 肉体無 」 を悟ってキリストと共に肉体を抹殺したものには

もはや 「 肉体無 」 となったものである。


一度 肉体の無を悟った後には キリストと共に復活して

「 吾は決して罪なきものである 」 ということを知らなければならないのである。


不幸なる記憶の中に、

汚れたる記憶の中に、

悲しき記憶の中に、

自らを埋葬してはならないのである。


キリストは ラザロの如く 汝を死の櫃(ひつ)から立たしめ給うのである。




[46] 二十五日の法語 ・ 二十六日の法語
明鏡 - 2014年07月24日 (木) 22時47分



【 二十五日の法語  浮世の喜びは玩具(おもちゃ)に過ぎない 】


「 吾 童子の時 語ることも童子の如く、思うことも童子の如く、

論ずることも童子の如く、人となっては童子のことをすてたり。」

(コリント前書第十三章十一節)


浮世の喜びや、五官の快楽や世間的名声の如きは

魂の幼きものが もてあそぶ所の玩具(おもちゃ)にすぎないのである。


幼き童子に玩具(おもちゃ)が必要な如く、世間的名誉も

人間の或る時代の魂の発達には必要なものであるのである。


然(しか)し魂の成人したるものはかくの如き玩具(おもちゃ)の喜びを

捨てるのであって、そして古き魂の習慣を脱皮して

新たに肉体の子から神の子に生れ更(か)わるのである。




【 二十六日の法語  「 若(も)し・・・ならば 」 と云うな 】


イエスいい給う 「 為(な)し得ばというか。信ずるものには凡(すべ)てのこと成し得らるるなり。」

( マルコ伝第九章二十三節 )


もしも、ならば、だけどもなどというものは

信仰なきものであるのである。


信ずるものにはすべての事をなし得られないということはないのである。


「 出来たらいたしましょう 」 などというものは、

信仰なきものであるか、

することを好まざるものであるか、

恐怖心にみたされているものであるか であるのである。


すべての失敗や、思う様に行かぬ状態は

悉くかくの如き消極的潜在意識のなす業(わざ)であるのである。




[48] 二十七日の法語 ・ 二十八日の法語
明鏡 - 2014年07月26日 (土) 23時12分



【 二十七日の法語  現状に飽き足らぬ人は現在が不幸になる 】


「 どうして あの様な立派な人も不幸になるのだろうか。

心善きものがよき運命を受けると教えられているのに 」

という人があるのである。


然(しか)し乍(なが)ら吾々の心には現在意識と潜在意識とがあるのである。


現在意識では心のよきものも、

潜在意識の底に自分の現状にあきたらざる思いがある場合には、

その現状を破壊して新境地に出でんがために

現在の環境に斧鉞(ふえつ)を加えて打ちくだいてしまうことがあるのである。


現在の破壊は新しき進歩への道である。

いつまでも腰弁でいるのが

人間の目的ではないのである。




【 二十八日の法語  常に自己を反省せよ 】


汝(なんじ)の潜在意識の中(うち)にある習慣に

心を振り向けて反省せよ。


如何(いか)なる心の習慣が自分の内にあるであろうか。


自分は夫に従順であるだろうか。

常に 「 ハイ 」 と返事しているであろうか。


言葉ではハイと返事していながらも、

心では‘すなお’に受けていないことがあろうか。


夫の命令に対して 「 然し 」 「 だけど 」 などと考えながら

言葉だけでハイと答えているようなことはなかろうか。


人を さばかない積りで

やはり さばいていることはなかろうか。


暗いことは考えまいと考えながら、

もすれば暗いことを考えていないだろうか。





[50] 二十九日の法語 ・ 三十日の法語
明鏡 - 2014年07月29日 (火) 01時36分



【 二十九日の法語  心に悩みを抱いてはならぬ 】


アルコールを飲用してその習慣からぬけだしたいと現在意識で考えながら、

それから抜けだすことのできないのは、

潜在意識にアルコールの麻酔力によってごまかさなければならないような

心の悩みがあるからである。


しかも飲酒の悪癖を禁止しようと思いながらも、

それを止め得ない意志の弱き自責の感情のいらいらしさが、

更にそれをごまかすために

アルコールの飲用をすすめることにもなるのである。


酒をやめたいと思うものは

家庭全体に感謝するようにならなければならない。


そして 「 悪癖がある 」 などと思わずに

「 酒をのむ自分も無い 」 と知ることである。





【 三十の法語  悪癖を矯正するには 】


悪しき習慣は悪しきものを征服しようと思うも

それを克服することはできないのである。


悪しきものの存在をみとめ、それに対して打ち克(か)とうと力む時には、

強敵に対して かたくなっている力士の様に、

却(かえ)って その悪癖に投げ出されてしまうのである。


悪癖にとらわれず、よき習慣を養って行けば

その喜びのために悪癖は 自(おの)ずから消えてしまうのである。


家庭の中で互いに感謝し合い、

一ぱいの水、一椀(わん)の食に感謝し、

夫に感謝し、妻に感謝し、子供に感謝し、自分が生まれたことを感謝し、

喜びにみたされる様になった時、悪癖は消滅してしまうのである。





[51] 三十一の法語
明鏡 - 2014年07月30日 (水) 23時59分



【 三十一の法語  常に神は吾を守り給う 】


何よりも大切なのは 神を自分の近くに、むしろ自分の内にましまして、

常に自分を守り給うものだと自覚するということである。


それこそが実相の喜びであり、

神の悦びを飲むものは 酒をのむ必要がないのである。


神はスピリットであり、酒もスピリットと英語で云うから、

神を得ないものが酒で代用するのである。


酒をのむのは真(まこと)に神をのんでいないために

神の喜びをのむための代償作用であるのである。


自分の生命が 神より来たり、神に生かされ、

神 吾を守ってい給い、わが内に宿ってい給うが故に

吾はとぼしきことなく 淋(さび)しきことなく、

常に喜びに みたされていることを自覚せよ。







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