[137] こころ極まる(九月光明道中記) |
- 伝統 - 2014年09月30日 (火) 03時21分
こころ極まる「九月光明道中記」(上旬)
*「光明道中記」より
九月一日 心澄み切る日
【雑念妄想は念仏を妨げず、虚の念は本来無い念である。(生命の實相第九巻)】
(歎異抄十二条)
経釈(きょうしゃく)をよみ学(がく)せざるともがら、往生不定のよしのこと、 この条(じょう)、すこぶる不足言(ふそくごん)の義といひつべし
前条等にも繰返し繰返し述べられているように、 人間が救われると云うのは弥陀の誓願によるのである。
すなわち弥陀の誓願が廻り向いて来て、念仏もうすと云う信仰の心が起こり、 その信仰の心は自我の心で信心するのではなく、学問の力で信心の念が起こるのではなく、 経文やその注釈の力で信心の念が起こるのではなく、
「信心」と云うものは如来が廻施(えせ)する(如来の力が廻り施される)のであるから 学問がなかったら救われない、経文の解釈によくつうじていなかったら救われないと云う ような議論は言うに足りない。
誌友会に出ても色々の真理の書の文章を批判し、此の書には斯う書いてある。 自分はこの方の方に共鳴するとか何とか、甲論乙駁する人たちがあるが、 そう云う人々は解釈によって救われよとする人であって、自力の行である。
他の色々の本に斯う書いてある、彼(ああ)書いてあると言って誇り顔に言う人は、 また別の新しい説き方をする人があったら直ぐ信仰が崩(くず)れて了うのである。
救われるのは「実相」により、念仏によるのであるから、誌友会に臨んでは理窟を言うよりも、 ただ有りがたく救われている体験を謙遜に語り合い、互いに讃嘆すべきである。
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九月二日 内在の念仏を聴く日
【淋しき時には我を思え。我は汝らの為に祈るものである。(生命の實相第十一巻)】
(歎異抄十二条)
他力真実のむねをあかせるもろもろの聖教(しょうぎょう)は、本願を信じ、念仏を申さば 仏になる、そのほか何の学問かは往生の要なるべきや。まことに、この理(ことわり)に 迷へらんひとは、いかにもいかにも学問して本願のむねをしるべきなり。
経釈(きょうしゃく)をよみ学すといへども、教経の本意をこころえざる条(じょう) もとも不便のことなり。一文(いちもん)不通にして、経釈の端緒(ゆくち)も知らざらん ひとの、となへやすからんための名号におはしますゆへに易行(いぎょう)と言ふ。
他力真宗と生長の家とは随分その救いの立て方が似ているのである。 真宗で「他力」と言うところを生長に家では「実相」と言う。 真宗で「念仏」と言うところを「『生命の實相』を読めと言う。
「他力」は「大信心」であり、「大信心」は「仏性」であり、「仏性」は「実相」である。 「他力」に救われると云うことは「念仏申す心」(実相)に救われていると云うことである。
『生命の實相』を読んで、その経釈が完全に出来るから救われると言うのではない。 盲目(めくら)の子でも母はそれに乳房を与えて救って下さっているのである。 どんな母であろうかと「知りたい心」は経文を解釈するような誇った心ではなく、 母懐かしさの心にすぎない。
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九月三日 争いの自然に消ゆる日日
【雑念は心を澄み切らす働き、雲は空気を澄み切らす働き。(生命の實相第八巻)】
(歎異抄十二条)
学問をむねとするは聖道門(しょうどうもん)なり、難行となづく。 あやまて学問して名聞利養(みょうもんりよう)のおもひに住するひと、順次の往生 いかがあらんずらんといふ証文(しょうもん)もさふらふべきや。
当時、専修念仏のひとと聖道門のひとと、諍論(じょうろん)をくはだてて、 わが宗こそすぐれたれ、ひとの宗はおとりなりといふほどに、法敵も出できたり、 謗法(ぼうほう)も起こる。 是併(これしか)しながら、自(みずか)らわが法を破謗(はぼう)するにあらずや。
親鸞聖人が易行門を立てられたのは、聖道門よりもわが宗旨まさっているとして それを誇るためではなかったのである。
自分が下根の凡夫である、一文不通のものであって、一切の蔵経を調べあげ研究しあげたすえに 救われるのであったならば、到底そんな智慧学問は無いところの吾らであるから、 救われようがないからこその易行門の信仰なのである。
聖道門を相手にまわして易行門の優越性(すぐれているところ)を説いて、 ひとの宗教は劣っているなどと説くから法敵も出で来たり、 法を謗(そし)る人も出来て来るのである。
だから他宗を攻撃するのは、天に対(むか)って唾するようなもので、 自宗に対して傷つけることになるのである。――
こう言って親鸞は当時日蓮の「念仏無間(むげん)・禅天魔」の批評をも黙殺してかかられた。 誠に大調和のお心であった。
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九月四日 有り難く其の儘受ける日
【如来は一体である。一仏即多仏である。(生命の實相第六巻)】
(歎異抄十二条)
たとひ諸門こぞりて、念仏は甲斐なきひとのためなり、その宗あさし卑しといふとも、 さらにあらそはずして、われらがごとく下根の凡夫、一字不通のものの信ずればたすかる由、 うけたまはりて信じさふらへば、更に上根のひとのためには卑しくとも、われらがためには 最上の法にてまします。
たとひ自余の教法すぐれたりとも、みづからがためには、器量およばざればつとめ難し。 われもひとも生死をはなれんことこそ、諸仏の御本意にておはしませば、御妨げあるべからず とて、憎ひ気(げ)せずば、誰のひとかありて、仇をなすべきや。
かつは、諍論(じょうろん)のところにはもろもろの煩悩おこる、 智者遠離すべきよしの証文さふらにこそ。
この一節には当時親鸞聖人の念仏門の教に対して 色々の非難や攻撃があったことが窺われるのである。
親鸞聖人はそれに対して 「われらが如く下根の凡夫は」と下手に出て諍(あらそ)うこと勿れと諭されたのである。
「諍論(じょうろん)のところにはもろもろの煩悩おこる」とて 智者はかかる諍(あらそ)いより遠ざかるべきを示されたのである。 諍(あらそ)いに勝ちたりとて救われるのではない。
此のまま此の世が阿弥陀仏のお浄土であると、その実相を拝ませていただくとき救われるのである。
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九月五日 神の慈手に抱かれる日
【汝の悩みは神に語れ。人に語らずして神に語れ(生命の實相第十一巻)】
(歎異抄十二条)
故聖人(親鸞)のおほせには、この法をば信ずる衆生もあり、そしる衆生もあるべしと、 仏説き置かせたまひたることなれば、われはすでに信じたてまつる。
またひとありてそしるにて、仏説まことなりけりとしられさふらふ。 しかれば往生はいよいよ一定(いちじょう)とおもひたまふべきなり。 あやまつてそしるひとのさふらはざらんにこそ、いかに信ずるひとはあれども、 そしるひとのなきやらんともおぼえさふひぬべけれ。 かくまうせばとて、かならずひとにそしられんとにはあらず。
仏のかねて信謗(しんぼう)ともにあるべきむねを知ろしめして、ひとの疑ひをあらせじと、 説きをかせたまふことをまうすなりとこそさふらひしか。いまの世には、学問してひとの そしりをやめ、ひとへに論議問答むねとせんと、かまへられさふらふにや。
更に茲には親鸞聖人の法を謗(そし)る法敵さえも仏の予言の中に、従って仏の摂理(おはからい) の中にある事を示して、諍(あらそ)うこころを捨てせしめようと云う用意が見られるのである。
学問して他に論(い)い勝とう議(い)い勝とうと思うこころは余りにも脳髄智識によって 人が救われるならば諸々の智者学者は救われたであろうが、救いは貧しきもの愚かなものに 示されるのである。
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九月六日 信心極まる日
【汝の信ずるごとく汝になるのである。(『生命の實相』第一巻)】
(歎異抄十二条)
学問せば、愈々如来の御本意をしり、悲願の広大のむねをも存知して、卑しからん身にて 往生はいかがなんどあやぶまんひとにも、本願には善悪浄穢(ぜんあくじょうえ)なき おもむきをもとききかせられ候(そうら)はばこそ、学生(がくしょう)の甲斐にても候はめ。
偶々(たまたま)何心(なにごころ)もなく本願に相応して念仏するひとをも、学問してこそ なんどと言ひ貶(おど)さるること、法の魔障なり、仏の怨敵なり。みづから他力の信心 かくるのみならず、あやまて、他をまよはさんとす。
つつしんでおそるべし、先師の御こころにそむくことを。 かねて憐(あはれ)むべし、弥陀の本願に非(あら)ざることをと、云々。
茲には学問は学問を破摧するためにこそ学ぶべきであって、学問を誇るがために学ぶなどという ことは学問に捉われたものであることが示されている。
学すればするほど自分の醜い相(すがた)が眼に着いて来て救われがたいなどと思う人には、 こちらの学を以て「弥陀の本願には浄穢(じょうえ)がない」と説破してやらねばならぬ。
『生命の實相』もその中の字句を甲是乙非と議論するためにとて 色々の諸学説が引用してあるのではない。
人間は救われ難しと色々の科学から結論している人々に 如来の慈悲を説き聴かせてあげるためにこそ『生命の實相』の学があるのである。
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九月七日 自然と悪癖が治る日
【仏教の無明縁起は「創世記」の第二章アダムの原罪に一致する。(『生命の實相』第十三巻)】
(歎異抄十三条)
弥陀の本願不思議におはしませばとて、悪をおそれざるは、また本願ぼこりとて、 往生かなふべからずといふこと。この条、本願を疑ふ、善悪の宿業をこころえざるなり。
・・・そのかみ邪見におちたるひとあて、悪をつくりたるものをたすけんといふ願にて ましませばとて、わざと好みて悪を造りて、往生の業とすべきよしをいひて、やうやうに あしざまなる事のきこえ候ひしとき御消息に、くすりあればとて毒をこのむべからずと、 遊そばされて候ふは、かの邪執をやめんがためなり。
またく、悪は往生のさはりたるべしとには非ず。
阿弥陀仏のどんな悪人でも救わずに置かぬ本願が如何に不可思議力であるからとて、それでは 盛んに悪を犯してやれと云うのでは「本願ぼこり」と云うものであって往生極楽は出来ない―― 斯う云う議論をする者は救いは絶対であり、業は相対なのである事を知らぬものである。
如何なる業もそれを超越して弥陀の本願は救い給う。 その絶対的救いの否定し難き事実とは別に、悪人を救おうと云うのが弥陀の本願であるとてわざと 好んで悪をする者がある由(よし)聴えて来たときに親鸞聖人は「くすりあればとて毒をこのむ べからず」とお書きになった。
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九月八日 流れつつ流れを超える日
【仏教の無常観は、実は生々流転の教である。(『生命の實相』第十三巻)】
(歎異抄十三条)
よきこころのおこるも、宿善の催すゆへなり。悪事のおもはれせらるるも、悪業のはからふ ゆへなり。故聖人の仰せには、兎毛羊毛(ともうようもう)のさきにいる塵(ちり)ばかりも つくる罪の宿業にあらずといふことなしとしるべしとさふらひき。
ここに親鸞聖人の「業観(ごうかん)」があらわれている。業が現象世界のすべてを流転せしむる 原動力であって、よき心が起るも、悪き心が起るも皆業が流転して催して来るのであって、それは 宿命であり、機械的であって、自由意志の計らい得る部分はひとつだにないと言うのである。
「兎毛羊毛(ともうようもう)のさきにいる塵(ちり)ばかりも、”つくるつみ”の宿業にあらず といふことなし」であるとするならば、その「つくるつみ」なるものは、誰が最初に「つくった」 のであるかの問題が生ずるのである。
誰かが最初に造ったのであるならば、宿業ならざる自由意志的業の問題が生ずる。 また誰も未だ「つくるつみ」を造ったことが無いとするならば、その「つくる罪の宿業」なるものも、 有るように見えても本来無いものであると云うことに帰着するのである。
真宗では「つくるつみ」の存在を認めて罪悪深重の凡夫と言い 生長の家では「つくるつみ」は存在せずしてと罪本来無いと言う。
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九月九日 善業有りがたき日
【祈ってから五官に証拠を求めるな。祈ったとき既にそれは成就している(『生命の實相』第ニ巻)】
(歎異抄十三条)
またあるとき唯円房はわがいふことをば信ずるかと仰せの候ひしあひだ、 さん候ふと申し候ひしかば、さらば、わがいはんこと違(たが)ふまじきかと重ねて仰せの 候ひしあひだ、謹(つつし)んで領状(りょうじょう)申して候ひしかば、喩(たと)へば
ひと千人殺してんや、然(しか)らば往生は一定(いちじょう)すべしと仰せ候ひしとき 仰せにては候へども、一人もこの身の器量にては殺しつべしとも覚(おぼ)えず候ふと 申して候ひしかば、さては、如何に親鸞が言ふことを違ふまじきとは言ふぞと。
これにて知るべし。何事も心に委(まか)せたることならば、往生のために千人殺せと 言はんに、乃(すなは)ち殺すべし。然れども一人にてもかなひぬべき業縁(ごうえん) なきによりて害せざるなり。わが心のよくて殺さぬにはあらず。
過去に「つくれる罪」の機械的流転によって一切のものが内部から催して来るのであったならば、 其処に自由意志はあり得ない。自由意志があり得ないならば、善悪はあり得ない。
汽車が疾走中大風吹き来って自由意志ならずして転覆して千人を殺傷しようとも、 その汽車には自由意志がなき故に罪悪とはならないのである。 極端な宿業観は人間の道徳を否定する。
『生命の實相』第五巻には、宿業1/3、自由意志1/3、高級霊1/3、となっている。
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九月十日 ただ念仏する心の日
【祈りには実相を顕現する祈りと人格的交渉の祈りとある。(『生命の實相』第九巻)】
(歎異抄十三条)
また害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべしと仰せの候ひしは、 われらが心の善きをば善しと思ひ、悪しきことをばあしとおもひて、本願の不思議にて たすけたまふと云ふことを知らざることを仰せの候ひしなり。・・・
かかるあさましき身も、本願に遭ひ奉りてこそ、げにほこられ候へ。 さればとて、身にそなへざらん悪業は、よもつくられ候はじものを。
一人をすら害すまいと思っても害する業が催して来る時には百人千人を殺すことにもなろうと 親鸞聖人が仰せられたのは、一切を宿業と観ずる極端な宿業観を宣伝するためではなかったの である。
「自分の善行(ぜんこう)」だと誇る心、「自分の悪行(あくぎょう)」だと悲嘆する心、 この善悪二つながらに捉われる心を踏み超えてはじめて、本当の心 ―― 何物にも捉えられない 実相に乗托せる心を出して来ることが出来るのである。
「自分の善行」だと誇る心も「自分の悪行」だおと悲しむ心も倶(とも)に虚仮不実(ほんとうにない) の心として棄(す)てて了わねばならないのである。”そのままの”心を出して来るには善悪二つ ながらに執しない心「ただ念仏申される心」を要す。
「ただ念仏申される心」に導くためにころ親鸞聖人は「悪人却って救わる」の教をお説きに なったのである。悪行をお励(すす)めになったのでは勿論ない。
<感謝合掌 平成26年9月30日 頓首再拝>
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