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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐

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[157] 天国を現実化する祈り     谷 口 雅 春 先 生
明鏡 - 2014年10月05日 (日) 17時55分




『 生長の家 』 誌  昭和四十六年十月号


天国を現実化する祈り 谷 口 雅 春 先 生




※ 「 掲示版 其の壱 」 に、五日までの法語を謹写させていただいておりましたが、

五日までの法語を再掲載し、続いて、六日からの法語を続けさせていただきますので、

よろしくお願い申し上げます。




【 一日の法語  感謝、到る処に天国を生み出す 】


その人の幸福の大小は、その人を取り巻く物質の大小によるのではないのであり、

その人自身の感謝の感情の大小によって定まるのである。



感謝の念、大なれば乏(とぼ)しき物質の中にいても、

その人は天国の悦びを享受することができるし、


豪華絢爛(ごうかけんらん)の物質に豊富にとり囲まれていても、

心が不幸や憤(いか)りに満たされ、他(ひと)を呪っているならば、

地獄の苦悩を体験するのである。


それゆえに常に万物に感謝せよ。

見るもの聞くもの、触れるもの、その悉(ことごと)くに感謝せよ、

念々 感謝の中から天国は生み出され、浄土は誕生するのである。




【 二日の法語  感謝している時、天国を製造しているのである 】



窮乏している時に、僅(わず)かな金を恵まれたり、

住む家のない時に、部屋を貸して貰えたりするならば、

その恩恵に対して誰でも感謝するのである。


しかし私たちは眼に見えない多くの物の恩恵に感謝を忘れ勝ちであるのである。

たとえば空気の御恩のようなもの。


また眼に見えていても、それがあまり豊かであるので、

それを受けることが当り前だと思って感謝しないもの、

太陽の光と熱、そして父母(ちちはは)の愛。


わたしたちは常にあまりに多くの御恩の中に生かされているので、

却ってそれを忘れ勝ちであるのである。


私たちは常に多くの恩恵に取り巻かれ、とり囲まれ、

それによって生かされていることを思い出して感謝するがよい。


あなたが感謝の念を起しているとき、あなたは天国を製造しつつあるのである。




【 三日の法語  全世界に平和をもち来す道  】



あなたが感謝の念を起しているとき、あなたは天国を製造しつつあるのだといったが、

その天国は決して、あなたの周囲や、身辺にだけ天国を製造しつつあるのではない

のである。


心の波はラジオの波のように、宇宙空間に迅速(じんそく)にひろがるものであるから、

あなたの感謝の念が、電波の如く達し得る限り、

それは、多くの人々の 「 脳髄・受信機 」 に感応し、

それらの人々の脳髄に感謝の念を起こさしめつつあるのであり、

従って そこにも亦、天国・浄土が製造されつつあることになっているのである。



そして世界ぜんたいの人間の大部分が感謝の念に満たされるようになると、

全人類が互恵互譲(ごけいごじょう)・相互合掌の心にみたされ、

全世界に本当の平和がもち来されることになるのである。




【 四日の法語  わが受けし恩恵のうち最大なるもの 】



いろいろと自分を取り巻いている空気や日光や、日常必需の“水”や、家や、

建具(たてぐ)や、畳や、敷き物や、花瓶や床の間の置物や ー 

外部にある事物を見て感謝することをおぼえたのであるけれども、

私たちは、もっともっと感謝すべきものを神から与えられていたのである。



それは、今、此処に 自分が生きている‘ いのち ’ が、

神の神聖な‘ いのち ' を与えられているという事実であるのである。



即ち 自分のいのちが神のいのちの最高の自己顕現であるということである。

それを発見したとき 本当に歓喜が充満し、手の舞い、足の踏むところを知らず、

有頂(うちょう)に昇る思いがせずにはいられない筈(はず)である。




【 五日の法語  黒住教祖の霊的自覚について 】



黒住教(くろずみきょう)の教祖・黒住宗忠(くろずみむねただ)は、

自分の‘ いのち ’ が物質的肉体の朽ち果てるべき‘ いのち ’であり、

最早、ここ五日しか生きない‘ いのち ’だと医師から診断されていたとき、



自分の‘ いのち ’が肉体の化学作用で生きているのではない、

天照大御神の御(お)‘ いのち ’が此処に生きているのであるという

自覚を得ると共に、 有頂に昇る歓喜法悦にみたされ、一週間は、眠ることもせず、

ただうれしさに笑いつづけていたが、やがてその歓喜が静かなる法悦に変って、

気がついてみたら、その瀕死の重症であった肺結核が治っていたというのである。



そして人間のいのちは、「 吾が生くるに非ず、天照大御神の御いのちによって

生かされているのだ 」 という自覚によって自分の重症が癒(い)えたのだという体験を

人に話(はなし)すると、



その自覚が他(た)の人に喚(よ)び覚(さま)されて、

またその人の病気が治るというような体験が次から次へとあらわれて来て、

ついに一大教団をなすということになったのが黒住教なのである。





[158] 六日の法語  一冊の 『 生命の實相 』 が塚田氏の心を革命した
明鏡 - 2014年10月06日 (月) 00時50分




私がまだ兵庫県住吉村八甲田(はっこうでん)にいた頃のことである。午前中に一人の方が訪れて一冊の書籍に「塚田忠五郎」と書いた名刺を添えて私に差出されたのであった。

そうして取次の者にこう言われた。

「 私は先生のこの御著書の愛読者であります。この書物を読んで先生に是非お目にかかりたいと念願しておりましたら、恰度(ちょうど)、関東大震災が起って、東京は焼野原となりましたので先生の居所もわからず、今までお目にかかる機会がございませんでしたが、
先日、新聞を見ておりますと、“生長の家”の雑誌の広告を見つけました。
それに先生のお名前と住所とが出ておりましたので悦んで、お目にかかりたいと伺ったものであります。どうぞこの御著書の愛読者が来たとお伝え下さい」


取次の者は、私のところへ名刺と一冊の本をもって来た。
それはたしかに私の著書であり、私が大本教をやめて上京し、病気や不幸や災厄の満ちみちているこの世界は、神の創造によるのではない。無明(まよい)のあらわすところであるという悟りを書いた 『 聖道(しょうどう)へ 』 と題する論文集であった。


塚田忠五郎さんは、それを繰返し読んで、仏教の無明縁起(むみょうえんぎ)の真理が現代語で分りやすく巧(たく)みに書かれているので、この著者にお目にかかって教えを受けたいと思って来たという意味のことを言われるので、私は、

「 あの本は大本教をやめて創造神を否定し仏教的な世界観になった時の論文を纂(あつ)めたものですが、現在は百尺更に一歩を進めて無明(むみょう)の彼方(かなた)に超出した心境になって、その真理を伝えるために 『 生長の家 』 という雑誌を出して宣伝しているんです。ここにその真理の中枢をまとめた 『 生命の實相 』 という本がありますから、どうぞこれを持って帰ってお読み下さい 」


こういって私は当時、自費で出版した最初の 『 生命の實相 』 の部厚い革表紙三方金の
聖書型の本を差出した。


「 本代は今持って来ていませんのですが 」 と塚田さんは遠慮勝ちに言われるのであった。


「 いや、いいですよ。ついでにお持ち下さったら結構です 」 こういって私は塚田さんにその本を持って帰って貰った。そしたら氏の心境に驚天動地の変化が起ったのであった。


というのは黒住宗忠師が 「 もはや宗忠生くるに非ず、天照大御神の‘いのち’我にあって生くるなり 」 の心境になったとき、歓喜法悦・一週間も眠らずに笑いつづけたと同様に、半月間も笑いつづけてその笑いがやまなかったのであった。




[163] 七日の法語  忘れてもよいこと、憶(おぼ)えねばならぬこと
明鏡 - 2014年10月06日 (月) 23時03分



その頃、私は住吉村の自宅で毎月一回、誌友会をひらいていた。
神戸は勿論、大阪、京都の誌友達が集って、真理を実際生活に則して互いに語り合う
なかなか好い雰囲気の座談が展開していた。


その頃は録音機も無論ないし、速記者を雇う程の裕かな生活ではなかったので、
私が記憶によってその対談を次号の『生長の家』誌にそのまま再現したものである。
その対話の中の深い真理を語られた部分は、後の『生命の實相』に収録されているのである。


それは、あまりにも、その座談そのままが描かれていたので、その誌友会に出席した人たちが、どこかに速記者が隠れたところにいて筆記してなかったら、あんなに精確に書ける筈がないと噂したりなどしていた。


その頃は私も若かったし、随分記憶力が旺盛だったと見える。しかしその記憶力のよさは、
東京に出て速記者を雇うようになってからは、無くなってしまったのである。今では、誌友会や白鳩会で話し合っても、誰がどんな順序でどういったかなどという精細なことは殆(ほとん)ど憶えていない。憶えている必要のないものはきれいに忘れてしまうことが“心の衛生”である。併しー


教訓。物に頼り、人に頼ると、自分自身の能力は眠って働かなくなる。
中風の治りかけの人など、杖(つえ)に頼って歩いていると、
いつまでたっても完全にひとりで歩行できない。
杖を棄てる決意と実行とによって完全な能力をとり戻すことができるのである。




[168] 八日の法語  真理の自覚から来る法悦状態
明鏡 - 2014年10月08日 (水) 03時03分




ある日曜日の誌友会であった。
塚田忠五郎さんの奥さんがやって来られてこう言われた。


「先生、塚田が先生の御本を読んでから、どうも気が変になったようなんでございます。」


「どう変なのですか」


「わしは永久に死なぬ人間になってしまった。嬉しい、嬉しいといって笑ってばかりいるのです。
それもその時だけ笑って物言うのなら何も変でないんですけれども、夜徹(よどう)し眠らないで
嬉しいといって、もう一週間以上も笑ってばかりいるんですから変なんです、
“あなた、そんなに笑ってばかりいて眠らなかったら、気が狂ってしまいますから、
お眠(やす)みなさいよ“と言いますと、


“わしは前から気が狂いたいと思っていたのに、今度こそ本当に気が狂った。本望(ほんもう)を遂げたのだ、悦べ、悦べ!!こんな嬉しいことはないぞ”と言うんです。
それで私は心配で仕方がないんです。先生どうしたら塚田の状態は治るでしょうか」


「そのまま、ほっといたら治りますよ。それは黒住教祖が、もう寿命が五日間しかないと医師に宣言された後に、“最早、宗忠生くるに非ず、天照大御神の‘いのち’我にあって生くるなり”という自覚に到達されたときに、一週間も眠らずに笑いつづけていられたのと同じ状態ですよ。
誰でも人間が単に肉体であって、有限のいのちしかないと思っていたのが、神の無限の‘いのち’こそ自分の‘いのち’だったのだと知ったとき、眠らずに笑いが止らぬほどに悦べるのが当然でありませんか。


しかし黒住宗忠も一週間ほど眠らずに笑いつづけていたが、そのうちにその悦びが静かなる悦びに変って来たとき、重症の結核がいつの間にか治っていたのに気づいたと同じように、御主人も静かなる悦びに還って来たとき、前より一層よい事が起って来ますよ、安心しなさい」と、私は塚田夫人にいったのであった。


そしてその通り塚田忠五郎氏は間もなく平常通りの人間となり、唯 異なるのは、“肉体的存在としての人間”から“霊的実在としての人間”に自覚が変って、多くの人たちにこの真理を伝え始められたことであった。





[172] 九日の法語  “ 無明縁起(むみょうえんぎ)説 ” より “ 神の宇宙創造説 ” へ
明鏡 - 2014年10月09日 (木) 03時37分




その頃、私は たびたび京都へ講演に招かれて往(い)ったものだった。
いつだったか同志社の創立者 新島襄(にいじまじょう)先生の記念館 “ 新島会館 ” で講演会をひらいたら会場が狭いので二階の講堂には満員で 階段から街路まで聴衆がはみ出していた。


それから私は自宅へ帰って数日した。私は大野法道(おおのほうどう)と ー 法堂かも知れない。ハッキリ漢字名を憶えていないが今、増上寺の管主にこれと同じ名前の暑中見舞広告が出ているので、同名異人かも知れない ー いう僧侶から御手紙を頂いたのであった。

それには次のような意味が認(したた)めてあった。

「 私は大正十一年頃、東京にいて、ある仏教大学の学生でした。その時、先生の著書『 聖道へ 』 という本を読んで、実に現代語で仏教の無明縁起の哲理が平明に書かれているので愛読したものでした。


唯今、京都の××寺の住職をしておりますが、偶々(たまたま)町を通りかかると先生の講演会が新島会館であるというポスターを拝見いたしましたので、懐(なつか)しく思い、どういう話をされるかと思って会場にまいりましたら、先生は 『 聖道へ 』 の本に書いてあるのと反対の話をなさいました。


『 聖道へ 』 の本には“ 此世は 神の創造ではなく、無明を縁として生じたものである ”ということをお書きになっていたのに、その講演では “ 此の世界は 神がお創造(つく)りになったので、病気も不幸も一切の悪は存在しないのだ ” と声を励まして仰言(おっしゃ)いました。


私は 『 聖道へ 』 とは全然 異る話なので自分の耳を疑いました。
聞きちがいではないかと思いました。そしたら再び、先生は “ 此の世界は神がお創造(つく)りになったので、病気も不幸も一切の悪は存在しないのだ ” と仰言いました。
私の聞き違いではありませんでした。


前には “ 此の世界は無明(むみょう)を縁として生じたものである ” とお書きになり、今は “ 此の世界は 神の創造である ” と仰言る、どうして全然異る世界観にお変りになりましたのですか。その世界観の変化のよって来るところを承(うけたまわ)りたいと存じますので、この手紙を差上げます。・・・云々。」





[177] 十日の法語  “ 現象世界 ” と “ 実相世界 ”
明鏡 - 2014年10月09日 (木) 19時51分



私は次のような意味を書いた返事を 書いたのを憶(おも)い出すのである。


《 法華経の如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)に
“ 衆生、劫(こう)尽きて、大火に焼かるると見る時も、我が此土(このど)は安穏(あんのん)にして天人常に充満せり ” と釈尊は仰(おお)せられているのでありますが、 “ 劫(こう)尽きて大火に焼かるると見える此の世 ” は無明(むみょう)のあらわす世界であります。


『 聖道へ』 に於いて、 “ 此の世界は神の創造ではなく無明縁起だ ” と書いた時の、「 この世界 」 は “ 劫尽きて大火に焼かるると見える此の世 ” 即ち “ 現象世界 ” であります。


そして釈尊が仰せられた “ 我が此土は安穏にして 天人常に充満せり ” という世界は、
“ 神の創造し給える 壊(くだ)けることのない常住幸福の実相世界 ” のことであります。


「 此の世界 」 という語(ことば)は、同じ語(ことば)のようでありますが、
その人の自覚の程度に従って、 “ 此の世界 ” といって指す世界の内容が
異って来るのであります。 》




[180] 十一日の法語 ・ 十二日の法語
明鏡 - 2014年10月10日 (金) 19時43分


【 十一日の法語  真の愛は 肉に即(つ)いた欲情ではない 】


真の愛は、肉体の欲望を満足させたい所謂(いわゆ)る 「 肉に即いた欲情 」 ではないのである。
真の愛は、愛と見える “ 混合物 ” の中から欲情を浄め去るのである。


だから真の愛は “ 魂の浄化 ” である。従って、その人に真の愛が起って来たとき、彼( 又は彼女 )は魂が高まる、不浄なことを考えなくなる。


彼は 地的な欲望、物質的な欲望をもたなくなり、天的な一層高き動機をもって行動することを悦びとするようになるのである。


真の愛が起って来るとき彼は、自分を他(ひと)に与えようと願うのである。与えること、奉仕することに悦びを感ずるようになるのである。




【 十二日の法語  愛は立ち佇(とま)ってはならない 】


愛は人生と同じものである。

人生に於いて人間は常に進歩しなければ、

その人は必ず退歩しているのである。


愛も、常により一層愛しなければ、

その人の愛は退歩してしまうのである。


婚前の愛 ― 所謂(いわゆ)る“ 恋愛中 ” の愛は、

常に一層 倍増して行くから衰えないが、

結婚してしまうと、愛の最高の峠を越した状態になり、

多くの人々に於いては、常に一層より多く愛することが無くなる。


愛は立ち佇る、そして、愛は立ちとまって前進しなければ後退するのである。

愛を後退させないためには、常に一層多く愛してその愛を前進せしめなければならない。




[187] 十三日の法語 ・ 十四日の法語
明鏡 - 2014年10月12日 (日) 22時15分



【 十三日の法語  本当の愛の実践はどうするか 】


愛は人の罪をあばかない。

それを暖かい愛情の布で覆(おお)い隠してあげるのである。


愛は人の罪に盲目なのではない。

愛は人の欠点をハッキリ見ることができる。

しかしその欠点を見て騒がないのである。


どうしたらその欠点が少くなるか

静かに考えて処置するのである。


そして彼の完全な実相があらわれるように神に祈る。

これが本当の愛の実践である。




【 十四日の法語  “ 実相の祈り ” について 】


イエスは、祈りについて 幾つかの範例を示していられるのである。


『 マタイ伝 』 第六章七節には、

「 また祈るとき、異邦人のごとく徒(いたず)らに言(ことば)を反復(くりかえ)すな。

彼らは言多きによりて聴かれんと思うなり、さらば彼らに倣(なら)うな、

汝らの父は 求めぬ前(さき)に、なんじらの必要なる物を知りたまう 」

とイエスは教えていられるのである。


神は、我らが求めぬ前(さき)に、必要なるものを知っていられる ー これが実相なのである。

単に知っていられるだけではなく、既に与えていられるのである ー それが実相なのである。


だから 「 与えてくれていない 」 と思って、余程くどくどと繰返して懇願しなかったならば

屹度(きっと)与えられないだろうと思って、自分の直面している困難についてクドクドと

繰返して申述べねば、神さまは聴いて下さらないだろうなどと思って

「 言(ことば)多きによりて聴かれる 」 のだろうと思って祈るのは、外国人の迷信的祈りである。


本当の祈りは、既に 我らのなくてならぬものを

悉(ことごと)く完全に与えたまうている実相を確認する “ 感謝の言葉 ” を唱えるのが

最も完全な祈りなのである。




[198] 十五日の法語 ・ 十六日の法語
明鏡 - 2014年10月15日 (水) 08時39分



【 十五日の法語  神は 「 天国 」 というテレビ番組を放送中 】



「 実相に於いては、既に 吾らに必要なものは 与えられている 」

それは 放送番組みたいなものである。

神は 放送番組のプロデューサみたいなものである。


既に 番組のロケを終り、いつでも現象世界の時間・空間(縦・横・厚みの世界)の

銀幕に それを実現するように、既に 「 放送中 」 なのである。


そして人間は、神の 「 天国 」 という放送番組を

受像する 「 人間テレビ 」 なのである。


テレビはあり、天国番組の放送中であるのである。

その時に、その 「 天国 」 の華麗にして豊富絢爛(けんらん)・

光明燦然(さんぜん)として 万人常楽の光景を、

地上に、自己の身辺に 実現するには どうすればよいのであろうか。


先ず、スイッチを入れることである。

そのスイッチを入れることが “ 祈る ” ということである。




【 十六日の法語  “ 神 ” と “ 自分 ” とを結ぶために 】



「 今、“ 地獄 ” という番組が出ていますから、 “ 天国 ” という番組と取換えて放送して下さい 」 と

神に頼むのが祈りではないのである。


神は決して “ 地獄 ” と題する番組など制作せられないし、また放送もせられないのである。

既に “ 天国 ” 番組を放送中なのである。


だからイエスは、次のように祈れと教えていられるのである。

所謂(いわゆ)る模範的祈りと謂(い)われている “ 主の祈り ” である。 ―


「 天にいます我らの父よ、願わくは、御名(みな)を崇(あが)められん事を 」 と

先ず神に呼びかけるのである。


この呼びかけは、テレビ放送を受像するために、

どの局を選ぶかの選局作用である。


換言すれば、受像機のダイヤルのツマミを把(つま)んで、

自分の好きなチャンネルに 自分の心の向く方向を 定めることである。


この場合には、 「 天にいます我らの父 」 という放送局へ

自分の心を向けたのである。


ここで、放送局と受信者との間に

自覚的に連絡関係が結ばれたことになるのである。





[205] 十七日の法語 ・ 十八日の法語
明鏡 - 2014年10月17日 (金) 06時31分



【 十七日の法語  御名(みな)の崇められんことを 】



「 願わくは、御名の崇められん事を・・・ 」 と祈りはつづいているのであるが、

神は尊敬しなければならないのである。


神は祈りによって、“ 欲するもの ” を註文すれば、それを其処(そこ)へ

出してくれるボーイやバーテンや配達夫であると考えてはならない。


あなたは祈るとき、神の名(みな)を唱え、

それを尊崇する敬虔(けいけん)な心を起さなければならないのである。


これが“御名の崇められん事を・・・”である。



神想観のときの 「 われ今五官の世界を去って実相の世界に入(い)る 」 は、

「 天にいます我らの父よ 」 の祈りに当るのである。


“ 天 ”とは “ 雲の彼方(かなた)の上空 ” のことではなく、

“ 実相の世界 ” のことなのである。


“ 実相の世界 ”の放送局に心のチャンネルを合わして、

宇宙本源の神様に波長を合わす第一段階に入ることである。


“ 御名を崇める ” とは、名はコトバであり、コトバは実相である。

「 神の御名を崇める 」とは、神の実相の素晴しさを尊崇することなのである。


それで生長の家の神想観においては、

神の御徳(おんとく)の展開として実在する実相世界の光景を、


無限の智慧の海

無限の愛の海

無限の生命の海

無限の供給の海

無限の歓喜(よろこび)の海

無限の調和の海


と念じて、神と神の世界の素晴しさを尊崇する言葉を念じるのである。


神は、神を尊敬した程度に

その力を顕現したまうのである。


神は無限の大海(たいかい)のようなものであり、

その神から功徳を汲(く)むには、


小さな尊敬盃(そんけいはい)をもって汲めば

小さくしか功徳を受けとることができないし、


大きなタンクのような尊敬盃をもって行って汲めば

多くの功徳を受けることができるのである。





【 十八日の法語  天国は 既に 実相に於いて実在する 】


その次にイエスは 「 御国(みくに)の来(きた)らんことを。

御意(みこころ)の天の如く地にも行われんことを 」 という風に祈れと教えていられるのである。


この祈りの言葉の中で注意しなければならないのは、

“ 御国 ” 即ち “ 神の国 ” 即ち “ 天国 ” 即ち 実相世界には、

既に完全な大調和の美しき豊かな楽しい状態が存在するという前提の下に、

その天国の状態の如く、地上もそのようになるように ー という願いが、この祈りであり、

「 実相の天国 」 を既成の天国とし、地上にその写象(しゃしょう)として地上天国を来(きた)らすために

心の波長を合わすための祈りがこの祈りである。





[211] 十九日の法語 ・ 二十日の法語
明鏡 - 2014年10月19日 (日) 10時06分



【 十九日の法語  “ 日用の糧(かて)を与え給え ” と祈る所以(ゆえん) 】



その次にイエスは 「 我らの日用の糧を今日もあたえ給え 」 と祈るように教えている。


日用の糧というのは表面は食物(たべもの)のことであるけれども、

衣食住ぜんたいを含んでいるのであるし、

更に、精神の糧、魂の栄養となる真理も含んでいるのである。


それらの恵みは 「 汝らの父は求めぬ前(さき)に、

なんじらの必要なる物を知り給う 」 とイエスは教えているので、

別にこんなものを求める祈りをしなければならないということはないのである。


しかしこれは “ 神の子 ” が親様(おやさま)に対して、

自分の欲するものを言葉で言いあらわすのが悪いという訳ではないのである。


愛児がお父さんに 「 お父ちゃん、これ買って頂戴(ちようだい) 」 といっては

悪いということはないのである。

親は寧(むし)ろ、子供から、そういって求められることを嬉しくさえ思うであろう。


しかし言葉多くクドクドと子供から言われたら、親も面倒くさくなって

「 うるさい!! 」 といって撥(は)ねつけるかも知れないのである。


それゆえに イエスは

「 祈るとき徒(いたず)らに言(ことば)を反復(くりかえ)すな 」 と

教えているのである。




【 二十日の法語  素直に神に求めるがよい 】



私は数え年四歳のとき、実父の妹谷口きぬさんのところへ養嗣子(ようしし)となって
貰われて往(い)ったのである。


私は養父母を本当の生みの父母(ふぼ)だと言いくるめられ、教えられ、
そのように指導されていたのだけれども、やっぱり直感的には実の父母でないと知っていて、
何となく遠慮がちであったらしいのである。


私はその頃、生田(いくた)神社の門前の借家に住んでいたが、
よく養父につれられて、湊川(みなとがわ)神社(祭神 楠木正成公)の西門の通りが、
商店街になっていて、今なら小百貨店みたいなのが勧工場(かんこうば)と称して
玩具(おもちゃ)その他の商品を列(なら)べて売っていた。


養父(ちち)が、その玩具のどれかを指(ゆびさ)して 「 これ買(こ)うてやろか 」 というと、
私はきまって 「 買って頂戴 」 と素直には何物も求めなかった。
そして 「 どうでも・・・ 」 と言ったものだ。


稍々(やや)私が成長した時に、養父(ちち)は私にこう言って歎かれた。

「 お前は幼い時に、何を買ってやろうかといっても、いつも “ どうでも ” と答えるので、
買って貰って嬉しいのか、そんなもの要(い)らぬのか判断に困ったものだ。
“ これ買って頂戴 ” と素直に言ってくれれば、買ってやり甲斐があるのに、お前は決して
何(なん)にも求めなかった 」 といって淋しい顔をせられたことがある。


だから、 “ 神の子 ” たる人間も、親様(おやさま)なる神様に、何を求めても、
求め過ぎるということはない。
されば、 “ 求めよ、さらば与えられん ” と神様は 素直に神に求めることの無邪気さを
愛(め)でていられるのである。




[217] 二十一日の法語 ・ 二十二日の法語
明鏡 - 2014年10月21日 (火) 07時59分




【 二十一日の法語  人を赦さないとき、祈っても神と波長が合わぬ 】



その次にイエスの “ 主の祈り ” で教えられた祈りの言葉は、


「 我らに負債(おいめ)ある者を 我らの免(ゆる)したる如く、

我らの負債(おいめ)をも 免(ゆる)したまえ。

我らを嘗試(こころみ)に遇(あ)わせず、悪より救い出したまえ 」 と

いう祈りである。



そして、それを註訳してイエスは 次の如く教えているのである。


「 汝等もし人の過失(あやまち)を免(ゆる)さば、

汝らの天の父も汝らを免(ゆる)し給わん。

もし人を免(ゆる)さずば、汝らの父も汝らの過失(あやまち)を免(ゆる)し給わじ 」



神は無限の愛であるから、人間の罪を免(ゆる)すとか、

免(ゆる)さぬとかいうようなことはないのである。


人間自身の心が “ 人の過失(あやまち) ” とか

“ 罪 ” とかいうものに引っかかって免(ゆる)さずにいると、


自分自身の心の波長が、神の “ 無限の愛 ” と波長が合わないから、

神の国から “ 幸福番組 ” の放送を、自分の境遇とか運命とかに

受像することができないで、


恰(あたか)も、神が自分を免(ゆる)さないで、神罰を与え給うた如き結果を

生ずることをいうのである。


人の過失(あやまち)を免(ゆる)すことなく、

常に憎みつづけているときには、神の恵みと波長が合わないので、



祈るに先立って、人を憎んだり、人と争ったりしている場合には、


先ずその人を赦す神想観をして、

自分が “ 愛 ” と “ 赦し ” に満たされた心の情態になってから

神に祈るのがよいのである。




【 二十二日の法語  誘惑に打ち勝つための祈り 】


「 我らを嘗試(こころみ)に遇わせず、悪より救い出し給え 」 という “ 主の祈り ” の最後の句は

何を意味するのであろうか。嘗試(こころみ)とは “ 悪への誘惑 ” である。


吾々は肉体的快楽を目の前に置かれるとき、肉体の快楽に心を奪われて、

心が神に向うことが妨げられるのである。


そういう時に、肉体の自分の力で、その誘惑から遠ざかろうとしても、どうしても遠ざかることができず、

蛇ににらまれた蛙(かえる)のように、その誘惑体に近づいて行き、

ついに、どうにもならないで、誘惑に負けて悪を犯すことが肉体的人間には随分あるものである。


そんな時に、自力(じりき)の力をもって誘惑から遠ざかろうとしても、

どうしてもそれが不可能である。


そんな時に、神に祈って神の他力(たりき)のめぐり来りによって、

誘惑に抵抗することが出来るのである。


神は、吾らが求むる時、何物でも与え給うのである。

それは物質的なものを求めて与えられるだけではなく、

精神的なもの、人を赦す力、煩悩的欲望に打ち勝つ力等・・・如何(いか)なるものでも、

本当に神に心を振り向けて求むれば、必ず与えられるのである。



何故なら吾らの求むるものは、求むるに先立って既に与えられているのであるから、

私たちの心がその方へ振り向きさえすれば、それを受取ることができるのであるからである。





[224] 二十三日の法語 ・ 二十四日の法語
明鏡 - 2014年10月23日 (木) 08時24分



【 二十三日の法語  求め切なれば、ついに与えらる 】



『 ルカ伝 』 第十一章には 此の “ 主の祈り ” をイエスが教えられた次に、

イエスは 次のように言っていられるのである。―


『 汝らの中(うち)たれか友あらんに、

夜半(よなか)に その許(もと)に往(ゆ)きて

「 友よ、我に三つのパンを貸せ。わが友、旅より来りしに、

之に饗応(きょうおう)すべき物なし 」 と言う時、


かれ 内より答えて

「 われを煩わすな。戸は はや閉じ、子らは 我と共に臥所(ふしど)にあり、

起(た)ちて与え難し 」 という事ありとも、


われ 汝らに告ぐ、友なるによりては 起ちて与えねど、

求めの切なるにより、起(お)きて其(そ)の要する程のものを与えん。


われ 汝らに告ぐ、求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。

門を叩け、さらば開かれん。すべて求むる者は得、尋ぬる者は見出し、

門を叩く者は 開かるるなり。


汝らのうち父たる者、たれか其の子、魚(うお)を求めんに、

魚(うお)の代りに蛇を与え、卵を求めんに蠍(さそり)を与えん。


さらば汝ら、悪しき者ながら、善き賜物(たまもの)を その子らに与うるを知る。

まして天の父は 求むる者に聖霊を賜わざらんや 』



私は 聖書のこの一節が好きであって、バキューム・オイル会社につとめていた頃、

仕事の合間や、休憩時間に眼をつぶって


「 求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。

門を叩け、さらば開かれん。すべて求むる者は得、尋ぬる者は見出し、

門を叩く者は開かるるなり 」 と


自己暗示的に、自分だけに聞えるような低声(こごえ)で繰返し念じたものであった。


そしたら、次から次へと道がひらけて来て

“ 生長の家 ” の運動が こんなに大きく拡がってくるようになったのであった。





【 二十四日の法語  集団の祈りについて 】



ヨハネ伝第十一章には、イエスの祈りによりて、既に墓穴(はかあな)に葬られ

四日経たるラザロが復活したという模範的祈りのことが書かれているのである。


その 『 ヨハネ伝 』 第十一章十七節以下の一部を 次に説明のために引用することにする。


『 さてイエス来りて見給えば、ラザロの墓にあること、既に四日なりき。

ベタニヤは エルサレムに近くして、二十五丁(ちょう)ばかりの距離(へだたり)なるが、

数多(あまた)のユダヤ人(びと)、マルタとマリヤとをその兄弟の事につき慰めんとて来れり。


マルタは イエス来給うと聞きて出(い)で迎えたれど、マリヤはなお家に座し居たり・・・

斯(か)くてマリヤ、イエスの居給う処にいたり、之を見て、その足下に伏し


「 主よ、此処(ここ)に在(いま)ししならば、我が兄弟は死なざりしものを 」 と言う。


イエス かれが泣き居(お)り、共に来りしユダヤ人も泣き居(い)るを見て、

心を傷(いた)め悲しみて 言い給う


「 かれを何処(いづこ)に置きしか 」 彼ら言う 「 主よ、来りて見給え 」 ・・・

イエスまた心を傷めつつ墓にいたり給う。墓は洞(ほら)として石を置きて塞(ふさ)げり。


イエス言い給う 「 石を除(の)けよ 」

死にし人の姉妹マルタ言う 「 主よ、彼ははや臭し、四日を経たればなり 」

イエス言い給う 「 われ汝に、もし信ぜば神の栄えを見んと言いしにあらずや 」


ここに人々、石を除(の)けたり、


イエス 目を挙げて言い給う 「 父よ、我にきき給いしを謝す。常にきき給うを知る。

然(しか)るに斯く言うは、傍(かたわ)らに立つ群衆の為にして、

汝の我を遣(つか)わし給いしことを之に信ぜしめんとてなり 」 斯く言いてのち、


声高く、 「 ラザロ、出て来れ 」 と呼ばわり給えば、

死にしもの 布にて足と手とを巻かれたるまま出で来る・・・』



この一節は 新約聖書のうちでも特に名文で光景が目で見るように立体的に描かれているところなの

で、少し長文であるが引用したのであるが、ここには 「 集団祈願 」 の様子が見られるのである。


いかなる霊力ある人でも周囲の群衆が、 「 そんな事が出来るものか 」 と反対観念を送っている

場合には、奇蹟的な神癒は妨げられて、実現しないのである。


それゆえに、イエスは群衆が、 “ イエスの祈りは常に神がきき給うた。過去にも常にきき給うたのだか

ら、今回も必ずきき給うのだ ” と信念を起すように、群衆に対して声を張りあげて言っているのである。




生長の家の練成道場で、 「 祈り合いの神想観 」 の行事があって、

「 癒されたいと願う者たち 」 を一方に集め、それに対座して、

「 彼らが癒やされるために祈ってあげたい人たち 」 を配して、司会者が一方には、

このようにして癒しの力が霊光燦然(さんぜん)として 彼らに天降りいる有様を集団で念じ瞑視させ、

他方 「 癒される人たち 」 には、霊光燦然として “ 癒しの力 ” が自己に流れ入りつつあることを

瞑視せしめる “ 祈りの行事 ” がある。


これによって不思議に医者も てこずっている難病が癒されることが屢々(しばしば)あるのである。






[228] 二十五日の法語 ・  二十六日の法語
明鏡 - 2014年10月24日 (金) 22時32分



【 二十五日の法語  神の栄光を唱え、更に感謝し、群衆の信念に協力せしむ 】



兎(と)も角(かく)、祈るに先立って、

神の栄光をあらわす言葉を唱えることが大切で、


イエスは 「 われ汝に、もし信ぜば神の栄光を見んと言いしにあらずや 」 と言い、


次に 「 父よ、我にきき給いしを謝す 」 と、神に感謝し、


更に断定的な語(ことば)をもって

「 常にきき給うを知る 」 と断定して、


群衆も、 「 そら、必ず奇蹟が起るぞ 」 という信念で

イエスの祈りを見詰めさせているところに注意したいのである。





【 二十六日の法語  “ 神の国は汝の内に在り ” 】



イエスは、客観的に “ 神の国 ” というものが、

地上に実現するとは教えなかったのであった。


“ 神の国 ” は “ 霊の世界 ” であるから( それはテレビ放送の天国番組が

電波の世界であるのと同じように ) それに波長を合わした“ 心の情態 ” になった人にのみ

体験される世界であることを教えたのである。



『 ルカ伝 』 第十七章二十節には 次のように書かれている。―


『 神の国の何時(いつ)きたるべきかをパリサイ人に問われし時、イエス答えて言いたまう

「 神の国は見ゆべき状(さま)にては 来らず。また “ 視(み)よ、此処に在(あ)り ”

“ 彼処(かしこ)に在り ” と人々は言わざるべし。視よ 神の国は 汝らの中(うち)に在るなり。 』





[235] 二十七日の法語 ・ 二十八日の法語
明鏡 - 2014年10月27日 (月) 00時05分



【 二十七日の法語  祈りの成否を支配する信仰の強弱 】



祈りを成就せしめんが為には、

既にその成就せる光景を

強き “ 信 ” をもって 心に瞑視することが必要なのである。


聖書の他の一節には、イエスがラザロを復活せしめた時に、

イエスは 「 死せるに非ず 眠れるなり 」 といっているのである。


「 死んでしまっている 」 という観念が伴えば

「 生きる 」 という事実は出て来ないのである。


すべての祈りの成否は 信仰の力の強弱によるのである。


だからイエスは、弟子たちが治病伝道に出掛けて往(い)って失敗した時に

「 その病気が重かったからだ 」 とは言わないで、

「 汝ら信仰薄き者よ 」 と歎いていられるのである。





【 二十八日の法語  芥子種(からしだね)の如き信仰 】


そこで どうしたら信仰の力を増し得るであろうか。

『 ルカ伝 』 第十七章には 次の様に書かれている。


『 使徒たち 主(しゅ)に言う 「 われらの信仰を増したまえ 」

主いい給う

「 もし芥種(からしだね)一粒ほどの信仰あらば、

此の桑(くわ)の樹(き)に 「 抜けて、海に植(うわ)れ 」 と言うとも汝らに従うべし 』 と

あるのである。

また、ある一節には、イエスは

「 もし芥種ほどの信だにあらば、この山に動いて海に入(い)れというと雖(いえど)も必ず成らん 」 と

教えているのである。


ここに、ナマクラの信仰は役に立たぬことを教えていられるのである。

吾々の食慾がナマクラで、何を食べても美味(おい)しい感じがしない時に、

カラシをつけてたべると、食物が新鮮な味をもって感じられ、食慾が進むことがある。

常に信仰は 新鮮でなければならない。

信仰が新鮮であって、まだ入信 間もない時分には、色々の奇蹟的功徳が実現したのに、

近頃は一向、新鮮な体験が出て来ないという古い信者があるが、

新鮮な体験というものは 新鮮な信仰から出て来るものである。


それには、どんな古い信者で、もう何でも知っているというような先輩であっても、

常に誌友会や講習会に出席して、新鮮な体験者の体験をきくことが必要である。


最近(昭和四十六年当時)、日本教文社から、信仰体験を集成した 「 体験集のシリーズ 」 が

次のように既に六巻出ているから、これらを是非読んで新鮮な信仰の伝達・感応を

それらの体験から得られるがよい。


体験とは真理の生活化であり、

体験なき信仰は、まだ本物の信仰になっていない証拠である。


また講師として人を指導する役割をもつ人々は、

それらの体験集をよく読んで、具体的実例として話してあげると、

相手の信仰が増し、また本当に相手を救うことが出来るのである。


体験談を集成した新書判の書籍は次の如くである。

@ こうして私は救われた A 苦しみを超えた人々 B 新生活を開いた人々 

C 愛と憎しみを超えて D 道ひとすじに E 愛よ よみがえれ

( 現在は絶版。新シリーズとして 「 生長の家体験ドキュメント 」 全十巻が出版されています)




[243] 二十九日の法語 ・ 三十日の法語
明鏡 - 2014年10月28日 (火) 22時50分



【 二十九日の法語  生長の家の “ 万教帰一 ” の意味について 】



門司に西澤彦兵衛さんという深い金光教の信者があって、

徳永硝子(ガラス)株式会社の社長をしておられた。


その社に 原田親信(ちかのぶ)さんという生長の家の信者があって

互いに親しい間であった。


原田さんが西澤さんに 『 生命の實相 』 の本を差上げると、

その巻頭に、 「 天地一切のものと和解せよ 」

「 和解するとは 怺(こら)えて我慢して

仲好くして見せていることではないのであって

感謝することが本当の和解である 」 という意味の神示があるのを読んで、

それが金光教の教えと完全に一致するというので、

非常に感動して金光教の信者であるそのままに生長の家の信者になられたのである。


生長の家では あらゆる宗教の教えを真理の神髄を礼拝するとき、

全ての宗教は一つの真理に帰一するという教えであるから、

何宗の人でも、そのままで、生長の家の信仰に入(い)ることが出来、

しかも祖先の宗教の神髄がわかるので

却って祖先の宗教そのものが有り難くなるのである。





【 三十日の法語  大急ぎで先ず感謝するがよい 】



金光教には 「 百節の御理解 」 という神言(しんげん)百種類があるのである。

そのなかに 「 大急ぎで頼みに来る人は多いけれども

大急ぎでお礼に来る人は少い 」 という警句がある。


病気で医者が手を放したというと、家族が大急ぎで 「 何とか神様の力で治して頂きたい。

どうぞ神さまのお蔭(かげ)を頂きますように祈って下さい 」 と頼みにくるくせに、

さて その病気が治ってしまうと、ケロリとしてお礼にも来ない人がある。


来るにしても、‘ 大急ぎ ’ で お礼には来ないのである。

本当は 「 お礼を言うのが先であるのが最もよいのである 」


だから イエスがラザロを復活せしめられた時に、

イエスは先ず 「 父よ、常にわが祈りを聴き給いし事を感謝いたします 」 という意味をとなえて

神に感謝しているのである。


吾々もこれに倣(なら)うべきである。




[251] 三十一日の法語
明鏡 - 2014年10月31日 (金) 11時54分



【 三十一日の法語  和解するとは感謝することである 】



西澤彦兵衛さんは、天地一切のものに和解せよ、和解するとは感謝することである。

この感謝の教えが金光教と一致するというので、それを実践するようにせられて、

当時 戦争中であったので、軍需省の許可がなければ大きな仕事は

何も出来ない頃であった。



西澤さんは 上京すると、必ず、軍需省へ出頭して感謝することにせられたのである。


すると局長が 「 西澤、今日は何の用事で来た? 」 と声をかけてくれる。


西澤さんは 「 別に用事というて ございませんが、

いつも ごひいきにあずかりますので 感謝のために挨拶にまいりました 」 というと、


局長が その部下の役人に

「 君、西澤君の先日 出した書類、早く見て判を押してやってくれ 」 などと

いってくれて 仕事が順調に運ぶのだったという。


その頃、日本の産業は 満州奉天に、新しい満州国の産業育成に工場を

移築したりしたので 西澤さんは自分の硝子会社の工場も奉天に移築したいと

思って、本当に芥子種のような新鮮な信仰をもって

「 この工場が、日本海を越えて満州へ移築するようにして下さい 」 と

祈ったのであった。


すると その祈りはきかれた。

それは軍需省から 「 奉天に硝子工場を建設することが必要だから、

お前の工場を移築する 」 という命令が来たのである。


そして その移築も作業も運賃も、軍の費用でそれが行われて、

まことに 「 芥子種ほどの信だにあらば、工場に日本海を越えて、

満州に移れというといえども必ず成らん 」 という真理が実現したのであった。







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