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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐

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[215] 「無」の自覚は「忠」に貫徹する
伝統 - 2014年10月21日 (火) 04時32分


           *「信の力」(P1〜9)より

「信の力」序文〜「無」の自覚は「忠」に貫徹する(その1)


『生命の實相』において物質無・肉体無の哲学が説かれて以来、読者のなかには、
今まで『物質あり、肉体あり』との観念に執(とら)われて心の自由を失っていたのが

その執着から解放せられて生命(せいめい)が本然の自由自在を恢復し、その結果、
奇跡的とも観えるような生活革命が現れて来、人生観の革命による精神昂揚の賜(たまもの)
として、不治と自覚して永く病床に呻吟(しんぎん)していた人さえも、

その不治の自覚のあやまれることを知り、けつ然病床を起(た)って
国家に必要な激務にたずさわる人々が出来たり、

人口漸減(ぜんげん)の傾向が嘆かれたりしている此の際に、
不思議にも従来不妊症と思われる婦人が、著しく体力を若返らせて22年目、18年目、
13年目、11年目等々にして初めて子宝を得た如き実績をも挙げて、

現時の日本に枢要な役割を演じつつあるのは人々の既に知れるとおりである。
(拙著『子宝』参照〜補注:昭和16年発行)

             <感謝合掌 平成26年10月21日 頓首再拝>

[220] 「無」の自覚は「忠」に貫徹する〜(その2)
伝統 - 2014年10月22日 (水) 03時49分

この『無』の自覚は生命(せいめい)の内部的大解放を与える結果、実生活上に
斯くのごとき効果を惹起(ひきおこ)すのであるが、

『無』を有無相対の無であると思い、『肉体がなかったら飯(めし)も食えぬのではないか。』
『その君の食べる米は「物質」ではないか』と反問するような愚かしき批評家さえ生じて来た。

『無』を知らなくて、どうして日本精神を論ずることが出来ようか。
楠木正成は『無』の中に七生報国を観たのである。
平野國臣、頼三樹三郎、吉田松陰・・・等々すべて『無』の中に不死を体得し得た人々である。

今ほど日本人に『無』の自覚の要求せられる時はないのである。

『無』とは一切相対智の破摧であって、相対的見地で『有る』と概念せられているものの
否定であるばかりか、『無い』と概念せられているものをも否定して、
有無を謂わせず、絶対無即絶対有を直観把握せしめるのである。

             <感謝合掌 平成26年10月22日 頓首再拝>

[222] 「無」の自覚は「忠」に貫徹する〜(その3)
伝統 - 2014年10月23日 (木) 04時06分


『肉体なし』と自覚して病気が治る底(てい)のことは、
単に『有無』の概念で『肉体なし』と知ったとてそれが出来ることではないのである。

普通『無い』と概念せられているような意味に於いて、『肉体無し』と悟ったならば、銀行に
百万円預けてあると思っていた金(かね)が、その銀行の破産から『預金無』となったときの
驚駭(きょうがい)と同様の著しき精神的衝動を感じて、却って其の肉体の病的症状が
悪くなる筈である。

百万円ならずとも、十五銀行破綻の時には、千円や二千円の小金を同行に貯金して置いて、
それが銀行の破綻と共に『無(む)』となったと知って病気になったり発狂した人さえも
あったことは、人の夙(つと)に知れるところである。

されば『肉体無し』の『無(む)』は銀行に貯金してある金(かね)が『無(む)』となる
と云うが如き、相対的立場や、五官的立場の『無(む)』ではないのである。

そう云う相対的立場や、五官的立場を放(な)げ棄(す)てしまったとき、眼の前にある
物質(と観られるもの)はそのままにして、其の儘に、それは物質としては観られなく
なるのである。


             <感謝合掌 平成26年10月23日 頓首再拝>

[227] 「無」の自覚は「忠」に貫徹する〜(その4)
伝統 - 2014年10月24日 (金) 05時02分


吾々が『物質』を『物質』として感じ得るのは五官で見る大いさの巨視的立場に於いてに
過ぎないが、既に一億倍にも見える顕微鏡で覗いて見た如きところの微視的立場に於いては
物質は電気的エネルギーの小点たる電子が、夜空に煌(きらめ)く星のように

大(だい)なる間隔を距(へだ)てて点在するに過ぎないところの
ただの『空(スペース)』にすぎないのである。

吾々は巨視的立場に於いては、物質とか肉体とか云うものは一種の緻密なる構成の
固塊(マッスmass)としてみるのであるが、微視的立場に於いては、それらはただの
『空(スペース)』にすぎない。

併し吾等はそう云う微視的立場を守って、『お前たちが固塊(マッス)だと思っている
物質や肉体はただの「空(スペース)」に過ぎないぞ』と云うのでもない。

そう云う『空(くう)』の説き方は、巨視的立場に於いて、物質の不可入性や、剛性や、
不自由的凝塊性を主張せんとする一部の人々を論破せんがために、方便的議論として
説かれることもあり得る。

『生命の實相』にも一部の論法が用いられている。
そして其の議論によって、『物質無がよく判った』と物質や肉体に対する執着を捨てて
意外な儲け物をする人もある。

併しながら、それも一つの立場であり、それが、一種の《微視的立場》であって、
所謂(いわゆ)る《相対的立場》である点に於いては渝(かわ)りはない。
吾々はかかる微視的立場さえも超えなければならないのである。

             <感謝合掌 平成26年10月24日 頓首再拝>

[232] 「無」の自覚は「忠」に貫徹する〜(その5)
伝統 - 2014年10月25日 (土) 04時29分

物質無し、肉体なし、巨視的立場なし、微視的立場なし、そしてその立場なき立場に於いて、
《もの》そのものの実相を把握し、《いのち》の実相を把握し、《くに》の実相を把握した
とき、此の世界はただ神の国である事が直観され、

天皇(てんのう)は大御神(おおみかみ)にましまして、吾等は神の子であり、
天皇は大君(おほぎみ=太極身<おほきみ>)にましまして、
吾等は天皇の御身(御手身)成る実相の直接自覚が生まれ、

宇宙はただ『忠(ちゅう)』の理念の顕現であることが捕捉されて来るのである。


             <感謝合掌 平成26年10月25日 頓首再拝>

[234] 「無」の自覚は「忠」に貫徹する〜(その6)
伝統 - 2014年10月26日 (日) 08時03分

『忠』の実相はここより開顕され、肉体本来無く。ただ『忠』のみありと分かり、ここに
矢野酉雄氏の『臣道無窮』の復古にして新しき倫理観は生み出され、大崎勝澄氏の
『惟神史観』が相対的唯物史観や、相対的唯心史観を超えて生み出されるのである。

或る真宗の亜流の如く、君臣をわきまえなく人間を等しく平等に凡夫と観、物質的肉体と
観るが如き唯物的巨視的立場に於いては、日本の実相、《ものそのもの》、
《くにそのもの》、《ますらを》の《いのちそのもの》は分かり得ないのである。

かくの如き凡夫仏教が今日残りいるとすれば、それは過去に於いて弓削道境(ゆげどうきょう)
を生み出したる残渣(ざんさ)としての仏教として排撃せられねばならないのである。

凡そ『日本的なるもの』を知るためにには吾々はあらゆる立場を超えて『絶対無』にまで
沈潜し行きて、『絶対無即絶対有』の中に広々とした『理念の世界』あることを知り、
相対的立場を超えたる世界に於いて、あるがままに、形なく形を見、声なき声を捉え、
差別なき世界に於ける荘厳なる差別の相(すがた)をとらえなければならないのである。

相対的立場を超えて、立場なき立場に於いて、形なき形を見、声なき声を捉えたとき、
そこに厳然として《ある》ものは、 天皇(てんのう)と 天皇の稜威(みいず)の
展開(ひろがり)のみが其処に存すると云うことである。

斯くてわが『天皇独在』の直観哲学は生まれる。

             <感謝合掌 平成26年10月26日 頓首再拝>

[239] 「無」の自覚は「忠」に貫徹する〜(その7)
伝統 - 2014年10月27日 (月) 04時24分


更に立場なき立場に於いて、そのままに直観されたる差別なき世界に於ける荘厳なる
差別の相(すがた)を捉えるとき、そこに君臣の別(べつ)炳焉(へいえん)として
美しき中心帰一の紋理を掲げる天の道あり、地の道あり、人の道あり、
犯さず、紊(みだ)れざる秩序の世界を見ることが出来るのである。

まことにも犯されず紊(みだ)れざるが道である。
道は冲(ちゅう)にして形無しとは、
『形なき形』『声なき声』を捉えるまでの自覚の一段階である。

道は《すじ道》であり、《すじ》は理(り)であり、理は本質の世界に於ける波紋であり、
形なき世界に於ける形相(けいそう)であり、秩序である。

そこに君臣の秩序あり、親子の秩序あり、夫婦の秩序あり、師弟の秩序あり、
その秩序を生活に行ずるが、道を生活することである。
それは、哲学することであり、宗教することであり、生きることである。

斯くて、吾等の生きる道は先ず、天皇に対して御民としての理念を生き、
親に対して子としての理念を生き、夫に対して妻の理念を生き、妻に対して夫の理念を生き、
子に対して親の理念を生き、師に対して弟子の理念を生き、弟子に対して師の理念を
生きなければならない。

かく生きることが、自分の生命(せいめい)を最大価値に生きることと成るのである。

             <感謝合掌 平成26年10月27日 頓首再拝>

[241] 「無」の自覚は「忠」に貫徹する〜(その8)
伝統 - 2014年10月28日 (火) 04時13分

『朕(チン)爾臣民(ナンンジシンミン)ト俱(トモ)ニ拳々(ケンケン)服膺(フクヨウ)
シテ威其徳(ミナソノトク)ヲ一ニセンコトヲ庶幾(コヒネガ)フ』と曰(のたま)わせらるる
大御心を拝察すれば拝察する程、聖恩(せいおん)の無窮(むきゅう)に感泣(かんきゅう)
せざるを得ないのである。

斯く詔(みことのり)を承(う)けて必ず行ずることが、
実相の永年を発現する忠道の実践である。


而も見よ、これらの秩序は中心秩序備わっておのずから諸徳備わるのである。

その中心秩序とは何ぞや、曰く、自分を無にすることの外(ほか)はない。
自分を無にすること。

先ず楠木正成の如く肉に於いて死することである。
それは必ずしも肉体の腹を切らなければならないことはない。
自覚の世界に於いて、肉体は無きものぞ、物質はなきものぞと知ることである。

それにはひたすら坐して『物質無』の世界に貫き入ることである。

そして、天皇と、天皇の稜威(みいず)のみ独り実在に在(まし)ます存在の実相を知り、
『忠』に貫徹することである。

忠とは教育勅語をそのまま実践することである。
かくするとき爾餘(じよ)の諸徳はおのずから備わるのである。


かくて、『物質無』に徹する坐と、 天皇独在をさとる覚(かく)と、
詔(みことのり)を承(う)けて必ず謹(つつし)み実践する行(ぎょう)と、
この三つが吾等の臣道(しんどう)実践の中心となるのである。


   二千六百一年紀元の佳節に           著 者 識

・・・

(以上で、「「無」の自覚は「忠」に貫徹する」は終了です)

             <感謝合掌 平成26年10月28日 頓首再拝>



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