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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐

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[293] 愛と赦しと平和の思念(十一月光明法語)
伝統 - 2014年11月30日 (日) 00時59分

霊は病まず

       *「光明法語」(11月1日の法語)より 

人間は霊である。
霊は病む事は出来ない。

しかも病気が現れて存在するが如く見えるのは想念の中に病気があるのである。
感情の中に病気があるのである。
それは歪められた想念であり、歪められた感情である。

其の感情と想念との《ゆがみ》を取り去ったならば、病気が消えてしまうのである。

宇宙には「唯一の神」と「唯一の神の創造」とのみがある。
全く存在するものは「唯一の神」から創造されたものである。

それゆえ病気と云う醜き存在は無いのである。

・・・

 
病気の存在を支える法則もない

       *「光明法語」(11月2日の法語)より 

すべての法則も神から生じたものであるから、
病気の存在を支えている法則も実は存在しないのである。

心に悪を思えば、悪しき姿の病気が《あらわれて来る》と説くが、
それは《あらわれて来る》だけであって決して存在に入ったのではない。
病気の存在を支える法則など決して《ない》のである。

病気が如何に実在すると見える醜き姿を現そうともそんなものは無い。
無いものは如何に見えてもない。
それは悪夢に襲われてうなされている様なものであって覚めて見れば何もない。

・・・

神の子の美を讃美せよ

       *「光明法語」(11月3日の法語)より 

《無いもの》 は否定する必要もない。
病気の姿を思念をこらして一所懸命否定するのは、
病気を 《あり》 と認めて、それに対して戦っていることになる。

病気は益々あるかの如くその姿を 《あらわす》 のは
「《ありと認めて》」 いる念の力に支えられて姿を現すのである。

病気の念を捨てなければならない。
吾らは病気に対して戦う事も否定する事も要(い)らない。

吾らはただ人間が神の子であること、
美しいこと、健康であること、老いない、死なない事を
讃美して歌をうたえば好いだけである。

・・・

病気の形を思い浮かべるな

       *「光明法語」(11月4日の法語)より

ヘンリー・ヴィクトリー・モルガン氏が指摘したように、或る夫人は自分の少数の
白髪(しらが)が出来かかったのを「白髪は無くなる、白髪は無くなる」と毎日思念し
続けた結果、1ヵ月後には全頭が真白(まっしろ)になって「思念の力もクソもあるか」
と大いに憤慨したそうであるが、

「白髪がなくなる」と念ずる事は「白髪は今ある」と念ずる事を言換えたもので、
毎日「白髪」を思い起こさせる事になるのである。

総(すべ)て、病気の形や状態について、それを論議し、
思い浮かべる必要はないのである。

・・・


醜き姿を心より払拭せよ

       *「光明法語」(11月5日の法語)より

病気や災禍を思い浮かべ、それを恐怖したとき想念は形にあらわれる。
恐るるものは皆来るので、これは神が造ったものではなく、想念の具象化である。

何か病気の醜き姿を見て、恐ろしいと思った時には
「かかるものは実在ではない。実在するものは、唯(ただ)完全なるもののみである」
と数回心に念じて、醜き姿を心の底から拭い去ってしまって置くことが必要である。

宇宙のすばらしく宏大にして完全なること、
それを創造(つく)った神の力の無限大なる事、
その偉大なる無限力の前に何の病気の存在の余地があろうぞ。

・・・


人を癒やすために自分を癒やせ

       *「光明法語」(11月6日の法語)より

人を癒やす為には、自分の心の中の病気を消す事が必要なのである。

医者が手を放したとき、治る見込みがないと言ったとき、
色々の民間治療家や有名な博士がいずれも失敗したと云うとき、
それをきかされて「不治」を自分も連想するようでは相手を癒やす資格はない。

かかる不治の不安が光明思想をする人を捉えたとき、
先ず思念者は自分自身の想念の歪みを癒やさねばならないのである。

先ず人間は神の子であり、神が霊的実在であるが如く
自分も亦霊的実在である事を念ぜよ。

・・・

黴菌も寄生虫も無い

       *「光明法語」(11月7日の法語)より

人間は神の身体である。
神の身体を害する何かが存在すると云うことはあり得ないのである。
神の身体の中に黴菌や寄生虫が蝕(むしく)うと云うことはあり得ない。

宇宙の一切の存在は、唯一の神の聖なる計画の中に
すべてが調和して造られているのである。
神の霊なる身体の中に互いに敵対する如何なる存在もあり得ない。

人間の身体は神の霊によって創造(つく)られたる「神の宮」である。
神の霊が「神の宮」である人体の到る処に満ちているのである。

―― 斯く念ぜよ。

・・・

心の照準は現在意識

       *「光明法語」(11月8日の法語)より

「我みずからにては何事もなし得ず、
天の父われに在(いま)してみ業をなさしめ給うのである」
とイエスは言った。

癒すのは「天の父」即ち神であり、われではないのである。
われは、心の照準を定めて引金を引くだけである。

心だけ正しい方向にむけて神の力の自働するのに任せて置けば好いのである。
みわざは内在の爆発力がなし給うのである。
内在の爆発力とは、神である。

照準を定めるのは現在意識であり、現在意識の志向を潜在意識の中まで落すのが、
「引金を引く」ということである。

・・・

如何なる観念が潜在意識に入るか

       *「光明法語」(11月9日の法語)より

現在意識がボンヤリしている時に突如として投げ込まれた強烈なる印象
又は明確なる観念は、潜在意識の中に深く種子を蒔かれるものなのである。

催眠状態中の暗示は勿論、朝眼が覚めた直後の自己暗示や、
就寝後の眠りを催し来る直前の自己暗示や、診察中に医者の態度に気をとられている
最中に医者の偶然漏らした言葉や、

両親が子供を叱りつけた時、子供は呆然としている、
其のとき親の言った言葉などは深く潜在意識に刻みつけられて、
やがて芽を吹き実を結ぶ事にもなる。

・・・

下克上の心は頭の病いを来(きた)す

       *「光明法語」(11月10日の法語)より

吾々の頭脳は、主の御意(みこころ)の表現であり、祖先の表現であり、
すべての秩序の本源である。

神を尊び、上(かみ)を尊び、祖先を尊ぶ秩序の念を破るとき、
頭脳の病気は起こるのである。

神に感謝し、祖先に感謝し、祖先の霊に聖経を読誦するとき、
精神病や、癲癇や、脳膜炎や、脳脊髄膜炎は癒(い)える。

よく子供にある「胎毒」と云う湿疹は、母親が、その良人に感謝せず、
良人の頭を泥土のように心で踏みつけている時に起こるものである。

すべて下克上の心は頭及び脊柱の故障を起(おこ)すものである。

[294] (中旬)
伝統 - 2014年11月30日 (日) 01時13分


神の無限供給について

       *「光明法語」(11月11日の法語)より

神は寛大であり、無限の供給であって、他を害せず、他の持物や享受を侵害せずして
自分に《なくてならぬもの》は必ずそれを与え給うのである。

《なくてならぬもの》とは必ずしも、切羽詰った
「それがなくては死ぬ」と云うようなものでなくとも、

その生活に
「愛を生かし、美を生かし、智慧を増進し、平和と調和をもたらす為に必要なるもの」
であれば、一寸した菓子や机の上の装飾物や、ラジオ・セットや蓄音機のような
生活必需品でなくとも与えられるのである。

・・・

その人に適する願い

       *「光明法語」(11月12日の法語)より

グレンクラーク教授が、まだ『魂の切なる願い』の著書を発表せず
生活が楽でなかった頃、8ドル70セントの鉱石式ラジオを、
家庭の和楽や知識の増進の為に欲しいと思った。

それは「それがなければ死ぬ」と云う程切実なものではないが、
それでなくとも此の程度の
願いは「その人に適する願い」として与えられるものなのである。

否、既に与えられているのである。

それが現実に現れて来るには、祈りによって心の波長を
「既に与えられている実相」の波長に合わす事である。

・・・

最後の決定は神に委(ゆだ)ねよ
        
       *「光明法語」(11月13日の法語)より

グレンクラーク氏は「鉱石式ラジオを与えたまえ」と祈ってその最後の決定を
神にゆだねられたのである。数日後全然予想しないところから2枚の小為替を
受け取った。

合計8ドル85セントであって、8ドル70セントのラジオを買うと
15セントあまったのである。

ところが3日後になってそのアンテナがこわれたので修理させると
丁度キッカリ15セントを要したのである。

その冬同氏は亡母の記念出版物を出そうと思った。
それも氏が神に委ねた時、同金額の小為替が来た。

・・・

自然の彫刻にまかせよ

       *「光明法語」(11月14日の法語)より

常に自然であれ。
そのままであれ。
神にまかせよ。

力んではならない。
自分で無限に人生を彫刻しようと思ってはならない。
自然の彫刻は人間の我(が)のこころの彫刻よりも美しいのである。

この根本真理に従って、事件が起った時、その事件の処理を行うべし。
我(が)を出したら頭を打つのである。
急いだり、焦ったりしては躓(つまず)くのである。

雪の一片一片の結晶が決して同一デザインのものがない様に
吾等の生活の設計も同一なものはない。
然も自然の彫刻はそれ自身で完全である。

・・・

「声」と「コトバ」

       *「光明法語」(11月15日の法語)より

祈りには自力の祈りと、他力の祈りとがある。
自力の祈りは、洗礼のヨハネの如く 「曠野(あらの)に叫べる声」 である。
曠野とは、そこに神の生命が満ちていないと云う意味である。

人と人とは個々に孤立していて、
神の生命によって互いにつながっている自覚がないのである。
互いに呼び交わす声は、声にとどまり、
互いに意味が疎通する 「コトバ」 にはなっていない。

互いに意味が疎通するには一人の生命の動きが神と云う共通の媒介によって
他の人々の生命の動きと共感しなければならぬ。

・・・

傲(たか)ぶる心を捨てよ

       *「光明法語」(11月16日の法語)より

神のコトバは宇宙に充ち満ちているのに、そのコトバをきく事が出来ないのは、
自分の内に宿る 「神のコトバ」 を覆い、それを宇宙に満つる 「神のコトバ」
と波長を合わせる事をしないからである。

自己内在の神性を覆えるものは 「傲(たか)ぶる心」 であり、
「わしが」 「わしが」 の心である。

「わし」 と云う力(りき)みは、
海面上に浮き出ている氷山の部分みたいなものである。
表面を力んで見詰めていると、氷山の底の部分が一層大きなものであり、
普通の海水で互いに繋(つなが)っている事を忘れる。

・・・

吾らは神の生命の枝

       *「光明法語」(11月17日の法語)より

「われは葡萄(ぶどう)の樹、汝らは枝なり」とイエスは言った。
そして又「われと父とは一体なり」とも言ったのである。

かくて吾らは 「天の父」の枝なのである。
われらの生命は天の父より来(きた)るのである。

更に「枝」と「枝」 とは互いに孤立することなしに、
葡萄の樹の生命によって互いに一体なのである。

「何人(なんぴと)も《われ》によらで父に来る者なし」とイエスが言ったのは、
「何人も《イエス》と同じき神の子の自覚によらずして天の父と一体になることなし」
と言い給うたのである。

・・・

自他一体の自覚

       *「光明法語」(11月18日の法語)より

「天の父」と「神の子」との一体融合を阻礙(そがい)するものは、
あの氷山の表面のみを見つめる如き「傲慢なる」孤立の心である。

氷山はどうして浮いているかと云えば、
その下にある「無限につづく海水」の力によるのである。
「無限につづく海水」とは、無限につづく神の生命の譬喩(たとえ)である。

われらは氷山の個別的突出のみを見る。
「わしが、わしが」と高ぶる心を捨てなければならない。

氷山は脚下を見なければならない。
脚下の海水を見て、自分が存在する所以(ゆえん)を知らねばならぬ。

・・・

心柔和なる者

       *「光明法語」(11月19日の法語)より

氷山が(個人の喩<たとえ>)顧みて自分の脚下(きゃっか)を見るとき、
自分の存立が自分によって成立っているのではなく、海水によって成立っているのだ
と知るとき、自己の高慢が摧(くだ)けるのである。

これをパウロは 「自己に死にたる者」 と言い、
洗礼のヨハネは 「悔(くい)改め」 と言い、
イエスは 「柔和なるもの」 「へりくだれる者」 「貧しき者」 「悩めるもの」
「振返りて幼な児の如くなれる者」 などが神の国に人る事が出来ると言ったのである。

「わしが……わしが……」 と云う自己が摧(くだ)ける事が必要である。

・・・

すべての者をゆるせ

       *「光明法語」(11月20日の法語)より

「ただ一人に対する憎みでさえも神の国に入(い)る扉をすべて閉じる事になる」
とグレン・クラーク教授は言っている。

「七つの燈台の点燈者の神示」には
「争いの念波は神の救いの念波を能(よ)う受けぬ」とある。

自己慢心、自己憐憫、自己欺瞞、嫌悪、憎み、怒り、及び恐怖心は
同じく神の霊波の入口をとざすものである。
扉をとざす諸原因を捨てるとき、吾らは「神の国」に入る事が出来る。

如何にせばこれらの諸原因を捨てる事が出来るか。
愛と赦しと平和の思念をすることである。



[295] (下旬)
伝統 - 2014年11月30日 (日) 01時22分


赦しと愛と平和

       *「光明法語」(11月21日の法語)より

赦しと愛と平和とはすべての癒しに必要な要件である。

若し病める者が癒されん事を望むならば、先ず合掌して、
自己の憎める者、自己と不和なる者、自己について不平をもてる者、
自己が彼に不平をもてる者などを心に描いて、

「私はこれらの凡ての人々を赦したのである。
私はこれらの凡ての人々を神の愛を持って抱擁する。
私がこれらすべての人を神の愛をもって抱擁する如く、神もわが過ちを赦し給いて
その無限の愛をもってわれを抱擁し給うのである」 と思念せよ。

・・・

神の愛の抱擁を思念せよ

          *「光明法語」(11月22日の法語)より

更に次の如く思念せよ。

「神の愛の抱擁は優しいのである。
無限の優しさ、無限のこまやかな愛情をもって私を抱擁し給うが
故に、私の皮膚は直接この無限に優しい細(こまや)かな神の愛に触れているのである。
だからどんなイライラしさも、どんなブツブツもどんな炎症も潰瘍も存在しない。

神の愛と平和とはわが全身に流れ入って満ち給うが故に、
わが全身には神の愛と平和とが満ち充ちているのである。
だからわが内臓の粘膜にもどんな炎症もあり得ないのである・・・」

・・・

人の病いを癒すには

       *「光明法語」(11月23日の法語)より

他の人の病いを癒す為には、自己の名前や、報酬や、虚栄や、
それらすべての利己的なものを捨てなければならぬ。
そして彼を本当に愛しなければならぬ。

自己の為に彼を愛する利己的な愛では足りないのである。
彼自身の為に彼を愛しなければならぬのである。

この愛の中に高まり入るとき
「汝等互いに相愛せよ。愛するところに吾はいるなり」と言われた
イエスの無限の癒す力と一つになる事が出来る。
この時吾らは神の愛と一体となり、無限の力の源に触れるのである。

・・・

彼の心の悩みを自己にとる事

       *「光明法語」(11月24日の法語)より

人の病いを癒さんとする時、先ず彼の名前をとなえ、
彼の悩みを心に思い浮かべて可哀相だと思う事が必要である。
そう思わなくとも治る事があるが、この方が一層効果があるのである。

何故なら、それは洗濯屋が《よごれ》物をお客様からとって来る様に、
相手の悩みを自分にとって来るからである。
この「悩みの洗濯物」は「悩みのよごれ水」で洗い浄めても綺麗には
ならないから、一旦自己にとり来った「心のよごれ」は
「全然悩みのない思念の水」で洗い浄める事が必要である。

・・・

ラザロを復活させたイエス

       *「光明法語」(11月25日の法語)より

イエスは死して4日、既に腐臭芬々たるラザロを蘇生せしめられた時に
「イエス涙を流し給えり」と聖書にある。
その家族の悲しみを自分の悲しみにまで摂取し給うたのである。

その次には「死せるに非ず、活けるなり」と仰せられた。

人の悲しみを自分に受取った上はもう「悲しみの水」では、
その悲しみを洗い流すことは出来ない。

今度は、悲しみを見ず、死を見ず、病いを見ず、ただ死せるに非ざる
「活けるラザロの実相」を見られたのである。

その時ラザロは復活した。

・・・

彼の悩みを洗浄する法

       *「光明法語」(11月26日の法語)より

人の病い(悩み)等を清めるのも洗濯するのと同じである。

「治す人」は洗剤の如きものである。
洗剤は一度「洗濯物」から自分自身にその《よごれ》を摂(と)り、
自分自身が《よごれ》なければならぬ。

これが「可哀相」だと思う事にあたる。
次には少しも「《よごれ》のない水」を、豊富に濺(そそ)いで
その《よごれ》を捨ててしまわなければならぬ。

「《よごれ》のない水」とは、光明思念である。
病いのことを少しも思わず、神のみが実在であること、
神の世界に一切の罪は存在せずと思念するのである。

・・・

相手の病いを治す思念

       *「光明法語」(11月27日の法語)より

更に彼が神の子であること、神の肖像(にすがた)としてつくられたる
完全なる存在であること、その全身が物質に非ずして霊的存在であること、
如何なる欠乏も、病気も、不完全も悩みも存在しないのであって、
ただ神の愛と平和と完全さとのみが存在すると云うことを思念して、
その思念者が完全平和の心境になり得たとき、
乃ち相手は癒されていると云うことになるのである。

相手に念を送るのではなく、自分自身に摂取した念を浄めるのである。
自他は一体であるからである。

・・・

柔和なる者、汝は地を嗣(つ)がん

       *「光明法語」(11月28日の法語)より

「すみません。私が悪かったのです。貴方は神の子で完全な方でありますのに」
と妻が良人に詫びる気になった時、その妻自身の病気が治ったり、
良人の重病が治ったり、愛児の病気が治った実例はたくさんある。

それは「(心の)貧しき者は幸いなるかな、神の国は汝のものなり」
と云うのにも当る。

傲(おご)れる者は、神を求めず、神に縋(すが)る気にもなれない。
ただそれは氷山の水面上の部分の硬さに信頼するものであるからである。

氷山が融(と)けて来たとき海の水の広大さが判るのである。

・・・

無条件降伏

       *「光明法語」(11月29日の法語)より

神への無条件降伏こそ、無条件[幸福]の源泉である。
無条件降伏はただの観念の問題ではなく、それは一つの実行である。

それは、上衣(うわぎ)をとらんとする者には下衣(したぎ)をも与え、
十里の公役(こうえき)を強(し)いられなば二十里を行き、
右の頬を打つものあらば左の頬をも打たしめる実行である。

これを実行したときに奪われた上衣は戻り、敵は味方となり、
二十里を行って益々疲れず愈々元気旺盛となるのである。

与えることのうちにこそ、すべての自由と、無限供給の源泉があるのである。

・・・
   
与えよさらば与えられん

       *「光明法語」(11月30日の法語)より

「求めよ、さらば与えられん」 と教えられている。
併し 「与えよさらば与えられん」 と云う事は更に真実である。

子供が重病に罹(かか)って医者が手を放した様な場合に、
「神よ、この子を是非いやし給え」 と祈るよりも、
「神よ、御心のままになし給え」 と完全に神に対して、
自分の子を与えてしまった方が、癒える事が早い。

何故なら、「是非いやし給え」 と祈っている時は、
その子の親の執着が子供の生命を縛っているけれども、
神に与えた時には執着で子供の生命を縛る事がない。





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