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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐

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[305] 《物質の否定、棄揚、神国の肯定》
伝統 - 2014年12月08日 (月) 17時20分

            *「信の力」(P75〜89)より

                    ○

生長の家倫理学を極端な唯心論であると考えている人達があるかも知れぬけれども、
極端な唯心論ではなく、完全なる唯神論なのである。

吾々は神一元の《実在》を説いているのであって、この意味に於て、
神そのものは自由自在であって、物質的不自由性はないのであるから、
そして《神のみ》が《実在》であるのであるから、物質は無いと云うのである。

一切の概念は制限的であるから、それは斯うで《ある》と云った時その概念は
其の他の概念の一切の否定に到達する。

そこで制限なき自由自在な神の如き実在を徹底させるためには
『そうでは《ない》』と云わねばならぬ。

されどその否定に依って一の新たなる肯定が発生する。
蓋(けだ)し否定されるものは、一定の制限された内容で、一般の全内容ではない。

否定によって、否定されたるものを包容しながら、
一層偉大なる全包容的全超越的なる内容が肯定されるのである。

《無い》と《ある》とは哲学上の本体論の問題であるから、
哲学上の理解なくして言葉尻をとらえて批評して見ても判らないのである。

日本の国土は物質で出来ているのに、《物質は無い》と云うのは国土の否定となって
日本の国体に適しない哲学であると批評するが如き愚かしき蒙論は
実在と表現との区別を知らざる哲学的無智から来るのである。

若し諸君が日本の国が物質で出来ていることを主張するならば、
諸君は日本の国が『神の国』であることを否定して『物質の国』であることを
主張することになるではないか。

そして今日から日本の国を、『神国』と呼ばずして
『物国』と言わねばならないことになるであろう。

(次に、つづく)

           <感謝合掌 平成26年12月8日 頓首再拝>

[306] 《物質の否定、棄揚、神国の肯定》〜その2
伝統 - 2014年12月10日 (水) 04時53分

凡(おおよ)そ為政者(かみにたつもの)は
この点に就て大いに考えなければならないのである。

『物質は《ある》』と云う論者は『実在(ある)』と『表現(あらわれ)』とを
混同しているので、『表現(あらわれ)』のことを、『ある』と間違えているのである。

『《本当にある》』か、それが『表現(あらわれ)』であるかは、
それが変化しない存在であるか、変化無常の相(すがた)であるかを見ていれば
分るのである。 

吾々は『物質は実在(ある)のではない』と云い、
それは単に表現(あらわれ)であると云うのである。

表面、国粋論者であり、国体明徴論者であり愛国者であるように見える者のなかに、
唯物論者の手先があり、露西亜(ロシア)コミンテルンの謀者(まわしもの)のがあり、

『日本神国』を主張する論者の言葉尻を捉えてこれを陥穽(かんせい)に落し入れ、
日本国体に適せざる論者として、却って之を断圧でしめ、

日本が神国であると云う観念を抜き去って、『日本は物国』であると云う観念を
植え付けるように努力しているコミンテルンの謀者(まわしもの)があるかも
知れないのである。

斯かる一団の者に使嗾(しそう)せられて、本当の日本神国論者を却って批難、
圧迫するが如きことあれば、それは由々しき国家の大事であるのである。

(次に、つづく)

           <感謝合掌 平成26年12月10日 頓首再拝>

[307] 《物質の否定、棄揚、神国の肯定》〜その3
伝統 - 2014年12月11日 (木) 06時01分

                    ○

『物質が本来無である』ことを生長の家が説くのが、日本国体に適しないのである
ならば、最近著しく発達せる振興物理学は日本国体に適しないから、
大学の講座から放逐しなければならなくなるだろう。

日本評論某号にも、吉岡氏は、物質は波動であって、その波動も、水とか空気とか
云う如き、波動すべき何物かがあって波動するのではなくて、
《かかる波動の媒体などはなく》《何物もなくして》ただ波動が顕れる、
その波動の尖端が電子となる、 と物質無のことを説いている。

科学が物質無を説くのに哲学や宗教が無を説いたら
日本国体に適しないと考えるのは愚かしき極みである。

科学が、哲学が、宗教が物質無を説いてくれることは日本神国の国体明徴に
よくないどころか、物質本来無であってそれがただ本体〈実在(じつざい)〉の
『表現(ひょうげん)』であることが明徴になってのみ国体の明徴が期し得るのである。

もし物質が実在であると説くならば日本神国観念は如何にして徹底し得るであろうか。
畏(かしこ)くも高天原より天孫降臨を唯物論者は如何に説明するだろうか。

それが『物(もの)』の世界から、『物』の世界への降臨であるならば、
地上の一地域から一地域への移住と云う意味になって、天孫降臨とは遊牧民族とか
漂着種族とか云うことを類推せしむることになり、何等日本国体に神聖性を与えること
にならないのである。

物の世界をひとたびは否定し、更にこれを棄揚(きよう)したときに初めて、
天孫降臨の神聖さが判り、日本国体の尊厳が判るのである。

(次に、つづく)

           <感謝合掌 平成26年12月11日 頓首再拝>

[309] 《物質の否定、棄揚、神国の肯定》〜その4
伝統 - 2014年12月12日 (金) 06時15分


日本国が神国であると云うには3つの要素が必要なのである。

(1)その中心総覧者であらせられる 《すめらみこと》が神でましますこと。

(2)その国土が物質ではなく神の表現であること。
   (物質、物質に非ず、これを通称して物質と呼ぶに過ぎないことは
    最近の物理学の証明するところである。)

(3)その国民がすべて神の子の表現であって、親神の御表現にまします
   《すめらみこと》の中心に帰一していること。

この3つの要素が、神一元に終始することによって、
初めて完全に『神国』と称し得て、そこに『物国』の影も止めないことになるのである。

(次に、つづく)

           <感謝合掌 平成26年12月12日 頓首再拝>

[310] 《物質の否定、棄揚、神国の肯定》〜その5
伝統 - 2014年12月13日 (土) 03時18分

生長の家倫理学では高天原(たかあまはら)とは物質的国土の一地点とは認めないのである。
若し物質的国土の一地点だと認めれば、日本民族は移住民族だとなる。

吾々は高天原を無量智、無量壽、無量光明遍照の実在世界であると認めるのである。

天孫降臨とは 《すめらみこと》 が高天原なる実在の世界から
現象の世界への御表現を完成し給いしを指して云うのである。

即ち 天照大御神の久遠金剛不壊実在の皇位が現象界へ降臨し給うた
その御表現が歴代の 天皇であらせられるのである。

だから歴代の 天皇は畏(かしこ)くも久遠皇位の御表現であらせられ給うて、
御表現としては御(おん)肉体を現じ給う現人神(あらひとがみ)〈あらわれの人の神〉
であらせられ、生じまた滅し給うように吾々の五官には見えまつるなれども

生じまた滅し給うように見えまつるのは
吾々の五官に映ずる御表現であらせられる《のみ》であって、
《御本体は久遠永劫金剛不壊の天照大御神の御霊体であらせられるのである》。

だから歴代の 天皇の崩御ましますとも、 天皇の御本体は永遠に崩御ましますことなく、
崩御の瞬間に次なる御践祚(ごせんそ)があって、久遠皇位の御表現に些かの間隙もなく、
御表現身は歴代御代(おんかわ)り遊ばすとも御本体身は朽ちず滅せず、
久遠の存在であらせられ給うのである。
   
(次に、つづく)

           <感謝合掌 平成26年12月13日 頓首再拝>

[311] 《物質の否定、棄揚、神国の肯定》〜その6
伝統 - 2014年12月15日 (月) 03時02分

                    ○

若し唯物論者の云うが如く、御表現身なる玉体を以て御表現身であると見奉らずして 
 天皇の御本体そのものを死滅の法則の中にあると認めることになれば、 天皇は永遠の
御存在ではなく、崩御と共に御本体の朽ち滅ぶべき御存在であらせられると云うことになり、

たとい崩御の瞬間に践祚のことあらせられるとも、《ひとたび》は滅して、
皇嗣子(こうしし)が、御位(みくらい)に就きたまうことになるから、天皇の
《ひとたび》は滅したまうことを予想することになる。

畏れ多くも 天皇の《ひとたび》は滅して次なる天皇の御登位を予想することは、
皇位の中断を予想せしめることになる惧(おそ)れがあるのである。

すべて滅して、次が代ると云う事は、《終末》と《更新》とを予想せしむることであって、
終末と更新とがある以上、それがどんなに瞬間的であっても中断を予想せしむるものである。

而も仲哀天皇崩御(かむあがり)ましまして、応神天皇未だ御誕生遊ばされざるその間の
期間の如きは、天皇の御本体を御(おん)肉体であると在来の如く観じ奉る限りに於て、
皇位が中断したと云う事になり、万世一系の名は空しくなるのである。


生長の家が云うが如く、天皇の御本体を久遠常住の霊的実在なりと観奉り、
その御表現身が御肉体であると観奉れば、御表現身が暫し崩御ましまして、

次なる御表現身の御位に即き給うまでの期間が、暫時あろうとも、
皇位の中断と云うことが断じてないことが判り、皇位の万世一系は、
ただ生長の家倫理学によってのみ明かとなる。


《滅なく久遠常住の存在のみが中断なきものである》。
唯物論者の謂うが如く、 天皇の御本体を生滅ある御(おん)肉体であると観奉る限り、
 天皇が久遠不滅の存在にてましますことを否定することになり、 天皇に対して
由々しき不敬を犯すことになるのである。

国体精神を明徴ならしめるもの生長の家倫理学に及ぶものはないのだ。

(次に、つづく)

           <感謝合掌 平成26年12月15日 頓首再拝>

[313] 《物質の否定、棄揚、神国の肯定》〜その7
伝統 - 2014年12月17日 (水) 08時47分

                    ○

 天皇の御本体は斯くの如く久遠永遠の御存在であらせられるが故に、
歴代御表現身が御交代遊ばすともその皇位に滅なく中断なきことを
知ることが出来るのである。

その如くまた 天皇の御本体は永劫穢れなきところの御存在であり、
無量智、無量光、無量壽の御法体にましますが故に未だ嘗て御迷い遊ばす
と云うこともお間違い遊ばすと云うこともないのである。

道鏡などの如き大逆臣に御惑わされ遊ばした如き記録が史上にはあるけれども、
これも天皇の御本体と御表現との区別が判らない歴史家が御表現にましますところの
御肉体を 天皇の御本体と思い違いせるが故に、天皇が道鏡にお惑わされ遊ばしたなどと
云う不敬なる思想が顕れるのである。

 天皇は本来神聖にましましてその御本体は無量智であらせられるが故に、
未だ嘗て如何なる奸侫(かんねい)の臣下にもお惑わされ遊ばしたこととてはないのである。

古事記下巻などに描かれている 天皇の神聖を涜(けが)し奉る如く感じられる史実は、
事些細なことと雖も 天皇の御本体に関することではないのである。

併し、御肉体は御表現であらせられるが故に、それは鏡の如きものである。
鏡は一切のものを映すが故に、国民が迷えるときには国民の迷いを反映し奉って、
 陛下の御悩(おんなやみ)となって顕れる事もあるのである。

であるから吾らは恐懽(きょうく)反省して、 陛下の御宸襟(ごしんきん)を
お悩まし申さないようにしなければならないのである。

 天皇の御本体はかくの如く神聖であり、一切の悪に責任があり給わないから、
如何なる間違った政治を時の為政者が行おうとも、たとい、それに
御名御璽(ぎょうめいぎょうじ)がありましょうとも、

その全ては大多数国民の心の反映であり、また時の為政者(いせいしゃ)の心の反映で
あるが故に、 天皇は本来神聖にましまして、責を執り給うべきではなく、
すべては輔弼(ほひつ)の諸臣の責任となるのである。

肉体をもって すめらみことの全存在であるとし、すめらみことの御本体と御表現身との
区別を辨(わきま)えざる唯物論者にはこの辺の微妙な消息は理解し得ざるところである。

そして政治の良かざるは すめらみことの御責任であるかの如く すめらみことを
お怨み申上げる不届者さえも時には生ずる。左翼の徒(と)の如きはこれであって、
御本体と御表現身との区別を弁えざるが故である。

 すめらみことが責を執り給わざることを、ただ斯くの如き《機関》を設け置くことが
便利なるが故に斯くあると考うるが如き、 天皇機関説を唱うる迷蒙の徒(と)には、

吾等の肉体本来無し(詳言すれば、永遠不滅不垢の霊的実在身こそ御本体にましまして
御肉体は御表現身なり)との哲学が如何に日本国体を明徴するにすぐれたる哲学である
かがお判りにならないであろう。

           <感謝合掌 平成26年12月17日 頓首再拝>

[314] 《物質の否定、棄揚、神国の肯定》〜その8
伝統 - 2014年12月18日 (木) 06時01分

                    ○
               

古事記を御進講申上げたる筧(かけ)克彦博士も 天皇の御本質を観奉るに、
決してその肉体をもってしてはいないのである。

肉体を本質と観奉るときには大凡(おおよ)そ神聖性は覆い隠されて了うのである。

筧博士は『続古神道講義』四ニ五頁に於て、この事を説いて
『神武天皇とても矢張り手が二本お有りになり、足も二本お有りになり、
脈も搏てば呼吸も為されたでありましょうが、ただ其様な方面より観奉るのみでなく』

と斯くの如き物質的方面では神聖性が判らないことを指摘し、

語をついで『《無形的に》<如何なる>《御人格》<を有っておいでになったか>、
<如何なる>《神様》<であらるるかを分析して見まするにと実に深い根底がありまして>、
《神代の神々の御関係が悉く含まれて居り、随って天皇のいらせらるる皇居は即ち神宮
であり、其の皇居の存する国土も亦神居たる神宮に外ならず。是によりても実に
我が建国の深くして広く且遠いことが分かる次第である》』 と言っている。


傍点(※註:ここの5行において、´´´は<>で、゜゜゜は《》に変更)は
私(谷口雅春先生)が附けたのではなく筧博士自身がつけたのである。

  
有形の御表現体のみを見ていたのでは神聖性が判明しないのであるから、
筧博士は『《無形的に》』 ―― 『《御人格》』 ―― と圏点を附し、
無形的に御人格を観奉ったときに『《神様》であらるる』ことが判ると云う風に、
御表現身を観奉らず、御表現身の奥に内在せられる《実相身》を観奉るとき、

 《すめらみこと》‘’が如何なる神であらせられるかと云うことが判ると
申しているのであって、そして今迄外形ばかりを見ていた場合には物質を御入れ申した
『物質の御舎(みあらか)』としか見えなかった皇居も、物質を見ないで、《無形的に》
(筧博士の言葉を藉る)実相身(御本体)を観奉るときには、

『天皇(てんのう)のいらせらるる皇居は即ち神宮であり、其の皇居の存する国土も
亦神居たる神宮に外ならず』と云うことになり、物質を否定したとき、却って
《否定の極の肯定》となって、今迄単なる木材その他の物質の材料とした建築物と
思われていたものも神居たる神宮であると悟られ神の国と認め得るようになるのである。

(次に、つづく)
           <感謝合掌 平成26年12月18日 頓首再拝>

[315] 《物質の否定、棄揚、神国の肯定》〜その9
伝統 - 2014年12月19日 (金) 04時54分

生長の家で、常に『物質無し』と云っていることは、
今迄『物質』を単なる物質であると思って、無機物的、無価値の存在であると
軽蔑していたその観念を排除し、『物質、物質に非ず、一層高きものの表現である』
ことを肯定せしめんがためなのである。


茲に生長の家は唯物論に対立するような唯心論ではなく、
唯物、唯心を超越した唯神実相論であることが判るであろう。

物質の否定は否定のための否定ではなく、大なる肯定の為の否定であることが判る。
斯くの如くして今迄『物質』と認められていたところのものも、

《神力の表現》であると大きく再肯定するのは此の生長の家倫理学であり、
日本国土は物質国土と認められていたものを、更に『神の国』であると
大きく再肯定するのが、此の生長の家倫理学であることが判るであろう。

飛び読みした一二の語句を根拠として生長の家の思想を批判することなく、
本当に生長の家の思想を批判せんとせられるならば、

少なくとも『生命の實相』全十五冊を読了して、
それを貫いて存する一大肯定の真理を捕捉せられんことを希望せざるを得ないのである。

(以上で、《物質の否定、棄揚、神国の肯定》の謹写を終了いたします)


           <感謝合掌 平成26年12月19日 頓首再拝>



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