[372] 神霊に導かれて(一月の光明法語) |
- 伝統 - 2015年01月14日 (水) 03時54分
(一月上旬)
《人生は何のためにあるか》(1月1日)
人間が地上に生を受けたのは何故(なぜ)だろうか。 何のために人生はあるのだろうか。 人間は何のために生まれたのだろうか。
これこそは真面目な真剣な人々の切実な問(とい)である。
人間を神がつくったのは、神自身を享受せんがために、 神自身の生命を此の世に具体化したのである。
凡(およ)そ自己が存在するならば自己の存在を自己が知らなければならない。 知らなければ自己が存在するところの意義をなさないからである。
しかし自己が自己を知ると云うことは、 眼が自分の眼を見ることが出来ないと同様にそのままでは出来ないのである。
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《神の人間創造の意義》(1月2日)より
自己が自己を知り、自己が自己を観るにはそれを客観化しなければならない。
換言すれば唯一の存在としての自己が、 「観るもの」と「観られるもの」との相対に分化しなければならないのである。 「働くもの」と「働きかけられるもの」と相対に分化しなければならないのである。
眼が眼を見るには、眼は鏡を媒介として仮りに自己の外に「自己の影」を 見なければならないようにである。
神が人間をつくったのは、神が自己自身の姿を観るために、 神が自己自身の姿を楽しむため、自己の外に自己の影を創造したのである。
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《「知恵の樹の実」を食べると云うこと》(1月3日)
かくて人間は神の映像であるから、神そのままの姿に完全円満なのが真実である。 それにも拘(かかわ)らず人は自由に空想を馳せて、 神の創造の中にも善なるものと悪なるものとが存在すると考え出したのである。
これが「知恵の樹の実」を食べたと云うことに当たるのである。
この「悪」も存在すると云う考えが具象化して「悪」なる現象を固定化し 此の世に悪を造構することになったのである。
かくて人間は自からの心が描いた映像をみて怯え、悲しみ、心配をし、 みずから不快になり、痛み、悲しむことになったのである。
思いを変えよ。
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《先ず想いを変えよ》(1月4日)
自己の環境も肉体も自己の念(おもい)の反映であるから、 思いを変えれば環境も肉体も変わるのである。 不幸を思えば不幸が来(きた)るのである。
若(も)し自分に危険が迫って来るとするならば、 それは如何に外から迫って来るかのように見えようとも、 それは自己の心のうちに生じたものであることを知らねばならぬ。
危険を予感するものには危険が来るのである。
自己の運命は自己が作者であり、自己が完成者である。 不幸から自己を護るのは、自分の心のうちに不幸を予感することを 止(や)めることから始めねばならないのである。
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《心の反映が環境である》(1月5日)
自己の念(こころ)の反映が環境であるから、 自己の念(こころ)が一変するならば環境が一変しはじめるのである。
環境が具体的に一変するに先立って、自己の念(こころ)が平和になり、明朗になり、 落ち着いて来るのは、祈りが先ず自己の念(こころ)を変化したことの証明である。
神は何事をなさんともそれが他を傷つけないことである限り、 貴下(きか)を助けるのにやぶさかではないのである。
人を批評してはならない。 人を言葉でこきおろし、悪しざまに言ってはならない。 人を傷つけたら、また自分が傷つくことになるのである。
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《神と一体の自覚》(1月6日)
まず神と和解することが必要なのである。 神の救けを得ようと思ったら天地一切のものと和解した関係に入(い)らねばならぬ。 神より悪なるものが来(く)ると考えることは神と和解しているのではない。
神よりは善のみしか来らないと信ずることが神に対する和解の第一歩である。 その神を対立的に観ることも神に対する和解ではない。 神と和解するには神と一体にならねばならぬ。
即ち神はわが内にやどりたまい、吾が目をもって見給い、わが耳をもって聴きたまい、 わが呼吸器をもって呼吸したまい、わが声をもって語りたまうと信ぜよ。
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《神は無限の愛であり給う》(1月7日)
吾らは決して神の護りからのがれることは出来ない。 神の無限の智慧からのがれることは出来ない。 また神の無限の愛からのがれることは出来ないのである。
神は吾々神の子に対して与えとうて与えとうて仕方がないのである。 吾々は神の無限の供給からのがれることは出来ないのである。 神はわが親であり、わが供給であり給う。
神は決して人間の貧しきことを欲したまわないのである。 神は決して人間の不健康を欲し給わないのである。 神は無限に完全なる生命を吾らに与え給うて、吾等の全身を健全ならしめ給うのである。
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《吾は日に日に完全円満である》(1月8日)
神の完全なる実相が、吾を通じて時々刻々尚(なお)一層完全に実現しつつあるのである。 われは神の子であり、神の智慧に導かれ、神の愛に護られているが故に、 日々に一層あらゆる点に於いて神の完全さを顕わし来(きた)るのである。
肉体に於いて健全であり、思想に於いて周到であり、言葉に於いて無礙であり、 交友に於いて愛にめぐまれ、ありとあらゆる点に於いて完全なのである。
若(も)し汝が何事か不調和な事を経験するなら 数分又は数時間又は数日前に何か不調和なことを心に念じた影である。
念を感謝に転ぜば一切は変化する。
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《眠りに入らんとしてかく念ぜよ》(1月9日)より
汝ら眠りに入る時、汝の掌(たなごころ)を汝の眼の上に置きてかく念ぜよ。
「この眼は神の眼である。善以外のもの、美以外のもの、 完全以外のものは何物も見ないのである。
この眼は神の眼である。 毎日毎日一層その実相の完全なる視力があらわれつつあるのである。
自分の眼は神の眼である。 人々の善さのほか美しさのほか、完全さのほかは何物をも視ないのである」。
かく念ずること毎就寝時にして、数ヵ月たちし時、 或る朝目覚むれば眼鏡(めがね)をかけていた眼が見えない。 眼鏡を外(はず)せば完全に見えた。その人の乱視性近視は治ったのであった。
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《目覚めてはかく念ぜよ》(1月10日)
朝眼が覚めたときが一日の出発である。 一日の出発を祝福されたるものにしなければならない。
一日の出発を祝福されたるものとするには、 既に与えられている祝福を数え上げることによって それを感謝することから始めねばならない。
目が覚めると唇に「ありがとうございます」と感謝の言葉から その日の生活を始めるのである。
眠っている間じゅう心臓を鼓動せしめ、肺臓を呼吸せしめ、胃腸をして消化せしめ、 色々の臓器をして各々の役目を完全に果たしことを神に感謝するのである。
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