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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐

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[426] 『 生長の家 』 昭和25年2月号法語 谷口雅春先生(1)〜 (28)
明鏡 - 2015年01月31日 (土) 19時31分




『 生長の家 』 昭和二十五年二月号 法 語  谷 口 雅 春 先 生 



【 一日の法語  報い求めぬ愛は尊し 】



すべての愛の行為は 尊く、

報いを求める行為は 卑しいのである。


愛は ただ捧(ささ)げようとするのであるから 尊く清く感じられるのであり、

報いを求める行為は、その行為が 他から 「 奪おう 」 ということの手段として

行われるのであるから 卑しく感じられるのである。


凡(およ)そ よき行為には 自然によき報いが与えられるのである。


然(しか)しその報いの中には、人から来る報いと

神から来る報いとがあるのである。


人から来る報いを予期せる所の愛行は、

全然無価値ではないけれども、神から報いを得る資格には遠いのである。





【 二日の法語  憎んでいる者を一層愛さねばならぬ 】



スター・デーリーは 「 愛は刑よりも強し 」 の中で、

憎んでいる者ほど愛さなければならない ということを書いているのである。


敵対するものほど 吾々は愛さなければならないのである。


それは 「 お前には このような人間でも愛することができるか 」 というテストを

神から与えられているのであるからである。


自分を愛する者を愛するのは 誰(たれ)でもできるのである。


自分に敵対する者、自分を悪(あ)しざまにいう者さえも

愛し得るのが本当の愛である。


キリストは 自分を捕えに来た兵卒の傷をも 癒(いや)したのである。





[433] 三日の法語 ・  四日の法語
明鏡 - 2015年02月02日 (月) 19時05分



【 三日の法語  愛は現象を見ないで実相を見る 】



愛とは 感情ではない 行為である ― とニイルはいったのであるが、

愛は 相手に宿る神性の凝視であり、相手に宿る仏性の礼拝である。


感情でどうにもできないものを 智慧では愛することができるのである。

彼の現象を見ず、実相を見て 彼のために奉仕するのである。


光明皇后が、癩病(らいびょう)患者の膿血(のうけつ)を吸い給(たま)い、

聖フランシスが癩病患者を抱擁し、接吻(せっぷん)したことの如きはそれである。


光明皇后と雖(いえど)も、聖フランシスと雖も、

不潔な癩病患者を感情で 「 好きだ 」 と思うわけには行かないのである。


愛は 「 好き 」 を超えて 智慧の目で

相手の実相を見て愛するのである。





【 四日の法語  行為の価は内的動機で高下する 】



現象面だけ見ておれば、金銭を目的にした勤労行為も、

愛を捧げんがために、実践された奉仕も、

同じような効果をあげることができるのである。


然しこれを心霊的方面から観察するならば、

それは驚くべき差異があるのである。


金銭を目的にした勤労は、魂の上からいえば、ただ利欲の念の現われにすぎないのである。


又(また)人から認められたり賞讃(しょうさん)されんことを のぞんでした愛行は、

それは愛の形をとっていても、ただ利己的な虚栄心の現われにすぎないのである。




[439] 五日の法語 ・ 六日の法語
明鏡 - 2015年02月04日 (水) 18時56分




【 五日の法語  神に与える事によって 神から与えられる 】



自分を神の子なりと信ぜよ。然して自分の内に神が宿っており、

その神の愛を 神の栄光の現われんがために行ずるのだと思って行ぜよ。


それは神に与える行為であるのである。

神に与えることによってのみ、神から与えられるのである。


すべての人間から来る賞讃や利益を目的とせず、

神の愛を、神のために実現せんとして行われたる行為は、

自分の内に 魂の賞讃を湧(わ)きたたすのである。


良心の満足は 法悦となって現われる。

それは自己に宿る神の賞讃の声なのである。






【 六日の法語  人に奉仕する事は 神に奉仕することになる 】



吾々は 無限の祝福を

神から頂いて生活しているのである。


神に報いないということは、

その無限の祝福を

取りどくに したことになるのである。


吾々が その無限の祝福に気がつき これに感謝し、

神に対するお礼の意味に於いて 神の愛を実践し、

神の み心を広く述べ伝えることが必要である。


すべて 与えられながら、取り得にするものは、

やがて奪いかえされるのである。


すべての人に神が宿っているということを知るならば、

すべての人の幸福のために奉仕するということは

神に奉仕していることになる。




[444] 七日の法語 ・ 八日の法語
明鏡 - 2015年02月06日 (金) 23時09分




【 七日の法語   自分の中(うち)に神が実現することが尊い 】



自分が人に対して深切を尽してやっているのに、

それが却(かえ)って相手からよき結果を得られなかったと云って、

悔いることは要らないのである。


現象的な結果よりも、尚(なお)大切な心霊的結果があるのである。


自分の中に 神が実現したかどうかということが

もっとも大切なことであるのである。


愛の行いは、実相の世界に於ける 神の愛の反映であるのである。


それはそれ自身に於いて尊いのであって、

功利的な目的が達し得られると達し得られないとに拘(かか)わらず、

その値打が減るということはないのである。




【 八日の法語  神想観を怠ってはならない 】



実相の世界は すべての善きものの本源である。


実相の世界を観ずることによって、

それに心の波長を合わせるなら、

実相の世界のよきものが 自(おのず)から地上に 「 祝福 」 として

現われて来るのである。


神想観を怠る者は、いくら 「 人間 神の子 」 と頭で知っていても

現象世界が整うて来るということはないのである。


吾々は実相世界に波長を合わす方法に四つある。

その一つは 想(おも)いを凝らして、実相を観ずること。

その二は よき言葉を使うこと。

その三は、 「 甘露の法雨 」 の読誦。

その四は 愛を行ずることである。




[448] 九日の法語 ・ 十日の法語
明鏡 - 2015年02月08日 (日) 23時36分



【 九日の法語  仏性の名に於いて行いをなせ 】



「 キリストの名に於いて 何事でもなす 」 ということは、

愛の実相に於いて 何事でもなすということである。


仏性によって 何事でもなすということである。


吾々は 何事を為すときも キリストの名に於いて、仏性の名に於いて

これを なすべきであるのである。


キリストが報いを求めて 人を癒(いや)したということはないのである。

観世音菩薩は お賽銭(さいせん)を目的に人を救ったということもない。


常に自己に宿るキリストを自覚して、又 仏性を自覚して、何事をも なす時は、

その人の行いは 自(おのず)から浄(きよま)ったものになるのである。





【 十日の法語 】  利己の程度が減るほど人間は清くなる



利己主義は 何事をしても それを汚してしまうのであるけれども、

利己的動機からでも、愛を行ずるのは愛を行じないよりは 尊いのである。


然(しか)し 利己的動機がなくなれば なくなる程

その行為は 清らかなものとなり、

天に於いて 神のほめ給(たま)う所のものとなるのである。


天に於いて 神のほめ給う所のものは、 「 天 」 とは 実相のことであるから、

実相の世界が すべてのよきものと波長が合い

自ら実相世界のよきものに恵まれることになるのである。


すべて得んとするものは 奪われ、

与えるものは 与えられるのである。





[452] 十一日の法語 ・ 十二日の法語
明鏡 - 2015年02月10日 (火) 19時40分




【 十一日の法語  道は直く簡単である 】



キリストは 「 吾は 道なり 」 といい給うた。

そのキリストは、吾らの内に 内在して い給うのである。


だから、各人自身 「 吾は 道なり 」 である。

その道は 真直(まっすぐ)であって、

正しき所に導いてくれる良心の囁(ささや)きである。


静かに自己の感情をかえりみよ。

静かに自己の意志をかえりみよ。

静かに自己の想念をかえりみよ。


良心は それを照らす。

そしてどれが正しい道であるかを示す。


この道は すなおに自分の良心に従うものには 必ず示されるのである。

「 夫婦は 仲よくすればよい 」 「 借金は 払えばよい 」 ・・・ の如(ごと)く

頗(すこぶ)る 簡単明瞭(めいりょう)である。





【 十二日の法語 】    道が行詰るのは正路でないから



汝(なんじ)の問題を神に任せよ。

神は 如何(いか)なる困難の道をも

平らかにし給う方法を知り給うのである。


何事もなすにも

我(が)を以(もっ)てしてはならないのである。

我の道は けわしい難路である。


神の道は 坦々(たんたん)として楽道である。


もし諸君の目の前に難関が横たわって来、

自分の進もうと思っていた道を妨害するものが出て来るならば、

妨害するものを憎むな。


きっと自分の歩む道が

正しい道でなかったことの証拠である。


やり方は正しいようにみえても、

自分の心のどこかに利己的なものがあったのが

それが 行きづまりの原因になったのである。




[456] 十三日の法語 ・ 十四日の法語
明鏡 - 2015年02月12日 (木) 23時16分



【 十三日の法語   愛は一切を癒すのである 】



剣(つるぎ)に対して

剣を以て征服してはならない。


憎みに対して

憎みで征服してはならない。


怒りに対して

怒りで征服してはならない。


悪に対して

悪で征服してはならない。


凡(あら)ゆる問題の解決は、

「 吾は道なり 」 といわれた所のキリストの行(ゆ)き方にあるのである。


キリストは 愛である。

愛は 一切の問題を解決する道である。

愛は 自己の病いを癒し 人の病いを癒す。


病める者よ。汝は愛にそむいていないか。

誰(たれ)か 憎んでいないか。本当に赦(ゆる)しているか。

かえりみて本当の愛に立ちかえれば癒されるのである。






【 十四日の法語  明るい健康な言葉を使え 】



「 私は病気だ 」 といっては ならない。

「 私は不幸だ 」 といっては ならない。


すべて言葉にいう通りが現われて来るのである。

言葉によって自分を汚してはならないのである。


「 私は病気だ 」 といいながら健康な人は ないのである。

「 私は不幸だ 」 といいながら幸福な人は ないのである。


されば言葉によって自分を高め上げよ。


「 吾は神の子である。吾は生命である。吾は健康である。吾は幸福である。

吾は喜びにみたされている。 」 などの言葉を 常に繰り返して 心に念ずる時には

その通りに現われて来るのである。





[462] 十五日の法語 ・ 十六日の法語
明鏡 - 2015年02月14日 (土) 19時34分



【 十五日の法語   肉体を軽蔑(けいべつ)してはならない 】



肉体を卑しいものと思ってはならない。

肉体は神の生命の地上に於ける自己実現である。


「 神の宮 」 という言葉があるが、

その宮の中に 「 神の生命 」 が宿るというように、

二元的に考えてはならない。


其儘(そのまま)に神の生命である。

即(すなわ)ち即身成仏なのである。

そのまま み仏なのである。


魂を高めんがためには

肉体を苦しめなければならないなどと考えてはならない。


肉体については、苦しめようとも楽しまそうとも思うことは いらないのである。


魂が本当に喜べると、その表現体である肉体も喜ぶのである。

自然 健康となるのである。





【 十六日の法語  此(この)世界は 愛行の実践で支えられている 】



神を自己に実現するには

愛を行じなければならない。


神は愛であるからである。


愛は唯(ただ)愛していると思うだけでは

その半ばの力しかない。

愛は行じなければならない。


神は今に到(いた)るも働き給う。

一日といえども隠退し給うたということは ないのである。


もし神が隠退し給うならば

此の世界は破壊してしまうのである。


この世界は神の働きによって 維持されているのである。

その如く この世界は吾々の愛行によって維持されるのである。


愛は これを隣人に実践する時

それは本当の力となるのである。




[466] 十七日の法語 ・ 十八日の法語
明鏡 - 2015年02月16日 (月) 20時25分



【 十七日の法語  愛は享(う)けるだけでは可(い)かぬ 】



神は 吾々(われわれ)に

生命を 与え給(たま)うた。

智慧(ちえ)を 与え給うた。

愛を 与え給うた。


与えられたものは、ただ受けるだけでは いけないのである。

必ず 与え返さなければならない。


与え返した時 それが多くの実を結んで 更に返って来るのである。


与えるということは 「 表現する 」 ということである。


与えられた生命を 表現すれば

「 働き 」 となるのである。


与えられた智慧を 表現すれば、

人のためになる善き考えとなるのである。


与えられた愛を 表現すれば、

愛行となるのである。

愛行を実践する時、多くの実を結ぶのである。




【 十八日の法語  使わない水は腐る 】



使わない井戸の水は 腐って来、

使わない鉄管の水は 錆(さ)びて赤く濁るのである。


吾々の生命も、智慧も、愛も、それを使わなければ濁ってしまうのである。

そこから病気が現われ、失敗が現われ、運命が とざされて来るのである。


常に汲(く)んでいる水は 清らかであるように、

常に捧(ささ)げられている生命は 腐ることなく健康である。


働きは 周囲の人に貢献するばかりでなく

自分自身に一そう多く貢献するのである。


汝(なんじ)の悩みについて思い煩うな。

悩みを神に委(ゆだ)ねよ。

神がそれを解決し給うのである。


ただ吾々は与えてさえいれば好(よ)いのである。




[471] 十九日の法語 ・ 二十日の法語 
明鏡 - 2015年02月18日 (水) 21時06分




【 十九日の法語  艱難(かんなん)の時には 先(ま)ず心を静かにせよ 】



悩みが来た時には、周章狼狽(しゅうしょうろうばい)しては ならない。

人間智慧を あれこれ働かせて、余りごまかしをやってはならないのである。


静かに心を落付けて 実相を観ずることが必要である。

実相の世界には 悩みは存在しないのである。


そして悩みのない世界から目覚めて来た 新しい智慧を以(もっ)て

熟慮するのがいいのである。


「 神は これを解決する道を知り給う。 」 と繰り返し 繰返し 心の中に

念ずることが必要なのである。


「 道 」 は 自分の内にあるのである。


自分自身の内が顛倒(てんとう)していては、

よき解決法がでて来る筈(はず)は ないのである。





【 二十日の法語 】  人を赦(ゆる)したとき自分が赦される



人々の欠点や不完全さについて それを怒らず耐え忍ぶことは一つの美徳である。

何故(なぜ)なら 自分自身にも色々の欠点や不完全さがあるからである。


他の人を赦した時にのみ 自分自身 赦(ゆる)されるのである。


然(しか)し人の欠点や不完全さを赦すよりも 尚(なお)尊い行き方があるのである。

それは 自分の周囲に起ることは 自分の心の影として、

自分自身を神に対して懺悔することである。


そして その欠点や不完全の奥にある 「 本当の彼 」 ( 神なる彼 ) を礼拝せよ。


真に彼を本当に完全なる神の子と見得た時に、

彼は 完全なる姿に変貌(へんぼう)するのである。




[476] 二十一日の法語 ・ 二十二日の法語
明鏡 - 2015年02月21日 (土) 00時45分




【 二十一日の法語  暗(やみ)が現われて来るのは 光を拒絶したから 】



「 光のある中(うち)に 光の中(なか)を歩め 」 と聖書には 書かれている。


神は光である。

光を拒絶する時 暗が現われて来るのである。


何か不完全が自分の周囲に現われて来た時には、

何か自分の心の中に、光を拒絶し、神にそむくような

何ものかがあったのだとして反省せよ。


神に はなれて生活した時に 一ばん害を受けるのは 自分自身なのである。

人を憎んで生活した時、一番害を受けるのは 自分自身である。


病める人は かくれたる憎みが自分の中に燻(くすぶ)っていることを省みて

相手を赦し 相手に感謝しなければならない。





【 二十二日の法語 】  先(ま)ず心の目を開いて 身辺にある恵みに感謝せよ



一切の悪は そして禍(わざわい)は、暗のようなものである。

そこには光が現われていないにすぎない。


光がないのではないのであって、

自分が心の目を開いて 光をみないのである。


天地にどんなに多くの恵みがみちているか、

自分がどんなに多くの恵みに生かされているか、

それを知らず それに感謝しないものは 光をみないのである。


かかる人の生活は暗く、禍が現われ 病気が現われて来るのである。

まず心の目を開いて、身辺にあるどんな小さい恵みからでも感謝し始めることである。

今与えられている小さな恵みに感謝するとき、次の大いなる恵みが与えられる。





[481] 二十三日の法語 ・二十四日の法語 
明鏡 - 2015年02月22日 (日) 23時03分




【 二十三日の法語  もっと神の恵みに感謝しなければならない 】



拡大鏡を以て 物をみれば大きく見えるように、

吾々は 心の拡大鏡を以て 小さな恵みでも大きくみることが必要である。


大きく見る時には 大きく現われて見えるのである。

神の恵みは 実際は無限に大きいのであるけれども、

吾々は 概(おおむ)ね近眼鏡をかけて 近くのものをみるから小さく見えるのである。


そして真に豊かなる恵みを 縮小してみているのである。

吾々は もっと神の恵みに対して感謝しなければならない。

感謝の念は 小さな恵みでも大きな喜びを生みだすのである。


感謝の念は 恵みの拡大鏡である。





【 二十四日の法語  赦す者は 愛を増す 】



吾々は 神を愛することによって

神の恵みを拡大することができるのである。


一本の草花でも愛することによって

一そう大きな花を咲かせることができるのである。


赦すものは 神の愛を拡大する。

赦さないものは相手を執着の念で縛るだけではなく、

自分自身の生命をも縛るのである。


自分自身の生命を縛る事によって

多くの病気が現われているのである。


人を赦さないものは、結局 神を信じないものなのである。

何故なら神の造り給うた此(こ)の世界に、

彼は悪が存在するということを信じているからである。





[487]  二十五日の法語 ・ 二十六日の法語
明鏡 - 2015年02月24日 (火) 22時38分



【 二十五日の法語  人間の働きは 神への協力である 】



あなたのすべての働きは 神にとっても 人類にとっても

なくてはならない尊い捧(ささ)げ物である。


何故(なぜ)なら あなたは神の自己顕現であり、神の協力者であるからである。


自分の仕事をただ金銭を得るための手段であるなどと考えて軽蔑(けいべつ)するな。


働きそのものが、神の創造への協力であり 参加であり

人間の協力なくしては 地上に天国は実現する事はできないのである。


自分を軽蔑してはならない。

自分を金銭の奴隷などと考えてはならない。


自分を神の子として神の み業に協力するもののみ

真に立派な仕事をなすことができるのである。





【 二十六日の法語  神を祝福せよ、神から祝福される 】



神を祝福せよ。神の み業を祝福せよ。神の み業を讃歎(さんたん)せよ。

神から受けることばかり考えないで まず神に与えることから考えよ。


毎日 朝に一回 夕方に一回、神を祝福し 神をほめたたえ、神に感謝することは、

神の恵みを拡大するよき方法である。


すべての恵みを神に帰せよ。

神は無限に吾らに祝福を与え給うのであって

それをほめたたえず 感謝しないことは、

それに波長を合わさないことになるのである。


波長をぴったり合わす時

神の恵みが はっきりと現われて来るのである。




[494] 二十七日の法語 ・ 二十八日の法語
明鏡 - 2015年02月26日 (木) 23時31分



【 二十七日の法語 】  人間は法則に従うことによって一切のものを支配する



人間は 万物の霊長として世界の一切のものを支配する力を与えられているのである。


然(しか)しながら それは 如何(いか)にして支配し得るかといえば、

法則に従順に従う事によってである。


電気は驚くべき恵福を人類に与えてくれる。

その電気の力を支配するには

電気の法則に従順であるということによってである。

従うものだけが従えることができるのである。


もし吾々が電気の法則を無視すれば、電気も吾々を無視して、

光も動力も与えてくれないし、時とすると吾々に驚くべき災厄を与えるのである。





【 二十八日の法語 】  神の法則とは 愛の法則である



神の恵みを自由に受けようと思うならば

神の法則に すなおに従う外はないのである。


神の法則とは 愛の法則である。

「 汝(なんじ)の如(ごと)く 汝の隣人を愛すべし。」

これが神の法則であるのである。


憎み、怒り、争い・・・・・等(など)は

神の法則に逆うものであるから

電気の法則に逆うものは 感電して致命傷を受けるのと同じように、

神の法則に逆って人を憎み、怒り、争うものは

又 自分自身に致命傷を負わすことになるのである。


どんなに今 不幸の人も、病気の人も、神を愛し隣人を愛し

まず赦(ゆる)すことから始めよ、そこから幸福が芽生えて出る。







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