[497] 神は今ここに(二月の光明法語) |
- 伝統 - 2015年02月28日 (土) 04時55分
(上旬)
《感謝は恩恵の流れに対してスイッチを捻る事である》
*「光明法語」(2月1日)
吾々は電燈の光を得ようと思えば先ずスイッチをひねる事が必要である。 先ず吾々みずから或る力を与えるのである。 すると光が与えられる。
太陽は照っていても、その光を受けようと思えば先ず自分が眼を開かなければならぬ。 眼を開くと云う動作を与えることによってのみ太陽の光は与えられるのである。
そのように吾らはすべての恩恵を与えられているのであるが、 それは先ず自分が恩恵に向かって感謝することによってのみ、 その恩恵がわがものになるのである。
感謝すると云うことはスイッチを捻(ひね)る事に当る。
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《与えることによってのみ受けられる》
*「光明法語」(2月2日)より
太陽の温かさを受けようと思えば先ず一歩日向(ひなた)に向って「歩み出し」を 与えることが必要である。日向にむかって「歩み出し」を与えないでいて 太陽の温かさをうけることは出来ない。
写真を写すには先ずカメラに代金を払わなければならぬ。 マメラを借りて来ても好(よ)いが、やはり吾らは、 焦点距離を合わしてスイッチを捻る動作を与えなければならないのである。
音楽をきこうと思えば音楽会に金を払うか、レコードに金を払うか、 蓄音機を廻すかラジオの波長を合わすか、 いずれにせよ金又は「動作」を与えなければならぬ。
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《気が短いのでは可(い)かぬ》 *「光明法語」(2月3日)より
「与えれば与えられる」と云う法則は直ぐ覿面(てきめん)にあらわれて来るものもあるが、 必ずしも直ぐ結果が現れないこともある。
電燈はスイッチを捻ればすぐつくが、水力電気や火力電気の設備を構築するのは 一夜に出来た事ではない。
電燈がスイッチ一つでつくようになったのは、それらの発電設備や配電設備が、 多くの与えられた労力の蓄積として「天の倉」に蓄えられているからである。
麦は一夜にしては実らない。卵も一夜にしては孵化しない。 すべての形の世界に現れるのは時間を通して現れる。 気が短いようなことでは可(い)かぬ。
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《悦びは創造の力である》
*「光明法語」(2月4日)より
神は萬物を悦びによって創造したのである。 悦びこそが神の本性である。 悦びが創造の力である。
歓喜しておれば自然に身體が動き出すように、 神は悦びの感情によって自然にその生命が動いて萬物の創造となったのである。
悦びの表現は愛である。 心が悦びに満たされているときは萬物を愛したくなるのである。
愛は悦びの変形である。 創造されたるものと創造したものとの自他一體の感情が愛である。
かくて悦びは愛を生じ、愛は萬物を創造し、 又愛することによって萬物を進化せしめる。
愛が形をかえて色々の文化を生ずる。
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《自分の立場を捨てること》
*「光明法語」(2月5日)より
自分の立場だけを考えては可かぬ。 人には色々の立場があり、その立場に立って思い、考え、 感じ、悲しみ、苦しみ、喜んでいるのである。
彼の立場に立って同喜同悲してやるのでなければ本当に愛深いという事は出来ぬ。 愛とは自分の立場に立たず、彼の立場に立って、彼のために考えてやることである。
「汝みずからの如く汝の隣人を愛せよ」とのイエスの聖訓はまさにこの事に他ならない。
『甘露の法雨』を読んでも神想観をしても治らぬ病人で 「自分の立場を捨てよ、頑固に自分を主張する心を捨てよ」と 教えられて治った人もある。
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《愛は全身を相手にまかせる》
*「光明法語」(2月6日)より
キリストは『我が誡(いまし)めをききて守る者は吾を愛するなり』と言っていられる。 ここに言葉をききて素直に守ることが『愛すること』である事が表されているのである。 父を愛すればその子は父の言葉を守るであろう。 良人を愛すれば妻はその言葉を守るであろう。 良人の言葉をききて素直にそれを行わない者は真に良人を愛していると云うことは出来ないのである。 愛は相手に全身をまかせたい希望をよび起こす。 性欲ばかりの問題ではないのである。 本当に愛する相手に対しては何を求められても無条件に従いたくなるのである。
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《80歳なお若年である》
*「光明法語」(2月7日)より 68歳になる老人が 私に、『もう此の年になってからは私には機会は到底ないのです』。 こう言って嘆いた。 こう云う人は地上にもう用事のない人である。 機会は余所(よそ)にあるのではなく、自分の心の中にあるのである。 心が若ければ人間は青年と同じように常に機会がある。 30歳で若死にする青年のことを思えば70歳になっても、 尚、百歳を生きる自覚をもっておればまだまだ機会はあるのである。 私の老母は80歳になっても山に柿の種子を植えて『この柿の實るのを楽しむ』と言われた。
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《神が此処にいる》
*「光明法語」(2月8日)より
神が此処にいる。 そしてそれは全能であり、吾々の父であり、永遠に吾々の味方である。 この事を銘記せよ。 人間に能わぬことも神は成し給うのである。 太陽を創造し、星を彼方にちりばめ、無数の空の鳥を飢えることなく養いたもう 神が此処にい給うのである。 何も恐るることはない。 神を思い出さなかったことを恐れよ。 神を思い出すことは神が流れ入り給う通路を作ることになるのである。 衆生、ほとけを憶念すれば、佛、衆生を憶念したまう。 神は吾らを忘れ給わないが、こちらが波長を合わす事が必要である。
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《隠れたる処で人を賞めよ》
*「光明法語」(2月9日)より
与えれば与えられるのが法則である。 人に深切丁寧にすれば、人から深切丁寧にせられる。 何の恩恵を受けたことのない人にも深切丁寧をつくすべきである。
彼自身の知らないところで彼を賞めよ。 しかし多くの人は人前で彼に深切をし、彼が去れば人に彼の悪口を言う。 彼が出て来れば彼の美点を賞揚する。彼が去れば彼の悪口を言う。
そして彼の口真似をしたり、隔している悪をあばいたりして嘲笑するのである。 こんな人はやがてそのカラクリが暴露するのである。
何故なら「天地一切と和解していない」からである。
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《一寸でも愛に反(そむ)く行為をするな》
*「光明法語」(2月10日)より
ベージル・キング氏はその著書のなかで、人の見ないところでも一寸でも不深切な行為をする ことを全然やめた時に、自分の資産が著しく増加することになったと云う事を書いている。
これも「天地一切のものと和解した」ために神の愛の流れに入口をひらいた為であると言い得る。
キング氏は「神と自分との間にある通路は、實に何でもないとおろそかにする小事によって 塞がれてしまうことがある。一寸したズルい行為。一寸した不深切な嘲笑。一寸した世間話。 一寸した酷評。すべて一寸した愛にそむく行為によって」と言っている。
<感謝合掌 平成27年2月28日 頓首再拝>
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