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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐

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[500] 天地そろう(二月の光明道中記)
伝統 - 2015年02月28日 (土) 13時29分

【自己内在の光】〜二月「天地そろう」はじめの言葉

吾々の『生長の家』は毎号、諸君自身の内に宿る力を指示するために発行されるのである。

他に依頼心を持つ者は躓くであろうが、
自己の内に埋蔵されたる宝庫へ幸いに振向く人は救われるであろう。

救いの力は諸君自身の内にあるばかりであって、
わたしはその在(あ)り所(か)を指示するだけである。

吾々の光明思想になった結果病気が治ると云うのも、
諸君自身がそう云う思想になった結果であってわたしはただ指(ゆびさ)すのみである。

文章の力による指し方は可也り上手であるので、
文章の力で病気を治したとも謂い得るが、
精(くわ)しく言えば文章の力は、よく諸君の心を振向けただけである。

そこに自己内在の無限の力を見出すのは
諸君自身の力であって私の力ではないのである。

光栄は諸君自身の「内」にこそ帰せられるべきものであって、
私は喇叭(らっぱ)であり、指南車である。

指を月と間違え私の書いた符号を本物と間違える者は
実相を見ることが出来ないでああろう。

私はただ諸君を振向かすために文章で叫ぶだけに過ぎないのである。

私を尊敬せずに真理をこそ尊敬せられたい。

[501] 上旬
伝統 - 2015年02月28日 (土) 13時32分

賞め讃える日

           *「光明道中記」(2月1日)より

【真に幸福になろうと思うものは、既に自分が幸福であることを知らねばならぬ
                        (『生命の實相』第一巻)】

「既に自分は幸福である」此の言葉を繰返し唱えよ。
「既に自分は幸福である」と。

毎日それを繰返し重ねて行くことによって、
その人は現実生活に於いても本当に幸福になるのである。

呟くことを止めよ。
自己の不幸を口にすることを止めよ。
自己の病を口にすることを止めよ。

今ある運命を喜んで受けよ。
友は悪口を言われる毎に悪しき友となり、汝に仇(あだ)する者となるであろう。

運命も、それを呟く者には仇する者となり、
それを賞め讃える者には幸福を齎(もたら)す味方となるであろう。

世界は、観られたる通りの世界であり、呼ばれたる通りの世界である。

「アダムが生物(いきもの)に名づけたる所は皆其名となりぬ」(創世記第一章)

吾等は此の世界を幸福の世界と名(なず)けようと、不幸の世界と名けようと、自由なのである。
吾等は自分の名(なづ)け具合によって此の世界を幸福にも不幸にもすることが
出来るのである。

これから吾等は此の世界を楽しい世界と呼ぼう。

・・・

健康増進の日

           *「光明道中記」(2月2日)より

【食事にうんと歓びのお菜を附けて食べよ。どんな粗食でも最上の栄養に変わる
                            (『生命の實相』第八巻)】

戦前であったが、自殺して死んだ医学博士で羽太鋭治(はだえいじ)と云う人があった。
その人が若返り法の本を書いたことがある。
その本の中に肥えたい人の食事法と、痩せたい人の食事法とが書いてあった。

痩せたい人は畳の上に盆を置いて、低い位置に料理を置いて身体を屈み加減にし、
消化器を圧迫しながら、出切るだけ憂鬱な気持で食べるのである。
そうすると必ず痩せると言う。

肥えたい人はその反対をするのである。
腹を伸ばしてゆっくりと高い加減の食卓に坐し、天井に「アハハハハ」と大きく書いた紙を
貼り附けて置いて、食事をしながら、天井を仰ぎ見て、「アハハハハ」と時々笑うのである。

笑えば心が開く。
心が開けば血液の循環がよくなる。
消化器の分泌が豊富になり、粗食からでも豊富な栄養を吸収することが出来るようになる。

併し肥えるということは必ずしも健康の理想ではない。
或る人は痩せているがために他の内臓の能力(キャパシテー)と平衡を得て健康を得ている。

健康とは要するに全体の調和を意味する。
心臓や腎臓の能力(キャパシテー)の小さな人には筋肉の増大は返って負担となる。

・・・

微笑する日

           *「光明道中記」(2月3日)より

【諧謔(じょうだん)は塩のようなものである。適当の諧謔は人生に味を添え、
 余りに諧謔が過ぎれば人生は味を失う。        (『生命の實相』第八巻)】


笑うと云うことは人間の特権である。
猿は時には羞恥を含んだ笑いを顔に浮かべることがあるし馬は朝自分が放尿をしたところへ
繋がれると、自分自身の放尿の味を嗅ぎながら笑うということを聞いたことがあるが、
本当に楽しくて笑うのは人間にのみ与えられたる特権である。

笑いは憂鬱を跳ね飛ばし、家庭を明朗にし、ヒステリーを癒し、消化をよくし、
時として重症の肺病すらも癒すことがある。

併し笑いも時処を得ないときには相手を傷(きずつ)け、自分自身を傷けることが往々ある。

○○病院へ慰問に往って、愉快そうに笑ったために、
不幸なる入院患者は自分の窶(やつ)れている姿を嘲笑(あざわら)ったものと誤解し、
大いに憤慨したために、その女学生の引率教諭の辞職問題さえ起こったことがある。

笑いも、冗談も、時と処を得てその効用を発揮する。
厳粛であるべき時には厳粛であれ。

机上に常に鏡を用意しておいて仕事に飽きて来たときに、鏡に向かって微笑し
「私は楽しい、私は愉快だ」と心で讃えることは元気恢復(リクリエーション)に
非常に有効である。

・・・

腹の立たぬ日

           *「光明道中記」(2月4日)より

【小善を軽蔑するな。小善を積むことが却って難しい。
 小善の出来るようなものでないと本当の大善は出来ない。(『生命の實相』第十一巻)】

罪本来なしと云う生長の家の教えを聴いて小善を軽蔑する者は
却って地獄へ堕ちるであろう。

「罪本来無し」と云う言葉は、
自己が罪悪を行うための詭弁的弁解に使ってはならないのである。

罪本来無きが故に、そしてそれは何等積極的価値なきが故に、
そんな積極的価値なきものに執着して何時迄もそれを行う必要なきが故に、
罪はおのずから捨離せられるのである。

罪を隠すものは、罪ありと思えばこそ隠すのである。
罪を犯す者は、罪ありと思えばこそ、その罪に魅力を感じ、その罪に何らかの値打ありと考え、
その罪を犯すことに何らかの喜びを感じついに罪を実行するに到るのである。

本当に「罪無し」と云う自覚に立ったならば、罪を行う魅力が消えて了うが故に、
おのずから罪を行うことが無くなるものである。

従ってその人が罪を行う限り、
その人には「罪なし」と云うことが本当に解っていないのである。

罪本来無しとは腹立つ姿でも神の子だと云う意味ではない。
腹立つ姿は本来《ない》。
神の姿はもっと立派な姿だと知って自然に腹立たなくなることである。

・・・

強くなる日

           *「光明道中記」(2月5日)より

【救われねばならぬような弱者なる人間は、この世に存在しないと云う思想が光明思想である。
                               (『生命の實相』第十三巻)】

同情されたい心は同情されなければならぬような境遇、不幸、病気を招くということが
『生命の實相』第九巻にも書いてある。人間は同情さるべき弱者なる肉体人から、一切の
同情的世界を超克し去りたる超人の自覚にまで高揚せしめるのが生長の家である。

どこにそんな甘い生長の家があるか。
人間の甘さが、人間の涙もろさが、これまで人間をどれだけ堕落させて来たことだろう。
”人間・神の子”の自覚があっても、甘える心を棄てなければ”神の子”の完全な実相は顕れない。

「生長の家が本当に人類を救うために出現したものならば、私を救って戴きたい。
私は本を読みたくとも金なき者である。私に『生命の實相』を無料贈呈して欲しい。若し贈呈
出来なかったら生長の家が人類を救済するために出現したと云うのも真っ赤な嘘であると信ずる」

こんな手紙を諸方から時々来る。
そういう甘い考えを、依頼心を叩き伏せるのが救済である。

高き救済は甘さを超克した峻厳である。
愛深く峻厳と、峻厳なる寛容とが人間の進歩に必要である。

獅子は千仭の谷へと仔を墜す。

・・・

一切に感謝謝する日

           *「光明道中記」(2月6日)より

【天気に小言を言うな。すべてについて小言を言うな。小言はすべて暗い気分を招く。
 暗い気分は病気と不景気のもとだ。(『生命の實相』第十一巻)】


「あなたは心に不平を持っているから、それを直さなければ、その病気は治らないでしょう」と、
道場へ来た人に助言してあげることがある。
すると「私は決して不平など心に持ったことはありません」と答える人が多い。
そう云う人は、自分の心に反省がないのである。

負債があるのに負債のあることに気附かず、借金があるのに借金をしていることに気附かぬ人である。
そんな人は恐らく借金を払おうとしない人だろうし、自分の悪癖(あくへき)を直そうとしない人で、
最も始末に了(お)えない種類の人間である。

そんな人が道場から帰る時間になって雨でも降って来たなら直ぐ「チェッ雨が降って来て弱った!」
と言って天気の小言を言う現場を度々見せられているのである。

不平を持たぬ心とは、どんな事が起っても小言を言わぬ、小言を思わぬ心である。

観世音菩薩とは「世音(せおん)」即ち「世間の念波」を観じて、
その念波そのままの姿を以て顕れたまう菩薩である。
だから千手であったり、十一面であって、三十三相随宣(ずいぎ)変貌するのである。

自分が腹立っている時に周囲が自分に腹立った相(すがた)をするなら、
その周囲の相が観世音菩薩である。

・・・

深切を与える日

           *「光明道中記」(2月7日)より

【常に他に与えたいと思っている者は他から愛され、常に他から与えられたいと
 思っているものは他から嫌われる。 (『生命の實相』第十一巻)】

「あの人から深切して欲しい」と思う心は兎(と)もすれば其の人を躓かせる。
深切が欲しければ自分が先ず深切を自分の生活から造り出すことである。

深切を他から求めるような人は屹度深切に飢えている人である。
深切に飢えている人は、自分自身が深切を身辺に造り出していない証拠である。

他が深切にしてくれないと思う人は、自分が他に深切をしているかどうかを省みるが好い。

蒔いた種は生えるし、蒔かぬ種は生えない。
自分が「深切」を製造する分量が少ないからとて、「深切」の少きを嘆いてはならない。
「深切」を沢山欲しい人は、自ら選んで自分の周囲にいる人々に深切を与えるが好い。

こちらが微笑すれば、周囲が微笑する。
こちらが渋面(じゅうめん)すれば、周囲が渋面する。
こちらが相手を審判(さば)けば、周囲が自分を審判くであろう。


 吾が住む世界は吾が与えし通りの世界である。人は自分の心に従って地獄を造り極楽を作る。

 自分だけの幸福を護り育てていたい者には、その人の周囲から深切な人々が立去るだろう。

・・・

家族互いに赦す日

           *「光明道中記」(2月8日)より

【地獄の家庭では、主人が「怒っても好い権利」を捨てぬし、
細君は河豚(ふぐ)のように「ふくれても好い権利」を主張する。(『生命の實相』第四巻)】


審判(さば)く人、閻魔の庁の御役人のような人、青鬼のようなヒステリックな人、
赤鬼のように興奮した人、こんな人たちが住んでいる世界が地獄であり、
そんな家族の住んでいる家庭が「地獄の家庭」である。

誰の家庭でも此の地獄的分子の多い少ないによって、
その地獄的性質に多少の色合が変化するのである。

赦すこと、すべての家族を赦すこと。
赦さないから、筋肉が突張るものを。
赦さないから、肩が凝るものを。

外部的治療は一時的効果しかない。
癌と心の中に「品」物を「山」のように積んでいるのは愚かなことである。
あなたの癌を治すためには心の中の癌を取り除くことが必要である。

「富める者の天国に入るの難きこと駱駝が針の孔を通るが如し」とキリストは言っている。
心の中に色々の品物を貯え置くのは愚かである。
心は常に空虚が好い。

妻たるものは優しくあれ。
良人に物を言われて、立った儘返事をするようなことでは、その家庭は屹度面白くないであろう。
柔らかい女性の天性はどこまでも柔らかくなければならぬ。

・・・

陰を見ぬ日

           *「光明道中記」(2月9日)より

【陰を見るな。光明方面を見よ。見た方面が強くあらわれる。(『生命の實相』十一巻)】


現象界はすべて明暗の交錯で出来ている。
光明一元は実相世界のことである。

現象界で暗い方面ばかり探していたら、どんな輝かしい美人でも
足の裏から覗いて見たら暗い半面はあるのである。

人生を暗いと思って嘆く人よ、人生は暗いのではない。
貴方の人生を覗くところの角度が暗い角度から覗いているのである。

太陽が落ちた後の暗澹たる世界を嘆くよりも、
太陽のさし昇る光明燦爛たる曙を想望して喜ぶがよい。
太陽を想望する人の心の中には、既に太陽があるのである。

心に太陽が無くてどうして太陽の射す明るい世界を見ることができよう。
心に太陽を持つ者は、やがて現実の世界に太陽の差し昇るのを見るであろう。

子供を育てる時にも、子供の美点のみを見て誉めるようにするならば、
その子供の美点は伸びる。常に夫は妻を誉め、妻は夫を誉めよ。
そこからこそ幸福な家庭が来る。

・・・

困難を超えて向上する日

           *「光明道中記」(2月10日)より

【困難があるので魂は向上する。軌道に摩擦があるので汽車は進行する。(『生命の實相』十一巻)】

魂の向上とは、困難がなくなることではない。
困難が困難でなくなることである。

甲は1ポンドの鉄亜鈴(てつあれい)を振舞(ふりま)わすことを快感であると言い、
乙は2ポンドの鉄亜鈴がちょう度快感であると言う。
かくの如くして吾々の力が向上するに従い、困難が困難でなくなるのである。

吾々の筋肉は毎日使うことによって発達し、吾々の頭脳も毎日使うことによって発達する。
最初は一桁の加算(よせざん)が難しかった小学生が、ついには高等数学の問題を何の苦しみもなく
解くことが出来るようになるのは、その人の進歩であり、困難を征服した賜(たまもの)である。

お蔭と云うのは、数学上の問題が無くなることではなく、どんな数学の問題でも自由に解決し得る
ように力を得ることであると同じように、吾々がお蔭を得たと云うのは人生に問題が無くなる事
ではなく、どんな人生の問題でも重荷でなく解決し得るようになる事である。

最後のドタン場になって「救けてくれ」と言うのは、平生(へいぜい)勉強しないでいて
お情(なさけ)及第させてくれと言うに当る。

お情及第させられた者は、その時は有難いと思っても実力がないから次の時に失敗する。

[502] 中旬
伝統 - 2015年02月28日 (土) 13時35分

責任を喜ぶ日

           *「光明道中記」(2月11日)より

【罪を他に帰するは、自分を土偶(でく)人形にすることである。(『生命の實相』第二巻)】

責任回避は生長の家の生き方とは大凡(おおよそ)反対のものである。
宗教的生活とは、すべての結果に対して
其の原因を自分に反照して自分自身を浄(きよ)める生活である。

自分が若し他から害を受けたことを承認するならば、それは既に自己が弱者であることを
自己確認したのである。そして自己が弱者であることを自己確認する位ならば、
他から害を受けたことに就いて呟くことなかれ。

弱き者は結局他から害を受けるほかはないのであるからである。
若し汝が弱者であるならば、原因を他動的なものに帰してはならない。
若し自身が不幸であるならば、自己を傷つけたものは自分のほかにないと自分自身に語れ。

いずれにしても他を恨み、他を憤(おこ)るべき理由は一つもないのである。
最大の優強者は自己を以て宇宙の一切の事物に責任ある者だと自覚を持つ聖者である。

世の中の人々が、まだ全部、光明思想によって救われ切らないのは、自分の罪だと私は言いたい。

・・・

神一元を悟る日

           *「光明道中記」(2月12日)より

【托鉢は物を乞うかわりに、相手に惻隠の心、憐れみの心、慈悲の心を起させる。
 即ちそれは仏性を施したことになるのである。(『生命の實相』第九巻)】

生長の家発祥当時、財の奉納を信者から乞わないことにした。
私は托鉢的な行持(ぎょうじ)を省いて了(しま)って何物も
本部は信者から乞わないことにした。

所がその弊害があらわれて来た。
信者を称して吾々は信者と言わないで誌友と言っていたのであるが、
その誌友本部発行の書籍の購買者と云う形をとっていた。

従って吾等は托鉢と云う乞食(こつじき)的形式を去った代りに、
信者は慈悲深き「施主」であることの代りに、書籍販売所の「顧客」の形をとることになった。

「施主」は惻隠の心の表現であるが、「顧客」は営利主義の表現となり易い。
自分は「顧客だ」と無意識に思っている誌友たちは、病気が治ったら、
薬を止(や)めると同様な気持で、月刊雑誌の購読を止める人が出て来た。

本山が「乞食(こつじき)」的立場で、相手を「施主」にしたのが今迄の宗教であった。
私は本山を「乞食」にせね為に信者を顧客の如くしてしまったとすれば、それは失敗である。

清くなることは甚だ難しい。
それから信者みずからが人を救う喜びのために会費を持ち寄る聖使命会が出来た。

乞食も施主もない、販売者も顧客もない。
神一元の世界が本当の世界である。

・・・

人に物を施す日

           *「光明道中記」(2月13日)より

【誰にでも基督の心、釈迦の心はある。それを出すとき彼の心は天地にひろがる。
                            (『生命の實相』第六巻)】

誰も本当は施主になりたいのである。
乞食にはなりたくない。施主になりたい。
受ける人になるよりは与える人になりたい。

それは与えると云うのは自己拡大の感じを与えるからである。

併し与える人ばかりでは、受ける人がなかったら、此の世はまた淋しいことだと思う。

それは貰う人のない生産のようなものである。
生産は購買によって成立ち、施主は受ける人によって成立つ。

私は今迄与える事ばかり考えていて、
誌友をして施主にならしめる機会を与えないことに努力してきた。

これは今迄の宗教は信者を施主にして、その施物(せもつ)に寄生して生活する傾向が
あったのを粛正するための反動であったと謂える。

信徒の一部に、自分は書物の顧客で人類光明化の協力者だと云う感じが乏しいのはそのためである。
自己を与えないもの、自己を献げない相手には永続的な魅力が感じられない。

そこで聖使命会が結成せられ、自分自身が人類光明化のシテであるという主体性の自覚の発生と
共に信徒は情熱をもって真理を宣布して下さることになったのである。

何事で、献げだけの生き甲斐が感じられるのである。

・・・

報い求めぬ愛の日

           *「光明道中記」(2月14日)より

【これだけで、もう自分は誠(まこと)を尽くし切ったと思うな。
誠は尽くることのなきものである。出せば出すほど無限に湧き出る。(『生命の實相』第十一巻)】


もうこれだけで誠を尽くしたと思い上がったとき、その人の誠は虧(か)けたものとなる。

誠は出し切っても無限なるものであるから、それを「これだけ」と有限に打ち切るとき、
それは「誠」でなくなり、「誠」のかわりに「これだけ」が置きかえられ、
「無限」のかわりに「有限」が置きかえられる。

まこととは全事(まこと)である。

「有限(これだけ)」をもって「全事(まこと)」だと思うのは錯覚である。
「有限(これだけ)」を以て「全事(まこと)」だと錯覚するものは、
中途から「私はこれだけ誠を尽くしているのに認められない」と不足に変ってしまうものである。

それは本当は「全事(まこと)」を尽くしていないから不足の要素を内部に有(も)っている。
本当に「全事(まこと)」を尽くすとは報い求めぬ愛である。

報い求めぬ愛のみが永遠に満足を与える愛であり、報い求める愛は途中で不平に変る愛である。
相手が感謝するだろうと思ってした行為は、相手が感謝しなかったとき憎みに変り、怒に変る。
そんなことなら他に愛を施(ほどこ)さない方が優(ま)しである。

・・・

卑怯を捨てる日

           *「光明道中記」(2月15日)より

【自己弁護したい心は卑怯なる潜在意識の作用であって、多くの人を病気にしている。
                               (『生命の實相』第四巻)】


同情を求めたい心は病気を招き、不幸を招び寄せる。

みずからを弁護したい心は弱者の心である。
それは既に弱き心であるが故に肉体も傷つき、病気に罹る。

それは既に病気の心であるが故に、そんな心の持ち主が病気に罹り易いのは当然である。
すべてを受けると云う心の中には、すべてに対抗するだけの強い自覚がある。

すべてを受ける心になったとき病気が治り易いのは、
すべてを受ける心は既に強い心であるからである。

「お前がこんなことをしたからこんな結果になった」とは、
家庭でも会社でもよくあり勝(がち)な争いの原因である。

そんなに罪を押しつけられたら、進んで罪を引き受けようと思っていてすらも
反抗的に「私にそんな責任はありません」と言いたくなる。

彼が「失敗(しま)った」と思っているとき、
尚追求するのは武士の情(なさけ)を知らぬものである。

彼が「失敗(しま)った」と思って悔恨の情にかられているとき、
「君が悪いのではない、私が悪いのだ」と他から言われたならば、
その人は何ぼう感激して善に復帰するだろう。

・・・

自己の尺度を捨てる日  

           *「光明道中記」(2月16日)より

【他(ひと)を自分の尺度で測って善ならしめようとすれば、相手を害(そこな)い、自分を害う。
                               (『生命の實相』第七巻)】
 
電車の中で人の顔を見ていると、実にいろいろの顔があり、色々の事を教えられる。

一つの顔を眺めても、見ている人の立場の位地の相違から、悉く異なって見えるものである。
争いは、見る立場は一つしかないと云う根本的な迷誤(まちがい)から発(おこ)るのである。

或る人には一つ顔の横顔が見え、或る人には正面が見え、或る人には斜めに見える。
もっと委(くわ)しく分けるならば、一つの顔でも全然同じように見えることは
あり得ないのである。

そこですべての人の意見は一致しないのが本当な位である。

そこで吾等が他と争うことを避けようと思うならば、
吾等は事物を考えてやるのに相手の立場に立って考えてやらなければならないのである。

「あの人の身になったらどうだろう」此の思いやりが本当の愛である。
愛は自他一体である。

昔は、「己(おのれ)の欲せざるところを他(ひと)に施(ほどこ)す勿れ」と言ったが、
今は己の欲せざる所も、彼は欲するかも知れないし、己の欲する所も、彼は欲しないかも知れない
ことを知って、各々相手の立場に立って相手を生かしてやらなければならぬ。

・・・

自在を得る日 

           *「光明道中記」(2月17)より

【一つのものにでも執(しゅう)したら、苦しみは其処から始まる。(『生命の實相』第十一巻)】
 
解脱を仏と言う。解脱とは執なきを言う。
執のなきを自在と言う。執を縛(ばく)と言う。
執は一定のところに縛り附けて其の自由を奪って了(しま)うからである。
 
子供に執すれば、子供はその自由を失って病気に罹ったり成績が悪くなったりするであろう。
執愛は縛愛(なくあい)であり、一定の場所に相手を縛りつけて自由を失って了う愛
であるからである。
 
子を愛する者は、子を《よく》放たねばならぬ。
小鳥を愛する者は小鳥を《よく》放たねばならぬ。

小鳥を愛すると称して籠の中につなぎとめて置くとき、その小鳥は永生きしないであろう。
放たれてこそ、小鳥はその生命の自由を発揮して健全なるを得るのである。
子も亦斯くの如くよく放つとき、よく生きる。

「愛」を釈迦は煩悩のうちに数えた。
愛をキリストは神性のうちに数えた。
愛は煩悩より出でて神性にまで昇るものである。
愛は神性より出でて煩悩にまで墜落するものである。
 
愛が愛である使命を果たすには智慧に導かれねばならぬ。
 
・・・

万(よろず)円満大調和の日 

           *「光明道中記」(2月18日)より

【言葉の円味(まろみ)は家庭の重要な要素である(『生命の實相』第八巻)】

言葉は創造の力をもっているのである。

”太郎”と呼べば”太郎”が出て来る。
”次郎”と呼べば”次郎”が出て来る。
”馬鹿野郎”と怒鳴りつければ、相手は狂い立って馬鹿な行為をする。

多くの家庭はその家の主人の言葉の乱暴さによって、
どんなに毒されているか知れないものである。

或る家庭では、その家の主人が妻を呼ぶのに
「オイ、馬鹿」と云う言葉以外で読んだことがない。

「馬鹿と言われて腹が立つが、私を呼んでいるに違いないから、主人の方を向き、
用事をきき、嫌々ながら仕事をしました」と言って述懐された奥様もある。

そう云う家庭の空気が棘(とげ)立ったものであり、不愉快なものであり、不調和なものであり、
従って、その家の運命が暗いものであり、不明朗なものであり、病人が絶えないのは当然である。

優しい言葉、愛称を伴っている言葉は家庭の空気を円満にするものである。
先ず家長から目下の者に、朝起きたとき、
丁寧に「お早うございます」と言い得るようでないと本当でない。

何でも横柄に権利のような態度でせられると、味わいがすっかり無くなって了う。
細君が古くなるほど飽きられて来るのは、何でも権利のような顔をして押が強くなるからである。

・・・

無礙無縛の日

           *「光明道中記」(2月19日)より 


【善にでも引っかると悪になる。心が停滞すると心の影として血液循環が一箇所に停滞し
 病気を引起す。(『生命の實相』第三巻)】


善とは無縛を言う。無縛なるが故に人事処の三相応を得る。

善とは何ぞやと云う問題は、古来幾多の宗教家思想家によって考えられ、説明された問題である。
そして「善とはこれだ! 」と一つのものに執着したとき多くの人は躓いたのである。

「善」とは形ではない。

「執(しゅう)」を脱した状態こそ「善」であるから、
一物を指してコレだと執したとき「善」は消えて了っているのである。
「執」を脱したときおのずから「生命」は生きる。

「生命」が素直に生かされて行くのが「善」である。
斯う言えばすぐ「生命」を生かそうと「生命」に執する人が出来るであろうが、
「生命」に執したとき、その「生命」は既に生きなくなる。

だからキリストは警句して曰く、
「生命を獲んとするものは生命を失い、生命を損(す)つる者は生命を獲ん」と。

また諸聖は曰く

「生きようと思ったら○ね」   (○:死)

「《ままよ》と思う心にならなければお蔭は得られぬ」

「泳ごうと思ったら海の底から足を離せ」


私は曰く

「善とはなんぞや。生きることだ」。

「生きるとは何ぞや」曰く「無(む)」。


・・・

雪が融ける日

           *「光明道中記」(2月20日)より 


【他が自分に対して薄情である場合は、自分自身に何か暗い冷たさがある思え。
                              (『生命の實相』第四巻)】

温かいストーブの周囲にはおのずから人が集る。人を拝めば人が集る。

荒木松衛さんが、熊本県立白川学園と云う不良児の感化院で園長をしていられたときに
一人の生徒が脱走した。

その時、荒木さんは風邪を引いて寝ていられたが、「私の懐は温かいのだ。
生徒よ帰って来い。私はこの温かい心で汝を抱擁するのだ」という意味の思念をせられたら、
脱走した生徒が急に帰園したくなって帰って来たという話を聞いたことがある。

若し、他が自分に対して薄情であり冷淡であるならば、それは自分の中に「温かさ」がない
からである。暗い冷たい世界からは何人(なんぴと)でも逃げ出そうとするものである。

また内心に温かいものを持ちながらでも、他(ひと)を責め、人を指す心を起すとき、
それは相手を追い出す心になる。如何に多くの愛深き妻が、良人を責める心を起したがために、
その良人が堕落の淵に堕ちたであろう。

だから「他を責める心、人を刺す心は人を逐(お)い出す心」(『生命の實相』第二巻))であり、
「他の欠点をあげたい心が既に神に背(そむ)いた心である」(『生命の實相』第五巻))と
示されている。

[503] 下旬
伝統 - 2015年02月28日 (土) 13時39分

躓かざる日 

           *「光明道中記」(2月21日)より  

【他(ひと)が怒ったら、
 ことの善悪にかかわらず相手の心をかき乱して済まなかったと思え。(生命の實相第十一巻)】 


真理は時処(じしょ)と人とによって相(すがた)が変る。
一つの水でも蒸気にも氷にもなるから役に立つ。

『生命の實相』は両方面から書いてある。

腹を立てるなと書いてあるところと、
自然に立つ腹なら腹を立てても好いと書いてあるところとある。

薬を廃(や)めよと書いてあるところもあれば、
薬も使ったって好いじゃないかと書いてあり、
薬の服み方まで書いてあるところがある。

だからそれを修養の糧にしようとする人には修行の糧になるが、
自己弁解の資料にしようとする人には自己弁解の絶好資料ともなる。

また相手を非難攻撃する資料にしようと思えば、
どちらからでも攻め得るようにもなっている。
それに躓かない者は幸いである。

自分が長上から叱られながら「腹を立てるなと書いてあるよ」と
長上に反抗することも出来るであろうが、

扠(さて)また自分の方が善であると思える場合にでも、
相手が腹を立てて来たら、「相手の心を掻(か)き乱してすみませんでしたと思え」とも
書かれているのである。

人事処三相応である。凡(およ)そ吾がために躓かぬものは幸いである。

・・・

天の倉に貯える日 

           *「光明道中記」(2月22日)より   

【有(も)たざる者は尚奪われ、有てる者は尚与えらる。(「生命の實相」第十三巻)】

福田とは天の畑に蒔かれたる種子(たね)であり、天の倉に貯えられたる善行である。
すべての祝福は斯くの如き種子、斯くの如き貯えを先ず天の倉に有つことから始まるのである。

譬えをもって言えば、若し貧しき人が商売をして成功しようと思うならば、
商売をするための資本を少しでも先ず貯えることが必要である。

それと同じく「己(おの)が運命の貧しさを嘆け」と言われるほどの不幸不運な人ならば、
その人は天の倉に貯えられたる自分の資本(福田)が少しもないことを現しているのであるから、
その人が自己の運命を改善しようと思うならば、先ずどんな手段を尽してでも恰も貧しき人が
資本を積むが如く、福田を積むようにしなければならぬ。

貧しき人が資本を貯えるのにどうするか。
彼は自分の食を節し、衣を節し、少しでもそれを資本の形で貯蔵しようとする。

それと同じく「運命の貧しき人」も、その貧しき運命の中にいて、善念を貯え、愛念を蓄え、
善行を積み、愛行を積むようにしなければならぬ。

貧しき農夫が明日の事を思い煩(わずら)っている時、その最後の食事を鵞鳥に恵んでやった時、
明日の朝からその鵞鳥(がちょう)が黄金の卵を生むようになったと、
西洋の寓話は語るのである。

・・・

淡々妙味の日

           *「光明道中記」(2月23日)より   

【当り前のことが当り前である。噛みしめれば味がある。(「生命の實相」第十九巻)】

朝起きると小鳥が啼いている。
当り前のことだが嬉しく喜ばしい。

当り前の味は米の飯の味である。
いつ迄たっても飽きが来ないのが此の「当り前」の味である。

朝起きて顔を洗い、朝飯を食い、排便して出勤する。
平凡と言えば平凡だが、その平凡の味がわかるようにならなければ達人ではない。
唯なにかなしに嬉しいのである。

異常なることがあって嬉しいのではない。
ただ当り前のことが楽しく行じられるのが健康なる心である。
心臓はただ当り前のことを楽しく行じ、肺臓もまたただ当たり前のことを楽しく行じている。

それでこそ吾等は生きていられるのである。
吾等はただ当り前の事を楽しく行じてくれる心臓に感謝しなければならないし、
肺臓に感謝しなければならない。

それと共に吾等は自分の心臓や肺臓に「その儘に随順する心」を見習うべきである。
吾々は世界の心臓であり、肺臓である。
世界は吾々が其の儘素直に行じているそのことによって支持されているのである。

其の儘素直に楽しみ行ずる力は、宇宙を支持する力である。

太陽が朝昇ることを当り前の行事で面白くないと云って昇らなくなったら――?

・・・

心の眼ひらく日

           *「光明道中記」(2月24日)より   

【大自然に心がなければ、大自然より発生した人間に心が生ずる筈がない。
                       (「生命の實相」第十九巻)】

美しく開く春の花を見るにつけても、その美しさを味わう心の不思議さに驚嘆される。
天地自然がどんなに美しくとも、若し吾々の心に「美」が宿っていなかったら、
天地自然の美は存在しなかったであろう。

天地自然の美、梅の花、桜の花、桃の花・・・の美。
それら凡てを味わうことが出来る「大いなる美」が人間に宿っているのである。
《人間は美しきものなのである》。

若し「人間」の知覚力が分析的な測定機のような顕微鏡的、機械的装置に過ぎないものだったら、
吾々はどんな美人をも粗面の醜婦と観、そんな美術品もただ空間(あき)だらけな
分子の機械的な集りとして観たであろう。

機械的な心に観られた世界は機械的なものに観える。
そこには「美」は存在しないのである。

吾々の観る世界が美しく観えるのは、吾々が「美しく観える」立場から万象を見ているからである。
吾々は最も美しく観える寸法に於て人間を観、天地自然を観ているのである。
美は吾々の観る心によってのみ発掘される。

ものを暗く観る立場から観ている者は盲人である。

先ず心の眼を啓くことが第一である。
心の眼明るければ世界は明るく、心の眼瞑(くら)ければ世界は暗い。

・・・

心美しき日 

           *「光明道中記」(2月25日)より   

【心の眼がひらかれなければ実相の国土が如何に美しくとも見ることは出来ないのだ。・・・
 三界はただ見る人、見る人自身の鏡である。  (『生命の實相』第十六巻)】 

これは難解な「維摩経」を判り易く意訳して戯曲化した私の作の一節である。

「菩薩心浄ければ浄土浄し」の意味である。浄土と云うのは、何か土の平面的は広がりや、
景色などのように思っている人もあるかも知れぬが、「浄土」と云うのは「世界」であり、
「世界」と云うのは「主観(こころ)の住んでいるところの客観界」の意味である。

浄土とは主観客観全一の存在であり、客観ばかりではなく、主観によって、観る者と
観られたるものとの一体の世界である。

孔(あな)ばかりを観ている人には此の世界は多孔性の世界であるし、
塀ばかりを見ている人には、前途見透(みす)かしのつかない衝突ばかりの世界である。

他(ひと)の欠点を探す人には此の世界は孔だらけな無味乾燥な世界に見えるであろう。
棘(とげ)ばかりを見出す人には此の世界は、針地獄に見えるであろう。

我れらは最も美しき心によって世界を見んかな。
  
今日いちにち人の美しさのみを見ることをつとめよう。
  
若しそれが美しく見えないならば自分の心が汚れているのだと反省しよう。

・・・

常に微笑する日

           *「光明道中記」(2月26日)より   

【光の行くところ暗はない。私の行くところに穢れはない。
 私が周囲の穢れで汚れるようなような者だとは思って貰いたくない。
                    (『生命の實相』第十六巻)】

これは同じ本にある「耶蘇伝」の一節である。
此の言葉はキリストの言葉として茲(こ)に言われているけれども、
「光の行くところ暗はない」と云うことは、吾々自身に就いても亦言わるべきことなのである。

キリストは彼の時代に「光」の代表者として出現した。
しかし、その「光」は吾々自身の内にも宿っているのである。

このことをキリストは「われ往きて汝等に来るなり」(「ヨハネ伝」十四章)と言ったし、
釈迦は「一切衆生仏性あり」(「涅槃経」)と言ったのである。
吾々の内部には「光」が宿っている。

吾々はその「光」を枡の下に置くから可(い)けないのである。
吾々の周囲が暗いのは自分自身のうちに「光」が宿っていないからではなく、
その「光」を高く掲げることを忘れたからである。

われみずからを「光」であると観ぜよ。
「われ明るし」と自分自身の心に告げよ。
そこから明るい世界が開けて来るであろう。

常に微笑せよ、少なくとも今日一日常に微笑せよ。

・・・

人を疑わぬ日

           *「光明道中記」(2月27日)より 

【婦人に於ける病気はその原因を辿ってみると、概ね感情生活に起因する。(『百事如意』)】 

私が関西へ移転するかもかも知れぬと云う記事があったので、若し先生に関西へ移転せられたら、
私の熱心が足らぬからであるから、自殺すると言って手紙を寄越した人があった。私はその手紙を
見ないで内容を秘書から話して貰っただけであって、その人のことを男性であると思っていた。

この人は度々栞(しおり)に日本画をかいたり、押し花を封じ込んだりして無名の「一誌友」
として手紙を寄越す人なのである。

暫くすると、同じ筆蹟で「先生にあんなに手紙を差し上げたのは純粋な宗教的思慕の念であった
のに、それを求愛であると誤解せられたのは誠に心外であるから、この手紙を以て生長の家との
訣別の辞とする」と云う手紙が来たのである。

今度の手紙の内容で女性であることが始めて私に判ったのである。
どちらにしても私に何の関係もない空想の産物である。

時として女性と云うものは、空想の世界で、自殺や、恨みや、憤(いか)りを創作して
楽しむものでのである。
空想の世界で自分自身の感情を弄ぶのが此の種の人の病気なのである。

当り前のことが当り前に喜べるようになる迄その人の病気は癒えないのである。

・・・

金剛不壊の日

           *「光明道中記」(2月28日)より 

【常に光を見よ。暗を見ること勿れ。常に昇り行く姿を想像し、墜落する姿を想像するな。
                                    (『向上読本』)】

倒れた其の瞬間に光を見よ。

どんな人でも一度や二度は躓かない者は稀である。
併し躓いたとき、倒れ切ってしまう者と、倒れ切らない者とがある。
此の区別が人間の幸不幸を左右するのである。

不倒翁(ふとうおう)とは倒れない人のことではなく、倒れても起き上がる人のことである。
形は倒れても、倒れた前と、一度倒れてまた起き上った人とはその魂の深さに於て、
その体験の深さに於いて、相違するものである。

人は倒れることが目的ではないが、
倒れてすらも人生は常に獲得(ゲイン)のほかはないのである。

倒れてすらも吾々は其処に唯「獲得」のみを見出すのである。
斯う云う人はどんな激しい運命もその人を挫折さすことは出来ない。
こんな人を金剛身と言い不壊身と言うのである。

風邪を引くたびに身体が弱くなると思う人もある。
光明思想は風邪を引くたびに身体が強くなると思うのである。

熱が出るのは全身の細胞分子の振動数の増加であるから新陳代謝の向上である、
と思うのが光明思想である。

             <感謝合掌 平成27年2月28日 頓首再拝>



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