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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐

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[504] 『生長の家』創刊号
伝統 - 2015年02月28日 (土) 18時14分


明日3月1日は、立教86年です。

このスレッドでは、『生長の家』創刊号を謹写してまいります。


  (表裏)

 『生長の家』は読み捨てにするような雑誌ではありません。
 どんなに此れが好い雑誌であるかは読んで御覧になれば判ります。
 読みガラを捨てないで常に座右に置いて下さい。

 そして心に暗い影がさして来たら本誌のどの一頁でも宜しいから、
 開いてお読み下さい。あなたの心がそれはそれは軽くなります。
 暗い人生観が明るい人生観にかわります。

 これを病人に贈れば実に好い慰めともなり見舞いともなります。

 私が書いたものは唯読むだけでも元気が出て病気が軽減することが
 度々あるそうです。

 愛息や愛弟妹に読ませて頂けば、在来の消極的教育とはちがった
 溌剌たる積極的精神が培われます。

 『生長の家』は一つの家庭に是非一冊はなくてはならない雑誌です。
 日本国中の家庭が此の雑誌をとって呉れれば日本国中の家庭が栄えます。

 争いの絶えなかった家庭が平和の家となり、悲しみの家が喜びの家となり、
 病人の絶えなかった家庭が健康の家となり、
 何事も不如意であった家が『生長の家』となります。

 私は日本国中の家庭を楽しい『生長の家』とするために
 全精力と全資金とを此の事業に懸けます。

 日本を愛する人々よ、知人に此の雑誌を紹介して下さい。
 屹度その知人がお喜びになります。

 此の人なら読んで喜んで呉れそうなと思われる知人があったら
 其の人の住所氏名を発行所まで御知らせ下さい。
 幾部でも見本誌をお送りします。 (生長の家発送部より)


 (1頁)

 巻頭のことば

 蛇に睨まれた蛙は恐怖のために動けなくなって蛇にのまれる。
 国が国を恐れるとき莫大な軍費を要する。

 就職試験に臨んで恐怖心を起す青年はその就職に失敗する。
 入学試験に臨んで恐怖する学生はその入学に失敗する。

 恐怖が自己の境遇を支配すること斯くの如く甚だしい。
 更にそれが自己の病気や健康に影響するに至っては云うまでもないのである。

 此の恐るべき恐怖心を人生より駆逐すべき道を示さんとするのが
 『生長の家』の念願の一つである。

  (2頁)

 吾れを伸ばすもののは、
 絶えず与えていると云う感じ、
 絶えず人から喜ばれていると云う感じ、
 与える歓びは自己拡大の感じ、
 自己の愛が次第に拡がる感じ、
 この感じのうちに生命は伸びて行く。

 (表4)
 生長の家の宣言

 ▽吾等は生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す。

 ▽吾等は生命の法則を無限生長の道なりと信じ
  個人に宿る生命も不死なりと信ず。

 ▽吾等は人類が無限生長の真道を歩まんがために生命の創化の法則を研究す。

 ▽吾等はリズム即ち言葉を以って生命の創化力なりと信ず。

 ▽吾等は善き言葉の創化力にて人類の運命を改善せんがために
  善き言葉の雑誌『生長の家』を発行す。

 ▽吾等は心の法則と言葉の創力化を応用して病苦その他
  人生苦を克服すべき実際方法を指導し
  相愛協力の天国を地上に建設せんことを期す。


 
創刊号 
 (1頁)

 目次

 生長の家の精神とその事業 ・・・・・・・・・・ 3
 生長の家の使命及び読み方 ・・・・・・・・・・ 9
 生長の家の生き方     ・・・・・・・・・・14
 生命の法則による天才養成法・・・・・・・・・・28
 最近精神分析による心の研究・・・・・・・・・・47
 マーデン博士の積極的健康法・・・・・・・・・・67
 デンマルク戯曲家の心霊現象・・・・・・・・・・74

 六号欄
  三種の愛        ・・・・・・・・・・28
  内に宿り給う神     ・・・・・・・・・・31
  多忙の幸福       ・・・・・・・・・・34
  漱石『道草』      ・・・・・・・・・・37
  智慧の言葉       ・・・・・・・・・・41
  生長の家の歌      ・・・・・・・・・・49
  日子と日女       ・・・・・・・・・・59
  愛の雑信        ・・・・・・・・・・60

             <感謝合掌 平成27年2月28日 頓首再拝>

[505] 《『生長の家』出現の精神》
伝統 - 2015年03月01日 (日) 02時08分


自分はいま生長の火をかざして人類の前に起つ。
起たざるを得なくなったのである。

友よ助けよ。同志よ吾に投ぜよ。人類は今危機に頻している。
生活苦が色々の形で押し寄せて人類は将に波にさらわれて
覆没しようとしている小船の如き観はないか。

自分は幾度も躊躇した。起つことを躊躇した。
自分は中心者として増上慢のそしりを受けることを恐れていたのだった。

一求道者としていつまでも謙遜でいたかった。
併し今は謙遜でありたいと言うことが自分にとっては安易を貪る
一つの誘惑と感じられる。

自分は此の誘惑に打ち克って人類を救わねばならない。

自分の有っている限りの火で人類を救わねばならない。
自分の火は小さくとも人類の行くべき道を照らさずにはおかないだろう。
 
此の火は天上から天降った生長の火である。

火だ! 自分に触れよ。自分は必ず触れる者に火を点ずる。
生長の火を彼に移す。

自分は今覚悟して起ち上がった。

見よ!自分の身体が燃え尽くすまで、蝋燭のようにみづからを焼きつつ
人類の行くべき道を照射する。


自分のかざす火は人類の福音の火、生長の火である。
自分は此の火によって人類が如何にせば幸福になり得るかを
示そうとするのだ。

如何にせば境遇の桎梏から抜け出し得るか、
如何にせば運命を支配し得るか、
如何にせば一切の病気を征服し得るか、

また、如何にせば貧困の真因を絶滅し得るか、
如何にせば家庭苦の悩みより脱し得るか・・・等々。

今人類の悩みは多い。人類は阿鼻地獄のように苦しみもがきあせっている。
あらゆる苦難を癒す救いと薬を求めている。

しかし彼らは悩みに眼がくらんでいはしないか。
方向を過っていはしないか。
探しても見出されない方向に救いを求めていはしないか。

自分は今彼らの行手を照す火を有って立つ。

・・・

*「生長の家」出現の精神<朗読版(前半部分)>
   → http://www.youtube.com/watch?v=A_FH691U758

             <感謝合掌 平成27年3月1日 頓首再拝>

[507] (4頁〜6頁)
伝統 - 2015年03月02日 (月) 02時39分


では生長の家が諸君のために何をなそうとするかを列挙して見る。

(1)『生長の家』本部は心の法則を研究しその法則を實際生活に応用して、
   人生の幸福を支配するために實際運動を行ふことを目的とする。

(2)心の法則の研究発表は月刊雑誌『生長の家』に発表する。

(3)雑誌『生長の家』は誌友や会員だけの雑誌ではない。
   広く人類に対する幸福生活の宣伝機関である。
   家庭苦、病苦、失業苦等に就き悩みのある諸君の真摯なる質問に答える。

(4)特に直接相談を希望せらるる向はあらかじめ手紙にて照会せられれば
   本部より都合よき日時をお知らせする。

(5)月極め誌友拾名以上ある地方にはわが幸福生活法の宣伝研究親睦共済機関として
   『生長の家』支部を設置し、支部長は心の法則の実証としてメタフィジカル、
   ヒーリングを修得し、広く隣人の病苦を抜済することが出来る。
    (求道に熱心なる支部長を募集す)

(6)メタフィジカル・ヒーリングは10名以上支部に集まりて会合する場合を期し
   遠隔的に感応指導することが出来る。希望者は会合場所を示すと共に
   会合時間に就き本部へあらかじめ照会せられたい。

   本部よりは坐法その他の形式詳細につき別に通知を発する。
   十名以上と指定したるは人体磁気の関係上遠隔指導に成功しやすいからである。

(7)月刊雑誌のほか時々『生長の家』の書籍を出版し、人類の幸福推進の指導をなす。

(8)心の法則の研究書としては当分實業之日本社発行の拙著『如何にせば運命を
   支配しうるか』を推薦する。(此の書は全国の書店で取り次いでいます)

(9)支部は自治により支部長1名を置き、誌友に率先して心の法則を研究し、
   心の法則に従って生活して、自己の生活の完全なる生長をはかると共に、
   出来るだけ多くの人類をして『生長の家』の幸福生活を送らしめるよう、
   雑誌『生長の家』をひろめることを努力する。

(10)支部長は毎月1回会合の状態、その他に就き本部に対し報告すべき義務を負う。

             <感謝合掌 平成27年3月2日 頓首再拝>

[510] (6頁〜7頁)
伝統 - 2015年03月03日 (火) 04時28分



諸君は単に「心の法則」を研究して之を生活に応用するだけで
人類の幸福生活を成就する大仕事が実際出来るかを疑われるであろう。

併し釈迦は「萬法唯心」と喝破し、キリストはニコデモの問いに対して
「真理は汝を自由ならしめん」と云ったのである。

「萬法唯心」とは一切は心の現れだと云うことである。
キリストの云った真理とは實に吾らに内在する「心の法則」のことである。

火の法則を知るものは火を駆使し、水の法則を知るものは火を駆使する。
心の法則を知るものは運命の自由を得るのである。

『生長の家』は此の心の法則を人類に伝えることによって
人類を運命の暴虐の手から奪回することを期するのである。

此の生長主義の精神運動は今より凡そ20年以上よりメタフィジカル・ヒーリング、
クリスチャン・サイエンス、デイヴァイン・サイエンス、ニュー・ソート、
メンタル・サイエンス・・・

等々の名に於いて全世界を風靡する一大精神運動となっているのであって、
此の心の法則の応用により今現に救われつつある人々は全世界に夥しいのである。


多くの人々は或は忽ち病の床から起き上り、或は逆境を征服し、
或は貧困の首かせから脱却しつゝあるのである。

併し必ずしもそれは西洋伝来の精神運動ではないのであって日本には古くから
神代より存する唯神の生活法そのものが此の生長主義を体現していたのである。

日本人が事毎に陽気を尊び、汚れを忌み、宣詞(のりと)にて汚(けが)れを祓ったのは
實に気枯(けがれ)<即ち生気衰退>を宣詞(のりと)<即ち言葉の霊力>にて
癒すと云う意味にほかならなかった。

自分はわが『生長の家』の精神運動によって古き日本の、正しき「如何に生くべきか」が
新しき思想の姿をもって各人の心に生き、各人の実際生活に生かされ、個人と家とを
問わず生長の氣に満ちあふれて、吾らの同胞が今よりも多く、

自由な明るい生活を送る日の必ず来るべきことを期待し、
その一日も早からんがために諸君の賛助と協力とを希望するのである。

             <感謝合掌 平成27年3月3日 頓首再拝>

[513]  (2頁) 
伝統 - 2015年03月04日 (水) 03時49分

 (2頁) (巻頭の歌)

吾れを伸ばすものは、

絶えず與へてゐると云ふ感じ、
絶えず人から喜ばれていると云ふ感じ、
與へる歓びは自己擴大の感じ

自己の愛が次第に擴がる感じ、

この感じのうちに生命(せいめい)は伸びて行く

             <感謝合掌 平成27年3月4日 頓首再拝>

[515] (7頁〜8頁)
伝統 - 2015年03月05日 (木) 06時22分


『生長の家』は今やっと若葉を出したばかりである。
それを生長さし根をはびこらし、ほって置いても、
天を摩すような巨木となるだけの基礎が出来るまでには充分の手入が要る。

月々これだけの雑誌を書き、誌友からの手紙を整理し、
それに一々回答を与えるのは、それだけでも精力家のひと仕事であろう。

而も自分はその経済的方面を維持するために毎日8時間の普通人としての劇務に
服し、由って得たる資金をこの人類生長の精神運動に全部さゝげているのである。
かくの如く自分は今非常に多忙な日を送っている。

従って自分は自分のメタフィジカル・ヒーリングを本誌による誌上講習、または
時間を限って同時に多人数に指導するほか、個人々々に直接指導する時間の余裕を
有しないのを遺憾とする。それは實に時間的に不可能なのである。


『生長の家』の誌友がもっと殖え、雑誌の経済が”個人としての自分”より
援助を受ける必要がなくなったならば、自分は此の生長主義の精神運動を
普く全国に宣伝して歩きたい。

その時には自分はメタフィジカル・ヒーリングを直接個人々々に
指導し得ることによって人類は今よりも一層幸福になり得るであろう。
自分はその日の来るのを待っている。

その日は必ず来るが、早く来るか否かは最初の誌友となった諸君が
次の誌友を如何に増やしてくれるかによって極まるのである。

諸君よ『灯をともして枡の下に置くべからず』と云う諺がある。
真理はわたくししてはならない。

幸福になれる道があるのにその道を人に知らすのをおしんではならない。
良い雑誌は人にすゝめることによって却って人から感謝されるに相違ない。

             <感謝合掌 平成27年3月5日 頓首再拝>

[518] (9頁〜11頁)
伝統 - 2015年03月06日 (金) 03時58分

『生長の家』の使命及び読み方(1)

『生長の家』を月々発行して言葉によって此の世を清め、人生を住みよくし、
世界の家庭々々を明るくし、個人々々を幸福にすることは生長の家の主要な
事業の一つである。

それは諸君が『心の法則』を深く研究して行かれるに従って次第に明瞭になって
くるであろうように、此の世界は言葉によって支えられているからである。

  (中略)

斯くの如く、東西の経典は筆をそろえて、言葉に生命(いのち)あり、
言葉は必ず体を招き、言葉は我らに宿って肉体となることを説いているのである。

古え吾々日本人が互いに”みこと(みは美称、ことは言)”と呼び、
互いを神として敬し合ったのはこのためであった。

吾らは此の点に於いて古代日本に還るべきであることを提言する。
吾らは何であるよりも先ず言葉(みこと)である。
これは實に否定出来ない。

言葉によって吾らは清くもなれば醜くもなり、幸福にもなれば不幸にもなるのである。

諸君は毎朝歯ブラシで歯をみがかないであろうか。
諸君は、そして歯よりも大切な心があることを自覚しないであろうか。
諸君は毎朝歯をみがくのに何故心をみがかないのであろうか。

又諸君は心を何をもってみがくであろうか。
諸君は朝起きると一声『馬鹿野郎』と家族を叱咤するならば
その日いちにち不愉快なことを自覚せねばならないであろう。

諸君が若し、自己の人生を幸福にし、家庭を明るくし、環境を良化し、運命を改善
しようと思われるならば、毎日すくなくとも2、3回はそのために作られたる
善き、明るき言葉に接しなければならない。

それは諸君にとって食事をとるよりも絶対に必要なことである。
諸君よ、『生長の家』を読め、心を幸福にし、肉体を健康にし、運命を良化せよ。
此の目的のために雑誌『生長の家』は生まれたのである。

             <感謝合掌 平成27年3月6日 頓首再拝>

[520] (11頁〜13頁)
伝統 - 2015年03月07日 (土) 04時55分

(11頁〜13頁)『生長の家』の使命及び読み方(2)

世界はいま、恐ろしい生存競争と階級争闘との渦の中に転回している。

諸君は自覚しないであろうが、諸君が此の争いの世界に住んでいる以上、
彼らの頭脳から放射される呪詛、嫉妬、憎悪等の恐ろしい波動は
諸君の脳髄に感応して諸君の心を動かさずにはいないのである。

諸君は大した理由もないのに腹立たしく焦々しく、不快になったことはないか。
今日は何だかムシャクシャして不幸だと感じたことはないか。
それは實に他から放送された不快な感情波動を自己の頭脳に受信しているからである。

思想感情が一つのラジオ波のような波動であると云うこと、そして諸君の頭脳が
それに感じやすい受信機であることを諸君はやがて知る時期が来るであろう。

諸君はこの恐ろしい呪いの感情波動を防ぎとめる方法を講じなくてはならぬ
ところの緊急は必要にせまられていると云わなくてはならぬ。

多くの富める家庭が不幸であり、病人が絶えないのは何故であるか。
それは貧しき人々から発せられた呪いの感情波動の支配下にあるからである。

諸君はブランコに乗って見たことがあるか。
同じ小さな力もそれが加わる回数が重なるにつれて大きく揺れて来るであろう。

しかし大きく揺れて来ない前にまた全然静止さしてから、
揺るならば、そのブランコは永遠に大きく揺れて来ないであろう。
諸君はこの原理を利用しなくてはならぬ。

呪いの感情波動が諸君の頭脳に感応して、諸君を幾分不快にしたときには、
諸君は雑誌『生長の家』を開いてそこに書かれてある善き言葉を
読めば好いのである。

揺れかゝっていた諸君の感情のブランコは平静に立ちかえる。
諸君の感情波動の波長が、もう其の呪いの感情波動に合わなくなる。
諸君の感情は愛と平和と幸福にみたされる。

毎日このことを繰り返せば諸君は毎日愛と平和と幸福とに充たされる。
実際、これは幸福をもとめる人の毎日繰返さなくてはならない必須のことである。

一回きりで止めてしまうようでは、折角善い方向に振りかゝったブランコも
停ってしまうように、諸君の運命の良化も停止してしまうであろう。

『精読八回自分は境遇を一変した』と一読者は云ったがそこに真理が含まれている。
ドシャ降りも一回では石に穴を穿つことが出来ないが、
繰返すとき点滴よく運命の石を穿つのである。

自分は此の意味に於いて雑誌『生長の家』が読まれることを欲する。

朝起きた時、寝床の中で、電車や汽車の中の暇な時間に、またお昼の休憩時や、
これから安らかに眠ろうとするときに『生長の家』の一頁がどんなに諸君の
運命を幸福にするであろう。

自分は此の意味に於て『生長の家』を毎日々々新しく書いて諸君の座右に
とどけたい位である。
今は時間に制限されてそれが月々一回に限られているのは遺憾である。

せめて毎日一回・・・これが諸君の運命の石を穿つ点滴である。
それだから是非毎号とも連続して読んで下さい。
そして次の号が来るまでその雑誌を捨てないで繰返し繰返し読んで下さい。

やがて諸君の思考が根本的にあらたまる。
その時諸君の運命も根本的にあらたまるであろう。


「思考は運命の又の名、心に描いて待つものは運命をつかむのである。
 愛は愛を呼び、恨みは恨みを呼ぶからである」
                      (ウイルコツクス)

             <感謝合掌 平成27年3月7日 頓首再拝>

[522] (14頁〜15頁)『生長の家』の生き方(1)〜その1
伝統 - 2015年03月08日 (日) 02時40分


「あらゆる人は、彼自身の善のため、彼自身の幸福のために生活している。
 彼が幸福を望むことを止める時には、彼は最早自分自身が生きているとは感じない。
 人は、彼自身の幸福を求める欲望を関連させずに人生を考えることは出来ない。

 生きるということは、万人にとって幸福を求めることそれを吾がものにしようと
 目指すこと、これが生きるということである。」   (トルストイ『人生論』)


吾々は人間として生まれてきた以上、幸福にくらしたい。
これは人間として本能的にもっている欲望である。

しかし人生はそんなに幸福な人ばかりで充たされていない。

それはどうしたわけであろうか。
彼らの多くは心の法則を知らないからである。

人間が人間として幸福に生活するためには『心の法則』を知らなければならぬ。
知ってそれを生活の上にあらわさなければならぬ。

それを生活の上に実践するのが『生長の家』の生き方である。
自分は『生長の家』の生き方について毎号書いて行く。

そして読者の家をー日本中の吾々の兄弟の家を一つひとつ皆『生長の家』にしたい。
これは出来る、必ず出来ると思う。

人が『心』を有っていると云うことは実に尊い。
(本当は『心を有つ』のではなく『心』こそ自分なのだ。)
そして心ひとつで幸福になれるのだ。

此の簡単な幸福生活はどんな種類のほかの発見や発明よりも人類にとって
有益だと云って好いだろう。

自分は何を犠牲にしても此の幸福な『生長の家』の生き方を、
少なくとも日本中の兄弟たちに知らしたい。
そして一緒に手をつないで明るく高らかに哄笑出来る日を期待したいのだ。

そこで『生長の家』の生きかた〜幸福生活の秘密〜を順次に説明していくことにする。

             <感謝合掌 平成27年3月8日 頓首再拝>

[524] (15頁〜17頁)『生長の家』の生き方(1)〜その2
伝統 - 2015年03月09日 (月) 03時49分


1.『生長の家』では朗らかに笑って生きる。

吾らは快活に小鳥のように陽気にならなければならない。
陽気に充ちた家は必ず生長する。その家は生長の家となる。

此の世界は何も吾々が悲しんでやらなければ、
悲しみに不足して困ると云うようなことはないではないか。

黒住教祖は医者に見捨てられた自己の大患を陽気で癒した。

陽気になれ、嬉しいことを語れ。

噪やげ。哄笑せよ。微笑せよ。

併し苦笑や冷笑はおことわりだ。

カリフォルニアに一人の婦人があった。とマーデンは書いている。

悲惨な運命に打ちくだかれてそれ以来憂鬱性にかかった。
夜は眠れない、食べものは味がなくて食べれば胸につかえる
・・・等々の症状を呈した。

そこで彼女は一日少なくとも3回、どんなことがあっても必ず心から
声を出して笑うということに極めたのである。

それで人と話しているときなど、一寸した機会(きっかけ)があっても
必ず心から笑うようにし、自分の部屋にいるときには鏡を見て笑うようにしたところが、
間もなく健康が見ちがえるように良くなり、性格も一変して明るくなった。

こうして主婦が快活になると共にその家庭は明るい愉快な家庭になって了った。
家庭の明るいと暗いとは主婦の笑いの分量によることが多いのである。

笑いはただその人自身を健康にするばかりではない。
快活な人は周囲に幸福と健康を播いて歩く。

明るい朗らかな親切な笑顔を向けられては何人も幸福にならずにはいられない。
そう云う人が医者であれば、患者は医者の顔を見るだけでよくなったりするものである。


笑いの医療的価値はやがて一般にみとめられて来るであろう。
もし此のことが一般にみとめられ一般に利用されるようになれば、
病気の大半は医者も薬もなしに吹っ飛ばされて了うに相違ないのである。

自分が中学の学生時代に校医をしていた別所彰善氏は本職の医者をやめて
笑いの医療的価値を宣伝して多くの治験例を発表しているが、惜しむらくは会費が高い。

併しいくら高くても朗らかな笑いの神薬は医者が選んだ不確かな薬より効き目はたしかだ。

実際高らかな朗らかな笑いは自然が与えた最良の強壮剤である。
哄笑を爆発さすとき、乱れていた抑えつけられていた生理作用は忽ち活発に活動しはじめる。

血液の循環は順調になり、白血球の喰菌作用は増加し、自然療能は盛んになる。

だから『生長の家』の生き方をする家には病気の悪魔は這入れない。

             <感謝合掌 平成27年3月9日 頓首再拝>

[525] (17頁〜19頁)『生長の家』の生き方(1)〜その3
伝統 - 2015年03月10日 (火) 07時36分


諸君が若し或る会社につとめていて事務所の単調な砂漠のような仕事の連続に
飽きて来たとき、もし、その仕事と仕事のつながりに、一寸した洒落、ジョーク、
諧謔などに触発されて哄笑が飛び散るならば諸君は砂漠でオアシスを見出したように
蘇生(よみがえ)って再び元気よく仕事に掛れるであろう。

聡明な上役は好んで猥談を飛ばす。
能率を望む実際家もまた笑いの効果を知らねばならない。

上手な教育家は生徒を時々ユーモラスな話で授業を進めて行く。
それで生徒に喜ばれて却って成績が好いのである。
これは皆『生長の家』の生き方である。

アブラハム・リカーンは自分の机の隅に最近出版の笑話の本を常に置いていて、
頭が疲れて来たり、気が鬱いで来たりするとそれを開いてその一節を読むことに
していたと云う。

上品なユーモア、巧みな頓智、無邪気な馬鹿話、怒る気のない猥談、
これらは天が与えた自然の良薬である。それは心と心との摩擦に油を塗り、
峻しい人生の進路に息抜きを作ってくれる。

諸君は人生の戦いに疲れ切ったときほど、一層多量にこの良薬を用いなければならぬ。

いつも、自由に快活に高らかに朗らかに笑える人は幸福である。
諸君が若し不幸であるならば、そして『こんなに人生が悲しいのに何で自分が笑えるか』
と云いたいようであるならば、諸君よ、一室に退いて、先ず鏡を見て笑え。

鏡に映った表情を見て、自分がまだ幸福の要素を多分に有っていることを
強く心に印象せよ。そして重ねて笑え。声をたてゝ笑え。

ウイリアム・ゼームズ教授も云ったように、表情は心の表われであると同時に、
逆に表情でまた心が支配されるのである。

悲しい時ほど笑わねばならぬ。笑いぬくとき悲しさは征服される。

何故あなたは悲しいか。若し人が自分に対して薄情であるが故に悲しいのであるならば、
自分自身に何か暗い近寄り難い冷たいものがあったゝめだと知らねばならぬ。

そしてその暗い冷たい近寄り難い或る物はどうしたら追い出せるか。
その唯一の駆除薬は朗らかな高笑いであることを知らねばならぬ。


同じ道理で快活な、会って気持のよい性質はその人の社会的地位にも影響する。
有能な才人で而も随分勉強家でありながら一生成功し得ないような人はクソ真面目な、
笑いを少しも解しないような人が多い。

人は必ずしも仕事だけをする機械ではないのである。
人には何となきその人特有の空気(雰囲気)が付随している。
その空気が別の仕事をする。

その空気が一緒に働く人全体の空気を活き生きさすことが出来れば
それは既に大いなる仕事である。

自分だけの仕事がいくら上手に運んでも其の人につきまとう空気の何となく冷たい
暗い陰鬱な人は、多いに笑いを稽古することによって、その陰鬱を払い去れ。

心に従って運命は転換して来る。
心の縛りがとれるに従ってその人の境遇は良化して来る。
周囲の人がおのづから善くして呉れるからである。

             <感謝合掌 平成27年3月10日 頓首再拝>

[527] (20頁〜22頁)『生長の家』の生き方(1)〜その4
伝統 - 2015年03月11日 (水) 02時44分


2.日時計主義の生き方


諸君は『日時計』というものを見たことがあるであろう。
それは一本の直立せる針と、時間をしるした一枚の盤とでその主要部分が成り立っている。

太陽の光線がその直立せる針に落ちると、針は盤面の目盛りの上に影を落として
何時だとわかるのである。

太陽のない日には時間が判らない。
そして自分の見た日時計の盤面には、時にはこんな標語が書いてある。



”I record none but hours of sunshine”

(吾れは太陽の輝く時刻のみを記録す)


自分はこの標語を『日時計主義』だと云っている。

そして『生長の家』では、出来るだけ、輝く喜びの時刻だけを記憶し、語り、思い出す。
喜びに言語の再現力、言葉の創造力を応用するのである。


此の世界の人々がみんなこの『日時計主義』に従って、不快な一切の記憶を次の瞬間から
追い出して了い、悲しい連想や、憂鬱な暗示を拭き去ってしまうようにするならば、
吾等のこの世界はどんなに愉快に幸福になれるであろう。

それだのに多くの人々は自分の出会った不幸を、不愉快を、憎みを、嫉妬を、嘲笑を、
出来るだけ記憶し、言葉に出して復習しようとしているのはどう云う訳だろう。

彼らは『心の法則』を知らないからである。
彼らは言葉の創造力を知らないからである。

『語るものは皆あらわれる』『噂をすれば影が射す』
どんな不幸な出来事も、思出した時と言葉に出した時とのほかには存在しないと
云うことを知らねばならぬ。


人生は集合自動車で何処かへ行くようなものである。
風采の好い紳士もいれば、美しき令嬢も乗っている。そうかと思えば酔っ払いが向こう側には
居ぎたない格好をして臭い息を吐いている。
時には不快なお腫だらけな病人も乗り合わさないとも限らない。

併し吾々は何も好き好んで、不快な酔っぱらいや、お腫(でき)だらけの顔ばかりにつとめて
注意を集中する必要はないのである。幸福そうな令嬢の表情や、瀟洒な紳士の身なりばかりを
見ていて愉快になった方が自分も亦幸福ではないか。

諸君よ、吾々は、”輝く太陽の日のみ記録する日時計のようになろう”
悲しみをいつまでも心にためて置いてなんの得る処があろう。
損失をいつまでも思出して何の利益する処があろう。
失敗をいつまでも後悔して意気阻喪しても世の中は益されはしないであろう。

すべてこれらは人生の出来事中の滓(かす)である。
滓にいつまでも執着すな。滓を捨てよ
盗人を追い出すように滓を心の外へ捨てよ。

吾々の心は滓よりも高貴なものだということを知らねばならぬ。


若し、諸君が不快な考えに捕えられるようなことがあるならば、若し諸君が他の人に対して
憎みや、怒りや、嫉妬や復讐を感じるような事があるならば、諸君は自己の心の中に盗賊が
忍び込んで幸福のダイヤモンドを奪おうとしているのだということを自覚しなくてはならぬ。

諸君は靴一足盗みに這入った盗賊でも逐い出すではないか。
それだのに心の中にあなたの最も高貴な幸福のダイヤモンドを盗みに這入った盗賊をば
何時までも何故歓待しようとするのであろう。

吾々は心の内に溜まった滓(かす)を捨てよう。
吾々は靴の中に這入った小石のように、悲しみを捨て去ろう。
憎みをほかそう。

そして憂鬱を脱ぎ棄てゝ、晴れやかな太陽の輝いている世界へ、
新しい喜びの靴を穿きなおして歩み出そう。

これが『生長の家』の生き方である。

             <感謝合掌 平成27年3月11日 頓首再拝>

[528] (22頁〜27頁)『生長の家』の生き方(1)〜その5
伝統 - 2015年03月12日 (木) 04時22分


3.『生長の家』は礼拝主義で生きる。

これは、『日時計主義』を他人に及ぼした場合であるとも云える。

『日時計主義』は一言にして云えば自分の悲しみの日を心にも言葉にも記録しないのだが、
この礼拝主義は他人の悪を心に記憶せず、言葉にも表現しないで、
相手の本質の神を拝むのである。

キリストも言ったところの『汝の敵を愛せよ』という信条に一致する。

諸君よ、今日かぎり、他人の悪にしばられないところの高貴な心を自分のうちに取り戻そう。
他人が悪を犯したからって、自分が何故不幸にも、
憎みの歯車で噛みくだかれねばならないであろう。

あなたの心は他人の悪の餌食となって食われて了わねばならないような
一片の肉塊ではないのである。
あなたの心は何物にもしばられないで、
それ自身で幸福になり得ると云うことを知らねばならぬ。

自分の心の高貴を取りもどせよ。
自由と独立とを奪回せよ。

相手が下劣なことをすると思うならば下劣な者と対等になって争うことの愚を知らねばならぬ。
相手が愚劣になったとき、自分もまた、高貴の階段から降りて往って下劣と肩を並べねばならぬ
と云うことはないのである。

併し、自分の高貴を自覚し、他人の下劣に伍せないために
 − 言い換えればみづからのみを潔しとし、
他を傲然と見下ろすために許しの王座に上るものは、なお本当には自己の生命を伸び伸びと
生かすことが出来ないのである。それは「生長の家」の生き方ではない。

かゝる生き方は、自己が高く上がれば上がるほど、他が一層低く見える。
彼は自己の心のうちに他の醜くさを常にえがいて暮らさねばならぬ。
自己が高くあがればあがるほど自己の心のうちを他に対する軽蔑や非難の声で
みたさねばならぬ。

彼はいつの間にかほかしていたと思っていた人生の滓(かす)を
自分のうちに充満せしめることになる。


『生長の家』の礼拝主義はそんな単なる寛大主義ではない。
又自己のみが高くあがる独善主義でもない。

それは外(ほか)の見せかけの他人の悪にとらわれない。
其の人の表面にどんな悪があらわれていようとも、その人の本質を見るのである。

その人の本質にある神を見るのである。
どんなに人々が悪を犯そうとも、その人の本質は神の子であって汚れていない。

どんなに紙幣が手垢に汚れていようとも、それは金貨に値する内在価値をもっている。
諸君は百円札が汚れているからとてその内在価値を疑うか。

然らば諸君は人間がどんな罪に汚れているからとて、
その内在価値 − 神の子としての価値を疑ってはならない。

かくのごとくして『生長の家』では萬人のうちに、ただ神の子の存在のみを見る。

ここに於て吾らの人生観は全然転回せざるを得ない。
暗い人生観は明るい人生観によって代わられる。
吾らはおのづからすべての同胞を太陽の光の中で見ることになる。

これは実に幸福生活の秘訣である。
キリストは『汝の敵を愛せよ』と云ったが、
もう此のとき諸君の世界では敵が存在しないのである。


さて、どうしたらそんな境地に達しうるか。それを自分は語らねばならぬ。

他(ひと)が現に眼の前で自分に対して面白くないことをしているのに、
どうしてその人の内にある神を吾等は拝みうる境地に達しうるか。
それはまず心的練習(メンタルトレーニング)を必要とするのである。

現に悲しい事件があるのに鏡の前で出来るだけ愉快な顔をし、
これによって悲しみを征服して、ついに自分のヒステリーを根治した婦人のように、
諸君は相手の美点をできるだけ心に描くように練習しなくてはならぬ。
それは必ず練習によって到達し得るのである。

何故なら見せかけの悪は低迷する雲のように仮相の存在であって、
どんな曇った日にも本当は青空がその奥に存在するからである。

相手が自分にたとい悪意を抱いていると信ずべき根拠があるにしても、
相手の好意を見るようにするのである。相手の愛を自分の心の中に想像する。
そして強く強く自分の心のうちに印象する。

若し現在あなたの憎んでいる人があるならば、毎朝、毎晩、5分間ずつ静座して
自分の心に対して次のごとく、耳にきこえる程の声で云いきかすが好いのである。



   自分は神の子である。

   自分は心には愛が充ち満ちている。

   自分は彼を憎まない。

   自分は彼を愛している。

   愛は愛を招ぶ。

   だから、彼も亦自分を愛せざるを得なくなるのである。

   自分は彼に宿る神性を

   こうして毎日拝むのである。



かく密室において言葉で心に明瞭に語りながら実際に合掌して、憎んでいる相手を
実際に愛していると真に強く想像し、実際愛し得るようになるまで
この行持を続けるのである。

諸君は第一実際自分が善くなって来るのを感ずるであろう。
これが言葉の創造力である。

諸君の心自体が変わってくるに従って、
影をむけていた相手が実際自分に日向を向けてくるのを覚えるであろう。

黒住教祖の教歌『立ち向かう人の心は我身なり。己が姿を映してや見ん』は
實に真理を穿っている。

実際相手が自分を憎んでいるように見えたのは、
自分が相手を咎める心を有っていたからであって、
相手は自分の心の映像であったことが判って来るであろう。

境遇を征服するとか、環境を征服するとか言うけれども
実際は自己の心の中の賊を征服することだったことがわかってくるであろう。


   君よ、奴隷になってはならぬ。

   悲しみに捉われる者、怒りに慮われる者、怒りに捕われる者、
   すべてこれらは奴隷である。

   自己の感情を自己で支配せよ。

   この時諸君ははじめて王者である。


             <感謝合掌 平成27年3月12日 頓首再拝>

[531] (28頁〜29頁)《生命の法則による新しい天才教育法》(上)〜その1
伝統 - 2015年03月14日 (土) 04時16分




  われわれを神が造った。
  神と呼ぶのが嫌やな者は生命と云っても好い。

神の力を疑うものは馬鹿者だ。
神が造った萬物のなかで其の主位にある人間の力を疑うものは
真理を見る目のない者だ。

われわれの内には無限が宿っている。
この無限を掘り出せば人間は皆な天才となるのだ。

天才を、人間は皆なもって生れて来ているのだ、
それに人間は皆な天才にはならない。それは不合理だ。その不合理は誰がするか。
人間が真理を知らないからだ。親たるものが真理を知らないからだ。

ダイヤモンドを有っていながら石だと思って捨てて顧みないからだ。

  人間を信ぜよ、神の創造(みわざ)を信ぜよ。
  生れたまゝの人間を信ぜよ。それは幼児だ。

幼時に宿っている天才はまだ彫琢しないダイヤモンドだ。
瑾(きず)のつかない高貴だ。
表面にまだ何の天才の閃きがないからとて失望するな。表面を見て神の創造(みわざ)を疑うな。

神が天才を造って人間のひとりひとりの中に埋蔵(かく)しておいたのは、
神が人間をして安価な怠惰の中に腐敗せしめないためだ。

人間みづからの努力と発見とを神が喜び給うからだ。

何故なら人間は1個の生命であるから、発見と創造とに生きねばならぬからだ。

             <感謝合掌 平成27年3月14日 頓首再拝>

[533] (29頁〜32頁)《生命の法則による新しい天才教育法》(上)〜その2
伝統 - 2015年03月15日 (日) 03時33分


天才の閃めきが吾が子にあらわれないからとて
吾が子を軽蔑するものは生命を軽蔑するものだ。
神を軽蔑するものだ。

子供をわが子だと思うな。子供の生命の背後には無限生命がある、神がある。
明日火に投げ入れらるべき野の草の小さな花にすら、
神でなければ造られない装いがあることを知るものは幸いだ。

況んや造られたものゝ主位に位いする人間の子供の天才を疑うな。

子供の天才を生長させるために必要な根本事項は神の創造(みわざ)に対する信頼だ。
親はわが子を神の創造だと信じ、出来るだけ子供自身が神の創造だと自覚し
神の創造をはずかしめてはならないと云う魂の高貴(けだか)さを子供に養成するように
努力しなければならない。


子供が6〜7歳に達するまで、彼に教育を施しては
脆弱な子供の頭脳に悪影響を与えると云う一般人の考えは『生長の家』では用いない。

この一般の考えにも無論根拠がある。それは或る意味では正しい。
それは現代では心の皮相に矢鱈(やたら)ものを詰め込むことを
教育だと心得ているからである。
こんな教育では大きな心の生長は期待出来ない。

生長の家はもっと偉大なるものを人間の生長に期待し
それを引き出すことを人間の教育だと心得ているのだ。

子供は幾ら幼くとも、適当な教育を施しさえすれば、早ければ早いほど好い。
生命の生長は”毎日”行われると云うことを知らなければならない。
それは毎日生長するのだ。

今日発達すべき筈の生長を明日に延ばすならば、生長はそれだけ遅れる。
遅れるだけではなく、内にきざしている生長のためのエネルギーは
空しく放散してしまうのだ。


1分1秒でも生命の生長をおくらすことをするな。
折角きざしている生命のエネルギーを無駄に放散さすな。
それは生命への反逆である。造り主への反逆である。神への反逆である。

『生長の家』の教育法はいつでも根本を神に立脚する。

子供を礼拝せよ。子供のうちに埋蔵された才能の宝を拝み出せ。
信ぜよ。汝癒えたりと信ぜば、病も癒えるのである。
況や、あなたの子を信じて、あなたの子が善くならないと云うことはないのだ。

子を信ずるのは父を信ずるのである。
神を信ずるのである。

             <感謝合掌 平成27年3月15日 頓首再拝>

[535] (32頁〜34頁)《生命の法則による新しい天才教育法》(上)〜その3
伝統 - 2015年03月17日 (火) 03時42分


此の信念が何よりも根本となるのであってその信念から、
色いろの方法(テクニーク)が生まれて来る。

生命の目的は『生長』することである。
そして生命は生命の営みによってのみ生長する。
生命の営みとは『活動』である。

生命はきざしているところの『動』を現実の『動』に変えることによって生長する。
吾が子を弱いとか、まだ発達時期でないと思うな。

吾が子に今あるところのすべての能力を発揮せしめよ。
きざしている芽の全てをすくすくと伸ばしさしめよ。


生命はすこやかに其の”正しい道”に伸ばさしめる事が必要である。
”正しい道”にと云うことが肝腎である。

幼児は生命にみちあふれている。彼はじっとしていられない。
何かせずにはいられない。生命は『動』がその本体だからだ。

その『動』の生命を”正しき道”に乗せる事が必要だ。
”正しき軌道”を走るように導くことが必要だ。
これが教育である。

あまりに満ちあふれた生命は脱線しがちである、
脱線した生命の電車は周囲を傷けると共に自分自身を破壊する。

彼は乱暴をする、いたずらをする。破壊する。
彼にとっては活力の”はけ”場がないために巳むを得ずにした行為が
叱られたり罰せられたりする原因となる。


しかし両親がその子供の溢れでる生命力の正しい使い方を教えないでいながら、
子供が乱暴をはたらくと云って罰するならば、それは生命の完全な生長の妨げとなる。
鞭は指南車ではない。それは正しき方向を決して指し示さない。

活力に充ちあふれてやり場のない幼児の生命は送出と抑止との板挟みとなって浪費される。
                     ?
子供の悪傾向は叱責で抑止されるかも知れない。しかしそれは積極的な生長とはならない。
生命の動きを圧迫するところに積極的な生長は起こり得ない。

善と真との発達は生命の圧迫から来るのではなく、
正しき道に生命をのせることによって来るのだ。

幼児の充ち溢れる抑圧によって萎縮させるものは生命を尊ばない者のすることだ。

生命を尊べ。

             <感謝合掌 平成27年3月17日 頓首再拝>

[536] (34頁〜36頁)《生命の法則による新しい天才教育法》(上)〜その4
伝統 - 2015年03月18日 (水) 02時51分


『子供は子供らしいが好い』と云う人間の常套語に従って、
子供の生命を脱線的な破壊的な状態にあらしめるものは愛深き親ではない。

子供は或る意味では子供らしくて好いであろう。
 ― しかしそれが野蛮な乱暴な破壊的傾向への自由練習となるようでは断じて不可ない。

”生命が一つの傾向を備えるとき、その傾向は永続的なものとなる”
その傾向を変えるには別の大なる力 ― 非常な努力が要る。

はじめより正しき傾向に人間を載せよ。
傾向を転ずるために失われる非常な努力を正しく伸びるために使用させよ。


だが子供の騒がしさを叱るな。
子供に於ては、善とは静かなる調和ではない。
生命にみちあふれた子供が噪(さわ)がしいのは必然である。

生長しつつあるものが喧しいのは当然である。

構造されつつあるものは必ず噪がしい。
工場はものを構造する処であるが故に騒然としている。
大工の家をたてるにも戞々たる響がきこえる。

生長と構成とには必ず騒がしさが要るのだ。

『やかましい、静かにして居れ。』
この心なき叱責が今迄如何に多くの家庭において子供の生長を害して来たことだろう。

子供のさわがしさを叱る者は生命の生長に重大な障碍(さまたげ)を置く者だ。
子供の伸びようとする生命はおさえられて浪費する。
かかる抑圧が永続的に行われるときそれは浪費される以下である。

何故なら生命の発露を常におさえつける習慣をつけるとき生命は萎縮するからである。


   使わない能力は発達しない。
   使わない生命は生長しない。
   否、それ以下である。


抑圧された衝動が子供の成長後いろいろの精神障碍及び肉体的病症となってあらわれて
来ることは、最近の精神分析(サイコアナリシス)が証明しつつある処だ。

             <感謝合掌 平成27年3月18日 頓首再拝>

[538] (37頁〜40頁)《生命の法則による新しい天才教育法》(上)〜その5
伝統 - 2015年03月19日 (木) 04時19分



さて、それでは健康な子供の有り余るヂッとしてはいられない生命力を
如何にせば正しい道に乗せ得るか。
このことが重要な問題となって来る。

”正しい道とは”建設的な傾向に生命を使用させることだ。

先ず、子供の有ってうまれた能力を発見する。
即ち其の子が何が器用なかを見出してやるのだ。
そして子供の有り余る生命力を此の方向に使用させる。

はじめは下手で好い。”賞めてやるが好い。言葉の創造力を利用するのだ。”
賞めれば賞める方向に子供は喜んで どんどん生長するものだ。

こうするとき だんだん子供は破壊的遊戯から遠ざかって、
喜んで生命を建設的方向に使用し始める。
子供の生命は正しい道に乗る。


併し、親や、家庭の年長者が自身の高き趣味から割りだして、
子供のうまれつきの器用さ以上のものを強いることは善くない。

建設的な方向へ生命力を使用するのでありさえすれば、
子供がどんな方向に才能があろうとも、それが親の趣味とは反対な才能であろうとも
自然の方向に子供を生長させよ。

自然が与えた才能には宇宙的な生命がバックしている。
宇宙的な生命の法則に従うとき生命は最もよく生長する。

職業の高下を考えて自然の方向以外に才能を延ばそうと計るものは、
生命の法則よりもホカのものに従うものだ。

ある人間にAの才能が与えられてあり、
またある人間にはBの才能があたえられてあるということは実に意味深いことである。
それに従うとき吾らは天地を造った神の大きな計画に参与するのだ。

  生命を礼(らい)し、自然に信頼せよ。そこから無限が生長する。

如何なる方向であろうと子供に天賦の才能がみとめられゝば
全力をあげてその方向に才能を延ばせ。
便宜を与えよ。賞讃せよ。励まし、鞭撻し、喜んでその仕事または遊びに従事させよ。

白百合に薔薇の花をつけさせようと思うな。
白百合の清さは一つの天才である。薔薇の花の美しさも一つの天才である。

諸君は『鈴懸け』の小さな白い花房や、萩の可憐な赤紫の豆のような小花にも、
ほかの花弁とは取りかえることが出来ない、それぞれの美をみとめないであろうか。
どんな小さな花にさへも人工には及ばない。

『ソロモンの栄華の極み』の時の装いだも、
その美しさは野辺に咲く名なし草の小花にも及ばないのだ。
況んや、造られし物の主位にある人間の天才は、
それがどんな種類の才でも自然に曲げたものより高貴であるのだ。

   生命を信じて礼(らい)せよ。

子供の生長、人間の生長は常に此処から始まらなければならない。
大地に根をおろさなければ偉大なる生長はのぞまれない。
大生命に根をおろさなければ、偉大な生長はのぞまれない。


天才は、それが偉大なのは大地に根をおろした生長であるからだ。
大地に根をおろした生長であれば、大工になる時 左甚五郎のような巨匠となるであろう。
粘土細工の好きな鼻垂らしもロダンのような巨匠となるであろう。

             <感謝合掌 平成27年3月19日 頓首再拝>

[539] (40頁〜44頁)《生命の法則による新しい天才教育法》(上)〜その6
伝統 - 2015年03月20日 (金) 05時03分




さて、子供をその天賦の才能の方向に伸ばすためには、彼に手負うた仕事を与えねばならない。

子供に仕事をさせては不可ないというのは謬見である。
適当な分量の仕事は子供の生命の生長に缺くべからざるものなのだ。

仕事は生命を建設的に使用する方法を教える。
そして子供の生命のうちに建設的な傾向と創意的な傾向とを生ずる。

建設的傾向 ― これは才能の發達の土臺石となるものだ。
此の傾向が強ければ強いほどその人間は生長する。
幼時に培われた傾向は成長してから養成した傾向よりも力強く根を張るのだ。

だから、幼時より生命を何か建設的な方向へ鍛えることが必要である。
それには大なり小なり仕事を與えなければならぬ。

特に小児自身の好む建設的な仕事を與えるのは好い。
しかし、好きな仕事でもあまり長時間又はあまり多量に與えてはならない。

分量が多すぎるとどんな仕事でも了ひには面白くなくなる
 ― そして仕事というものは退屈なものだという先入觀念を抱かせるやうになる。

善い言葉で暗示を與え、子供を充分信頼してやり、
仕事の種類と時間とを子供の好きにまかしてやるならば、
子供は滅多に仕事の選擇に失敗するものではない。

子供を信ずること、及び善い言葉で『貴方は善い子だから此れが上手だ』
という風に導くことを忘れてはならない。

子供が仕事を嫌がるといふのは嘘だ。無理に命令的にさせないで、
自分の好きな仕事をやらしてやるならば、
子供が仕事をしたがらないということはない。

女の子は特に仕事を好む。生まれつきの愛の性情が手助けを好ませる。
もう四、五歳にもなると母親の仕事の手助けをしたがって仕様がないであろう。
させるが好い。

が、仕事は徐々に慣らすが好い。急いではならぬ。
そして子供の手助けを眞に喜んで感謝してやるやうにすれば、
子供は『愛は感謝を受ける』といふ事実を体験する。

喜ばれることがどんなに嬉しいかといふことを體験する。
これは人間の正しい生長に必要なことだ。

子供に仕事を與える効果は、彼の生命に建設的傾向を與えることが第一で、
手先の技巧の習練が第二である。第二のことも無論重要である。
幼児から手先の技巧が習練されていると、成長後も、実生活上大いに役立つものである。

頭ばかり聰明で実際には何も出来ない人間に子供を造るな。

子供に仕事を與えるのを單に親の手助けをさすという意味ばかりでするのは間違ひである。
親の利益を標準とする時、子供の不完全な仕事は親をイライラさせることがある。
子供は仕事をしたために喜ばれるよりも怒鳴り付けられるやうなことがある。

それはやがて仕事に對する興味を失わすことにもなり、
子供自身は愛の心で手助けしたことが感謝で報われないことにもなり、
情操教育の点から云っても甚だ面白くないであろう。

その上、親の手傳ひを主眼とするとき、必ずしも、子供を天賦の才能の方向に
生命を練習さすことにならないかも知れない。

で、最初に子供の天賦の才能を、その子の器用さによって看破し、
巧に導いて子供自身の選擇によるやうな形にして、
その器用さを發揮するやうな仕事を、與えるのが最も好いのである。

子供は自分の選んだ仕事だから喜んでする、
しかも、それが天賦の才能ある方面の仕事であるから、すればする程上達する。

喜んでする仕事だからエネルギーが浪費されない。
それを親が賞めてやる、感謝してやる。

こうすれば子供の天才を発揮する上からも、
愛の人格を養成する上から云っても實に好い。

近頃一般の小學校などで知育を兼ねた實業教育を混ぜやうとする傾向があるのは、
教育の正しい傾向に進んだものといはねばならない。

しかし、本當の教育は一列一隊式にやられたのでは効果がない。
例へば、数學の不得手な人間で、文壇で大家にまり得るやうな人も澤山ある。

それを無理槍に才能と嗜好のない方面の學科を課することは
人間の生命力の浪費となる。

どうしても本當の教育は獨自の天賦を發揮すべき天才教育となって
進まなねばならぬ。    

             <感謝合掌 平成27年3月20日 頓首再拝>

[542] (44頁〜46頁)《生命の法則による新しい天才教育法》(上)〜その7
伝統 - 2015年03月23日 (月) 05時02分




小児の有りあまる生命力を適當に處置する方法としては、
活動と同時に智慧をはたらかせねばならぬ種類の遊戯を與えるということである。

この種の精~的要素の這入った遊戯は、
肉體の活動ひと筋のバカ騒ぎとちがって幾分そのさわがしさが少ないし、
また興味も深いし、肉體ばかりでなく、精~的の訓練にもなる。

ただ氣をつけねばならぬことは、肉體の發達を犠牲にして、
精~にばかりエネルギーを注ぎ込むようであってはならない。

健全なる精~は健全なる肉體にやどるということはある程度まで眞實であるからだ。
学生時代にコツコツ勉強ばかりしてゐた者が社会へ出て充分の出世も出來ない者のうちには、
学生時代に精神的労苦を重ねすぎたゝめに、心の陽氣を失って了った人が多いのである。


  陽氣を失はしめる程の適量の精~的仕事を避けよ。

  何よりも陽氣が肝腎である。

  陽氣を失ったら、その人の生長は止る、肉體的にも、社會的にも。


併し幾分精~的要素の加味した遊戯で幾分愉快に出來るものがある。
それは單なる肉體ばかりの競技よりも興味深い。
こんな種類の遊戯は、子供の毎日の楽しみの時間割の中に組み込むべきものだ。

子供の遊戯の必要なのは樹木に日光の必要なのと同樣である。
大人だって、或る種の遊戯がなくてはならぬ。

少なくとも人間にとっては、ある分量の楽しみが必要なと云ふことは
食物が必要なのと同樣である。

遊戯と仕事との調和、精~的要素と肉體的要素との調和
 ― これが人間には必要である。(つづく)

 (編者曰く、次号には子供に課すべき精神統一法、想像力及び独創力の養成法、
  直観力鍛錬法等を載せます)


  *《生命の法則による新しい天才教育法》(上)は、以上にて終了です。

             <感謝合掌 平成27年3月23日 頓首再拝>



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