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谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐

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[530] 『行』誌巻頭言〜「脚下即龍宮城」「物心一如を超えて規範を把め」 「『忽然』の意義」「復古即新生」「日本建設の方向への示唆」
伝統 - 2015年03月14日 (土) 04時11分

《 脚下即龍宮城 》

         *『行』誌(昭和16年新年号)の巻頭言より

新たに生まれるとは、肉の中に入(い)りて再び出生することに非ざるなり。

物質無き世界に入(い)ることなり。
時間なき世界に入(い)ることなり。
空間なき世界に入(い)ることなり。

否、無物資もなく、無空間もなく、無時間もなき世界に入(い)ることなり。

一切の空間が一点の掌中に握られたる世界に入(い)ることなり。
一切の時間が一点の掌中に握られたる世界に入(い)ることなり。

否、一点の掌中と謂うと雖も、一点もなき世界に入(い)ることなり。
否、「無点」も無き世界に入(い)ることなり。
一切無尽蔵の世界に入(い)ることなり。

『今日(こんにち)』と『爰(ここ)』とを把握することなり。
『今(いま)』『爰(ここ)』がこのまま龍宮海と知ることなり。

ここが今
『園林諸々(おんりんもろもろ)の堂閣種々(どうかくしゅじゅ)の宝もて荘厳せる世界』
なることを知ることなり。

今爰(いまここ)がエデンの楽園なりと知ることなり。
今爰(いまここ)が天国浄土なりと知ることなり。

汝の脚下を見よ。
汝(なんじ)真(しん)に新たに生まれるならば、
汝は脚下に無尽蔵の世界を見出さん。

新たに生(うま)る。
吾等今新たに生(い)きる。

             <感謝合掌 平成27年3月14日 頓首再拝>

[548] 「物心一如を超えて規範を把め」
伝統 - 2015年03月26日 (木) 02時36分

        *『行』誌(昭和16年5月号)の巻頭言より

相当悟ったような人で『物心一如(ぶっしんいちにょ)』の程度に
止(とどま)っているのは頗(すこぶ)る残念なことである。

物心一如であれば、心が迷えば物が離れ、心が調えば物が調う
―― これは生長の家で説いている『横の真理』に当るものである。
『横の真理』は要するに唯心所現の法則である。

そして心は無自性(むじしょう)であるから、何物も自性がない。
無論理想も規範(きはん)もない。
『空(くう)』と謂わるる所以(ゆえん)である。

一切自性なければ、日本の理念も、民族の理念も、皇位無窮の理念も、
国家は斯(か)くあるべし、個人は斯くあるべしと云う当為(とうい)も無くなる
―― 茲(ここ)に、『物心一如』『三界唯心、心外無別法(しんがいむべっぽう)』
だけに止(とどま)っているところの在来の宗教の欠陥があるのである。

現象界は物心一如の世界として心の転現(てんげん)する世界であるにしても、
その奥に久遠無窮の理想又は理念があり、『心(こころ)』に対して
『それは真心(しんしん)、それは妄心(もうしん)』と分別(ぶんべつ)するところの
規範とならなければならぬ。

その規範となるものは、一定の相(すがた)がなければ規範にはなり能(あた)わぬ。
その一定の相(すがた)を実相と云い、縦の真理と云うのである。

実相はすでに神の心の中に成れる完全の規範世界であって、
現象に対して『真』『妄』の批判を下してその現象に対して
正邪善悪真偽を判断するのである。

『病気無し』と云うのは現象界に病気が現れていないと云うのでなく、
実相理念の規範からそれを照らして見て
『病気よ、汝はあるかの如く見えても偽象である』と云う宣言である。

             <感謝合掌 平成27年3月26日 頓首再拝>

[549] 『忽然』の意義
伝統 - 2015年03月26日 (木) 02時38分


           *『行』誌(昭和16年6月号)の巻頭言より

生きているものは死ぬことはなく、死にたるものは生きることはない。

若し吾々が生きているならば ―― 換言すれば、吾々が『生命(せいめい)』そのもの
であるならば、吾々は死ぬことはないのである。

春は春であり、夏は夏であり、秋は秋であり、冬は冬である。
春が夏になるのでもなければ、夏が秋となり。冬となるのでもない。

春は春で『今』の一点に永遠に『春』なのである。
夏は夏で『今』の一点に永遠に『夏』なのである。

過ぎ去る『春』は、『永遠の春』の投影(かげ)にしか過ぎない。
『今』の一点に『永遠の春』が顔を出しているとでも云えば、
やや理解しやすいであろうか。

『春』が徐々に変じて『夏』になるのではない。
また『春』が徐々に過ぎて『夏』が徐々に来るのではない。

『春』はそのままに永遠に春なのである。
明日(あす)はまた明日であり、明後日(みょうごにち)はまた明後日である。

詳しく云えば、『今日(きょう)』と云う24時間連続の『一日(にち)』ではなく、
『今』の一瞬が、一瞬一瞬に於いて『永遠』が顔を出しているのである。

このことを橋田文相は道元の『薪(たきぎ)は灰となる。更に復(かえ)りて薪になるべきに
非ず、灰はのち、薪はさきと見るべからず、さきあり後(のち)あり、前後ありと雖も、
前後裁断せり』の語(ご)を引いて説明していられる。(橋田邦彦著『正法眼蔵訳意』158頁)

徐々に春が夏になるに非ず、『春』は『春』で前後が断ち際(き)られているのである。

病気も徐々に癒(なお)るに非ず、病気が消えて健康が出て来るのである。
これを『忽然治る』とは云うのである。

             <感謝合掌 平成27年3月26日 頓首再拝>

[550] 復古即新生
伝統 - 2015年03月26日 (木) 02時41分


           *『行』誌(昭和16年9月号)の巻頭言より

古(いにしえ)に復(かえ)るのだ。
復古新生だ。

古といえば陳腐(ふる)いと云う意味ではない。
《いのち》というものは一番古くして新しきものだ。

復古とは神にかえるのである。
神が実現することだ。
単なる人(ひと)からミコトに立還(たちかえ)るのだ。

神より出でて神にかえるのだ。

民族の生命は或る時期には人為に堕ちて自然を失い病的になり、健全を失う。
けれども自然は内部から清水が滾(たぎ)り湧く様に自然に復古する。

文化の爛熟の美しさは夕方の美しさである。
それが極度に達すれば丑満刻(うしみつどき)の暗黒時代が来て、次に曙が来る。
そして復々(またまた)太陽の差し昇る朝が来るのだ。

時代は正に丑満刻(うしみつどき)を過ぎたばかりである。
艱難と見えるものはもっと来るであろう。
しかし艱難は決して『苦しみ』の別名ではない。

艱難を無痛で生活する人こそ偉人である。

狭い産道から子供が生まれるのは艱難かも知れぬが、必ずしも苦痛ではない。
無痛分娩が心の持ち方で可能なように、新しき民族の生命(せいめい)の産出も
心の持ち方で苦痛なしに通過できる筈だ。

原始人は苦痛少なくして子供を産む。
それは生命(せいめい)が素直だからである。
文化人ほどお産に苦しみ。生命が自然を失っているから。

老子に『樸(あらき)』の徳が称えられている。
何らの技巧を加えない、山から伐(き)り出してきた《そのまま》の《あら木》だ。
それは簡素であり、力強く、一切の困難に耐え得る。

吾々は樸(あらき)に立ち還(かえ)らなければならない。

簡素の生活こそ最も美しく最も耐久力ある生活である。

  ・・・

*樸(あらき):ありのまま

             <感謝合掌 平成27年3月26日 頓首再拝>

[551] 日本建設の方向への示唆
伝統 - 2015年03月26日 (木) 02時43分

           *『行』誌(昭和16年10月号)の巻頭言より

西欧民族の侵略的膨張的性質を『陽(よう)』の民族であると観、日本民族の
復古復元的中心帰一性質を『陰(いん)』の民族であるとして日本学をその方向に
論理づけて行こうとせられるのは藤澤親雄(ちかお)氏であるが、

私はその論理づけには賛成することは出来ないのである。

尤(もっと)も一切は陰陽のムスビによって成り立っているのであるから、
その半面より見れば、陰性そのものにも『陽』があり、陽性のものにも『陰』がある。

女性はその肉体『陰』にして内に陥没すれどもその性質『愛』に温かい ――
その温かさきは火即ち『陽性』であるが如きである。

また男性はその肉体『陽』にして外に膨張的であれども、
内は知性すぐれ、知性は厳然として冷たく黒白(こくびゃく)を分離すること
『水』(陰)が万物を洗う如きである。

だから、男性は外陽内陰(がいようないいん)であり、
理論づけの仕方によれば男性は陽だとも陰だとも云える。


西欧民族もその外形的侵略膨脹の形を見れば陽性の如きであるが、
その物質的性質の上から上から見れば、物質はそれみずからでは能動的に動かず、
従って陰性であり、外へ拡がると見えるのは、一種の《分解過程》としての拡がりで
あるから、西欧民族は寧(むし)ろ陰性民族として分類する方が適当である。

物質が一定の形態をとるのは内部理念(陽)によるのであって、霊去れば、
肉体の如きも崩壊し、面積的には拡がるが、冷たくなる。冷は水即ち陰性である。
面積的に拡がることを必ずしも膨脹的陽性と云うことは出来ない。

霊(れい)入(い)れば初めて物質は一定の理念形態を維持し、
物質は肉体と温かくなり、生命(せいめい)が住みよくなる。
温(おん)は火であり、霊(れい)は霊(ヒ)とも読む。

日本民族の復古的中心帰一的性質は霊的愛的温的理念的性質であって、
これを陰性民族と見るのは太陽民族、日(ヒ)の本(モト)民族の名に対しても
不合理である。

             <感謝合掌 平成27年3月26日 頓首再拝>


日本の理念と獨逸の理念   『行』 昭和14年10月号 巻頭言
 → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=30



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